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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田弘『最後の詩集』(12)

2015-07-11 08:58:43 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(12)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「ハッシャバイ」は子守唄だろうか。私が知っている「歌詞」とは違うが、長田はこんなふうに始めている。

昔ずっと昔ずっとずっと昔
お月さまがまだ果物だった頃
神さまは熟したお月さまを摘んで
世界の外れにある大きな戸棚に
仕舞ってからぐっすり眠った
世界は眠ったみんな眠った
おやすみなさいと闇が言った
おやすみなさいとしじまが言った
ハッシャバイ(静かに眠れ)

 「お月さまがまだ果物だった頃」という発見が楽しい。それを摘んで戸棚に仕舞うというのも楽しい。あした起きたら、戸棚に熟した果物がある、という夢をこどもに与えてくれる。あした起きるために、さあ、眠ろう。「眠る」と「起きる(目覚める)」は反対のことなのだけれど、この「反対」が「わくわく」という感じにつながる。
 ひとは(こどもは?)反対のことをしたがるものである。
 そのあとの「眠った」「おやすみなさい」「言った」という繰り返しは、子守唄そのままの静かさがある。「発見する」のではなく、知っていることを繰り返すときの「安心感」がある。
 このあと詩は転調する。

人生は何でできている?
二十四節気八十回と
おおよそ一千個の満月と
三万回のおやすみなさい
そうして僅かな真実で

 「二十四の節気八十回」以下の三行は、長田の八十年の人生で繰り返されたこと。そのなかに「三万回のおやすみなさい」がある。それは「二十四節気」や「満月」とは違い、人間が(長田が)繰り返したことである。そのとき、長田のそばには、だれかがいた。だれかに「おやすみなさい」と言ったのだ。
 最終行の「真実」をどう読むか難しいが、私は、長田が繰り返した「おやすみなさい」にその答えがあると思う。だれかに対して「おやすみなさい」とあいさつをする。それは「発見」ではないが、つまりこれまでこの詩集で読んできた「真実」とは違うものだが、人間の暮らしのなかで共有されてきたものだ。誰が発見した(発明した?)のかわからないが、ひとは「おやすみなさい」とあいさつをして眠る。あいさつをするとき、その人に対して何かを思いやっている。母親がこどもに子守唄を歌うような、しずかな思いやりがある。それを「おやすみなさい」ということばは引き継いできた。
 また、「おやすみなさい」をいうとき、ひとはただ「おやすみなさい」とだけ言うわけではない。母親が歌った子守唄のなかに「お月さまがまだ果物だった頃」という「真実ではない」何かがある。「真実ではない」けれど、その「真実ではないところ」に「真実」がある。こどもをわくわくさせる何か。こどもをわくわくさせたいという、思い。そうであったらいいのに、という「願望の真実/真実の願い」がある。
 「真実ではないところにある真実」という矛盾。詩も、もしかすると、そういうものかもしれない。ことばが少し違うところに寄り道して、「一瞬」を遊んでいる。「一瞬」を「一瞬」のまま充実させている。時間を忘れて生きている。
最後の詩集
長田 弘
みすず書房
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北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』(2)

2015-07-10 11:36:43 | 詩集
北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』(2)(思潮社、2015年06月30日発行)
        
 北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』を読みながら、きょうは「なぜ北川透の詩はおもしろいか、と問われたとき」どう答えようかと考えた。「なぜ」は「どこが」かもしれない。
「道具愛」のなかの「嘘つき機械」。

真実を告白します、というツールを通し、わが嘘つき機械の始まり。
告白します。わたしは浴場で少女を犯しました。ドストエフスキイ。
夜明け、イエスは湖上を歩いて、弟子たちの所へ行かれた。マタイ。

 「真実を告白します」とひとは言うが、そのときひとは「真実」を語っていない、つまり「嘘」をついているというのは、いわば「常識(真実)」かもしれない。人間はみんな「嘘つき」だ。しかし、こんな「真実」はおもしろくも何ともない。「真実」なんて退屈だし、何やら「教訓めいている」(教科書めいている?)から、うんざりする。
 では、北川の書いていることが、なぜ「詩」なのか、どこがおもしろいのか。
 簡単だ。
 「嘘つき」と呼ばれているのが、ドストエフスキイやマタイ(あるいはキリスト)だからである。尊敬をあつめている人間、偉大な人間が「嘘つき」である。これが、おかしい。「嘘つき」という点では、ふつうの人間とかわりがない。
 しかも、「嘘」がへたくそである。ほんとうの「嘘つき」というのは、「嘘」がばれないようにして、ひとを騙すものである。ドストエフスキイもマタイ(イエス)もひとを騙して、自分の「利」を得ようとなどしていない。「湖上を歩いた」など、嘘を通り越した、ばかげた作り話である。「大風呂敷」をひろげる類である。見え透いた「自慢話」である。
 いや、ドストエフスキイはほんとうに浴場で少女を犯したかもしれない。でも、ほんとうかどうかなんて、どうでもいい。ひとはそれが「真実」か「嘘」かを気にしていない。そこに語られていることが、自分を刺戟してくるかどうかだけを考えている。スキャンダラスならそれでいいのだ。スキャンダルのなかで、自分のできない「夢」を生きる。そのために、ことばはスキャンダラスでなければいけない。ことばが煽情的なら、それでいいのだ。
 スキャンダルとは、広辞苑によれば「不名誉な噂。醜聞。みにくい事件」である。「不名誉」や「みにくい」が似合うのは「偉大な人間」「尊敬を集めている人間」である。「偉大な人間」と「不名誉」の出会いは、手術台の上のミシンと蝙蝠傘の出会いのように、ひとを驚かす。つまり「現代詩」なのだ。
 で、こういうとき、詩を詩として成立させるのは、実は「量」である。ドストエフスキイが浴場で少女を犯した、というだけでは、もう、「現代人」は驚かない。それくらいしたって、大したことはない。あんなに異常な作品をたくさん書いたのだから、ふつうのひとと同じセックスをしているはずがない。ドストエフスキイなんて長くて難しくて、字が小さいから読んだことないけど、そう思うなあ。
 ドストエフスキイだけのスキャンダルなら、それでおしまい。けれど、北川はそれをどんどん書き並べる。

真実を告白します、というツールを通し、わが嘘つき機械の始まり。
告白します。わたしは浴場で少女を犯しました。ドストエフスキイ。
夜明け、イエスは湖上を歩いて、弟子たちの所へ行かれた。マタイ。
労働者のために誰が一番尽くしてくれたか。ヒトラーさ。セリーヌ。
女の性や奴隷の性を持つ者。たち。……に吐き気! ニーチェ。
父はやせていたからスープにするしかないと思った。谷川俊太郎。
皇統、千万世の末までにうごきたまはぬ。これぞよろづの理。宣長。
一緒に寝た女の数は/記憶にあるものだけで百六十人。鮎川信夫。
猿が人間化するのに最もあずかった力は労働であった。エンゲルス。
私は殆ど生きた気がしない。鼻を摘み通り過ぎただけ。三島由紀夫。

 痛快だなあ。豪快だなあ。死んでしまっているひとを「嘘つき」と呼ぶのは、まあ、平気だけれど。谷川俊太郎は生きている。「嘘つき」って言い切っていい? 言ってみたいなあ。鮎川信夫って、「荒地」の詩人のなかで北川が一番尊敬している詩人じゃなかったっけ。「寝た女百六十人」なんて「大風呂敷ひろげて」なんて笑っていい? いやあ、笑い飛ばしたいなあ。そういう「嘘」もついてみたいが、(ニーチェみたいに「女の性や奴隷の性を持つ者。たち。……に吐き気!」なんて暴言を吐いてみたいが)、言われたことをそのまま信じてしまうのではなく、そんなの嘘に決まっている、と笑い飛ばすのもいいなあ。やってみたいなあ。
 どのことば(暴言?)にも、その瞬間の「感情」がある。それが「理性的」に判断すると否定すべきものであっても、その感情が動いたということは「真実」。これが、きっとポイントなのだ。ことばの奥で「感情」が動いている。「肉体」が動いている。その「動き」、「動いた」ということが、たぶん、絶対的な「真実」なのだ。私たちは、他人の動きにつられて動いてしまうものなのだ。
 人間のなかで、何かが動く。動いてしまう。その「動き」を感じる。
 で。
 「動き」が「真実」なら。(ここから、私は「飛躍する」。)
 その「動き」をあおる「動き(ことばのリズム)」が詩にとって重要である。北川は、「意味(人間はみんな嘘つき)」だけでことばを動かしているのではなく、ことばそのものを「意味」にはならないもの、「意味」から断絶したもので動かしている。ことばをリズム(音楽)にしてしまっている。リズムそのものに「意味」はない。言ったひとの名前を行の最後にそろえるという形式をつくり、一行の長さをそろえるという外形的なパターンもつくり、そのなかで、読みやすいように(聞きやすいように)ことばを動かしている。苦労してやっと書いたという印象を与えない。思いついたまま書いた、そうしたらこんな詩ができたという感じでことばを動かしている。このことばのリズムで動くことばの「軽快さ」、リズムをつくり出してしまう「強靱さ」が北川の、詩なのである。
 でたらめ、言いたい放題を、ただ書きなぐっているかのように装っているが、そのことばの奥には北川が吸収してきた「日本語」のリズムが生きている。多くのことばを読んで、そのなかで北川がことばを鍛えているということを感じさせる。
 これは、たとえば、そこに書かれているドストエフスキイ、マタイ、セリーヌ……の「引用」そのものにもあらわれている。北川は、多くの読書から、そこに書いてあることばを抜き出している。北川は「出典」を知っている。幅広い「出典」。その「幅広さ」が北川のことばを「強靱」にし、「軽快」にしている。「文学」が鍛え上げた「文体」を背後に感じるのである。
 「意味」を超えた、ことば自身の「動き方(文体)」、そのエネルギーの配分の具合、そういうものに「文学(詩)」の力を感じる。北川はさまざまな「文体」を自分自身のものとして「つかう」ことができる。「文体」を北川の「肉体(ことばの肉体)」は確立したものとして持っている。それを感じるから、安心できる。
 表面的には「笑い」で読者を引きつけ、その背後でゆるぎない「文体」を感じさせる。そこに、この詩の楽しさがある。

 北川の「文体の強靱さ」をもっとも感じさせるのは、
「おや、月見草」である。

バスに揺られて御坂峠の茶屋に帰る時、
「僕」の隣に座っていた老婆が、
「おや、月見草」といって、路傍の花ひとつを、
ゆびさしました。--こんな演出ができるなんて、
こころにくいなぁ。ここでわたしはおののき震えました。
三七七六米の、日本一俗な富士。
それと立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、
すくっと立っていた、金剛力草とでも言いたい、
けなげな月見草。富士に月見草はよく似合う?
似合わないか? じゃないよ。
このシュールな組み合わせに驚いたら?

