詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小島浩二「図書館は黄昏を抱きしめる」

2015-02-17 11:31:14 | 詩(雑誌・同人誌)
小島浩二「図書館は黄昏を抱きしめる」(「モーアシビ」30号、2015年02月10日発行)

 詩は不思議だ。作者が書きたいことはここなんだろうなあ、でも私が読みたいのは別なところ。そういうとき、私は、作者を無視する。
 小島浩二「図書館は黄昏を抱きしめる」は、まあ、タイトルは読みたくないね。というか、タイトルを読んだ瞬間、この詩全体を読みたいという気持ちは消えるのだけれど、批判するにはどう言えばいいのか。どんなふうに批判できるか、そのとき私のことばはどんなふうに動くのか。それを知りたいと思って読みはじめたら……。

閲覧室 に
西陽が射して 日向
ほこりは 活字の
断片に 見えました

 あ、おもしろい。「ほこりは 活字の/断片に 見えました」はほこりが活字に見えたということか、それとも活字の端っこ(?)に断片のように見えたのか。ほこりが「比喩」なのか、活字が「比喩」なのか。私は即物的な人間なので、活字の縁に触れている活字に気づいた、と読んだ。そのほこりに西陽が射して、ほこりが黄色く輝いている。
 ほこりも活字も「比喩」ではなく現実と思うと、図書館がなつかしくなる。
 一字空きの「空き(空白)」が世界をばらばらにして、その断片を輝かせている。全体はどうでもいい。断片しか見えない、という感じになるのも、妙にうれしい。西陽、夜へ帰っていく太陽は世界をばらばらに孤立させるのかな?

眼差しは活字を追います
難しい漢字も何となく覚えています
ただ 上手く表記できないだけです

 不思議ななつかしさがある。漢字にてこずった子供のころを思い出す。(いまでもてこずってはいるけれど。)
 1連目に出てきた「活字」が2連目にも出てくるが、ここでも「断片」として出てきているように思える。本を読むとき、ストーリーを追っているのか、それとも活字を追っているのか。活字を追って、音にして、ことばをつかんで、それからまた活字を追いかける。そういう「肉体」の感覚を思い出したりする。
 小島は「いま」を書いているのかもしれないが、その「いま」のなかへ「過去」が噴出してくる。「いま」を「過去」が突き破って動く。そんな印象がある。そして、それは考えようによっては「図書館」のあり方そのもののようでもある。古い本(古典)を読むと、いつでも「いま」を突き破って動いてくる「過去」の力を感じる。
 小島は、しかし、そんな「うるさい」ことは言わない。「意味」を語らない。
 それがまた「なつかしい」という感じを刺戟する。

 眼が 痛い

紙の饐えた におい
生もの 本の味
その記憶

 あ、いいなあ。「意味」を語らずに、逆戻り。あくまで「生理」にこだわる。古い本の、「紙の饐えた におい」。いろんなひとの、手の汗がしみこんだせいかな? それはそきまま、「本」が「生もの」であることを語る。新鮮なときは、みんなが喜んで味わう。時間が経つに連れて、だんだん腐ってくる。古くなってくる。「饐えた におい」がしてくる。あ、本は「生もの」だったのだと気づく。
 その直前の、独立した1行。「眼が 痛い」は小さい活字を読むと(特に日が傾いた時間に読むと)眼が痛いということなのかもしれないが、その「痛み」は活字(本)が発する「饐えた におい」が原因かもしれない。醗酵するにおいは、眼に刺激的だ。何か、眼を射してくるものがある。
 この、本のことを書いているのに、図書館のことを書いているいるのに、そこに「嗅覚」(におい)や「生もの」(味覚の変化)が混じり込んでくる部分が、「肉体の記憶」を刺戟して、とてもおもしろい。
 本を読むのは「知的」なこと、「頭」の仕事かもしれないけれど、それだけではない。どこかで、知らず知らず「肉体」を総動員している、という感じがする。幼いときは、そういうことには無頓着。「難しい漢字」もそれを読めるかどうか、意味がわかるかどうかが重要な位置を占めるけれど、そのとき覚えた「意味」や「読み方」、あるいは「表記(書き方)」とは別なところで、本の記憶は動いているね。
 こういう行をもっと読みたいなあ、と私は思う。そう思っているから、そう思ったところで「誤読」を繰り返している。
 でも、このあと詩は別な方向へ動いていく。

「また 会えるかな」
本を閉じて呟いた
少年と すれ違った書架

 「少年」が小島なのか、「書架」が小島なのか。両方とも小島なのだろうけれど、ここから「定型」の「少年の記憶」、「少年」をなつかしむ詩にかわってしまって、「本」の「生もの」の感じが突然消える。
 そこからが、つまらない。前半はとってもおもしろいのに。

水にその名を―詩集
小島 浩二
七月堂
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嵯峨信之を読む(16)

2015-02-17 08:35:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
28 小詩篇

 三つの断章の、二つ目。

愛というものは
薔薇の新種のようなものだろう
そのつよい匂い
そのやるせない色
そしてもの憂いつかれ
もしそれを数え唄に唄おうとすれば
それはどこまでも果しなくなつてしまう

 愛には限りがない、無数の形があるということか。
 途中の「そのつよい匂い/そのやるせない色/そしてもの憂いつかれ」のリズムがおもしろい。「その」「その」と繰り返されている。新種の「薔薇」に意識が集中している。嗅覚と視覚が薔薇にぴったりと密着している。そういう強さを「その」ということばの響きに感じる。「その」と言わざるを得ない何か。
 「そのつよい匂い/そのやるせない色」と「その」を繰り返すとき、匂いがいっそう強くなり、色がいっそうやるせなくなる。
 ところが「もの憂いつかれ」には「その」ということばがない。肉体が薔薇から少し離れている。離れた場所で冷静に見つめている。
 愛とは、そういうものも含めている。熱中するだけではないのだ。

29 出会い

 この詩も短い。

ぼくは何処かへいつて
ある精神から一株の松葉牡丹を持ち帰つたのだ
(一日一日を小さな花でやさしく充たすために)
そしてこころの霜を消して
あたたかな斜面を登つていこう
その頂きでふたりは始めて出会うだろう

