40 留守居
「都城旧居」の注釈。
ある日の午後を
じつとひとりで留守居をしている
子供の眼にうつる高い梢
その梢は遠い並木のはずれになつていて
たれも帰つてこない道がはるかにつづいている
四行目が美しい。「つづいている」の主語は「道」なのだが、読んでいると「たれも帰つてこない」という時間がつづいているようにも感じられる。風景と時間がまじりあう感じがする。
留守居を「している」と現在形で書かれていることも影響しているかもしれない。「いま」が永遠につながる感じがしてくる。
この並木は道の両側に木が並んだ並木だろうか。木の高さがそろっていて、道はまっすぐで、並木が透視図のようにXの形を浮かび上がらせる。対称形の道を思い浮かべてしまう。そういう道は実際にはないかもしれないが、実際にないからこそ詩(永遠)のなかで存在する。現実が詩をつくるのではなく、詩(永遠)のことばが現実(いま)をととのえていく--そういう夢をみたくなるような感じがする。子供の眼は、そういう「非現実」の美を見てしまうものである。
「じつとひとりで」という動かない印象、静的な印象、一点透視の対称形が響きあう。ひとりだから、その空想をだれも邪魔しない。
41 帰郷1
「高鍋町」の注釈。
遠い村の周りで夜明けをつげる鶏が啼いている
近くの方の鶏があとから啼きはじめた
この対になった二行がおもしろい。「遠く」から「近く」へ夜明けが動いてくる。光だけではなく、音(鶏の鳴き声)といっしょに動くことで、それが「現実」になる。視覚でとらえた明るさの変化だけではなく、耳でとらえた事実が、現実を豊かにする。
時系列的には「遠くで啼いていた」→「近くで啼きはじめる」なのだが、感覚のなかでそれが逆になるのもおもしろい。逆になることで時間がかきまぜられる。過去といまの区別がなくなる。入り乱れ、融合する。
この視覚と聴覚、さらに過去といまの混じりあった世界は、しかし、現実というよりも「心象風景」かもしれない。「留守居」の並木道もまた「心象風景」であったかもしれない。「こころ」がととのえなおした、ことばによる世界だったかもしれない。
そんなふうに思うのは、
海へ傾斜した丘の上の松に白い月がひつかかつていて
一つの唄が唇に浮かんできたがそのまま消えてしまつた
唄はぼくの孤独のころを想いだして消えてしまつたのだろう
という三行に、また、視覚と聴覚の連動した動きがあるからだ。白い月(視覚)を見たとき、唄(聴覚)が消える。松に引っ掛かった月は、孤独の象徴。唄(聴覚、ただし唇も含まれるので発声器官を含むが)を歌わなくても、(それを自分で聞かなくても)、視覚がかわりに松に引っ掛かった月を見て、そこに孤独を感じ取っている。だから唄を必要がなくなった。聴覚を刺戟する必要がなくなった。
こんなふうに「理詰め」にしてしまうと嘘っぽくなる。
詩は理詰めにせず、ことばの瞬間瞬間の印象つなげて、イメージを錯覚してしまう方が楽しい。夜明けと鶏の鳴き声に視覚と聴覚の結びつきがあったように、松に引っ掛かった月と歌われなかった唄にも視覚と聴覚の結びつきがあり、それは「孤独」とも結びついていると感じるだけでいいのだろう。
「ぼく」が主語ではなく、「唄」がしゅごになり、孤独を想いだす、消えるというのも、主客の意識のいれかわりのようでおもしろい。翻訳調の文体というよりも、意識が交錯する一瞬ととらえたい。
最終行、
永いあいだ忘れていたぼくの心のなかに立つていた
この「立つ」の主語は「ぼく」。「ぼく」が「ぼくの心のなかに立つ」というのは、心象風景のなかに「ぼく」は「いる」ということだろう。
鶏も月も心象風景。だから、そこには視覚、聴覚の明確な区別はなく、それはどこかでいっしょになっている。感覚の融合が心象風景を豊かにする。
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