詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(22)

2015-02-23 09:31:58 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

40 留守居

 「都城旧居」の注釈。

ある日の午後を
じつとひとりで留守居をしている
子供の眼にうつる高い梢
その梢は遠い並木のはずれになつていて
たれも帰つてこない道がはるかにつづいている

 四行目が美しい。「つづいている」の主語は「道」なのだが、読んでいると「たれも帰つてこない」という時間がつづいているようにも感じられる。風景と時間がまじりあう感じがする。
 留守居を「している」と現在形で書かれていることも影響しているかもしれない。「いま」が永遠につながる感じがしてくる。
 この並木は道の両側に木が並んだ並木だろうか。木の高さがそろっていて、道はまっすぐで、並木が透視図のようにXの形を浮かび上がらせる。対称形の道を思い浮かべてしまう。そういう道は実際にはないかもしれないが、実際にないからこそ詩(永遠)のなかで存在する。現実が詩をつくるのではなく、詩(永遠)のことばが現実(いま)をととのえていく--そういう夢をみたくなるような感じがする。子供の眼は、そういう「非現実」の美を見てしまうものである。
 「じつとひとりで」という動かない印象、静的な印象、一点透視の対称形が響きあう。ひとりだから、その空想をだれも邪魔しない。

41 帰郷1

 「高鍋町」の注釈。

遠い村の周りで夜明けをつげる鶏が啼いている
近くの方の鶏があとから啼きはじめた

 この対になった二行がおもしろい。「遠く」から「近く」へ夜明けが動いてくる。光だけではなく、音(鶏の鳴き声)といっしょに動くことで、それが「現実」になる。視覚でとらえた明るさの変化だけではなく、耳でとらえた事実が、現実を豊かにする。
 時系列的には「遠くで啼いていた」→「近くで啼きはじめる」なのだが、感覚のなかでそれが逆になるのもおもしろい。逆になることで時間がかきまぜられる。過去といまの区別がなくなる。入り乱れ、融合する。
 この視覚と聴覚、さらに過去といまの混じりあった世界は、しかし、現実というよりも「心象風景」かもしれない。「留守居」の並木道もまた「心象風景」であったかもしれない。「こころ」がととのえなおした、ことばによる世界だったかもしれない。
 そんなふうに思うのは、

海へ傾斜した丘の上の松に白い月がひつかかつていて
一つの唄が唇に浮かんできたがそのまま消えてしまつた
唄はぼくの孤独のころを想いだして消えてしまつたのだろう

 という三行に、また、視覚と聴覚の連動した動きがあるからだ。白い月(視覚)を見たとき、唄(聴覚)が消える。松に引っ掛かった月は、孤独の象徴。唄(聴覚、ただし唇も含まれるので発声器官を含むが)を歌わなくても、(それを自分で聞かなくても)、視覚がかわりに松に引っ掛かった月を見て、そこに孤独を感じ取っている。だから唄を必要がなくなった。聴覚を刺戟する必要がなくなった。
 こんなふうに「理詰め」にしてしまうと嘘っぽくなる。
 詩は理詰めにせず、ことばの瞬間瞬間の印象つなげて、イメージを錯覚してしまう方が楽しい。夜明けと鶏の鳴き声に視覚と聴覚の結びつきがあったように、松に引っ掛かった月と歌われなかった唄にも視覚と聴覚の結びつきがあり、それは「孤独」とも結びついていると感じるだけでいいのだろう。
 「ぼく」が主語ではなく、「唄」がしゅごになり、孤独を想いだす、消えるというのも、主客の意識のいれかわりのようでおもしろい。翻訳調の文体というよりも、意識が交錯する一瞬ととらえたい。
 最終行、

永いあいだ忘れていたぼくの心のなかに立つていた

 この「立つ」の主語は「ぼく」。「ぼく」が「ぼくの心のなかに立つ」というのは、心象風景のなかに「ぼく」は「いる」ということだろう。
 鶏も月も心象風景。だから、そこには視覚、聴覚の明確な区別はなく、それはどこかでいっしょになっている。感覚の融合が心象風景を豊かにする。



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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そんなはずはない、

2015-02-23 01:17:09 | 
そんなはずはない、

「そんなはずはない」ということばの鼻の先に「窓辺」ということばがあり、「椅子」という名詞と「引く」という動詞を組み合わせると常套句になってしまうと考え、ことばは文章になりあぐねている。
その頭のなかで、「この部屋にすんだことがある人ならだれもが知っている」ということばが、夕日のようにドアをノックする。「夕日」ではなく「夕刊」にした方が、風景ではなく、情景になるというのは、ことばが思ったことか、それともあの本に書いてあったことか。
「あの本に書いてあった」ということばは、それから「窓辺」から出て行き、「裸の木の影は地面に倒れながら少しずつ伸びて、壁のところまで行き着くと、木と平行になる形で壁をのぼりはじめた」という長い文章になった。単語のままでいると息が細くなってしまうので。
「そんなはずはない」ということばは傍線で消されて、かわりに「しかし二階の窓には届かない」ということばが、おんなの日記から借りてこられた。「そんなはずはない」と、向かいの窓から見ていたことばは現実を記憶にあわせて書き直そうとする。「窓と窓は話し合っていた」。あるいは「開かれた窓の、それぞれの部屋の奥には鏡があって、たがいを映しあっていた。」
そうしているうちに、ことばには、「鏡に映っている」のが向うの部屋の鏡なのか、自分の姿が向うの鏡に映って、それが「跳ね返ってきている」のか、わからず、混乱してくるのだが、「鏡に映っている」や「跳ね返ってきている」は、抒情的すぎないか、それが恥ずかしいという気持ちだけははっきりしてくる。


*

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クリント・イーストウッド監督「アメリカン・スナイパー」(★★★★★)

2015-02-22 21:30:23 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 ブラッドリー・クーパー、シエナ・ミラー