 「ある精神」とは「女の精神」のことだろうか。その精神の象徴「松葉牡丹」によって自分の「こころ」を温める。「牡丹」は「愛」かもしれない。女の愛によって、自分のこころを温め、「霜」を消す。そういうことを想像している。
 そのあとの2行とのあいだには、不思議な飛躍があるのだが、その説明しにくい飛躍がおもしろい。
 「精神」というような冷たい(冷静な?)ことばではなく、「あたたかい」何かをたどっていく。あたたかいものを追いながら斜面(丘だろうか)をのぼっていく。そうすると、そこには女が待っていて、初めてのようにして、出会う。あるいは、ふたりで一緒にのぼっていくのだが、のぼりつめて、「その頂き」で初めて出会う。「その頂き」が「初めて」の印になる。「初めて」を実感する。共有する。そういう思いの強さが「その頂き」の「その」ということばのなかにある。
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
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空き缶

2015-02-17 00:54:51 | 
空き缶

最終の地下鉄が走り去ったあと、
遅れてきた一本が
仕方がないというように動き出す。
吊り輪が白い光のなかで
さらに白くなっている。

通路に空き缶が転がる。
飲み残しの液体を
だらしなく漏らしながら
座席の下の鉄板にぶつかり
押し返され、方向を変える。

進行方向にまっすぐに、
連結部分まで行って、
また戻る。扉のところで
革靴でしずかにけられる。

何もかもわかっているさ。

それから、
誰とも口をきくものかと決めた
未熟な若者のように、
泣きそうになる。
回送列車がすれ違うとき、
はげしく揺れる。








*

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大江麻衣「テレビの犬」、和田まさ子「発熱する家」

2015-02-16 11:55:20 | 詩(雑誌・同人誌)
大江麻衣「テレビの犬」、和田まさ子「発熱する家」(地上十センチ」9、2015年02月15日発行)

 大江麻衣「テレビの犬」は、書き出しがすばらしい。最初の二行だけで、わっ、傑作だと叫んでしまう。

むかしのテレビはきちんと見る(「見る!」は言葉にならない、「絶対」もない、その選択肢自体がない)
おとなしく三人並んで、まっすぐ座って見る、犬犬犬。犬の後ろすがた。

 あ、確かに、昔はテレビの前できちんと座っていた。寝転んで見てたりするとだらしないと叱られた、というのはテレビもかなり普及してきてからだ。テレビそのものが貴重なので、その前で寝そべるというのは、テレビに対して失礼だった!
 最初にテレビを見たときの、あの「見る」という動詞は、たしかにことばにはならないなあ。「テレビを見る」ということばのあり方自体が、ここでは批評され、さらに批評になっている。
 うーん、強い。強いことばの運動だ。
 この批評のことばの強さは、生まれたときからカラーテレビがひとり一台(以上?)の世代にはわかりにくいことかもしれないけれど……。
 で、わかりにくいとわかっているから、大江はこの批評を「現象(風俗)」という肉体に移行させながら、ことばを動かす。肉体を描くこと、風俗を描くことのなかに、批評を組み込んでゆく。
 そのちきちんと座って見る姿は、たしかに犬がお座りをしてまっている姿に似ている。尻をそろえて、きちんと並んでいる。

並んでドラマ、並んでテレビ
歌番組ではレコードの声を思い出さない
知らない歌詞が出てきそうで、まっすぐ座る

 まっすぐに座ろうが、寝転んでいようが、テレビのなかで起きることが変わるわけではないのだが、そんな「客観」的事実なんかは関係がない。テレビを見るというのは、もっと「主観的」。真剣。真剣だから、

テレビの犬が死んだら哀しい
性欲は減退するから、えろいテレビは消えていった
性とギャグはむずかしいのに簡単に古くなる

 これは鋭い指摘だ。「11PM」と聞いて「えろい」とときめいたことをおぼえているひとが何人いるか。いや、いま「11PM」があったとして、えろいと感じて「注意深く」(あるいは隠れるようにして)見るひとが何人いるだろうか。
 詩を読みながら、いろいろ思ってしまう。思い出してしまうし、これからを想像してもしまう。大江の書いていることを忘れて、自分の思い出に夢中になってしまう。大江には悪いが、こういう作者を忘れてしまって何かを勝手に考えたり想像したりするというのが、私は詩だと思っている。
 たぶん、詩に限らないが、本を読むというのは、そこに書いてあることを理解する(学ぶ)ということよりも、そこに書いていないことを勝手に知ってしまう(思ってしまう)ということなんだろうなあ。大江の詩を読みながら、大江の「生活」を知るわけではない。大江の「考え」を知るわけではない。そのことばを通して、自分のおぼえていることを思い出したり、自分の考えを動かしたりする。そういうものだと思う。
 途中を省略して、最後

「あとで見る」だいたい うそをつく

 「あとで見る」と言ったテレビは、だいたい、見ない。「あとで見る」は、うそである。笑ってしまうなあ。
 引用では省略した部分から「あとで見る」までの変化は、「地上十センチ」でお読み下さい。



 和田まさ子「発熱する家」。あいかわらず変なことを書いている。

電球が切れたので
替えたら
部屋が新しい白熱灯で煌々とし
ものが大きく見えてきた
夕飯のおかずのウィンナーソーセージが棍棒くらいになり
千切りキャベツが藁小屋のわらのようだ
わたしの着るワンピースはカーテンくらいの大きさで
着たら重さで動けないだろう

 たしかに明るくなったらものがはっきり見える。はっきり見えるというのは「大きく」見えるということ。大きいから、はっきり。そこまでは、ふつう。いや、繊細な視覚の変化をとらえた「正しい」表現。
 でもねえ、「ウィンナーソーセージ」は「棍棒」には見えない(ならない)でしょう。言い過ぎでしょう。「千切りキャベツ」が「藁小屋のわら」のようになるというのも、嘘。だいたい、「棍棒」に「わら」って、まずくない? 和田さん、いったい何を食べてる? どうせ嘘を書くなら、もっとおいしそうなものを書けばいいのに、なんていう「ちゃちゃ」を入れたくなるなあ。
 こうなると、もう、だめ。
 すっぽり和田の世界にはまりこんでしまう。
 「ワンピース」が「カーテン」くらいになったって、カーテンが重く動けないなんてことはないだろう。劇場の緞帳ではあるまいし。
 そう言いたいのだが、

生きているとなにかの重さに
へとへとになる

 あ、先回りして「意味」の一撃。
 まいるね。嘘ばっかりついて、と避難したいのに、そうだなあ、「生きているとなにかの重さに/へとへとになる」ことだなあ、と思ってしまう。
 そして、