 詩集のなかでは、やわらかな味のある「文体」だ。
 この作品について、北川は、

鶴谷賢三の著作『太宰治 作家と作品』(有精堂)の中の「『富嶽百景』鑑賞」から、全面的に引用しています。

 と書いている。自分のことば、自分で見つけ出した世界を書くのではなく、鶴谷の書いたことばをそのまま「引用」する。(そこには、太宰も引用されている。)注釈がなければ「引用」は「剽窃」と呼ばれるかもしれない。注釈があっても「剽窃」と批判するひとがいるかもしれない。
 でも、そうではない。「わたしは浴場で少女を犯しました。」がドストエフスキイからの「剽窃」ではないのと同じだ。北川は、ことばを「引用」するとき、そのひと(ドストエフスキイ)になって、ことばの「動き」そのものを再現している。「意味」ではなく、「動き方」を示している。北川の「肉体」がおぼえているものを、北川の「ことばの肉体」として、再現している。(パフォーマンスしている、と言えばいいのかも……。)
 「引用」するという行為のなかには「出典(原典)」と、それを引用する北川の「ことばの肉体」のセックスがある。「一体」になったうえで、セックスすることで生じた変化(エクスタシー)を「北川のことばの肉体」を素肌かとして読者にさらしている。その動きがぎくしゃくせず、違和感がないものに見えるのは、北川の「ことばの肉体」がいろいろな「文体」を引き継ぐことができるだけの幅の広さを持っているからである。背後の「文体の蓄積」という「教養」があるのだ。こんなに自分の外(エクスタシー)まで行ってしまっても、まだ「自分(自分のことばの肉体)」であるという「連続」する強靱さがある。

 「なぜ北川透の詩はおもしろいか、と問われたとき」、私は「北川の文体が強靱だからだ」と答えよう。

なぜ詩を書き続けるのか、と問われて
クリエーター情報なし
思潮社
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長田弘『最後の詩集』(11)

2015-07-10 09:02:22 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(11)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「フィレンツェの窓辺で」は、空を走っていく雲をみつめ、雲は「小さな翼をはためかして飛んでゆく」「童子天使」だと思う詩。童子天使は雲の比喩ではなく、雲が童子天使の比喩であるかのように、詩の後半は、天使がかろやかに飛びまわる。
 最後の部分、

ずっと、不思議な音楽の響きが、
耳の奥で鳴っていた。シュトックハウゼンの
「少年たちの歌」だ。近づいてきては
遠ざかり、消えたかと思うと、不意に耳元で、
飛び散る水沫のように、童子天使たちの
幼く短い叫び声がする。フィレンツェでは、
束の間にすぎないのだ、五百年だって。

 こんなふうに動くことばを読むと、「少年たちの歌」さえ天使の比喩のように思える。比喩とは、いま/ここにあるものの本質を表現するために、いま/ここにはないものを代用することだ。ふつうの比喩では「少年たちの歌」を「天使」のようだ、と比喩的に語る。けれど、長田は逆の語り方をしている。
 「少年たちの歌」の方が、雲と同じように、論理的(客観的)には存在する。しかし、それは「耳の奥」という長田の「肉体」の内部にあるので、それがいま/ここに客観的に存在しているということは、他人(第三者)には確認できない。そういうことを利用して、「少年たちの歌」を天使の比喩にしているのだが、そういう語り方をすると、その音楽が客観的にいま/ここには存在しないがゆえに、逆に天使が存在しているような感じになる。実在する天使の本質を語るために、いま/ここにはない音楽が比喩としてつかわれていると感じてしまう。
 現実と比喩が入れ代わってしまう。「童子天使たちの/幼く短い叫び声」こそがいま/ここにあり、それは「飛び散る水沫のよう」という比喩で語られなおしている、と感じてしまう。
 こういう比喩と現実の交代のあと、「束の間」と「五百年」が入れ代わる。「束の間(一瞬)」が「五百年(永遠)」と入れ代わる。長田は、いま、「一瞬」にいるのではなく「五百年」という長い時間(永遠に匹敵する時間)のなかにいる。「五百年」を実感できるフィレンツェに入る。「五百年前」のフィレンツェを「いま」と感じながら、そこにいる。
 「一瞬」と「永遠」は、長田にとってはいつでも同じものである。「一瞬」が充実するとき、それは「永遠」にかわる。長田は童子天使を雲や音楽の比喩で語ることで、「一瞬」を「永遠」に変えている。
 この張り詰めた詩の後半、特に最終行には長田の思想(生き方)が強く感じられるが、私は、そういうことばがはじまる前の部分もとても好きだ。

フィレンツェの石の宿からは
アルノ河のゆたかな水の輝きが見える。
部屋の反対側の小さな窓からは、
くすんだ建物のあいだを抜けてゆく
すり減った石畳の細い路地が見える。

 一方の側だけを見るのではなく、反対側も見つめる。そして見えたものをていねいにことばにしてゆく。見える「風景(光景)」をしっかり見極めて、その先にある「見えないもの(本質)」を探そうとする姿勢が、そこに感じられる。
 こういう長田の姿勢を、「知っていることばを捨てるために書く」と私は感じている。知っていることばを捨ててしまったあとに、知らないことば(新しいことば)がやってきて光景を発見する。光景に最適のことばがみつかる。そういう発見するためには、それまでの知っていることばを捨てて、視線そのものを新しくしないといけない。視線だけでなく肉体(聴覚や触覚など)を新しくないといけない。生まれ変わることで、初めて発見できるものがあるのだ。

路地には有機パンの小さな店があって、
パンを抱えた老女が路地の奥へ消えてゆく。
過ぎてゆく時の足音が聴こえるようだ。

 この「聴こえる(聴く)」という動詞が後半で「音楽(少年たちの歌)」を聴くことになる。
 詩のハイライトも美しいが、詩の助走も美しい。助走が美しいからこそ、あざやかな飛躍ができるのだと思う。


最後の詩集
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みすず書房
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シャルル・ビナメ監督「エレファント・ソング」(★★)

2015-07-09 10:59:28 | 映画
シャルル・ビナメ監督「エレファント・ソング」(★★)

監督 シャルル・ビナメ 出演 グザビエ・ドラン、ブルース・グリーンウッド、キャサリン・キーナー

 ひとりの医師の所在が確認できない。いなくなった医師について知っているのはひとりの患者である。その患者から「事実」を聞き出そうとする。話している過程で、患者は「殺した」と言う。「自分には、母親を殺した前科がある」とも。医師は患者の話を疑いながらも徐々に引き込まれていく。ということが、精神病院を舞台にして繰り広げられる。心理劇ということになるのだろう。
 でも、心理劇を精神病院を舞台にして展開する、というのは安直な感じがいなめない。精神的に問題を抱えているひとが異常な行動(発言)をしても、それは病気だからということで、強引に押し切られてしまうことになる。この映画は、そこまではしていないけれど。
 当然といえば当然なのだが、見どころはグザビエ・ドランの演技。院長(ブルース・グリーンウッド)がグザビエ・ドランから知っていることを聞き出そうとするが、ときどき動揺してしまう。その瞬間をとらえて、患者と院長の立場が逆転する。グザビエ・ドランが院長の動揺に踏み込むように、冷静に「質問」を投げかける。ぐさりとこたえる、いやな「質問/反論」だ。それは院長がこころのなかで言い直している「声」のようである。グザビエ・ドランは、瞬間的に、向き合っている相手の「こころの声」を聞き取ってしまうのである。この立場がいれかわる瞬間を、常にグザビエ・ドランがリードしてゆく。そのときの「間合い」と「顔の表情」「声の変化」が絶妙である。エドワート・ノートンを最初に見たときのような生々しい「嘘」、「嘘」にかける「肉体」というものを感じる。映画の特権を利用して、その瞬間をアップで見せるのは常套というものだが、その常套が効いている。
 でも、それ以外は、この心理劇の駆け引きはおもしろくない。
 だいたい他人のこころの動きがわかるという「能力」は、特異なものではない。ストーリーにそっていうと、グザビエ・ドランの母は有名なオペラ歌手である。母親は子どもに愛情をもっていない。キャリアの邪魔になると感じている。一緒にいたいのに、母は息子を遠ざける。息子は「愛していない」という「声」を聞き取ってしまう。こういうことは、愛されていない子どもならだれでも聞き取る「声」である。愛されているか、いないか、ということは人間は本能的にわかってしまう。子どもでもわかってしまうというよりも、子どもだからこそ敏感にわかってしまう、ということかもしれない。
 グザビエ・ドランは、その「本能的な力」をそのままもちつづけている。愛されていないと本能的にわかる子どもは、何をすれば嫌われるかも本能的にわかっている。嫌われるとわかっていても、そうするのは「嫌う」という直接的な行為を母から受け止めたいからである。彼がいちばん嫌いなのは「無反応」である。愛されないなら、無反応でいいというのではなく、愛されないなら、せめて嫌われたい。嫌われるという形でもいいから、直接母親と接したい。肉体まるごと、甘えたい。
 グザビエ・ドランは、いはば母親に対する態度をそのまま他人にぶつけているのである。院長にだけではなく、所在のわからない医師に対しても、そうやって接してきた。しかし、担当医師は、それにこたえなかった。院長もまた母親ではないから、それを「本能」的に受け止められない。どうしても「論理」で受け止めて、分析し、推論し、理解しようとするから、混乱し、翻弄されてしまう。院長が最後にミスを犯してしまうのは、もうわかりきっている。(映画が「審問」からはじまるのは院長がミスを犯しますよ、というあからさまな伏線なので、かなりしらける。)
 だから、この映画のほんとうの見どころは、グザビエ・ドランではないのかもしれない。
 グザビエ・ドランから話を聞き出そうとする院長は離婚している。元の妻(キャサリン・キーナー)は同じ病院で働いている看護師長である。院長と元妻には娘がいたのだが、元妻と湖へ行ったとき、事故で死んでしまった。それが原因で二人は離婚した。その看護師長は子どもを亡くしたが、ずっーと「母親」である。母親であるから、グザビエ・ドランの「甘えたい」がわかる。「甘えたい」を受け止めることができる。母を亡くしたグザビエ・ドランと娘を亡くしたキャサリン・キーナーがこころを通い合わせるがゆえに、さらにグザビエ・ドランとブルース・グリーンウッドの対話がうまくいかない、という「複雑な展開」--それが見どころかもしれない。
 でもねえ……。
 うーん、それがほんとうの狙いなら、これは「芝居」のままの方がよかったなあ。映画だと、どうしてもグザビエ・ドラの「異常な演技(正格異常?)」に視線が奪われてしまう。「ことば」のなかの「悲鳴」が聞こえにくくなる。
                      (2015年07月08日、KBCシネマ1)