 イーストウッド映画の特徴は劇的な描写を避ける。カメラが演技することを拒否することだ。多くの映画は映像に凝る。観客が、カメラの視線を自分の視線だと勘違いするように仕組むが、イーストウッドは逆だ。観客に感情移入させない。
 クライマックスの、砂嵐直前の、イラクのスナイパーを射殺するシーン。それからつづく敵からの集中攻撃。砂嵐のなかをビルから脱出する主人公たち。アップを避け、状況だけを映し出す。全体の状況は衛星画像の俯瞰図で理解できるが、そこで動いている「肉体」を自分の肉体のように感じることができない。さらに砂嵐を利用して、状況をわかりにくくしてしまう。主人公はどこかを撃たれたようにも見えるが、怪我はしているのか、していないのか。うまく脱出できたのか、できなかったのか。はらはらさせるというよりも、はらはらできないように、不明瞭な映像をつづける。ふつうの映画とはまったく逆である。ふつうの映画なら、車に乗り遅れた主人公の肉体の傷、顔の表情、さらに主人公をみつめるアメリカ兵の表情で状況を描き出すのに、この映画は砂嵐を利用して隠してしまう。これでは感情移入ができない。
 明瞭な映像では、違った手法がとられる。一回目の派兵で、主人公はいきなり子供を射殺する。予告編では前後の時間が省略されているために、とても劇的に見えた。どきどきしてしまった。しかし本編で見ると、あまりどきどきしない。すでに予告編で見ているということも要因かもしれないが、ほかの要因の方が大きい。予告編で切り取られていた「一瞬」が本編では「瞬間」ではなくなっている。「持続」している。時間にひろがりがある。銃撃の瞬間は、長い時間の一部である。瞬間ががすべてではないのだ。多くの映画は、一部の時間を切り取って、それがすべてであるかのように描くが、イーストウッドは逆に、濃密な一瞬を長い時間のなかへ埋め込む。
 子供を射殺するシーンも、そのまま子供が血を飛び散らせて倒れれば、ぞっとするような印象を引き起こすはずだ。そして、その方が主人公の感じた衝撃、こころの傷の深さを一生づけるだろう。けれど、イーストウッドは銃の音を過去の銃の音、鹿を撃ったときの音に重ね合わせることで、時間を一気に過去に引き戻し、いま起きたことを過去からの時間の持続にしてしまう。「心理」を一瞬の問題ではなく、彼の生きてきた時間(歴史/来歴)の問題としてとらえ直す。子供のとき主人公は父から狩りを習った。人間には羊と狼と番犬の三種類がいる。おまえは番犬にならなければいけない、と教えられた。羊を食い殺す狼を退治する番犬に。弟を守る兄に、ならないといけない、とも言い聞かされた。その教えの延長線上に、アメリカをテロから守る(家族をテロから守る)という意識がある。主人公は突然スナイパーになったのではなく、「時間」のなかでスナイパーになったのだ。子供でも射殺してしまう冷酷なスナイパーなのではなく、アメリカを、家族をまもるためのスナイパーであるというのが、主人公の、その瞬間の「意識」なのである。「意識」は時間をかけて作り上げられたものである。
 目を向けなければならないのは「瞬間」ではなく、「長い時間」なのだ。「時間」のなかの人間の変化(成長)なのだ。「瞬間」よりも「時間(ひろがり)」という意識が、映像そのものにも反映される。カメラが映し出しているのはカメラのフレームのなかだけである。その枠のなかを劇的にしてしまうと、その映像(世界)が枠の外へひろがっていることを忘れてしまう。劇的な映像に視線が集中して、周辺の世界を見逃してしまう。そうならないように、イーストウッドの映画では、映像を凝縮させすぎない。最低限のものにする。映像をつねに相対化するといってもいいかもしれない。
 クライマックスの砂嵐の戦闘シーンも、戦争はそれだけではないから、それをクライマックスにしないのだ。戦争を長い時間のなかでとらえ直すために、あえて、そのシーンに集中することを避けているのである。ふつうの戦争映画なら、この困難な戦いをアップをふんだんに盛り込み濃密に描き、「映画史に残る映像」にしてしまう。しかし、イーストウッドは、単なるエピソード、それも視覚に残らない映像にしててしまうのである。

 相対化を別な角度から言いなおせば……。
 子供を射殺するシーン。主人公が照準器(というのだろうか)で子供を見る。子供がアップになる。これは主人公の見た映像。その主人公の目を、カメラは銃口の方から映して見せる。巨大な目がスクリーンにひろがる。子供が直接見た目ではないけれど、主人公から狙われ、射殺された人はその目を感じたかもしれない。見たら逃さない目。その目のなかに閉じ込められて、逃げられない--そう感じさせる目。狙われる側から見れば、その目がどんなに青く澄んでいようと、それはたしかに悪魔の目ということになる。
 主人公がアメリカにいる妻と電話をしているとき、銃撃で戦がはじまる。戦場とアメリカでのシーンが交錯する。妻は電話から聞こえてくる音だけが頼りである。何が起きているのか、わからない。銃撃戦をしていることはわかるが、細部はわからない。観客は(私は)どうしても戦場で起きている激しい変化に目を奪われるし、また妻の動揺に反応してしまうが、この瞬間、主人公のこころは妻から離れてしまっているということを見落としている。そして、このことがあとで妻から追及される。「あなたのこころはどこにあるのか、肉体は帰って来たけれどこころは帰って来ていない。」戦場では、生きるか死ぬか。殺さないと殺される。だから、妻がどんなに心配しているか、ということを考えている暇はない。「大丈夫、撃たれなかった」というようなことを一々電話している暇はない。それはそうなのだが、そんなことは妻からはわからない。せっかく帰国したのに、また戦場へ行く、そこでアメリカを守ると言われても何を言っているかわからない。
 また、主人公は凄腕のスナイパーゆえに「伝説」と呼ばれるのだが、そのことに恥じらう主人公の目は、仲間が主人公を見ているものとは違うものを主人公が見ていることを察知させる。主人公の弟もイラクで戦い、そのあと帰国する。帰国する弟を見かけたとき、弟はすっかりかわっていた。戦争に対して主人公とは違った見方をしていた。こころに深い傷を負い、それを前面に出していた。
 そういう相対化も描かれる。
 イラク側のスナイパーの様子も単に五輪の金メダリストの腕前というだけではなく、やはり仲間を守るために戦うという視点(主人公と同じ視点)でとらえられている。そこでも相対化が行なわれ、世界が見つめなおされている。
 繰り返される相対化、瞬間の時間への還元によって、この映画は戦場ではなく、戦場で戦った男の「こころ」の変化を最後に浮かび上がらせる。「こころの傷」の深さを浮かび上がらせる。戦争とは結局ひとを殺すことであり、人を殺して「伝説(英雄)」になっても、それは他人の評価であり、その人自身にとっては「伝説」は「絶対」ではない。「伝説」を生きることはできない。日常は「伝説」とは違った時間を動いている。そう語ることで、静かに戦争を告発している。国家の暴力を告発している映画であるとも言える。
 でも、こういう言い方は、たぶんイーストウッドは好まないだろう。そんな「意味」づけは映画にとってはどうでもいいことだ。
 この映画は、やっぱり最初に書いたことにつきる。クライマックスを、まったく観客が感情移入できないような不完全な映像として描ききったところにすごみがある。イラクのテロリストを殺す。それが正義である。その戦いのためにアメリカ兵はこんなにがんばっている--という視点に観客が染まらないようにして映画を動かしたところにある。映像としてはどこにも見どころはないのだが、この見どころのない映像こそ、「映画史に残る」と私は言いたい。
                        (天神東宝1、2015年02月22日)







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嵯峨信之を読む(21)

2015-02-22 09:36:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
38 手術

 「宮崎病院」という注釈。最後の二行

いま金いろの天秤(はかり)で計つているのは
たしかにわたしの切りとられた小さな死です

 から盲腸の手術を想像した。切り取られた盲腸。それを「死」と呼ぶところにこの詩の「核」がある。死を排除して、嵯峨は生き続ける。--というような「意味」を誘い込む飛躍がある。
 「比喩」はものの言いかえではなく、そこにある「もの」(向き合っているもの)をいったん忘れ去り(解体し、脱構築し、と流行言語では言うかもしれない)、「無(混沌)」へたどりつき、そこからもう一度、「いま」へ戻ってくる運動。「分節」されたものを「未分節」へもどし、再度「分節」しなおす運動。
 盲腸。体内で異変を起こし、化膿している。機能しなくなっている。死んでいる。それをそのままにしておくと、肉体全体に影響する。だから、その小さな死を、肉体の連続(未分節)から分離し(分節し)、肉体を健全な状態にもどす。その肉体の内部へ入り込み(未分節の世界へ入り込み)、そこから盲腸を盲腸ではなく「死」ということばで分節しなおし、排除する。
 未分節をくぐりぬけた盲腸は、最初に痛みをもたらした盲腸と同じものではあっても、同じではない。「意味」が違ってきている。「死」ということばで定義し直されて、別なものになっている。違った意味になっているけれど、また、同じものでもある。「定義」というのは瞬間的な方便であって、こだわりすぎてはいけない。運動そのもの、「比喩」を運動のエネルギーとして感じ取るということが必要なのだと思う。

