詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

夏目美知子「夕方には雨戸を閉めます」ほか

2016-01-19 09:14:51 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目美知子「夕方には雨戸を閉めます」ほか(「乾河」75、2016年02月01日発行)

 夏目美知子「夕方には雨戸を閉めます」の二連目。

近くの店で働き始めた若い人がいる。その素っ気ない頬を
好ましく思う。彼女は笑わない。気難しい雰囲気が出てい
る。人と親しくならずに生きるスタイルが、私の興味を引
く。その興味のために少し活気づく。容易に打ち解けない
目に、独りでいる強さがある。多分、あなたと私が本当に
出会う事はないと思うけれど、どうやって人は自分を貫く
のか知りたい気がする。

 繰り返し読んでしまった。「素っ気ない」「笑わない」「気難しい」「親しくならず」という否定的なことばがつづく。そのことばが否定的であるにもかかわらず、逆に「好ましい」「興味を引く」という動詞を引き出す。夏目は「活気づく」と変化してしまう。
 「打ち解けない目」は「独りでいる強さ」という具合に、肯定的(強い)と語りなおされる。
 こうした「否定」から「肯定」への変化は、「どうやって人は自分を貫くのか知りたい」という欲望にかわる。夏目は「若い人」に「自分を貫く」強さを感じたのだ。それは夏目が欲している強さでもある。欲望の発見。
 で、こういう否定から肯定への「変化」を支えているのは……。

あなたと私が本当に出会う事はないと思うけれど、

 この文の中にある「本当」である。
 「本当」とは何か。
 夏目はすでに「若い人」と出会っている。出会って、その人がどういう人物であるか、わかっている。見かけも、性格も。もっとも、その性格は見かけから判断したものだけれど。
 それでも「本当に出会う事はない」と書くのは、別なことばで言い直せば「打ち解けない」からである。「本当に出会う」とは「打ち解ける」ことである。「内面」が出会っていないからである。
 だからこそ、

どうやって人は自分を貫くのか知りたい

 と言い直されている。これは、

どうやって人は自分(の内面)を貫くのか知りたい

 と「内面」ということばを補うと、いっそうわかりやすくなる。
 ここからさらに、私はことばを入れ替え、さらにこに「本当」を補ってみたい。

どうやって人は自分の内面を貫くのか知りたい

 は、

どうやって人は自分の内面を貫くのか「本当は」知りたい

 であり、また

「本当は」どうやって人は自分の内面を貫くのか、知りたい

 でもある。
 「本当は」は「知りたい」を説明するのか、あるいは「貫く」を強調するのか。
 似ているようでも違う。
 私は、後者の方を、

「本当は」自分を貫きたい

 と感じてしまう。夏目は、自分を「貫きたい」ということを発見したのだと思う。若い人が自分を貫いているのを見て、その貫いているものを知りたいと思うと同時に、自分自身を「本当は」何かで貫いてみたいと思ったのだ。その「欲望」を発見している。
 「若い人」に出会うことで、「本当」の自分、自分の欲望を見つけ出している。「若い人」に託しながら、自分の「本当」を語っている。この「本当」のつかい方が、とてもおもしろい。



 斎藤健一「旧国」。

穀物と地球儀がある。誰も訪問しては来ない。権威を持
つ大学の門。黒く光る自動車がすべり込む。テエブルだ。
荒れる海が置かれ。電池の切れる時計の飾り物である。

 「荒れる海が置かれ。」という遠景の突然さ、その中断と持続の「置かれ」という終止形ではない動詞の、不思議な形。「置く」という動詞そのものもおもしろい。海は「置く」(置かれる)ものではない。しかし、それを「置く/置かれる」ものとしてつかみとる。もう、この光景は「自然」(外の世界)ではなく、どこまでも斎藤の「肉体」につながった、斎藤の「肉体」になってしまった世界である。

何日も経て届く手紙の内。粉末がまじる。而していつま
でも下肢は重たい。眼鏡のくぼみ。赤燐の半透明がはね
あがる。きこえるのはぼくであることだ。

 最後は、どう読めばいいのか。「ぼくである」ということが「聞こえる」と読んでみた。「ぼくがぼくである」ことは自明のこと。しかし、その自明をもう一度「聞こえる」という動詞でつかみ取りなおす。反復と、反復による確認。
 何度も繰り返されながら、結晶していく「時間」の孤独が聞こえてくる作品だ。



 林堂一「自転公転」。

夜明け前に目覚め
暗い寝室でベッドの端にすわる
手許はまだ暗いのに
窓の外が少しずつ明るくなる

小鳥の声も聞こえる それは
画家のどんな技量をもってしても及ばない
地球の回転が描きだす
みごとなグラデーションだ

 視覚的な描写にはさまれた「小鳥の声も聞こえる」が新鮮だ。聴覚は「画家」「グラデーション」とは無関係である。しかし、この無関係が世界を「ほんもの」にしている。


私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社

*

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後藤大祐『誰もいない闘技場にベルが鳴る』

2016-01-18 08:43:31 | 詩集
後藤大祐『誰もいない闘技場にベルが鳴る』(土曜美術出版販売、2015年11月30日発行)

 後藤大祐『誰もいない闘技場にベルが鳴る』の「死体をタクシーに乗せて」の書き出しがおもしろい。

死体をタクシーに乗せて
祭りのようにすすむ
はずむ街を
ネオン輝く黒いセダンが走る

 「死体」をタクシーに乗せることができるか。できない。タクシーは「死体」を乗せてくれるか。乗せてくれない。だから、ここに書かれていることは嘘である。
 いや、「死体」は実際の「死体」ではなく、「比喩」だ。「象徴」だ、という見方があるかもしれない。でも、そういうかぎりは何の「比喩」、何の「象徴」か、補足が必要だ。これだけではわからない。
 だから、私は「死体」は嘘であると断定する。何の「比喩」でも「象徴」でもない。単なる嘘。
 そして、嘘ということは、そこに書かれている「死体」が「死体」以外の何物でもないということを意味する。つまり、「死体」はほんとうの「死体」。それ以外のことは語らない。偽物の「死体」なら嘘にならない。ほんものだから「嘘」になる。
 矛盾している?
 まあ、見方によっては「矛盾」。でも、「矛盾」していない。後藤は「ほんとうの死体」を「タクシーに乗せて」と書くことで、それを「嘘」にしている。
 ここで、「死体」がほんものならば、「タクシー」が嘘。「タクシー」は「霊柩車」の「比喩」(言い換え)である、などと論理的になってはいけない。
 「嘘」は「嘘」。「嘘」とわかって、そのうえで「嘘」を楽しむ。
 漫才、落語と思ってみるのもいいかもしれない。漫才、落語は「嘘」ではないという意見もあるだろうけれど、そういうことは気にしない。
 「嘘」である漫才、落語が楽しいのはなぜか。そこに「語りのリズム」があるからだ。漫才、落語に「ほんとう」があるとしたら、「語りのリズム」「声の調子」という「ほんとう」がある。「内容(ストーリー)」だけが問題なら、漫才、落語は「台本」だけで十分。そうではなく、ひとが漫才、落語を聞くのは、しかも同じ話を何度も聞くのは、そこにある「ほんもの」が「内容」ではなく「口語(語りのリズム)」「声の調子」だからである。
 で、この「書き出し」にあるのも「語りのリズム」という「ほんもの」がある。

 では。
 その「語りのリズム」って、何?

 これは、説明がむずかしいねえ。詩の場合、漫才や落語のように、必ずしも「実演」をともなわない。漫才や落語では、「語りのリズム」をとおして、それを演じているひとの「人間性」という「ほんもの」を実感できる。詩は、朗読されるとはかぎらない。だいたい、私は「朗読」を聞いて「語りのリズム」と言っているわけではない。活字を「読んで」、「語りのリズム」と言ってしまった。
 どこに「語りのリズム」を感じたか。「ほんもの」を感じたか。
 まず一行目の「乗せて」である。「死体」は嘘。「タクシー」は「霊柩車」の言い換えだとしたら「死体」はほんもので、「タクシー」は「比喩」。でも、そんなことでは、ぜんぜんおもしろくない。「死体」と「タクシー」の組み合わせがおもしろい。その組み合わせを可能にしている「動詞」、「乗せる」こそが「ほんもの」なのだ。「乗せる」という「動詞」が実際に「ある」ことを知っている。「乗せる」ときの「肉体」の動きがどういうものか、私はわかっている。「わかっている」ことを、私は「ほんもの」と呼ぶ。
 何かを何かに「乗せる」、何かを車というものに「乗せる」。ふつうは「載せる」と書くのかもしれないが、いっしょに語り手が「乗っている」ので「乗せる」という「動詞」になるのだろう。
 この「乗せる/乗る」という「動詞」が、次の行の「すすむ」、さらに「はずむ」「通る」という「動詞」と響き合って、加速する。疾走する。ここに「リズム」が生まれてくる。

祭りのようにすすむ
はずむ街を

 という二行は、具体的にというか、学校文法に即して読むと、ちょっと混乱するね。「すすむ」の主語は何か。「タクシー」かもしれないが、「祭り」そのものかもしれない。「祭り」には「行列」(山車や踊りの行列)がつきもの。それが「すすむ」のかもしれない。そういう様子を「祭り」が「はずむ」とも言える。「街」そのものは「はずむ」ということはない。「雰囲気」が「はずむ」のである。こういうことも「頭」ではなく「肉体」で私は「わかっている」。「肉体」が、そういうことを「おぼえている」。「ほんもの」がそこに動いている。
 この二行は、「街」の描写と言える。
 「街」の描写なのだけれど、それは「死体を乗せたタクシー」と切り離せない。タクシーはその「描写」の中心にある。「死体を乗せたタクシー」が「街」と「祭り」を盛り上げている。はずませている。「タクシー」が走るとき、動いているのは「タクシー」ではなく「街」と「祭り」のように見える。行列のため「タクシー」は走ることができず、そのそばを「祭り」が動いていくということもあるかもしれない。
 それぞれを区別することができない。全部が渾然一体となっている。「肉体」が「手」とか「足」とか便宜上区別できるが、切り離すと「肉体」は生きていけない。「一体」のとき生きている。その「一体」のリズム。
 この渾然一体となった「はずむ」感じ、にぎやかな感じが、四行目の「ネオン輝く」ということばを呼び覚ます。「黒いセダン」は「タクシー」を言い直したものだが、この言い直しが「タクシー」をその修飾語どおり「輝く」ものにする。
 「乗せる/乗る」「すすむ」「はずむ」「通る」が「輝く」という「動詞」のなかで「一体」になる。この「一体」になるときのスピードが心地よく、それがおもしろいのだと思う。
 二連目も快調だ。

キミがいい気分だから
ボクもまじ最高
肩に手をまわせば、ほら
口蓋骨から、ピューと笛がこぼれる

 今度は「動詞」ではなく、「名詞」に目を向けてみよう。
 「いい気分」「まじ最高」「笛」。そこには、「ピュー」という「音」があり、「ほら」という掛け声のようなものもある。「輝く」に昇華した「動詞」が「輝き」になって、それが二連目の「名詞」を呼んでいるといえるかもしれない。
 「いい気分」「まじ最高」は「肩に手をまわす」という「動き(動詞)」になって、「肩」「手」という「肉体」そのものを動かす。「肉体」が動くことで、「語りのリズム」が「肉体全体」に広がっていく。
 それが「死体」を刺戟し、「死体の肉体(?)」の「骨」を動かす。「口蓋骨」を、じつに自然な感じに動かす。「口蓋骨」にまでなってしまった「死体」はきっと「骸骨」、つまり「肉」がない。「舌」がない。だから「話す」ことはできない。で、「口笛」になる。「ピューと笛がこぼれる」。あ、「骸骨(死体)」まで「いい気分」。
 あ、「キミ」は「骸骨(死体)」だったのか。

