詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋秀明「く」、鈴村和成「スキ、だ」

2015-07-21 10:21:00 | 長田弘「最後の詩集」
高橋秀明「く」、鈴村和成「スキ、だ」(「イリプス Ⅱnd」16、2015年07月10日発行)

 高橋秀明「く」は前半と後半では調子が違っている。高橋の書きたいことは後半にあるのかもしれないが、私には前半がおもしろかった。で、前半だけを引用し、感想を書く。

腰が「く」の字に曲がって
もどらない
階段を下りると
…く、く、く、く、
と移動する
俯せに横たわると
「く」の字は「へ」の字になる
視えない天蚕糸で腰を吊られ

横たわれば
腰を宙に吊られた俯せの姿のまま
立ち上がれば
背後から腰を引っ張られた姿のまま
伸びない「く」と「へ」が
身体に内在して
年年
屈曲を強める

 同じことを繰り返しているね。腰が曲がった状態を、立っている時は「く」の字、横になった時は「へ」の字と「視覚化」している。そして、その「視覚化」に「視えない天蚕糸」が絡んでくる。これがおかしい。「視えない天蚕糸」の存在によって「く」と「へ」がよりくっきりと見える。
 さらにこれが「内在」という奇妙なことばにかわっていく。「身体に内在して」いるものは、外からは「見えない」。そとからは「く」「へ」の字にしか見えないけれど、身体のなかにも「く」「へ」の字はある。その「見えない」ものが見えるのは、それより先に「視えない天蚕糸」があるからだ。「視えない」という否定形で「存在」を確認している(見ている)からだ。
 「見えるもの」(「く」「へ」の字)を通して、見えないものを見る。そういう習慣(?)がついてしまっているので、「見えない」はずの、「内在」する「く」「へ」も見える。
 そう繰り返しておいて、前半の最後の二行。

いつもくるしみ
いつかへたるために

 私は笑ってしまった。

いつも「く」るしみ
いつか「へ」たるために

 あ、これが書きたかったのか。「くるしみ」と「へたる」はどこか似ている。「くるしみ」つづけると、いきいきとした動きが「へたる」。「くるしみ」のなかには「へたる」が内在していて、それがやがて表に出てくる?
 というようなことがいいたいのか、どうか。わからないけれど、その「く」と「へ」の「見えない」つながりが高橋のなかで完成しているのが「見える」。それがおかしい。楽しい。
 


 鈴村和成「スキ、だ」は高橋とは違った「繰り返し」でできた詩だ。

 好き、ダ。嫌い、ダ。足、好き、ダ。卵、好き、ダ。つぶやき、嫌い、
ダ。つぶつぶ、嫌い、だ。ぶつぶつ、嫌い、ダ。判子(ハンコ、嫌い、
だ。プラカード、嫌い、ダ。電柱も嫌い、ダ。霜柱、好き、ダ。嫌いと
いう言葉が、嫌い、ダ。スピーチ、嫌い、ダ。言葉、好き、ダ。猫、好
き、ダ。ケモノヘン、好き、ダ。好き嫌いが、好き、ダ。オンナヘン、
好き、ダ。大好き、ダ。ヘン、好き、ダ。ダ、好き、ダ。好きと言う言
葉、好き、ダ。という)が、嫌い、ダ。女の子という字、好き、ダ。好
(スキが、好き、ダ。好き好き(スキズキ、ダ。好(スき、好(スき、

 あと八行ほど、同じ調子でつづく。「好き」ということばを繰り返している。ついでに「ダ」と言う音を繰り返している。ほんとうはどっちを繰り返しているのか。よくわからない。「つぶやき」「つぶつぶ」「ぶつぶつ」という音の遊びや、「好き」「オンナヘン」「女」「子」という文字遊びもある。
 で、何がいいたい? 「意味」は? 「思想」は?
 そんなものはないなあ。いや、あるのかもしれないが「意味/内容/思想」というようなものではなく、ただ繰り返して言ってみたかったという「欲望」があるんだろう。「欲望(本能)」というのはどこかで「肉体」とつながっているから、それはやっぱり「思想」なのだと思う。
 私の知っていることばでは、この鈴村の「思想」を「見える」形で表現できないけれど、これは私のことばが無力というだけのこと。

電柱も嫌い、ダ。霜柱、好き、ダ。

 これが鈴村の「ほんとう」かどうかわからないが、嘘だってかまわない。「電柱/霜柱」対比(嫌い/好き)のなかに、「へえぇ」と思わせるものがある。それは、私はこれまで「電柱」と「霜柱」を対比しようと思ったことはないということを思い出させるだけなのだが、そんなことをしたことがないと思うという意識のそこから「柱」という文字が共通してつかわれているなあ、とふと思ったりする。この「ふと」の感じの裏切りが、何と言えばいいのか、快感なのだ。「ダ」の繰り返しのリズムがあるから、よけいに快感なのだ。

  タダ(只、好き、ダ。タグが好き、ダ。傍点が好き、ダ。そばかす、
好き、ダ。点、好き、ダ。点々、好き、ダ。々、が、好き、ダ。々。吃
り、が好き、ダ。ダ。

 考えて書いているのか、思いついたまま書いているのかわからないが、どちらにしろ、それがリズムにのっているのがいい。ことばと音が鈴村の「肉体」そのものになっている。
ランボー全集 個人新訳
アルチュール・ランボー
みすず書房
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ジャン・ルノワール監督「ピクニック(1936)」(★★★★★)

2015-07-20 15:04:16 | 映画
ジャン・ルノワール監督「ピクニック(1936)」(★★★★★)

監督 ジャン・ルノワール 出演 シルビア・バタイユ、ジャーヌ・マルカン、アンドレ・ガブリエロ、ジャック・ボレル、ジョルジュ・ダルヌー

 私はルノワールの映画はほとんど見ていない。「大いなる幻影」「ゲームの規則」「黄金の馬車」「フレンチ・カンカン」くらいだろうか。私が映画を見はじめたときには、ルノワールはすでに映画をつくっていない。時代が違うので、何かの企画で特別上映されるのを見るしかないのだが、地方に住んでいるとそういう機会がめったにない。
 今回はデジタル・リマスター版。デジタル上映はフィルムの感じをどれくらい正確に伝えているのか、私にはわからないが、映画館で見ることができるのはうれしい。

 冒頭の川の流れの、まるで大河のうねりのような水の質感がなまなましい。あ、川の水はこんなに自在に自己主張しているものなのか、と驚いてしまう。木の影が映っていて、その影が水の流れによって動いているだけなのだが、その映像だけですでに映画に酔ってしまう。
 ひとが登場してきてからでは、何といってもブランコのシーンがとても印象的だ。レストランの窓を開ける。そうするとブランコを漕いでいる娘が見える。隣に母親もブランコにのっているのだが、視線はどうしても娘の方に向かう。その視線の向き方というか、集中の仕方にあわせて、カメラが窓を跳び越えて娘に近づいていく。そして娘といっしょにブランコにのって揺れる。娘のブランコを漕いでいるときの、肉体の中の自然な動きが、そのままカメラのリズムになる。それが、娘の喜びになる。娘の肉体がはなつ喜び(感情のはつらつとした解放感)が、そのまま空の美しさや木々の美しさになってスクリーンに広がる。
 ここから娘の、喜びを感じる苦悩(?)がはじまるのだが、わくわくどきどきしてしまう。サクランボの木の下で母親に「私はいま変な気持ち」というようなことを言うのだが、うーん、見ながら娘になってしまうなあ。処女になって、肉体が解放される喜びと、不安と、どうにでもなってしまえばいい、という「いのち」のほとばしりのせめぎ合いがいいなあ。
 ひとめぼれの瞬間がいいし、娘と友人のひとめぼれをわかってしまい、友人に娘を譲る(?)伊達男の、「恋愛は女次第」というフランス男の哲学の発揮具合がおかしい。
 そのあとのボート遊びもいいなあ。娘が「静かだ」と言い、男が「鳥が鳴いている」と言う。娘は「鳥の声も静かさだ」と言う。芭蕉の「しずかさや岩にしみ入る蝉の声」の静かさとは違って、緊迫していない。開放的な静かさだ。自分のこころが静かに落ち着いて、どこまでも広がっていくという感じ。忘れることのできない娘は男のやりとりである。娘は自分の知らない世界を知っている(生きている)と気づく男の、一種の敗北感と、それが憧れをさらにかきたてるような感じが、とてもおもしろい。
 そのあと、娘と男は森へ行く。(川のすぐそばなので岸辺にあがる、というのが正確かもしれないけれど。)そこで娘と男はキスをする。男は、娘が、自分の知っている田舎の娘とは違うことに恋心をいっそう刺戟されて、キスしたくてたまらない。何度か拒んだあと、くちびるが触れる。そうすると今度は娘の方が男の方にキスを求めていく。そのあと、娘のほほに涙が流れる。娘には婚約者(恋人?)がいて、男との恋愛はかなわぬ恋なのだ。その「かなわぬ恋」が悲しいのか。あるいは、ひとめぼれした男によって肉体が解放されることがうれしいのか。あるいは、そのうれしさが、さびしいのか。わからないが、そのわからないところが、とてもいい。結論などない。そのキスシーンは、少しピンぼけ気味である。それが逆に、肉体とこころの曖昧な関係をそのまま具体化しているようで、とても生々しい。
 直後の、激しい雨。川面をたたく雨の激しい映像が、またとても美しい。冒頭の川が一点にとどまって木の影と水の動きを映していたのに対して、この映像は娘と男がキスした(そのあとセックスをした?)場所からどんどん遠ざかって行く。至福を振り返り、振り返ったまま、遠ざかっていく感じで動いていく。これが、切ない。
 こうした映像の美しさのほかに、ルノワールの映画の特徴に「役者の自由さ」がある。役者は「演技」をしているのか、そのままそこにいて好き勝手をしているのか、よくわからないところがある。このよくわからない「好き勝手」という感じが、私はルノワールの映画が大好きな理由だ。
 たとえば父親が妻を馬車からおろすシーン。スカートの下へさっと手を滑り込ませる。それは妻へのサービス? それともアドリブで役者がスケベ根性を出してみせただけ? 脚本に書いてあったにしろ、その動きがなんともいえず勝手気まま。そこに不思議なのびやかさがある。これは昼食後、昼寝をする夫の顔を草でくすぐる妻の演技にもみられる。妻は、ピクニックで解放されているのだから、森へ行って(隠れて)セックスしようと誘うのだが、夫はそれをうるさがる。そういうシーンなのだが、妻の演技が勝手気まま。自分はこんなふうにしたいから、こうするだけ、という感じ。ストーリーに縛られていない。ストーリーがあるのだけれど、それをはみだして、そこに「女がいる」という感じ。これ、見たことあるぞ、こういう女をちらりと盗み見したことがあるぞ、という感じなのである。こういうシーンというのは「真剣」に見てしまうと、それだけで「意味」を持ってしまう。「意味」にならないように、見られてもかまわないけど、ほっといてね、という自在な感じがどこかにあって、それが楽しい。
 で、こういう不思議な役者の肉体の動きのあとに、あのキスシーンのクライマックスがある。娘の涙は「演技」であるはずなのに、演技であることを忘れてしまう。キスを拒んで、拒みながらもっと迫ってくるのを待っている。拒みながら、受けいれ、そこから自分が変わってしまう。キスシーンがあいまいなピンぼけになっているのは、その不透明なところを観客が自分の肉体(体験)で補い、そうすることで娘になってしまうことを促しているのかもしれない。娘の変化は「自分」ではなく「自分ではないもの」の「いのち」になるのことなのだけれど、これは「制御できない」何かである。その制御できないものに観客も引き込まれるのだが、「制御できない」という感じが、勝手気ままとどこかでつながっているのかもしれない。無意識の欲望、とつながっているのかもしれない。
 こういうことを、私が書いているように「ややこしく」あれこれつないでみせるのではなく、ただ役者に勝手に演じさせることでルノワールはとらえてしまう。それが不思議で、とても美しい。不透明を美しく、そのままの形でつかみとることができる監督なのだと思う。
 ほかの作品も見たいなあ。
                      (KBCシネマ2、2015年07月20日)