 あ、書いていることが、だんだんややこしくなってきた。ここまでにしておいて、少し視点を変える。

 この詩の核は「死」ということば、その「比喩」の動き方にあるのだけれど、あまりにも意味が強すぎる。私は、その行よりも、前半の手術が終わり、麻酔から醒めてくるときの描写が好きである。特に、

暗くみえていたゼラニウムの花が鮮やかな紅いろに変りました

 という一行が好きだ。「暗く」から「鮮やか」に変わるという自然な状態(そう見えるようになるという肉体の運動)が、そのまま肉体の回復につながる。それが、読んでいて、うれしい。

39 深夜

 「弟妹に」という注釈。「わたしは疲れているので」と書き出されているが、「わたし」のことを書いているのではなく、弟と妹に呼びかけているのだろう。

二つの日のあいだの戸を閉じて休もう
そして一日の怒りをすつかり忘れよう

 「……しよう」の繰り返しが、おだやかなリズムとなっている。二度繰り返されると、次もきっと「……しよう」ということばがつづくと想像できる。そのため、「……しよう」の前のことばに意識を集中させて聞くことができる。(読むことができる。)
 で、ちょっと複雑なことが書かれる。

休息のなかに大きな夜をみちびき入れよう

 知らないことばがないので、すっと読んでしまうが、「夜をみちびき入れる」という表現は、変わっている。夜は導き入れなくても自然にやってくる。拒もうとしても、拒めない。
 夜なので、もう何もしないで休息しよう(休もう)、休息(休み)のなかで「怒り」も休ませよう、眠らせよう(落ち着かせよう)というのは、「現実的」だが(日常、だれもがすること、体験したことだが)、休息の「なかに」夜を導き入れるというのは、「現実的」ではない。
 ことばのなかだけで表現できる、一種の「嘘」、虚構である。
 で、その「嘘」が、詩である。
 単なる夜ではなく「大きな」夜--その「大きな」に嵯峨の意識が集中していく。何度も言い直し、「大きな夜」、その夜の「大きさ」を語り直す。

限りないひろがりが遠いところでその口を少しずつゆるめている

 「大きい」は「限りないひろがり」であり、「遠いところ」とも関係している。「遠い」というのは距離の「大きさ」でもある。夜は暗くて何も見えないが、ほんとうは限りない大きさ、ひろがり、豊かさをもっている。その「豊か」なものを導き入れよう、自分のものにしよう、と嵯峨は弟と妹に語っている。
 大きなもの、豊かなもの、って何? 嵯峨は最後にもう一度言いなおす。

まだ歌にならぬ音階の上を
はやくも未来がしずかに歩みよる

 「まだ歌にならぬ」という「比喩」のなかに、「大きさ/豊かさ」がある。「まだ歌にならぬ」とは「歌」として「分節されていない/未分節」の状態ということ。「無/混沌」とした、エネルギーだけが存在する状態。そこから新しい「音階」、新しい「歌」がはじまる。「分節」がはじまる。「未来」がはじまる。
 きょうあったことは忘れてしまい(「無我」になり)、まだきまった形のない状態(未分節/無我)をとおりぬけて、また新しく生きはじめよう、と語りかけている。
 弟、妹に語りかけていると先に書いたが、嵯峨は自分自身のなかに生きている「幼いわたし」に語りかけているという感じがする。

 でも、こんなふうに「意味」だらけにしてしまうと、詩は、おもしろくないね。
 いま書いたことは、さっと忘れて(なかったことこにして)、私は、その前の三行に帰ろう。

子供たちはまるめた手足のなかに小さく眠りこみ
ふとどこかで出会う運命に
それと知らずかすかに微笑みかける

 眠っている子が、夢のなかでふっと微笑み、それが顔に出てくる。あ、何かいいことがあったんだな。そのときの、幼い子の表情が見える--「運命」という抽象的なことばがあいだにあるのだけれど、子のあかるい微笑みが具体的に見えてくるこの三行が美しくていいなあ、と思う。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
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「まだ可能かもしれない

2015-02-22 01:14:23 | 
「まだ可能かもしれない

「まだ可能かもしれないという考えが間違っている。そう自分自身に言い聞かせることをできるだけ先のばしにした」ということばがあった。
「だれのことばなのかわからなかったが、いま、私がしているのはそのとおりのことである」ということばが並んでいた。
「どうすることもできない苦しみがまといついてくるが、そう感じるとき苦痛ということばは甘い怠惰のようでもあった」ということばが、どこからともなくあらわれた。




*

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斎藤恵子「白粉花」

2015-02-21 09:21:30 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤恵子「白粉花」(「どぅるかまら」17、2015年01月10日発行)

 病室で女房が来るのを待っている男--という視点で書かれた詩。この詩のなかで、斎藤は「夫」になっている。二人がいっしょに暮らしはじめたころのことが書かれている。

夏になると川ばたに白粉花が咲いた。白粉花は夕方ひらき夜まで咲く。よい匂いがする。おれは自転車で白粉花の匂いがしてくると家に帰りついたと思った。

女房は白粉花を摘んでガラスコップに入れた。
 あまりきれいじゃないな。
 川べりで咲いているのが似合うんじゃないか。
おれが言うと、女房はほらと爪先を見せた。紅く染まっていた。
 白粉花で染まったのよ。
紅い爪先をひらひらさせて夕日にかざした。

 夫の視点でことばが動いているのだが、ことばの動きに作為がない。斎藤が過去を思い出して夫の視点からことばを動かしているのではなく、夫はいつかこれと同じことを斎藤に言ったのだ。一度だったかもしれない。あるいは何度か言ったのかもしれない。
 夫の記憶、夫の思い出を斎藤は、夫のことばで共有している。自分のことばではなく、夫のことばをそのままそっくり受け止めて、夫になってる。夫になることで、自分の無邪気さを確認している。「私は白粉花のようにあまりきれいじゃないかもしれない。川べりが似合っているのかもしれない。でも、見て。マニュキアをすると、こんなにきれいでしょ? きれいと言って。」夫といるから、あんなふうに無邪気に、こどもみたいなことができたのだと思い出している。一体になって動いている。自分の、あのときの感情さえも夫のことばで思い出している。

