詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(148)

2014-08-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(148)        

 「玄関の広間の鏡」は「同じ空間で」の続編として読むことができるかもしれない。ここではカヴァフィスは「玄関の広間の鏡」になって男色の世界を書いている。「同じ空間で」はカヴァフィス自身が「街」になったが、「街」ではあまりにも「世界」が広すぎる。「感覚」が絞りきれない。「鏡」では、その「感覚」が「視覚」に限定されて、男色の世界が繰り広げられる。
 豪奢な屋敷の玄関の広間に、買い入れて八十年はたつ鏡がある。ある日、洋裁師の女子が包みをもってやってきた。領収書が来るまでの間、少年は鏡に向かって、少し身繕いをした。そして、去っていった。

だが古い鏡は悦ばしく嬉しい。
長い生涯にずいぶんさまざまなものを眺めたけれど、
今日までの幾千幾万の事物や顔貌はメじゃない。
一瞬ではあるが一分のすきもない美しさを今抱擁した誇り--。

 鏡の中に少年をすっかり取り込んだ。全身をくまなく映し出すことで、彼を自分のものにした。それは眼によるセックスである。
 そういうことはカヴァフィスには実際にあったのかもしれない。セックスはしていないが、眼でしっかりと理想の美しさをつかみ取って、そのことに興奮したということが。あるいは日々、「幾千幾万の事物や顔貌」を超える真実の美を探していたのかもしれない。「メじゃない」という「口語」は、視覚の眼をつよく意識した中井久夫の訳語だと思う。原文は「眼」とは違うことばかもしれない。

 この詩には、いま書いた「意味」を超えて、とてもおもしろい「訳」がある。

ネクタイをちょっと直した。五分たって領収書が来た。

 この「領収書が来た」ということばのスピード。現実には領収書が自分でやってくるわけではないから、「領収書が運ばれてきた」あるいは「領収書をもって召使があらわれた」であろう。けれど少年にとって問題は領収書だけなのだから「領収証が来た」で充分なのである。
 この部分は森鴎外の「寒山」に似ている。そのなかに、たしか「水が来た」という短い文章があった。奥から水が運ばれてくるのだが、それを「水が来た」と言い切る。余分なものが削ぎ落とされ、ことばが早くなる。
 そういう速さのあとに「長い生涯に……」ではじまるゆっくりしたことばが動く。そうすると、緩急の変化のために書かれていることがいっそう印象的になる。「一瞬」と書かれている最終連の喜びが充実したもの、長くゆったりしたもののように感じられる。
 中井久夫は雅語、俗語、漢語などを自在に駆使しているが、多くの作家の文体をも下敷きにしてことばを動かしているかもしれない。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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宮尾節子『明日戦争がはじまる』(2)

2014-08-16 09:42:55 | 詩集
宮尾節子『明日戦争がはじまる』(2)(思潮社、2014年07月28日発行)

 詩は「ことば」である。ことばの発見。「石巻ボランティア日詩」には「ことばがない」という状況から出発して「ことばを発見する」過程が書かれている。特別新しいことではないのだが、いままで見すごしていたこと(あまり意識しなかったこと)が具体的に、丁寧に書かれている。
 瓦礫をバケツリレーのように建物(二階)から運び出す場面。

「重いもの行きます」と上から、声がかかって。その言葉が、物といっしょに申し送られていく。

「言葉の発見だ」とおもった。それを受けて、階段上部に居たわたしは、これはわたしの担当だなと感じて。もう少し、言葉に修辞(おひれ)を加えることをしてみた。おそるおそるだ……。たとえば。「上を持つと楽です」「角に釘が出ているので注意」。すると。こだまのように。「上を持つと楽です」「上を持つと楽です」……「角に釘が出ているので注意」「角に釘が」……伝言ゲームのように。わたしが上乗せした言葉が、人から人へとつぎつぎに申し送られていく。物といっしょに。

 宮尾は「言葉が、人から人へとつぎつぎに申し送られていく。物といっしょに。」と書くが、これは逆で、「物が、人から人へとつぎつぎに申し送られていく。言葉といっしょに。」であり、さらに言えば、「物が、言葉(ひとの声)から言葉(ひとの声)へとつぎつぎに申し送られていく。人の手で(人の肉体/声といっしょに)。」ということだと思う。ことば(声)が物を運んでいる。人の肉体はことば(声)になって、物を運んで行く。言い換えると、ことば(声)がないと、物は運ばれない。運ばれるにしても、スムーズではない。ことば(声)が「現実」を動かしている。ことばにはそうした力がある。--宮尾は、ことばの力を発見している。
 宮尾は「修辞(おひれ)」と書いているが、そのことばは「修辞」ではなく「核心(本質/思想/力)」である。「上を持つと楽」というのは「肉体」の声である。本音である。「角に釘が出ているので注意」も同じ。それは「肉体」が発見した「こと」の「本質」であり、そこには「思想」がある。他人への「配慮」がある。そのとき他人というのは、同じ「肉体」をもって、同じ「こと」をしている人間のことであり、そこでは「肉体」は複数あっても「ひとつ」である。「ことば」が複数の「肉体」をひとつにするとき、そこには「思想」がある。「思想」だけが「他者」と「自己」をひとつにする。「肉体の配慮」だけが「他者」と「自己」をひとつにする。
 これは、美しい。
 これに先立って、宮尾は「畳」を敷いて足場を安定される作業に触れて、「文体」の発見ということを書いているが、「上を持つと楽です」「角に釘が出ているので注意」というのも「肉体」のために開かれた「文体」である。「思想」の発見である。

 「きれいに食べている」もまた「声(思想/肉体)」について書かれた詩である。瓦礫の下から息子の弁当箱を見つけた母親は、

『きれいに食べている』と嗚咽(おえつ)したという。

 息子の元気な肉体(いま、そこにはいない)を見たからである。
 「生きていた」証を、見たからである。
 「生きている」証は、それと気づかずにいつも見ていた。見ていたけれど気がつかなかった。それが見えなくなった瞬間に、ふいにあらわれて、母親を嗚咽させた。

台所で、いつでもそばにあった、ことば。
お弁当箱を開けるだけで、いつも出てきた、ことば。
「あ、きれいに食べている」

胸の中で、くりかえし、つかった、普段のことば。
瓦礫の中から、弁当箱といっしょに出てきた、わたしのことば。
「きれいに食べている」

 母親は、いつも息子が弁当をきれいに食べていることを喜んでいた。それで元気を確認して安心していた。それは普段使っているときは「意味/思想」をもっているとは思っていなかった。暮らしに溶け込んでいた。普段の暮らしのなかに「思想」があるとは、ふつうは思わない。あたりまえのこととしか思わない。
 その「あたりまえ」こそが「思想」であり、人を結びつける。
 バケツリレーで瓦礫を運ぶ。「上を持つと楽」「釘があるので注意」というのは、そのことばが必要になったとき、突然、「普段の暮らし」の奥から「思想」というものの純粋な形としてあらわれてくる。
 「きれいに食べている」ということばといっしょに、母親が息子のために弁当をつくる、息子がそれをきれいに食べるという「あたりまえ、食べている息子は元気に生きているという「あたりまえ」が、いま、いちばん大切な「あたりまえ」のこととして甦ってきた。それは普段の暮らしの中では、こころのなかで思うだけのことばだったけれど、いま、胸を突き破って、肉体を突き破ってあらわれ、「あたりまえ」のことがそこにないことを厳しく訴えるのである。
 「あたりまえ」は普段は「あたりまえ」のことなので、よく見えない。「思想(キーワード)」が「肉体」に染みついていて、ふつうはよく見えない(無意識のまま動いている)のと同じである。それは、ある日、突然、「ことばになる」必要があって「肉体」の奥から突然あらわれる。「思想(ことば)」は遅れてやってくる。
 阪神大震災のあと、季村敏夫は『日々の、すみか』(書肆山田)で、「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、ことば(思想)は遅れてあらわれるしかない。思想はふつうは意識されないものなのだ。「上を持つと楽」「釘が出ているから注意」というようなことは、ふつうは人から人へと伝達するようなことではない。けれど、必要があって、いつもつかっていたことが「遅れて(いまになって)」突然明確な形となって動いていく。そういうことが「暮らし」では起きる。いつもは無意識に動いていた「思想」が「ことば」となって人から人へと伝わり、物を動かす力となっている。
 弁当を「きれいに食べている」ということばは、何もなかったら、そのまま「暮らし」のなかに隠れている。息子が不明になって、ふいに「きれいに食べる」ということばのなかに「肉体」が見えてくる。息子の「肉体」は、そのことばといっしょに「遅れて」あらわれたのだ。「肉体」をひきつれて、あらわれたのだ。
 もっと早く。
 そう、もっと早く、
 いや、違った、
 その「きれいに食べている」が「遅れて」あらわれたら、いや、「遅れて」あらわれることがなかったら、悲しみもあらわれない。母親の嗚咽もない。
 「思想」は遅れてあらわれる。「思想」はつねに遅れるしかない。

