詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナ・ホンジン監督「哀しき獣」(★★★★)

2012-01-11 21:14:18 | 映画
監督 ナ・ホンジン
出演 ハ・ジョンウ、キム・ユンソク、チョ・ソンハ、 イ・チョルミン、カク・ピョンギュ

 原題は「黄海」。中国と北朝鮮と韓国に囲まれた海。中国には朝鮮族の人が暮らしている。経済的な事情で韓国へ出稼ぎに行っている、という事情が背景にある。大事なことなのだろうけれど、まあ、いいか。
 主人公の妻は韓国へ出稼ぎに行っている。夫の運転手は、妻が出稼ぎに出国する際の借金返済に追われている。その運転手に殺人の依頼が舞い込む。――ここまでと、主人公が殺人の実行に至るまでがおもしろい。
密出国の過程がリアルで、ほう、「脱北」もこんな感じかな、と思う。船の中で死者が出る、その死者は海へ捨てるというようなことも丁寧に(?)描いている。10日間だったかな、期限ぎりぎりまで主人公が殺害の相手を下見するところが特にいい。狭いアパートを宿にするのだが、その殺風景さがいい。下見のとき、寒さに耐えかねてコンビニでカップめんをすする。その間に、標的の顔を見のがす、という細部がいいなあ。まるで殺人者の気分にひたれる。
ビルの階段の明かりがつくタイミングを計る。予行演習をする。そういう部分も丁寧である。そうか、素人殺人者も、こんなに丁寧に計画を練るのか、と感心してしまう。殺人者になるには根気がいるんだぞ、簡単には殺せないんだぞ、とリアルに教えられる。うーん、教訓的、なんて感心したり。
でもそのあとが一転、荒っぽい。標的は別の殺人者が狙っていた。先に殺されてしまう。これでは金が入らない。で、殺人者を殺し、被害者の親指を切り取る(これが殺した証拠)。そのため別の殺人者の組織、警察に追われることになる。さらには依頼主の組織からも追われるようになる。なんだか、ややこしいのだが、このややこしさをアクションで乗り切ってしまう(ごまかしてしまう)。ここがひどい。前半の丁寧さが台無し。
アクションは包丁、鉈を振るっての壮絶なものだし(みんな携帯電話をつかうのに、銃をつかうのは警官だけ。それも犯人ではなく、警官を誤射してしまう)、カーチェイスは映像にならないくらい乱れる。客観的な場所にカメラがあるのではなく、主人公の視点も混じる。えっ、いまのはどっちの車? 私は目が悪いので、よくわからない。まあ、こんなものは分からなくていいんだろうねえ。ひたすら激しいシーンを撮る――それだけが狙いだね。
こういう映画――実は、アクションシーンではなく、動かない部分だね。男の面構え。これが決め手だ。これは、なかなか、いい。主人公の精悍な感じ、依頼主のふてぶてしさ、別の殺人組織(?)の銀行の社長。三者三様の顔。殺される大学教授(?)もあやしげ。ようするに、演技で見せるというより、役者自身の「過去」(存在感)で映像を引っ張ってゆく。
これはこれで、いいか。





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角川書店
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T・トランスロンメル『悲しみのゴンドラ 増補版』(2)

2012-01-10 23:59:59 | 詩集
T・トランスロンメル『悲しみのゴンドラ 増補版』(2)(エイコ・デューク訳)(思潮社、2011年11月10日発行)

 T・トランスロンメル『悲しみのゴンドラ 増補版』の感想を一度書いたことがある。今回は2回目。
 今が冬のせいだろうか。「真冬」という詩が気に入っている。

青い一条の光が
わたしの服から 流れ出す。
真冬。
氷のタンバリンのきらきらしい響き。
わたしは眼を閉じる。
音のない世界が存在し
亀裂がひとつ
死者たちはそこから
ひそかに境を越えて送られる。

 この詩を私は気に入っている--と書いたのだが、実は最後の2行は私にはわからない。そして、私が気に入っている部分は、ちょっと困ったことに、完全な「誤読」ゆえの「気に入っている」なのである。
 詩には、ときどき、こういう困ったことが起きる。
 私が気に入っているのは--つまり、何度読み返してもあきないのは、

わたしは眼を閉じる。
音のない世界が存在し

 この2行なのである。
 この部分を私は「誤読」している--とはっきりわかるのは、「眼を閉じる。」の句点「。」のためである。「私は眼を閉じる。」という1行は完結している。そこでひとつの「文」になっている。それを刻印するのが句点「。」である。
 ところが、この2行を読むとき、私は(私のことばは)、そこから句点「。」を省略してしまうのである。
 --というのは、正確ではないのかもしれないけれど。
 眼を閉じる--そうすると、そこに「音のない世界が存在する」。この、眼を閉じると、音のない世界の関係を、私は断絶(句点「。」)ではなく、「つながり」として感じてしまうのである。眼を閉じると、音のない世界が生まれる、と感じてしまうのである。「因果関係」のようなものとして感じてしまうのである。
 変でしょ?
 変--であることは、私は十分承知している。
 眼を閉じると、色のない世界(形のない世界、光のない世界)が存在する、というのなら、視覚的に当然なことだねえ。
 でも、そうだとまったくおもしろくなくて、「眼を閉じると、音のない世界が存在する」だと、あ、なるほど、そうだったのか、と思うのである。
 そのとき、「音のない世界」は、永続的ではなく、一瞬である。眼を閉じる。頭の中に暗闇がうまれる。その瞬間、ほんとうに一瞬だけ「音のない世界」が浮かび上がる。
 それは、幻、かもしれない。
 でも、それに惹かれるのだ。
 何かが交錯し、その瞬間、何かが結晶する。そこには、ことばでは論理的に説明できない何かがある。

 これは、もしかすると、「俳句」の世界かもしれない。
 --と、強引に書いてしまうのは、トランスロンメルが「俳句」のような詩を書いていることを利用しての「論理づけ」であって、まあ、私独特の、いいかげんな論理の飛躍、論理の逸脱なのだが。
 とはいうものの、この詩集のなかで、私が「俳句」を感じたのは、ここなのだ。
 もっと正確にいうと、

氷のタンバリンのきらきらしい響き。
わたしは眼を閉じる。
音のない世界が存在し

 この3行。ここにある不思議な「もの」の出会い、「光(きらきら)」と「音(響き)」が強引(?)に結びつけられた1行。それが「眼を閉じる」ことで解体する。「光(きらきら)」が消える。そうすると「音(響き)」も消え、「音のない世界」が生まれる。不思議な「融合」がここにはある。
 そして、その融合は、「もの」には「光(色、と呼んでもいいと思う)」と「音(響き)」が必ず結びついているということを証明している。
 たとえば「氷」。それは、それ自体「音」を持たないように考えられている。耳をすましても、氷から何かが聞こえるわけではない。でも、その氷が輝いているのを見たとき、視覚は「きらきら」ということばを呼び出すのだが、それだけでは終わらない。「きらきら」は肉体のなかをとおって「タンバリン」の「響き」をいっしょに引っぱり出す。
 いや、そんなことをトランスロンメルは書いているのではないかもしれない。氷の丸い形からタンバリンを思い出し、すぐに割れてしまう薄い氷のからタンバリンの音を思い出しただけなのかもしれない。しかし、そこに「きらきら」という視覚を刺激することばが絡んでくる。--何か、はっきりとは区別できないものが混じり合う。
 私たちは(私だけ?)、純粋に視覚とか聴覚とかだけを取り出すことができないのかもしれない。視覚を説明しようとすると聴覚がまじり、聴覚を説明しようとすると視覚がまじる。
 この詩でトランスロンメルはタンバリンの音を「きらきらしい」と呼んでいるが、「きらきら」した音ということばから私か連想するのはたとえばトランペットの音である。あるいはパパロッティの声である。チェロの音やサッチモの声ではない。(チェロにもサッチモにも「きらきら」はあるけれど。)--で、思うのは、「音」なのに「きらきら」。どうして「きらきら」で「音」がわかるのか。肉体のなかで「感覚」が混じり合う、出会うからだね。
 この違った感覚が出会って、融合し、別々なものがひとつに結晶する。これが私には「俳句」にとても近いと思う。
 まあ、こういう違ったもの(存在、世界)がひとつに結晶し、そのなかをくぐることで世界が一新する(そのままの世界でありながら、別次元にワープする)というのは、俳句の特権ではなく、あらゆる芸術の特権なのだろうけれど、特に俳句に著しいものだと思う。

 私の書いている感想は、トスランスロンメルの意図しないことがら--句点で区切っているのに、それを無視して読む、強引に句点を消し去って世界を重ね合わせてよむことからはじまるのだけれど、この境目を消し去り、肉体の奥の感覚をつなげるときに広がる世界が--広がる世界が、私は好きなのだ。
 だれの作品に対しても、私はそんなふうにして読んでしまう。
 ことばを追っているうちに、私の肉体のなかで何かが動く。それはほとんど無意識なのだけれど、その無意識を追いかけていくと、そのとき作者の肉体と重なるときがある。重なったと感じるときがある。
 そして、その重なったときの感覚のなかに、トランスロンメルの場合「俳句」が入り込んでくる--というのが私の印象である。

 事情があって中断したので、何か書いている感想がちぐはぐになってしまった。
 「俳句詩」という3行で構成された作品も詩集のなかにはある。そのなかでは、冒頭の、

高圧線の幾すじ
凍れる国に絃を張る
音楽圏の北の涯て

 がとても印象に残る。最初に読んだせいかもしれない。高圧線-絃-音楽への以降が、やはり視覚-聴覚への融合につながるからかもしれない。
 私は音痴のくせに、音が聞こえる瞬間が好きなのである。




悲しみのゴンドラ
トーマス トランストロンメル
思潮社
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アン・アキコ・マイヤース ヴァイオリンリサイタル

2012-01-10 22:27:36 | その他(音楽、小説etc)
アン・アキコ・マイヤース ヴァイオリンリサイタル(アクロス福岡シンフォニーホール、2012年01月10日)