  



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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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瀬崎祐「越境」

2015-07-20 08:25:35 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬崎祐「越境」(「どぅるかまら」、2015年07月10日発行)

閉ざされた部屋のなかにはとまどいが充ちてくる
すると地球は静かにまわり
窓のこちらにいたわたしは外の風景に溶けはじめる
わたしとわたし以外のものを隔てていた膜が透けはじめて
身体のなかにあったものが形を失っていくのだ

 瀬崎祐「越境」の二連目。二行目の「すると」は「論理」をうながすことばだが(論理的なことばがそのあとにつづくはずだが)、ちょっと奇妙。一行目がどんなことを書いているにせよ、その内容とは無関係に地球はまわっている。「静かに」か、どうかはわからないが。
 そう考えると、この二行目の「すると」と「静かに」を実感するための「すると」であって、「まわる」という動詞とは無関係であることがわかる。
 それに先立つ「閉ざされた部屋のなかにはとまどいが充ちてくる」を統一している「論理」は、二行目ほど複雑ではない。一行目では「閉ざされた」と「充ちてくる」が呼応している。「開かれた」部屋では、とまどいが「充ちてくる」ということはない。「閉ざされている」からこそ「充ちてくる」ということが可能なのである。
 なぜ、こんなことを書いたかというと。
 何気なく書かれているようだが、瀬崎のことばは「論理」で動いている。動いているように装っている。「論理」があるのだと、読者に感じさせて動いている。そしてその「感じ」のなかに「静かに」のような「事実」かどうかわからないものを「事実」として浮かび上がらせる。紛れ込ませる。
 「窓のこちらにいたわたしは外の風景に溶けはじめる」というのは、どういうことか。「わたし(人間)」は「肉体」であるから、それが「溶ける」というようなことは、ありえない。それは「地球がまわる」が瀬崎の思いとは無関係に「まわる」ということと同じであって、客観的な事実である。客観的な事実であるけれど、瀬崎はそれをことばで否定し(というか、違う風に言って)、そのことを「論理的」に言い直す。ことばでしかとらえられない「事実」を「論理的」に証明する。つまり、「説明する」。それが四、五行目。
 「わたしとわたし以外のものを隔てていた膜」というのは「皮膚」のことではない。皮膚は「透けない」。「透けはじめる」のは「わたしとわたし以外のものを隔てていた」意識(精神)のようなもの。つまり、瀬崎の「考え」だ。あるいはそれは「考え」ではなくて「静かに」のように個人的な「感覚」かもしれないのだが、「考え(意識/精神)」ということばで私が反応してしまうのは、瀬崎のことばの運動が「論理的」だからである。「論理」を動かすのはもっぱら「精神」ということになっている。常識では。
 このとき「膜」は「比喩」なのだ。だから、動詞も「比喩」なのだ。「現実の動き」ではなく、「精神でとらえた動き」。「隔てていた」意識が「透ける」とは「なくなる」ということ。「透ける」は「見えない」。その「ない」が「なくなる」ということ。で、そのとき「身体のなかにあったものが形を失っていくのだ」は、そっくりそのまま「わたしとわたし以外のものを隔てていた意識(もの)が形を失っていく」に重なる。「身体のなかにあったもの」が「意識」である。
 瀬崎は、こんなふうに、とっても理屈っぽい人である、ということを確認した上で、三連目を読んでいく。

遠くに見える丘のあたり
梢の形が空につながるあたりには
いくつかの顔が浮かんでいる
わたしの幼いころを知っている人たちのようだ

 一行目と二行目はひとつの情景を言い直したもの。「梢の形が空につながる」というのは「視覚的」にはありうるが、実際には「梢」と「空」がつながっているとはなかなか言わない。「空」は「梢」よりも高いところ(離れたところ)にある。雲が浮かんでいるあたりが「空」であって、「梢」のあたりは、どっちかというと「地面」に近い。というのは屁理屈だけれど、そういう屁理屈を言いたくなるくらいに、瀬崎のことばは「論理」を重視して動いている。
 で、というか……。
 この三連目の四行は、二連目の後半を言い直したものになる。「わたしとわたし以外のもの隔てていた」意識が「透けはじめる/溶けはじめる」ように、「梢」と「空」を隔てていたものが消えて、「つながる」。あるいは、「梢」と「空」を隔てていたものが消えて「つながる」ように、「わたしとわたし以外のもの隔てていた」意識が「透けはじめる/溶けはじめる」と、その「透けはじめる/溶けはじめる」ところに、「わたしの幼いころを知っている人たちの」「いくつかの顔が浮かんで」くる。つまり、「わたしの幼いころを知っている人たちの」「いくつかの顔」を瀬崎は思い浮かべるのだが、これをさらに言い直した部分が、とてもおもしろい。

片足を失った叔父はあれからどうしたのだったか
あの人たちには怒りの言葉をむけたこともあった
あのとき約束の時間にあなたたちは遅れてきたでしょう
わたしはあてどもなく心を彷徨わせて飢えていたのですよ
怒りのなかでは
どこまでがわたしであり
どこからがあなたたちだったのか しかし
いまは微笑みの輪郭も曖昧となる時刻だ

 「わたしとわたし以外のもの隔てていた意識」は「怒り」と言い直されている。不思議なことに「怒り」は「わたしとわたし以外のもの隔ていた」はずなのに、その「隔てる膜」がわからなくなる。「怒り」のなかに「わたしとわたし以外のもの(他人)」が溶け合って(輪郭をなくして)しまう。「怒り」はどちらかが怒り、他方が「謝る」という単純な形をとらないことの方が多い。互いに「怒る」。「怒る」理由はそれぞれにある。そして、そういうとき、そこには「理由」なんてなくて、ただ「怒り(感情)」がある。
 言われてみれば、たしかにその通りだと思う。
 おもしろいのは、この「怒り」の本質、

怒りのなかでは
どこまでがわたしであり
どこからがあなたたちだったのか

 ということろへたどりつくまで、瀬崎が「論理」をゆるめないこと。何度も「論理」にしたがって、ことばを言い換え、動かしつづけること。「論理」で「感情」の本質をしぼりこみ、そこに見落としていたものを浮かび上がらせる。
 おもしろいなあ、と思った。
風を待つ人々
瀬崎 祐
思潮社
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アレクセイ・ゲルマン監督「神々のたそがれ」(★)

2015-07-19 21:34:36 | 映画
アレクセイ・ゲルマン監督「神々のたそがれ」(★)