女房はおれが腰痛だと言ったので腰の病気だと思っている。だが実のところあと何回女房の顔が見られるのか、おれにもわからない。

 これは、夫のことばとして書かれているが、妻・斎藤の想像かもしれない。夫は腰痛だと思っている。ほんとうのことを知らされていない。妻は、それを知っている。知っているけれど、夫には言わない。こういうことは、たぶん、言わなくても「わかる」ものである。そして「わかっている」と「わかる」から、夫はいま、こんなふうに考えているのだろうと、斎藤は想像する。
 だから(と言っていいのかどうか……)、先に引用した「白粉花」とマニュキアのやりとりも、ほんとうは斎藤が夫にあのときのことを思い出して、と祈っているのかもしれない。無邪気にこころが出会い、すれ違い、微笑んだ瞬間。あのときは楽しかったね。
 あのとき、私(斎藤)はなにも知らなかった。いまも、なにも知らない。夫か病気とは知らない。夫は腰痛が治れば退院できると無邪気に信じている。--信じている姿を、無邪気なマニュキアの娘の姿のままの私を覚えていて、と祈っている。
 静かなことばの動きに、この時間が少しでも長くつづくようにと祈らずにはいられない。
海と夜祭
斎藤 恵子
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嵯峨信之を読む(20)

2015-02-21 01:17:51 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
36 蜻蛉

 「折生迫港」の注釈。港で見た光景。

眼に見えぬ風のざわめきがいつまでもぼくを不安にする

 この「眼に見えぬ」はなぜ書かれなければならないか。「風のざわめき」の「風」そのものはだれにも見えない。風にざわめく木の葉、草は見える。また風によってざわめく木の葉や草の触れあう音は聞こえる。しかし、「風」そのものは見えない。見えないものをわざわざ「見えない」と書くのは、神経が緊張していることをあらわしている。神経が張り詰めていて、そのためにことばが余分に動いてしまう。それが「不安」と呼応している「不安」とは張り詰めた気持ちで何かと向き合うときに動くこころである。
 「眼に見えぬ」は文法的には「風」を修飾しているが、「意味」(主観)としては「不安」を定義している。
 この不安を、嵯峨は別な形で言いなおしている。

ぼくのなかにある不安の小さな塊り
なにも刻んでないその石の上に
薄い翅をふるわせながら
蜻蛉はとまろうとしては離れている

 「不安」は直接的には「石」と言いかえられているが、詩を読むと、「不安」は「蜻蛉」のように見える。「薄い翅」の「薄い」が弱さ、こころの弱さと重なり、「不安」を連想させる。「ふるわせる」も「不安」と重なる。なによりも「とまろうとしては離れている」という不安定な動きが「不安」を感じさせる。
 そこには「風」の動きも感じられる。風があって、蜻蛉は風に流され、とまとうとしてとまれない。石から離されてしまう、というような動きも。
 書かれていることば、その定義を無視して、私は「用言(動詞)」に引っぱられて、不安を身近に感じる。
 これは「誤読」、あるいは読みの「逸脱」なのだが、そういうことを許しているのが詩である。

37 葡萄蔓

 「宮崎旧居」の注釈。嵯峨の家には葡萄があったのか。葡萄は「女を愛するとは」「わが哀傷の日の歌」にも出てきた。女の思い出といっしょにある。「旧居」といっしょに登場してくると、そこに「母」を感じる。嵯峨は、女を母と重ねるようにして感じ取っていたのかもしれない。--この詩は女(あるいは愛)というものを主題としているわけではないのだが、ふと、そういうことを思い起こさせる。
 一粒の実も葉もつけていない葡萄の蔓、

しかしそれはなんとしずかなことだろう
それは盲(めし)いたひとの言葉のようにやさしく
その蔓は真実の心からひたむきに伸びあがつている

 「しずかな」は「盲いたひとの言葉」という比喩をとおり「やさしく(やさしい)」と言いかえられる。さらに「盲いたひとの言葉」は「真実の心からひたむきに伸びあが」ると言いなおされる。
 「比喩」をとおって、ことばの「意味」が深まる。「比喩」は単なる言い直しではなく、特化された「意味」なのだ。何かをゆがめ、印象づける。明確な意味ではなく、不明確であっても、強烈に印象に残る「強いことば」。それが「比喩」の特権である。
 真実の心から発せられたことばは「しずか」であり、「やさしい」。
 私は先に女、母、愛ということばを連ねたが、「盲いた」は「盲目の愛」、「母の愛」のやさしさ、「母の真実の心」からの愛、というふうに連想を広げていくこともできると思う。
 「しずか」「やさしい」は、それだけでは抽象的なことばなので、いろいろなことを引き受け、受け止めてくれる。

穏やかな夕日をうけると その静けさはさらに深まる
どこかにぼくの知らない価値があるようだ

 嵯峨は「しずか」「やさしさ」をさらにそう言いなおしているが、それでも抽象的なままである。ただし、そこに「ぼくの知らない」ということばが入り込むことで、ことばの向きが少し変化し、その抽象はまた違った「真実」になる。
 なにも身にまとわない葡萄蔓に、嵯峨は「しずけさ(静けさ)」を感じている。その静けさは「比喩」としてなら語れるが、具体的には語れない。語る方法を「ぼく」は「知らない」。--そう語る正直さ。ここでは、嵯峨の「真実の心」が「知らない」という「正直な告白」でたしかなもの、「事実」になる。
 「知らない価値」(語れない価値)というものが、「語らない」ことによって「嘘」からすくわれる。「真実の心から」のことば、「知らない」という正直が、「抽象」を「事実(具体)」に変える。
 正直なこころが、そのとき「しずけさ」のかわりに、そこに存在しはじめる。「しずけさ」と「正直なこころ」がひとつのものとして、そこに存在する。
 比喩とはかけ離れた何かを結びつける方法ではなく、まだ言語化されていないものをことばにして存在させる方法なのだが、それは「方法」というよりは、こころのあり方なのだ。
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
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嵯峨信之を読む(19)

2015-02-20 11:11:57 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

 「日向抒情歌」。日向は嵯峨の故郷。宮崎と言わず日向と言うのは、嵯峨がほんとうに育ってきた場所という意識があるからだろう。「宮崎」では広すぎる。知らない場所のことは書かない、という意識が働いているだろう。そこに嵯峨の誠実さを感じる。

34 川ぎしの歌

 「神田橋旅館で」という注釈(?)が最後についている。川岸にある旅館なのだろう。そこで嵯峨は「あなた」と会った。それはきょうのことではなく、「その日」、過去のことである。

その日あなたは多くのことを話した
だが多くの言葉のなかで一語だけが絃(げん)のように高らかに鳴つた

 こう書き出される詩は、しかし「一語」については説明しない。どういう一語だったのか、書いていない。客観的なことは何もわからない。わからないけれど、詩を感じる。嵯峨がそのことばを聞いたときの「主観」がわかる。「主観」といっても「かなしい」とか「うれしい」という「流通言語」になる「主観」ではない。簡単にことばにできないから、「わかる」ではなく「感じる」と言った方がいいのかもしれない。嵯峨の「主観」を感じる、その主観に触れたように感じる、という錯覚(誤解/誤読)を私は詩と呼んでいるだけなのかもしれないが。