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長田弘『最後の詩集』(10)

2015-07-09 09:04:41 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(10)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「アレッツォへ」で「光の恩寵」と呼ばれていたものは、「アッシジにて」では次のように言われてる。

街と畑と野と丘と空を、わたしは
見ているのに、わたしが見ているのは、
(見るとはしんと感じることだった)
わたしがいま、ここに在る、
この場所をつつむ風光なのだった。

 これは、わたしをつつむ「風光」の「恩寵」、あるいは、わたしをつつむ「風光」という「恩寵」によって、わたしは「ここ(この場所)に在る」ということ。そして「この場所」とは「アッシジにて」のことばを借りて言えば「無骨に生きる人たちの世界の像」としての「風景」のただなかのことである。そう長田は気づいた。気づかされた。(これに先立つ行に、「気づいた」ということばがアッシジの街と畑と野と丘と空を「見つめる(見る)」という動詞といっしょに書かれている。)
 「見る」「気づく」は「発見する」「知る」ということばにつながるが、ここではさらに、

(見るとはしんと感じることだった)

 と書かれている。「発見する/知る」は精神の活動。「感じる」は「精神」というよりも「こころ」の動き。
 「恩寵」も「知る」のではなく「感じる」ものだろう。
 わたしをつつむ「風光」によって、わたしはここに在ると感じるとき、長田はそのことを「恩寵」として感じている。
 この「感じる」に「しんと」ということばがついている。「しん」は「沈黙して/静かに」ということ。ことばを発せずに、ただ受けいれるということ。ことばを捨てて、ことばを「無」にして、受けいれること。
 この光景を、長田は、また別のことばで言い直している。

聖堂も、教会も、大いなる修道院も、
中世来の建物も、街の普通の家々も、
幼な子の肌色をした風光のなかに溶け入って、
(風の音、そして消えてゆく鐘の音)
ウンブリアの陽光が、明るい沈黙のように
夏の丘を下って、ひろがっていた。

 「恩寵」としての「光景」を受けいれたとき、長田は風光のなかに「溶け入って」しまう。「溶け入った」のは建物だけではない。長田も溶け入って、風光そのものになる。そして、「ひろがって」いく。「しんと」ということばは「沈黙」と言い直されている。風の音も鐘の音も消えて(沈黙して)、光がひろがる。このひろがるは、「充実」を言い直したものでもある。光がひろがり、光が満ちる。
 その至福のなかにいる長田に問いかけるものがある。

どこからきたの? 雑草と石ころが言った。
どこへゆくの? 小さなトカゲが言った。

 書いていないが、長田はきっとこう答えたのだ。「どこへもゆかない。ここにいる。どこへでもゆく。ここにいる。」と。「ここ」が、すべて。「ここ」が「永遠」。
 長田が光景をことばにする。そのとき、あらゆる場所が「ここ」になる。「ここ」こそが「恩寵」がおこなわれる場所なのだ。

最後の詩集
長田 弘
みすず書房
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北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』

2015-07-08 22:49:21 | 詩集
北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』(思潮社、2015年06月30日発行)
        
 北川透『なぜ詩を書きつづけるのか、と問われて』を読みながら、「なぜ詩をよみつづけるのか、と問われたとき」どう答えようかと考えた。
 私の場合は単純である。私がどんなことばを読んできたかを知るためである。詩に限らないが、何かを読むということは、それまで私がどんなことばを読んできたかを知ることである。そこに書かれていることがまったく新しいことであっても、私は新しいものと向き合っているのではなく、そこに書かれている古いことば、知っていることばと向き合っている。知っていることばが、書き手によってどう変わっていくのか、それを読んでいる。そして、そのとき私自身のことばがどんなふうに変わっていけるのかを読んでいる。
 こんな抽象的なことは、書いても書いたことにはならない。具体的に作品を読んでみる。「道具愛」のなかの「嘘つき機械」。

真実を告白します、というツールを通し、わが嘘つき機械の始まり。
告白します。わたしは浴場で少女を犯しました。ドストエフスキイ。
夜明け、イエスは湖上を歩いて、弟子たちの所へ行かれた。マタイ。

 ここには私の知らないことばはない。つまり、ここに書かれていることばは北川が書いているにもかかわらず、「単語」そのものとしては北川のものではない。新しいことばではなく、既存のことばである。私は、ここに書かれていることばを、すべて読んできている。あるいは、おぼえていると言った方がいいのか。おぼえているということは、それを「つかえる」ということである。
 しかし。
 ここからが詩の不思議(文学の不思議)なのだが、知っていて、つかえるはずなのに、私は北川の書いているように、そこに書いていることばをつかったことがない。そういうことに気がつく。言い換えると、あ、ことばはこんなふうに「つかえる」のだと、「つかい方」を知る。こんなふうに「つかう」とことばは変わっていく。変わっていけると教えられる。こんなふうに「つかう」と楽しいぞ、とわくわくする。
 「真実を告白します」とひとは言うが、それは「真実」ではない。誰もがそう思っている。「真実を告白します」と言うとき、ひとは「嘘」をついている。全部を語っているわけではない。何かを選択しながら語っている。「真実を告白します」は「嘘つき」の始まりなのである。で、それが「ひとり」がやることなら「嘘つき」の始まりですむのだが、何人もがやってしまうと、それは「ひと」がやったことではなく、「真実を告白します」という言い方(ツール)そのものが「機械」になって「嘘」を生み出すのである。「機械」はここでは嘘の「自動(無意識)生産機械」ということである。言い換えると、「機械的に」という比喩で語られるときの「機械」である。(「機械」ということばを、こんなふうに「つかう」ということを、北川のことばを読みながら、私は思い出すのである。)
 そして、北川は「機械」そのものになって、つまり「機械的に」、「真実を告白します」の例をならべて見せる。

告白します。わたしは浴場で少女を犯しました。ドストエフスキイ。
夜明け、イエスは湖上を歩いて、弟子たちの所へ行かれた。マタイ。

 ドストエフスキイが少女を犯した、というのは「真実」かもしれない。しかし「嘘」かもしれない。たとえば、犯した場所は「浴場」ではないかもしれない。なぜ、「浴場で」と言ったのか。その方が「犯す」という暴力を印象づけることができると考えたからかもしれない。「ベッドで」では「犯した」という印象が弱くなる。「物置小屋で」もつまらない。「浴場で」ということは、少女はあらかじめ裸だったかもしれない。そうすると、ほんとうに「犯した」のか。セックスをしたということを「犯した」と言っているだけなのではないのか、というような疑問が紛れ込む。でも、同意の上でセックスしたのだとしても「犯した」と言った方が劇的で、刺激的だ。ドストエフスキイには「浴場で少女を犯しました」が「似合う」。
 私たち(私だけ?)は「真実」など求めていない。何かを語るのにふさわしいことば、「似合う」ことばを求めている。「似合う」ことを「真実」と思いたがっている。「真実」に「似合う」ことばのつかい方を求めている。「似合う」と思うとき、きっと、そこには読者(私)の欲望(本能)が含まれている。あ、私も少女を浴場で犯してみたい。そういう体験をすればドストエフスキイのなれるのだ、と欲望のなかで錯覚する。これが、何か、わくわくする。ことばを読みながら、そこに「書かれていることば=真実」以外のものを、そこに読み取り、余分なことを思う。ことばはきっと「真実」のためにあるのではなく、「余分なこと(妄想)/まだことばにならない本能」を具体的に感じるためにあるのだろう。
 イエスが湖上を歩いたというのは「真実」かどうか。湖上を歩いた、というのは「嘘」である。人間にそんなことはできない。だから「神」なのだという「論理」も成り立つが、そういうものは「論理のための論理」、完全な「嘘」にすぎない。では、イエスが湖上を歩いたということばに「真実」はないのか、とういと、そうでもない。ひとはイエスは湖上を歩いた、歩くことができた、と思いたいのである。ことばには、ひとが思いたい「真実」がある。ひとがそう思いたいと願った「真実」がある。「真実」はことばを読んだひとの方にある。イエスの方にあるのではない。イエスは湖上を歩くことができる。その方がイエスに「似合う」。「似合う」とひとは感じることができる。
 だから、ドストエフスキイが少女を浴場で犯した、というのも「ドストエフスキイの真実」というよりも、「読者の方の真実」である。読者は、ドストエフスキイが少女を浴場で犯したと思いたい。そういう一種の異様な行動があったからこそ、ああいう傑作が書けたのだと思いたいのだ。少女を浴場で犯す、というのはドストエフスキイに「似合う」。こう考えるとき「わが嘘つき機械」の「わが」は「私たち人間の」という意味になるだろう。