監督 アレクセイ・ゲルマン 出演 レオニド・ヤルモルニク、アレクサンドル・チュトゥコ、ユーリー・アレクセービチ・ツリーロ

 私は、こういう「頭でっかち」の映画は嫌いである。
 映画がはじまって間もなく、映画のストーリーが紹介される。ある惑星に地球から調査団が派遣された。ルネッサンスの地球に似ているが、そこでは「文化」が否定されている。つまり、これはもしルネッサンスがなかったら地球はどうなっていたかを描いている。世界から色彩は消え(モノクロで描かれる)、市民は人間性を否定され、ただ権力者に支配されている。しかし、支配されているといっても、どうすればその「支配構造」を利用して(?)支配する側にまわれるかということが(逆に言うと、この世界を改善するためにはどうすればいいのかということが)、まったくわからない。つまり、希望がない。そのため自分の身の回りでできる「支配」を自分なりにつくりだして日々を暮らしている。奴隷がいて、暴力がまかりとおっている。何をするにも暴力で言い聞かせる。
 これがなんとも汚らしい。雨にぬかるんだ地面は自然現象だとしても、非衛生的なトイレ、糞尿のあつかいに始まり、建物のがらくたかげん、調度の乱雑さ、食べているもののまずそうな感じ、不衛生な肉体。醜い顔に、醜い肉体。彼らはほんとうに役者なのか。まったく手をゆるめず、これでもか、これでもか、と細部の汚さ、醜さにこだわって見せる。人間だけではなく動物も出てくるのだが、鶏までもが、まるでルネッサンスを知らない無秩序な目つき、動きをしていると言いたくなる。鶏に演技はできないから、これは、それだけ他の細部が映画の狙いどおりにきちんと支配されているということ(監督の狙いどおりに設計されているということ)なのだが……。
 こんな汚いものを、飽きもせずに、よく撮ったなあ。そこが、すごいといえばすごいなのだけれど(たぶん、そのあたりを評価すると★5個になる)、私は嫌いだなあ。
 その昔、「アギーレ/神の怒り」「フィッツカラルド」(ともにヴェルナー・ヘルツォーク監督、★5個)という映画があった。大自然のなかで無謀なことをこころみる。自然と文明が衝突する。格闘する。長い長い隊列を組んでアンデス山脈(だったかな?)を越える俯瞰のシーンや、「蒸気船」をひっぱって山越えさせるというむちゃくちゃがおこなわれる。登場人物だけでなく映画そのものも疲れ切った感じになるところが、まるで実際にそこで起きていることを体験しているように思えてくる。
 それに比べると、この「神々のたそがれ」はそういう「疲労感」をもたらさない。汚さが気になって、あ、まだ終わらない、という疲労感が残る。糞を映したシーンなど、泥と糞が区別がつかない。カラーなら、区別ができるから(?)、ここまで疲労感は残らないだろうなあ、と思ったりする。
 いや、ほんとうに、嫌いだ。
 「嫌いだ」と書きながら、こんなに長く書いているのは、まあ、好きなところもあるからだ。
 音楽が奇妙である。主人公がクラリネット風(?)の変な楽器でメロディーを吹く。美しい音楽とは言えない。へたくそである。しかし、そのへたくそさ加減が、失われていく何かを甦らせようとしているようで不思議に悲しい。さらに、そのあと口笛でハモるシーンがある。その「和音」が生まれる瞬間がおもしろい。どこかに、その音楽と同じような「調和」があるのだ。人間はそれをつくりだせる。その「調和」を主人公は追い求めている。そう感じさせるのである。ホルンのようなものにクラリネットをあわせようとするシーンもある。秩序のない世界で、かすかな「音楽」の記憶だけが秩序なのである。(ルネッサンスというと絵画、彫刻を思い出すが、音楽にもルネッサンスはあったのかな?)
 そして最後の最後。そこにも音楽が出てくる。シンプルな音。野のむこうからやってきた親子。その子どもが音楽を聴きながら、「この音楽好き?」と聴く。父親はあいまいにこたえる。そして、その親子のやってきた野を横切って馬に乗った兵隊が消えると、白い白い雪の野。静かで、とても美しい。人間のやってきた蛮行とは無関係に、そこに自然の(気候の、つまり宇宙の)美しさがある。
 ルネッサンスは人間の再発見のように定義されるけれど、この映画を見ると、もしかすると「自然(宇宙)」の再発見だったのかもしれないと思えてくる。主人公が最後に到達した世界がラストシーンだからね。そこから推測すると。 
                             (2015年07月19日、KBCシネマ2)


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泉冨士子『せんば 在りし日の面影』(2)

2015-07-19 10:20:18 | 詩集
泉冨士子『せんば 在りし日の面影』(2)(編集工房ノア、2015年07月01日発行)

 泉冨士子『せんば 在りし日の面影』には「せんば」の暮らしがていねいに描かれる。「おん田まつり」はまつりを見に行ったときのことを書いている。そこに「せんばことば」が出てくる。「こいちゃん、きょうはおん田まつりでしたな、ころっと忘れてましたわ、もうちょっとしたらお清どんについてもろて見物に行といなはれ、気いつけて行きなはれや」。たぶん母親のことばなのだが、この音の響きには不思議な味がある。
 「ころっと忘れてましたわ」と言っているけれど、母親はけっして忘れていたわけではないだろう。忙しくてまつりに子ども(原)をつれていけない。「もうちょっとしたら」ということばが、その忙しさを婉曲に語っている。もう少ししたら用事がすむ。ただし、母親はまだ手を離せない。かわりに「お清どん」が原を連れ出すことができる。原は原で、その忙しい感じがわかるので「行きたい」とだだをこねるわけでもない。じっと、母親の許しを待っている。そのときの母親と娘(親子)の力関係というと変だが、「暮らし」のなかで身に着けてきた「礼儀」のようなものがある。それが、ことばの奥から滲んで出てくる。「気いつけて行きなはれや」というのは、母が子どもにかける自然なことばだけれど、それをないがしろに聞くのではなく、きちんと聞いている感じが、そのことばを書き留めるところにあらわれていて、とてもいい感じだ。この「気いつけて行きなはれや」は、少しあとの方で「とうさん、お清の手しっかり持ってなはれや」と具体的に言い直されている。この「言い換え」によって、「場」がいきいきして来る。「口語」ひとつで、その感じを表現する。原のことばの力がとてもよく出ている行だ。子どもの原と母親が、その場にいるように感じる。お清どんも、仕事から解放されて、もう少ししたら原といっしょにまつりに行けると感じていることまでつたわって来るし、さらに、あ、しっかりと子どもの手をにぎって迷子にしてはいけないと思っていることまでつたわって来る。「口語」の力である。「口語」を聞き取る、原の耳の力でもある。
 それから着飾って出かけるのだが、その着替えのとき、新しい下駄を履く。横町の下駄屋の主人がすすめた下駄だ。「とうちゃんにはこの下駄がいちばんお似合いでっせ」。なんでもないことばだが、その「口語」によって、下駄屋の主人の姿まで見えてくる。腰をかがめて、下駄を履かせて、子どもの原と同じ視線の高さで原を見つめながら言っているのだろう。同じ高さの視線で言っているから、子どもの原はそのことばをほんとうだと感じる。
 そうやって、まつり見物に出かけるのだが、梅雨時のまつりなので、雨が降って来る。そこからあとの部分が、とても美しい。

そのうちに梅雨のあめが、街のあかりの中にくっきりと見えだした。
山車は急に前の川の中へ姿を消す。人々は軒下に身を寄せ、暗い灯
の下でお面をかぶっているように見える。思わずお清どんにしがみ
つく。

 耳のよさ(ことばを聞き、おぼえる力)は目にも反映している。原の目は、世界の変化を「くっきり」ととらえて、「肉体」でつかんで話さない。「あかり」のなかに「暗さ」も感じ取る。そのあとの「お面をかぶっているように見える」はありきたり直喩とも見えるが(だれもが簡単につかってしまう常套句のようだが)、まつりの屋台で「お面」を売っていて、実際にそれを持っているひともいるのだろう。「現実」がしっかりと描写のなかに組み込まれている。原のことばには、安直な「借り物」がない。

「ほな、かえりまひょ」お清どんの背中は、広うてぬくうて、こわ
いものや気持のわるいものは何もあがってこない。

 ここ出て来る「広うてぬくうて」という「口語」が、また、とてもおもしろい。「梅雨のあめが……」の「標準語」で書かれたことばは、情景をさっと描いて走る。「広うてぬくうて」は、その記憶を、ぐいと「肉体」そのものに引き寄せて、たちどまる。「ほな、かえりまひょ」というお清どんの「口語」に誘われてことばが幼いときのままにもどるのだが、この変化がとてもおもしろい。「こわいものや気持のわるいものは何もあがってこない。」という「こころの動き/安心感」が、まさに、動いたままの状態でつたわってくる。誰かにおんぶしてもらって安らいだときの思い出が、「肉体」の奥から甦って来る。

せんば―在りし日の面影 泉冨士子詩集
泉 冨士子
編集工房ノア

*

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泉冨士子『せんば 在りし日の面影』

2015-07-18 10:00:46 | 詩集
泉冨士子『せんば 在りし日の面影』(編集工房ノア、2015年07月01日発行)

 泉冨士子『せんば 在りし日の面影』の巻頭の作品「水売りの一日」は詩集のなかでは少し変わった作品である。まだ全部読んだわけではないのだけれど、他の作品が「せんばことば(?)」というか、泉が暮らしのなかで身に着けた「口語」で書かれているのに対し、この作品は「標準語」で書かれている。
 この「標準語」がとても美しい。あるいは、逆か。他の作品の「せんばことば」がとても美しい。「標準語」と「せんばことば」を、「ことばの肉体」がしっかりとつないでいる。その結びつき方が美しい。「せんばことば」を例にした方が、私の言いたいことが言いやすいかもしれない。他者と会話する。その会話のなかで、どんなふうにことばをつかうべきなのかということを私たちは身に着けていく。変な言い方をすると、誰かが注意する。それにしたがって少しずつことばをととのえていく。そこには「対話の呼吸」のようなものがある。それが「標準語」の動きにも響いてきている。だから、美しい。
 こんな書き方は(言い方は)抽象過ぎるかもしれない。

宇治川の水汲みの仕事は
寺々の朝の勤行を知らせる鐘の音を
合図にはじまる。

 何でもない書き方に見える。実際、何でもないのかもしれないが、ことばにゆるみがない。しっかりと互いが結びついている。その「結びつき」をつくっているのが、「仕事」ということばと「勤行」ということば。「水汲みの仕事」というのは、この作品のテーマなのだけれど、「仕事」というとき、そこにその「仕事」をする人がいる。そしてまた、そのひとのまわりにはほかにも多くのひとがいる。そのひとたちも「仕事」をしている。「仕事」とは言わないかもしれないが、寺の坊さんもまた朝から動きはじめている。「勤行」をする。肉体を動かして、何かをする。何かをすることで、生きている。朝の早くから、ほかのひとに先立って、動きはじめている。一日を「働く」ということから始めている。
 ここにはひとは「働く」ものである、という「肉体の哲学」のようなものがある。そんなことは「哲学」とは言わないかもしれないが、「肉体」にしみついた何かがある。きっと泉は寺の「鐘の音」を聴きながら「朝だよ、起きなさいよ。もうひとは働きはじめているよ」というようなことを言われて育ったのだろう。「せんばことば」を知らないので「標準語」で書いたが、きっと原は、そういう「ことば」を聞きつづけたのだと思う。そして、朝になったら起きて働く(仕事をする)というのが人間の生き方なのだということを身に着けた。つまり、「思想」にした。だから、ひとの姿はいつも「働いている」姿として見えている。「勤行を知らせる鐘の音」は、ふつうのひとの「朝」とは違うけれど、違うからこそ、こんな時間から働いているひとがいる、という畏怖というか、尊敬というか、何が大切な、ありがたいことのようにして、身にこたえる。そういうひとに対して恥ずかしくないように働かなければならない。そういう思いが、この書き出しに自然に反映されている。原の両親(家族)はきっと、そういうことを繰り返し繰り返し原に言い聞かせたのだろうと思う。
 書かれていることば以上に、そのことばがつながっている「暮らし」が見える。感じられる。「暮らし」が原のことばをととのえている。「暮らし」が原のことばを美しくしている、と感じる。
 この、「暮らし」とことばの関係は、二連目でさらにはっきりする。