家を出て
外から見ると
ちんまりと建っていたわたしの家は
赤黒くなって
膨脹し
窓からは粉を吹きあげて
光を放ち
恒星のようだ
何かに怒っているのか
熱を帯びて
ゆらゆらと動き出しそうだ

 これは「家」? それとも「和田」? 和田自身を「比喩」のように書いている? 「へとへと」に鞭打って、「へとへと」を「怒り」にかえて、動き出そうとしている人間の姿を思ってしまう。

近所の人が出てきて
わたしの家を見ていた
その間にも
家は膨脹しつづけ
心音のような脈を打ち
くらがりのなか
発光しつづける
わたしは歩き出す
電球をさらに十個買うために
コンビニに向う

もっと家を困惑させたい

 和田のなかでも、家と和田が入り混じっている。和田は家になってしまっている。だいたい、このひとは何にでもなってしまうからなあ。何でもなって、それをくぐりぬけて動いていくからなあ。何かにこだわらずに、「きょうは、これ」という感じが強くていいなあ。「もっと家を困惑させたい」というのは「自虐」のようにも読めるけれど、「自虐」することで突っぱねる。いじけない。それが、おもしろい。

なりたいわたし
和田 まさ子
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嵯峨信之を読む(15)

2015-02-16 09:18:21 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
26 路上の女

 この詩には私に触れてくるものは何もなかった。「絨毯」の比喩が実感できなかった。

ひと眠りしよう
遠い路 はるかな丘の起伏 ところどころの森や林
どこまでも曲りくねつている川
そんな絨毯をすつかり巻き収めて

 嵯峨のふるさと、日向の「原風景」だろうか。夢にあらわれるのは、いつもその風景なのだろうか。

27 わが哀傷の日の歌--旧詩残抄

 断章で構成されている。その最初の部分。

女は
夜空に
白い腕をのばして
星をつかみたいとおもいました
葡萄棚からひと房の葡萄をもぎとるように

 「女を愛するとは」のなかに出てきた「また葡萄のひと房のなかに閉じこめることだ」を思い出す。「葡萄のひと房のなかに閉じこめること」とは「葡萄棚からひと房の葡萄をもぎとる」女の姿をしっかりと記憶することという意味かもしれない。それが「愛する」ということ。その女は「白い腕」をしている。その「白」が葡萄の色と似合う。
 嵯峨は「星をつかむ」という女の非現実的な行為よりも、「葡萄棚からひと房の葡萄をもぎとる」という具体的な姿を書きたいなのかもしれない。「葡萄棚からひと房の葡萄をもぎとるように」というのは比喩だが、現実には「星をつかむ」の方が比喩として動いている。「現実」と「比喩」が瞬間的に入れ代わっているように感じられる。

 砂漠ということばを含む断章もおもしろい。

とある日
かの女は砂のような言葉を
わたしの顔の上に吹きかけた
わたしが通りぬけた砂漠は
かの女の心のなかであつたのだろうか

 心の内と外が入れ代わり、交錯する。「砂のような言葉」の「砂」は比喩なのだが、心の中では「砂漠」という「比喩」が心の外へ出ることで「現実」になった。あるいは「砂のような言葉」の「砂」は、心の中の「砂漠」という比喩を、心の中で「現実」にしてしまう。
 瞬間的な「錯覚」がスパークする。
 どちらが比喩で、どちらが現実か。何が比喩で、何が現実か。こだわってはいけないのだ。どちらかが現実であり、どちらかが比喩であるという相対的なことではなく、それを超えたところに「砂」を感じる「事実」があるのだ。
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暗い人

2015-02-16 00:29:40 | 
暗い人

二時を過ぎると路地の向こう、電車通りをトラックが通り抜ける音が聞こえる。
バスもタクシーも走らなくなったためにトラックの音が聞こえるのか、
電車がいなくなってトラックが集まってくるために聞こえるのか。

暗い人は、いま書いたことばをベッドサイドの椅子に座って読み返す。
ジャケットのなかで肩を回して背中をほぐし、大通りを拡げていく。

二時を過ぎると、耳のなかへ電車通りをトラックが通り抜ける音が押し寄せてくる。
眼は美術館の角の信号の色を思い出すが、街路樹の花の色を思い出せない。
必要なのは地下鉄の階段をのぼってくる匂いを破壊する排気ガスの塊かもしれない。

書きなおしながら、暗い人は間違えた。
坂の上から見た海から運河をのぼってくる潮を挿入する場所がない。





*

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ベネット・ミラー監督「フォックスキャッチャー」(★★★)

2015-02-15 21:08:27 | 映画
監督 ベネット・ミラー 出演 スティーブ・カレル、チャニング・テイタム、マーク・ラファロ、バネッサ・レッドグレーブ