死ぬほど楽しい、キミもそう?
何があっても、ふたりなら平気
キミのむきだしの鎖骨をつつく、木製バットの感触
キミはほんとうにかわいい、ほんとだよ
ほんとだって 笑

 「死体(骸骨)」だから死んでいる。それでも「死ぬほど楽しい」という慣用句が動く。「死体」に、そんなことを聞いてどうなる。笑うしかない。でも、自分が楽しいとき、そばにいるひとにも同じ気持ちかどうかききたくなる。この呼吸(間合い)のリズムがいい。「ほんとう」のリズム。
 「骸骨」だから「むきだしの鎖骨」は、あたりまえ。こんなとこに、変に「ほんとう」を出して、「木製のバットの感触」と「嘘」の積み重ね。「嘘」の骨は「ほんとう」をまじえること、という鉄則が絶妙な感じで組み込まれている。
 そのあとに、「ほんとう」の戯れ言(だれもが言ったり聞いたりする会話)が「笑」といっしょに書かれているのもいいなあ。「嘘」のなかに「ほんとう」の「地」を出している。

 さあて、さて。
 この「語りのリズム」、詩の全体ではどうなるのかな? 詩集全体ではどうなるのかな? それは詩集で確かめてください。

誰もいない闘技場にベルが鳴る
後藤大祐
土曜美術社出版販売
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カアン・ミュジデジ監督「シーヴァス」(★★★★★)

2016-01-17 22:29:07 | 映画
監督 カアン・ミュジデジ 出演 ドアン・イスジ、犬

 「シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語」という長い日本語のタイトルがついている。原題は「シーヴァス」。犬の名前である。
 手持ちのカメラの映像が激しく揺れる。揺れながら少年の目だけはしっかりととらえる。これは実際にそういう映像なのか、私がどうしても少年の目を見るから、目がしっかりとらえられていると思ってしまうのか、はっきりとはわからない。その揺れで、少年の見ている世界の「不安定さ」を語っているのかもしれないが、目の悪い私にはかなり苦痛。少年の肉体そのものが激しく動いているときの映像(たとえば「仁義なき戦い」のように走っているときの映像)なら、それでもいいかもしれないが学校からの帰り道、ただ歩いているだけのシーンでも画像が揺れるのはつらい。
 そのつらさを我慢すると。
 少年と、少年の暮らしているトルコの寒村(?)の拮抗具合が、まず、とても印象に残る。牛の世話をし、老いた馬の面倒もみている。その大きな動物たちと少年の肉体が拮抗している。少年が「弱く」ない。対等である。いっしょに生きている。馬の、じっと何かをみつめるときの目の純粋さ(純粋な不安)は、そのまま少年の目である。
 少年は犬と出合う前に老いた馬を原野へ捨てにゆく。その少年の前に広がる原野と少年も拮抗している。荒寥とした原野を前にしても、少年が幼い、弱い、という感じがまったくしない。荒寥をそのまま受け入れている。少年は、荒寥に対して何の不安も感じていない。
 これは、少年が犬と出合ったときに、もう一度繰り返される。
 少年は傷ついたシーヴァスのそばにいる。周りがどんどん暗くなる。寒くなる。けれども少年は平気である。ただ傷ついた犬のことを気づかっている。その少年を年の離れた兄が探しに来るのだが、このときも兄が迎えにきてくれたという「安心」、こどもらしい表情とは無縁。平然と「自己主張」する。何と言えばいいのか……対等なのである。あらゆる存在に対して、対等に生きている。
 この不思議な「対等」感覚のまま、少年は大人たちの「闘犬」の世界へ、シーヴァスとともに巻き込まれていく。「大人」としてあつかわれるというのとは違うのだが、うーん、これがトルコの「男の子(少年)」に対する向き合い方なのかなあ。こどものときから、こういう感覚をトルコの少年は身につけさせられるのだろうか。
 この「対等」が崩れるシーンが二回ある。これが、なかなかおもしろい。
 一回目は、母親が少年を風呂に入れるシーン。少年は「入ってくるな」と拒絶するが、押し切られてしまう。少年は「男」のつもりだから、母親に体をあらわれるなんて、いやだ、と主張する。しかし、押し切られる。母親にとって、こどもはこども。「対等」という感覚がないのだろう。
 もう一回も「女」がからんでいる。闘犬で儲けた大人たち(男)は帰り道に女を買う。少年はシーヴァスとふたり(?)で男たちが娼館から出てくるのを待っている。あたりまえといえばあたりまえなのだろうが、ここでも少年は「対等」からはじき出されている。
 このあと、少年は、「もう、シーヴァスを闘わせたくない」と主張する。ここには、シーヴァスと闘ってけがした犬への思い、さらに勝ったけれどやはりけがをしているシーヴァスへの思い(やさしさ)があると見るべきなのかもしれないが、私には、女を買うという行為から自分がはじき出されたこと、結局「対等」ではないと知ったことが影響しているように思えてならない。
 飼い主である少年を尊重して、闘犬の試合のときは少年を連れて行く。少年に、シーヴァスが勝つように声をかけろと言うことで、少年を「共犯者(対等の人間)」として扱っているようだが、そうではなく、犬が少年のために闘っているということを利用しているだけである。少年がいないとシーヴァスは真剣にならない。少年の声に真剣にこたえる犬なのである。少年は利用されていることに気づいたとも言える。
 「対等」なんて、ないのだ。
 少年自身はシーヴァスと「対等」というか、「親友」感覚でいる。大事な宝物である。そのシーヴァスは少年がなれなかった「王子(白雪姫の王子)」のかわりに闘犬の王者になる。シーヴァスが「王者」になることで、少年も「王子」になる、という「夢」をみている。シーヴァスが少年の「代弁者」であると感じている。
 でも、大人は「犬」を「対等」とはみない。犬は闘犬の試合に出て、人間のために金を稼ぐものである。「奴隷」である。(「奴隷」ということばは、少年が学校でブロックを積む作業をしているときに、出てくる。一方で「白雪姫」のけいこをしているこどもがいる。一方でブロック積みをしている「奴隷」のような少年たちがいる、と少年は感じている。だれだって「奴隷」よりも「王子」がいい。)
 「対等」にまつりあげられ、「対等」から突き落とされる。このとき、少年は「おとな」になる。いっしょに車で帰るシーヴァスは首から血を流している。傷ついている。それは、少年のこころのようにも思える。また、少年のさびしさ、絶望を知ったシーヴァスの「共感」の涙のようにも見える。
 映画はシーヴァスの、血を流しぼんやりと中空をみつめるさびしい目を映しておわるが、それは少年がはじめてみせているであろうさびしい目に違いないと感じさせる。
 と、書いてしまうと、なんだがストーリーに流されている感じがしないでもない。この映画の魅力は、実は、そのストーリーと拮抗する「映像」の厳しい美しさである。手持ちカメラの「揺れ」について「苦情」を書いたが、揺れながらも寒村の空気をしっかりとつたえている。自然だけではなく、暮らしのシーンも虚飾がない。事実を、フレームでとらえるというよりも、フレームを壊して一歩カメラが対象に近づく、カメラのレンズが裸になって「肉眼」で世界をとらえるという緊迫感がある。カメラが「肉眼」になる。すべてが生々しい。ドキュメンタリーを突き抜けて、自分がその世界にいるような感じになる。最後には、犬の気持ちにさえなってしまう。
 愛犬家としては、犬が苦しむシーンは見たくないのだが、この映画の映像はすばらしく力がある。必見の一本。
                     (KBCシネマ2、2016年01月17日)






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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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陶山エリ「小春日和に」、山田由紀乃「並んでいる」

2016-01-17 14:11:46 | 現代詩講座
陶山エリ「小春日和に」、山田由紀乃「並んでいる」(現代詩講座@リードカフェ、2016年01月13日)

小春日和に   陶山エリ

でぃあぼろかしすの赤いが浅い鎖骨に溜まるそれは夢にあたしまみれてしまいそうなのだから二度と戻ることはできないなのだろうから

小春日和に土の匂いを
ブルーシートが隠す
恥ずかしいくらい大きな翼で隠す
青空より真面目に青さが染み込んだ輝く青の内側
掘り起こしたり埋め直したり
動きが男の影だとわかってしまうそれはあたし精液にまみれてしまいそうなのだから
おさえつけても噴き出してくる情けないぬるさをいちどもおいしいわけないあんなもん

小春日和の影なのだから長い男の黒い足が赤い鎖骨を
そこにそれ
これあっち
いじったことくらいわかるブルーシートの中の小春日和に招かれ青いに曝され声を脱がされ

小春日和があたし拾った小春日和があたし鳴いてる小春日和があたし見飽きる

忘れそうなのだから招いて指をおく
ほんとうは数えるのもめんどう
ほんとめんどうなんだってめんどうなんだってめんどうなんだって
指から指へ伝えている
ほんと鳥が近いところで飛ぶ
小春日和にゆびはだれに連れて帰ってもらうことでしょう

ディアボロカシスの赤いがあたしをすすぐ土の匂いがあたしを血の匂いを忘れたい
うごかないひと血が赤いに戻ろうとして戻れない


<受講者1>鍋山さんの色とは違った色だが、色が美しい。
      「青空より真面目に青さが染み込んだ輝く青の内側」という表現がいい。
      死体を隠しているんじゃないかと思う怖さ、グロさもある。
      対比がきいていてゾクゾク感をあたえる。
<受講者2>なまぐさいところもある。ブルーシートから廃棄物を連想した。
<受講者3>小春日和は秋。でもシートのなかにはうごめきがある。
      土の中の生きもの、土の生命を感じる。有機物の感じ。
<受講者4>性的な匂いがする。映画のような感じも。
      性的な欲望が半分あからさまになり、半分隠されている。
      欲望をごまかしている自分が出ている。
      これを小春日和とくっつけるところがおもしろい。
<受講者5>「おさえつけても噴き出してくる情けないぬるさ」に性的欲望を感じる。
<受講者1>ことばがことばをつないでゆく。それにあわせてイメージもつながる。
      「ほんとめんどうなんだってめんどうなんだってめんどうなんだって」は
      「めんどう」を読者に感じさせる。
<受講者2>気候は秋なのだけれど、啓蟄とつながっている。
      最終行の「うごかないひと」は死体かなあ。「赤いに戻る」が生々しい。