一語だけが絃のように高らかに鳴つた

 「絃のように鳴つた」と嵯峨は感じた、その「感じた」ということだけが、わかる。
 「絃の音」とどういうものか。バイオリンの弦? チェロの弦? 琴の絃? 低い音? 高い音? 澄んだ音? 暗い音? 明るい音? わからない。わからないけれど、「絃のように鳴つた」を私は美しい表現だと思う。瞬間的に、理由もなく(根拠もなく)、その音は透明で悲しみに満ちたものだろうと想像する。バイオリンのアリアのような、音。「その日」と過去を思い出すことばが、そう感じさせる。「過去」を思い出すのは、「抒情」の場合、悲しみが寄り添う--というのは「定型」の発想かもしれないが……。
 でも、「高らか」とあるから、そうではないかもしれない。明るい喜びに満ちた音かもしれない。愛をほのめかすことばだったかもしれない。他人にはわからないが、ふたりにはわかる愛のことば。でも、そうであるなら……いま、どうして「ぼく」はそれを思い出しているのか。いま、「あなた」はどこにいるのか。「その日」は幸福だったが、その後、悲しみがやって来たのか。愛は、どんな具合に破綻してしまったのか。どうして「高らかに鳴つた」音が、「高らかに鳴つた」と書いてあるのに、「高らか」なまま聞こえてこないのか。何があったのか。
 これも、わからない。
 わかるのは、嵯峨が、その日を思い出している、ということ。思い出しているから「話した」「鳴つた」と動詞が過去形になっている。「いま」から離れている。過去を思い出しているが、その過去に直接触れるというよりも、すこし距離を置いて触れている。「いま」と「過去」のあいだに、不思議な「距離/隔たり/空間」のようなものがある。「過去」だから、いま「高らか」に聞こえてこない。だから、哀しい、寂しいというようなことを連想するのか。
 しかし、「高らか」ではないが、「その音」は鳴っている。
 これを嵯峨は、

余韻はいまもつづいている

 と三行目で書き直している。「その日」、あることばが「絃のように鳴つた」、その音を直接思い出しているのではなく、その音の「余韻」を嵯峨は聞いている。いま、聞いている。
 「話した」「鳴つた」という過去形から「つづいている」という現在形へ動詞が変わっている。
 この瞬間に、「過去」と「いま」がしずかに融合する。「一体」になる。「主観」のなかで「過去」と「いま」の区別がなくなる。「その日」は「きょう」のことのように近くにある。「その日」なのに、「いま」、その日に触れている。「余韻」は「いま」と共振し、そこに新しい「音」を響かせている。

しかしよく見ると砂の上に
かすかに翼の触れた跡が残つている

 ある音が強く響く、それが余韻となっていつまでも残る。その余韻に共振して、「いま」が静かに響きを生み出す。そのときの「和音」。そういうものを嵯峨は書いている。嵯峨は、その「和音」を聞いている。「悲しみの和音」を嵯峨は聞いている。

35 入江

 「大淀川河口」という注釈がついている。

なぜこんなに心せかれてくるのだろう
ぼくの立つている砂地がもう残り少ない
くりかえしくりかえし寄せていた夕汐が滑らかに沖へひろがつていて
他のひとのしずけさに似た穏やかな海の上

 「ぼく」のこころのありようが、「他のひとのしずけさ」と対比されている。静かな海の「比喩」に「他のひとの」ということばがつくことで、「ぼく」のこころがくっきりみえてくる。
 嵯峨の詩は、静かな悲しみに満ちているが、その静けさは自己の感情を暴走させるのではなく、常に「他のひと(他者)」によって相対化されているからかもしれない。感情に溺れない。相対化によって、「主観」が「客観」化される。

どこかにかくれている一つの約束が見える
大きな鳥が一羽 砂洲の上をすれすれに飛んだ

 「一つの約束」とは何か。「大きな鳥」とは何か。わからないけれど、隠れていた約束が「鳥」になって砂洲の上を飛んでいくように見える。その鳥、そのあらわれ方が「約束」の「比喩」である。空の高みではなく、砂洲の上を「すれすれに」という飛び方が「かくれている」や「見える」と呼応する。
 「ぼく」の感情(主観)が「他者」によって相対化された瞬間に、感情に流されていたときには見えなかった何かが見える。
 嵯峨の詩のことばは、そんな動きを含んでいる。
小詩無辺
嵯峨 信之
詩学社
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外と内と、

2015-02-20 01:26:54 | 
外と内と、

「朝の六時から雨が降りはじめていた」ということばは、「三時からだった」ということばによってさっとかき消された。
テーブルの上の黄色い白熱球。その光が硝子窓に映っている。
互いのことばを憎んでいる二つの影は、
「無言のまま、海が灰色に変わるのをみつめていた」。
ひとりの日記にそう書かれたあと、
「悲しみの断崖」ということばと同じように記憶になってしまった。

遠くで鴎の鳴く声、近くで青いガスの花の開く音。
「外からやってくるのか、私のなかから聞こえてくるのかわかならかった」ということばは、風のない日に聞こえるあの音、雨が海に触れるの音のよう。

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齋藤健一「今の日」、夏目美知子「淡い光の集まる場所で」

2015-02-19 10:32:43 | 詩(雑誌・同人誌)
齋藤健一「今の日」、夏目美知子「淡い光の集まる場所で」(「乾河」72、2015年02月01日発行)

 齋藤健一「今の日」は、ことばが短い。ある意味で不完全である。読みながら、私はどうしても順序を入れ換えたり、ことばを補ってしまう。つまり「誤読」をする。齋藤が書いていることではなく、私が覚えていることを思い出し、齋藤のことばで私の記憶を整え直す。

電燈。真下の微笑。内側の笠は寒い。頬の右側にみぞれ
の音がはりついている。ただ部屋は生きる者が忘れられ
ているのだ。ずっと以前に父との。畳と同じ色になった。
ほどなく死んだのである。湿めりを帯びた光がここから
折れ曲がる。遮断機の横棒。ぐっしょりと濡れる。特別
急行列車の窓は唯一だ。

 電燈のともる部屋。発熱球だろうか。光が散らないように笠がかかっている。その笠の内側は、ほんとうは白熱球のために熱い。しかし、「寒い」と感じる。それは「事実」というよりも「主観」である。室内の風景、そこで起きていることを、断片のまま、客観的に描いているようでも、そこには「主観」が動いている。「主観」が世界を「断片」にしてしまっている。「持続」(接続)させてしまうと苦しくなるので、断片にすることで、呼吸をしているのかもしれない。
 笠の内側が「寒い」のではない。室内が「寒い」ということでもある。季節は晩秋か、初冬か。みぞれが降っている。齋藤がすわっている右側に窓があり、そこからみぞれが降るのが見えるのかもしれない。室内を、電燈の「笠の内側」を「寒い」と感じるのは、しかし、みぞれが降っているからではない。そこに死を待つ人がいるからだ。人が集まってきている。けれど、そのひとたちは、生きている自分たちのことを忘れ、死んでいくだれかをみつめている。それは父かもしれない。父は、畳と同じ色になって死んだ。--というのは、齋藤が思い出していること。そして、私が齋藤のことばからこういう風景を思い浮かべるのは、そういう光景に私自身が立ち会ったことがあるからだ。死んでいく人間ではなく、死んでしまった人間を囲む場だったかもしれないが、死者のまわりで、ものが個別に分断されていく。意味が消えて、ものだけが、ストーリーにならない「主観」と結びついて、そこに「ある」という感じ。
 「主観」の孤独が齋藤のことばの特徴かもしれない。
 齋藤がそんなことを思い出すのは、齋藤が、かつて父が死んだ部屋とよく似た雰囲気の部屋にいるからかもしれない。闘病しながら、部屋を見まわしているからかもしれない。(齋藤の詩には、いつも「病室」のにおいがする。)思い出しながら、目を、室内から外へ向ける。遮断機が見える。雨で(みぞれで)濡れている。特急がとおりすぎる。その窓から明かりが見えるのか。その明かりを見ながら、この部屋が特急の「個室」であったなら、と想像しているのか。旅へのあこがれを抱いているのか。
 私の読み取ったものは、みんな「誤読」なのだが、その「誤読」のなかで、齋藤の孤独な主観に触れたように感じ、なぜだが、こころが震える。主観の孤独に向き合って、それをことばにする齋藤の詩を「強い」と感じるのかもしれない。