午前二時
その時刻の川水がいちばん澄みきっていて
うま味があると昔から伝えられてきた。

 「昔から伝えられてきた」。ことばは「昔から伝えられてきた」ものであり、「昔から伝えられてきた」ものが、いまも美しい。その「伝えられてきたこと(ことば)」は「真実」であるかどうかは、わからない。午前二時の川水がいちばんうま味があるというのは「科学的な真実」であるかどうか、わからない。けれど、そう思いたいのである。ひとが眠っている時間から起きだして、苦労して汲み上げる水。そこには「働く」人間の尊さがある。それを「うま味」として感謝する。
 けれど、そういうことを精神的というか、倫理的(道徳的)というか、なんだか人間をしばるうるさいものにせずに、肉体で味わう「うま味」という形で受け継ぐ。こういう「表現の工夫」、「表現の知恵」というもののなかに、「会話(対話)」のなかで引き継がれてきた「暮らし」をととのえる力を感じる。
 そういうことばの伝統を生きて、原は「伊兵衛さん、徳助さん親子」の仕事ぶりを描写する。宇治川から水を汲み上げ、宇治川を下って大阪のお得意さんに届ける。その「ハイライト」の一段落。

阿波堀川の岸辺に並ぶ商家では、午後二時頃になるともう水舟が来
る頃と、水つぼを洗い、川岸に面した裏戸をあけておく。船から水
を運び上げる役目は息子の徳助さんで、彼は水のはいった桶を天秤
でになって、その家のあいている裏口からはいり、土間の上にそろ
りと桶を置く。一つずつ桶を持ち上げ、水を騒がせないように注意
しながら、ゆっくりと水つぼの中へ水を落としこんでいく。音もし
ない。しぶきも立たない。これは伊兵衛さんが教え込んだのであろ
う。底の方から湧き水が盛り上がってくるかのようだ。そこから更
に息を吐いているみたいに細かな泡が立ちのぼる。水は一日の旅の
終わりを知っているのだろうか。徳助さんはそれを見届けると、自
分も安心したかのようにこちらをむいて、腰をかがめあいさつをし、
わたされたなにがしかの水代を、大切そうに胴乱にしまい、空にな
った桶を肩にすると、また来た時のように音も立てず裏戸を出る。

 「水を騒がせないように」という美しいことば。「伊兵衛さんが教え込んだ」という表現があるが、これは、水をそそぐ姿を見ながら原が学んだことでもある。姿をみて、そのとき話されることばを聞いて、そのことばといっしょに動く(働く)肉体を見て、そこから自分をととのえていく。水をそそぐだけではなく、何かをそそぐとき、それを「騒がせないように」そそぐ。
 そうすると……。
 「底の方から湧き水が盛り上がってくるかのようだ。そこから更に息を吐いているみたいに細かな泡が立ちのぼる。」そそがれた水が、生きはじめる。なんともいえず美しい。水の動きを見ているような気持ちになる。水がそそがれ水つぼにたまるのを見たいという気持ちになる。原は、繰り返し繰り返し、その仕事を見て、水を見て、徳助さんのことばを聞き、母親の「ほら、こんなふうにていねいに仕事をするんだよ。きれいでしょう」というようなことばを聞き、自分の肉体のととのえたかを身に着ける。「水は一日の旅の終わりを知っているのだろうか。」は原独自の思いだろうけれど、読んでいて、「ああ、よかった」と思う。水もこんなふうに大切にあつかわれ、生きていく。それがうれしいと言っている声が聞こえる。
 そのあとの徳助さんの姿も美しい。働くことは、つらい。けれど、美しい。自分にできることを最大限にする。そこから得られるものが何であるにしろ、それに対して苦情を言わずに、ただ自分をととのえて生きる。生きるとは自分をととのえることだ。そういう生き方に寄り添って原はことばとなって動いている。他人といっしょに、他人と対話しながら、原が、新しく生きている。そういうよろこびが、ことばの奥から自然に輝き出す。思わず、聞き惚れてしまう。


せんば―在りし日の面影 泉冨士子詩集
泉 冨士子
編集工房ノア
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喜多昭夫『悲しみの捨て方を教える』

2015-07-17 11:19:23 | 詩集
喜多昭夫『悲しみの捨て方を教える』(私家版、2015年05月15日発行)

 喜多昭夫『悲しみの捨て方を教える』は歌集。タイトルは、

「しそつくね、いかがですか」と言う君に悲しみの捨て方を教える

 からとっている(らしい)。このときの「君」がほんとうに悲しんでいるのかどうか、わからない。だから、喜多が「悲しみの捨て方を教える」ということばに酔っているように感じる。「悲しみを捨て方」ということのなかに「抒情」を感じているんだろうなあ、とも思う。「教える」という、少し冷めた距離感が「悲しみ」を軽いものにしている。「悲しみ」を「捨てられる」ものにしているかもしれないなあ。(捨てたくない人もいるんだろうけれど、という反論は喜多には通じないかもしれない。)「教える」というのは、たぶん「知(知っていること)」を「教える」のであって、その「知(知っている)」は「方(方法)」になっている。「抒情」とは言っても、「感情(感性)」よりも「知性」の方が主体となって動いている。あるいは感情を知性で抑制している感じがする。
 これは私の「直観の意見」であり、「証拠」も何もないのだけれど、こういう「声(音)」の調子は万葉にはなかったなあ。古今集以後だろうなあ。万葉は大声で相手に向かって言っている。誰かに向かって言っていることを、遠くの人にもわからせるような大声の強さがある。
 喜多の歌は、大声では言えないなあ。耳元でそっとささやく。いや、文字にして書いて渡すのかな? 小さな声だ。
 だから、

ローソンのロールキャベツを食べながら生きてることに感動してた

 と「感動」を歌いながら、ぜんぜん「感(情の)動(き)」が「強さ」となって伝わってこない。うれしさがない。「これが生きることなんだ」と自分に言い聞かせている、「無言の声」になってしまっている。「食べながら」だから「声」を出せないということもあるかもしれないが、これでは「感動」の押し売りになるかもしれないなあ。
 こういう「声の調子」が現代の短歌の主流なのかもしれないが、私は、ちょっと納得できない。
 でも、納得できないことをいくら書いてもしようがないか……。

欠けているところがきっと愛なのだろう 視力検査のランドルト環

 そうか、視力検査の「C」の字があっちを向いたりこっちを向いたりしているのは「ランドルト環」というのか。知らなかったなあ。知らなかったものが、ちゃんとことばになるのは楽しいなあ、と感じる。
 喜多の歌は、こういう楽しさに共感するとき、「いい歌だなあ」ということになるのかもしれない。あの「C」の、環の切れたところ、それが「愛」なのか。しゃれているね。「愛」が何であるかということはことばにしなくてもわかっていることなのに、こんな奇妙な言い方をされると、あ、そういう言い方は知らなかったなあと驚く。
 「知」の驚き。
 たぶん、これだな、喜多の歌を定義するとしたら。
 「知」が驚く。その驚いた「知」が「感情(たとえば、愛)」にひっかき傷をつくる。そして、それを「抒情」と呼んでみる。何となく、かっこいい。

<しらさぎ>に揺られつつ読む道造よ 君の抒情がカーブしてゆく

 「道造」と「抒情」の組み合わせはあまりにも安直すぎるが、それを「しらさぎ」(北陸線の特急?)の「カーブ」と重ね合わせる。その重ね合わせ方が、「頭」的。(知的)。カーブを走るとき、「肉体」は傾くが、「肉体」そのものはカーブしない。カーブするのは、あくまで線路。「肉体」が受け止めたものを、頭の中で整理して、視覚化する。その操作が「知的」。気づかなかったことを教えくれる人は、何となくかっこいい。
 「君」は「道造を読む君」。道造の抒情がカーブするのではなく、あくまで読んでいる「君の抒情」がカーブする。そんなこと、「君」しかわからないのに、喜多が「君」のかわりに断定している。その「飛躍」と、「飛躍」を支える「知」(線路がカーブするから、君もカーブして動いている)の操作が、喜多の抒情である。
 うーん。「かってに私の感情をつくりあげないで」と怒る「君」には出会ったたことがないのかもしれないなあ、喜多は。
 まあ、いいか。

いいなりになるのがそんなにいやでなくレモンの輪切りをかたくしぼった

 「レモンの輪切りをかたくしぼ」ることくらい、いいなりになってやったって、かまわない。(か、どうか、ちょっと疑問ではあるのだけれど。)



 感想を書く順序を間違えたかな?
 どうも、アトランダムになってしまう。アトランダムのままつづけるしかない。
 巻頭の、

航跡が消えずにのこる夢を見た びるけなう、びるけなう 遥なり

 「びるけなう」は外国の都市(港町)の名前だろう。わからないが、ここに書かれている「夢」は夢らしく矛盾している。つまり、消えない航跡などないのに「消えずにのこる」というのが矛盾していて、それが矛盾しているからこそ、「びるけなう」を忘れられないという感覚を強める。忘れられないというのは「記憶(肉体)」にしみついていること。「肉体」になっているということ。しかし、それは「遥か」にある。その矛盾とも響きあっている。この歌が、いちばんいい歌かもしれない。「びるけなう」からの下の句(でいいのかな?)は音がのびやかで、先に書いたことと関連づけて言うと、ここには「万葉の音(声)」がある。気持ちがいい。大声で読みたくなる。
 でも、基本的には喜多は弱音の歌人なのだと思う。