父はやせていたからスープにするしかないと思った。谷川俊太郎。

一緒に寝た女の数は/記憶にあるものだけで百六十人。鮎川信夫。

 それが「真実」かどうか、どうでもいい。そういうことばが谷川俊太郎に「似合う」。鮎川信夫に「似合う」。谷川や鮎川には、そういうことばを言ってもらいたい。そして、谷川や鮎川のまねをして、そういうようなことばを自分も言ってみたい。肉親の死を谷川のよう語れば、悲しみのなかに笑いをふくませることができる。笑いによって、悲しみがいったん遠ざけられ、もういちど押し寄せてくる。その、もう一度押し寄せてくるとき「着実さ」のようなもののなかに、悲しみの本質があるとわかる。ああ、そんなふうに言えたらいいなあ、と思う。谷川の「真実」ではなく、私自身の「欲望」を知るのである。

 北川が私のように感じたかどうかは、わからない。しかし、私は北川のことばを読みながらそう感じたのだから、きっとその「感じ」は北川と重なるだろうなあ、と思う。重ならなくても、私は、これが北川の「感じていること」なのだと思い込む。イエスが湖上を歩いた、ということを「真実」と思い込むひとのように。

 あ、この感想を書きはじめたとき、書こうとしたことを私はまだ書いているのかな? それとも書こうと思っていたことからずれてしまって、違うことを書きはじめているのかな? 違うことを書きはじめているけれど、どこかでつながっている、のかもしれない。書こうとしていることは、いつでも書きはじめると違ってしまうものだ。
 でも、そんなに違っていないかもしれない。
 最初に私は、「知っていることばが、書き手によってどう変わっていくのか、それを読んでいる。そして、そのとき私自身のことばがどんなふうに変わっていけるのかを読んでいる。」と書いた。
 そのことばに戻っていままで書いてきたことをととのえなおすと、「真実を告白します」と言うときひとは「嘘」をついていると、私はうすうす感じていたが、それが北川のことばを読むことで「確信」のようなものに変わった。「真実の告白はみんな嘘」。これが、私の変化だ。
 そして、嘘なのにそれを「真実」と思うのは、そのひとにはそうあってほしいと私たちが思うからだ。きっとその「嘘」がそのひとに「似合う」からだと考えた。この「似合う」ということばは北川はつかっていない。これは北川の詩を読むことで私が完全に変わってしまったことの「証拠」のようなものになると思う。
 と、何か「結論」めいたものを書いたら……。
 「おや、月見草」という詩がある。これは北川の知人の「K・T」が太宰治『富嶽百景』(富士には月見草がよく似合う)について書いたものを「全面的に引用した」作品。
 有名な場面について、

こんな場面が、事実の描写なんかであるものか。
つくりものだからこそ、わたしは
この月見草のイメージを、心の不覚に焼きつけて、
これまで生きてこられたのでありました。

 という行がある。
 これまで書いたことを「真実を告白します」と言って語られたことば、それは真実なんかであるものか。嘘だからこそ、その嘘を心の深くに焼きつけて、自分の欲望を確かめた、と書き直すと、私はずーっと北川のことばのなかを歩き回って、北川が書いていることを自分が書いたと思い込んでいたことになる。あるいは「K・T」のことばのなかを。「似合う」というのも、この詩を読んだから出てきたんだな。自分で考え出したことばではないぞ、と気づく。

 なぜ読むか。きっと、こういうことに気づくために読むのだ、と思う。

なぜ詩を書き続けるのか、と問われて
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長田弘『最後の詩集』(9)

2015-07-08 08:45:40 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(9)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「アレッツォへ」のなかに「恩寵」ということばが出てくる。

登りとはほとんど感じられないのに、
登りきったところで周囲の風景がひろがり、
丘の上にいることにはじめて
気づくようなのがいい。
眺めというのは光の恩寵なのだから。

 これまで読んできた詩のなかでは、「眺め」は「発見するもの」のように書かれていたと思う。

窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、詩だ。                 (「詩って何だと思う?」)

 「知る」は「目を覚ます」でもあった。その「知る」という「主体的」な動詞のために、私は「知る」を「発見する」と読んだ。
 「知る」は「アレッツォへ」のことばで言い直すならば「気づく」になる。「気づく」も自分の動きのように読める。私は、読んでしまう。「自分で気がつく」と。
 しかし、長田は「気づく」と書くけれど、そこに「自発性」以外のものを感じている。「気づく」は「気づかされる」である。これが「恩寵」。「眺めは光が与えてくれたもの(恩寵)」であると「気づく/気づかされる」。
 世界には「気づかされた」のに、「気づいた」と勘違いすることがたくさんある。
 長田がここで書いていることばをつかっていえば、気づかされたとは「ほとんど感じない」のに、それは「気づいた」のではなく「気づかされた」ことだった、ということになる。知らず知らずに「はじめて」のように「気づく」。
 「気づいて」、しかしそのあとで「これは気づいたのではない、気づかされたのだ」と知ったとき、それは「恩寵」に変わる。
 長田は丘の上から光景(「景色」ということばをつかっているが、長田の描く世界は「光景」ということばの方がふさわしいと思う)を眺め、そう感じている。そう記すことばを読みながら、そこに書かれていることばは長田から私たちへの「恩寵」なのだと思う。
 岡田が書いているようなゆるやかな、おだやかな起伏をのぼり、静かに広がる光景を見たことが、岡田のことばを読むことで甦ってくる。長田のことばを読まなければ思い出すことができなかったもの、気づくことができなかった世界が、見える。それは私が「気づいた」のではなく、長田のことばに「気づかされた」のである。だから「恩寵」という。
 「恩寵」には「気づかされてくれた」だれかに対しての感謝がこめられている。
 この詩には、「恩寵」としての「風景論」が書かれている。人間と風景との関係が書かれている。「風景」への「感謝」が書かれている。

人は妄念を生きるのではない。
風景を生きる。風景は装飾ではなく、
無骨に生きる人たちの世界の像なのだ。
風景は開かれた眺めをもたなければならない。
なぜなら、人には、ある種の孤独、
休息のかたちをとった
空間が必要だから。

 この部分だけを取り出すと、「風景」の「必要性」を書いているようにも読めるけれど、「風景」に出会い、そこで「孤独」を癒してきた(癒されてきた)という思いが、このことばを動かしている。「開かれた眺め」に出会い、そこで「孤独」を開放することができた。そういう長田の体験が、このことばを動かしている。
 「風景」を「無骨に生きる人たちの世界の像」と言い直すとき、長田の眼は「無骨に生きる人たち」にそそがれている。「無骨に生きる」は、「朝の習慣の」ことばを借りて言いなおせば、「希望」や「未来」を念頭において生きるということとは違った生き方だろう。「目的」の「達成」のために生きるのではなく、「一刻を失うことなく、一日を/生きられたらそれでいい。」という生き方だろう。「一瞬」を大切にし、その「一瞬」を充実させて生きる人が知らず知らずにつくりあげたものが「風景」なのだ。ひとと風景が一体になっているのを私たちは「眺める」。そのとき「風景」は、「無骨に生きる人たち」からの「恩寵」であるとも言える。
 そう書いたあとで、長田は、さらにつけくわえる。

生きられた人生の後に、
人が遺せるのはきれいな無だけ。
時の総てが過ぎ去っても、
なおのこる、軽やかでいて
濃い空の青だけだ。

 「無」は「無骨」ということばのなかの「無」でもある。それは「希望」や「未来(目的)」をもたない。人間を縛る「希望/未来」とは無縁なものをこそ、長田は遺したいと願っている。
 「無」はまた汚れをもたない「透明/光」のことでもある。「一点の曇りもない青い空」ということばが「アレッツォ」のなかにあるが、それが「無」であり、「透明/光」である。その「無/透明/光」を「青」ととらえるのは長田の特徴だが、その「青」を修飾する「濃い」ということばが強烈だ。
 「濃い」には「充実」がある。「充実」したことばを遺したい、という長田の祈りの切実さを感じ、体がふるえる。


最後の詩集
クリエーター情報なし
みすず書房
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「アリスのままで」(★★★)

2015-07-07 11:01:35 | 映画
監督リチャード・グラツァー、ウォッシュ・ウエストモアランド 出演 ジュリアン・ムーア、アレック・ボールドウィン、クリステン・スチュワート