 ことばはいつでも「遅れる」。だからこそ、あらわれたときに、そのことばをしっかりと書き残さなければならない。書き残されたことばがあってこそ、つぎにことばが動くときの支えになる。
 肉体とことば、思想とことばの関係が、東日本大震災によって揺さぶられ、いま、まためざめて動きはじめている--そういうことを感じさせる詩集だ。

明日戦争がはじまる
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谷川俊太郎の『こころ』を読む
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(147)

2014-08-16 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(147)        

 「同じ空間で」も男色の詩である。ただし、ここには相手の男は出て来ない。「空間(家々、カフェなど)」が出てくるだけである。短い詩だ。全行を引用する。

家々、カフェ、そのあたりの家並み。
歳月の間にけっきょく歩き尽くし、眺めおおせた。

喜びにつけ悲しみにつけ、私は刻んだ、きみたち家々のために、
数々の事件で多くの細部を。

私のためでもある。私にとってきみたちすべてが感覚に変わった。

 これは多くのカヴァフィスの男色を描いた詩と同じように、感想を書くのが非常に難しい。「小説」なら「数々の事件」「多くの細部」を丁寧に書くだろう。詩も、そういうものを書くのが普通である。自分が体験した「独特のもの」、自分だけの視点をことばにする。そうすることで、体験が「自分の感覚」になる。そして、その「感覚」をこそ、読者は読むのである。自分ではつかみきれなかった「感覚」を詩人のことばをとうして、「あ、あれはこういうことだったのか」と遅れて発見する--それが詩にかぎらず、あらゆる文学との出会いである。
 ところがカヴァフィスは、彼自身の「独自の感覚」を少しも書かない。「感覚に変わった」と書くだけなので、そこにあるであろう「街」とカヴァフィス自身のなかの「感覚」がどういう関係にあるのか、読者にはさっぱりわからない。
 ただカヴァフィスが、その「街」で体験したことを自分の経験にしたという「こと」を抽象的に知るだけである。その「街」で長い年月をすごした。その街を歩き回った。家は安い宿かもしれない。そこでカヴァフィスは自分の体験を豊かにしただけではなく、他人の引き起こす事件も見たのだろう。間接的な体験だ。そういうものも含めて、街のどの部分を見てもカヴァフィスは、その「とき」を思い出すことができる。
 ある意味で、カヴァフィスは男色の相手と恋をし、セックスしただけではなく、その街(安宿やカフェ)そのものともセックスをしたと言えるのかもしれない。「家々」のことを「きみたち」と人間のように呼んでいるのは、カヴァフィスにとって「街」そのものが「人間」であるということの証拠かもしれない。
 恋人は現れ、また去っていく。けれど「街」は去っては行かない。そこへ行けば「時」を超えて、あの瞬間があふれてくる。よみがえってくる。そして、また新しく「時」を刻みはじめる。そうやって「感覚」は豊かになっていく。
 こういう詩を読むと、カヴァフィスはごくごく親しい人にだけ向け詩を書いていたのかもしれないという気がする。知らない人に読ませるのではなく、会ったことがある人、顔見知り、互いの感覚を知っている相手にだけ向けて詩を書いていたのだと感じる。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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宮尾節子『明日戦争がはじまる』

2014-08-15 09:56:59 | 詩集
宮尾節子『明日戦争がはじまる』(思潮社、2014年07月28日発行)

 宮尾節子『明日戦争がはじまる』には東日本大震災について書かれた詩がたくさんある。とても印象的だ。いくつかについて感想を書きたいが、きょうは、「つけてください」の一篇を取り上げる。

ただひとつ、
お願いがあります

福島第一原発に
東電をつけてください
東電福島第一原発にしてください

つくのと
つかないのとでは
大きくちがいます

福島第一原発に
東電をつけてください
東電福島第一原発にしてください

ちいさな
ことではありません

福島第一原発に
東電をつけてください
東電福島第一原発にしてください

風評被害に晒される
福島に

東電を
つけてください
東電福島第一原発にしてください

他に申し上げることは
何もありません

 福島県在住一市民より。

 読んで、申し訳なかった、と感じた。
 私は「東電福島第一原発」と書いたことがなかった。「福島第一原発」と書きつづけてきた。「福島第一原発」ということばが「流通」しているので、それを安易に使っていた。「東電(東京電力)」は意識の中にぼんやりとは動いていたが、明確に存在していなかった。
 それは、ある意味では「東電」を忘れることである。あるいは「東電」を隠蔽することである。
 「肉体」は(「意識」は、とは私は書きたくない)、ことばをとおって動く。ことばがあるところにしか動いていかない。このことは、宮尾が他の詩篇で正確に書いているが、それについては後日触れることにして、きょうは「ほんとうに申し訳なかった」と書くことに専念する。

 どうして「東電福島第一原発」と書かずに「福島第一原発」と書きつづけたのか。ひとつは、私の仕事がなるべくことばを短く使用するということにかかわっているからかもしれない。しかし、そんなことは「事実」とは無関係である。「真実」とも無関係である。単なることばの経済学の問題である。
 「福島第一原発」というとき、そのことばとともに「福島の人々」は「福島」ということばといっしょに動いている。しかし、その人々の「声」を私は聞いていなかった。「声」に耳を傾けていなかった。福島の人々の「声」を聞かなくても、原発事故の重大性が判っているつもりになっていた。大変な事故だ。終息のめどがつかない……。
 いろいろな情報が飛び交い、その情報を理解するのに手一杯で、福島で実際に暮らしている人の「声」を私は聞いていなかった。福島の人の「声」よりも科学者の「声」の方が重要に聞こえた。彼らの「声」は「原発事故」に集中していて、「福島第一」ということばを取り払って事故に対応している。当然「東電」ということばも省略して、原発の構造、炉心、汚染水など、物理(科学)のことに専念している。そうしなければ「科学」のことばは合理的に動かないから、そうするしかないのだが。
 私は科学者でも何でもない。そして科学者の言うことばを聞き、それに対して何か言えるわけでもない。それなのに科学者の言うことだけが「真実」だと思い込んでいた。
 だから「福島第一原発」で充分だと思っていたし、「原発事故」でも思考できると思い込んでいた。
 東電福島第一原発の事故にかぎらず、東日本大震災によって起きたさまざまなことがらには、さまざまな局面がある。そのどれに向き合えるかは、ひとそれぞれによって違う。どんなことも、そのひとにとってはいちばん大事である。いま、目の前にあることがいちばん大事。そして、その「いちばん」は、そのひとにしかわからない。
 どんなことも「一対一」で起きる。
 私は一度も福島のひとと「一対一」で向き合ったことがない。「情報」のなかの「福島の市民」しか知らない。「情報」のなかでは「市民」は一定の姿に処理・加工されてしまっている。「声」を省略され、何かの事象(ことがら)との関係で語られている。--こんなふうに書いてしまうと、なんだかとても冷たい表現になってしまうが、「情報」のなかには一人一人の「声」は見逃されている。
 その「声」のなかに「福島第一原発」ではなく「東電福島第一原発」と言ってほしいという「声」もあったはずなのに、他の「声」の陰に隠れてしまっている。見落とされている。