 暗くて気持ちが悪い映画である。
 レスリングで金メダルをとった兄弟。両親を亡くし、二人で生きてきた。兄がいつも弟の面倒をみている。レスリングでもコーチをしている。練習相手にもなる。二人とも金メダルをとったけれど、貧しい。
 一方、富豪の息子と母親。ここにも強い関係がある。母親がすべてを支配している。息子はその支配から逃れ、他人を支配したいと思っている。支配欲を、指導するという立場で隠蔽しながら。彼はレスリングのコーチになって、選手が金メダルをとる瞬間に立ち会いたいと夢見ている。「父」になりたいと欲望している。「父」になることで、母からの支配を脱したいと欲望している。
 その富豪の息子が、貧しいレスリングの選手を引き抜きチームをつくる。弟を引き抜き、コーチに兄を招く。その過程で、三人の人間関係が、徐々に軋んでくる。弟は、最初は富豪の息子を寛大な、気前のいい「父」のように感じているが、だんだん横暴な「父」に見えてくる。支配されていると感じてくる。逃れたいと感じはじめる。富豪の息子が母の支配から逃れたいと欲望するように。兄はそのあいだに入って、なんとか弟を自立させようともがく。弟は兄を必要としているのに、昔のように兄に頼りきりになれない。誰からも自立できないと感じはじめ、苦悩する。
 これに、富豪の母も、ちらり、ちらりと圧力をかけてくる。その圧力が、息子をおいつめ、三人の関係が緊迫する。兄は、富豪の息子のもとでは弟が実力を発揮できないことを知る。富豪の息子が、富豪の母のもとで実力を発揮できないように。奇妙に、力が歪曲するように。
 この関係を、ベネット・ミラーは台詞を極力排除し(断片の台詞で背景を浮かび上がらせ)、三人(+ひとり)の演技で描き出す。このとき題材にレスリングを選んだのは、とても効果的だ。
 実話だからレスリングは必然なのだが、題材がレスリングであることが、映画に深みを与えている。兄は弟の肉体のすべてをわかっている。どの筋肉が緊張しているかまで、さわっただけで、弟以上にわかる。兄弟はことばで対話する以上に「肉体」そのもので対話し、理解し合っている。弟が自分の肉体にいらだち(思うように動かないことにいらだち)、兄に頭突きをし、兄が鼻血を出す最初の練習シーンが印象的だが、兄は、そういう弟のすべてを受け入れている。頭突きをされても、けんかにならず、さらに練習をつづける。この強い絆があるからこそ、弟は強い。兄の力に支えられているから強い。
 これに対して、富豪の息子と母親とのあいだには接触がない。二人はいつも離れている。ことばが行き交うだけで、抱き合うことで何かを受け止め合うというようなことはしない。息子が、練習場にあらわれた母親の前で、コーチのふりをしてみせるシーンがおもしろい。母親が見えるように、取り囲んだ選手たちのサークルに隙間をつくる。そのうえで、体格の小さい選手を選び、技術指導をしてみせる。「肉体」の接触をみせる。「肉体」を通じて何かを教えるということを見せる。その指導は、へたくそなのだが、そこに何か叫びのような悲しさがある。母親は、その「悲しみ」を見て、何も言わずに去っていく。「やめろ」とさえ、言わない。
 いや、ことばにはしなかったが、「やめろ」と言っているのかもしれない。その声が聞こえるからこそ、息子はレスリングをやめることができないのかもしれてい。どこかで、しっかりと母親とぶつからないことには、その支配からぬけ出すことはできない。
 富豪の息子の「欲望」は何ひとつ実現しない。母は突然死に、育てた選手はオリンピックで敗退する。弟は一回戦で破れてしまう。失望といえばいいのか、怒りといえばいいのか、どうすることもできないものを抱え込んで、富豪の息子はコーチである兄を射殺してしまう。なぜ、そこまでしてしまうか--それがいちばんの問題なのだろうけれど、その「心理」を映画は説明しない。ただ、事実として描く。だから、気持ち悪くて、暗い。
 とても、いやな映画だ。ことばにならない愛憎があらゆる瞬間にスクリーンからあふれてくるので引き込まれてしまうが(演技にみとれてしまうが)、見ながら、これではつらいなあと思ってしまう。
 でも、一か所、私は、あ、美しいなあ、と思ってしまい、そのことに驚いてしまった。富豪の息子が兄を射殺したあと、車を運転するシーン。車が走っているとき、木立のあいだからこぼれる太陽の光が車のなかに入ってくる。運転席のシートがちらり、ちらりと黄色の光を受け止める。その光に意味はない。ストーリーにも関係ないのだが、関係ないものがそこにある、ということが美しい。射殺した息子の心理とも、殺された兄の悲劇とも無関係に、ただそこにあるものが美しい。人間が「起きていること」と思っていることとは無関係に、別のことが「起きている」。こういうことに、だれかが気づけば、こういう事件は起きなかっただろうなあ。人間とは無関係なことが世界のどこかに、どの瞬間にもある。そう思った。そして、その瞬間、奇妙なことだがスティーブ・カレル演じる富豪の息子の、人を殺したあとの気持ちに同化してしまうのを感じだ。「おれは悪くない、おれは正しい」という悲鳴が聞こえた。そんな悲鳴など聞く必要はないのに、それが聞こえた。
                     (KBCシネマ2、2015年02月15日)






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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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嵯峨信之を読む(14)

2015-02-15 09:54:04 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
24 一つの綱

 「たれもかれも時には魂を不用なものだとおもう」と書き出される。魂がなければ、上手な嘘で女を誑かすことができる。そういう「論理/意味」が書かれたあと、

そして女をすつかり手なずけたところで一緒に戸外へ出て
深い夜霧に酔つぱらつてしまおう
それから二つの口から呑んだ霧を綯い混ぜて
なにより丈夫な一つの白い綱を作ろう
その両端を力いつぱい引つ張りあつて男と女の悲しさを知ろう

 男が魂をほうり出して女を誑かすなら、女もまた魂をほうり出して男に誑かされているという嘘をつくのかもしれない。知っていて、騙されたふりをするのかもしれない。二人のことばは、夜霧のようにぼんやりしている。それが絡み合ってだんだん「一つの白い綱」(一つの男と女のストーリー)になる。互いに、それを自分の方に引っぱろうとする。「誑かす」ときの「主導権」を握ろうとする。
 そういうことが書いてあるのだと思う。
 この詩で、私が傍線を引いて、あ、このことばについて書こうと思ったのは、最後の「男と女の悲しさを知ろう」である。「悲しさ」というのは安直なことばのようにも見える。「悲しい」ということばをつかわずに「悲しい」を書くのが詩だ、と言われるが、そういう「定義」にしたがえば、この「悲しさ」に詩はない、ということになるのだが。
 それでも、私はそこに詩を感じる。
 ここに書かれている「悲しさ」は、ふつうにいわれている「悲しさ」とは違うからだ。何かを失くして「悲しい」というような、喪失をともなうものではない。あえて言えば、「嘘をついてしまう」「主導権をとろうとしてしまう」--そういうことを「してしまう」ことの「悲しさ」、人間の宿命のような「悲しさ」だからである。「宿命」を言いかえた「比喩」になっているからである。
 詩の前半と結びつけて、「魂を失った悲しさ」と言えなくもないけれど、そんなふうに読んでしまうと、あまりにも「論理的」でおもしろくない。だいたい他人を誑かすことで魂を失くしているのなら、魂は「悲しさ」を感じないだろう。
 最後の「悲しさ」は魂を超越する「業」なのだ。
 それを「知ろう」と、女にも呼びかけていることろがおもしろい。この「業(宿命)」は男だけのもの、女だけのものではない。男と女を結び、男と女の区別なく、人間の本質につながるものなのだ。

25 忠告

 女と喧嘩して別れてきた。三週間も、家から遠いところでひとりですごした。もう家へ帰るときだ。

もう三週間も汐かぜに吹かれていたのだから
罵りさわいだ腹の虫もすつかりおさまつているだろう
それ以上 本当にそれ以上遠いところのない心のはてに来たのだから
その悲しみを話してみるがいい