 若年性アルツハイマー症になった女性を描いている。ジュリアン・ムーアが不思議な演技をしている。「迫真の演技」であるかどうか、私はアルツハイマー症のひとと直接接したことがないので判断できないが、見ていて引き込まれてしまう。特に記憶を何とかとどめようと訓練するところ、自分を維持しようとするところに。
 クリスマスの料理を準備しながら、ことばを思い出せるかどうか、自分で訓練している。黒板に単語を三つ書き、タイマーを設置して、時間になったら覚えているかどうかを確かめる。そのときの単語が、林檎とか、蜜柑とか、犬、猫、というのではなく、なにやらややこしい専門用語のようなものもある。彼女のキャリアにかかわる言語学上の言語だったかもしれない。そのこだわり方に、「真剣さ」があふれている。自分自身を「言語学者」と定義して、その定義のなかに自分を収めようとしている。
 その一方で、彼女は自分がつくろうとしていたものを忘れてしまう。カボチャのプディングをつくろうとしていて、卵が何個必要か思い出せなくなる。ネットでレシピを探すのだが、その過程でプディングを忘れてしまい、違うものをつくる。
 しかし、この異変に気がつくのは、プディングを楽しみにしていた末っ子の娘だけで、他の家族は気がつかない。また、ジュリアン・ムーアは末っ子が「異変」を感じているということを、感じ取ることができない。ここに、何とも言えないおそろしさのようなものが潜んでいる。
 ひとはひと(自己を、あるいは他人を)をどう「定義」するか。アリスは自分を「言語学者」と「定義」している。「母親」とも「定義」している。母親は料理をつくる。末っ子は母親は自分のために大好きなプディングをつくってくれる人である。しかし他の家族にとっては「料理をつくるひと」であって、「プディングをつくるひと」ではない。だからカボチャのスープ(?)がテーブルに運ばれてきても「異変」とは感じない。「母親/料理をつくるひと」と「定義」しているかぎり、ジュリアン・ムーア自身も「異変」に気がつかない。
 ひとは他人の「異変」には、なかなか気づかない。自分の「異変」にも気づかないときがある。自分に直接かかわりがないかぎり、自分の「本質」であると「定義」しているものにかかわらないかぎり、「異変」とは思わない。だから、「異変」が起きたとき、それにどう対処すればいいのかということも、わからない。真剣に考えない。
 夫のアレック・ボールドウィンが象徴的である。いくつもの「異変」を直接見ている。ジュリアン・ムーアがアルツハイマー症であることもわかっている。それなのに自分の昇進のために病院のある土地へ引っ越そうと提案する。アルツハイマー症にとって、それがどんなに危険なことであるか、配慮できない。彼にとっての彼自身の「定義」は優秀な「医学者」であって、「夫」ではない。
 この映画では、たまたまジュリアン・ムーアは「自覚的」に行動しているが、誰もが彼女のように「自覚」できるわけではない。物忘れがひどくなったかな、と思っても病気とは思わない。周りの人も、小さな「異変」は見落としてしまう。そのあいだに症状が進行し、対応が難しくなる。そういう危険性がある。
 この映画は、アルツハイマー症の苦悩を描くと同時に、その家族への静かな警告になっている。アルツハイマー症のひとにどう向き合うべきかを、静かに語っている。その警告を、どう受け止めることができるか。それを問われているように感じた。
 「自己の定義」をめぐっては、自分を「女優」であると「定義」している末っ子だけが、最後は親身になるというのも、なかなかおもしろい。プディングをつくってくれるからお母さんが大好き、というような、直接的な愛情でかかわっていたのは彼女だけというのは、ある意味、リアルすぎて怖くもあるが……。

 少し映画が描いていることから脱線したかもしれない。
 この映画のハイライトは、ジュリアン・ムーアがアルツハイマー症の集いで、自分自身の感じていることをスピーチする部分である。自分は苦しい、と訴えことで自分の「尊厳」を守っている。苦悩を隠すのではなく、苦悩をそのままことばにする。その姿をジュリアン・ムーアはただ「ことば(せりふ)」で伝えるのではなく、肉体そのもので再現している。原稿を繰り返して読まないように、黄色いマーカーで文字をたどりながら読む。どこを読んだかはっきり区別するためである。そういう工夫をしながら生きていることを、そのまま見せる。「これが私である」と全部見せる。
 彼女がアルツハイマーであると知らなければ、きっとアルツハイマーであることを忘れてしまう。そこにアルツハイマーの苦悩が語られていても、健常な人間のスピーチと思ってしまう。この不思議さのなかに、この映画のすべてがある。
 この不思議を体現したジュリアン・ムーアの演技はすばらしい。アルツハイマーが進行していく部分よりも、このスピーチの演技がすばらしい。
                        (2015年07月05日、中洲大洋2)





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長田弘『最後の詩集』(8)

2015-07-07 08:32:45 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(8)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「アッティカの少女の墓」。『或るアッティカの少女の墓』という本を読み、「もう一人の自分がそこにいる」と感じて書いた作品である。

死が遺すものは、何であるのか。

 という一行がある。
 あとがきによれば「春風新聞二〇一四年春夏号」が初出。長田が亡くなったいま思うと、死を意識しながら書いていた作品なのかもしれない。「少女の/日頃愛した普段の品と思われる/簡素な副葬品は、一つとして/その死を、暗鬱なものと伝えないという。」とも書かれている。その少女のような死、その少女の「副葬品」のような作品、暗鬱なものを伝えないことばを書き残したいと長田は願っていたのだろう。
 この詩のなかで、長田は、「悼む」という行為を定義している。

死者の身近に在って、死者がいつまでも
人間らしい存在であれとねがうことだった。

 「死者が/人間らしい存在」であるということは、「生きつづける」ということだろう。「生きている」ときと同じように向き合う。それが「悼む」。
 それをさらに言い直して、

死のなかでなお生きつづける親身な精霊。
死者は、時を忘れて生きる存在にほかならない。

 とつづける。生き続けるのは「精霊」。「肉体」は死んでも「精霊」が「生きる」。その「精霊」は「時を忘れて生きる」。この「忘れて」は「超えて」である。
 最初に引用した行にもどって言い直すと、死が遺すものは「精霊」である。「精霊」は生き続ける。「精霊」は「時を超える」ということになる。
 そうした「精霊」を長田は遺したいと願った。
 私は「精霊」を「ことば(詩)」と置き換えて読みたい。「ことば」を読むと、ことばのなかに生き続けている長田を感じる。詩のことばは「時を忘れて(超えて)生きる存在にほかならない」と思う。
 たとえば、書き出しの

葉桜の季節がくると、
ハナミズキの枝々の先に
幼い葉たちが群れて、揺れながら、
柔らかな日の光をつかんで、
いっせいに、萼(がく)を開きはじめる。

 の透明な描写。特に、「つかむ」「開く」という反対の動き(手を想定すると、つかむ手は閉じる、手を開くと放すということになる)が交錯する緊張感に満ちた部分に、「一瞬」を「永遠」にかえる力を感じる。「充実」した力を感じる。
 さらに最後の方の、

四十雀のはげしい啼き声に、目を上げると、
目の前に直立するアケボノスギの、
ながく孤独な裸木にすぎなかったのに、
いま、枝先の新芽の閃くようなうつくしさ。

 ここにも「ながく(過去の長い時間)」と「いま(瞬間)」の対比があり、その「差(違い?)」を超えて、ことばが動いているのを感じる。「時間」が凝縮し、「永遠」に結晶する。そして輝いているのを感じる。
 こうしたことばの力は「永遠」に生き続ける。そして、そのことばを読むとき、長田は生きている詩人として私の目の前にいる。
 長田は、力に満ちたことば(詩)を私たちに遺してくれたと感じる。「悼む」ために、私は長田の詩を読む。そして、感想を書く。生きている長田とことばを交わしたくて。

最後の詩集
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みすず書房

*

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長田弘『最後の詩集』(7)

2015-07-06 11:18:25 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(7)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「朝の習慣」の前半。

目を上げると、もうちがう。
空に、ついさっきの雲がない。
おおきな雲が一つ、ゆるやかに
東に移動してゆくようだったのが、
いつのまにか、空の畑に、
雲の畝がいくつもつづいていた。
微かな風の音が、空を渡ってゆく。
ついさっきからいままで、
どれくらいの時が過ぎたのか。
たぶん、ほんの一瞬にすぎないのに、
その一瞬が、永遠などよりも
ずっと長い時間のように感じられる。

 「一瞬」と「永遠」の対比。「一瞬」がもし「永遠」よりも長いとしたら、どうしてだろう。きっと「一瞬」が充実しているからだ。「一瞬」が充実するとは、どういうことだろうか。長田なら、「一瞬」をことばであらわすことができたとき、それは充実するというだろう。
 この詩では、そのことを実践している。「一瞬」のあいだに何があったか。雲が動いていった。それをていねいに描写している。描写のなかには、たとえば「雲の畝」というような「比喩」が含まれる。「比喩」というのは、これまで読んできた詩のつづきでいうと「発見した」ことである。新しいものが、そこにつけくわえられている。世界の新しい見方、雲が並んでいる様子を「畝」ととらえる見方が新しい。「永遠」ということばは何か「普遍」を感じさせる。「普遍」は「不変」であるのだが、それは「新しい」ことが「不変=普遍」になるということ。
 「あ、あれは雲の畝か」と長田の詩を読んだ後、空を見上げて私は思うようになる。「雲の畝」は読者に共有されて「永遠」になる。
 この「一瞬」と「永遠」は、詩の最後の方で、次のように言い直される。

一刻を失うことなく、一日を
生きられたら、それでいい。

 「一瞬」を充実させる、ことばにする。そうやって一日を生きるならば、「一瞬」も「一日」も「永遠」になる。
 この「永遠」をまた次のようにも言い直している。

立ちどまり、空を見上げ、立ちつくす。
あの欅の林の梢の先にきらきら光る、
日の光が、今日に遺されている
神々の時代の、うつくしい真実だ。

 「うつくしい真実」が「永遠」である。そのことばの直前の「神々の時代の」というのは、実は、詩のなかほどにあるのだが、それはあとから触れる。
 この詩行では、「真実」と「永遠」に触れながら、「立ちどまり」「立ちつくす」と書いている部分が印象に残る。「立つ」という「動詞」を「一瞬」と置き換えてみる。「一瞬」を「一瞬」のまま、そこに「とめる」。そしてその「一瞬」を「つくす」。完全に使い果たす。燃焼させる。そうすると、その「一瞬」が「一瞬」を超えて「永遠」になる。そういう「一瞬」にするために、長田は「立ちどまる」。そして見たものを「ことば」する。「ことば」のなかに「世界」を「満たす」、「世界」を「ことばでつくす」。そういうことを実践している。
 「神々の時代」と「時間」については、詩のなかほどに書かれている。