 鍋山の詩の色について、「色は動詞」という見方があったが、「青空より真面目に青さが染み込んだ輝く青の内側」は、その「実践」といえる。色が色のなかで変化しながら、ものと結びつくことで明確になっていく動きが感じられておもしろい。
 その色の動きに「掘り起こしたり埋め直したり」という矛盾した(相反する)動詞の繰り返しが重なる。繰り返される動きが「性」を連想させる。相反する動きなのに、それが繰り返されることで「ひとつ」の動きになる。それが性を感じさせる。
 繰り返しと変化、「掘り起こす」と「埋め戻す」の繰り返しの中にある絶対的な違いと、絶対的に違うのに組み合わさり、繰り返すと、その繰り返しそのものが「ひとつ」になるということが、「おさえつけても噴き出してくる情けないぬるさ」に反映していると思う。「噴き出してくる」という激しさと、その激しさに相反する「ぬるさ」というものが強烈に結びつき、離れない。その強烈な結合に対して、「いちどもおいしいわけないあんなもん」という否定のことばが炸裂するように出てくる。このリズムがおもしろい。
 五連目の「指をおく」が「小春日和にゆびはだれに連れて帰ってもらうことでしょう」と変化していくところも、いろいろなことを考えてしまう。「数える」は「指で数える」(指を折って数える)」という「具体」だけが持つ「めんどう」をあからさまにしている。抽象的なことは、意外とめんどうではない。簡略化が抽象だからである。そのめんどうな「具体」を「指から指へつたえている」、その「動いた指」の記憶、肉体の動かし方を、どこかに「置く」。「そこにそれ/これあっち」ということばと一緒に動いたかもしれない指。それを誰が思い出すだろうか。「あたし(陶山)」だろうか、もうひとりの指の相手だろうか。
 性的な匂いがするという感想が出たが、私は、この五連目の「指」へのこだわりと、三連目の「声を脱がされ」に、性を強く感じた。声を脱がされ、いままで見えなかった(聞こえなかった)声を聞かれてしまう。
 「声」は「鳴いている」、「鳴いている」は「鳥」へと変化して行く。それは「あたし」から「飛ぶ」(あたしから出て行く、エクスタシー)の瞬間かもしれない。それが「近いところ」にある。「指」は置いておかれたまま、その「近い」という距離を強調することになるかもしれない。
 エクスタシー(自分から出て行く)から、たとえば「でぃあぼろかしす」とひらがなで書かれていた「音(声)」は「ディアボロカシス」というカタカナの「音(声)」へと変化している、とも読むことができる。
 その「声」を「音」と言い換えてみると。(というのは、強引な言い方だが)
 書き出しの「でぃあぼろかしすの赤いが浅い鎖骨に溜まる」の「赤い」と「浅い」の音の交錯が私にはとても美しく聞こえた。

<陶  山>「が」+「あ」の音は強くて美しい。それを詩に書いてみたかった。
      「あたし」ということばも、それにあせて書いてみた。

 おもしろいことばの交錯がいろいろあって、どの行もさまざまに読むことができる。陶山の「意図」(陶山が書こうとした「意味」)は「意図」として……。
 たとえば、

小春日和があたし拾った小春日和があたし鳴いてる小春日和があたし見飽きる

 これをどう読むか。

<受講者2>読点をつけてみた。
      小春日和が、あたしの拾った小春日和が、あたしに鳴いてる小春日和が、
      あたしを見飽きる
<受講者4>助詞をかえてみた。
      小春日和にあたし拾った、小春日和にあたし鳴いてる、
      小春日和にあたし見飽きる

 陶山のことばの結びつきは、「学校文法」とは違っている。それをどう読むかは読者に任されている。
 <受講者2>の読み方は「小春日和」が「主語」になる。<受講者4>は「あたし」が「主語」。しかし、それだけではないかもしれない。たとえば「小春日和にあたし拾った」というとき「小春日和に」の「に」は何をあらわしているのだろう。「小春日和」という「時間のなかで」か、あるいは「小春日和のひかりのなかで」、つまり「場所」か。
 ことばを追いながら、どんどん「わけがわからなくなる」のが楽しい。
 ことばを動かすとき、ことばの動きと一緒に「詩」が動いている。それは作者が意図した詩ではないないかもしれない。しかし、そんなことは気にしなくていいだろう。



並んでいる   山田由紀乃

並んでいる
黒塗りの仕出し弁当がずらり
新年会と名を借りて
大いに飲みたい男や女が

まあ一献
ビールにお酒に焼酎に
さあ一献
林檎酒だそうです

お隣さんと仲良く酌み合って
なみなみのお猪口を含む
おや果実酒も過ぎれば酸っぱい味になる
ああそれはリンゴドレッシングです

蝋梅の匂いが玄関から届く
宅配と一緒に外の明るみも

錆びた鉄柵にすずめも並んでいる
一羽が二羽に三羽に五羽に
まるまるとふくらんでふくらすずめ

震えている満たされている
張り巡らされた緊張

一羽が離れた
つづいてぱらぱらと
礫の放物線のように

家の中はいつしか潮騒に水鳥が並ぶ
さざめき 饒舌 笑い波
あっ一羽が飛び立つ 空へ


<受講者1>明るい。リズミカル。
      四連目が好き。ただ、全体からは浮いている。
<受講者2>情景が浮かぶ。並んでいるものが、もの(料理/酒)からひとにかわる。
      さらにひとから雀にかわる。その雀のようにひとも旅だってゆく。
      四連目が好き。前半と後半をわける区切りになっている。
<受講者3>前半、音が聞こえにぎやか。後半はさびしい。
      でもさびしいだけでもなく、楽しい感じもする。
<受講者4>四連目が好き。人間の動きではないが、肉体を感じる。
<受講者5>「おや果実酒も」からの二行がユニークで好き。落語のオチみたい。
      宴会が終わり、やがてさびしくなる。
      でも、水鳥は楽しいのか、さびしいのか、読みきれない。
<受講者2>楽しいとは思わない。少しずつ去っていく感じ。
<受講者4>並んでいる「なごやかさ」が、いずれおわる。楽しいだけではない。
<受講者1>楽しさまでもいかないが、さびしいとも感じない。
      「言ってきなさい」「元気でね」と愛しいひとを見送る感じ。

 四連目は、とても印象的だ。「匂い」そのものが「明るい」感じ。嗅覚と視覚が融合して、世界が広がる。「明るみ」は単なる「明るい」ではない。蝋梅の匂いと重なって、清らかなものの象徴のように感じられる。家のなかでは宴会。それは楽しいが、どこか空気の「濁り/澱み」のようなものもある。「匂い」をつかっていえば「こもった匂い」が家の中にある。その「こもった匂い」を洗い流す清らかさ。
 小さな出来事(動き)だが、世界を変える強さがある。

<山 田>前半の家の中と、家の外の雀をつづけたいと思って書いた。

 その、外の描写なのだが、私は、不満を感じる。
 六連目の二行は雀の描写とわかるけれど、あまりにも抽象的すぎる。「意味」が強すぎる。

<山  田>雀って、すごく緊張している。人間の動きに敏感。
      少しのことでぱっと逃げてしまう。
<受講者2>私は「礫の放物線」の「礫の」ということばがいらないと思う。
      「放物線」だけでいいのでは?

 「礫」も「意味」が強すぎるのかもしれない。山田は「意味」を強調したいのだと思うが、読者は「意味」ではないものの方を読みたいのだと思う。
 たとえば、

おや果実酒も過ぎれば酸っぱい味になる
ああそれはリンゴドレッシングです

 山田が朗読したとき、聞いていた受講者が思わず声を上げて笑ったが、こういう「具体的」な行の方が、きっと「意味」がある。「酸っぱい味」には深い物語のはじまりがある。あるいは予感させる。想像させる。それを笑いが吹き飛ばす。その瞬間に、生きていることの不思議な「意味」がある。そういうものを、読者は詩を読みながら探すのだと私は考えている。

*

次回は、2月17日(水曜日)午後6時から。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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鍋山ふみえ「栴檀の樹が」、 降戸輝「理由」

2016-01-16 11:21:27 | 現代詩講座
鍋山ふみえ「栴檀の樹が」、 降戸輝「理由」(現代詩講座@リードカフェ、2016年01月13日)

栴檀の樹が    鍋山ふみえ

栴檀の樹がおおきく枝を広げている

うすむらさきの花 うらむらさきの花 

淡くかげり どこまで行っても眠りに誘われる 

しらじら雲が残っている夕空

樹影は深く 夜更けていく 

明けがた いっそう際立っているだろう

うすむらさきの足跡

むこうのビルの灯りが栴檀の枝のあいだから

みかん色に輝いて吊りさがっている

とぼとぼとぼとぼと 

落としたみたいに うるんでいる

三日月と明星が向きあって 中空で抱き合っている

きのうオオムラサキが飛んでいた

モンキチョウも見かけた

夕暮れの澄んだ空気

蝶が飛ぶ

撒餌を散らすみたいに

追いかけて 追いかけて 

むらさきの影の蝶たちを

薄暮の時が

横たわりながら

空の帯になって流れていく

 受講者の感想。

<受講者1>きれいな詩。色彩がきれい。紫と蜜柑色の対比が美しい。
      「三日月と明星が向きあって 中空で抱き合っている」が印象的。
      私は三日月とか明星とか、書いたことがあるかなあ。
      これを中央にもってきて、前後を分けている。
      栴檀の花が蝶に変化して、蝶が飛ぶイメージが美しい。
<受講者2>夢幻的。絵画というよりも美しい動画をみている感じがする。
      「眠りに誘われる」が夢幻的。天国の情景みたい。
<受講者3>私は栴檀の花を知らないのだが。
      「うすむらさきの足跡」からの「うるんでいる」までの行が美しい。
      色がきれいで、色は動詞かなあ、と思った。
<受講者4>色、植物、風景が目に浮かぶ。
      色と情景が動画のようなイメージ。
<受講者5>ことば、表現が美しい。
      最後の数行が古典のような美しさ。
      「とぼとぼとぼとぼと」と「ぼとぼとぼと」と変化しておもしろい。

 感想は「色の美しさ」に集中した感じがする。そのなかで、「色は動詞かなあ」という感想が特に印象に残った。
 どういうことだろう。

<受講者3>色が動いている。色は最初から固定したものではなく、変化する。
      色は何かと結びついて、そのときはじめて色になる。
      「色即是空」というのとは違うかもしれないが。

 これは刺戟的な指摘である。
 この定義は、

うすむらさきの足跡

 に、あてはめると、よくわかる。「足跡」が「うすむらさき」であるのは、その足が何かうすむらさきのものを踏んで、それが足裏(靴底)に残っているときにできるが、この詩はそういうことを書いていない。
 「足跡」があって、その「足跡」に何かの印象が結びついて、その瞬間に「うすむらさき」という色が生まれた。
 <受講者3>は、そういう変化(動き)をつかみとり、色は動詞である、と言った。
 他の受講者が語った「動画」という印象は、この「色は動詞である」という定義とは違うものかもしれないが、「色はものと結びついて生まれてくる」という「動き」を土台にして読み直すと、もっと詩全体の動きが繊細になると思う。
 栴檀の花は開くことで「うすむらさき」になる。その色は「淡くかげる」「(眠りを)誘う」(「眠りに誘われる」を、ことばの順序を入れ替えてみる)「残る」「深まる」(「深く」を読み替えてみる)「更ける」という「動詞」によって、複雑に変化していることがわかる。
 そういう「変化」(変化の軌跡)を「足跡」と考えてみるとどうだろう。
 「うすむらさきの足跡」は「足跡」が「うすむらさき」なのではなく、「うすむらさき」そのものが「足跡」になっている。そう読むこともできるのではないだろうか。
 「うすむらさき」という色そのものが「足跡」になる、と読むとき、「色が動詞になる」という「定義」とは少し違ってくるのだが、こういうことは厳密に論理化して考えるよりも、どっちでもいい感じでつかみ取った方がおもしろいと思う。
 そういうことを考えながら、ひとつ質問をしてみた。

<質  問>「むらさきの影の蝶たち」はどんなイメージ?
<受講者1>蝶が飛ぶとき、その影が地面に落ちる。蝶の影が紫色。
      地面の上に影がちらばるように飛ぶ感じ。

 うーん、論理的。
 でも、蝶が飛んでいるときの、その「残影/空中に残っている影」がむらさきという具合にも読めるのではないだろうか。蝶のはばたきの背後に生まれる幻の影。そのむらさき。あるいは蝶はもうそこにはいない。けれど蝶が飛んでいた「痕跡」が空中に残っていて、それを「むらさきの影」の蝶と読む。「蝶」はいわば「比喩」。
 「蝶の影」が「むらさき」なのではなく、「むらさきの影」が「蝶」に見えると読んでみる。それが空中を舞っている。
 そう読むと、どうなるかな?