 アン・アキコ・マイヤースを聴くのは初めてである。たいへん攻撃的な演奏だと思った。ベートーヴェン「ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調、春」の第1楽章。アン・アキコ・マイヤースの演奏する春は、明るさ、のどかさ、はつらつというより苦悩である。詩でいうとエリオットの「荒れ地」という感じ。
 疾走する輝く音に、水のきらめきを感じることが多いが、アン・アキコ・マイヤースの音にはそれ以前の「春」を感じる。氷が溶ける。そのときのきらめき--ではなく、氷が死ぬ、という苦悩のようなもの、氷が死ぬことで春の清冽が美しさが生まれる。その、矛盾した一瞬、死と生が拮抗している感じがして、びっくりしてしまった。
 この印象は「春」の間中、かわらない。もちろんずーっと氷が溶ける苦悩というのではないけれど、何かが萌えいずるとき何かを破壊する。破壊されたなかから新しいいのちが誕生する--といういのちの緊張感を感じた。
 この印象は、その前に聴いたシュニトケ「古い様式による組曲」の影響が私に残っていたせいかもしれない。これは初めて聴く曲だった。演奏の前にアン・アキコ・マイヤーズが曲の内容というか誕生秘話を紹介してくれた。シュニトケが歯科治療を受けた。そのときの印象を曲にしたという。「だから最後の第4楽章にはとても気持ちの悪い音がでてくる。歯の神経を抜いている感じ」という。たしかにとても気持ちの悪い音がでてくるのだが、--気持ちが悪いといえば言えるけれど、私にはとても強い音に感じられた。だれも表現したことのない強さ。だれも経験していないから、その音をどこに位置づけていいかわからない。不安になる。だから気持ちが悪いということになるのだが、最初に気持ちが悪い音と聞いていたせいか、私には気持ち悪さよりも強さの方が印象に残った。
 奏でる--というより、絃から音を絞り出す。まだ、だれも出していない音を絞り出すという感じがする。円熟の正反対、円熟することを拒んで音を突き破ろうとする音。音のなかの闇を噴出させる感じがする。
 ジイコブ・チウピンスキー(で、いいのかな?)「海の底のウンブリア号(日本初演)」はシンセサイザーとの共演。作曲家がアン・アキコ・マイヤースのために作曲した曲。作曲家がダイビングをしたとき海底で難破船を見つけた。その印象がこの曲を生み出したという。この演奏も非常に強い音である。絃から絞り出すと同時に、何かと向き合っている。その向き合っている対象は、アン・アキコ・マイヤースの「解説」に従えば、ジイコブ・チウピンスキーが海底で発見したもの、出会ったものということになるのだろうけれど、暗いことが輝きであるような、強い印象がある。刺激的だ。
 滝廉太郎「荒城の月(三枝成彰/マイヤース編)」は私には不思議な印象がした。日本の、しかも歌詞がついている曲を聴くとどうしても「日本語の呼吸」で聴いてしまうことになる。それが、あわない。つまりアン・アキコ・マイヤースの演奏と私の呼吸があわない。あたりまえのことなのかもしれないが、こういう音の方が、私には「気持ちが悪い」。聴いたことのない「和音」(「古い様式による組曲」「海の底のウンブリア号」の和音)よりも、呼吸が何か違う感じがする。
 呼吸で、ちょっと驚いたことがある。私はたまたまアン・アキコ・マイヤースの近くで演奏を聴いたのだが、彼女の呼吸(息づかい)の音がすごい。近くといってもかなりはなれていて(8メートルくらい?)、私は目が悪いせいもあり、最初は「だれか寝息を立てているのか」と思ったのだが、そうではなかった。力を込めて、ふりしぼるように演奏するその直前に、「すーっ」と強く息を吸い込むのである。そしてゆっくり吐き出す。ほかの演奏家は知らないが、あ、そうか、ヴァイオリンも「息」で演奏するのか、と思った。どうりで人間の声に近い深さの幅がある。


バーバー:ヴァイオリン協奏曲 作品14/ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調 作品26
マイヤース(アン・アキコ),バーバー,ブルッフ,シーマン(クリストファー),ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ポニーキャニオン
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瀬崎祐『窓都市、水の在りか』

2012-01-09 23:59:59 | 詩集
瀬崎祐『窓都市、水の在りか』(思潮社、2012年01月20日発行)

 「祝祭」という詩で、はっ、と驚いた。

脂ののった魚の腹を左手でおさえ
先端の尖った器具をまっすぐに右手ににぎる
胸鰭のあたりから器具を刺し
魚のかたちを定められたものにととのえていく

 「器具」と書かれているのは「包丁」だろう。「包丁」をわざわざ「器具」と言い換えることで、ことばは少し迂回する。この迂回--いつもとは違うところを通ることば、「流通言語」からずれるところに詩はあるのだけれど、一昨日読んだ荒川洋治の「アルプス」の「矢車」と違って、この「器具」はわかりやすすぎる。こういう「直接性」を私は好まない。あ、いやだなあ、こういう言い換えは、と思ったのだが……。

魚のかたちを定められたものにととのえていく

 びっくりというか、なんというか……。
 瀬崎の書いていることは、魚を調理する--たぶん刺身(活け造り)にするということなのだと思うが。
 うーん。
 魚って、「定められた」形をもっていない? 魚は魚自身で、魚のかたちをしている。それは魚にとって「さだめられたもの」である。
 で、私は、この1行を読んだとき、「わたし(瀬崎、と仮に呼んでおく)」が魚を活け造りにととのえるというよりも、刺身にされながら、包丁で切り刻まれながら、魚自身が自分で刺身の形に体をととのえるのだ--という不思議な錯覚に襲われたのである。
 「器具」という単刀直入な「比喩」の力で、この1行のなかの「ずれ」のようなものが、不思議な力で逆襲してくるのを感じたのだ。
 「包丁」が「器具」ではなく、「包丁」ということばで書かれていたら、この不思議さは違ったものになったような気がする。--これについては、うまく説明できないのだけれど。
 で。(というか、なんというか。)
 魚は魚自身の形をしている。ひとが切り刻む刺身は不完全な形である。だから、魚は魚自身の力で魚の理想(?)の形に自分をととのえていく。
 どうしても、そんなふうに思ってしまうのである。

 この詩は、

身をかたくして魚は神妙だ
生臭さを失って魚は象徴となる

 と、つづいていく。されるがままになっている魚--身をかたくして神妙である、はどうしても包丁で捌かれる魚であるから、私の読み方は「誤読」なのだが。
 「誤読」とわかっているのだが。
 うーん。 
 魚が自分である形(活け造り)になっていくとしか思えない。「器具」ということばの無機質性(?)が、魚のなかの「有機質性」といしての「造形力」(ゲシュタルトっていうんだっけ?)を刺激する。「包丁」だと、この「造形力」への以降がきっと違ってくる。
 「象徴となる」の「象徴」が、私の思い込みに拍車をかける。「活け造り」は魚そのものではなく、魚の象徴である。魚でありながら、魚を超えた象徴である。他人の手によって象徴になるなんてつまらない。象徴になるなら、自分の力でなってやる--という魚の声が聞こえてくるのである。ここにも何かを「造形する力」、内部から存在を統合する力がある。

 で、そのつづき。

わたしをとらえているのは
かたちを追ってはいけないという思いだけ
光る部分と影の部分の境界をたどれば
かたちは冷気のなかからあらわれてくる

 私は「誤読」をさらにすすめる。
 「わたし」は「かたちを追ってはいけない」。それは、魚が自分で「活け造り」の形を完成させるからである。「わたし」が「わたしのなかにある魚の形を追って」、「活け造りとして魚を再現する」ということはしてはならない。魚のなすがままにまかせる--それが魚のほんとうの「味」になるのだから。
 「わたし」は「魚」にさそわれるままに、光る部分と影の部分の境界をたどる。そうすれば、そこに、おのずと「理想の魚のかたち」が「あらわれてくる」。
 彫刻家は石のなかに、掘り進む彫像の形があるという。形をつくりだすのではなく、石のなかから形が誕生するのを手助けするだけ--のと同じように、「わたし(瀬崎)」は魚が「活け造り」になるのを手助けするだけ。
 ね、おもしろいでしょ?

そのように伝承をたどり
魚の体のなかに器具がさぐりあてる祝祭がある
遠い街ではだれかが祝福をうけている
祝福を与えてる喜びでわたしの右手は歓喜となる

 ここでも、私の「誤読」はつづく。
 「魚の体のなかに器具がさぐりあてる祝祭」--包丁は「さぐりあてる」だけなのだ。「包丁」は何もつくらない。つくるのは魚である。魚のなかに、すでに「祝祭」がある。魚は、世界として「完成」している。完成している世界を、人間の目にも見えるものに形をととのえる。食べられるものに形をととのえる。自分自身で。

 というようなことを考えるのだが。
 実は、一か所、「誤読」になじまない部分がある。なじまない--というのは、まあ、私の直感で、あれ、ここは一筋縄ではいかないぞと思うということである。
 「誤読」なのだから、私が悪いだけなのだが、あ、ここに不思議なことばがある。つまずきの石がある。言い換えると、瀬崎の「思想」そのものがある、と直感することばがあるのだ。
 それは、

光る部分と影の部分の境界をたどれば

 の「境界」である。
 「光る部分」「影の部分」は「魚のかたち」「わたしが思い描いているかたち」かもしれない。ふたつの「かたち」が出会う--そして、その出会いがつくりだす「境界」かもしれない。人間の「造形力」と魚の「造形力」が出会う。その境目。人間と魚の、内部から自身を統合する力の境目。境界。
 で。
 「境界」って何?
 「境目」「境の線(面?)」--という具合のことは、なんとなくわかるのだけれど、何かことばが足りない--私のなかで、「あ、これが境界だ」と「定義」できるような、なにか、納得できる何かがみつからない。
 特にそれが魚と人間の「統合力」の境目というと、何か、とても変な気持ちになる。わからない。でも、わかりたい。何かがわかっているようにかんじるけれど、はっきりと何とは言えない。
 瀬崎が、ここで何かを言おうとしている--それが私にはわかっていない、つかみきれていない、という思いがとても強くなる。

 「境界」とは何なのか。

 その答えを私は「窓都市」のなかに見つける。--つまり「窓都市」を私は私の都合のいいように「誤読」するということなのだが……。
 「窓都市」というのは、そこに何が書いてあるかということを説明するのはちょっとめんどうくさい。だから、「ストーリー(内容)」を紹介することは省略して、途中を引用する。

このように 窓は見るもののために存在しているのであ
り 見えるもののために存在しているのではなかった
窓は 窓の外部と内部を視線でつなぐものであって 身
体を交流させるためのものではなかったのである

 窓の「外部」と「内部」。そこに「境界」はないだろうか。
 窓の「外部」と「内部」は、さっき読んだ詩の「魚を捌くもの(わたし、瀬崎)の思い描くかたち」つまり「外部(者)のかたち」と、「魚そのものが内部にもっているかたち」ということにならないだろうか。
 それはパラレルの関係にないだろうか。
 「祝祭」で「境界」と呼ばれていたものは、ここでは「つなぐもの」と呼ばれていないだろうか。
 私は、この「つなぐもの」ということばに触れた瞬間に、瀬崎がとても身近に感じられたのである。瀬崎の「肉体」を感じたのである。
 瀬崎は「境界」を「わける」ものではなく「つなぐ」ものと感じている。「境界」は実は、つながっている。つながっているから「境界」が必要なのだ。
 あまりいい例ではないが、日本と中国は離れている。二つの間には「国境」があるはずだが、海があいだにあって「境界」を日常的には必要としていない。でも、これが中国と北朝鮮、あるいはモンゴルだとすると「国境」という「境界(線)」が日常的に必要になる。中国と北朝鮮、中国とモンゴルは陸地で「つながっている」。だから、それを分ける「境界」が必要である。国境線を地上に引く必要がある。
 「境界」は「分かれ目」を指し示すけれど、それが必要なのは「つながっている」殻なのだ。

 生身の魚、活け造りとして調理された魚--それは、ほんとうは「つながっている」。「つながっている」からこそ、魚は自分で自分の活け造りの形をととのえる、と思う。(これは、私の「誤読」なのだけれど。)
 だから、「わたし(瀬崎)」は、それを「切り離す」。