 「それ以上 本当にそれ以上遠いところのない心のはてに来た」という部分に思わず傍線を引く。「心のはて」というのは主観なのだが、「それ以上に遠いところのない」も主観なのだが、なぜか、心のはてを別な視点で見ている感じがする。その新しい視線のあり方に、はっと目が覚める感じ。
 「罵りさわいだ」心ではない、「別の」心。その「別の」こころによって、それまでのことが見つめなおされている。見つめなおしによって「客観」が生まれている。
 感情を感情の暴走するままに書くのではなく、感情を見つめなおす。そのときの「客観」が描き出す不思議な冷たさ。「冷たい主観」が抒情というものなのか。
 こういう「冷たい主観」のあとでは「悲しみ」も感情に溺れた悲しみではなく「客観的」な悲しみに見える。抒情というのは、ある種の「理性」によって統制された(制御された)こころの動きなのだろう。
 このあと、この詩は、もう一歩先へ進む。

誰に言うというのか
誰もいなければやつぱりきみ自身に話すことだ
もしきみがいなかつたら
もしきみがいなかつたらと言うのか
それから先きはぼくにはなにも分からない

 自分自身との「対話」。これも「客観」の方法である。「別の」きみになって、きみ自身に言う。
 そういう「対話」ができなかったら、というのは、また怒りが爆発したらということかもしれない。自分を見失ってしまったら、どうすればいいのか。
 家に帰る前に、もう「対話」ははじまっているのだが、その「対話」の、「対話」にならないところが、とてもおもしろい。とても切実だ。何度も何度も読み返し、考えたくなる行だ。
                           2015年02月14日(土曜日)



嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
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たぶん、

2015-02-15 01:23:20 | 
たぶん、

犬のあとにしたがってロープを張った空き地から出てきたとき、
女のスニーカーの紐に草の種が無数についていた。
砂鉄のようにとがっている黒い種。
磁石が動いていったあとを、その向きのなかに残している。

この四行だけでは詩にならない。だれも詩とは認めてくれない。
たぶん、




*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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小川三郎「下着」

2015-02-14 11:42:08 | 詩(雑誌・同人誌)
小川三郎「下着」(「モーアシビ」302015年02月10日発行)

 小川三郎「下着」は奇妙に印象に残る。この詩について、私は何が言えるか。よくわからない。わからないときは、書き写しながら考える。

濡れた下着が
鴨居の下にぶら下がっている。

私はそれを
一晩中見つめていた。

私は真夜中
ほんとうのことが怖くて
ふるえている。

真夜中の時間が
行ったり来たりするなかで
下着は
少しずつ乾いていった。

部屋の外を
夜がすっぽりと包んでいた。
それは当たり前のことなのだと
いくら自分に言い聞かせても
駄目だった。

私は下着ではない。
私は下着にはなれない。
私は下着になるのがこわい。

下着は
少しずつ少しずつ乾きながら
鴨居の下にぶら下がっていた。

 「下着」を鴨居に干すひとはいないだろう。たとえ干したにしろ「ぶら下げる」(ぶら下がる)とは言わないだろう。鴨居に「ぶら下がる」のはたいていが人間である。
 私は「名詞」よりも「動詞」でものごとを考えるので「下着」よりも「ぶら下がる」が気になって、あ、首吊り自殺を見てしまったのかと一瞬想像する。
 もし真夜中に首吊り遺体をみつけたら、衝撃を受ける。そのため動けずに、茫然と見つめている(2連目)。それが自殺であるとわかり、怖くてふるえている(3連目)。--と読むと、なんとなくストーリーになる。「意味」になる。
 でも、そうすると、

真夜中なの時間が
行ったり来たりするなかで
下着は
少しずつ乾いていった。

 これはどういう「意味」になるだろう。
 わからない。
 「時間」が「行ったり来たり」しない。時間はすぎていくものだ。時間ではなく、だれかが行ったり来たりしているのか。たとえば、家族が、救急隊員が、あるいは警官が。「時間」は人間の比喩、というより言い換えかもしれない。
 あるいは、過去のあれこれのできごとを時系列にとらわれずに思い出すことを「時間が行ったり来たりする」と言っているのかもしれないが。
 でも、そうだとして、

下着は
少しずつ乾いていった。

 これは何だろう。
 時間は一般的に過ぎ去っていくものと考えられている。時間が行ったり来たりするなら、下着は乾いたり濡れたりするだろう。
 ごくふつうの感覚、時間の経過とともに濡れた下着は乾くと書いているのなら、なぜ、そんなことを書く必要があるのだろう。書かなくても、下着は乾く。なぜ、書くのか。
 まった、わからない。わからないから、衝撃である。
 「下着」を「人間」と言いかえ、「鴨居にぶら下がっている」ものを「首吊り遺体」と言いかえるとき「意味」になるので、安心する。衝撃的かもしれないが、そこに起きていることが、納得できる。
 「濡れた下着」が「時間」がたてば乾くのは、衝撃的ではない。当たり前の「こと」である。けれど、それをこんなときに言うというのが衝撃的である。もしだれかが首吊り自殺をしたとしたのなら、そんなとき「下着が乾いていく」というようなことを観察していていいのだろうか。言っていいのだろうか。
 首吊り自殺すると、失禁すると、聞いたことがある。失禁すれば、下着が濡れる。しかし時間が経てば、下着も乾く。
 ここには「無意味」な「客観」がある。「無意味」な「事実」がある。
 ここに、おどろく。ここに、衝撃を受け、私は何か書きたいと思ったのだ。
 「私(小川)」が「下着は/少しずつ乾いていった。」と書かなくても、下着は乾く。下着だけではなく、濡れていたものは、ぶら下げておけば(干しておけば)、乾く。それは「自殺する」というような「心情」とは無縁のこと、「非情」の「事実」である。この「非情」が首吊り自殺を目撃したときの「心情」を吹き飛ばす。「心情」のなかの「悲しみ」のように「湿っぽい/濡れた」動きを吹き払う。
 そして、「非情」が「心情/感情」を吹き払う、「客観」が「主観」を吹き払っても、何か「心情」のかけらのようなものが残ってしまう。「部屋の外を/夜がすっぽりと包む」。時間は「夜」のままである。というのは「客観(当たり前のこと)」なのだが、それを「当たり前」とは受け止めることができない--そういう「心情」が残るのか。
 6連目は「私は首吊り自殺をすることがこわい。こわくて、できない」と言っているのかもしれない。とてもよくわかるが、こういう「心情」は詩とは関係がないかもしれない。あるかもしれないが、私は、そこには詩を感じない。
 最終連で、小川はもう一度「乾いていく」下着を書いている。