<受講者5>最後の描写が、むらさきの影が帯になって流れていくよう。
      薄暮の空気に溶け込んでゆく。薄暮がむらさきに染まってゆく。

 「夢幻的な動画」がくっきりしてくる。
 「三日月と明星」より前の部分は、栴檀の花、ビルの明かりと、まだ「現実」を書いている。そこには栴檀の花がむらさきの蝶になる「予兆」はあっても、まだ蝶にはなりきれていない。
 それが後半では、きのうの蝶の記憶と結びつき、現実の薄暮そのものを「夢幻」にかえてしまう。
 この変化こそが美しい。
 ただ、私の印象では、「撒餌を散らすみたいに」という直喩は、あまりにも「散文的」すぎる。ほかの表現があったのではないだろうか。



理由   降戸輝

僕は歩いている
朝から何も食べずにずっと
理由を探すために
誰からも求められていない理由を

けさ渡されたばかりの地図に
ルートを一本ずつ
慎重に書き加えながら
ずっと理由を探し続けている

蒼い月に誘われて橋を渡ると
そこはまぶしくて
欲しくもないものまで
欲しくなってきた

甘い物と脂っこいものを
一口ずつ食べてみると
気にならなかったものまで
気になりはじめた

<受講者1>理由を探すというテーマがおもしろい。三連目が好き。
      「欲しくもないものまで/欲しくなってきた」が好き。
<受講者2>さあ、どこへ行くのかな? 出だしはいい。もう少し書いてほしい。
<受講者3>理由は探していないのだと思う。しつこく探すふりをしている。
<受講者4>理由はなんでもいい。一、二連目は真面目すぎる。純粋すぎる。
      「慎重に」ということばに人格が出ている。
      四連目がおもしろい。
<受講者5>短いけれどおもしろい。
<受講者1>理由というよりも欲望を探している感じ。
  
 私の印象では、ことばが抽象的すぎる。「理由」は抽象的なものだから抽象でもいいのかもしれないが、「歩く」「食べる」という具体的な動詞ではじまりながら、具体的にならない。「歩く」「食べる」まで抽象的。
 二連目の「地図」も抽象的すぎる。

<受講者2>「渡された」地図だから、私は具体的なものを感じた。

 あ、そうか。
 この指摘には、私はびっくりした。「天神の地図」「地下街の地図」、あるいは「四つ角にコンビニ、斜め向かいに郵便ポストが書かれた地図」だと、私には「具体的」だが「渡され」ることによって具体的になる地図もあるのか。
 四連目の「食べ物」も、もっと具体的な方が、書いているひとが身近に感じられる。

<受講者5>「甘い物と脂っこいもの」は「たい焼きとフライド***」とか。
<降  戸>チョコレートとかから揚げは思いつくけれど、たい焼きか……。
<受講者3>甘いものの対比では辛いものを連想する。
      脂っこいもの、と対比させているところがおもしろい。
      そこに作者の具体的な感じ(他人と違うところ)が出ている。

 抽象的に書いてしまうのは、たぶん、具体的に書いてしまうと「意味」がつたわらないのではないか、と考えるためだろう。
 詩は「意味」を伝えるというよりも、自分にわかっている「具体的なもの」を、「もっと具体的に」書くものだと思う。「もっと具体的に」というのは、自分でも「意味がわからない」、そこにある「もの」だけがわかる、という感じかなあ。
 あ、私の感想の方が抽象的か……。

詩集 アーケード
鍋山ふみえ
梓書院
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田島安江「共食い」

2016-01-15 09:13:11 | 現代詩講座
田島安江「共食い」(現代詩講座@リードカフェ、2016年01月13日)

共食い   田島安江

食卓におかずを並べていると
野菜以外はみんな共食いではないかと思えてきて
暗澹として落ち着かない

ずっとずっと太古まで遡ると
わたしはちいさな生きもの
生きているというたしかなものはなにもなくなってしまう
みじんこになり魚になり
海の生物になり
陸にのぼって動物になっていく
ひとはひとではなくなっていく

目も見えず口もきけず耳も聴こえなかったら
飢えてしまったら
手にできるものならなんでも手当たりしだい食べるかもしれなくて
舌は味を感じられないし
歯はただ噛み切るだけ
手にしたものを片端から食べる
鼠のように野良猫や野良犬のように
生きて動いているものならなんでも食べてしまうかもしれなくて

ひとの起源をたぐっていくと
とんでもないことにつきあたる
絶滅に向って進んでいる生き物たちと
わたしにどんな違いがあるというのだろう
ただ食べつづける飢えないために
病が蔓延しひととひとが憎みあうことなど
とっくに遺伝子に組み込まれているのだとしたら
わかっていて共食いしているとしたら
いや、飢えたら共食いどころか
自分の指や手や足さえ食べるかもしれない
ハムスターのように弱い兄弟たちを食べてしまうかもしれない
ひとがひとを殺すとはそんなことではないかと
ひとはもうとっくに気づいているにちがいない

鶏を牛を豚を食べる
大根を白菜をトマトを人参を食べる
わたしはまだひとは食べない

 刺戟の多い作品だ。受講者はどう読むか。感想を聞いた。

<受講者1>最後の一行がおそろしい。武田泰淳の「ひかりごけ」みたい。
      三連目の
      「手にできるものならなんでも手当たりしだい食べるかもしれなくて」
      も怖い。
<受講者2>散文詩という感じ。最後の一行が印象的。
<受講者3>二行目「野菜以外は……」おもしろい。
      途中でタイトルを忘れて、「共食い」と見直した。
      四連目は説明の文章。ドキュメンタリーのナレーションみたい。
      けれど「舞台」で読むとおもしろいと思う。
<受講者4>「野菜以外」の行は発想がおもしろい。
      二連目「太古まで遡ると」には歴史的、時間的な広がりがある。
      三、四連目は、頭のなかが混乱する。
      深いことが書いてあるのがわかるけれど、すぐにはつかみきれない。
<受講者5>四連目、特に「ただ食べつづける飢えないために」からの三行が強烈。
<受講者2>スケールが大きい。時空を自在に動き回る感じがする。
     
 朗読して、そのあとすぐに感想を順々に言っていくので、最初の発言者はなかなか考えをまとめきれない。他人の感想を聞きながら、自分の考えをまとめる時間があるひとの方が余裕をもって感想を言える。
 長くて複雑な作品だと、自然とそういう展開になる。こういうことも大勢で詩を読んでいるときの楽しみである。
 この詩では「共食い」という詩の「内容/意味」が衝撃的。
 どうして、こういう作品を書いたのか。

<田  島>人類は四度目の絶滅に向かって動いている。
      人間は食べて生きている。人間は動物も植物も食べる。
      植物を食べることと、動物を食べることはとどう違うのか。
      また食べることで、人間と動物はどう違うのか。
      そんなことを考えた。

 そういう説明があったのだが、まあ、説明は説明。その「説明」の要素が、詩にも含まれているかもしれない。そのために、行分けで書かれているけれど「散文詩みたい」という感想があり、「説明の文章」という感想も聞かれたのだと思う。
 四連目は特にそういう印象が強いのかもしれない。
 私は、この四連目がとても好き。それまで食べるということが具体的な肉体の動きとして書かれている。たとえば「舌は味を感じられないし/歯はただ噛み切るだけ」という行が生々しい肉体の動きをあらわしている。「みじんこ」「魚」「海の生物」「動物」という具合に、実際に目で見ることができるものが書かれている。
 四連目では、そのことばが少し変化している。受講者のひとりが強烈と指摘した「ただ食べつづける飢えないために/病が蔓延しひととひとが憎みあうことなど/とっくに遺伝子に組み込まれているのだとしたら」という部分には「憎み合う」という感じ言うの動きがあり、「遺伝子」という目に見えないものも登場している。ここでは「肉体」も動いているが、同時に「思考」も動いている。「精神」あるいは「頭」が動いていると言ってもいい。「肉体」を踏まえた上で、「肉体」という存在に一種の「統一」をあたえるための考えが動いていて、その考えが「深化」していく感じがする。
 「肉体」を「食べる」という動詞にしばりつけて統一している感じ。その統一へ向けた動きを「深める」、動きが「深まる」「深化する」という感じ。
 「ドキュメンタリーのナレーション」という指摘があったが、そこで描かれているものを、「映像/目に見えるもの」だけに終わらせるのではなく、「目に見えるもの」を貫く何かを「説明」しようとする意思、思いの強さのようなものがある。「舞台で読むとおもしろい」という感想も、その延長線上にあると思う。そこに「肉体」が動いている。「肉体」の動きだけで衝撃的ではあるのだけれど、それを「ことば」でとらえなおす。「ことば」で統一しなおす感じがある。
 「ことばで統一しなおす」は、世界を「ことばで作りなおす/組み立てなおす」こと。その「組み立てなおす」という動きが「詩」なのだと思う。「ことばで組み立てなおされた世界」が「詩」。
 四連目では、それまで書いてきたことを、さらに見つめなおしている。言い直している。反芻しなおしている。見つめなおすことで、さらに進んでいる。そのときの反芻/反復から先へ進むときの「距離」が、たぶん「スケールが大きい」という感想になる。「歴史的/時間的」ということを感じさせる。「いま」を書いているのに「いま」だけではない広がりがあるということだと思う。

 ここで、私は質問をしてみた。私は、どんな詩人でも(作家でも)、ある大事なことは何度でも言い直すものだと感じている。一度では言い足りない。何かを言い漏らしている感じがする。それを探しながら、なお、言い直す。そういうことが作品のなかに反映していると感じる。
 田島は「動物を食べる人間と、動物を食べる動物、おなじように生きるために食べている。その人間と動物はどう違うのか。また植物とはどう違うのか」と考えたという。その考えに通じる一行が二連目の最後の行、

ひとはひとではなくなっていく

 という、この一行だけでは「わかりにくい」表現になっていると思う。
 これを田島は言い直してはいないか。どの行に、「言い直し」を感じるか、それについて質問してみた。

<質  問>「ひとはひとではなくなっていく」を別のことばでいうと、どうなる?
      言い直していることばは、どれ?
<受講者1>二連目「目も見えず口もきけず」の一行。
<受講者2>「ハムスターのように弱い兄弟たちを食べてしまうかもしれない」
      ここに「共食い(兄弟で食い合う)」が書かれている。
      「共食い」をするとき、「ひとはひとでなくなる」。
      「ひとがひとを殺すとはそんなことではないかと」にも感じる。
      「ひとを殺す」とひとはひとでなくなる。
<受講者3>「手にできるものならなんでも手当たりしだい食べるかもしれなくて」
      「手当たりしだい」がひとではない。
<受講者4>「手にしたものを片端から食べる」かな。

 私は、三連目の、

舌は味を感じられないし
歯はただ噛み切るだけ

 ここに、「ひとではない」ものを感じた。
 「味覚」がない。「味覚」というのは「文化」である。「味を感じない」は「味の文化を感じない」ということでもある。ただ、噛む、咀嚼があるだけだ。「ひと」を「肉体」そのものにまで還元して、とらえている。「文化」の否定。「食べる」という「行為」から「味わう」という部分を除外してしまっている。
 それは「手当たりしだい食べる」ということと同じだけれど「味」を否定している部分に、「ひとではない」というものを感じた。
 「ひとではない」なら、何か。