 あ、そうすると、さっき書いた「光る部分」と「影の部分」について書いてきたことがちょっとまずいね。さっき私は「魚自身の思い描くかたち」と「わたし(瀬崎)の思い描く形」というふうに書いたけれど、いまの私の「論理」では、「魚の生身のかたち」と「魚の活け造りのかたち」ということになる。
 でも、これは、まあ、勢いで(方便で?)そんなふうになるだけで、詩だから、厳密に論理を追ってもしようがないのだ。だいたい二つの詩を強引につないで何かを引き出そうとしているのだから、どうしたって「ねじれ」や「ずれ」がそこには生まれてしまう。
 どこかで「論理」がごちゃごちゃに混じって、混乱したまま納得してしまうのが詩というものだから、こういうところはいい加減でいいのだ。厳密に論理を追うと、詩は、詩である必要がなくなるからね。
 (と、ごまかしておいて……。)

 長くなるので、「日記」を切り上げるために書いてしまうと(私は40分で一回の日記を書き上げないと、目が疲れてしまう。きょうは時間がオーバーしてしまった。)、瀬崎の「思想」は「つなぐ」というところにある。ある存在がある。そして「わたし(瀬崎)」がいる。そこにはたいてい「空間」があり、二つの存在は離れている。離れているけれど、そこには「境界」がある。分けるものがある。分けるものがあるのだけれど、それは「つなぐ」ものでもある。
 「分ける」は「つなぐ」の変種のひとつである。
 あらゆるものは「わかれ」ながら、変な具合に(つまり独自の関係で)「つながる」。「境界」に線を引くということは、二つの領分を、あるところで「つなぐ」ことである。そして、その「領分」は、線のひき方でどうにでもなる。だから「国境争い」などというものも起きる。
 魚を料理するとき、その「境目」、その「つなぎめ」をどう理解するかで(処理するか)で、おいしくもなれば、まずくもなる。
 その変な領域を瀬崎は、行ったり来たりしている。行ったり来たりすることで、領域を広げている。「境界」を「線」ではなく、「面」にしている。「面」をさらに「立体」にしている。つまり、豊かな「広がり」(可能性)にしている。ことばは、そのなかで、とんでもない味になる。
 2012年の最初に読むべき一冊である。



 補足(メモ)。
 「分ける」は「つなぐ」の変種のひとつである。--これは「存在内部からの統合力」(造形力)という視点からみると、もっとわかりやすい形で日記を書き直すことができるかもしれない。
 存在の(人間でも魚でも都市でもいいのだけれど)、内部に存在する「統合力」、「自己を造形していく力」、「分ける」と「つなぐ」を行き来しながら拡大していくものだと思う。
窓都市、水の在りか
瀬崎 祐
思潮社
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小池昌代『自虐布団』

2012-01-08 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『自虐布団』(本阿弥書店、2011年12月08日発行)

 小池昌代『自虐布団』は短編集。最初の「醜い父の歌う子守唄」に「時間の隙間からは永遠が見え、」ということばが出てくる。小説に限らず、文学はみな「瞬間の隙間から永遠が見え」るときのことを書こうとしていると思う。そのとき、「永遠」とはどんな形をしているか。何に存在基盤をおいているか。「永遠」なのだから存在基盤など必要ないのかもしれないけれど……。
 小池はいろいろなことを書いているが、私が「永遠」を感じるのは、たとえば、

 「詩」という言葉は不吉である。耳で聞くと、「死」と区別をつけることができない。しかし「しっ」という、叱責のような子音の破裂は、発音するたびに、妙な快楽を口内に残す。

 ここでは、ことばはまず「耳で聞くと」と聴覚の問題として語られている。しかし、その聴覚で「詩」と「死」が区別できないと書いた後、すぐに「叱責のような子音の破裂は、発音するたびに、妙な快楽を口内に残す。」と「発音」の問題に変わってしまう。
 そして、その「発音」は「快楽」に変わってしまう。
 「口内」の「快楽」。肉体の快楽。
 この「変化」のなかに、そして、変化をつなぐものに、私は「永遠」を感じる。
 人間の「肉体」なかには(感覚のなか、精神のなか、というひともいるかもしれない)、それぞれが独立しながら、何かと混じり合うものがある。
 ことばを考えるとき、小池が書いているように、聞くという要素があり、また話すという要素がある。そして、それぞれに耳が対応し、口(喉)が対応する。耳と口は名前が違うのだからもちろん別個の存在なのだが、肉体としてつながっていて、その肉体としてつなぎとめるなにか、特定できない力が協力して動く。
 で、その耳と口をつなぎとめ、ことばを肉体に引き入れる力--それが動くとき、小池はそこに「快楽」を見つけ出している。
 そこが、私は好きだ。
 それも(というのは、ちょっと論理的ではない言い方なのだけれど)、精神の快楽ではなく、「口内の快楽」(肉体の快楽)。
 このとき「永遠」は「どこ」にあるのか。
 「肉体」のなかにある。
 --永遠を発見するとは、肉体を発見することなのだ、と私は思う。

 ことばと肉体。肉体はことばにふれて、肉体のなかに永遠を発見する。そういうことが、この短編集のひとつのテーマだと思う。

 「凍れる蝶」の次の部分も、とても好きだ。

 「冬ざれ」という言葉に惹かれた。「ざれ」という音、石畳に靴底がこすれる感じがする。その下を見ると、俳句が一句。
 冬ざれや石に腰掛け我孤独  虚子

 ここでは主人公は「冬ざれ」の「意味」を理解していない。理解しているのかもしれないけれど、どういう意味かということを書かずに、「石畳に靴底がこすれる感じ」と自分の肉体が体験したこと、そしてそのとき感じたことの方へことばをひっぱっていってしまっている。「意味」よりも、自分の肉体と感覚、肉体がおぼえているものを「耳」で復元して俳句をつかみ取ろうとしている。
 このとき、主人公の解釈は間違っているかもしれない。
 しかし、間違っていても、そのとき「永遠」が見える--のだと私は思う。
 「正しい解釈」と「誤った解釈」の「隙間」から「永遠」が見える。「肉体」のなかに残っている「音」が見える。

 ことばは「意味」である前に音である。それは耳で聞くもの。そして口(喉)をつかって発するもの。聞いて、発して。発して、聞いて。その繰り返しのなかで、「意味」が「肉体」のなかにたまってくる。「意味」がととのってくる。
 そこには「誤解・誤読」が混じっているかもしれない。
 でも、その「誤解・誤読」は、もしかすると「ほんとう」の何かかもしれない。
 「頭」は「ほんとう」だけを選びとるわけではない。「ほんとう」を選んでしまうとめんどうくさいので、あえて「うそ」も選びとるという操作を「頭」はすることができるが、「肉体」はそんな具合にはいかない。肉体は「快楽」の方を選んでしまう。こっちの方が気持ちがいいから、こっちでいい。そのときの「間違った選択」のなかに、「永遠」がある。間違えることができるという不思議な永遠がある。

 --ということが、それこそ、ちらっ、ちらっと見える作品集である。

 あ、「苦痛」なのかに見える「永遠」も、補足しておく。やはり「凍れる蝶」のなかの部分。

 最近、父の本棚が明るくなった。そればかりか品もよくなったと思う。(略)てかてかの表紙のなかに、布張りの本だの、箱入りの部厚い本だのが混ざり、それらには、あまり見たことのない単語が重々しく印字されていた。ただそれだけの変化なのに、父と二人だけの生活に、見知らぬ人がそっと混じってきたかのようで、時子は微妙な違和感を覚えている。

 小池は「苦痛」とは書かずに「違和感」と書いているのだが、これは「快楽」とは逆のものだね。それを主人公は肉体で「覚えている」。
 「覚えている」(覚える)というのは不思議なもので、「知る」わけではないが、「知る」を超えている。
 たとえば自転車に乗る。泳ぐ。そういうことを私たちは「肉体」で「覚える」。そうすると、長い間それをしていないくても自転車に乗れる。泳げる。どんな仕組み(?)で自転車が転ばないのか、肉体が沈んでしまわないのか--そんなことは説明できないが、ちゃんと肉体をつかって、肉体で動いていける。「つかえる」というのが「覚える」の力である。
 「快楽」も「肉体」で「覚える」が、「苦痛(違和感)」も「肉体」で「覚える」。
 そして、その「覚えている」何かを、もう一度「肉体」のなかへ探しに行って、「覚えている」ことを復元するとき--その力のなかに「永遠」はある、と私は小池のことばを読みながら感じた。

(補足の補足)
 この本棚の部分を、「詩」(しっ、口内の快楽)や「冬ざれ」と比較すると、おもしろいことがひとつある。
 小池が肯定的にとらえている「永遠」には、「口」「耳」など、音が関係しているが、否定的にとらえている「永遠(違和感)」には音がない。本棚の「ことば」を主人公は口に出して「違和感」を感じているのではない。「目」で「見て」感じている。
 目で見ることばよりも、小池は耳で聞き、口にすることばが好きなのだと思う。





自虐蒲団
小池 昌代
本阿弥書店
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荒川洋治「アルプス」

2012-01-07 23:59:59 | 詩集
荒川洋治「アルプス」(「現代詩手帖」2012年01月号)

 荒川洋治の詩にはいつもわからないところがある。そして私はそのわからないことろで立ち止まるのが好きである。
 「アルプス」の場合。

甲州・赤森川のそばの
岩場
三度笠の渡世人が
追手に追いつかれながら
五人ほどの相手と
せわしなく斬り合う
崖の上から見ていると
その矢車はきれいだ

 「矢車」とは何だろう。きっと「比喩」だな。侍が切りあう。チャンバラ。そのときの刀の切っ先が描く円、それが「きれいだ」ということだろうと思う。
 たしかに「崖の上から」というような、安全な場所から「見ている」ときれいかもしれない。まるで「時代劇」を見ているようにして、私は、ほう、刀の動きが円を描き、それが「矢車」か。うまいなあ。「きれい」は「矢車」という比喩でいっそうきれいになるなあ、と感心する。
 そして、その直前の「せわしなく」もいいなあ、と思う。
 不思議な「距離」がある。
 実際に切りあっている人にとっては「せわしなく」どころではない。それこそ「真剣勝負」なのだが、「せわしなく」という音が(その響き、音楽が)、まるで刀の切っ先の描く円のようになめらかで、一回転するようで、きれいだなあと思う。
 私は、荒川のことばに誘われて、切りあう男たちを、崖の上の、安全なところから見ているのである。
 「もの(こと)」は、それを見る「場」によって違って見えるのだとわかる。

 2連目は、少し視点を変えて、同じ風景が書かれている。

くるりと身をかわすたびに
三度笠と
裾幅一九九センチの合羽
がまわる
体よりかなり遅れて回転
間延びし
時が合わない感じさえも矢車だ

 刀が円を描くなら、また人間も円を描く。「裾幅一九九センチの合羽」は「木枯らし紋次郎」みたいだなあ。長身で、長身ゆえに、裾がまわるときの円が大きくなる。円の外周は中心より遅れてまわる。
 「体よりかなり遅れて回転」の「かなり」「遅れて」が、ともに美しい。荒川のことばに従って、目がいっしょについてゆく。目のスピード(見ているスピード)とことばのスピードが、うまく呼吸があって、きもちがいい。
 このあたりの、ことばの選び方が、荒川はとてもていねいだ。とても肉体的だ。頭で選んでしまうと、ことばはどうしても対象より先に動いてしまう。先回りして、運動をととのえてしまう。荒川は、そういうことをせず、ほんとうにしっかりと肉体でことばを動かしていく。
 「間延び」「時が合わない」も、同じだ。
 このあとが、また、すばらしい。