歩幅さえ忘れてしまう 野いちごの散乱があまりにうつくしすぎて

 この「散乱」は大声では何を言っているかわからないだろう。静かに「頭」のなかで「さんらん」が「散乱」になるのを待たないといけない。「さんらん」が「散乱」になって、はじめて「うつくしい」が動く。そして、それがほんとうに動くときには「うつくしい」は「うつくしすぎて」と過剰になる。その過剰が「抒情」だね。

消しゴムでけしてしまうとうすくなる 秋空を雲流れゆきたり

 この「うすくなる」も大声では伝わらない。ほとんど「息」そのものにして声を殺したときに見えてくる薄さだろう。その薄さを、さらに「秋空を雲流れゆきたり」と強い音で消し去ってしまう。「うすくなる」を「秋空を雲流れゆきたり」のあともおぼえていられるか、どうか。「文字」を読むときは確認ができるが、「声(音)」で聞いたら、思い出せないかもしれない。

側溝に捨てられている皺くちゃのアルミホイルは原罪だろう

 「原罪」がわからない。「ことば」としては知っているが、ここに書かれている他のことばとの関係のなかでは、私の場合、すんなりとおさまらない。喜多がほんとうに「原罪」を感じながらこの歌を呼んだのかどうか、さっぱりわからない。「頭」ででっちあげた歌のように感じられる。
 こういう歌は、私は嫌いだ。

うたの深淵―詩歌論集
喜多昭夫
沖積舎
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早崎文香「いのち」

2015-07-17 09:01:42 | 詩(雑誌・同人誌)
早崎文香「いのち」(「読売新聞」2017年07月17日朝刊)

 早崎文香「いのち」は平田俊子が選者の「こどもの詩」の作品。早崎文香は「横浜市・中尾保育園年少」。自分で書いたのではなく、言ったことばを誰かが書き留めたものかもしれない。漢字交じりの作品なので、自分で書いたとは考えられない。

なくなった は
死んだこと
呼ぶ は
生きていること

 この作品に対して、平田は

 文香ちゃんの声は天国のお父さんにちゃんと届いていますよ。何度でもお父さんに呼びかけよう。

 と書いている。このことばを書き留めた人が、「お父さんが亡くなった」と注釈していたのかもしれない。
 「お父さんは亡くなった」と誰かが言った。「亡くなった」ということばがわからずに、早崎は「亡くなった、ってどういう意味?」と聞いた。「死んだんだよ」と大人が説明した。そのあと「呼ぶ」は、そのまま早崎が自分で考えたことか。あるいは、「でも、お父さんは天国で生きている。だから、呼びかけようね」と言われて、「そうなんだ」と納得して、そのことを言い直したのか。ここは、ちょっとわからない。平田のことばは、そんなふうに読んでいるように思える。

 子どもの詩(ことば)というのは、どこまでその子どもの考えをあらわしているのか、よくわからない。現実にことばが出てきたとき、そこにいれば少しは「感じ」がわかるかもしれないが、「活字」になってしまうと、ますますわからない。大人がととのえなおしたことばには、大人の視点が入ってしまう。そこには、子どもにはこうあってほしい(こう考えてほしい)という大人の願いがまじってしまう。子どもの姿を、大人の願いにあわせてととのえなおしてしまうところがある。

 私は、平田とは違ったことを瞬間的に感じた。
 「呼ぶ」と「生きている」の関係を、「お父さんが天国で生きている」、だから「呼ぶ(呼びかける)」ではなく、早崎は「生きている」、だから「呼ぶ(呼びかける)」ことができる。「天国のお父さん、元気?」と呼びかけることができるのは、早崎が「生きている」から。「生きている」を実感している。「生きている」ことがどんなにすばらしいかを感じている。
 そう読みたいと思った。

 「呼ぶ」を「ことばを出す(何かを言う)/動かす」と言い換えてみる。「ことばを動かす」は「書く」ということでもある。それは、私が生きているからである。生きているから、何かを言わずにはいられない。--こう考えるのは、子どもの発想ではなく、大人の発想かもしれない。
 でも、私は、そう読みたい。
 生きている。だから、何かを言う。言わずにはいられない。ことばを動かして、少しずつ自分をととのえる。
 そんなことを考えた。
 「読む」とは、他人のことばを引き受け、自分なりに動かすことだ、と私は考えている。自分をととのえなおすことだと考えている。


平田俊子詩集 (現代詩文庫)
平田 俊子
思潮社
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林嗣夫『そのようにして』

2015-07-16 10:06:58 | 詩集
林嗣夫『そのようにして』(ふたば工房、2015年07月07日発行)

 林嗣夫のことばの特徴は論理と抒情が結びついていることである。知性と抒情が結びついている、と言い換えてもいい。
 「春への分節」という詩には「分節」という、いまはやりの「哲学用語(言語学用語?)」が出てくる。私のうろおぼえの感じでは、「世界」がまだ「光」とか「闇」とか、「花」とか「水」というものに分かれる前のところから、「光」「闇」「花」「水」ということばと結びついて認識されるようになることを「分節する/分節される」というようである。「分節」は「ことば」によって確定する。「ことば以前の世界」が「ことばの世界」になる、と言い換えることができるかもしれない。私の書いていることは、テキトウなので、「分節」ということばはほんとうはもっと違ったことを指し示しているのかもしれないが……。
 林は、赤ん坊のことばにならない「声」を聞きながら考えたことを、この「分節」ということばをつかって書いている。

ことば以前の純粋経験を
どのようにことばにして分節するか
多くの先人が悩んだところを
いま赤ん坊が悩んでいる
幼い舌や のどや 肺が
ふるえながら何かをさぐっている
やがて
そこを突破してくるだろう

 赤ん坊が「悩む」かどうかわからないが(赤ん坊だったとき、ことばをどういうかと悩んだかどうかおぼえていないのだが)、「分節」を「悩み」「さぐる」「突破する」という動詞と「舌」「のど」「肺」という「肉体」と結びつけて、「人間化」しているところが林の思想(生き方)である。
 「人間化」というのは「自己化」というか、「自己投影」のようなものである。対象に自己投影し、その投影された自己と対象を同一のものと見なし、対象のかわりに動いて見せる。いま引用した部分では、林は赤ん坊を「観察」していると同時に、赤ん坊になって、「幼い舌や のどや 肺」を動かしながら、ことばを発する、ことばによって「分節する」瞬間を追体験しようとしている。この追体験に、「分節」というような「知識(知性)」のことばがかかわってくるところ、知性によって追体験をととのえるところに、林のことばの動きが「論理的」「知性的」と感じさせる要因がある。
 これだけでも詩なのだが、これを林は「赤ん坊」とは別の世界でも展開する。「赤ん坊」に起きていることを別の世界で言い直し、「世界」を立体化し、ととのえてみせてくれる。

近くでコブシがねずみ色の無数の花芽をふくらませ
水色に輝く二月の空と対話していた
聴き取れないくらいの
にぎやかな静かな声だ
枝枝をつつむ光が揺らいでいる
コブシの芽はもうすぐ
純白の飛天の姿の花として分節されることだろう

 赤ん坊が「ことば」で世界を「分節」する。そうして「成長する」。コブシは芽から花へ変化、成長するが、このことを林は「分節」と言い直している。「分節」によって「世界」が新しくなる。そこにはかならず分節するいのちの成長が含まれている。
 赤ん坊の変化をそのまま書くのではなく、花(自然)を通して語りなおすことで、林はいいたいことを穏やかにしている。抒情にしている。このコブシの描写を読むと、一瞬、赤ん坊のことを忘れる。季節の変化をていねいに描いたものとして読んでしまう。けれど、そこにはほんとうは林の「知性」の「対話」がある。林自身の「自問」のようなものがある。この「自問」の抑制が林のことばをととのえている。

聴き取れないくらいの
にぎやかな静かな声だ

 というのは矛盾した表現だが、矛盾しているから説得力がある。いのちの動く瞬間のざわめきを、「にぎやか」と「静か」という矛盾したことばで「分節する」。「分節」は何かから何かを引き剥がすのだから、そこには必ずこういう「矛盾」がある。「矛盾」というのは、いわば「ことば以前」なのである。「ことば以前」だから「聴きとれない」。
 こういう「論理/知性の対話」が林の抒情の基本にある。

 たいがいの場合、その「分節」は私たちが「美しい」と思い込んでいるもの(赤ん坊、コブシ)のようなものと結びついて動いているのだが、(そのために「抒情」ということばと林の詩は結びつきやすいのだが)一篇、とても風変わりな、おもしろい作品があった。「失題」。前半の「論理」を踏まえて後半の世界が動いているのだが、ここでは、あえて前半は引用しない。その方が「分節」はどんなところでも可能であり、「分節」をきちんとことばにすればどんなことでも詩になるということがわかるからだ。

と、家のどこかからへんな音が聞こえてくる
バキュームカーが来て
トイレの汲み取りをしてくれているのだった
小窓を開けて
すみません、と言うと
水をいれてくれるかね、と外から言う
便器の中にどどどどどと勢いよく水を落とす
そして底をのぞき込む
まぜ返されたあの臭いがなまあたたかく吹き上がってくる
なおも暗い穴の底をのぞいていたら
だんだんと汚物が引き しまいに
汚水が吸い取られる時の やわらかな震えるような
不思議な音が
穴いっぱいに満ちた
いつか恋人と聴きに行ったコンサートの
サックスの音に似ていた

 バキュームカーと糞尿の「対話」がこんなふうにことばになるなんて。こんなことを、じっとみつめて書くなんて。さらに、そんなことを味わいながら(?)恋人とのデートを思い出すなんて。笑ってしまうなあ。「やわらかな震えるような」は「春への分節」の「幼い舌や のどや 肺が/ふるえながら何かをさぐっている」を思い出させる。「震えるような」「ふるえながら」と「ふるえる」という動詞が重なるからかもしれない。その動きが、何かを探しているみたいで興味をそそられる。バキュームカーと糞尿が「人間化」されて「対話」している。そこから「ことば」を生み出そうとしているのが、とても楽しい。
 「肉体」のことを書いているのではないけれど、なんだか「肉体」そのものを感じるなあ。
 「論理的/知的抒情」の詩は、美しいけれど、ある意味では「定型」。悪くはないけれど、「傑作!」と叫びたくはならない。何度も読んでいる感じがするからかもしれない。でも、この作品は「傑作!」と叫びたくなる。「糞尿」という日常的すぎるものが「分別」という論理のことばを覆い隠している。
 おかしくて、楽しくて、どこかしんみりするなあ。