鼠のように野良猫や野良犬のように

 という行で言い直していると私は思った。ただ「食べる」という肉体の本能で動いているとき、ひとは鼠や野良猫や野良犬と同じ存在になっている。「ひとでなくなっている」。

 そういうことを言いながら、私は、また逆のことも言った。
 「味覚の発達」について、あるところで読んだおもしろい見方を紹介した。ふつう、「味の判別」が鋭いひとを味覚が発達しているという。どこそこの料理はうまい、云々。しかし、それは味覚が衰えているのではないか。どれがうまいなど気にせず、手当たり次第ただ食いまくる中学生くらいのときがいちばん味覚が発達している。どんな味でも「おいしい」と思える味覚の方が健康だ、という意見である。
 私は、この意見を、なるほどなあ、と思う。
 「おいしい」と思えなくなったとき、たしかに「味覚」は衰えている。健康ではなくなっている。
 そうすると「味覚文化」などというのは、まあ、一種の「衰退の文化」ということになるのだが。

 四連目で「思考の深化」を書いているが、それは「文化」とは遠い「肉体」をきちんと書いているからこそ「思想の深化」として見えてくるのだと思う。既成の「文化」にたよらず、自分のことばを動かそうとしているから、そこに「思想」を感じる。「思想」の動きを感じる。
 そして、そういうことを考えると、三連目の最後、

生きて動いているものならなんでも食べてしまうかもしれなくて

 この行の終わり方が、とてもおもしろい。
 「かもしれない」で終わっても、「意味」はそんなにかわらないだろう。「かもしれない」でおわった方が中途半端な感じがしなくて、すっきりする。
 しかし、たぶん、すっきりできないのだ。
 「味覚文化」を否定した「肉体」を書いたときから、思考が動きはじめている。その動きが、そこでおわってしまうのではなく、つづいたまま、しかし、飛躍する。その微妙な変化がそのまま「かもしれなくて」という言いよどんだ感じに残っている。
 「かもしれなくて」と言いよどんで、そのまま沈んでいくのではなく、逆に、言い残したことを「ことば」そのもので動かしていく。「ことば」にしかできないこと、思考へと動いていく。その飛躍台が「かもしれなくて」という中途半端なことばのなかにある。
 四連目のことばの特徴は、先に書いた「目に見えないもの」が書かれているということと、「だろう」「だとしたら」「としたら」ということばに象徴されている。「推測/推論」のことばだ。
 「だろう」は「かもしれない」へと動き、さらに「ではないか」と疑問を経て、「違いない」へとたどりつく。思考が急激に動いている。ダイナミックに動いている。
 「論」というだけなら、二連目でも「論」が動いている。しかし、その「論」は既成の「進化論」。海でうまれた「いのち」が、やがて魚になり、陸にあがり動物になり、人間になるという「論」。四連目は田島が考えた「論」。それは科学的に認められてはいない。だから「かもしれない」という仮定からはじまり、推測/推定を重ね、断定へと動いていく。「ちがいない」とは言っても、「推論」である。
 「推論」だから、どこへでもゆける。そこにダイナミックの要素がある。
 推敲に推敲を重ねて書いた緊密/厳密な詩ではなく、勢いで書いた急激な変化のおもしろさが満ちている。精神が動いているということを感じさせる詩である。

 田島から最後の一行は、最後の最後になって入れた、という「告白」があった。この一行を書くか、書かないか。意見は分かれた。書かないと不安定だし、書いてしまうと余分な感じがする。
 むずかしい。
 最後の一行ではなく、最後の連そのものも。
 田島は「ひとは食べない」かもしれないが、「ひとを喰っている」と書いておこう。
 そんな告白、質問はするものではない。


詩集 遠いサバンナ
田島 安江
書肆侃侃房
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関根由美子『水の記憶』

2016-01-14 08:53:45 | 詩集
関根由美子『水の記憶』(詩的現代叢書15)(書肆山住、2016年01月10日発行)

 関根由美子『水の記憶』。「千代子のこと」がともいい。

ちよ ちよ ちよ と呼んでいる
あの鳥は
千代子の母かもしれない
どんな鳥なのだろう
--ちよこのこと たのむね
  ゆみちゃん--
千代子の母が死の床で言ったことばをおもいだす

ちよ ちよ ちよ と呼んでいる
冬の林にやってきて
姿をみせない小鳥
その啼き声が
わたしを呼ぶ

 「千代子」というのは誰か。たぶん幼友達だろう。とても親しい。それを知っているからこそ、「千代子の母」は関根に「ちよこのこと たのむね」と言ったのだろう。
 で。
 おもしろいのが、二連目の「その啼き声が/わたしを呼ぶ」。関根は「ゆみ」という名前であった「ちよ」ではない。鳥は「ちよ ちよ ちよ」と鳴いている。「ゆみ ゆみ ゆみ」ではない。それなのに「わたしを呼ぶ」。
 これは、どういうことだろう。
 「呼ぶ」は「名前を呼ぶ」という具合につかう動詞だが、「わたし」は「名前」を呼ばれているわけではない。
 一連目の「ちよ ちよ ちよ と呼んでいる」というときの「呼ぶ」はまさに「名前」。千代子の母が鳥になって千代子を呼んでいる。これは、ふつうの「呼ぶ」という動詞のつかい方。
 二連目に「ちよ ちよ ちよ と呼んでいる」が繰り返される。ここでも、それは「千代子」を「呼ぶ」。それなのに「わたし」を「呼ぶ」と感じる。「わたし」は「千代子」になったのか。
 そうではない。
 その声を聞きながら、関根は、「千代子の母」に「ちよこのこと たのむね」と言われたことを思い出した。過去を「思い出させる」、「過去のわたし」が「いま」に「呼び出される」。それを「呼ぶ」と言っているのである。
 「おもいだす」は一連目でもつかわれている「動詞」。これを二連目で「思い出させる」ではなく「呼ぶ」と言い換えていることになる。
 そのとき、何が起きているのか。
 「おもいだす」では、あくまで「わたし」が「わたしの過去/過去のわたし」を「思い出す」。そこには「わたし」しかいない。けれど「呼ぶ」という「動詞」をつかうと、そこに「わたし」以外の人間が入ってくる。
 この他人の働きかけが、「あ、忘れていた/思い出した」という印象を強くする。
 こういう「強さ」の印象が詩なのだと思う。「強さの印象」を「衝撃」と言い換えることができるだろう。

ちよ ちよ ちよ としきりに啼く
千代子のこと
半世紀もまえに頼まれたままになっている

 この「強さ」が「半世紀」ということばを引き出す。「半世紀」まえが「いま」となって動く。
 もしかすると、関根と千代子は、半世紀たったいま、音信がないかもしれない。関係が途絶えているかもしれない。けれど、その関係が鳥の鳴き声で、突然「呼び出された」。そして、気づく。ああ、何もしなかった。--そういう「さびしさ」が、とても静かな声で書かれている。

 「呼ぶ」はまた違う動詞で読み直すこともできる。「呼ぶ」は「声をかける」。「声をかける」には「励ます」もあれば「叱る」もある。一連目に書かれているように「頼む」もある。感情が高ぶれば「叫ぶ」にもなる。「叫ぶ」には「啼く/泣く」もまじってくる。「頼む」以外には、そうしたことは具体的には(明確に動詞としては)書かれていないが、いろいろな「声」が「呼ぶ」といっしょに動いている。声のあり方が詩の奥底を支え、詩に深みを生み出している。
 「動詞」もまた「比喩」なのだと思う。「比喩」というと「名詞の置き換え(言い直し)」のように考えがちだが(イメージの置き換えと考えがちだが)、動詞もまた名詞と同じようにさまざまに言い直すことができる。そこに書かれている動詞が、他の動詞を代弁していることがある。あるいはほんとうに言いたい動詞をあえて隠していることもある。そういう動詞を「肉体」でつかみとると、詩は一気に「身に迫ってくる」。
 他人の書いたことばなのに、自分の「肉体」の動きになって、「肉体」を揺さぶる。

 「芋虫」という作品は、芋虫がオリーブの葉っぱを食べているのを見たときのことを書いている。「雨が降ってきたので/わたしは芋虫に傘を差しだした/葉の端から/ていねいに右に左に喰っている」と、それこそ「ていねい」な描写があって、

胴体がうすい紫の色にそまると
黒い斑点は縞模様に映える
出かけることもわすれて
一匹の芋虫をみている

すると
わたしの
目も口も芋虫のようにうごいている

 最終連がいい。「みている」わたしが芋虫に「なっている」。「のように」は「なって」である。つまり

わたしの/目も口も芋虫の「目と口になって」ようにうごいている

 あるいは、

わたしは/芋虫「になって」目と口をうごかしている

 である。「わたし」が「対象」に「なる」。その入れ替わりが、とても自然だ。
 この「入れ替わり」から「千代子のこと」を読み返すと、関根はいま、小鳥になって千代子のことを「ちよ ちよ ちよ」と呼んでいるのかもしれない。わたしは「「ちよ ちよ ちよ」と千代子を呼ぶが、千代子はやってこない。近くにはいない。声を張り上げて叫んでも、その声は届かない。関根の肉体のなかだけで、こだまする。とりかえしのつかない「かなしさ」が、そこにある。

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
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yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。
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高柳誠『高柳誠詩集成 Ⅰ』(2)

2016-01-13 17:17:37 | 詩集
高柳誠『高柳誠詩集成 Ⅰ』(2)(書肆山田、2016年01月10日発行)

 きょうは『卵宇宙』の感想。きょうも「巻頭」の作品に触れる。感想は「第一印象」からはじまり、それを修正していくものだと私は考えている。どこへたどりつくかわからない。私はいつも「結論」というものを想定しないで書きはじめる。書けるところまで書いて、そこでおしまい。

 卵宇宙については、どういう説明が可能であろうか。卵宇宙を形
容することばを、わたしたちは本質的に持ちえない。ことばが無効
となる時間・空間に卵宇宙が存在するからだ。従って、卵宇宙につ
いて語るものは、ことばでは触れえぬものをことばによって表現す
ることの矛盾、もどかしさに耐え抜かなくてはならない。

 何が書いてある? 「論理」だけが動いている。「卵宇宙」については何も書かれていない。「説明(する)」「形容(する)」「語る」「表現(する)」ということばが出てくる。この「動詞」(名詞も、動詞派生の名詞と考えることができるので、動詞として扱う)の「主語(主役)」は「ことば」である。「ことばで説明する」「ことばで形容する」「ことばで語る」「ことばで表現する」と書くと「ことば」は「手段」だが、これはすべて「ことばが説明する」「ことばが形容する」「ことばが語る」「ことばが表現する」と言い換えることができる。ここでは「主語」はかわらず、「動詞」だけが変化していく。
 この「主語としてのことば」と「動詞」の関係を、逆に考えてみる。「動詞」を「名詞」に言い換えてみる。「説明」「形容」「語り」「表現」。そのとき、「動詞」はどうなるだろう。
 「説明」は、「説明が可能であろうか」という形でつかわれている。「説明は可能である/可能ではない(不可能である)」という二つの「動詞(厳密には、動詞とは言わないだろうが)」で動かすことができる。これは「形容」「語り」「表現」のすべてにあてはまる。「形容は可能である/可能ではない」「語りは可能である/可能ではない」「表現は可能である/可能ではない」。
 この「可能である/可能ではない」という「動詞」は、相反する動きである。詩のなかにつかわれていることばで言えば「矛盾」する動詞である。
 高柳は、この「矛盾」というあり方を、意識的につくりだしている。そして、その矛盾するものは「対等」である。対等の存在にしている。どちらかを優先(特定)しない。特定/断定しないことで、断定するという行為を無意味にしている。この無意味さの中に「詩」があるのだが、きょうはそこまでは書かない。もう少し、「矛盾」について書く。
 ふつう、ひとは「矛盾」すのものに出合ったとき、どちらか一方を選び取る。二者択一を迫られたら、どちらかを選び取る。しかし、高柳は一方を選び取らない。共存させる。何によって共存させるかというと、「ことば」によってである。「ことば」はあらゆることについて「可能である」ということができると同時に、「可能ではない」と言うことができる。人間に(肉体)には実際には不可能なことでも、ことばでなら「可能である」と書くことができる。ひと(ひとの肉体)は道具(機械)をつかわずに空を飛ぶことはできない。これは「事実」である。しかし、ことばでなら、「ひとの肉体は空を飛ぶことができる」と書いてしまえる。「ひとの肉体は空を飛ぶことができる」は「嘘/虚偽」だが、「ことば」は虚偽を書くことができる。虚偽を存在させることができる。ことばは、書かれた瞬間、そこに「存在」してしまう。
 それは「卵宇宙」に似ている。
 「卵宇宙」は「ことば」を言い換えたものである。