見ている楽しさが長く伸びていく、のだろうね

 市川昆のスローモーションを思い出すなあ。木枯らし紋次郎そのものを私はあまり見た記憶がない。(一回くらいは見たと思うが。)そこに、たしかスローモーションがあったと思う。(あるいは映画的なアップの多用を、私はスローモーションと勘違いしているかもしれない。--普通には見ることのできないものを近くで時間をかけて見る感覚……。)体がゆっくりまわる。合羽の裾がゆっくりまわる。まわって、円になる。そのときのスピードの変化。遅れてついてゆく遠縁(こんなことばあるかな?)。--まわるから、「矢車」というのだろうなあ。
 見ている意識の遠くから、ことばが少し遅れてやってくる。それを待っているようにして、荒川のことばが動いていく。
 これは正確な表現ではなくて、荒川のことばがあって、それに誘われるように私の感想のことばが動くのだが、荒川のことばの「待機時間」(バスケットボールのシュートのときの「滞空時間」のようなもの)が長いので、まるで私のことばが動いてくるのを待っていると錯覚してしまうのだろう。
 こういうことも「楽しさが長く伸びていく」ということと、重なり合う。

 荒川のことばは、ここから、少し「場」を変える。「対象」を変える、といった方がいいのかな? 甲州街道(?)のチャンバラから、「時代」が動く。

・戦前のこと
教師をやめたひとりの男が
日々の暮らしに困り
「にらさき・アルプス」という冊子を
ガリ版でつくって
近くの学校の職員室に売りに来る
午後の六時半を過ぎたころ
汚れる雑誌はきれいだね

 前半のチャンバラと後半をつなぐことばは「きれい」である。「矢車」は「ガリ版の冊子」にかわり、冊子はくるりとまわるかわりにインクで(たぶん)汚れている。あるいは、それをちょっと困ったような顔でみつめる先生たちの視線で汚れている。その「汚れ」を荒川は「きれい」といっている。
 ここが、不思議で、不思議でとはいうものの、私がうまくことばで説明できないだけで……あ、いいなあ、この「きれい」はとてもいいなあと思う。
 この「きれい」のなかには何があるのだろうか。
 「間延び」「遅れてくる何か」があるのだ。
 「にらさき・アルプス」というガリ版刷りの冊子を見ると、きっとその冊子の文字から、文字をガリで切っている男の姿が見えてくる。冊子から遅れて、やってくる。さらに、そのガリ切りから遅れて、職員室で働いていたときの男がやってくるかもしれない。「いま」ではなく、「過去」が遅れてここにあらわれる。「時間」が浮かび上がる。そしてそれは、肉体が積み重ねてきた時間。肉体の熟練の時間につながる。そこには繰り返しと、繰り返しが作り上げる肉体の(思想の)ととのい方がある。--それが「見える」。
 そのとき。
 「男」が「きれい」なのかなあ。
 それとも男をそうやって遅れて思い出す教師たちの目が「きれい」なのかなあ。
 --これは変な疑問かもしれないけれど、ひるがえって、甲州街道のチャンバラ、その刀の切っ先の動き、チャンバラをする男の合羽の裾の動きが矢車みたいできれいだ、というとき、刀の円運動や裾の円運動が「きれい」なのか、それを「矢車」と呼ぶ荒川の意識が「きれい」なのか、実は、区別がつかない。
 というのは、嘘。
 刀の切っ先の動き、合羽の裾の動きを「矢車」ということばにしてしまった荒川の意識が「きれい」なので、ことばが向き合っている対象は荒川のことばによって「きれい」にととのえられているだけなのだ。
 そうだとすれば。
 ガリ版の冊子が「きれい」なのは、そこに男の動きが見えるから「きれい」なのではなく、そこに男の時間を見る教師たちの目が「きれい」だから、「きれい」ということになる。そして、それは荒川が教師たちをそんなことばで浮かび上がらせるから成立する「きれい」でもあるのだ。

 荒川のことばはとてもゆっくり動くので、どうしても読者の方がことばを追い越してしまうけれど、追い越さないように立ち止まり立ち止まり、読まないといけないのかもしれない。

 詩はさらに、ガリ版刷りの冊子を売る男の様子へさかのぼり、それから五十歳を超えた教師の娘の時間へと進んで行きもする。
 そこでもことばは、「もの(対象)」が「見える」まで待っている。
 ひとはいつでも何かを「見ている」。不思議な距離を保ちながら、「見ている」何かと自分の間で、ことばがゆっくり動き、すべてをととのえるのを待っている。ととのうのを待っている。
 その「待つ」という時間--遅れてくる時間、間延びする時間のなかに、いつも「きれい」が動いている。ととのう、が動いている。
 最終連に「きれい」ということばは出てこないが、「きれい」だ。父のことを訪ねる娘のことば--そのことばを支える暮らしが「きれい」だ。

もと教師の男の 娘は
五十歳を超えたが
父のために頭を下げて回るため
新しい靴と服を遠くの店で買った
翌日の校庭で
見かけた人に
「父は また来たのでしょうか」
と聞かなくてはならない
見上げるアルプスは
水のなかに消えているけれど
夕べのことを
知らなくてはならない


忘れられる過去
荒川 洋治
みすず書房
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平田俊子「アストラル」

2012-01-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)

平田俊子「アストラル」(「現代詩手帖」2012年01月号)

 平田俊子「アストラル」は草野心平のことを書いている。弟の天平の重篤の知らせを聴いて弟の所へ駆け付ける。駆け付けようとする。なかなかすんなりとはいかない。そのときのことを書いている。
 自分のことではないので、まあ、取材して書いている。そして、草野心平が「アイスクリーム」という詩を書いたことをつきとめ、その詩についても書いている。最後の食べ物としてアイスクリームを食べさせたい、と思ったらしい。
 ここから平田は、これは宮沢賢治の「永訣の朝」に似ていると思う。賢治は妹に「あめゆじゅ」を食べさせたいと思った。心平はアイスクリーム。冷たい食べ物が似ている。
 さらに、高村光太郎のことも思い出す。死にゆく妻にレモンをかじらせようとした高村光太郎。
 その高村光太郎について書いた部分がおかしくて笑ってしまう。

死にゆく妻にレモンをかじらせた男もいた
(あのレモンは輪切りにしたもの?
皮をむいて一房与えた?
死にかけている人に丸かじりさせた?
レモンをかじるには顎の力が必要
危篤の人には酷ではないか
妻は本当にレモンを待っていたのか
夫は本当にレモンを買ったのか
様態急変の知らせを受けて病院に急ぐ途中
果物屋に寄る気になるだろうか
大井町の駅からゼームス病院までの間に
果物屋はあったか
当時高価だったレモンが店頭に置かれ
買うだけの金が男の財布にあったか)

 確かに変だねえ。平田が書いているように、これは、ほんとうのこと、と思ってしまう。
 そして、こういう詩について、おもしろいとか、おかしいと思うことは、高村光太郎の詩についての気持ちを「リセット」するということでもある。(リセット--については、きのうの「日記」を読んでください。)
 この「リセット」があって、最後の部分が、なんといえばいいのだろうか。「親身」の感じがとても強くなる。
 光太郎が死ぬ寸前のことを書いている。草野心平とのやりとりを書いている。

七十を過ぎた光太郎は病の床にあった
梅雨時 牛乳が傷むことを案じる光太郎に
心平は冷蔵庫を買うようすすめた
氷が毎日配達されることを厭う光太郎に
心平は電気冷蔵庫を提案した
氷で冷やす冷蔵庫が一般的だった時代に
電気冷蔵庫は高級だった
心平は筑摩書房にかけあって
光太郎の印税を前借りし
イギリス製の
アストラルという電気冷蔵庫を
光太郎のアトリエに届けさせた
光太郎はまもなく亡くなり
アストラルは心平が譲り受けた

アストラルのその後は知らない
光太郎死して 五十余年
今もどこかで冷たいものを
いっそう冷たくしているだろうか
扉を開けると
アイスクリームとレモンと
あめゆじゅが
もの言いたげに並んでいるだろうか

 しみじみするねえ。
 私が先に引用したレモンの部分があることで、そのしみじみが強くなる。どうしてかなあ。なくてもしみじみするのだろうけれど、あった方がしみじみすると思う。なぜだろうか。
 作用-反作用の効果? 逆説の効果?
 うーん、違うなあ。そんな作為的(?)なものではない。
 私は、心平の労力に感心したのではない。心平のやさしさは、それはそれで感動的だが、その友情に感動したのではない。
 平田の語り口に感動したのだと思う。
 平田はたんたんと平田が調べてわかったことを書いているのだと思う。そして、そこには何の誇張もないと思う。
 その「正直」に私は感動したのだ。

 光太郎が智恵子のためにレモンを買った。どこで? どうやって食べさせた? わからないことはわからないと書く。疑問に思ったことは疑問として書く。ことばを動かす。
 そのあとで、なおことばが動いていくなら、そのことばをただ追いかける。

 ここには不思議な「清め」が働いている。
 岡井隆に、辺見じゅんが「中年の恋つて ありますか 岡井さん」と訪ねたのと同じ「声」のまっすぐな響きが平田のことばにはある。
 ほんとうは言ってはいけないのかもしれない。遠慮(?)しなければいけないのかもしれない。
 けれど、そこで遠慮してしまうと、そのあとのことばが「遠慮した」という「汚れ」とともに動いてしまう。「汚れ」をひきずってしまう。

 平田のことばのおもしろさは、出発点とたどりついたところが違うところ--というところにある。
 「アストラル」は最初、重篤の天平のところへ駆け付ける心平のことを書いている。しかし、それが途中から光太郎のことに変わってしまう。そしてそこには、智恵子にレモンをかじらせたというのは変じゃない?という脱線まである。
 脱線があるのだけれど、脱線することで、不思議に「本道」に入っていってしまう。
 その「本道」というのは「正直」ということである。
 平田が「正直」にことばを動かすと、その「正直」に答えるようにして、心平の「正直」が動く。筑摩書房にかけあって、光太郎に冷蔵庫を買わせる--という親身の世話が動く。
 あ、これは「歴史・事実」に反する言い方だね。
 心平の親切があって、それを平田のことばが「再現」しているというのがこの詩の構造なのだから。
 でも、私は逆に感じてしまう。
 平田が「正直」でなければ、心平の「正直/親切/親身」は、こんなふうにしてことばにならなかった。
 何かを「事実」にしていく、確かなものにしていくのは「正直なことば」なのだと思った。

 「正直」にはいろいろな「正直」がある。岡井に「中年の恋つて ありますか 岡井さん」と聞く辺見じゅんの「正直」、聞かれて「刺された」と感じ、その感じたことを書く岡井の「正直」。「正直」と「正直」がぶつかると、世界がリセットされる。そして人間が生まれ変わる。
 平田の詩では、平田の「正直」が草野心平にぶつかり、高村光太郎にぶつかる。そして、そこから心平と光太郎が、新しく生まれてくる。知らなかった心平と光太郎が、まっすぐに生きてくる。平田のことばのなかを歩いてくる。
 森鴎外の「渋江抽斎」を思い出させる作品だ。




平田俊子詩集 (現代詩文庫)
平田 俊子
思潮社
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ナボコフ「恩恵」