 「福島第一原発」ではなく、「東電福島第一原発」と言うとき、そこに「東電」が解決しなければならない問題があることがわかる。「電力会社」が解決しなければならはない問題があることがわかる。「電気」が解決しなければならない問題があることもわかる。「肉体」は必ず「暮らし」(電力)をとおって、「東京電力」という会社にまで動いていく。そういうことばで「原発事故」のことを語らなければならない。
 「東電」をつけてくださいと最初に言ったひとは「風評被害」を念頭においていたのか。東電の責任を明確にしろと怒っていたのか。怒りがいちばん大きい私は想像するが、はっきりしたことはよくわからない。しかし、ここには私は「風評」を超える問題、東電に対する怒り、東電の責任を追及するという問題を超える何かがあると思う。「生きる(暮らす)」と「ことば」をもつことの問題がそこにあると思う。何をことばにするか。何をことばにすれば「肉体」が動くのか。
 この詩では、そういうことは声高に語られていないが、宮尾はそういうことに気がついているのだと思う。その後の詩の展開を読むと、そう思う。

 きょうは、何はともあれ、ほんとうに申し訳ありませんでした、とそれだけを書いておく。これからは「東電福島第一原発」と必ず書きます。


明日戦争がはじまる
宮尾 節子
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(146)

2014-08-15 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(146)        

 「聞け、おまえはスパルタの王ぞ」は「スパルタにて」のつづき。カヴァフィスは史実を何度も詩にしている。王クレオメネスが母親を人質として差し出す。その直前のことを書いている。

つとわが子の王をやさしく抱き寄せ、くちづけした。
ここで王妃の勁きこころは立ち直った。
威厳を取り戻した堂々たる王妃は
王クレオメネスにのたもうたそうな、「聞け。おまえはスパルタの王ぞ。
今出ればもはや、誰にもみせるな、泣きっ面はもとより
スパルタにふさわしからぬふるまいはこれ皆すべて。
このことのみはなお我が権力のうちにあり。
いく手にあるはすべて神の御手の中なり。」

 王妃がほんとうにそう言ったのか、あるいはカヴァフィスの創作か。
 いずれにしろカヴァフィスが書きたかったのは、王妃の「声」の強さである。「声」を支配する「主観」の明確さと言い換えてもいい。「主観」、つまり自分のものであるからこそ、それを自分で制御できる。主観は「我が権力のうちにあり」ということ。
 母は、それを息子に伝える。おまえも「主観(感情)」を自分でコントロールして、スパルタ人にふさわしくない振る舞いはみせるな、と。運命がどうなろうと、それは神任せ。しかし、自分の感情は自分で支配する。自己の王(権力の支配者)は自分である。
 中井久夫は、この強いことばを「口語」と「文語」をまじえながら表現している。
 「口語」では、ことばの強さは「王ぞ」の「ぞ」という濁音、「泣きっ面」の「っ」という促音、それぞれ息が声になる瞬間に力がこもる「音」とともにある。一方、「文語」では「うちにあり」「中なり」という抑制のきいた静かな「音」とともにある。この対比が、非常に音楽的でおもしろい。
 全部が「口語」、あるいは「文語」では、この音楽は生まれない。こういう「声」の瞬間的変化を音楽として響かせることばづかい、中井の訳は、魔術的な魅力にあふれている。話者の精神の動きの速さを再現していて、驚くばかりだ。
 この複雑な変化があるからこそ、「今出ればもはや、誰にもみせるな、泣きっ面はもとより/スパルタにふさわしからぬふるまいはこれ皆すべて。」という倒置法の文が生きてくる。この倒置法は何かを強調させるための倒置法ではなく、意識をことばが追い越して出てしまったための倒置法である。「誰にもみせるな」といういちばん大事な「主張(主観)」が先に肉体から飛び出してしまう。そのあとで、何をみせてはいけないかという「主題」が出てくる。「口語」(瞬間的なしゃべりことば)を「文語」(主題を意識することば)が追いかけて、それをのっとるという感じか。
 しかし、おもしろいのは、こういうことばに触れたとき明確に感じるのは「意味」ではなく、ことばの呼吸、ことばを発している人間の「肉体」のリアリティーである。「声」化されたことばは、話者の「肉体」そのものなのだ。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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今井好子『揺れる家』

2014-08-14 10:08:08 | 詩集
今井好子『揺れる家』(土曜美術社出版販売、2014年07月07日発行)

 今井好子『揺れる家』は現実と気持ちのずれ(ゆらぎ)のようなものがあって、その「ずれ」から今井が見えるようで興味深い。
 「ずっと気になっていることがあって」と「ウェットスーツのある部屋」が特におもしろいが、「ウェットスーツ……」の方を引用しよう。

預かりものの中身が気になり そっとのぞくと
飛び出したのはウェットスーツだった
男物の黒色の合成ゴム
それは人の形にひろがりだらりと所在なくて
海から離れた小さな私の部屋を埋めた

持ち主は一向に取りに来る気配がない
いや預かって以来全く連絡がない とれない
ウェットスーツはクローゼットの端でしずまっている

 預かり物がかなりかわっている。ほんとうにあったことなのか、ことばだけの世界なのかわからないが「それは人の形にひろがりだらりと所在なくて/海から離れた小さな私の部屋を埋めた」がリアルだ。「だらり」はウェットスーツの質感のようなものなのだが、まるでだらしない人間を見るような不気味さとなつかしさのようなものがある。ウェットスーツを見ながら、それをあずけた人を思い出しているのか。「海から離れた部屋」に「海」はないのだが、「海」とウェットスーツのつながりから、まるで部屋が海になったような気もしてくる。ウェットスーツを着れば、部屋中が海面下(海の底)になってしまいそうだ。「だらり」としたウェットスーツをみながら、それが生き生きと動いているシーンを連想したりしているのかもしれない。ほんとうは、ここにあってはいけない--そう感じているのかもしれない。
 だから、最終連、

床でクローゼットのウェットスーツを抱きしめると
強く抱くと柔らかな体は腰のあたりからそり返り
長い腕がますますたれさがる
ウェットスーツと一対になって夜の底へ
底から底へ 落ちていく

 なんだか忘れてしまった男とセックスをしているような感じ、セックスを思い出しているような感じだ。セックスは海を感じさせるのだろう。「長い腕がますますたれさがる」には、一種の無気力、倦怠感のようなものがあって、それがさらにセックスを感じさせる。エクスタシーを追い求め、つかみきれず、どんと深みへ落ちていく感じ。あ、男は「ひと」ではなくて、ウエットスーツの「人の形」になってしまったのか。
 と勝手に妄想、誤読するのだが。
 私が、これはおもしろい、と思ったのは実はそういう部分ではなくて。省略してきた4連目。

バケツを買いに行った日
あの日も海とは無縁だった
同じ形のバケツが積み重なり
それなのにしばし迷って
バケツの底に底があり 底に底がつらなってた
ようやく上から三番目を買い求めたのだった