 夏目美知子「淡い光の集まる場所で」は、齋藤の詩に比べると「散文性」が強い。ことばとことばの関係が密着している。ストーリーになっている。

雨の日、窓の傍のテーブルで紅茶を飲む。雨は激しく
はなく、降り続く静かな音が、部屋で流れる音楽に溶
け込む。

 読みながら、あ、わかりやすくていいなあ、と思う。しかし、この「わかりやすい」は実は「現実」ではない。
 雨の「降り続く静かな音が、部屋で流れる音楽に溶け込む。」というのは、「現実」ではなく、ことばによって整えられた世界である。雨の音が音楽に「溶け込む」を客観的に証明する(客観的に言いなおす)のはむずかしい。音の聞き分けがつかなくなることか。「和音」になってしまうことか。雨の音と音楽が調和すると言いなおしても、雨の音が音楽に似合うと言いなおしても、言いなおされたことは「現実(客観)」ではない。「現実」というものがあるとすれば、雨の音が音楽に溶け込んでいるように「聞こえる」(感じる)という夏目の「主観」が「現実」なのである。ことばを読みながら、私は夏目の主観に触れている。齋藤のことばを読み、齋藤の主観に触れたように。

    硝子窓の向こうの濡れて美しい葵の大きな葉
が気持ちを明るくしてくれる。そうした時、私は嬉し
いのだ。温かいお茶はゆっくり私の喉を下りていき、
穏やかさに包まれる。

 硝子窓の向こうで葵の大きな葉が濡れるというのは「事実」。それが「美しい」も事実(客観)かもしれない。けれど、「気持ちを明るくしてくれる」は事実(客観)というより「主観」だ。「そうした時、私は嬉しい」は「主観」そのものである。「主観」だから、そんなものは私には関係がないと言ってもいいのだけれど、その「主観」に知らずに同調してしまう。雨が「降り続く静かな音が、部屋で流れる音楽に溶け込む」という文が、主観でありながら「客観」を装っている。「主観」が「客観」になってしまっている。そのために、それにつづけて書かれる「気持ちを明るくする」「嬉しい」が「客観」のように、「事実」のように感じられるのだ。
 「主観」と「現実」が、静かに調和している。連続して調和している。
 齋藤の詩では、主観が現実を分断し、ものを孤立させていたのに対して、齋藤のことばはものを主観でつなぎながら世界を統合する。その統合のなかに「主観(明るい気持ち/うれしい)」という「わかりやすい主観」をしっかりと注ぎ込む。
 ただし、途中に「それは悲しみの色を帯びている」という「主観的すぎる」表現もあり、そういう部分は「うるさく」感じる。
 主観が過剰であると感じるのは「色」ということばが「悲しみ」を常套句にしてしまうからなのか、「帯びる」という動詞が抒情の論理であるためなのか、あるいはその二つが複合するからなのか、よくわからない。(考えても、あまりおもしろくないので、端折ってしまう……。)
 けれど、

河は二本だが、ここで交わるので、淡い光が集まって
来る。

 という文章は美しい。思わず傍線を引く。いつか「盗作」してみたい気持ちに襲われる。「淡い光が集まってくる」は事実なのか、そのように見えるという「主観」なのか。「主観」なのだけれど、「客観」と感じたくなる。こういう錯覚(誤読)を許してくれるのが詩である。

私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

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嵯峨信之を読む(18)

2015-02-19 10:30:14 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
32 病む女

 「病む女」は嵯峨が女を描写しているのではなく、嵯峨が病む女になっている。虚構の詩である。

ちようどわたしがこのように空しいこころでいるときに
わたしの内側からたれよりもわたし自身がそれをみつめているのに

 という二行がある。「わたしの内側から」「わたし自身をみつめる」という視線のあり方、「わたし」を相対化する視線が、その「わたし」をさらに突き放して「女」にしてみつめているとも言える。相対化、客観化したいという気持ちが強くて自分自身を「女」に仮託したのだ。
 その「気持ちの強さ」は「たれよりも」ということばになっている。気持ちの強さが高じて、「男」ではなく「女」という「存在」を必要としたのかもしれない。完全に切り離してみつめたいという気持ちが働いているのだろう。
 この客観化(?)は、それ自体が「病気」である。自分が自分ではなくなる、自分が自分のまま「遠く」にあると感じる--それが「病気」だ。こう書いてしまうと、詩の世界が堂々巡りになるが、この「分離」の感じ、「空しさ」の感じが「病気」であり、それを嵯峨はさらに言いなおしている。

妹さえも「お姉さま……」というとき どんなに遠いところにいるかがわかる
わたしはなにかわけのわからぬ乗り物にのつているようだ
むかしは時を自分が通りぬけたのに
いまは時がわたしに触れて通りすぎる

 ことばが「論理的」に動いているが、「論理」が動くとき、「分離」というものが生まれるのかもしれない。「論理」は「客観」でもある。「客観」を追求するとき、自己の「分離」と「空しい」が生まれる。
 嵯峨が書きたいのは、そういうことかもしれないが、私はこの「論理的」な部分よりも、最初の方に出てくる三行が好きだ。

いましずかに重くわたしの手の上に息づいているものが
花束よりもその茎を小さく結んだ紐が
こんなに気になるのはなんということだろう

 花束ではなく、茎を小さく結んだ紐--その具体的なものへのこだわり、描写、具体的なものをことばにする瞬間が、花束を見ている人間の「肉体」を感じさせる。

33 言葉

聞きそびれた昨日の言葉は
夕空にかかる虹のようにうつくしい
しかしその虹を地上にひきおろしてみると
それは一条の縄でしかない

 ことばは意味を点検すると美しさを失うということだろうか。「虹(にじ)」に対して「一条(いちじょう)」ということばの向き合い方のなかに「二」と「一」の対比があるようで、おかしい。
 また、ことばを「一条の縄」と「線」のようにとらえているものもおもしろい。この詩は二つの断章から構成されているのだが、後半には「小枝」という比喩が出てくる。「小枝」もまた「線状」のものである。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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ことばがあった

2015-02-19 06:00:00 | 
ことばがあった

「積み重ねられた本」ということばがあった。
「積み重ねられた本のあいだに挟まった手紙」ということばはそのあとにやって来たのに芝居の主人公のようにスポットライトを要求した。