2012-01-06 12:18:35 | ナボコフ・賜物
             『ナボコフ全短編集』(作品社、2011年08月10日発行)
 「恩恵」は女と待ち合わせる男が主人公である。絵はがき売りのおばあさんの隣で待っている。しかし、男は女が来るとは思っていない。

ぼくは歩きながら、君はきっと会いに来てきれないだろうと考えていた。(94ページ)
 
君が来るとは信じてはいなかった。                 (95ページ)

君が来ると信じていなかった。                   (95ページ)

すでに一時間ほどが経っていた。もしかするとそれ以上だったかもしれない。どうして君が来ると思えたのだろう。                     (96ページ)

でも君は来ると約束したじゃないか。                (96ページ)

 この繰り返しがとてもおもしろい。リズムが、とても音楽的で楽しい。繰り返されるたびに、「来ない」ということが読者にはわかってくるのだけれど、わかっていても読まずにはいられないのは、繰り返しのリズムが音楽だからである。
 「君は来ない」と思いながら、待ちつづける。そして、その待っている間に、ひとつの「事件」が起きる。
 おばあさんにコーヒーの差し入れがあり、おばあさんはコーヒーカップを返しにゆく。それをみながら、主人公の心境に変化が起きる。それがこの小説のハイライトなのだが、それよりも、前半の「君は来ない」というこころの動きがおもしろい。
 さらに、事件後もおもしろい。

ついに君がやってきた。実を言えば、やってきたのは君ではなくドイツ人のカップルだった。(略)その時だった、その女が君に似ているとぼくが気づいたのは--似ているのは外見でも洋服でも鳴く、まさにその清潔そうないやなしかめっ面、そのぞんざいで無関心な目つきだった。                         (98ページ)

 男は、ここで女が嫌いであるということを発見するのだけれど、この変化がおもしろい。--というのは、まあ、短編小説の「技術」の問題に属することかもしれない。ストーリーをどう展開するかということに属する問題かもしれない。
 そこはそこで感心したのだけれど、私の関心は別な部分になる。ナボコフが好きでたまらない理由は別な部分にある。
 おばあさんとコーヒーのやりとりをとおして「世界のやさしさを、自分をとり囲むすべてのものにある深い恩恵を、自分とすべての存在の間の甘美なる絆を感じた」主人公が、電車で帰っていく最後の最後のシーン。

電車が停まるたびに、上のほうで風にもがれたマロニエの実が屋根にあたって音を立てるのが聞こえた。コトン--そしてもう一つ、弾むように、やさしく、コトン……コトン……。路面電車は鐘を鳴らして動き出し、濡れた窓ガラスの上で街灯の光が砕け散り、ぼくは胸を刺し貫く幸福感とともに、その穏やかな高い音が繰り返されるのを待った。ブレーキの響き、停留所--そしてまた一つ、丸いマロニエの実が落ちた--つづいて二つめが落ち、屋根にぶつかり転がっていった。コトン……コトン……。
                               (98-99ページ)

 「しかめっ面」「ぞんざいで無関心な目つき」という「視覚」の不機嫌が、「コトン……コトン……」と繰り返される音楽(聴覚)で癒されていく。

 ひとは、聴覚でできている。--私は、ひそかにそう感じている。私たちをとりまく「情報」は「視覚」によるものが多い(多すぎる)。その反作用のようなものかもしれないが、静かな「聴覚」、美しい「聴覚」に触れると、私はとてもうれしく感じる。
 ナボコフも、私にとっては「聴覚の作家」である。



カメラ・オブスクーラ (光文社古典新訳文庫 Aナ 1-1)
ナボコフ
光文社
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八柳李花―谷内修三往復詩(17)

2012-01-06 00:00:49 | 
端からくずおれてゆく  谷内修三


新しいビルの冬のガラス窓が空白に見えるときみの声が言う
その朱泥を持たない鏡の薄青い悲しみに映るのは
福岡市中央区赤坂二丁目・ケヤキ通りの盛り土のような傾斜のかすかな坂
そしてひびわれた舗道の内部には誰も知らない暗さに凍えて震える灰色の根
そんなものがあることも知らずことばから遠く見放され
秘密を滑らせるように不安定な昼の光が濡れたアスファルトをなぞるとき
見知らぬ人がバスを待つその上空で絡み合うきのうの夜の喘ぎより細い梢よ
そばにいるひとのそばで半壊する孤独の陰影の先端に触れていらだち
いちばん白い冬の雨粒は無数の霧に際限なく分裂し流れるままに
いのちあるもののように群がり、いのちあるもののように端からくずおれてゆく
ビルを越える風に吹き乱されるその白い色の沈黙の深さに
遅れてやってくるバスのやわらかなブレーキが似てしまう
ので私は書店キューブリックの新刊書のページをめくりにゆく
「過去には時間がなく思い出すとき過去は過去になるというのは
知っていることだけれど、悲しい過去でも
思い出すとこころがなごむということがわからないのはどうしてかしら」
新しいビルの冬のガラス窓が空白に見えるときみの声が言う
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岡井隆「南独逸の旅の前と後」(2)

2012-01-05 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「南独逸の旅の前と後」(2)(「現代詩手帖」2012年01月号)

 「4」には「辺見じゅんの訃をきいて」という「前書き」というか、サブタイトルが突いている。
 ドイツへ旅に出る前に、突然訃報が飛び込んできて、そのときのことをそのまま書いているのだと思う。あらかじめ書くことを予定していたのではないけれど、そういうことがおきたので書いた、という感じでことばが動いている。--つまり、前の部分とはっきりした脈絡があるわけではない。

辺見さん あなたはあのときまだ三十代の若さだった
人生逃亡者として愛知県の一隅に身をひそめてゐたわたしに
インタビューするためにあなたは来た
伊良湖岬 恋路(こいじ)が浜
「中年の恋つて ありますか 岡井さん」
砂の上にぺたりと座り込んだわたしを
あなたの柔い声が刺した

 ここを読みながら、私はきのう書いたことを思い出している。
 きのう、私は「1」の最後の2行に触れながら、こう書いた。

法師蝉、今年最後のかれらの声が清めてくれてゐるこの空間をわた
しはしばらく捨てて行くのだ

 「声が清めてくれる」の「清める」ということば。
 ことばは、何かを「清める」ためにある。
 「意味」をつたえるためにではなく、いま/ここを清めるのがことば、歌(和歌/短歌)の力なのかもしれない。それが、岡井のことばの奥にはあるということかもしれない。不思議な音楽と、それぶつかる「現実」。「現実」を内部から統合していく「音楽」としてのことばの動き--論理化できない何かを、私は、直感として岡井のことばに感じる。
 そのこととは、少し似ていて、少し違うのだが、岡井は辺見じゅんの声に、やはり清められたのではないのかと思うのだ。
 そのときの「清める」とは「現実」と向き合うということかもしれない。
 ひとは誰でも「現実」と向き合っているけれど、どうじに「現実」から逃避している。
 岡井は「人生の逃亡者」と書いているが、そのとき岡井は何かから逃げていた。そして、逃げながら何かと向き合っていた。いわば、矛盾していた。その矛盾を辺見のことばはまっすぐに突いてきたのである。「刺した」と岡井は書いているが、そのまっすぐさに岡井は刺されたということだろう。
 このとき--岡井は清められるのだと思う。「矛盾」が一瞬、消える。「矛盾」を「矛盾」のままにしておけない。
 こういう瞬間のために、他人は存在する。
 こういう瞬間かがあるから、私たちは他人と生きているのだ。

 それは、脈絡のないこととも関係がある。脈絡というのは、「本人の意図」ということである。だれでも自分自身の「意図・意思」をもっている。けれど、世界はそういう「意図・意思」とは無関係に、つまり脈絡もなく動く。
 岡井が何を考えようが関係なく法師蝉は鳴く。そして、辺見じゅんは死んでしまう。

 このことは、岡井がドイツへ旅立つことと何の関係もない。辺見の訃報に接しても、接しなくても、岡井の予定はそのまま進むだろう。(いや、葬儀とかいろいろあって、それに参列するために日程が多少違ってくるということはあるかもしれないが……。)
 それは人間を「リセット」する。
 脈絡のなさが、脈絡を切断し、もう一度人間を出発させてくれる。
 この「リセット」と「清める」がどこかでつながっている。

 「リセット」としての「清め」。
 それは、いわば書かなくてもいいことかもしれない。でも、岡井は、書く。それはなぜか。
 書きたい「意味」など、ないからだ。--ないというのは、乱暴な言い方になるが、書きたいことが最初から「設定されていない」ということだ。「結論」はないのだ。
 書きたいことはなく、ただ書くという行為がある。
 書きたい「意味」はなく、ただ書くという行為がある。
 「書く」ことが、ことばを動かすことが「リセット」だからである。

 辺見じゅんの訃報をきいて、こころが動く。ことばが動く。それは岡井がこの詩で書いてきたこととは関係がない。言い換えると、この詩を書きはじめたとき、書こうと想定したいたことではない。書きはじめたとき、訃報が飛び込んできて、その現実に突き動かされて、そのことを書く。思い出を書く。
 それは、岡井を「清める」。そして、岡井が「清められる」とき、辺見も「清らかになる」。うまく言えないが、そういう関係、そういう運動がここに起きている。
 辺見じゅんのことを私はよく知らないが、あ、こんなふうにまっすぐに質問する清らかな人だったんだと思う。清らかな印象がぱーっと広がる。それが「清める」ということ。この瞬間、岡井もとても「清らか」になる。
 この「清らか」を持って、岡井はドイツへ旅立つのだと思う。

 「6」では、岡井は、まだ日本にいる(ようである。)

辺見じゅんの遺志を継いで「幻戯書房」からわたしの『木下杢太郎
評伝』が出るかもしれない わたしはそれを書きつづけるだろう
十月十五日木下杢太郎の忌日にわたしは南ドイツの暗黒の森あたり
にゐるだろう

世界を覆ふものすさまじい
落葉の雨
世界を覆ふ ものすさまじい
落葉の 雨

 この、後半の4行が、私には美しく感じられる。「意味」ではなく、ただ「美」がそこにある、という感じだ。
 「世界を覆ふものすさまじい/落葉の雨」には、「意味」があるかもしれない。けれど、それが繰り返されるときに、「1字あき」を含んで「世界を覆ふ ものすさまじい/落葉の 雨」になると、まるで、「意味」がない。
 「意味」ではなく、そこには「もの」と「音」だけがある。
 その「ことば」の「音」になった「清らかさ」が、そこにある。
 そして、これは「4」の辺見じゅんの質問につながっていく。というか、その瞬間「4」の辺見じゅんの「声」がよみがえってくる。

「中年の恋つて ありますか 岡井さん」

 その1行にも「1字あき」があった。それは「散文的な質問」ではなく、「音楽」だったのだ。「リセット」を促す「意味」であるだけではなく、「音楽」がそこにあったのだと思う。
 「音楽」というのは、自分の「意図・意思」とは無関係なところで動いている「声」そのものかもしれない。
 だから岡井は清められたのだ。
 --書きながら、私は私の書いていることにとんでもない「飛躍」があるなあ、と思う。思うけれど、その「飛躍」を埋める方法はない。
 辺見の質問、その声は「ものすさまじい」ものだったかもしれない。けれど、それは「ものすさまじい」ことによって岡井を清めたのだ。
 論理化できないことを、論理化せずに、私は、ここでは、ただそう書いておく。(いつの日か、書き直す、あるいは何かを書き加えることがあるかもしれない。)

 そして、そのこととつながりがあるかどうか、はっきりしないのだが、こんなことも私は考えた。
 「7」。

青空から降りて来たみたいな その
強力な一人に従ひたい
昔むかし読んだ「指導と信従」つてことば
個として信じられる偉(おほ)きな一人に従つてゆきたい

 この「一人」とは、引用して来なかった「5」の部分にでてくる男、キリストみたいな男かもしれないが、私は「4」の辺見じゅんを思うのである。
 「青空から降りて来たみたいな」のあとに、「キリストみたいな」ではなく、「清潔な」ということばを補って、辺見につなげたい気持ちになる。
 「声」が「人間」になる。「声」が「意味」ではなく「人間」になる。そして「人間」は(他者は)、もうひとりの「他者」を「清める」。そのとき、二人のあいだには「意味」ではなく「音楽」が鳴り響く。
 それは、「世界を覆ふ ものすさまじい/落葉の 雨」のような感じ。

 私の「日記」は感想・批評になっていないね。「意味」がないのだから。「意味」を含まないのだから。
 「意味」を含まないついでに(?)、書いておく。
 「8」の部分。
 これは、まあ、ドイツから帰ってあとということになるのかな?