 ウェットスーツとは関係がない。「海とは無縁だった」と「海」が出てくるが、そういうふうに思い出す「海」とは関係があっても、直接的ではない。ウェットスーツが少し気になっていて「海」が姿をあらわしたのだろう。
 そのあとのバケツ選びは、もっと海とは関係がない。バケツ-水(海)-ウェットスーツというつながりはあるかもしれないが、まあ、これは強引な後出しじゃんけんのようなつながり(意味)である。
 それよりも。
 同じ形のバケツ。あたりまえだが、それは積み重ねて売っている。どこの日用雑貨品売り場でも見かける光景なのだが。そこでバケツを買うのに、

バケツの底に底があり 底に底がつらなってた
ようやく上から三番目を買い求めたのだった

 この「バケツの底に底があり 底に底がつらなってた」という余分な描写と「ようやく上から三番目を買い求めた」という実際の行動の関係が、
 あ、これはいいなあ、
 と思わず声が漏れてしまう。
 だれもが感じていて、だれもが無意識にそうしてしまうようなこと(書店でなら積み重なった本の上から三冊目を買うというようなこと)が、リアルに書かれている。
 このリアルさは、まるで「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い」である。
 突然、何かが活性化する。
 ウェットスーツを預かるというのはだれもがするようなことではない。そういう非日常とバケツを買う(上から三番目を選んで買う)という日常が出会うことで、ウェットスーツの非日常の中に日常が入り込んでいく感じがする。単にバケツを買うではなく「上から三番目」を選んで、自分でバケツを持ち上げて、一個取り出して、また積み重ねるという「肉体の運動」が、それまで起きたことを全部「リアル」そのものに引き寄せてしまう。この力はすごい。
 で、このあとに先に引用したセックスを連想させる最終連がくるのだが、いま感じたばかりの「リアル」があるので、最終連の「底から底へ」がごくごくありふれた「日常」の強さ、たしかさで迫ってくる。

 「小さなあしかショー」も、芸をしているあしかと見ている「私」がいれかわる、さらに「あしたになった私」と「中年男」がいれかわるという非日常を描いているのだが、そしてそれなりにおもしろいのだが、「バケツ」のような「リアル」な現実描写がない。だれもが知っているのに、だれもかかなかったような「日常の肉体」というものがない。それがこの詩を「現実」ではなく「空想」にしてしまっている。「中年男」の描写が「血色悪し ズボンの裾にほつれあり」というくらいでは「流通概念」の「中年男」にすぎない。
 掘り起こされた日常こそが詩なのだ。掘り起こすという行為が詩なのだ。

揺れる家
今井好子
土曜美術社出版販売
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(145) 

2014-08-14 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(145)        

 「美しい白い花」は男色の三角関係を描いている。

彼は、ふたりがよくいっしょにすわったカフェに行った。
ここだ。三月前だ。あの子は宣言した。
「ぼくらのあいだはもうおしまい。ふたりで
いちばん安い宿から宿へとさまようばかり。もういけない。
ウソを吐いても始まらぬ。あなたの相手はもうできぬ。
言ってしまえば、世話をしてくれるひとが別にできたの」
だれかさんはその子に約束していた。スーツを二着。絹ハンカチを何枚か。

 恋人を結びつけるのは、愛情か。肉欲か。あるいは金銭か。--そのことを詮索しても、あまりおもしろくはない。それは、たぶん、詩にとってはどうでもいいことである。
 詩にとって重要なのは、そういう「事実(こと)」が「ことばになる」ということである。三角関係と金銭。金のある男が恋人を奪う--というのは「愛」(感情)を基本に考えると美しいことではないが、それが美しかろうがなかろうが、人間はそういう具合に動いてしまうということがある。
 それをことばにするか、しない。
 男色の詩は、カヴァフィス以外にも書いているだろう。カヴァフィスが独特なのは男色を描くのに「美辞麗句」を使わないことだ。男色家のだれもが持っている「現実」をそのまま書いている。隠したい「現実」をさらけだしている。
 「事実」が書かれている。「事実」は書かれてしまうと「真実」になる。「真実」になってしまうと、それが人間のどんなに醜い部分を描いていたとしても、それは「詩」になる。だれも書かなかった、誰かに書いてほしいと思っていた「詩=絶対的なことば」になる。
 この詩には、ストーリーがある。「あの子」は三角関係の成れの果てなのかどうかわからないが、殺されて死んでしまう。「あの子はもうスーツを欲しがらない。絹のハンカチも全然。」という具合になってしまうのだが、そういう劇的なストーリーよりも、その前に書かれる「超リアルな現実」のことばの方がはるかにおもしろい。

彼は自力でその子を奪い返した、
口には出せぬ手段で巻き上げた二十リラで。
(略)
だれかさんはウソ吐き。まったくイカサヌ男だ。
仕立てのスーツはけっきょく一着。
それもねだって、さんざん拝み倒してだ。

 何も「美化」しようとはしていない。ただ「現実」を「現実」のまま書こうとしている。「現実」からしか「真実」が生まれないことをカヴァフィスは知っている。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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ゲイリー・フレダー監督「バトルフロント」(★★★)

2014-08-13 23:02:02 | 映画
監督 ゲイリー・フレダー 脚本 シルベスター・スタローン 出演 ジェイソン・ステイサム、ジェームズ・フランコ、ウィノナ・ライダー、ケイト・ボスワース



 B級映画のごくごく普通のできの作品なのだが。
 ちょっと書きたいことがある。脚本の細部が意外と丁寧なのだ。
 冒頭、橋のシーンが出てくる。バイクでいかつい男が走ってくる。何でもないのだが、この目立った登場の仕方が、「伏線」になっている。
 ラストの方、ジェイソン・ステイサムを殺しにマフィア(?)が小さな街へやってくる。とても目立つ。ジェームズ・フランコが「何で何人もでやってきた。これじゃ、目立ってしまう」とウィノナ・ライダーを苦情を言う。(ウィノナ・ライダーせ「知らない、私のせいじゃない」というようなことを言うんだけれど。)
 もちろん道路を、つまり街中をとおって彼らが動けば目立ってしようがないのだけれど、彼らは移動にボートをつかう。木々のなかの川を(沼を)動くので目立たない。土地(風土)を利用する。これが、ちょっとにくい。犯罪者はバカではない、というか、バカだと犯罪もできない。
 アクション映画なのだけれど、アクション一辺倒ではなく「頭脳戦」の様相も含まれている。これが、なかなかにくい。
 少し脱線したけれど、橋にもどろう。最初の橋とは違うのだけれど、ラストのクライマックスに橋が出てくる。ここで橋に「意味」をもたせることもできるけれど、まあ、そんなことはしない。ただ、あ、橋か、うまいなあ。最初のシーンを思い出させて、映画の最初と最後が円になってつながるようで、「完結感」が生まれる。
 さらに、この「完結感」に、ジェイソン・ステイサムがジェームズ・フランコを殺そうとする瞬間を娘が見つめ、さすがに娘の前では人を銃殺もできず……というシーンがあり、それがこのストーリーの麻薬マフィアのボスの目の前で息子が殺されるシーンとも重なって、お、よくできているね。最初のシーンが伏線になって甦るなあ、と感心させる。アクションなのに情感がにじむ。
 で、伏線の話をすると、ひとつ、非常にこころにくい伏線がある。
 ジェイソン・ステイサムがジェームズ・フランコの麻薬工場を見つけ、そこで作業をしようと電気のスイッチを入れたら工場が火災、さらに爆発するという工作をする。その工場にジェイソン・ステイサムの娘が誘拐され、ジェームズ・フランコの妹役のケイト・ボスワースがあらわれ……説明すると面倒なので端折るが、無意識に工場の電気のスイッチを入れる。火災、爆発が起きる。それはジェイソン・ステイサムの想定したことと半分合致し、半分違っている。ジェイソン・ステイサムは麻薬製造中に爆発が起きることを想定していた。だから、これは一種の伏線外しになるのだが、ここが、うまい。脚本(シルベスター・スタローン)の華とでも言えるシーンだ。
 映画を見ている観客は何が起きたかわかるが、ケイト・ボスワースには何が起きたのかわからない。(ジェームズ・フランコは、何となく想像できる。)そこにいる登場人物が何が起きているかわからないと感じるその一瞬のリアリティーが、すごい。あ、こんなところで爆発が起きてしまう、想像していたのと違うと観客自身が、自分の想像力を裏切られたために、影像に引き込まれていく。想像したいた通りのことが起きたときも影像に引き込まれるが、想像を裏切られたときの方が強く引き込まれる。映画であることを一瞬忘れる。
 (ケイト・ボスワースは美人だし、うまい役者なのに、最初はとても嫌な女として登場するので、うーん、残念だなと思っていたのだが、そうか、このシーンのために彼女が起用されたのだとわかる。--まあ、これは感覚の鋭い観客なら何かあるぞと見通していたことかもしれないけれど、私はぼんくらなので、そこまでは想像しなかった。)