風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス
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ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督「雪の轍」(★★★★)

2015-07-15 22:51:52 | 映画
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督「雪の轍」(★★★★)

監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 出演 ハルク・ビルギナー、メリサ・ソゼン、デメット・アクバァ

 トルコ・カッパドキアの洞窟ホテルを舞台に、元俳優でトルコ演劇史を書こうとしている男、その妻、男の妹(離婚して帰ってきている)の三人の確執を描いている。ほかにも登場人物はいるのだが、基本は三人である。いや、「相手を受けいれない」という「性格(人格)」が三様に(あるいは他の登場人物を含めた人数の数だけのあり方として)描かれるといえばいいのか。まるで一人一人が「洞窟」に閉じこもって、そこから他人を見ている感じである。他人を受けいれるも何も、自分の「洞窟」から出て行かないのだから、これでは「和解」というものはありえない。「他者」を受けいれるということは、自分が無防備になることなのだが、三人ともことばで「洞窟」をつくって、そこから出て行かない。常に自分の「論理」という「洞窟」へ引きこもり、相手を批判する。この緊張感は、なかなかつらい。「台詞」を追いかけるのが、つらい。その「台詞」がどれも「自己主張」の繰り返しであるのが、さらにつらい。
 私は、その緊迫したことばのぶつかりあいよりも、字幕を読まなくてもすむことばのないシーンにひかれた。特に野生の馬をつかまえるシーンがすごい。トルコの馬を最初に見たのはユルマズ・ギュネイ監督「路」。競馬馬と違って人工的な感じがしなくて、体が流れるように美しい。今回登場する馬も美しい。その美しい馬が首に輪をかけられ、川のなかで半分おぼれさせるように苦しめられる。苦しくなって、暴れる力がなくなったところをひきあげる。川からひきあげられて、足をおり、馬はやっと息をしている。その肉体の苦悩が美しい。苦しみが、見ている私にじかに響いてくる。馬にあわせて息をしてしまいそうなくらいである。映画を見ているうちに、その苦しい肉体のあえぎが、若い妻の苦悩と重なってくる。あ、あの白い馬は妻なのだ、と思えてくる。映画のなかでは、男が妻を「自分のことを籠の鳥と思っているか」というようなことばで批判するが、「籠の鳥」では瀕死の苦しみと重ならない。それで、なおのこと妻が白い馬に見える。この馬は、最後に野にかえされるのだが、このことも馬こそが妻の「象徴」だったのだと思わせる。
 「象徴」という点から映画を振り返ると、冒頭近く、こどもの投石で割られる車の窓ガラス。あれは主人公の男の「象徴」である。蜘蛛の素状にひびが入る。まだ、かろうじて砕けずに「一枚」につながっている。車のガラスは取り替えがきくが、男のこころは取り替えがきかない。他人のことばの礫を受けて、ひびのはいったこころ。それをそのまま、そっとつなぎとめるように、抱え込むしかない。このガラスのひびのつらさは、男にとっては取り換えようのないガラスなのに、他人からはそうは見えないことだ。「こころ」は見えない。ことばの礫がこころを傷つけた瞬間は、男の反応によって男が傷ついたことはわかるが、次の瞬間に男が反論すると、もうガラスは取り換えられていつものガラスにもどってしまったようにしか見えない。映画のなかでは、車のガラスは取り換えられ、それにひびが入ったということは忘れられてしまう。言われれば思い出すが、車の外形からは、その記憶は消えている。実際、男の「こころの傷」は瞬間瞬間に、消えてしまう形で描かれる。男は妻のように「涙」で悲しみをあらわすこともない。
 厖大な「台詞」の一方、ことばではない表現をする登場人物がいる。車に石を投げた少年。彼はほとんどことばを口にしない。無言の、じっと見つめる目が少年のことばである。男に謝罪のキスをするはずが、失神して倒れる。そのときの、男の「論理」とは無縁の目。さらに若い妻が少年の家に大金を持っていく。その大金を父親が暖炉へ放り込み燃やしてしまう。それをドアの隙間からじっと見ているときの目。見ることが少年にとって「世界」を受けいれることなのだ。だから、失神したときの目は、「謝罪するという論理(世界のあり方)」を拒絶(拒否)しているということでもある。少年は主要な登場人物ではないかもしれないが、重要である。
 映画は、この少年の目をカメラにしているわけではないが、少年の目のように、そこにある「世界」をそのまま「映像」として受けいれている。カメラはことばで世界を批判しない。「洞窟」のなかにも入るが、「洞窟」からも出てゆく。カッパドキアの風景をまるごととらえ、そのなかで動き気象(雪)の変化もとらえれば、水の動きもとらえる。それは、登場人物の「心情」とは無関係に、全体的な美しさでそこにある。存在すること事態が美しさになっている。ことばにしないことが、美しさを尊厳にまで高めている。
 私は目が悪いので、途中から字幕を読むのをやめてしまったが、最初から字幕を読まないで見ていたら、印象が違ってきたかもしれない。この映画のつかみとった厳しい美しさが、もっと生々しくつたわってきたかもしれない。「字幕の台詞」というのは、だいたいおぼえらていられない。見終わったあとは、ほとんど忘れている。しかし、台詞は忘れているが、ストーリーはおぼえている。台詞とはその程度のものだから、こういう台詞が主体になった映画でも、映像に集中してみれば、そこに起きていることはわかる。役者の肉体の動きが、観客の肉体がおぼえていることを刺戟し、男と妻がけんかしている、みんな自己主張するばかりで他人のことを思っていない、ということがわかる。字幕に頼らずに映画を見れば、きっと★5個の映画にかわるだろう。
                             (KBCシネマ2)
Yol DVD [DVD, For All Regions, NTSC]
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高塚謙太郎『memories』

2015-07-15 09:37:24 | 詩集
高塚謙太郎『memories』(Aa企画、2015年07月25日発行)

 高塚謙太郎『memories』は、私の肉体にはかなり負担が大きい一冊だった。視力が弱い私にはフォントの密集感(特に肉太の感じ)が、文字を網膜に強制的に焼き付けられるような苦しさで迫ってくる。まあ、こういう感じも詩の一部なのだが。

 「『肺姉妹』」という作品。(タイトルが『 』のなかに入っている。)「肺」と「姉」は「市」という文字を右側に共有している。「姉妹」は「女」という文字を左側に共有している。ひとまとめにして読むと、文字のなかで「複視」が起きたような、一瞬、目を閉じたいような苦しさで迫ってくる。

姉は肺をかかえて階段を上っている。息の揺れ、が階段はあと何段ですと告げ知らせている。

 この書き出しのなかで、「複視」はさらに激しくなる。「姉は肺をかかえて階段を上っている。」は「肺」を肉体的に強く感じながら(肺の苦しさをかかえながら)階段を上るということであって、「肉体」の外にだれかの「肺」かかえてということではないのだろうけれど、「姉」と「肺」が交錯すると、「女」の「肉づき(漢字の左側の月をそう呼ぶと記憶しているが)/肉体」を破って「市」が出入りしているような、奇妙な印象がしてくる。「女」が透明になり「肉体」の「市」が見える、「姉」の「市」と重なったり、離れたり、「複視」の現象そのものに見える。
 そのあとの「息の揺れ」は「肺の乱れ(呼吸の乱れ)」をあらわしているのだと思う。「肺」が苦しくて、もだえる。そして「揺れる」。その「揺れ」は、そのまま「複視」の揺れに見えるし、それが「息の揺れ、が」と読点「、」を挟んで動くときは、その「、」がつくりだす「間」がまた「複視」の重なりのあいだの「間」のようで、なんとも厳しい。「複視」の「間」のぶつかりあいが、「息」という形で動いている。
 さらに、これに「告げ知らせる」という「動詞」の「複視(?)」が追い打ちをかける。「告げる」か「知らせる」で「意味」は十分に伝わると思うが、これを「告げ知らせる」と重複させている。
 あ、つらいなあ。

階段は次第に黒ずみながら上方へと縮れている。息の揺れ、が必ず次には少ない階段を述べるわけだが、姉が立ち止まると肺が鬱血し、記憶の書き換えが起こってしまうこともある。

 「階段は次第に黒ずみながら上方へと縮れている。」は、苦しい肺(息の揺れ)には階段の上方が変形して迫ってくるということだろう。「縮れる」は短くなるというのではなく、萎縮し、そこを上るには肉体をかがめるとか、なにかをしないといけないということ。ふつうの姿勢ではのぼれない、肉体的に困難さが増すということを語っているだろう。
 肉体的に負担が大きくなるから、「息」は負担の少ない階段を選びたがる。(息の揺れ、が必ず次には少ない階段を述べる。)その選択の瞬間、立ち止まる。立ち止まると呼吸が乱れ(一定のリズムが瞬間的に変化し)、それが肺に響く。肺のなかで「鬱血」が起こる。それは、そういうことが何度もあって肉体にしまいこまれているので、あれこれの「記憶」となって甦る。--そういうことを書いているのだと思うのだが、この「記憶の書き換え」の「書き換え」が、また「複視」のように感じられる。ひとつのこと(記憶)が書き換えられるとき、そこにはなにか共通ものも(「姉/肺」の「市」のようなもの)があって、そこに共通しないもの(「姉/肺」の「女」と「月」)がずれながら重なる。そういう印象を刺戟してくる。
 このあと、「妹」が出てくる。