少しずつ少しずつ乾きながら
鴨居の下にぶら下がっていた。

 「少しずつ」を繰り返している。4連目をそのまま繰り返すのではなく「少しずつ」を繰り返している。繰り返すことで「少しずつ」を見つめなおしている。
 「乾いていく」は目ではなかなか実感できない。触って「あ、乾いたな」と感じる。小川は、まさか遺体の下着に触ってそれを感じたわけではないだろうから、これは、いわば「頭」のなかのできごとなのだが、「肉体」で確かめたことを整理した「頭」である。「肉体」が反映されている。「頭」が「肉体」になっている。「肉体」が「少しずつ少しずつ乾く」という「こと」を実感し、そこに「時間」が動いていることも実感している。「客観」が「肉体」となって、ことばを動かしている。
 濡れた下着が乾いていく。しかも少しずつ少しずつ乾いていくというのは「頭」の「想像」だが、そこには「肉体がおぼえていること」が反映している。「肉体」が動いて「想像」が「客観」となって動く。この「客観」を「客観」として受け止めるひとのなかには、それを「頭」で受け止めるひとがいるかもしれないが、小川は「肉体」で動かしている。そこにことばの「強さ」、言いかえると詩がある。
 あらゆる「客観」は「非情」である。「客観」の「非情」が、「主観(感情)」を緊迫させている。


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小川 三郎
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嵯峨信之を読む(13)

2015-02-14 10:09:04 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
22 淡路の女

 誰と誰の会話だろうか。

ひそひそとやさしくささやいている女の声が聞こえる
淡路からきている女と話しているらしい
その意味はよくききとれないが
東京にきてからただ躓いてばかりいるという一言がわかつた

 ひとりは「淡路からきている女」、もうひとりは詩人の妻だろうか。それとも隣室の男だろうか。どうして「東京にきてからただ躓いてばかりいる」という一言がわかったのか。詩人もまた東京へきてから躓いてばかりいるのだろうか。ひとは自分の体験したことしかわからない。自分が体験したことなら、わかってしまう。違うことを言ったのかもしれないが、自分の体験にひきつけて「誤解」してしまう。
 詩人にも、だれかにひそひそと話したいことがあったのかもしれない。

何にでも合うつもりの一つの鍵が何にも合わず
やがて千の鍵をじやらじやらいわせながら目まぐるしく一生を終るのだ
それが人間のさだめというものだろう
どつちみちなにかの周りを大きくめぐるか小さくめぐるかだ
女は重い鍵の一束をあずけて淡路島へ帰つていつた

 詩人と女が直接話しているのかもしれない。直接話しているのだけれど「女の声が聞こえる」と第三者的に書いているのは、第三者ふうに書くことで、おきていることを客観化したいのかもしれない。
 「鍵」はほんものの鍵かもしれないが、比喩かもしれない。何にでも合う鍵とは「愛」かもしれない。それは「一つ」であるけれど、すべてを受け入れる。その「一つ」が「千の鍵」にかわったとき、「千」は人生の比喩になる。愛という「一つ」の鍵だけではのりきれない「人間のさだめ」。
 こういう抽象的な比喩は、しばしば「思想」(精神)と混同されるけれど、私は「意味」を考えるのは好きではない。最終行の「重い鍵の一束」は「重い」という修飾語で実感になる。わかりやすいけれど、わかりやすすぎて詩というよりも「流通感覚」で語られた「意味」に終わっている感じがする。
 そういう「意味」よりも、「淡路からきている」が、最後で「淡路島へ帰つていつた」という動きのなかに「躓く」という動詞が割り込んで詩を動かしているところが私には面白く感じられる。淡路からきて躓いていた女が、淡路へ帰っていく。「歩く/躓く」ということが、女を動かしている。「躓く」が「帰る」という動詞で比喩ではなく、「肉体」に食い込んでくる実感になっている。女の「肉体」がふっと見えるように感じられる。

23 水甕

少し明るさがもどつてくると
そのつややかな白い水甕は消えてしまう
夜なかじゆうそのなかの果しれぬ海をぼくは泳いだのだ

 「白い水甕」とは何の比喩だろう。何の比喩かわからないが、「水甕」だからどんなに大きくても限りがある。そのなかに「海」があるというのは、非現実的である。だから「海」も比喩だろう。
 --というのは、あとからの説明であって、私はこの詩を読んだ瞬間には、この詩を「非現実的」とは思わなかった。
 海が好きなせいかもしれないが、「海」「泳ぐ」と聞けば、瞬間的に海で水平線を目指して泳いでいるときの「肉体」を思い出してしまう。
 なぜ「水甕」を忘れてしまったのか。
 「水甕」は小さく限られた世界なのに、それを突き破るようにして「果しれぬ」と書かれているからだ。「小さい」ということばは書かれておらず、「果しれぬ」ということばだけが書かれている。そのために「大きさ(広さ)」が「果しれぬ」だけになる。その「果しれぬ」が「海」を誘い出す。「果しれぬ海」というのは常套句だけれど、常套句だからこそ、そういう効果があるのかもしれない。
 この「魔法」のようなことばの働きのなかに詩がある。
 この「魔法」は催眠術と同じで、きくひとにはきくが、きかないひとにはきかない。「果しれぬ」というようなあいまいなことばを受け入れないひとは「水甕」のなかに「海」があるというのは嘘だ、と拒絶するだろう。
 でも、私は、その「果しれぬ」に引きずり込まれてしまう。
 このあと、詩は、次のように展開する。

短い時がぐるぐるとぼくの腕を廻した
脚はたえず暗やみのそこにつよい力でひつぱられた
ぼくは魂のもつていたものをすつかり失つた
そしてどことも知れぬ遠い海岸に打ちあげられた
この時までぼくはかくも単純になつたことはなかつた
太陽が足のうらからはいつて脳皮から外へぬけだすまで
ぼくはなんでもないその自にぼくを委ねた