 で。結論。
 この映画は、シルベスター・スタローンの脚本がいい。途中で銃で撃たれたはずのジェイソン・ステイサムがまるで撃たれなかったかのように暴れ回るのは変ではあるのだが、アクションシーンがしつこくないのもいい。ジェイソン・ステイサムのクール路線を生かすためにそうしたのかもしれないが。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(144 )

2014-08-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(144 )        

 「アレクサンドロス・ヤナイオスとアレクサンドラ」は次のようにはじまる。

成功に陶酔し、しんそこ満足して
王アレクサンドロス・ヤナイオスと
その妻・王妃アレクサンドラは
イェルサレムの通りを闊歩する。

 この詩にかぎったことではないがカヴァフィスのことばそのものには「詩的」という印象が少ない。いや、まったく詩的な印象を欠いている。一行目の「成功に陶酔し」という書き出しは説明的な散文の響きである。「しんそこ満足して」も単なる説明に過ぎない。どこに詩人の工夫(詩人にしか書けないことばの奥深さ、ひと目をひく美しさ)があるのかわからない。二行目、三行目は「固有名詞」なので、手の加えようがない。四行目も味気ない。「闊歩する」を何か他のことばで言い換えないと詩とは言えない。
 さらに、この詩は、

楽隊を先頭にして
あらゆる贅を尽くしてきらびやかに--。

 とつづくのだが「贅」の具体的な描写がない。「きらびやか」の具体的な描写もない。つまり、個性的なことばというのもが完全に欠けている。簡便な歴史の教科書にさえ、贅のひとつやふたつの具体例が書いてあるだろうに、カヴァフィスはそれを書かない。
 なぜだろう。
 カヴァフィスは、「贅を尽くしてきらびやかに」と書けば、それで通じると思っている。つまり、この詩を読むひとは「贅を尽くす」ことがどんなことか、「きらびやか」とはどんな様子かを知っていると確信している。「成功に陶酔し」も、どういうことかわかっている。「しんそこ満足して」というのも、わかりきっている。
 そういうことを前提としている。
 だから余分な修飾語や、個性的な表現をしない。
 これは、詩人の側からではなく、読者の側から、つまり「時代」(状況)の側からいえばどういうことになるだろうか。
 「時代」は「成長期」ではない。言い換えると、次々に新しいものが生まれ、「いま」を活性化させるという状況にはない。生まれるべくものはすべて生まれてしまった。新しいものは何もなく、周知のものが「熟していく」。熟すを通り越して下り坂に向かおうとしている。
 花にたとえるなら散る寸前。太陽にたとえるなら沈む寸前。まだ、そこにある。そして、それは「盛り」とは別の、不思議な疲労感、けだるさをまとっている。成熟へ駆け上った「時代」を生きてきたひとは、それを説明しなくても予感のように感じる。そういう読者を想定して書かれている詩だ。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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高橋秀明「診察室」

2014-08-12 11:30:34 | 
高橋秀明「診察室」(「LEIDEN雷電」6、2014年07月25日発行)

 高橋秀明「診察室」は何だかいかがわしい。いや「診察室」ということばから「いかがわしい」ことを想像するというのは「流通妄想」に過ぎないのだけれど。そんなものに飲み込まれてはいけない、と無理をしてあらがってもいけない、ええい、どっちなんだ、という気持ちになるが……。
 医師は「私」に対してカルテをみせる。そこにはサンズイに「亥」という文字が書かれている。

医師は私に確かめるように「さんずいはまちがいだよね?」と同意を求め「ごんべんがただしいのじゃないだろうか?」と訊いてきた。「先生、これはセキの字のつもりですよ。ゴンベンじゃなくてクチです。クチにこのイで『咳』が本当でしょう」と私は答えたのだが、医師は「そうかセキか」と言いながらもなおがってんがいかない様子で「セキってどう書いたっけかな?」と照れくさそうにあらためて尋ねてきた。

私は件の書類を「それ、よろしいですか?」と引き寄せると、「●」に「亥」と書かれた横にボールペンで「呟」としっかり書き付けながら、「クチにゲンで『呟(セキ』」ですと断言したのだった。しかし、書き上げた「呟」の字はいつもの字と異なっているようにも見え、すっきりしない感じがこみあげてきたがこんなことを間違える筈はないと思ったから、「前後の流れから言ってもこれは『呟(セキ)』で間違いないと思いますが…」と畳みかけて、医師も深く頷いたのだった。その石の頸の動きが正解を押し出す仕掛けであったのか、「呟」はツブヤキでありセキではないと私が思い当たったそのとき、
                  (注 ●はサンズイ、(セキ)も本文はルビ)

 「咳」を巡る漢字の勘違いのことを書いているのだが、その漢字の半分正解で半分間違いの揺れ動きが、なんとも「いかがわしい」。というか、あ、そうか「いかがわしい」というのはこういうことなんだなあ。
 ある状況を見て、ひとは、その前後を適当に考える。
 この詩のはじまりは、

「お楽しみですか?」と皮肉の意図もなしに思わず口にして、私は広い診察室に入った。一坪ほどの広さのガラスケースの中で四つん這いになった白い裸体を見た気がしたのである。だが実際には、私の前の患者と思われる女装男性が、下半身はパンティストッキングを穿いたそのままの姿で回転椅子に腰かけ、医師に背を向けてブラジャーのホックを後ろ手に留めようとしているところであった。

 である。見たもの(そこにあるもの)の「前」を妄想し、いかがわしいことを思う。実際は知らないのに、「過去」を「状況」から捏造する。「流れ」を捏造する。
 そういうこととは別のことも起きる。
 最初に引用した部分では、読めない漢字がある。その漢字をなんと読むか。わかっている「前」と「あと」をひとつの「流れ」と信じ込み、そこにあてはまることを「妄想」する。
 その「妄想」(想像といった方がいいのかもしれないけれど)は、「正解」のときもあれば、「誤解」のときもある。さらには「誤解」とどこかで気がついても、そのまま「誤解」を「正解」と言い張って暴走するときもある。
 これは、いったいどうしてなのかなあ。
 --ということは、ちょっと口で言ってみただけで、私は本気で考えていない。
 そんなことは、どうでもよくて。
 こんなことを、「論理的」な文脈の中で書きつづけることばの運動がおもしろいなあ、と思う。書き方が「誤解」を与えないように、ことばが暴走しないように、丁寧に丁寧に動いていく。
 そうか、妄想(いかがわしさ)というのは、乱暴な暴走ではなく、ねちねちと丁寧であることなんだなあ。丁寧なひとの接近というのは、なんだか、肌をぞくっとさせる。皮膚感覚を刺戟するが、そんなことを思ったりした。