「鍵を壊された引き出し」ということばがあった。
傍線で消して、「倒れた椅子の形を残して薄くひろがるほこり」ということばに書き換えようとするこころみがあったような気がした。
「女が、別の女に似てくると感じた」ということば書かれなかったが存在した。

「タンスの内側の鏡」というセンチメンタルなことばがあった。
「見る角度によって空っぽの闇を映した」ということばになったり、
推敲しあぐねて、丸められた紙といっしょに捨てられたりした。



*

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ウベルト・パゾリーニ監督「おみおくりの作法」(★★★)

2015-02-18 21:01:12 | 映画

監督 ウベルト・パゾリーニ 出演 エディ・マーサン

 孤独死。身寄りのない人の死に向き合い、葬儀の手続きをする民生委員を描いている。ロンドンが舞台だが、この仕事は日本ではどうなっているのか。これから問題になってくるテーマである。
 主人公はリストラ(?)のため首になる。その最後の仕事の孤独死の男は、主人公のアパートの真向かいに住んでいた。何も知らない。そのことが気になり、その男の人生を追いかける。娘がいるが、疎遠である。また、かつての恋人が産んだ娘もいる。男はその事実を知らないまま死んだ。フォークランド紛争のときの戦友がいる。ホームレス仲間もいる。男は問題をかかえていたが、友人も恋人もいたのだ。娘やかつての恋人や友人を訪ね、葬儀への参列を呼びかける。
 これをたんたんと描いているのだが。
 一か所、はっとしたシーンがある。父親(男)を嫌っていた娘が主人公を訪ねてくる。葬儀に参列する、そのあと一緒にお茶をのみたい、という。そし「ありがとう」とお礼を言うのだが、それに対して主人公は「自分の仕事をしただけです」という。「イッツ・マイ・ジョブ」というような英語が聞こえた。(正確ではないかもしれないが。)
 「仕事が人間をつくる」というのはマルクスの「哲学」だと思うが、ああ、そうなのだ、人間は「仕事」を通してしか人間になれない。何かをつくる(する)ということが人間をつくっていく。そのことを強く感じた。
 孤独な死と向き合い、その人の人生を想像してみる。その人の葬儀にはどんな音楽を流せばいいのか。どんな弔辞がいいのか。考えながら、仕事を繰り返してきた主人公。もし、身寄りが見つかれば、その人に連絡し、葬儀への参列を呼びかける。それまでも主人公はそうしてきたのだが、最後の仕事では、アパートの向かいにいるのだから、もしかしたら自分自身も彼の「知人」であったかもしれないのに何も知らないということに衝撃を受け、もっと死者の「人生」に触れてみよう、親身になってみようと思い、彼の人生をたどる。恋愛をして喧嘩して別れ、また別な人と恋愛をしてこどももできるが、やっぱり持続しない。もがきながら生きている男が見えてくる。同時に、彼の周りで同じようにもがきながら生きている人間が見えてくる。死者に寄り添いながら、また、生きている人たちにも寄り添う。すると、それまでばらばらだった人たちがだんだん近づいてくる。近づくことで、死んでしまった男のことが、生きていたとき以上に親密に見えてくる。世の中というものも見えてくる。
 主人公は、ひとりひっそりと身寄りのない死者を葬るという仕事をしている、忠実に仕事をしているだけなのだが、彼は、だれにも気づかれないまま「親密」をつくるというもうひとつの仕事をしていたのだ。そのことに主人公は気づいていないけれど、この映画に登場する人たちにはそれがわかるし、観客にもわかる。すばらしいことをしているのに、それを「仕事」と表現する謙虚な姿に、こころを打たれる。
 仕事をていねいにすれば、そこからていねいな人間が生まれてくる、美しい人間が生まれてくる--と書いてしまうと、何か、資本主義の都合のいいような「論理(意味)」になってしまうかもしれないけれど、それをもう一度マルクスの「哲学」から見つめなおせたらいいかもしれないなあ。あ、私はマルクスは何も読んだことがなく、「世間」から聞こえてくマルクスのことばから勝手に考えているので、これは「誤読」かもしれないけれど。(いま、マルクスではなくピケティの「21世紀の資本」が話題になっているが、格差社会の構造を指摘するピケティよりも、マルクスの「哲学」を読み直した方がいいのかもしれない、ということも頭をよぎった。)
 仕事か、仕事(労働)が人間をつくるのか。だから、ていねいに働かなければならない。自分自身をつくるためには--というようなことを、ふと、思ったのだ。だれかのためにではなく、自分自身のために。

 ラストシーン。主人公が人生をたどりなおした男の埋葬に家族や友人が集まってくる。そこに男の人生が見えてる。一方、事故で死んでしまった主人公は共同墓地に葬られる。身寄りはだれもいない。だから参列者もいない。男の葬儀に参列した人たちのだれひとりも、主人公が死んだことすら知らない。寂しい埋葬である。けれど、そのまわりに主人公が最後を見届けた死者たちが集まってくる。幽霊。彼らが、主人公の人生を浮かび上がらせる。人生はいつでも「他人」が集まってきてつくり出すものなのかもしれない。仕事が「他人」と自分を結びつけ、そこから人生がはじまる。「人間」がはじまる。
 声高な主張ではないし、どんどん盛り上がっていくクライマックスでもないのだが、映画館の方々からすすり泣きが聞こえる。私の隣の女性は、そのすすり泣きを聞けば、ほかの人も泣かずにはいられないと思うくらいの切実さで泣いていた。私は、こういうシーンでは泣いたことがないのだけれど、その女性の切実な声につられて泣きそうになった。
 この日、水曜日ということもあってか、映画館は満員で、補助椅子まで埋まってしまった。
                      (KBCシネマ1、2015年02月18日)








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「誤読」について

2015-02-18 13:34:59 | 詩集

「誤読」について

 「李白詩選」(松浦友久編訳、岩波文庫)に「與史郎中飲聴、黄鶴楼上吹笛(史郎中と飲み黄鶴楼上に笛を吹くを聴く)」という詩がある。その「現代語訳」が面白い。

一為遷客去長沙  一たび遷客と為って長沙に去る
西望長安不見家  西のかた長安を望めども家を見ず
黄鶴楼中吹玉笛  黄鶴楼中 玉笛を吹く
江城五月落梅花  江城 五月 落梅花

郎中の史君と酒を飲み、黄鶴楼上で吹く笛の音を聴く。
一たび左遷の客(たびびと)となって、はるかな長沙へと旅立って以来、
西のかた遠く長安を望んでも、わが家が見えるはずもない。
長江ぞいのこの城(まち)では、夏の盛りの五月というのに「落梅花」の曲が流れてゆく。
 ――あたかも、梅の花びらが風に乗って散るように。

 「現代語訳」なのでところどころに原文にないことばが補われている。「笛を吹くを聴く」は「笛の音の聴く」と「音」が補われる。そうすることで日本語らしくなる。「遷客」は「左遷された/客(たびびと)」と意味が補われている。それだけなら、そんなに違和感はないのだが、4 行目の「現代語訳」はどうだろう。「長江ぞいのこの城(まち)では、夏の盛りの五月というのに「落梅花」の曲が流れてゆく。」は「夏の盛りの」が補われ、梅の花と奇異さが強調されている。さらに、