かつて世界が神々のものだった時代、
希望は、悪しき精霊のもので、
人に、不必要な苦痛を募らせる、
危険な激情のことだった。
未来も、そうだ。意志によって
達成されるべき目的が未来だなんて、
神々の時代が去ってからの
戯言にすぎない。未来を騙るな。

 この行は「冬の金木犀」を思い起こさせる。「冬の金木犀」には「未来は達成ではない。」という一行があった。「目的を達成することが未来の仕事ではない」、「いま/一瞬」を「未来の目的」のためにつかうな、ということだろう。
 「いま」という「一瞬」を充実させるためにこそ、人は生きなければならない。「充実」ということばは「冬の金木犀」のなかでは「ひたすら緑の充実をいきる、」という一行の中にあった。
 詩を、こんなふうに重ね合わせて読むと、「冬の金木犀」の最後の一行、

行為じゃない。生の自由は存在なんだと。

 の「自由」にこめた長田の祈りがわかる。「いま/一瞬」を充実させる。「目的(未来)」から「自由」に生きる。ひたすら「一瞬」をことばにする。そのとき人間は「自由」な「存在」になる。
 「永遠」は「自由」でもある。

最後の詩集
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瀬尾育生「電車的」

2015-07-06 08:38:03 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬尾育生「電車的」(「現代詩手帖」2015年07月号)

 瀬尾育生「電車的」は「この十数年」の詩と批評について書いている。詩の言語が圧倒的に先行しており、批評が追いついていない、という。「この作品は何が書いてある?」「この作品が高い評価を受ける(あるいは高く評価されない)のはなぜ?」というようなことを思っている私は、詩のことばにも批評のことばにも追いついていけない人間ということになるだろう。
 開き直ることになるのかもしれないが、わからない点、疑問に思ったことがあるので書いておく。わからずに書いているのだから、どうしても断片的になり、瀬尾の論理とかけ離れることになるかもしれないが……。

個体の固有な死を救いだすことは詩の重要な務めのひとつであり、詩論もまたこれを個体の固有な死として受け止めなければその任務をはたすことができない。だが私たちはどこかで大量死にしか感応しなくなっており、(略)書き手は大量死を語ることでつかのまの自分の死を忘れることができる。(92ページ)

 瀬尾は「私たちはどこかで大量死にしか感応しなくなっており」と書いているが、私は、大量死に感応できない。身近な人が死んだときはさまざまなことを思うが、死者が多くなると死に驚くというよりも、「数字」に驚いているにすぎない。「えっ、死者が一万人を超した。すごいなあ」。一万人と百人を「数字」で比較し、「数字」に感応(反応)している。数字の比較には、単位(?)としての死(死者)が含まれない。個人(死者)ではなく「数字」の問題になってしまうから、自分の死どころか、死そのものを忘れてしまう。
 「自分の死を忘れる」という指摘はそのとおりと思うが、「大量死」に感応しているから、という理由(?)がどうにも納得できない。
 瀬尾が「大量死」という場合、何人を想像しているのか、ということも疑問に思った。瀬尾は具体的な「数字」を念頭におかずに、「大量死」と言っているのではないのか。数字はまだ具体性を含むが、「大量」では具体的なものは何もない。具体的ではないもののなかには「個体の固有な死」は存在しえない。瀬尾は「大量死」ということばをつかい、批評のあり方を批判しているが、そのとき瀬尾が「個人の固有な死」をほんとうに考えているとは感じられない。具体的な死を考え、それについての思いから出発して、「この十数年」の批評のあり方の問題点を指摘しているとは、私には感じられない。
 瀬尾の論は、このあと「個人の固有な死」、あるいは「大量死」の問題をどう引き継いでいるのか、私にはわからなかった。

 瀬尾は途中から「電車的」という「比喩」をつかい、詩を論じているのだが、その「電車」の説明の部分にも非常に疑問を感じた。
 瀬尾は「電車」と「蒸気機関車」を対比させている。「蒸気機関車」は「自走車輛」であるのに対して、「電車」はそうではない、という。

電車が走るためには都市的な、あるいは国家的なインフラが不可欠であり、電車は終始システムの中を走るのである。蒸気機関車はそれが正体不明ではあっても運転者という主体性をもっており、線路さえ物理的に引かれておればシベリアの開拓地を驀進することができるし、(略)だが電車には主体性がなく、運転席には本質的に誰もいない。
                                 (95ページ)

電車というものが、線路上を走るという条件だけではなく発電所や変電所からなる配線システムの支配下にあり、水力や火力や原子力からなるエネルギー源に政治的に拘束されざるを得ないことによって離脱不可能性、回帰不可能性を明示する乗り物である
                                 (96ページ)

 私は、この「電車」と「蒸気機関車」の対比に驚いてしまう。
 私の見るところでは、「電車」は確かに「エネルギー」を電線から供給している。だから「電線」が設置されていないところを走ることはできない。そういう意味では「国家的なインフラが不可欠」である。けれども、これは蒸気機関車でも同じだ。蒸気機関車は石炭をエネルギー源として積んでいた。しかしその積載能力は無限ではないから、どこかで補給しなくてはない。その補給基地(駅/インフラ)は国家的に決まっている。蒸気機関車もまた国家的インフラを不可欠としており、そのシステムの中を走っている。
 電線は眼に見えるために、そのシステムの「連続性」が視覚的に確認しやすい。蒸気機関車は電線がないために「連続性」が確認しにくいというだけのことである。電車がエネルギーの供給源を支配(?)されているというなら、蒸気機関車もまた石炭の供給を支配されている。どの駅にも石炭が無尽蔵に貯蔵され、それを蒸気機関車がかってに使用できるわけではない。どの線に何本走るかを含めて、蒸気機関車もまた国家的戦略で運行されてきた。国家的システムの中を走ってきた。
 「自走車輛(エネルギーを外部から供給しなくても走ることができる車輛)」ということに限ってみても、たとえば「原子力電車(原子力発電装置を備えた電車)」を考えてみるといい。蒸気機関車に比べるとエネルギーの供給基地(駅)を多数必要としない。電線のないところでも走ることができる。しかし、そのエネルギーの監視は国家的機構のもとに置かれるだろう。「電線」だけが「システム」ではないのだ。
 大量輸送機関というものは、国家戦略や経済活動と分離できない。最初から「システム」の中を走る。高速化も市民が望んだというよりも、国家や経済界が要求したものである。ある会社(工場)のまわりに、その会社(工場)が必要とするスタッフ(原料、従業員)を備蓄したり、住まわせることができない。工場や倉庫は全体を統括する本社から離して設置する方が便利だし、会社の周辺に従業員を住まわせる土地を確保するのが難しい。国民の生活は、国家戦略や経済活動の「システム」に組み込まれている。
 「地下鉄」について、瀬尾は、「地下に堆積する地層への下降という、時間・空間的なタテ軸が必ず前提とされており、そこでは外界が消されて電車はひたすら移動という機能に純化されている。その意味で地下鉄は純粋電車」である、と書いている。( 101ページ)この「純粋」は「国家戦略(国家システム)」の支配が強いという意味だろう。国民が要求したのではなく、国家(経済)が人の大量輸送を要求し、それがつくられたという意味ではたしかにそうである。しかし、だからといって蒸気機関車が、そのシステムを逸脱していることにはならない。
 瀬尾は書いていないが、「電車」には「路面電車」というものがある。一時期、都市交通の邪魔者扱いされたが、また見直されてきている。これももっぱら国家(経済)戦略の影響を受けている。
 さらに瀬尾が「運転者」と呼んでいるのは、運転士のことではなく、蒸気機関車ならば石炭をボイラーに供給する人のことである。電車も蒸気機関車も運転士がいる。運転士は常に前方の安全を確認している。何かあれば自分の責任でブレーキをかける。
 「国家的インフラ」とか「システム」ということばで何かをいいたいのだと思うが、動力と燃料の供給のあり方を見ていない。そこで働いている人間を見落としているとしか思えない。あるいは恣意的に「人間」を排除し、抽象のなかで論を展開しようとしているのだろうか。
 「大量死」と同じように、具体性に欠ける「比喩」だと思う。



 そういうこと関係があるかないか、よくわからないが、杉本真維子『据花』の「川原」に関する批評のに少し疑問を感じた。三連目を引いている。「謎の中心部分」と呼んでいる。

それは、一本の壜の中
光る傷口が、川上から、流れてきた
むかし、それを、竿でつついた

 この三行に対して、こう書いている。

《光る傷口》に「被出産時の神々しい外傷」を読む阿部嘉昭の読みは正確であり、それがマンデリシュタームの投壜通信に内封されて普遍化されるというのも妥当だが、詩の言語をいくぶん知識的・抽象的な位相へ持ち上げることになるかもしれない。むしろこの冒頭の作品を読んだ読者がここでさしあたり疑問の中に取り残された状態に置かれるということが大切な事実であり、川を一つの傷口が、しかも壜に封入されて流れ下ってくる鮮烈なイメージはしばらくは読者のなかに残っている。           (94ページ)