 丁寧な「論理」のいかがわしさ、次の部分にもある。

間違いというのはそれが間違いであるかどうかはあらかじめ判りません。間違いは事後にしか判明せず、だから間違いに対しては予防することはできず償うことしかできないのです。あらかじめ判って避けることはできなくて、事後に取り消したいと念ずることだけが間違いを償う道であります。

 その通りなんだけれど、同じことを繰り返し違うことばで言いなおされると、そのしつこさに、なんだか吸い込まれてゆきそうな感じになる。そして、そのべたべたが、うーん、いかがわしい。こんなにしつこいのは「正しい」何かとは違うぞ……。

 まあ、私の感想なんか、どうでもいい。
 高橋の、この丁寧な文体の、丁寧さに「いかがわしい」と感じた、「いかがわしさ」の魅力を感じた、とだけ、「短く」言っておこう。「正しさ」を丁寧に追い求めると、変にいかがわしいものになるなあ、感じた。
 あ、これは、いい意味、評価して書いてるんだけれど。
 あとは、作品の全文を読んでください。

捨児のウロボロス
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(143)

2014-08-12 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(143)        

 「ミリス、アレクサンドリアびと、紀元三四〇年」は、恋人か、友人か、遊び仲間のミリスが死んで、その葬式に出掛けたときのことを書いている。キリスト教の家にははいらないと決心していたのだが、そんなことをいっていられない。出掛けてみると、親類の人が「私」のことを呆れ、不機嫌な目で見つめる。ミリスの死の原因が、その遊び仲間に原因があるからなのだろう。あるいは「私」が異教徒だからか。
 そういうことを簡潔なことばで書き進めたあと、さらに簡潔に、「大広間に死体を安置。/この隅からちらりと見える。/高価な絨毯、/金銀の器。」と周辺の様子が描かれたあと、ことばの調子が変わる。ミリスはキリスト者であってギリシャの神を信じているわけではないという思い出が語られる。生きている間は、それでも同じ生き方が二人を結びつけていた。しかし、葬儀がはじまると……。

突然、不思議な感じが襲ってきた。
ぼんやりそんな気がしたのだ、
ミリスが離れてゆくと。
あいつはキリスト者。あいつの民と合体して
私とは無縁な人になって行く。赤の他人に、そういう感じだ。
いや待て。あるいは
もともと情熱にだまされただけか。
元来無縁の人だったか。
連中のおぞましい家からとびでた。
逃げろ。私のミリスの思い出まで
キリスト教につかまって くつがえされるかも。

 ギリシャには複雑な歴史、激動の歴史があるのだと、あらためて気づかされる。宗教の対立、それは国家の対立でもあり、戦争の要因にもなっただろう。
 愛は、あるいは肉欲はといえばいいのかもしれないが、そういう精神的な対立とは無縁のところで生きている。だから宗教に関係なく、ひとは「恋人」になるが、死んでしまえば「恋」よりも宗教の方が人間を支配してしまう。「恋」は本人の意思だけで動くが、宗教はときに個人を否定して団結する。
 この詩では「ミリスの思い出まで/キリスト教につかまって くつがえされるかも」という形で、その「個人」と宗教のことが書かれているのだが、その「ミリスの思い出」ということばに、「私の」という強い限定があるところが、この詩の重要なところだ。
 ミリスに対しては誰もがそれぞれ思い出を持っている。親類はもちろんミリスをキリスト者としておぼえている。ところが「私」は違うのだ。世間一般のキリスト者とは違う生き方をしているミリスのことをおぼえている。その「私だけの」ミリスの思い出を、キリスト教の葬儀から「私」は救いだす。
 古代を題材にとりながら、カヴァフィスは、ここでも「現代」のことを書いているのだろう。複雑な国際環境のなかにあるギリシャに生きる理不尽を書いているのだろう。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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柴崎友香「春の庭」

2014-08-11 09:05:14 | その他(音楽、小説etc)
柴崎友香「春の庭」(「文藝春秋」2014年09月号)

 柴崎友香「春の庭」は第 151回芥川賞受賞作。
 一読して、長すぎると思った。長く感じるのは、小説のなかで登場人物が変化していかないからである。最初と終わりでは人間がかわってしまうというのが小説にかぎらず、あらゆる読み物(ことばでできた作品)の醍醐味なのだが、この小説では人間はまったくかわらない。だから、これは小説ではない。
 悪いことに、柴崎友香は、これを小手先の「手法」でごまかしている。「変化」がないのに「変化」を装っている。
 方法はふたつある。
 ひとつは、登場人物を複数登場させ、瞬間瞬間に「視線」を変えてみせる。「太郎」が見ている世界、女が見ている世界、「太郎」の姉(わたし)の見ている世界、という具合である。
 ふたつめは、「女」を「辰」に、さらに「西」へと「呼び方」を変えていくこと。「呼び方」を変えずに、その人間がどんなふうに見え方が変わってきたかを書くのが小説(太郎にとって女がどんなふうにかわり、その結果として自分がどんなふうに変わったかを書くのが小説)なのに、柴崎は呼び名(認識)が女→辰→西と変わっていくことが「太郎」の変化(女との関係の変化)と簡便に語ってしまう。(食べられなかった手作りの菓子を食べられるようになったという具体的変化のようなものもあるが、それは「女」の力によるものではなく、別の登場人物の登場による変化である。)
 女→辰→西というのは「記号」の変化に過ぎない。「記号」に頼って本質を書かないというところに、この作品のつまらなさが象徴的にあらわれている。
 柴崎が「記号」頼みで作品を動かしている欠点は、書き出しの3段落目で象徴的な形であらわれている。

アパートは、上からみると”「”の形になっている。

 だれが上から見たのか--ということは、それはそれで別の問題なのだが、このカギ括弧(話括弧)を「記号」の「形」のまま使っているのは、ことばの経済学からいうと合理的だが、これでは「文学」ではない。ことばになりにくい(ことばにしてこなかった)ものを、ことばで書くというのが文学の仕事を放棄している。(村上龍がこの問題を選評で指摘している。)
 アパートは二階建てで、それぞれの階に四室ずつある。三室は横に並んでいるが端の一室は直角にまがる形ではみ出している、など、いくらでも言い方はありそうだ。それをしないで”「”の形と省略している。文学は「意味」がわかればいい、というものではない。
 「女」の「呼称」の変化も、この「記号」と同じ性質なのである。
 「太郎」と「女」が交流を続けていくうちに、「女」は「女」から「辰」へ、「辰」から「西」へと個人の名前に変化していくように、印象が変わっていくと言えば、それで小説の「説明」、ストーリーの概略を語る補助線ができたような気持ちにさせるところが、小説としてはとてもくだらない。「太郎」にとって「女」がどんなふうに見え、その結果どんなふうに「太郎」が代わっていったのか、語りたくてしようがなくなる--というのがすぐれた小説である。私はそういう気持ちにはなれない。呼称が変わったと要約してしまえば、すべてが終わる。

 この小説は「人間」を描いているのではなく、「街」の変化を描いている。「街(家)」と人間の関係の変化である--という見方もあるかもしれない。たしかに、この小説のテーマは、次の部分に要約されている。

 空き家があるときは停止していた時間が、動いていた。家の中に誰もいなかった一週間前と、建物自体はまったく同じなのに、その場所の気配や色合いが一変していた。人がその中で生活しているというだけで、急に、家自体が生き返ったみたいだった。
                                ( 400ページ)