柔いのがいい
時間を歩ける靴がいい
華は ないのがいい
仲間と語り合わせてあつまるのはいやだ
でも
数人 ひそかに 冬ざれの池のまはりを
徘徊 つてのも乙(おつ)
しつかり着こんで
灰色の毛糸帽をかぶつて
老いを盾にふせぐ寒気つてのもわるくない

 最後の1行は、どういう「意味」だろう。「意味」は関係ない--と書きながら、私はこんなふうに思うのである。
 寒い。それを若者のように我慢するのではなく、老人だから厚着をして(老人だから厚着をしたっていいさ、と開き直って)、寒さを防ぐ--そのときの寒気っていうのもなかなかいいなあ。そういうふうに、自分を甘やかす(?)のもいいなあ、と思う。
 で、また「4」に戻るのだけれど、「人生逃亡者」のある時代。岡井は「現実」から逃げ、同時に「現実」に向き合う。その「矛盾」。それを突き刺しながら、同時に清めていく声を思うのだ。

あなたの柔い声が刺した

 「柔い」ということばのなかにある「甘やかし」。--と書くと、きっと違うのだけれど。「救い」のようなもの。

 とりとめのないことをあれこれ思う。何の「結論」も出てこない。岡井のこの詩がいい詩なのか、普通の詩なのか--よくわからないが、私は、こんなふうに「結論」のでないことを考えるのが好きである。

 「南独逸の旅の前と後」というタイトルについても、ふと、こんなことを考えた。「前と後」ということは、そこには「間(あいだ)」がある。そして、その「間」の部分というのは「独逸」にいる時間なのだけれど。
 でも、ここに書かれているのは、その肝心(?)のドイツではなく、日本にいる岡井の姿・時間である。
 そして、それが「間」ではなく、「前と後」と書かれていて、実際そのとおりなのだが、なぜか、ここに書かれているのは「間(あいだ)」という感じがする。岡井が生きているときの「間(あいだ)」。岡井が他人と出会い、そこでことばが動き、岡井も変われば他人も変わる--そのときの、「変化」としての「場」。「場」の「間(あいだ)」というものを感じる。
 --論理的に詰めていくと、私の書いていることは、整合性がなく、矛盾しているのだけれど。




注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社
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岡井隆「南独逸の旅の前と後」

2012-01-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「南独逸の旅の前と後」(「現代詩手帖」2012年01月号)

 岡井隆「南独逸(ドイツ)の旅の前と後」は、タイトルどおり、旅行の前と後のことが書いてあるのかどうか、よくわからない。「6」の部分に、

十月十五日木下杢太郎の忌日にわたしは南ドイツは暗黒の森(シュワルツ・ワルト)あたりにゐるだらう

 と書いているので、ここまでは「前」と想像できるが、では「7」「8」は、旅行の後? よくわからない。
 そのほかにもよくわからないことがたくさんある。そのわからないことのなかには、いったい岡井は何を書きたいのか、ということがある。
 それはたとえばきのう読んだ新川和江の詩ならば、新川は新川の詩が読者の中に残り、そのことばの中へいつまでも遊びに来てほしいという気持ちが書かれていると「わかる」ということと比較するとはっきりする。
 いったい、何を読者に訴えたい? わからない。
 何も書いていないんじゃないか--という気持ちさえ生まれる。

 だけれど。

 私は岡井のこの詩が好きだなあ。何も書いていない(ごめんさい)、ということがとてもおもしろい。きっと「何も書いてない」というのは、私が何が書いてあるか理解できないだけのことなのだが、何も書いてないと言い切ってしまっても、岡井のことばはこのままそこに存在している--そういう感じの、不思議なことばの手応えが好きなのだと思う。
 「1」の部分。

小さな過失のやうに青空を流れてゆく秋の
雲があつた
衣替へしては冷気に対ふやうに精神も外部とある種別の関係に入る
べきなのだが
今日はどうやら曇りながら仕事の進む日だ
ミュンヘンへ発つ前の日々だと承知してゐる
それなのに帰国したあとのやうな霧のなかにゐる

 書き出しの「小さな過失のやうに」は修辞学的には「秋の雲」、あるいは「流れてゆく」にかかるのだと思うが、「小さな過失のやうに青空を」とことばがつづくとき、その青空さえもが「小さな過失」に思える。いや、思ってしまう。
 私は「意味」を特定したくないのだ。
 修辞学を無視して、私は「小さな過失」のなかに「青空」「流れ(てゆく)」「秋の雲」が結晶するのを感じる。ことばは、うねるというよりも、前後を自在に行き来する。その、行き来を許す「文体」の不思議さが岡井のことばにはあって、その自在さが私は好きなのだ。
 きっと岡井が短歌を書いている(詠んでいる)ということがどこかで関係している。
 「定型」にしたがってことばを動かすとき、どうしても「学校教科書」的ではないことばの入れ換え(倒置)が起きる。この倒置のなかには、論理ではない何か別の統治する力がある。
 その力に、私は、ぐいっと引き込まれてしまう。
 その力が強すぎるとき、私は、そしてとても混乱する。

衣替へしては冷気に対ふやうに精神も外部とある種別の関係に入る
べきなのだが

 これは何だろう。
 季節が秋に変わる。衣替えをして冷気にあってもいいように用意する。これは「精神」ではなく「肉体」と「外部(気候)」との調和の取り方である。
 それと同じように、いま日本にいる岡井の精神も「衣替え」をして、外部(ドイツ)との関係をスムーズに保てるよう準備しなければならない。そういう調和の取り方を考えないと行けない、ということなのかなあ。
 --という具合に、私は、岡井のことばが「わかる(?)」のだが。
 「精神も外部とある種別の関係」か。
 ややこしくない?
 こんなめんどうくさい日本語で岡井は考える?
 と、言ってしまいたい。否定してしまいたいのに、その前の、

衣替へしては冷気に対ふやうに

 このことば、この音の調子が、とても美しくて(「対ふ」を私は「むかう」と読んだのだが)、私はことばのまわりでうろうろしてしまう。
 美しいことばがさーっと動く。そのあと、わけのわからない停滞にまきこまれ、その停滞にとまどいながら、こころは「衣替へしては冷気に対ふやうに」へ引き返して遊んでしまう。
 「冷気」というのは、1行目の「小さな過失」のようなものかなあ、とも思う。
 ひとは「小さな過失」に向き合うとき、「衣替え」するのかなあ。まあ、小さな過失について弁解するとき、ことばの調子は少し変わるなあ、と岡井が書いていないことをあれこれ考えながら、こういう「うだうだ・くだくだ」ってあるなあ、と思う。
 こういう私のくだらない「うだうだ・くだくだ」を受け入れてくれる何かが、岡井のことばにはある。
 私のなかの余分なものを受け止めて、洗い流してくれる力がある。
 きっと「うだうだ・くだくだ」を岡井は潜り抜けてきたんだろうなあ、と勝手に私は「共感」しているのかもしれない。

法師蝉、今年最後のかれらの声が清めてくれてゐるこの空間をわた
しはしばらく捨てて行くのだ

 「声が清めてくれる」の「清める」ということば。
 ことばは、何かを「清める」ためにある。
 「意味」をつたえるためにではなく、いま/ここを清めるのがことば、歌(和歌/短歌)の力なのかもしれない。それが、岡井のことばの奥にはあるということかもしれない。不思議な音楽と、それぶつかる「現実」。「現実」を内部から統合していく「音楽」としてのことばの動き--論理化できない何かを、私は、直感として岡井のことばに感じる。

 「2」の部分。

旅の仕度といへばどんな小さな旅でも
たのしくきこえるが
今夕啼(ゆうな)きしてゐる椋鳥(むく)ほどではない
「グーテン・タークといふのよ、すれ違つたら」
尻上がりにグーテン・タークと言ってみるが
誰も答へてくれさうにない

 2行目の「きこえる」が岡井のことばの特徴のひとつかもしれない。岡井は「音」に還元して世界をとらえている。「音」が世界の中心にある。無意識か、意識的かはわからないが……
 その「きく」が椋鳥の声から、人の声へと変化してゆく。
 わたし(岡井)のものではない声が、岡井の何かを「清める」。それは「1」の部分の「法師蝉」の声と同じである。
 「グーテン・タークといふのよ、すれ違つたら」は、椋鳥ではなく、「2」の後半にでてくる声の持ち主、たぶん妻の声だろう。
 「グーテン・ターク」くらい岡井は知っているだろう。そして知っていることを妻は知っているに違いない。それでも「グーテン・タークといふのよ、すれ違つたら」と言ってしまう。そのときの会話を動かしているのは、不思議な声の力である。二人の調和がある。

十年来いつのまにか海外へゆく愉しみが
減つて(日本でいいよ オレつち)
着てゆく服持つてゆく服が吊るしてある
そのそばをすぎて
星の空へ近づく
雨が降つて来たんだねつていふ声が真夜中に
銀のやうにきらめく

 「星の空」と「雨」は矛盾のようだが、雨が一瞬降って晴れ上がって、雨が降ることで雲が消えて星が輝くような、すばやい運動がある。
 ここにも「清める」力が働いている。
 「銀のやうにきらめく」のは、「雨が降つて来たんだねつていふ声」か、「星」か、あるいは「雨」に濡れた庭の木々や石や、その他もろもろか。
 「銀のやうにきらめく」という比喩の中に、すべてが統合される。
 こういう瞬間も、私はとても好きだ。比喩の力を感じる。




瞬間を永遠とするこころざし (私の履歴書)
岡井 隆
日本経済新聞出版社
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新川和江「影の木」

2012-01-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
新川和江「影の木」(「現代詩手帖」2012年01月号)

 きのう読んだ長谷川龍生のことばにはうそがなかった。「誤読」を許してくれる「遊び」がなかった。東日本大震災のことを書いているのだから、「遊び」を期待してはいけないのだろうけれど。
 私はだらしがない人間なので、きょうは、また違った感じの詩と向き合い、ことばを動かしたい気持ちである。
 正月だからね--と、少し言い訳をして……。