 えっ、「光る傷口」って「被出産時の神々しい外傷」? その「根拠」は? 阿部の文章を読んでいないのでわからないが、二連目に出てくる「生まれた時刻」からのつながりかな? 瀬尾が引用している文だけでは、わからない。「被出産時」って、「生まれたとき」のことだと思うが、わざわざ「被出産」というような言い方が気になるなあ。「産まされた」という意識が杉本のなかにある、と感じたのかな?
 というのは、脱線だが……。
 私は「川を一つの傷口が、しかも壜に封入されて流れ下ってくる」とは読まなかった。たしかに「壜の中」と書いてあるのだが、私は「壜」そのものが「光る傷口」という「比喩」になっているのだと思った。
 川を流れてくる「壜」は水とは違った色をしている。それは「川(水)」そのものの「傷口」に見えた、ということだと思った。だから、そのあとの「それを、竿で突いた」の「それ」とは「壜」であって、「光る傷口」ではない。「壜の中」に封入されているなら、それは突けない。
 私は、「動詞」を中心にして、その詩のなかで「肉体」がどんなふうに動いているかを読んでしまう。自分が「肉体」でしてきたことを、「動詞」をたよりに思い出す。作品のなかで動いている「動詞」が私の「肉体」を刺戟して、忘れていたことを思い出すと言い直した方がいいかもしれない。
 私も、むかし、川を流れてきた壜(あるいは、その他のもの)を竿ではないが、棒で突いたことがある。突くと、沈んで、再び浮き上がる。それがおもしろくて突くのである。川を流れてくるものは、川にとっては「異物」であり、「傷」といえば「傷」のようなものだろう。「傷口」ということばは、また、何か突っつきたくなる何かを思い出させる。かさぶたをわざとはがすようなもの、傷口をわざとひろげてみるような、不思議な「快感」がある。
 杉本は単に、そういうことをしたことがある、と書いているだけのように思える。
 詩は、このあと

川原にさらして眺めると
石のほうがもっと眩しく
「くやしさのなかでしか生きることができない。」

 とつづく。
 竿で突いたあと、壜を拾いあげ、川原に置いたのだろう。実際に手元に引き寄せてみると「傷口」(存在に出現した異質なもの/存在の内部への入口のようなもの)のように見えたものは、単なる「壜」にすぎず、それよりも川原の石のほうが輝いて見えた。この感じも、私はおぼえているなあ。壜ではないが、流れてくるものを拾いあげてみると、案外つまらない。それよりも、そこに最初からあるもの(石)の方が色がきれいだったり、形がおもしろかったりして、宝物になりそう。
 この「裏切られたような気持ち」を杉本は「くやしさのなかでしか生きることができない。」と書いているのだと感じた。何に裏切られたのか。「夢(壜はきっとすばらしいという思い込み)」に裏切られた。だから「くやしい」。壜を美しいと思った自分がくやしい。こういうくやしさ(思い込みどおりにならないくやしさ)というのは子どものとき体験しない?
 瀬尾の「壜の中」の「中」にこだわった読み方は、瀬尾が持ち出した「封入(する)」には合致するけれど、杉本がつかっている「突いた」や「さらして眺める」という動詞とは合致しないように感じられる。
 「読者がここでさしあたり疑問の中に取り残された状態に置かれる」と瀬尾は書いているが、私は、この部分はまったく「疑問」を感じなかった。疑問は、なぜ瀬尾がそう読んだかということの方である。いや、瀬尾は瀬尾自身のことではなく、「読者」のことを書いているのかな? 瀬尾は阿部の読みを「正確」と評価している。つまり瀬尾自身の読みと合致するということだと思うのだが、それにつけくわえる形で彼自身の「読み」を書いているのだから、「疑問」は感じなかったのかもしれない。でも、だとしたら、どうして「読者」が「疑問」のなかに取り残され」るとわかったのかな?
 何かよくわからない。

 私はそれよりも杉本のつかっている「語彙」に驚く。「川原」には川を流れてくる「壜」のほかに、「ハンモック」「竿」「硬貨」「炭火」などがある。私はそのことば(名詞)のすべてを、ことばとしてだけではなく「実物」として知っているが(つかったことを「肉体」がおぼえているが)、何と言えばいいのか、「あっ、古くさい」と思わず思ってしまうのである。「むかし」を思い出してしまう。そのせいか「現代詩」というよりも「過去詩」という感じがする。「過去」の「もの(名詞)」が「過去」の「肉体」の動きを揺さぶることによって、いま流通している「文体(合理主義的散文)」が破られている。そこに奇妙な「味」があると感じるのだが……。
 あ、これでは抽象的すぎるか。長く書きつづけて、「頭」が勝手に動いている。中断しよう。(再開はないだろうから、これでおしまい、ということなのだが……。)


戦争詩論
瀬尾 育生
平凡社
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暁方ミセイ「ロータスマウンテン、朝に消える」、久谷雉「物理」

2015-07-05 19:40:54 | 詩(雑誌・同人誌)
暁方ミセイ「ロータスマウンテン、朝に消える」、久谷雉「物理」(「現代詩手帖」2015年07月号)

 私は「魂」とか「精神」というものが苦手だ。「精神」ということばは「方便」としてつかうが、「魂」ということばはつかわない。存在するとは思えないからである。「こころ」というものも、存在するかどうか、あやしい。
 で、「どこにいても幽霊だ」とはじまる暁方ミセイ「ロータスマウンテン、朝に消える」の詩は、最初からとまどってしまうのだが。

血の通わなくなった心臓のなか
一瞬で凍ってしまったきり
もう変わることのない感情が
せめて開きかけたくちびるみたいに
きれいであるよう

 この部分が好きだなあ。
 「精神」も「こころ」も苦手だから「感情」というのも苦手なのだが、「開きかけたくちびる」という具体的な肉体が「感情」なのだな、と感じる。「せめて」は「いのり」のように、強い。強い感情が「いのり」であり、それが「くちびる」と「ひらきかけた(る)」という動詞といっしょに動いているところへ、私の肉体は自然に動いていく。「きれいであるよう」は「いのり」を別のことばで言ったものだろう。
 後半の、

血と肉が蓮の色に開け
山肌を染める時間、
一日が、闇のなかから切開され、
生み落とされる瞬間、
いなくなったすべてのわたしを
抱くことができる時間に、

 この朝の描写が張り詰めていて美しい。「ロータスマウンテン」(チベットにあるのだろう)の朝を知っているわけではないが、あ、こんなふうなのか、と思ってしまう。「蓮の色に開け」の「開く」という動詞のつかい方が、人間の肉体を超え、絶対的というか、宇宙的というか、強烈だ。
 朝という新しい時間のなかに、過去(いなくなったすべてのわたし)を抱くというのは、そういう絶対的な時間と人間(暁方)がしっかり向き合っている感じがして、壮大な感じ(肉体がひろがる感じ)がする。「抱く」という動詞が強い。

平らな
平らな世界を
頭の上を流れていく
冷やかな空気の
匂いで知るよ

 最後の「匂いで知る」というもの、とても印象に残る。「嗅覚」が生きている。目覚めている。



 久谷雉「物理」の後半。

草の上にしゃがむ人よ
立つ力よりも
しゃがむ力に
ゆがめられた足を
わたしくは愛する

 「立つ」と「しゃがむ」を比べ、そこに「ゆがめられた(る)」という動詞を組み合わせているところが魅力的だ。「足」のことを書いているのだが、足を超えて肉体全体の存在を感じる。「ゆがみ」は肉体全体をつたわって、支配する。



ブルーサンダー
暁方 ミセイ
思潮社
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長田弘『最後の詩集』(6)

2015-07-05 08:56:20 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(6)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「冬の金木犀」は、「詩って何だと思う?」のつづきで言うと、「発見された」金木犀である。
 私は「冬の金木犀」がどんなものか知らなかった。私の知っている金木犀は「甘いつよい香りを放つ」花である。いや、その強い匂いである。
 しかし長田は、「甘いつよい香りを放つ」と書くことで、その金木犀(誰もが知っている金木犀)を捨てる。そして、世界のどこかに隠れていた金木犀を書く。そのことばといっしょに、新しい金木犀が「現れる」。その「現れ」を描写することばを通して、私は新しい金木犀を「知る」。そして、「目覚める」。

秋、人をふと立ち止まらせる
甘いつよい香りを放つ
金色の小さな花々が散って
金色の雪片のように降り積もると、
静かな緑の沈黙の長くつづく
金木犀の日々がはじまる。

 「新しいもの(発見されたもの)」は最初はわかりにくい。いままで知っていたものと違うからだ。「静かな緑の沈黙の長くつづく/金木犀の日々」。これは金木犀を描いているのだが、すぐには何かわからない。金木犀が「緑の沈黙」をつづけている、って、どういうこと? 金木犀は常緑樹だ。いつも緑。「沈黙」ということばからは、私は何か「存在しない」という印象をもつ。「不在」の感じ。何かに反論したいけれど、ことばを発せずに沈黙する。そのとき、反論が「不在」になる……という感じ。だから、常緑樹なのに「緑の沈黙」は奇妙。何か、違和感がある。
 その私の違和感を解きほぐすように、長田のことばはつづいてゆく。「緑の沈黙」を長田は言い直している。

金木犀は、実を結ばぬ木なのだ。
実を結ばぬ木にとって、
未来は達成ではない。
冬から春、そして夏へ、
光をあつめ、影を畳んで、
ひたすら緑の充実を生きる、
歯の繁り、重なり。つややかな
大きな金木犀を見るたびに考える。
行為じゃない。生の自由は存在なんだと。

 「緑の沈黙」とは、実を結ばず、「ひたすら緑の充実を生きる」と言い直されている。「実を結ばぬ」ことが「沈黙」。「達成(実を結ぶ)」を求めない。「ひたすら」緑を充実させる。緑は「実」のためではなく、「甘いつよい香りを放つ/金色の小さな花々」のために生きている。きっと、「緑の充実」(太陽から栄養を吸収し、ためこむこと)が、あの花の香りに結びついているのだろう。「光をあつめ、影を畳んで」の「集める」「畳む」という動詞に、そういうことを感じる。「畳む」は「畳み込んで、しまう、蓄積する」というイメージにつながる。
 「ひたすら」というのは、「夏、秋、冬、そして春」に出てきた、