肺に委ねられた姉の前進作業は美しく繰り返される。息の揺れ、はその美しさの妹になる。

 姉が階段を上る(前進する)ことは、肺の能力次第。肺が息ができれば上るし、できないときは立ち止まる。それは過去の肉体の苦しさ(記憶)を繰り返しながら、改められる。繰り返しは、そのまま繰り返されるのではなく、書き換えられながらつづく。それを「美しく/美しさ(美しい)」ということばのなかに閉じ込めている。
 この「美しさ」に重なるように登場する「妹」は、実在の「妹」か。私には「複視」が呼び覚ました「幻の妹」、「不在の妹/非在の妹」のように思える。「複視」が要求する「幻想」としての「美しさ」に感じられる。それを「幻想」と仮定することで、「複視」の「複(間のずれ/重なり)」が、頭のなかで調整される。
 調整するといっても、それは「混乱」でもあるのだけれど……。

鬱血と妹、は姉の肺の文字のようなものということになるだろう。妹は数値を告げる上で姉の記憶の肺を先回りしていて、それは姉が立ち止まることで鬱血する肺の書き換えられる姉の、妹の、誤った、思い出、を次から次へと書き換えていくことに似ている。

 「肺/姉/妹」を分断し、また接続するものとして「鬱血」がある。「鬱血」が「肺」を意識させ、その鬱血が「妹」を必要とする。ここにいるのは「ひとりの女」なのだが、その女が肺(息)の苦しさにもだえるとき、その「肉体」をととのえるために「妹」が捏造される。肉体が妹という分身を要求する。その「妹」は「数値を告げる」のだが、この「数値」とは書き出しに出てきた「階段はあと何段です」の「何段」という「数値」である。書き出しでは「(姉の)息の揺れ」が「告げ知らせている」が、それはここでは「妹」になって「告げる」。「(姉の)息の揺れ」が「妹」であり、それは「書き換えられた記憶」(幼いときの姉、つまり姉から見れば妹のような存在)である。「記憶(過去)」から息の揺れ(肺の苦しさ)はつづいていて、それを「姉」は「妹」として認識しているということだろう。

 私は目が悪いので、高塚の書いていることばの細部を詳細にたどることはできないが、そんなふうに「書き換え」ながら読んだ/読み替えた。
 他の作品にも「息の揺れ、が階段はあと何段ですと告げ知らせている。」の読点「、」と似たつかい方があるが、この作品がいちばん効果的に「息(肉体)」をつかっていると感じられた。


ハポン絹莢
高塚 謙太郎
株式会社思潮社

*

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原田亘子『バンソウコウください』

2015-07-14 10:42:58 | 詩集
原田亘子『バンソウコウください』(私家版、2015年05月25日発行)

 原田亘子『バンソウコウください』のタイトルになっている詩は、ひざ小僧をすりむいた子どもが「バンソウコウくれませんか」と家を訪ねてきたときのことを書いている。見知らぬ子だけれど手当てをしてやる。子どもは手当てが終わると、「戦士のような勢いで」ぱっとは帰っていく。「とり残されたわたしは/束の間のナイチンゲール」。そのことを「いい夢をみたのかしら」と思う。その「内容」よりも、

 あのぉ
 バンソウコウくれませんか

 という子どもの口語とタイトルの「バンソウコウください」が違うことが、私にはとてもおもしろかった。子どもの「声(ことば)」はそのまましっかり聞き取っている。しかし、原田はそれを「タイトル」にしていない。自分で言い換えている。
 ここが、とてもおもしろい。
 「……くれませんか」と「……ください」と、どちらがていねいな言い方か、地方によって(個人によって)受け止め方は違うだろうけれど、私は「……くれませんか」の方が、「もし……していただけるなら」という前提を含んでいると感じるので好きである。店で物を買うときも「……はありますか」よりも「……はありませんか」という方が相手を気づかっているとは思うのだが、九州では「……はありませんか(……はないですか)」と言うと「ありませんか(ないですか)、とは失礼だ。ないと思うなら聞くな」という反応がかえってくる。「……はありますか」だと、もし、ない場合に、相手を傷つけることになると私は考える方なのだが……。
 原田はどっちだろう。そして、子どもはどっちだろう。
 私には、子どもの方には、もしあるならば、という気持ちがあると思う。こんなことを知らない人に頼んで申し訳ないのだけれど、「できるなら」助けてくださいという気持ちがあると思う。そのおずおずとした感じが「あのぉ」という呼びかけにも含まれている。そう感じる。
 原田も、それを聞き取ったと思う。聞き取ったけれど、そしてそのことばをそのまま書き留めもしたのだけれど、タイトルにするときちょっと気持ちが変わった。そんなに気をつかわなくてもいいのに。「バンソウコウください」で大丈夫なんだよ。私の方がナイチンゲールになることができてうれしかったんだよ。助けられたのは私なんだよ。ありがとう。そういう気持ちがバンソウコウ「くれませんか」を、バンソウコウ「ください」に変えたのだ。自然に、そう変わってしまったのだ。
 原田のことばのなかには、そういう動き(変化)が自然に起きている。他人のなかで動いたこころをそのまま正確に受け止めるだけではなく、受け止めたあと、そのこころがもっと自由に動いていくのを支えるような力がある。少年の喧嘩を描いた「折れた樹の枝」にもそういうことを感じだ。
 でも、ここで引用するのは、そういう子どもとの対話、人間との対話ではなく、少し違った「出会い」。「花大根」という作品。

春になると
散歩道の側溝に
きまって咲く花大根
今年は赤まんまも
となりでいっしょに咲いている

どうして?
お日さまもあたりにくいのに
聞いてみようと
のぞきこんだら

ヌッ、と
大きな白い猫が顔をだした
自分の家のドアを開けるような
顔をしている

大切な庭先に
入り込んでしまったのかしら

「気をつけてよ」
少し汚れたお尻をふって
花大根のむこうを
歩いて行った

 猫だから「気をつけてよ」というような「日本語」を話すわけではない。けれども原田には、そう聞こえた。原田は瞬間的に猫になっている。そのとき、そこには猫だけがいるのではなく、原田が出会ったひとの姿も重なっているのだが、この瞬間的な変化のなかに原田の「反省」のようなものが含まれる(他人との対応の仕方が含まれる)のがおもしろい。「そうか、他人の領分にはかってに踏み込んではいけないのだな。知らず知らずに他人の領分に踏み込んでしまうことがあるのだな。申し訳ないことをしたなあ」と振り返っている。人柄が、滲み出ている。
 そして、このこころの動きは、実は猫に出会う前からはじまっている。

今年は赤まんまも
となりでいっしょに咲いている

 この「となりでいっしょに」が原田の生き方の基本なのだ。だれかのとなりでいっしょに生きている。いっしょに生きているひとのこころを受け止めながら、それを支えると言ってしまうとおおげさだし、なにか違ったものになるのかもしれないけれど、しっかりと受け止め、自分の生き方をととのえる(自分の行動のあり方を振り返る力)にしている。「お日さまもあたりにくいのに」とかってに考えたけれど、そこに生きている草花、猫にとっても「大切な」場所なんだと気づく。そして、ことばが変わっていく。
 自然に、そういうことをしてしまう人なのだろう。文学の価値は作者の「人柄」によって決まるものではないけれど、私は「人柄」が感じられる作品が好きだ。







*

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長田弘『最後の詩集』(15)

2015-07-14 08:54:07 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(15)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「One day 」は「Forever and a day 」の「a day 」を言い直したもの。「永遠と一日」の「一日」。「一日のおまけ付きの永遠」、「永遠のおまけである/一日」と長田は言い直している。
 「永遠」とは何だろう。この詩集のなかでは「一瞬」を「充実させたもの」という形で表現されていたと思う。「充実」を人間の側(行動する側)から言い直すと「ただに」「ひたすら」「熱心」に行動するということにつながる。そして、そんなふうに「無骨に生きる人たち」(アレッシオ)が作り上げたのが「世界」なのだから、「永遠」とは長田が見ている「世界の美しさ」そのもののように感じられる。
 そのとき「一日」とは何だろう。
 私には、あらかじめ目の前にひろがっている「世界」ではなく、長田が自分で充実させる「世界」のように思える。目の前にある「世界」のなかへ参加していく「長田の世界」。「永遠」のなかへ参加していく「長田の一日」。
 「永遠」は「長田の一日」を受けいれてくれる。「永遠」が「おまけ」をくれるのではなく、「永遠」が長田を「おまけ」として受けいれてくれる。そんな感じに読めてしまう。
 でも「おまけ」になるためには条件がある。「一日」を充実させなければいけない。「充実」させることで、その「一日」が「永遠」につながり、それがまた次の「一日」の充実を誘う。「充実」させることをやめると、「永遠」と「一日」は離れてしまう。「永遠」と無関係な「一日」になってしまう。「永遠と一日」というとき、その「一日」は「永遠」と連続していないといけないのだ。
 長田はどんなふうにして「一日」を充実させたのか。

昔ずっと昔ずっとずっと昔
朝早く一人静かに起きて
本をひらく人がいた頃
その一人のために
太陽はのぼってきて
世界を明るくしたのだ
茜さす昼までじっと
紙の上の文字を辿って
変わらぬ千年の悲しみを知る
昔とは今のことである

 「変わらぬ千年の悲しみ」とは「永遠の悲しみ」。「永遠」に結びつくとき「昔」と「今」は「同じもの(ひとつのもの)」になる。「一体」になる。これは、長田が書きつづけている「真実」である。
 この詩のなかで、印象深いのは、そういう「論理」ではなく、ここに「本」が出てくることである。

本をひらく人がいた頃

 長田は「本をひらく人」なのだ。ここに書かれているのは「自画像」なのだ。「本をひらく」とは「紙の上の文字を辿る」ことである。ことばを読むことである。そして、それは「知る」ということだ。
 「知る」ということばは「詩って何だと思う?」のなかに出てきた。

窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、詩だ。

 詩は、ことばで書かれている。だから、この二行は、

窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、ことばだ。

 ということになる。さらにいえば、空の色を語るのにふさわしい、充実したことばが必要なのだ。そのことばを通して「空の色」を「知る」。こんなふうにして語ると「空の色」は「空の色になる」ということを「知る」。
 「ことば」には「知る」が凝縮している。「知る」がつまっている。「知る」が、「知ったこと」が、「充実」している。「ことば」には、たとえば「千年(前)の悲しみ」が「変わらぬ」まま、存在している。それに気づく。発見する。そして、それに「同意する」、あるいは「共感する」。それが「知る」なのだ。
 読書家の長田の姿が、ここに静かに語られているだ。