 ――あたかも、梅の花びらが風に乗って散るように。

 これはいったいどこからきているのだろう。どこにも書かれていない。梅の花が風に乗って散るというのは、「常套句」であり、「常套句」というのは「美の形式」なのだろう。その「美の形式」を伝えたくて松浦は「現代語訳」をつくっている。
 これは、我田引水させてもらうと、私がいつも書いている「誤読」である。書いていないことを、勝手に付け加えているのだから。
 でも、詩を読む(文学を読む)とは、こんな風に「自分はこう思う」を付け加えてしまうものなのだ。なぜ付け加えるかというと、付け加えたことばで自分の存在(肉体/暮らし)をととのえるためである。ことばを、肉体で模倣する。肉体はことばを模倣するものである。「常套句」というのは、多くの肉体が模倣することで、「ことばの肉体」になったもののことである。
 「笛を聴く」ではなく「笛の音を聴く」と「音」を補うのも「常套句」である。「音」のなかには「調べ/音楽」がある。「笛を聴く」のではなく「音楽を聴く」というのが「日本語の肉体」なのだ。「笛」を超えた「真(まこと)」を聴くといってもいいかもしれないが。詩はこの「常套句/ことばの肉体」をどう破って、「新しいことばの肉体」をつくりだすかという試みなのだと思う。
 あ、書こうとしていたことからだんだんずれていくなあ。まあ、いいか。
 他人の「誤読」の暴走を見ると、私はうれしくなる。読むというのは、やっぱり「誤読」以外にないのだ。

 ちょっとめんどくさいのは……。
 「常套句」がめんどうくさいのは、「常套句」というのは本来、多くの肉体を潜り抜け、肉体の共有と同じ形で成立したはずなのに、いったん「常套句」になってしまうと肉体を通らずに「頭」と直接結びつくことができる点だ。だから作家や詩人は「常套句」に対して慎重なのだが(「常套句」をつかうときは、その前後に「文学(共有されたことばの肉体)」をはりめぐらし、「常套句」が独立して歩き出すのをひきとめる工夫をする)、「文学」を意識しない人は、無頓着に、「ことばの経済学」(わかりやすく、合理的な「意味の伝達」手段)としてつかうとこである。

 あ、ますます何を書こうとしていたのかわからなくなっていくが、端折って、松浦友久の現代語訳の最後の1行は「誤読」だが、「誤読」だからこそ、読んで楽しい、読んでよかったなあと私は感動した――と書いておく。
 

李白詩選 (岩波文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店
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嵯峨信之を読む(17)

2015-02-18 10:19:34 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
30 新生

 「意味性」と言えばいいのか「精神性」と言えばいいのか、抽象的な部分が多い。

人間の内部で
神がそのひとを自らの成長に任せはじめる時がある

 「神」と語られているものがどのような神なのか、私にはわからない。嵯峨の信仰について私は何も知らない。また、私は「神」というものを信じていないので、尚更、わからないのだが。しかし、人間の内部で何かが自らの力で育つということは、わかる。実感することがある。
 この二行を、嵯峨は、最後で言いなおしている。

するとなにかしら遠い合図が帰つてくる
あの盲(めし)いたひとに伝わるものが
急にまちがえてぼくの手に伝わつてきたように
怖ろしいまでに深い注意をひめた一つの合図が

 人は自ら成長するときがあるが、その前には「合図」がある。合図を受け止めて、それから成長する。だから、それはほんとうの「自ら」ではなく、あくまで「神」が与えてくれたものである。「神」が「任せ」たのである。
 「神」ということばの必然性は、「合図」という形で言いなおされている。
 この「合図」のことを「急にまちがえてぼくの手に伝わつてきたように」と書いているところが、この詩のポイントかもしれない。それは望んでいる瞬間にやってくるのではない。予期しないときに、突然、やってくる。「間違い」のようにやってくる。それが「間違い」であるかどうかは、それを受け止められるかどうかによって異なってくる。「間違い」であっても、それを受け止めれば、それは「正しい」に変わるのだ。あらゆる「合図」とは、そういうものだと思う。
 秘められた「深い注意」に気づくこと--それが自ら成長するということだ。
 
 この抽象的なことばの運動のなかほどに、少し不思議なイメージが書かれている。

熱帯の涼しい村のはずれを
ぼくがたどりついたこともない
静かな限界が眼の前に横たわる
無の川を流れる樹木
色とひかりと雲を沈めた丘

 日本の風景なのか、外国の風景なのか。桃源郷か。空想の風景なのだが、「無の川」の「無」のように、そこにふいに「日本的」な概念がまぎれこんでいる。(東洋の概念といってもいいのかも。)
 先に引用した「神」ということばを「西洋」風、この「無」を「日本」風と感じるのは、私の「誤解」かもしれないが、「熱帯」と「涼しい」が出会うように、「西洋」と「日本」が出会っているようでおもしろい。
 詩は「実感」を書いたものだが、その「実感」はときには知っていることばをつかってつくり出していくものでもある。「実感」に近づくために知っていることばをつかって、「自ら成長」していくものでもある。

31 櫂

 抽象的な詩、象徴詩というのは、ことばのすべてを「意味」にしなくてもいいのだと思う。イメージが動き、その動きが読者のなかに何かの印象を残せば、それでいいのだと思う。書いている詩人も「意味」を厳密に書いているわけではなく、「意味」になりきれない揺らぎを書いていると思う。
 嵯峨は「とらえられない」ということばで、そういうあいまいさと実感を書いている。「詩」を「櫂」という比喩にたくして、「詩はとらえられないもの」である、その「とらえられない」という気持ちのなかに生まれ、消えていくのもだと書いているようにわたしには感じられる。

それはどんな韻律(リズム)でもとらえられない
それはどんな文字綴(シラブル)でもとらえられない
もつともつと大気を自由にして
もつともつと光線を垂直にしても遂にとらえられない
ああ 昨日までぼくが触れていたものを
いま水面にとり落とした櫂のように
ぼくの心の渦をひとまわりしてやがてぼくから急速に遠ざかつていく

 こういう抽象的なこと、象徴的なことばの運動が詩になったり、詩ではない何か(哲学とか小説とか)になったりのは、何の違いによって起きるのか。
 ことばの音楽性によるのだと思う。音楽性が強いとき、読んで耳にことばが心地よく響いてくるとき、その響きを詩と言うのだと思う。
 この詩では、嵯峨は「韻律」に「リズム」ルビをふっている。「文字綴」と書いて「シラブル」と読ませている。「リズム」「シラブル」は音が軽い。そして日本語とは異質の音の組み合わせがあり、それがなんとなく楽しい。こういう音を本能的に選びとり、その響きにことばの全体をあわせていくことができる--これは詩人にとって重要な「才能」だと思う。
 イメージの美しさは、そこにあらわれる「視覚」の要素が美しいだけではなく、音として美しくないと広がりを書いてしまう。嵯峨はどんなときでも「耳」で音を確かめながら書いているようだ。耳の確かさを感じる。

嵯峨信之詩集 (芸林21世紀文庫)
嵯峨 信之
芸林書房
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