 ことばについては、どういう説明が可能であろうか。ことばを形
容することばを、わたしたちは本質的に持ちえない。ことばが無効
となる時間・空間にことばが存在するからだ。従って、ことばにつ
いて語るものは、ことばでは触れえぬものをことばによって表現す
ることの矛盾、もどかしさに耐え抜かなくてはならない。

 と、書き直してみる(読み直してみる)と、「対象としてのことば」と「手段としてのことば」がごちゃ混ぜになり、融合して、区別するのがわずらわしくなる。
 二段落目。

 わたしたちが一生をかけて何万語を費したとしても、卵宇宙につ
いては究極的にひとことも言ったことにはならない。最も有効なこ
とばでさえも、その本質には触れえないことを証明するためにのみ、
わたしたちはことばを使う。

 これは、同じように、

 わたしたちが一生をかけて何万語を費したとしても、ことばにつ
いては究極的にひとことも言ったことにはならない。最も有効なこ
とばでさえも、その本質には触れえないことを証明するためにのみ、
わたしたちはことばを使う。

 と書き直すこと(読み直すこと)ができる。そして、この段落の最後の一文に「できる/可能である」という「動詞」を補うと、高柳の世界がわかる。

わたしたちはことばを使うことができる。

 その前のことば(文)とつづけると、「その本質には触れえないことを証明するためにのみ、わたしたちはことばを使うことができる」だが、これは「その本質には触れえることを証明するためにのみ、わたしたちはことばを使うことができる」でもあるし、また「その本質には触れえない(触れえること)ことの証明を否定するためにのみ、わたしたちはことばを使うことができる」でもありうる。
 どんな形(内容)でも、ことばは「論理」になりうる。「論理」にしうる。「論理」を偽装することができる。「論理」というのは「現実/科学の世界」では「実践/実証」によって裏付けられてこそ「論理」になるのだが、「文学(詩)」は科学ではないから「実践/実証」は必要がない。「文学」では、「実践/実証」は「肉体」がすることではなく、「想像力」がすることだからである。そして、「想像」というのは夢と同じように「ことば」によって存在し、動くものだから、ことばは書いた瞬間から、存在が「証明されてしまう」。そのとき「証明されていない」という「論理」さえ、同時に存在し、証明することができる。
 だから、と言っていいのかどうかわからないが、三段落目、

 逆に言えば、ことばで形容できる時間・空間を極限まで拡大して
ゆき、なお残る時空こそが卵宇宙なのだ。かくして、言語を越えた
地平に卵宇宙が出現することを証明するために、わたしたちは言語
を使用する。

 と、「逆に言えば」という、それまでとは別の「論理」(矛盾した論理)を促すことばで、世界をもう一度はじめなおすことができる途中に出てくる「拡大」は「縮小」と言い直すことで、もう一度「逆に言えば」を繰り返すこともできる。末尾は二段落の末尾と同じく「わたしたちは言語を使用することができる」である。ことばには、どんな「論理」も展開することが「できる」。
 このことばの運動は「止めることができない」。『アリスランド』に「水は自らの循環を止めることはできない」ということばがあったが、「論理」は「循環」を止めることができない。「可能である」といったあと、即座に「可能ではない」ということも「論理」として提出できる。想像力にとって、「可能である/可能ではない」という「判断基準」は存在しない。(存在しないが、存在するとも書くことはできる。)

 ああ、めんどうくさい。どっちなんだ!

 そう叫びたいひとのために、次の段落がある。「4」の第一段落。

 卵宇宙は、卵の中に存在する宇宙だと言っても、宇宙に発生しう
る卵だと言うにしても、メビウスの輪に表と裏がないように(表が
いつのまにか裏になり、裏が知らぬまに表になってしまうように)、
空間論的には結局同じことの二つの表現にすぎない。つまり卵宇宙
は、内部と外部が交換可能な世界なのだ。

 「循環」は「交換」と言い直されている。
 で、ここで、もうひとつおもしろいのは、その直前にある「空間論的に」の「論」である。「論」は「論理」の「論」。「論理」はいつでも循環し、ことばはいつでも「交換」可能である。高柳は、この「循環/交換」を暴走させることで、詩を生み出している。そしてさらにつけくわえるなら、この「循環/交換」を可能にするのは、「二つの表現」の「二つ」であり、その「二つ」が「矛盾するがゆえに二つ」でありながら、「同じこと」と呼ばれている点に目を止めなければならない。なぜ「矛盾するがゆえに二つ」なのに「同じこと」、「矛盾」なのに「同じこと」なのか。そこに存在しているのは、「同じことば/ことばという同じもの」だからである。
 高柳は対象(卵宇宙)について書いているのではなく、ことばを書くという行為について書いている。書くことを「詩」にしている。




樹的世界
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高柳誠『高柳誠詩集成 Ⅰ』

2016-01-12 11:59:16 | 詩集
高柳誠『高柳誠詩集成 Ⅰ』(書肆山田、2016年01月10日発行)

 高柳誠『高柳誠詩集成 Ⅰ』には『アリスランド』から『塔』までの詩集が収録されている。きょうは未読の『アリスランド』の感想。
 「1 存在原理」の書き出しに、高柳の「本質(思想/肉体)」が明確に描かれている。

 アリスランドは、アイスランドやアイルランドといった地名から
人々が類推するように島国である。しかし、四方を海に囲まれた島
国を想像してはいけない。勿論、暗黒の宇宙にポッカリと浮く島を、
あるいは、地底の闇を漂う島を想像するならば、その想像はいくぶ
ん正しいと言わなければならないが。

 「想像/想像する」ということばが三回繰り返されている。高柳は、読者に「想像する」ことを求めている。つまり、ここに書かれていることは、わざわざ書く必要がないかもしれないが、「現実」ではない、ということである。
 「島(アリスランド)」は「現実」ではない。「実在」はしない。
 では、ここに「現実」はないのか。
 いや、あるのだ。ひとは「想像」だけを書きつづけることはできない。
 高柳は、実は「現実」を書いている。「ことば」の現実、「ことばの肉体」を書いている。「アリスランド」は「ことばの肉体」を表現するための方便である。

 「想像する」という「ことば」。「想像する」ときの「ことばの肉体」の動き方が「現実」である。ひとは「ことばの肉体」を無視して、でたらめに「想像する」わけではない。「想像する」ためには、必要な手順がある。

 アリスランドは、アイスランドやアイルランドといった地名から
人々が類推するように島国である。

 ここでは「想像する」ではなく「類推する」という動詞がつかわれている。アイスランド、アイルランドは「実在する」。実在するものを手がかりにして、さらにそのふたつのものが「ランド(島)」ということばをもっていることを手がかりにして、知らないものを「想像する」。「ランド(島)」が共通するから「島だろう」と想像する。これを「類推する」と言う。
 この「類推」は正しい。「アリスランド」は「島国である」と、高柳は「類推」を肯定する。この「肯定」が、高柳の「ことばの肉体」が利用する「罠」である。「肯定する」ことによって、「アリスランド」が存在してしまう。
 「島」を肯定しておいて、

                しかし、四方を海に囲まれた島
国を想像してはいけない。

 「想像してはいけない」と、「類推」につながる「想像」を否定する。いったん、そういう具合に否定しておいて、

            勿論、暗黒の宇宙にポッカリと浮く島を、
あるいは、地底の闇を漂う島を想像するならば、その想像はいくぶ
ん正しいと言わなければならないが。

 今度は「正しい」ということばで、もう一度肯定する。
 肯定→否定→肯定と、「ことばの肉体」を「島(もの/存在)」とは違った方向で明確にする。「対象(もの)」と「ことば(名前)」を結びつけるという「ことばの運動」とは違った方向へ、ことばを動かしていく。
 「ことば=名前」ではない。
 「肯定→否定→肯定」があらわしているのは何か。「論理」である。「論理の運動」である。高柳は「論理の運動」としての「ことばの肉体」を描いている。
 「暗黒の宇宙にポッカリと浮く島」「地底の闇を漂う島」というイメージではなく、注目しなければならないのは、

しかし、

あるいは、

 そっと差し挟まれた、このことばである。「しかし」は逆説を導く。「あるいは」は並列を導く。「しかし」「あるいは」ということばによって、「論理の肉体」はスムーズに動く。この「論理の肉体」こそが、高柳の「ことばの肉体」である。「思想」である。
 高柳はいつでも「論理」を書いている。
 「論理の肉体」は「数学の肉体」と同じように美しい。あるいは「音楽の肉体」と同じように美しい。整合性が予兆されていて、実際、整合性をもつことによって完成する。

 いずれにしろ、アリスランドは、飛行している。あるいは航海し
ている、より正確には想像宇宙に浮游していることは疑えない事実
である。つまりは、浮游していることが、アリスランドの第一の存
在原理なのだ。
 しかも、激しい勢いで回転している独楽が一瞬静止して見えるこ
とがあるように、アリスランドが浮游しているのも、見せかけの浮
游にすぎない。見せかけの浮游--これが存在原理の第二である。

 「想像宇宙」というめずらしいことばが印象的だ。「浮游」ということばも何度も出てくるので印象に残る。しかし、そういう「名詞」にとらわれては、高柳の「ことばの肉体」の本質が見えにくくなる。
 繰り返される「浮游」は一段落目の「ポッカリ浮く」「漂う」を言い直したもので、その「固定化されない状況」というのが、高柳の「ことばの肉体/論理の肉体」のめざしている運動である。
 「アリスランド」という「名詞」を説明するとき「島」「宇宙」「航海」「独楽」などが「比喩」としてつかわれているが、注目しなければならないのは、そういう「比喩」ではない。さまざまな「名詞」を「比喩」として持ち出してくるときに、つねにそこに「論理の肉体」が動いていることである。
 「いずれにしろ」「あるいは」「つまり」「しかも」ということば、さちには「より正確には」「疑えない事実」「……であるように」という具合である。(一段落目には「勿論」という強調のことばもあった。)
 「論理」というのは「散文」のものであって、「詩」とは相いれないもの、「ポエジー」を殺すものという印象があるかもしれないが、高柳は逆に考えている。「論理」は「ポエジー」のように「固定化」していない。「論理」は「暴走」することができる。その「暴走」のなかに、「運動することば」の「ことばの肉体」の美しさがあると、考えている。
 ひとつひとつその「暴走」を指摘していくと、全部の作品に触れないといけないので、思いっきり端折って書くと、「論理の暴走」を支えものには、「偽(書)」(3 建国/書物)「捏造」(15 女王アリスの(捏造された)独白」というものがある。嘘、虚構が「論理の暴走」を支える。「嘘/捏造/虚構」とは「想像されたもの」でもある。そしてそれは、最初に指摘した「肯定→否定→肯定」のように「循環」する。この「循環」ということばは「4 海・川・湖」に出てくる。