 新川和江「影の木」は、ことばの楽しみ、ことばでしかたどりつけない楽しみ触れている。
 庭の模様替えをしたとき、ガレージをつくった。西側には窓はなく壁だけ。そばにはアオハダという珍しい木を植えた。西日が傾くと、壁に木の影が映り、小鳥が遊ぶ姿もシルエットで映し出された。それを見たくて新川は西側を窓のないガレージにしたのだった。ところが……。

 しかし虫がついたか土質が合わなかったか、数年
してアオハダは立ち枯れた。隅に追いやっていたマ
キの古木を戻しましょうか、といいながら植木屋は
アオハダを処分したが、何も植えずに置きましょう
とわたくしは言った。そうした或る日、陽が西に回
った頃にわたくしの目は、まざまざと見たのだった。
ガレージの壁に、在りし日のアオハダが、くっきり
と影を写しているさまを。

 ここまでなら、この詩は、清水哲男が書きそうな「抒情詩」である。精神が見た幻--それを美しいことばで定着させる。その幻の条件は、必ず「過去」である。過去の何かがいまも生きている。こころのなかに。それが、ふっとこころから飛び出して具体的なもの(形)になる。それは「もの/過去」なのか、それとも「精神/いま」なのか--という問いのなかで抒情は完結する。
 --はずである。
 が、なんと、この詩には思いもかけないもう1連の「付録」がある。

 長長と陳べてはきたが、ここまでは前置きに過ぎ
ない。特筆すべきは、その影が、もはや木の影では
なく、影の木として固有の名を持ち、西陽を受けて
壁面で、今も確実に成長を続けていることである。
虚虚実実。ほどほどの嘘をつきもしてものを書いて
はきたが、まもなくわたくしもその一生を終える。
影の木よりもお粗末な詩行をいくつかあとに遺すこ
とになるが、その枝に、空の深みを知る者が、せめ
てひとたびなりと止まりに来てはくれないものか。
翡翠色のまばゆき羽を持つカワセミなどでなくても
いい。ヒガラやコガラ、つばさに斑ひとつ持たない
フナシウズラであっても。

 「長長と陳べてはきたが、ここまでは前置きに過ぎない。」というのは散文そのものの奇妙なことばだが、それ以上に、「特筆すべきは、その影が、もはや木の影ではなく、影の木として固有の名を持ち、西陽を受けて壁面で、今も確実に成長を続けていることである。」が変である。
 そんなこと、ありえないでしょう。非科学的でしょう?
 新川は、それにつづけて「ほどほどの嘘をつき」と告白(?)しているが、いま、ここに書いていることこそ、嘘そのもの。
 木が枯れた、そしてそれを切った--ということを知っている新川が、壁に木の影を見るというところまでは、まあ、ほんとうらしい。しかし、その新川の見た木の影が、いまは固有の影の木になって壁面で成長している、というのは「事実」ではなく、新川の精神だけが見ている世界--つまり新川のことばだけがたどりついた「嘘」。
 でもねえ。
 この、あまりにも見え透いた「嘘」がとてもいいのだ。
 あ、詩がここにある--と言おうとして、いや、ここじゃない、と私は書きながら思う。ここは、やっぱり、嘘。大嘘。実は、つまらない「抒情」。
 しかし、そのあまりに人工的な抒情詩をたたき壊して、これを詩にしていることばがある。

長長と陳べてはきたが、ここまでは前置きに過ぎない。

 という、奇妙な散文--その直前の影の木の誕生の抒情をぶち壊すような散文の「正直」に詩がある。この正直が、「特筆すべきは」以後のことばを深いところで支える。
 「特筆すべきは」以後の一文は、もちろん嘘。
 そして、その嘘は「ほどほどの嘘をつき」以後の「正直」を語るための方便である。「正直」をそのまま、言えない。だから「嘘」を最初に言って、読む人に、これは嘘なんですよと冗談で言う感じで「ほんとう」を語るのだ。
 だれかのこころのなかで、わたくし(新川)の詩が影の木のように大きくなって、その木にだれかが遊びに来てほしいと「ほんとうの願い」を書いている。
 この、遠回り。
 遠回りしてしか言えないことば--その正直。
 これはいいなあ。
 正直を隠そうとする恥じらい--恥じらいのなかにある正直は、いいなあ。

新川和江詩集 (ハルキ文庫)
新川 和江
角川春樹事務所
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長谷川龍生「手に把った道路地図をひざに滑(すべ)らせて」

2012-01-02 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
長谷川龍生「手に把った道路地図をひざに滑(すべ)らせて」(「現代詩手帖」2012年01月号)

 私は「誤読」が大好きだ。だから「誤読」を拒絶した詩に出会うとはっとしてしまう。東日本大震災後の青森を行く長谷川龍生「手に把った道路地図をひざに滑(すべ)らせて」は「誤読」を拒絶した詩である。

原燃輸送の場所を見つける
日本通運もあった 中継ポンプ場もある
ポンプ いったい何だろう
先端分子生物科学研究所もある
沼が三つ 尾駮(ぶち)沼 鷹架(ほこ)沼 市柳沼
淡水鰊の獲れた尾鮫沼を右手に見て
一直線に運搬専用道路
日本原燃再処理事務所に入る
再処理事業部 再処理工場
高レベル放射性廃棄物貯蔵センター
低レベル放射性廃棄物埋設センター
日本原燃本社 ウラン濃縮工場
保障措置センター 環境科学技術研究所

レベルは 高 低 二つに分けられている
貯蔵と 埋設 これも言葉がちがう

 「言葉がちがう」とき、そこには「誤読」してはならない「ちがい」がある。「もの」、あるいは「考え方」が違えば「言葉がちがう」。
 それはあたりまえのことなのかもしれないが、そのあたりまえの事実の前で、私のことばはたじろぐ。
 たとえば「高レベル」「低レベル」の「高低」。それは確かに違いをあらわしているのだが、私の肉体はその「高低」を実感できない。納得できない。それを肉体で納得できる人がどれだけいるのかわからない。肉体で納得・理解できるのは、放射性物質に触れた人間の、何年後かのことかもしれない。そういう肉体で納得・理解できないものを、私たちは、いま、納得・理解しなければならない。そして、それを絶対に「誤読」してはならない。
 「貯蔵」と「埋設」。貯めておく、埋めてしまう。貯めておける、埋めてしまわなければならない。肉体では見分けのつかない「高レベル」「低レベル」をきちんと区別し、その処理も区別しなければならない。
 何によって。どのような方法で。
 これは、すぐにはわからない。--私には、わからないが、長谷川もわからないまま、手探りで書いているように思える。
 わからないから、いま/ここにあることばを、そのまま正確に写している。転写している。固有名詞をそのまま転写している。そして、この転写には、「誤読」はしないぞ、という強い決意があふれている。強い決意が、固有名詞とぶつかりあっている。
 それは

ポンプ いったい何だろう

 に象徴的にあらわれている。
 「ポンプ」ということばを長谷川は知っている。しかし、それがいま/ここで何を意味しているかわからない。ことばを知っているが、いま/ここにある「意味」がわからない。「意味」を知らない。
 ことばのなかに、「知っている」と「知らない」がいっしょに存在している。そういう「矛盾」を長谷川は「正確」にみつめる。「誤読」しない。「誤読」を拒否して、「知っている」と「知らない」のあいだなかへ入っていこうとする。

レベルは 高 低 二つに分けられている
貯蔵と 埋設 これも言葉がちがう

 この2行も、そういうことを語っている。「高/低」「貯蔵/埋設」のことばの「意味」は知っているつもりだった。いや、知っていたはずである。しかし、いま/ここにある「高/低」「貯蔵/埋設」は、知っているとは言えない。
 いま長谷川に言えることは、いま/ここにある「高/低」「貯蔵/埋設」は、それぞれが違うことを「意味」しているということ。「言葉がちがう」のは、そのことばをつかいわけた人がいる。つかいわけによって「意味」をつくりだしている人がいるということである。
 長谷川は、その違いをつくりだしているひとではない。だから、その「意味」を説明はできない。だが、そこで動いている「意味」があるということを、真剣に洗い出そうとしている。
 「誤読」せず、正確に。
 しかし、どうやって先へ動いていけばいいのだろう。
 だれか知らない人がつくりだした「高/低」「貯蔵/埋設」の違いをねこそぎひっくりかえし、自分にわかることばにできることばにできるのだろうか。
 どうやって、ことばの肉体を動かしていけばいいのだろうか。

 私は、結論を想定せずに書きはじめるせいか、どうしても途中でことばがうごかなくなる。脇道へそれてしまって、そこでとまってしまう。
 いまも、そういう感じだ。
 で、ちょっもどってみる。

 だれか知らない人がつくりだした「高/低」「貯蔵/埋設」の意味と闘うためには、「肉体」以外のものが登場して来なくてはならない。簡単に言うと「頭」が登場して来なくてはならない。
 「放射性廃棄物」そのものが「肉体」で直接触れて確かめられるものではない。確かめられるかもしれないけれど、そうしないことになっている。
 何が必要なのか。
 その何かは、普通の暮らしをしている私にはわからない。科学的知識がない。判断のしようがない。
 でも、では仮に「高/低」「貯蔵/埋設」の意味をつくりだした「頭」を長谷川が手に入れれば、問題は解決するのか。
 そうではない、と思う。
 「頭」を肉体で乗り越えなければならない。
 「高/低」「貯蔵/埋設」の意味をつくりだしているものを、超えなければならない。でも、どうやって--とそこでまた同じ問題が繰り返される。

 ここから、どうやって「肉体」へ帰るか。
 どうやって詩へ帰るか。
 長谷川は、「高低」「貯蔵」「埋設」を「言葉がちがう」としか理解できないと自覚した上で、「言葉のちがい」ではなく、肉体が知っていることばをつかって、その知っていることの向こう側というか、先へと動いていく。動いていこうとしている。
 ここから詩が動く。
 「誤読」を拒絶した長谷川のことばが動いていく。

これが尾鮫だ
青森県上北郡六ヶ所村大字尾駮
文化交流プラザーもある

はじめは ぼんやりしていたが
手に把った道路地図をひざに滑らせて
しだいに 描く風景が 顛倒する

顛倒するということは
正しい道理が失われて誤っていることだ
嫌な方向へ 悪い方向へ 想像する力を
高めて往って 局地に追いこめてしまう
無策 無能力 傍観者の極まりのぼく自身

 「顛倒する」とは「誤読する」は、どこが違うか。
 「誤読する」とは「正しい道理」を見失い、「誤る」ことである。--と書いてしまうと、「顛倒する」と「誤読する」は似たものになってしまう。
 「誤読する」は積極的にことばでいま/ここから離れてしまうことである。
 一方「顛倒する」は、いま/ここにとどまることである。つまずき、たおれ、もがき、その倒れた場所から何かをつかみ取る。
 --ということは、ことばで書くのは簡単だが、ほんとうはそんな具合にはいかない。「顛倒する」、「顛倒」してしまえば、どうしたって、「無力」「無能力」をしらされる。そして、「傍観者」になってしまう。ならざるを得ない。
 倒れたところからすぐに立ち上がることはできない。
 だから、その「場」にもぐりこむ。自分の「肉体」にもぐりこむ。