ただに、日々の気候を読む

 の「ただに」ということばを連想させる。長田は「ただ、ひたすらに」何かをするということを「生き方(思想)」としていたのだ。それが、こんなふうことばになってあらわれている。

 最後の二行は、「意味」をつかみとるのが難しい。長田にはわかりきっていることなので、ぱっと言ってしまっている。説明しようとしていない。
 「行為じゃない」は「達成ではない」ということかもしれない。「実を結ぶ」ことではない、と言い換えることもできるかもしれない。「未来(生き方)」を私たちはおうおうにして、何かを達成すること(何らかの結果を出すこと、実を結ぶこと)の先にあると考える。しかし「生きる」ということは、必ずしも「実り」とは関係がない。「実を結ばぬ」ことがあっても、人は生きている。「存在している」。
 長田は、この「存在」を「自由」と結びつけている。
 「実を結ばない」、けれど「緑の充実を生きる」。そこに金木犀の「自由」がある。その「自由」こそが、金木犀の「存在」。「散って/金色の雪片のように降り積もる」花、そしてその花の放つ「甘くつよい香り」、消えていくものを支える生きる緑。でも、そんなことは「言わない」。何のために生きているか、こざかしいことは言わない。「沈黙」をまもり、知らん顔している。そこに長田は「自由」を感じている。

 長田の「哲学/思想」(生き方)の静かな主張を感じた。長田の「肉体」を感じた。


最後の詩集
クリエーター情報なし
みすず書房
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マーサ・ナカムラ「丑年」、杉木澪「スプリング・フィールド」

2015-07-04 10:26:09 | 詩(雑誌・同人誌)
マーサ・ナカムラ「丑年」、杉木澪「スプリング・フィールド」(「現代詩手帖」2015年07月号)

 マーサ・ナカムラ「丑年」は「新人作品(投稿作品)」。文月悠光と朝吹亮二のふたりに選ばれている。6月号の作品には「石橋」が出てきた。今回は、育てた牛から干支の動物が生まれてきて、庭石に入っていくという不思議な話が組み込まれている。
 文月は「集落や十二支にまつわる伝承をうまく取り込んでいる。複数のエピソードを結びつけ、回収させる力を感じた。この世のものではない存在との交感が魅力的だ」と書いている。
 私は、しかし、その前に書かれている部分(一連目)がおもしろかった。

向かいから、白い親子が歩いてくる。白く発光する母親は、古風に赤ん坊を背中にくくっている。
「こんばんは」と声をかけると、母親は少し驚いたような顔で会釈を返したが、通りすぎると、小学生の私の腰までの高さしかない。
後ろを歩いていた友人が「こばんは」と挨拶をしてから、小さく高い悲鳴をあげて私の右腕にすがりついてきた。
「美恵ちゃんがあいさつするから、私もあいさつしちゃったよ」
振り返ると、親子はやはり小さな姿で道を上がっている。赤ん坊の首は石のように動かない。
私たちはお互いにもたれあい、腹を抱えて笑いながら、集落につながる坂を下っていった。

 この「石」の比喩が「庭石」に変わっていくのだが、すこし「技巧的」すぎはしないか。
 私がいいなあと思ったのは、

「美恵ちゃんがあいさつするから、私もあいさつしちゃったよ」

 この行のリアルさだ。「美恵ちゃんがあいさつするから」と「私もあいさつしちゃったよ」のあいだには、「つられて」というようなことばが省略されている。肉体が無意識に他人と接続し、動いてしまう。自分の肉体なのに、他人の「意思」に支配(?)されている。
 この自分の肉体と他人の肉体の融合のようなものがあって、「集落」がリアルになる。「私の右腕にすがりついてきた」も、さりげなく肉体の共有のようなものをつたえる。「集落」とは人間(肉体)が互いになじみながら生きている「場」である。そういうところでは、ことばが独特の動きをする。「伝承」が生まれる。つまり、次に書かれる「伝承」が自然につながる。牛が十二支を産むことも、生まれた動物が「庭石」のなかに入ってゆくということも「ありうること」に変えてしまう。この行がなかったら、「伝承」は単なる「空想」なってしまう、と思った。
 後半の僧侶が出てくる部分からはない方が、私は好きだ。「伝承」を「論理」で補足しようとしているようで、「しつこい」。「論理」によって詩の「不思議」が消えてしまう。後半は読まなかったことにする。

 文月は杉木澪「スプリング・フィールド」も選んでいる。その最終連が魅力的だ。


どう汚しても美しい手、
清新ないろのインクで
「新しい文字をつくろう」
と記した

 「汚す」と「美しい」の素早い結びつきが、そのまま「清新」だ。文月も同じ五行を引用して「秀逸」と批評している。
 文月に出会うことを待っている詩が、もっともっとあるのだろうなあ、と感じさせる。
現代詩手帖 2015年 07 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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長田弘『最後の詩集』(5)

2015-07-04 09:49:59 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(5)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「詩って何だと思う?」で、長田は

目を覚ますのに、
必要なのは、詩だ。

 と「定義」している。これには、それに先立つ行がある。

アラームalarm という英語は、
イタリア語のall'arme
(武器をとれ)からきたと
辞書にあるけれども、
夜明けに目を覚ますのに、
毎日、必要なものは、
アラーム(武器をとれ)ではない。
目を覚ますのに
必要なものは、詩だ。

 目を覚ますのに必要なものは「武器をとれ」ではないというのはわかるが、詩が必要だと言われても、なかなか納得できない。
 このあと、詩は、

顔を洗い、歯を磨くのに
必要なものは、詩だ。
窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、詩だ。

 とつづく。
 私はここで、はっ、とする。「空の色を知るにも」の「知る」という「動詞」のつかい方に驚く。この「知る」は「円柱のある風景」でつかわれていた「知る」と同じだ。和辻哲郎の文章を引用し、そのことばに導かれてシチリアにやってきたと書いた後、

ここにきて、知った。円柱たちの、
その粛然とした感じは、うつくしい建築が、
遺跡に遺した、プライドだった。

 その「知った」は「発見した(あらためて気づいた)」という意味だった。
 ここでも、「知る」は「発見する」という意味である。
 でも、「空の色」って、「発見する」もの?
 ふつうは、晴れ渡った青空だなあと思ったり、雨が降るかもしれないなあと思ったりする。いつも思っていることを繰り返す。「発見する」ということとは逆に、いままでの経験で「知っていること」を繰り返しているに過ぎない。「空の色」を「発見する」ということは、ない。「発見」しなくても「空の色」は「空の色」。
 「発見する」というのは、どういうこと?
 詩を読み返すと「目を覚ます」ということばがある。二回繰り返されている。「アラーム」も「目覚まし時計」のことだから、そこに「目を覚ます」が隠れている。
 「発見する」とは「目を覚ます」ことなのだ。「目を覚ます」は「発見する」ということばの「比喩」なのだ。何かに衝撃を受けたとき、比喩的に「目を覚ます」という表現をつかう。衝撃を受け、それまで気づかなかったことに気がつく。それが「目を覚ます」。そして見落としていたものを見つけることが「発見する」。それは最初から存在した。気づかなかっただけだ。それを見つけるのが「発見する」であり、その「発見する」は、そこにそれがあったことを「知る」ということだ。
 長田は「意識の事実/事件」を書いている。
 詩はたしかに、それまで気づかなかった何かを発見し、驚くことだ。あ、そうか、これはそういうことばで言い表すことができるか、と驚くことだ。これこそが自分の言いたかったことだ、と感じることだ。詩は「目を覚ますこと」「発見すること」「新しく何かを知ること」だ。
 そう定義した後で、長田は書いている。

人に必要となるものはふたつ、
歩くこと、そして詩だ。

 「歩くこと」はなぜ必要なのか。それは、「他者」と出会うためだ。「ここ」にいるだけでは、誰にも出会えない。だれかに、あるいは何かに会って、そこで「目を覚ます」「発見する」「新しいことを知る」。それは、だから「ふたつ」と書かれているけれど、ほんとうは「ひとつ」のことでもある。出会いと発見。それが「歩く」ことであり、「詩」なのだ。
 「詩は歩くこと」と言い直してもいいと思う。

きれいなドウダンツツジの
生け垣のつづく小道を抜けると、
エニシダの茂みが現れる。
光と水と風と、影のように
彼方へ飛び去ってゆく鳥たちと。

 これは、ただ街を歩いたときに目にする「風景」ではない。あらかじめ存在している風景ではない。「現れる」と、長田は書いている。長田の意識が目覚めたとき、街の風景のなかから(奥から)、「現れる」。その「現れる」ということを長田は発見している。「事件」にしている。「事実」にしている。
 ことばを補っていうと、

エニシダの茂みが(エニシダの茂みとなって)現れる。
光と水と風と、影のように
彼方へ飛び去ってゆく鳥たちと(なって現れる)。

 はやりの「哲学用語(?)」で言うと、この「……となって現れる」というのは、「分節」されて、ということである。「世界」は「未分節」の状態で存在している。「混沌」としている。それを「分節」し、ととのえる。そのとき「現れる」という運動は「発見する」と言い換えることができる。また、そうやって「世界」をととのえることを「知る」とも言う。
 これを「哲学用語」ではなく、「ドウダンツツジ」や「エニシダ」「光と水と風」「鳥」という具体的な存在を通して語るのが、詩だ。

最後の詩集
長田 弘
みすず書房

*

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クリエーター情報なし
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