水は自ら循環を止めることはできない。

 この「水」という「比喩」を「論理」と言い直してみるとき、高柳の詩がそのまま見えてくる。



 補足。
 一段落目について、書き急ぎすぎて、漏らしてしまったことがある。
 「暗黒の宇宙にポッカリと浮く島」「地底の闇を漂う島」。ここに「島」ということばがつかわれているが、それはもちろん「島」ではない。そういうものを「島」とは、私たちは言わない。しかし、高柳は「類推」の部分で「島」という「存在」を肯定している。肯定することで「島」は「比喩」ではなく、「共有された概念/ある存在を指し示すための特別のことば」になってしまっている。そして、それを引き継いでつかっている。こういう「概念」のつかい方も、実は、「ことばの肉体」の「暴力」のひとつである。「さっき、島であると認めたじゃないか」(肯定しているだろう)というわけである。
 「しかし」「あるいは」というような「論理を導入/推進することば」以外にも、「論理として成立した概念」を強引に(強引を感じさせずに)動かすというのも「ことばの肉体」の特徴である。
星間の採譜術
高柳 誠
書肆山田
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今福龍太「違い」

2016-01-11 12:54:35 | 詩(雑誌・同人誌)
今福龍太「違い」(「ミて」133 、2015年12月31日発行)

 今福龍太「違い」はリズムが美しい。そして、強い。

どんな違いがあるの?
フラメンコとフラマン語に?
SではじまるサンバとZではじまるサンバに?
短歌とカンテ・ホンドに?
大きな違いはない
どれもみな川のように海に向かって流れ下り
わたしたちの心の平野を潤してくれる

 二行目から四行目にかけて名詞が対比される。ここに出てくる名詞は実際に存在する名詞である。それを受けて六、七行の名詞は少し違う。川、海、平野。どれも「平凡」なものなので、すぐ自分の知っている川、海、平野を思い出すが、それは実際の川、海、平野ではない。平野には「心の」という修飾語がついている。それは、つまり、「比喩」なのだ。そして、「心の平野」が「比喩」であるということは、川、海もまた「比喩」であり、それは「心の川」「心の海」ということになる。
 「比喩」というのは「わかりやすい」ようで「わかりにくい」。川、海、平野というものをだれもが知っている。だから、ここに書いてあることが「わかった」という気持ちになりやすい。でも、自分の知っている川、海、平野を頼りに風景を思い浮かべるとき、それが今福の思い描いた風景と重なるかどうかはわからない。私は、子ども時代過ごした北陸の小さな川、日本海、平野と呼ぶには狭すぎる田んぼの広がる土地を思い浮かべてしまうが、今福が書いているのは、その川、その海、その平野でないのは明らかだ。だから、私は今福の書いていることばを「わかった」と言ってはいけない。「名詞」を基準にして言えば、むしろ、「間違えた」と言うべきである。
 「間違えている」ことはたしかなのだが、それでも「わかった」という気持ちになる。なぜなのか。それは「名詞」ではなく「動詞」がそこで動いているからだ。「流れる(流れ下る)」「潤す」という動詞を「水」の働きとしてつかみとることができる。川が何川であり、海が何海であり、平野が何平野であろうが、川ならば海に向かって流れる。(ここに「下る」という動詞がつけくわえられているのは、その平野の近くには山があるからだろうか。)流れながら、平野に(畑や田んぼに)水を供給する。大地を潤す。そこには大地を耕して生きているひとがいる。そういう働きが「わかる」からだ。「名詞」は具体的には何を指すのか「わからない」。しかし、それについて動いている「動詞」が「肉体」に響いてきて、そこに書いてあることが「わかる」。
 そして、その「わかる」のなかには、「平野を潤す」ということばにつけくわえる形で書いたが、「人間の動き」(動詞)が重なる。平野は単に潤されるだけではない。その「潤い」をつかってひとは平野を暮らしの場にする。平野を耕し、生きる。平野で遊ぶということもあるが、それも生きることである。「心の平野」は、実は「暮らしの平野」であり、「人間が生きている平野」でもある。
 ここから、書き出しの「名詞」の対比に引き返すと、そのとき問われていることがよく「わかる」。「どんな違いがある?」という書き出しの一行が問うているものがよくわかる。
 フラメンコを踊る/歌うひとが生きている。フラマン語を話すひとが生きている。そのひとたちの「生きている」ということに、どんな違いがある?
 Sではじまるサンバを歌い/踊るひとは生きている。Zではじまるサンバを歌い/踊るひとも生きている。「生きて/歌い/踊る」ということに、どんな違いがある?
 短歌(日本の伝統文学)に思いを託すひとが生きている。カンテ・ホンド(スペイン語圏の歌?)に思いを託し生きているひとがいる。ことばに思いを託し、それを歌にして表現し、生きることに、どんな違いがある?
 「名詞」は違っても「動詞」のなかで動くものは、同じだ。そっくりそのままではないが、「肉体」をとおしてできることは、おのずと似てくる。だから、「名詞」がわからなくても、そこでおこなわれている「動詞」を繰り返せば、人間のやっていることは「わかる」。
 フラメンコを見る/聞く。そこに動いている「肉体」を見る。見ながら、実際に動かないまでも、自分の肉体を無意識に動かして、そこで動いている肉体を追いかける。そうすると悲しんでいる、憎んでいる、喜んでいるという感情が「肉体」のなかでうまれてくる。そして、その「ことば」が「わからない」にもかかわらず、何かが「わかった」気持ちになる。この「わかった」は「誤解/誤読」を含む。「誤解/誤読」を含んでいるが、そんなことは問題ではない。「共感」が「誤解/誤読」を溶かしてしまう。(あ、これは、今福が「短歌とカンテ・ホンドに」「大きな違いはない」と書いていることが「誤解/誤読」を含んでいるという意味ではない。「誤解/誤読」があったとしても、それは問題にならない。もっと大きな「生きる」ということからことばを動かしている。)
 この「共感」から出発して、今福はことばをさらに展開する。

どんな違いがあるの?
瞬間と永遠に?
届けられた手紙と送られなかった手紙に?
闘いと平和に?
本質的には違いはない
どれもみな愛の理由になる
どれもみな戦争の原因になる

 この連は、わかりにくいかもしれない。「どれもみな愛の理由になる/どれもみな戦争の原因になる」の二行の「愛/戦争」は入れ替え可能である。可能というよりも、むしろ積極的に言えかえて読まなければならないのだが、そうすると「愛」と「戦争」が同じものになってしまう。
 矛盾してしまう。
 「生きている」から愛する。「生きている」から戦争をしてしまう、とは簡単に言いきれない。
 だから、むずかしいのだが、「生きている」現場、生と死がからみあう現場から見つめなおすと違ったものが見えてくる。

あの日きみに長崎の瓦礫の中から見つかった時計の写真を送った
核爆発の瞬間に止まってしまった時計
焼け焦げた針は11時02分を指していた
そしていま、きみはぼくに別の時計のイメージを送ってくれる
長針は3時少し前で止まっている
ヘントの町から絶滅収容所までの長く一瞬の道のり
時計は止まり、歴史は麻痺するけれど
物語の衝動はそこからはじまって
知られざる出来事を語りはじめる
それはたくさんの小さなお話でできた果てしない海
そこでは生者と死者の違いはない
現実世界と虚構の違いもない

 ここに、今福の「共感」が書かれている。「わかりやすい」とは言わないが、その「共感」をつかみとるための手がかりが書かれている。
 一連目の詩を真似て書いてみると。

どんな違いがあるの?
長崎原爆で止まった時計と、きみの3時少し前で止まった時計に?

 違いはない。二つの時計は、同じように、その時計とともに「生きている」ひとの暮らし、暮らしがあったこと、ひとが生きていたことを語っている。「生きている」のに、突然、止まってしまった。突然、時間を奪われてしまった。
 「生きている」という「動詞」のなかには「たくさんの小さなお話」がつまっている。つまり、ふつうの市民のこまごまとした暮らしがつまっている。それは、「小さなお話」なので、「歴史」としては書かれないかもしれないが、たしかに存在する。それが、突然、奪われてしまった。
 「奪われてしまった」と書けるのは、それを書く人が生きているからである。
 ここに、かなしみが、ある。
 
そこでは生者と死者の違いはない

 「生者」と「死者」は、もちろん反対のことば。「違い」は「名詞」でとらえるかぎりはっきりしている。「名詞」を取り出して「違いはない」と書いてしまうと「矛盾/間違い」になる。
 しかし、時計が止まるまで、だれもが「生きている」(生きていた)。その「動詞」が共通する。その「生きている」のなかには「愛する」がある。「憎む(闘う)」がある。あらゆる「動詞」が「生きる」というひとつの「動詞」のなかで共存する。死者になってさえも、その「生きた」という「動詞」は存在しつづける。
 生者と死者を分ける(違ったものにする)のは、「生きているひと」の意思ではない。「小さなお話」の主人公ではない。他のものが強引に、生者と死者を生み出すのだ。その思いに至ったとき、かなしみは変化する。生者と死者の区別を生み出したものへの「怒り」にかわる。
 この「怒り」に「長崎」と「絶滅収容所」の「違い」はない。「怒り」は共有のものになる。「怒り」は「共感」へとかわる。
 この詩は、「どんな違いがあるの?」という疑問の形からはじまり、「生きる」ということに違いはないという「共感」を引き出し、そこからさらに生者と死者を生み出してしまう「現実」への怒りの共有へと変化していく。怒りの連帯へと動いていく。私の引用では、その変化のダイナミックな感じは伝えきれない。その動きの奥に「生きる」という動詞が書かれない形で存在しているということを指摘するのがせいいっぱいである。原文をぜひ、読んでください。

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

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スティーブン・スピルバーグ監督「ブリッジ・オブ・スパイ」(★★★★★)