 どのことばが、どうの、とは具体的には言えないのだが、この「愛の唄」シリーズに女が出てくるからだと思うが、私はセックスを想像した。セックスの吸引力に引きつけられ、魂を失ってしまう。セックスが終わって、いままでとは違う世界に打ち上げられる。喜びに満ちて、太陽の祝福を受ける。
 「水甕」は女性の性器、そのなかに「果しれぬ海」がある。この「果しれぬ」は「固定されない」という意味だろう。それは「ぼく」が泳ぐかぎり「海」であり、泳ぎ終われば「海」ではないのはもちろん「水甕」でもない。
 この、あらわれたり消えたりするもの(こと)を「果しれぬ」という一言が「事実」(現実)にする。「果しれぬ」も「比喩」にはちがいないが、それは「肉体」で体験する「実感」だから、そこに詩がある。
                           2015年02月13日(金曜日)
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椅子の上に積んだ本は、

2015-02-14 01:13:28 | 
椅子の上に積んだ本は、

椅子の上に積んだ本は崩れながら重なっていた。
はみ出した紐栞がアリステア・マクラウドの表紙に触れている。
(父の描き方が、私には哀しい。
背もたれにほうり出すようにかけられたセーターの、
袖口は折り返されている、
ということばを本のなかに返したいが、それはほんとうに書かれていたか。

少し離れたところにあるソファの半分はへこんだままである。
スタンドの光が歪んだたわみに影をつくるのをためらっている。
姉が運んできたコーヒーには砂糖が入っていたが、
私は何も言わずに飲んだ、あの日。







*

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嵯峨信之を読む(12)

2015-02-13 11:30:23 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
20 恋情

 「恋情」とは「恋ごころ」「恋い慕うこころ」のことだと思うが、嵯峨が書いている「恋情」は、私が想像するものとはまったく違う。

死はもつとも深い谷だ
尾根を伝うわれらの一列の長い影が
目もくらむ大きな谷の方へ消えている
ときどき立ちどまつてふつと呼吸を整える

 いきなり「死」ということばからはじまる。「恋」とは反対の場にあることば。死んだら恋なんかできない。それとも死をかけての恋、死さえもいとわない情熱と言いたいのだろうか。「呼吸を整える」も「恋」とは無関係なことばのように思える。「呼吸」が乱れるのが、「恋」ではないだろうか。

その日からわたしはふしぎな磁気を感じて顫えはじめた
おそらく生の最後の炎だろう
あわただしい青春の日がいつか終つて
石刷りのような穏やかな日がつづいていたのに

 青春の恋ではなく、年老いてからの恋? しかし、この詩は嵯峨の晩年の詩ではない。若い時代のものだけれど、年老いてからの恋の気持ちを想像して書いたのか。青春とは先走りするものである。どんなに若い時代の恋であっても、これが最後の恋と思うのかもしれない。そして、その最後の恋という思いが、「死」を呼び寄せ、恋のいのちの温かさを強調するのかもしれない。
 しかし、

どこからともなく花びらが舞いおりる
露台の上に立つと
夕日をうけた遠い丘を騎馬警官の一隊が駆けのぼつている

 この最後も、恋のはげしさ、熱さからは遠い。
 悲恋、失恋を書いたものなのだろうか。恋を禁じられたときの悲しみを書いているのだろうか。
 失恋をしたら、こんなふうな哀しいイメージが自分をつつむだろうと想像しているのだろうか。

21 雨季来る

 「女を愛するとは」から、この「雨季来る」まではソネットの形式で書かれている。形式があると、ことばの動かし方が限定される。それは逆に言えば、ときどきイメージが飛躍して動くということでもある。厳密な「論理」でことばを動かしていくには、形式が窮屈すぎる。「論理」を省略し、イメージを提出することで何かを言ってしまおうとする。詩は、もともと「論理」ではないから、それでいいのだろう。
 この詩は、

とどまりたい 心の上に
あなたのただ一度の優しさが残つているわたしの心の上に
数数の小さな日が消えても
その日だけがわたしから少しも消えようとしない

 抽象的(論理的?)なことばの動きからはじまる。「心」「優しさ」「日」というのは、どれも知っていることばだが、漠然としすぎていて、よくわからない。「残る」「消える」という動詞、「とどまる」という動詞も、わかったようでわからない。
 嵯峨が何を書いているのか、「見えない」。
 ところが、二連目、

川岸に舫(もや)つている小舟がひとりでに岸を離れていく
自らの影のうえを滑るように

 一連目の「とどまる」「消える」が言いなおされると、その様子がくっきりと見えてくる。
 「川岸に舫つている小舟」とは川岸に「とどまっている」小舟である。「自らの影のうえを滑るように」という美しいイメージは「やさしい」と重なる。それが「ひとりでに岸を離れて」「消える」。
 恋が、あるいはあなたが(女が)、そこ(岸につながれて)にいるはずなのに、知らないうちに岸を離れていく。「わたし」を離れていく。そのことが、舟が岸から離れて流れていくのを見たときのようにくっきりと見える。

あなたはどのような岸からたち去つたのか
いま岸から舟を離れさせるものがあなたを遠く去らせたのか

 岸も流れも抽象的だが、舟が川を流れるイメージのあとでは、そのときのいいようのない悲しみ、「わたし」にはどうすることもできない悲しみがくっきりと見える。あ、失恋とは、岸につないでいた舟が流れて去っていくような感じなのだなあ、とわかる。
 この詩はさらにタイトルの「雨季来る」というところへ動いていくのだが、私は、「川岸に舫つている小舟……」の2行を何度も読み返してしまう。この2行が好きだ。
嵯峨信之詩集 (芸林21世紀文庫)
嵯峨 信之
芸林書房
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鈴木志郎康「深まる秋の陽射しがテーブルの上にまで届くんです。」

2015-02-13 11:05:55 | 詩(雑誌・同人誌)
鈴木志郎康「深まる秋の陽射しがテーブルの上にまで届くんです。」(「モーアシビ」302015年02月10日発行)

 鈴木志郎康「深まる秋の陽射しがテーブルの上にまで届くんです。」は書き出しがおもしろい。

秋も深まって、
十月も三十日に近づくと、
わたしの家の、
大きな窓ガラスを通して、
深まる秋の陽射しがテーブルの上にまで届くんです。
大きなガラス窓。
深まる秋の陽射しを、
テーブルまで届けさせる
わたしの家の
大きな窓ガラス。