 長谷川は、長谷川の肉体の奥にもぐりこむようにして、ことばを動かしている。「頭」ではなく、「肉体」でことばを動かしている。「嫌な方向」の「嫌な」という「非論理的なことば」が、長谷川のことばの出所を明確にしている。
 「非論理的」というのは、その「嫌な」が、たとえばその前にでてきた「高レベル」「低レベル」と比較すればわかる。「高低」のように科学的な数値では測れない何かが「嫌な」である。それは「頭」ではつかみきれない。「肉体」の記憶でしか(肉体の歴史でしか)つかみきれない。
 で、「無力」の「肉体」にまでことばを還元していったとき、いま長谷川のいる、いま/こことついう「場」を通り抜けていった「肉体」が思い出される。その「肉体」を長谷川は自分の肉体としてよみがえらせようとしている。
 おぼえていることが、長谷川の肉体の底から沸き上がってくる。「肉体」の記憶が、長谷川と他者をつなぐ。

かつて尾駮には 巡検使に従って
古川古松軒が困難をこえて訪れてきた
「尾駮という所は ようよう十二軒ある村なり」と、一七八八年に言っている
菅江真澄が一七九二年から三年間
下北に滞在し 牛の背にのって
尾駮の牧を目ざしている 習俗を狙う
伊能忠敬が一八〇一年 六ヶ所をふくむ陸奥に至る東海岸を測量している 同年十二月に尾駮村を測っている
松浦武四郎も一八四四年に下北の先端から
六ヶ所地方に入り「東奥沿海日誌」を書いている
南部藩士漆戸茂樹も一八七六年に紀行地理書を書いている 藩の新当流師範役
この五人は 苦役 国難に立ち向って 動いていたのだ エネルギーをきびしい個性に生かして この地方が気がかりだった
この五人のエネルギーを 自身に惹きつけなければならない 人の心をひらく

 あ、五人の先駆者がいるのだ。五人は「ここ」をとおった。そして「ここ」を発見している。「ここ」を自分の「肉体」そのものとした。「知っている」ではなく、「おぼえている」に変えた。
 この五人は放射能と立ち向かったわけではないが、尾駮の地で、自分の肉体を動かした。肉体を動かして、その土地の人と接した。
 そこには、間違えるはずのない「答え」がある。
 肉体は間違えない。
 肉体はことばで区別しないのだ。そこにあるものは、ことばでしかとらえられないものかもしれない。けれど、そのことばが「顛倒」させたものを、もういちど立ち上がらせるには、ことばではなく「肉体」が必要なのだ。肉体から出発することばが必要なのだ。
 長谷川はこの詩で「答え」を出しているわけではない。
 手がかりになるものをつかんでいる、だけかもしれない。
 しかし、やはり「手がかり」以上のものがある。
 長谷川は五人と向き合うことで、ことばを立て直そうとしている。そのときの、きびしいことばの響きが、ここにある。





立眠
長谷川 龍生
思潮社
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ナボコフ「響き」

2012-01-02 12:11:24 | ナボコフ・賜物
             『ナボコフ全短編集』(作品社、2011年08月10日発行)
 「響き」は既婚の女との恋愛を描いている。夫は軍人で家を離れている。その束の間の時間の幸せと、突然の別れ。夫が帰って来ることになったのだ。そのときの思いが「ぼく」を語り手にしてことばが動くのだが、そのなかに驚くべき動きがある。
 「ぼく」は「ぼく」だけではないのだ。「ぼく」は「ぼく」をはみだして、すべての存在なのだ。それも「ぼく」以外の存在を外から眺めるのではない。

 
ぼくはすべてのものの内側で生き 
          (37ページ。以下、ページはすべて『ナボコフ短編集』による)

 「ぼく」は「ぼく」を離れ、他の存在の「内側」に入り込み、そこから世界をとらえ直す。たとえば、

かさの裏が黄色く多孔質のスポンジのようなヤマドリタケとして生きるのは、どういうことなのか。                            (37ページ)

 「内側で生きる」とは、その存在として生きるということである。
 ナボコフのことばは情報量が多く、あらゆるものが視覚化されるが、それに目を奪われると、この「内側」が見落とされる。あらゆる視覚の対象は、ナボコフが「外側」からみつめたものではなく、対象(存在)の内側に入り込み、内側から世界を統一したときの姿なのである。外見は視覚化されているが、その統一を統一たらしめているのは視覚ではなく、聴覚である--というのは、少し先走りした論理かもしれないが、私の感じていることである。
 この短編のタイトルは「響き」だが、響き--音楽がすべての存在を統一している、と私は感じている。
 女がピアノを弾き、それを「ぼく」が聴いているとき、彼は感じる。

すべてが(略)五線譜の上の垂直な和音になった。ぼくにはわかった。この世界のすべては、ことなった種類の協和音からなるまったく同じような粒子の相互作用なのだ。
                                 (36ページ)

 音楽が、和音が世界を作り上げている。世界をその瞬間瞬間存在させている。音楽が世界の「内側」にある。

 ナボコフ(ぼく)は「内側」から世界を見る。それを具体的に描いた部分は、女といっしょに友人を訪ねた部分に書かれている。  

ぼくはバル・バルィチの中にすべりこみ、彼の内部でくつろぎ、皺のよったまぶたの膨らんだほくろや、糊のきいた襟の小さな翼や、頭の禿げた箇所を這い進んで行くハエなどを、言わば内側から感じたのだ。                   (41ページ)

同じように軽やかな身振りとともにぼくは君の中にもすべりこみ、君の膝の上のガーターについたリボンを認め、さらにそのちょっと上のバチスト布のむず痒さを感じ取り、君の代わりに考えた                          (41ページ)

 「内側で生きる」。そのとき、おもしろいのは「ぼく」は対象そのものになるのではない。あくまで「ぼく」でありながら、他者なのだ。「ぼく」と「対象(他者)」は「内側」でつながっている。
 そのつながりが、「和音」--「垂直な和音」と呼ばれるものである。

ぼくは、すべてのもの--君、煙草、シガレットホルダー、不器用にマッチを擦っているパル・パルィチ、ガラスの文鎮、窓の下枠に横たわった死んだマルハナバチの--内側にいたのだ。                            (41ページ)

 「内側を生きる」ときの幸福--それをナボコフは、次のように書いている。

そこに調和のとれた流れがあったからだ。(略)かつてぼくは百万もの存在や物体に分裂していた。きょうはそれが一つになっている。明日はまた分裂するだろう。
                                 (46ページ)

 「調和のとれた流れ」とは「和音の流れ」である。「和音」は無数の存在(物体)で構成されている。きょうにはきょうの和音があり、明日は明日の和音がある。
 和音の中をナボコフは動いていく。





ナボコフ全短篇
ウラジーミル・ナボコフ
作品社
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サンセット大通り

2012-01-02 12:09:10 | 午前十時の映画祭
ビリー・ワイルダー監督「サンセット大通り」(★★★★★)

監督 ビリー・ワイルダー 出演 ウィリアム・ホールデン、グロリア・スワンソン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム

 過去の名声を生きるグロリア・スワンソンの演技がすばらしいのはもちろんだが、私はウィリアム・ホールデンと脚本家を夢見る若い女性のやりとりに興味を持った。
 若い女性は、ウィリアム・ホールデンの書いた脚本の一部をほめる。「人間が描かれている云々」。そして、そこから二人で脚本を手直しして、新しい作品をつくろうとする。そこでは「ことば」でしか説明されていないのだけれど、新しい映画、ビリー・ワイルダーがほんとうにつくりたかった映画が説明されていると思った。
 先週見た「情婦」では、「結末は話さないでください」という字幕が最後に出る。しかし、映画はストーリーではないのだから「結末」がわかっていてもいい、と私は考えている。そして、そのことを「情婦」の感想にも書いたが、ビリー・ワイルダーもストーリーよりもほかのものを描きたいのではないのか。
 映画なのだから、もちろんストーリーはある。けれど、ストーリーではなく、そのときどきの人間のあり方、人間そのものを描きたいのだと思う。
 この映画では、売れない脚本家がかつての大スターの家に迷い込み、大スターが若い男に夢中になり、という恋愛(?)悲劇がストーリーとしてあるのだが、まあ、これは冒頭の射殺体でストーリーが見る前からわかっている。ここでは「結論」は先に知らせておいて、途中をじっくり見せるという手法がとられている。(ね、ストーリー、結論は関係ないでしょ?)
 で、人間を描く--とき、もちろんグロリア・スワンソンが「主役」になるのだけれど、主役がどれだけ演技をしても映画にはならないときがある。特に、この映画のように過去の映画を生きる狂気を描いたものは、どうしたって強烈な演技がスクリーンを支配してましって、迫真に迫れば迫るほど嘘っぽくなるという逆効果も生まれがちである。
 そうならないようにするためには、周囲のほんの小さな人物をていねいに描くことが大切である。一瞬登場するだけの人物にも「過去」を明確にあたえ、そこにほんものの時間を噴出させるということが大切である。
 この映画は、そこがとてもよく描かれている。
 たとえば、グロリア・スワンソンがウィリアム・ホールデンに服をあつらえてやるシーン。店員がコートを2枚持ってくる。ウィリアム・ホールデンは安い方のコートを選ぶのだが、店員は「高い方にしなさい。お金を払うのはあなたではなく、女なのだから」と耳打ちする。あ、すごいねえ。店員は単に高いものを売れば利益が上がるからそう言っているのではないのだ。そういう金のつかい方をする「人種」がいることを知っていて、そのことをウィリアム・ホールデンに教えているのだ。店員の教えには、店員が客と向き合うことでつかみとった「真実」がある。ほんとうのことが、そこでは演じられているのである。
 グロリア・スワンソンが撮影所を訪れたとき、昔からいる照明係が彼女の名前を呼んで、ライトを当てる。それにスワンソンが応じる。その瞬間に、過去があざやかによみがえる。その過去にはスワンソンだけがいるのではなく、照明係も生きている。名もない「脇役」が狂っている大女優の「現実」を支えている。
 これは--どういえばいいのだろうか。狂っているのは大女優だけではないということである。大女優の狂気は、彼女をとりまくすべての人の狂気であるということだ。テーラーの店員も照明係もまた大女優と同じような「狂気」をどこかに隠している。それは、いまは見えないだけなのである。大女優がいるから、見えないだけなのである。
 そこで、最初に書いたことに戻るのだが……。
 映画がおもしろいのは、そこに人間がリアルに描かれているときである。たとえそれが大女優ではなく教師であっても、その人が生きている姿そのままに描かれれば、そこから映画がはじまる。--それは、脚本家を夢見ている若い女性そのもののことでもある。この映画では売れなくなった大女優が主役を演じているが、脚本家志望の若い女性が主人公であってもいいのだ。彼女から始めるストーリーがあってもいいのだ。
 大女優の狂気を描きながら、つまり映画の過去を描きながら、この映画は逆に映画の未来をも描いている。なんでもない市民が主人公になり、なんでもない日常が描かれる。そこに生きる人間の「生きる」姿がそのまま描かれる--そういう映画を目指している人間が、この映画のなかに、すでに描かれている。
 ビリー・ワイルダーは映画の予言者でもあるのだ。


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