一日のおまけ付きの永遠
永遠のおまけである
一日のための本
人生がよい一日でありますように

 「人生」は「一日」ではない。「ハッシャバイ」のなかで長田は「人生」は「三万回のおやすみなさい(三万日)」でできている、と書いている。けれど、その「三万日(永遠/長い時間)」を「一日(一瞬)」として「充実」させるために、本を読む。ことば(詩)を読む。そして、その「一日」が「永遠の一日」と重なることを「知る」(実感する)のである。
 本を「読む」、「知る」。このことを長田はまた別のことばで書いている。詩のあとに収録されている「日々を楽しむ」という六篇のエッセイ。そのなかの「探すこと」という作品。

 探すこと。ときどきふと、じぶんは人生で何にいちばん時間をつかってきたか考える。答えはわかっている。いつもいちばん時間をつかってきたのは、探すことだった。

 「読む」「知る」は「探す」ことなのである。何を探すか。「ことば」である。ことばを「探して」、ことばに出会って、ことば「発見する(気づく)」。そのことき「探す」が「知る」になる。ことばを「知る」。ことばを「知る」ことは、自分の位置がわかること。自分が「世界」の一員になることだ。
 長田は「ことば」を「探す」とは書いていないが、こんなふうに「ことば」を補って読むと、長田の生き方がわかる。
 「ことば」を省略してしまうのは、それが長田にとってはわかりきったことだからだ。わかりきっているので、明示することを忘れてしまう。「無意識」になって「肉体」にしみついている。こういうことばを私はキーワードと読んでいるが、おさだにとってのそれは「ことば」なのだ。
 でも、そうやって本を読み、「ことば」を知ることで世界の一員になるだけでは、たぶん、だめなのだ。一員になって、その一員であること、個のあり方を充実させないと、一員ではいられない。一員でありつづけることはできない。ほんとうに世界に参加したことにはならないのだ。「長田自身のことば」を充実させるとき、世界も充実する。「一日」を充実させるとき「永遠」も充実する。「充実する/充実させる」という「動詞」のなかで、「永遠」と「長田の一日(ことば)」は溶け合う。

 理屈っぽく書きすぎたかもしれない。長田の張り詰めたことばに理屈を差し挟むことで、いびつな隙間をつくってしまったかもしれない。少し反省している。
最後の詩集
長田 弘
みすず書房

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長田弘『最後の詩集』(14)

2015-07-13 10:40:30 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(14)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「詩のカノン」も「昔ずっと昔ずっとずっと昔、」という一行ではじまる。「物語」風にして、つまり「架空」を装うことで、ふつうの詩では言えないことを言いたいのかもしれない。「考え」を言いたいのだ。特に、この詩ではそれを感じる。
 「平和」とは何か。詩の中心に、それが書かれている。

平和というのは何であったか。
タヒラカニ、ヤワラグコト。
穏ニシテ、変ナキコト。
大日本帝国憲法が公布された
同じ明治二十二年に、
大槻文彦がみずからつくった
言海という小さな辞書に書き入れた
平和の定義。平和は詩だったのだ、
              (注・「変ナキコト。」の「変」は原文は正字/旧字)

 「平和」について考えていることを、長田は書きたかったのだ。大槻文彦の「定義」をそのとおりだと思っているので、そのまま引用している。その上で、「平和は詩だったのだ、」と言う。
 この「平和は詩だったのだ、」という一文は、一般的な「解釈」からすると、とても奇妙である。
 「平和」そのものについては長田は大槻の定義を採用し、同時に、それを「詩の定義」で補強しようとしているのだ。
 「詩」って何?

昔ずっと昔ずっとずっと昔、
川の音。山の端の夕暮れ。
アカマツの影。夜の静けさ。
毎日の何事も、詩だった。
坂道も、家並みも、詩だった。

 詩については「詩って何だと思う?」に「目を覚ますのに/必要なものは、詩だ。」「窓を開け、空の色を知るにも/必要なものは、詩だ。」と書かれていた。「目を覚ます」「知る」を手がかりに、私は「発見する」「気づく」ことが詩だと読んだ。
 この「詩のカノン」の書き出しからも同じことが言えかな? 「川の音。山の端の夕暮れ。」もまた何か新しいものを発見して、それをことばにすると詩になる、そう言っているように見える。
 しかし、

毎日の何事も、詩だった。

 これは、どうだろう。
 「毎日」繰り返す何事か。「毎日」だから、そこには変化がない。新しいものがない。発見することなど何もない。「昔ずっと昔ずっとずっと昔」から、変わらないもの。それが詩である、と長田は言っているように思う。
 そう考えると、その「毎日」というのは、

穏ニシテ、変ナキコト。

 とも重なる。
 でも、そうだとすると、「詩って何だと思う?」に出てきた「目を覚ます」ということとうまく合致しない。「目を覚ます」のは、そこに衝撃があるから。衝撃(新しい発見/気づくこと)によって「目を覚ます」。「穏ニシテ、変ナキコト。」の繰り返しだったら眠くなってしまう。
 長田は矛盾したことを書いているのか。
 そうではない。少しずつ言い直している。つけくわえている。どんな定義でも、一回では言い切れない。

平和の定義。平和は詩だったのだ、
どんな季節にも田畑が詩だったように。
全うする。それが詩の本質だから、

 「全うする」に似たことばは、これまでも見てきた。「充実(する/させる)」「ひたすら」「ただに」。「新しく」なくても、それが完全に充実したものなら、それは詩である。「完全な充実」というのは、常に「新しさの更新」であり、「永遠」だからである。
 「新しい」と「永遠」は、「一瞬」と「永遠」のように「矛盾」のように見える。
 しかし、そこに「全うする」という「動詞」を組み合わせると、それは「矛盾」ではなくなる。「何かを全うする」と「新しい段階」になる。「一瞬」を「全うする」と、「一瞬」は「永遠」と溶け合う。「全うする」という「動詞」のなかに詩がある。
 「全うする」ためには「ひたすらに」何かをする必要がある。

 「全うする」を引き継いで、詩はつづく。

全うする。それが詩の本質だから、
死も、詩だった。無くなった、
そのような詩が、何処にも。
いつのことだ、つい昨日のことだ、
昔ずっと昔ずっとずっと昔のことだ。

 いのちを「全うする」と死。それも詩である。というのは、死を意識したことばである。死を意識しながら、長田はことばを書いていることがわかる。なんとしても、これだけは言いたい、という気持ちがあふれている。
 いのちを全うする詩。そういうものが「無くなった」と、最後に長田は苦言を書いている。

最後の詩集
長田 弘
みすず書房

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長田弘『最後の詩集』(13)

2015-07-12 10:39:44 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(13)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 ものの見えた(見え方)はひとつではない。「ラメント」は、そう書いている。

昔ずっと昔ずっとずっと昔、
公園の、桜の樹の下で、
子どもたちが、熱心に、
地面に、棒で円を描いていた。
「それは何?」桜の樹が訊いた。
「時計」一人が言った。
「サッカーボール」一人が言った。
「明星」一人が言った。
「花の環」一人が言った。

 「昔ずっと昔ずっとずっと昔、」は読点「、」を除けば「ハッシャバイ」の書き出しと同じ。「ハッシャバイ」では「円」は「お月さま(熟した果物)」だった。「ハッシャバイ」のように、子どもに語っているのかもしれない。おとなのなかにいる、子どもに。「円」で、何かを描こうとしていたことをおぼえている?と問いかけているのかもしれない。何かを描こうとしたことを問いかけると同時に、そのときの「熱心」をおぼえている?と問いかけているようにも思える。「熱心に」は、「冬の金木犀」で「ひたすら」と書かれていた。「夏、秋、冬、そして春」に書かれていた「ただに」でもある。子どもは「円」を「熱心に」充実させてもいたのだ。
 おぼえている? そのときのことを。

公園には、もう誰もいない。
昔ずっと昔ずっとずっと昔、
あの日、地面に棒で円を描いた
子どもたちはいまどこにいるのだろ?

 おぼえている? 何を描いていたのか、おぼえている? あの熱心(集中)をおぼえている?

時計でも、サッカーボールでも、
明星でも、花の環でもなかったのだ。
子どもたちが描いた円は、
子どもたちの、魂への入り口だったのだ。
立ちつくすことしかできない
桜の樹はずっとそう考えていた。

 魂「の」入り口ではなく、魂「への」入り口。
 魂が「円」のなかへ入って行って、「円」を時計やサッカーボールにかえるのではない。「円」を明星や花の環と呼ぶときに、そこに魂があらわれてくる。子どもたちは魂をつくっていたのだ。魂を育てていたのだ。熱心に。集中して。
 そこにあるものを、そこにないもので呼ぶ。これを詩では「比喩」と呼ぶ。比喩とは、魂をつくることなのだ。自分自身をつくりあげること、自分を育てることなのだ。
 そう思って読むとき、最後の二行、そこに描かれた「桜の樹」は詩人・長田の姿のようにも見える。子どものように、比喩を生きる形で詩を書き、長田の魂を育て、長田自身の人格を育てた。人間を育てた。
 「ずっと」は書き出しの「昔ずっと昔ずっとずっと昔、」に繰り返されているのでさっと読んでしまうが、最終行の「ずっと」には長田の静かな自負のようなものが感じられる。「ずっと」は「持続」であり、「ひたすら」であり「熱心に」でもある。それがないと「持続」はできない。また「考えている」も長田の姿勢をよくあらわしていると思う。長田はいつも「考える」ひとだったのだ。この詩集には和辻哲郎の「イタリア古寺巡礼」をはじめとしていくつかの引用や参照文献が示されている。他人のことばと向き合い、自分のことばをととのえなおす。それが長田の「考える」ということだったのだと思う。

最後の詩集
長田 弘
みすず書房

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