 書かれていることばに知らないことばはない。情景もとてもよくわかる。秋の陽射しが部屋のテーブルまで届く。届いている。それを、最初は「テーブルの上にまで届くんです。」と「陽射し」を主語にして書いている。それを「大きな窓」を主語にして「テーブルまで届けさせる」と書き直している。ただし、「大きなガラス窓。」といったん文章を終えている。「それが」深まる秋の陽射しを、テーブルまで届けさせるという具合に「主語」を補わないと文章にはならないのだが。その不完全さを、さらに倒置法をつかって「深まる秋の陽射しを、/テーブルまで届けさせる/わたしの家の/大きな窓ガラス。」言いなおしている。
 書かれている「情報」は非常に少ない。わざわざくりかえさなくても、この情景を「誤読」するひとはいないだろう。
 では、なぜ繰り返したのだろう。
 「誤読」したいのだ。「誤読」させたいのだ。「情景」いがいのものを伝えたいのだ。
 秋の陽射し、大きな窓ガラス、テーブル。その「情景」の「主語」は何? 陽射し? 窓ガラス? (鈴木は「ガラス窓」という言い方もしている)それともテーブル?
 テーブルを「主語」にすると、

テーブルが、
大きな窓ガラスを通して、
秋の陽射しを届けさせる。

 と言うことができる。最後は「テーブルは/秋の陽射しを招く。」「テーブルは/秋の光を通らせる(通過させる)。」という文章も可能かもしれない。
 こんなふうに書き換えてみて「わかる」ことは、「情景」はいろいろな書き方ができるということである。そして「書き方」をかえるにしたがって、そこにあるものが少しだけ違って見える。秋の陽射し、窓ガラス、テーブルは同じなのに、視線の焦点が微妙に動く。揺らぐ。
 揺らぎながら、「大切な何か」が見えてくる。いや、「大切」が見えてくる。
 鈴木の書いている主語「陽射し」が大切なのか、それとも主語「ガラス窓/窓ガラス」が大切なのか。主語はどっち? 窓ガラスはガラス窓とも書かれているが「窓」が主役? それとも「ガラス」の方に重点が置かれている?
 その区別はない。「主語」の区別はなくて、「大切」と感じるこころがそこにあることがわかる。「大切」が「主語(主役)」のだ。いま/ここにある全てが「同等」に大切である。その「同等の大切」を書くためには、情景を繰り返して書くしかない。
 そこにある「情景」を書きたいのではなく、書きたいのは「大切」ということ--そういうふうに「誤読」させたいのだ。「誤読」を誘ってるのだ。
 「大切」を書くために、鈴木は「秋の陽射し」「窓ガラス」を離れて動いていく。繰り返し、言いなおしたものを離れてゆく。

その外は小さな庭。
野ぼたんの紫の花、
メキシカンセージの薄紫の花穂、
チェリーセージの真っ赤な小さな花、
それにまだまだ朝顔の花もかじかんだ姿で咲いている。
その小さな庭を毎朝わたしは見ているんです。

 窓から見える小さな庭。そこに咲いている花。かじかんでいる花。それを「見ること」が、「見えること」が「大切」なのだ。鈴木は、庭を、花を「大切」にしている。「それにまだまだ朝顔の花もかじかんだ姿で咲いている。」という一行の「それに」ということば、「まだまだ」ということば、思わずつけくわえてしまうことばに「大切」という気持ちがあふれている。「それに/まだまだ」がなくても朝顔の花はかじかんだ姿で咲いている。「事実」はかわらない。その「事実」を語るのに「それに/まだまだ」をつけくわえ、ほら、これも見てという気持ちのなかに「大切」が動いている。
 いいなあ、この余分。余剰。過剰。
 最初の陽射し、窓ガラス、テーブルの繰り返しも、余剰、過剰。一回言えば誰にだって情景はつたわる。けれど、ことばの順序を入れ換えて、主語を入れ換えて、もう一度言わずに入らない。「大切」なものだから、くりかえすのだ。
 「大切」なものはくりかえす。「大切」という気持ちを繰り返し、それを味わうのだ。ふたたび鈴木は書く。

深まる秋、
隣の家の屋根の上の秋の空の
低くなった太陽の
秋の陽射しが、
大きな窓ガラスを通してテーブルの上にまで届くんです。

 「届く」のは「陽射し」ではなく「大切」が届くのだ。それを受け止めて鈴木は「大切」を生きる。

新聞を拡げたわたしは
その秋の陽射しを浴びて、
わたしは記憶が呼び覚まされる。
わたしは記憶に溺れる。
秋の陽射しに溺れる。
ウンガワイヤ、ウンガワイヤ、ウンガワイヤ
テレビのアナウンサーの声が遠いなあ。

 「大切」なものを鈴木はおぼえている。秋の陽射しとともにある(あった)何かを見つめ、それをことばにした。記憶した。そういうことを「大切」におぼえている。
 テレビから聞こえる何かは、鈴木以外のひとにとって「大切」なことかもしれないが、鈴木には、それは「遠い」。「大切」ではない。鈴木に近い(届くもの/届いているもの)は秋の陽射しだ。その陽射しをとおって、鈴木は「記憶」へ帰っていく。そして「記憶」へかえっていくこと、「記憶」に溺れることが、「いま/ここ」を「大切」に生きることと重なる。



 「大切」ということばを鈴木は書いているわけではない。だから、私の書いた感想は「誤読」の感想なのだが、私はこんなふうに「誤読」する以外に読む方法を知らない。「誤読」を通して、出会ったことばを好きになる。また、鈴木が「誤読」させたかっている、というのも私の「誤読」にすぎない。しかし、こういう読み方しか私にはできない。
 ただし、「誤読」にこだわるわけではない。
むしろ 「真実(真理)」ではないとわかっているので、「誤読」を捨てたい。だから、ひとつの作品を読むと別の作品を読む。そして、自分のことばを動かし直す。違った作品を「誤読」しつづけることで、「誤読」を「中和」したいと思っている。

胡桃ポインタ―鈴木志郎康詩集
鈴木 志郎康
書肆山田


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遠くを見たいと、

2015-02-13 00:55:38 | 
遠くを見たいと、

遠くを見たいと思って、
苦しみをわざと繰り返しつづけた日の終わり、
遠くを見たいと思って、
あらゆる自意識と感覚が互いをすっかり疲れさせた日の終わり、

遠くを見たいと思って屋上にのぼれば、
寄せてきた波が静かに海に帰るきわに西の砂浜がやわらかに光る。






*

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