 これは女(西)の感想なのだが、「場所の気配や色合いが一変していた」では、「記号」にすぎない。「気配」がどう変わったか、「色合い」がどう変わったか、変わったということばを使わずに、具体的に比較してみせないと小説にはならない。いちばん肝心なところを「気配」「色合い」という「流通言語(記号)」で代用している。
 柴崎は、「気配」「色合い」の前にカーテンや自転車、三輪車などを書くことで変化を書いていると主張するかもしれないが、それを「気配」「色合い」という「抽象的言語」で要約し直してしまえば、何の意味も持たないだろう。
 だいたい、流し読みしただけで、ここが小説のハイライト、柴崎の「思想」のあらわれているところと、指摘できるようなものは「小説」ではなく、「概略」というものだろう。味もそっけもない。
 家の変化も過去に出版された写真集との比較という図式的で、それがわかりやすいといえばいえるが、なんとも図式的でばかばかしい。「過去(しかも、その過去にはだれも関与してこない不動のもの)」と「いま」の比較すれば違いがあるのはあたりまえ。「いま」の刻々と変わっていくもの、まだことばになりきれないもの、ことばになろうとするものを書いていくのが小説というものだろう。書きにくい部分を柴崎は全部省略し、「記号」化できるものを「記号」にしているだけである。
 小説というより、小説の「設計図」だね。

 ところで。
 この小説は、そういう欠点とは別に、非常に「巧み」な部分を持っている。ところどころに空白があって、その空白をはさんで「場面」が転換するのだが、その空白の直前の行が、とてもうまい。

 太郎は、足のかゆみに気づいた。この夏はじめて蚊に刺された。
                                (407 ページ)
 部屋に戻ると冷蔵庫が、どるるん、と音を立てた。
                                (412 ページ)

 具体的な事実があって、それが「余韻」となって作品をふくらませる。こういう文章を、それぞれの断章(?)の終わりにではなく、真ん中に書いていけば、「気配」とか「色合い」という「記号」で要約する必要がなくなるのだが。
 柴崎は、しかし、そういうことをしないで、かならず「最後」でそういう「余韻」の見得を切る。
 これは、私の印象では、長篇小説の手法である。たとえば「ボバリー夫人」(岩波文庫、伊吹武彦訳)から、少し引用すると、

年寄りの女中が出て挨拶し、夕食の支度のできていない詫びをいった。そして支度ができるまで、奥様はお家のなかをご見分なさいましとすすめた。
                                 (50ページ)
そしてエンマは「至福」とか「陶酔」とか、物の本で読んだ時あれほど美しく思われた言葉を、世間のひとはどんな意味に使っているのかを知ろうとした。
                                 (55ページ)

 その「つづき」があるはずなのに、つづきを書かずに中断する。そして別の場面へ変わっていく。「中断」された何事かを読者は自分で引き受けて、いつ終わるかわからない「物語」の中を動きつづける。長篇小説は、そういう「中断」があるからこそ、読みつづけられる。「中断」がないと、息が続かない。
 けれど短編は一気に読ませるものである。途中途中の「中断」に、書き切れなかった「変化」をこめてはいけない。
 なんだか、とても「ずるい」小説を読んだ気持ちになる。

 しかし、こんな、誰が(どの選考委員)が積極的に押したのかわからないような作品が「芥川賞」でいいのだろうか。(高樹のぶ子がいちばん押しているのかな?)私は眼が悪いので、最近は「芥川賞」受賞作くらいしか小説を読んでいないが、何かくらい気持ちになってしまう。



春の庭
柴崎 友香
文藝春秋

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(142) 

2014-08-11 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(142)        

 「一九〇九年、一〇年、一一年の日々」はカヴァフィスがその三年間交流のあった青年のことを書いているのだろう。水夫の息子で、鍛冶屋で働いている。シャツは擦り切れ、手も油で汚れているのだが、

ひそかに思う、果たして
古代のアレクサンドリアにさえ、
あんなに完璧に磨かれた自慢の子がいたか。

 いつものように、どんな具合に「完璧」なのかは書かれていないのだが、カヴァフィスには理想の美だったのだろう。
 この詩では、容貌のかわりに、二連目で、その青年の嗜好が書かれている。その部分が、魅力的だ。

店じまいのあと、夕闇迫るころ、
特にものほしとこころが動いた宵は--、
少し値の張るタイ、
日曜のためにとっておきのタイ、
あるいは飾り窓に見つけた
青いシャツの美しさに釘付けになったならば、
自分の身体を売った、銀貨一枚か二枚で。

 おしゃれが好きだったのだ。ネクタイとシャツにこだわりをもっていた。鍛冶屋の仕事ではシャツも何も油と錆にまみれる。その体を洗って気に入ったシャツとネクタイで自分を飾る。そういうことが好きだった。それはもちろん誰かを引きつけるためにしたのだろうけれど、肉体の快楽よりも、着飾るよろこびが大きかったのだろう。
 その一種の肉体の愉悦そのものではない、美への嗜好があったからこそカヴァフィスは「完璧に磨かれた」という修飾語で、その青年を語っているのだろう。
 でも、

あの子は全くの名無し。彫刻も画も残さず、
貧しい鍛冶屋の店に埋もれ、
使われ過ぎてくたびれて、安く身体を売って
まもなく擦り切れてしまったけれど。

 他人の肉の欲望のために、美が擦り切れてしまった。
 けれど、カヴァフィスはおぼえている。カヴァフィスは彼を彫刻にはしなかった。絵にもしなかった。ことばに、詩にして、いま、ここに書き残している。彫刻や絵のように、視覚には訴えて来ないが、記憶にしっかりと訴えかけてくる。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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福田拓也『まだ言葉のない朝』

2014-08-10 11:52:29 | 詩集
福田拓也『まだ言葉のない朝』(思潮社、2014年07月31日発行)

 福田拓也『まだ言葉のない朝』は、どんなふうにして読んでいけばいいのだろうか。私は左目を網膜剥離で手術して以来、どうも読むこと、見ることが苦手になってしまった。生理的に、目に厳しいものを避けてしまう。この詩集も、目に厳しい。
 たとえば、次のような部分。(46ページ、きっと転写ミスをすると思うので、原典で再確認してください。)

仄白く纏綿とまとわりつくようにあるいは新たな翼となって空に羽搏
きかけるようにあるいは空自体が羽搏きその律動によって場所だけが
あった場所自体もここからすべて消し去ってしまうかのように、場所
自体が消え去るのかここからすぐに心なき身にもわかることはしかし
幻影を消し去ること自体が幻影でありその幻影までが消え去った後に
はやはり場所であって同時に場所に記載されたものである多数的な分
裂状態にあるものとして僕は書記し抹消し続けるだろう

 ことばが繰り返される。同じことばなのか、違うことばなのか、よくわからないが、「羽搏き」「場所」「幻影」「消し去る」が何度も登場し、それに「自体」が加わる。そして、そのあとに「多数的な分裂状態」ということばといっしょに「僕」というものが登場する。
 丁寧に読むと、どうなるのかわからないが、目に残っているものだけを頼りに「誤読」してしまうと、あらゆる存在は「幻=多数的な分裂状態=何でも変化してしまう」「僕/自体(自身)」であり、それは存在するときに「場所」を必要とするが、それは「場所」(空間)として確定的に存在するのではなく、「僕/僕自体(僕自身)」が「多数的に分裂」するときに必然的に呼び寄せてしまうものである。「場所」は「場所」という物理的「空間」ではなく、「多数的分裂状態」の「状態」というものである。「こと」であり、「変化」と言い換えてもいいのかもしれない。
 そして、その「こと」(変化する状態)というのは、あるものを別なものが「消し去る」という形で動きつづける。あるものがあるものを消し去ってしまったら、そこには「最初にあったもの」がなくなる--というのは「物理」の世界のことであって、記述(書く)という運動のなかでは「消し去る」ということはありえない。文字は書き換えられ、消去することはできるが、「書いた(ことばにした)」という「動詞」は消し去れない。
 その「消し去れないもの(あるいは、消し去れないこと)」は、どこに存在する(どこに残る)のか。「僕」に残る、「僕」といっしょに「残る」、「僕」の「書記し抹消し続ける」という「行為」といっしょに「残る」。「僕(僕自体=僕自身?)」は、「書記し抹消し続ける」という「行為」のなかに生まれ続け、残りつづける。
 あ、きっと、福田の「肉体」というよりも、私の「肉体」について書きすぎている。「私の「肉体」感覚で福田の書いたことを、都合のいいように書き直しているなあ。つまり、「誤読」しているなあ、という気持ちがだんだん強くなってくるのだが。
 まあ、いいか。
 で、ちょっと振り返ると、引用した部分におもしろいことばがある。

心なき身にもわかること

 「心」と「身」がでてきている。「心」と「身(身体、というのかな?)」のふたつが出会って、そこに「わかる」という動詞がつかわれている。私は「身体」ということばにはどうにもなじめないものがあって、そのなじめないものを私のことば「肉体」へ引き寄せるようにことばを動かしていくしかないなあ、どんどん「誤読」していくしかないなあと思いながら書くのだが。
 「心なき身」というとき、福田は何を考えているのだろうか。「わかる」ということばがあるせいだろうか、私は瞬間的に「頭」を想像した。「頭」で福田は、何かを「わかる」(わかっている)。
 うーむ。
 私は「わかる」というのは「肉体」の動きだと思っているが、一般的に「頭」で「わかる」という具合にことばはつかわれている。
 で。
 私自身は、それでは福田の詩とどういうふうに向き合っているかというと、私はだんだん「肉体」ではなく「頭」で向き合いはじめているなあ、と感じている。
 最初は同じことば(同じ文字)が次々にでてきて、目で識別するのが難しくなる。目に負担が多くなり、無意識的に何かを除外するような形で肉体の本能が目を守ろうとしているのを感じながら読んでいた。
 そうするうちに「心なき身」ということばを「頭」と「誤読」し、あ、福田は「頭」でこの繰り返しを整理しているのだなと感じた。同じことばを書くのは、それは実は同じことばを書いているのではなく、福田の書いていることばを借用して言えば「消し去っている」のである。変な例になるが、算数の分数計算のとき、分母を同じにして数字を整理し、「共通」の数字を消しながら「答え」へ近づいていくが、何かそういう感じ。同じことばが出てくるたびに、それは「不要」になる。そういうことをしながら、「答え」へ近づいていこうとしている。実際、その繰り返しのあとに「僕」という「主語」が突然、消し残された(通分されたあとの)「答え」のようにあらわれる。
 「肉体」にまとわりついている何か、それを「共通」の何かで言いなおしながら、世界の真実(答え/主語)を探し出す--そういうことをしているのかもしれないあ。「主語」と「動詞」を特定するということを「頭」でしているのかもしれないなあ、と思いはじめた。
 福田はきわめて「頭」的な詩人なのである。そうありたいと欲望しているのかもしれない。そういう欲望を、私は福田のこのことばの連なりから感じたのだが--あ、こんなこと、私にはわかりっこないなあ、きっとでたらめを書いていると叱られるなあと思いながら書いているのだが。
 先の引用のつづき。

                           鴫立つ澤
の秋の夕暮れという語の連なりが確かに穿たれた身体として薄明の中
に消えていくそれとともに鴫立つ澤の海のきらめきを記入した棒状の
身体に匈奴の土をまぶし自転車を漕いでいた、

 「鴫立つ」というのは「枕詞」なのだろうか。「枕詞」というのは、「場」を「肉体」に結びつけるものだと私は思っている。枕詞といっしょにあらわれるのは「場所」(地理的空間)というよりも、そこにいる人(暮らし)の「肉体」のあり方(思想)だ私は思っているのだが、そういう「肉体性」の強いことばが突然出てくる。
 なぜなんだろう。
 「頭」を強引に動かしたとき、その「頭」が「肉体」によって反論されているのかな? 福田は、そういう「肉体(日本語を動かしているいちばん底にあるもの)」の反撃と戦いながら、ことばを動かしている。「枕詞」のなかにある「肉体(日本語の歴史/日本語のなかの共感)」を消し去ること、純粋数学(理論物理?)のように、ことばを動かそうとしているのかな? それが欲望なのかな? その欲望が強くなればなるほど、「肉体」に反撃され、だからよけいに純粋欲望が覚醒するのかな?

 よくわからないが、この詩集のなかには、「頭」のことばと「肉体」のことばがぶつかりあっている--その衝突の音が聞こえる。粘着力があるので、その音はどんどん沈んでいく。聞こえたと思ったら、もっともっと深いどこかへ飲み込まれ消えていくという感じなのだが。

 何を書いているのかわからない「日記」になってしまったが、私は「結論」をめざしていないのだから、これがいちばん自然なのだ、と開き直っておこう。目の悪い私には、この詩集は見渡せない。頭と目のいいだれかが、いい批評を書いてくれるだろう。






まだ言葉のない朝
福田 拓也
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(141)

2014-08-10 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(141)        2014年08月10日(日曜日)

 「シノペ進軍の道すがら」はミトリダテスが僻地を通ったとき、名のある占い師の家があるのを知って、将校をひとり占いにやらせた。「朕は今よりのちさらにいかほどの財を集めうるや、いかほどの権力を所有しうるや」。その答えをまちつつミトリダテスは進軍をつづける。そういうことが「文語」の文体で一、二連目に書かれる。そして三連目に占いの内容が語られるのだが、これは「口語」。

占い師は秘密の部屋にこもり、
半時間たって姿をあらわし、
当惑顔で将校に語る。
「はっきりとは結果がでなかった。
今日は日柄がよくなかった。
おぼろな影がいくつか。だがついにはっきりしなかった。
しかし、王は今をよしとされよと私は思う。

 口語で、しかも内容が行ったり来たりする。逡巡がある。占い師が「よい未来」を語らないのは、もうすでに不吉な証拠だが、不吉もはっきりとは言わない。だが、口語はことばそのものよりも、口調によって「意味」を伝える。
 「はっきりとは結果がでなかった。」「ついにはっきりしなかった。」と繰り返したあとで、文語をまじえながら「王は今をよしとされよ」と告げる。その「文語」を引き継いで、ことば(内容)が、また繰り返される。「じゃ」という口語の語尾をいったんはさんで、「文語」で緊迫感を伝える。

この上を望めば何にまれ危険じゃ。
将校殿。きっと王にいわれよ、
『神に誓って今をよしとされよ』とのわがことばを。
運命は急変が習い。

 この対比がおもしろい。「運命」というとき、占い師が「未来」ではなく、過去を見ているのも、おもしろい。占い師のことばはつづくのだ。

ミトリダテス王にいわれよ。王の祖先の故事は希有ぞ。
かかる人に逢うをあてにめされるな。その友、かの気高い友が
槍で地面に字を書いて『逃げろ、ミトリダテス』とご先祖を救うたというが」

 同じことは起きない。だれもミトリダテスを救わない。しかし、もう一方の、暗殺しようとする歴史は繰り返す。過去は繰り返す。ただし、だれも王にこっそり語るひとはいない。「過去」は繰り返すが、また「過去」は裏切るのだ。主観は複数あるのだ。
 文語と口語のぶつかりあいが、過去と未来、複数の声の交錯のようにも見える。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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