2016-01-10 20:28:14 | 映画
監督 スティーブン・スピルバーグ 脚本 ジョエル&イーサン・コーエン 出演 トム・ハンクス、マーク・ライランス

 コーエン兄弟の脚本がとてもスムーズ。三つの場所(言い換えると三つの時間)が交錯し、最後に一つになるのだけれど、最初から「同時進行」的な感じ。別々なことがらが最初から緊密に関係している印象が強い。実際、そこで起きていることは「同じこと」なのである。
 で、その「同じこと」に、日本のいまも重なる。前半。トム・ハンクスがマーク・ライランス(うまい!)の弁護を引き受ける。そのときの「市民」の反応が、いまの日本を連想させる。「論理」にしたがうのではなく、「感情」(不安)が動いている。ソ連はアメリカの敵、弁護するなんて許せない。ソ連はアメリカを攻撃してくるかもしれないのに……。
 これに対して、トム・ハンクスの演じる弁護士は「憲法」をよりどころにして自説を譲らない。権力の暴走に抵抗する。安倍が憲法を「解釈」でかってに変更するのと大違い。憲法こそがアメリカのよりどころ、アメリカ人である証拠。自分が立つ場。「理念」こそ、人間のよりどころ、というわけである。
 「理念」というものは、もちろん現実のなかで動かせないと、意味がない。トム・ハンクスは、相手と交渉するときに、「その理念を動かしつづけるときに、現実はどうかわるのか」と問う。
 これが、なかなかおもしろい。
 特に、マーク・ライランスに対して「死刑」を宣告しそうになる判事への説得がいいなあ。「もしもアメリカのスパイがソ連につかまったとき、その釈放を求めるときの交換条件としてつかえるのではないか。死刑にしてしまったら、そういう切り札を失うことになる」。ひとを自分の感情の対象とするのではなく、ひとをどのようにつかうことができるかを考える。
 で、ここから、トム・ハンクスの弁護士の「思想」がくっきりと浮き彫りにされはじめる。
 ひとと交渉するとき、ひとは何のためにそうしているか。言い換えると、そのひとの本意で動いているか、誰かにつかわれているかを見る。つかわれているのだとしたら、そのつかい方(つかわれ方)に対して直接反応するのではなく、別の「つかわれ方(つかい方)/動き方」を提案する。人間の「理念」とそのひとを結びつけながら、「理念」の方へぐいと押しやる。
 ドイツとの交渉の部分が象徴的だ。交渉相手が外出してしまう。それを告げに来た若い秘書(?)をつかまえて、伝言を頼む。若者はまだ「外交術」に染まっていない。「理念」が色濃く残っている。その「やわらかいこころ」に切々と訴えかける。「この交渉だけではなく、それが将来的に何を引き起こすか、理念をもって判断して行動してほしい」と伝えてほしいと言う。(あ、もっと、具体的なんだけれど、台詞が思い出せないので、要約した。)
 ことばのアクションというのか、「理念」のアクションというのか、よくわからないが、コーエン兄弟の、切り詰めた、この「ことば(台詞)」の動きが、とてもいい。アクロバティックな肉体のアクション、CGのアクションではあらわすことのできない「緊張」を生み出している。
 このことばのアクションを際立たせるように、トム・ハンクスも「肉体」をぐいと抑えて演技している。マーク・ライランスは、トム・ハンクス以上に、その抑制が効いていて、見とれてしまう。
 マーク・ライランスは、トム・ハンクスに何度か「不安じゃないのか」と聞かれる。それに対してマーク・ライランスは「不安が何かの役に立つのか」と聞き返すのだが、これが彼の生きてきた厳しい状況を強く浮かび上がらせる。「不安」に向き合って、感情を動かしている余裕などない。彼の「行動理念」のなかに「不安」という感情が入り込む余地はないのである。
 うーん。
 ジェームズ・ボンドやジェーソン・ボーンのように派手に動かない。まるで気弱な市民。絵が好きな老人。その静かさのなかに、強い「理念」が生きている。
 これに比べると(比べられると損だなあ)、トム・ハンクスはまるでヘンリー・フォンダ。アメリカの良心。それはそれでいいけれど、あ、マーク・ライランスの引き立て役になっている、と思ってしまう。主役なのに。とてもうまいのに……。
 カメラもいいなあ。「時代」を感じさせる。(この時代のアメリカやドイツを実際に見たことはないのだが。)色が落ち着いている。アクションの切り取り方(地下鉄の追跡シーン)も人間臭い。カメラが演技しすぎない。ひとをちゃんと動かし、それを撮っているのも、なんとなくなつかしい感じで、落ち着きがある。
 スピルバーグというと、どうしても「アクション映画」というか、「映像のアクション」(肉体を刺戟してくる映像)を思ってしまうが、今回は「ことばのアクション」「理念のアクション」に焦点をしぼって、わーっ、美しいと叫んでしまうような「映像」を封印しているのも印象的だ。
 (「ことばのアクション」という点では、「リンカーン」も「ことばのアクション」の映画だったが、ダニエル・デイ・ルイスは「ことば」に語らせるというよりも、「声」でアクションをしていた。その点が、今回の映画とは違うね。)

                   (天神東宝スクリーン4、2016年01月10日)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
リンカーン [Blu-ray]
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筏丸けいこ『モリネズミ』

2016-01-09 10:11:41 | 詩集
筏丸けいこ『モリネズミ』(フラミンゴ社、2016年01月15日発行)

 筏丸けいこ『モリネズミ』のなかから一篇を取り上げるなら、「いしだたみ」。

のぼってみた坂のうえは 平面で
私は あたらしい 坂となった

 この二行がとても印象的だ。「私は あたらしい 坂となった」の「あたらしい」は何を言おうとしているのか。坂ではない「平面」が「肉体」のなかでのぼってきた「坂」を甦らせ、それを「あたらしい」と感じているのか。「肉体」のなかに坂という「あたらしい」記憶(感覚)をつくり出しているのか。あるいは、まだのぼりたりなくて、そこには存在しない「あたらしい」坂を「肉体」が欲しているのか。「あたらしい」坂をつくりだし、その坂をのぼるという「肉体」になっているのか。どちらの場合も、「なった」は「つくった」ということになる。
 私は直感的に「なる」を「つくる」と読んでいた。しかし、この「つくる」は私が勝手に考えたことであって、筏丸は「つくる」とは言わずに、別のことばで「なる」を言い直している。

意気揚揚と全身が燃え上がる
望郷のはじまりは
地図の波線を つくろうということもなく
「東京ドドンパ娘」を歌いたかった 私だ
坂という生理感覚と
果てにあるものと
寝そべって 熱湯をそそぐ 現在なのか

 「つくろう」。これは「造ろう/創ろう」ではなく「繕う」だろう。
 「望郷」や「東京ドドンパ娘(古い歌)」といことばが、そういうことを思い起こさせる。「肉体」のなかにのこっている古いもの、おぼえているもの(生理感覚)を甦らせて、そのおぼえていることの奥にある「統一感」へ向けて全体を「繕う」。つまり、「ととのえる」。そうすると、その「全体」の感じと「坂」がどこかで似かよってくる。「望郷(過去をさそうもの)」の象徴として、「肉体」がおぼえてる「坂」が甦ってくる。いまのぼってきた坂ではなく、過去に坂を上ったときの感じが「あたらしい坂」になってよみがえってくる。そこに「あたらしく」坂を「つくる/生み出す」。
 「私は あたらしい 坂となった」は

私は あたらしい生理感覚の 坂となった

あるいは

私は あたらしい 坂という生理感覚となった

 「坂」と「生理感覚」、さらに「なる」と「つくろう/つくる」は入れ替え可能なものだと思う。
 そして、その「生理感覚」を言い直したものが、「寝そべって」という肉体の動かし方につながる。坂を上る。つかれる。「肉体」がなんとなく「だらしない」感じを求める。それが「寝そべる」という動詞のなかで動いているように感じられる。
 あるいは、「寝そべっている生理感覚」は「坂を上る」ときのように、「肉体」の一種の「停滞感覚」なのかもしれない。「坂を上る」というのは、筏丸にとっては、「熱湯をそそ」いだあとラーメンができあがるまで待っているような感じ、「肉体」になじんでしまっている感覚なのかなあ。
 この「古い感覚/なじみきった感覚」を筏丸は「あたらしい」と呼んでいる。ここが、この詩のいちばんおもしろいところだと思う。
 「生理感覚」には「古い/あたらしい」の区別はないのだ。いつでも、その生理感覚が動いたときが「いま」。言い換えると、「東京ドドンパ娘」を実際に聞き、歌ったのは「過去」だが、それを思い出すとき、その「過去」は「いま」のなかにある。「いま」としてしか動かない。「あたらしく」生まれてきて、「あたらしく」動いている。あたらしく「なっている/なった」ということ。
 このあたらしく「なった」と「坂になった」の「なった」が重なる。

 そのあと、二連目は「寝そべる生理感覚」を言い直しているのだろうか。
 ラーメンができあがるまで待っている感覚/食べる感覚から、食べ物の「連想」が暴走するのか。

たっぷりのおかかをかけて醤油を一滴
沖縄のラッキョウは炒めて食べる
浅漬けのように塩でもんで
そういうふうにも食べる

 この部分は、筏丸の特徴をあらわしていると思う。「東京ドドンパ娘」にも通じるのだが、ここには「個人的な論理」しか動いていない。
 「新しい」「坂になった」。それは「生理感覚」を「つくろう(繕う)」ことによる「肉体」のよみがえりである、という具合に、何かをつくっていく、生み出していく「運動」ではない。
 そこでは、ただあるときの「いま」が「いま」として独立して存在する。筏丸の「肉体」が「肉体」のまま「いま」存在し、そしてその「いま存在する」という実感のなかに読者を誘い込む。沖縄のラッキョウをどんなふうにして食べるかということは、ただ筏丸だけの問題である。しかし、それが筏丸だけの「肉体」の行為であるからこそ、あ、それを「いま」私もしてみたい、おいしそう、と思う。
 この恍惚感、愉悦感というのは、一瞬、筏丸が「あたらしい 坂となった」ということを忘れさせる。だから、それは「逸脱」とも「脱線」とも「解体」とも呼ぶことができるのだが。あるいは、逸脱、断線しているからこそ、坂を解体し、言い直したものということができる。
 そのあと、突然、

おもわぬなぐさめをあたえられると
私は 平然と 木にもなる

 あ、「あたらしい 坂となった」と同じ「構文」が出てくる。
 そうか、ラッキョウは筏丸の「生理感覚」をととのえていた(繕っていた)部分なのだと、ここでわかる。「生理感覚」のととのえ方(繕い方)次第で、筏丸は「坂」になったり「木」になったりする。「木にもなった」の「にも」は「坂にも」と言い換えることができるし、ほかの別なもの「にも」と言い換えることができる。
 この「にも」は考えようによっては、いいかげんであるが、

坂という道と 木の思想と
私は直立したまま よろめく
執拗によろめいたまま 確実に そういうふうにもある

 うーん。「そういうふうに」か。「そういうふう」としか言いようのないことなのだ。「直立」と「よろめく」は何か「矛盾」した感じがする。「よろめく」と「確実」も「矛盾」した感じ。一方「直立」と「確実」は何かが共通している。「直立→よろめく→確実」「確実=直立(=確実)」がまじりあい、「直立(確実)→よろめく→確実(直立)」、あるいは「直立(確実)=よろめく=確実(直立)」と動いていく。
 それは論理的(客観的)に、これはこういうことであると「区別」してはいけないことなのだろう。「区別(論理)」にこだわってはいけないことなのだろう。
 ただ「そういうふうに」としか言いようがない。この「そういうふうに」は「そういうふうにも食べる」にも出てきているが、それは「そういうふうに」としか言いようがないのである。
 ここから「そういうふうに」こそが筏丸の「キーワード」であるととらえ直し……。
 「意味(論理)」に「分節」してしまうのではなく、「未分節」のまま「ある」、その状態としてつかみとるしかないのだろう。この「未分節」の「ある」から、「あたらしい 坂になる」「木にもなる」の「なる」ということが「生まれる」。「生まれる」から「あたらしい」のである--と、「分節/未分節」などと書きつづけると、「我田引水」が強くなってしまうので、ここでやめておく。

再婚譚とめさん―詩集 (1985年) (叢書・女性詩の現在〈9〉)
クリエーター情報なし
思潮社
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田原「暗闇」

2016-01-08 09:11:19 | 詩(雑誌・同人誌)
田原「暗闇」(「現代詩手帖」2016年01月号)

 田原の詩は(ことばは)、私には、わかったり、わからなかったりする。「意味」がとても強い。その「意味」の強さが、逆に「わかりにくい」という感じになるのかなあ。あるいは「わかりにくい」ところがあるから、「わかった」と錯覚してしまうのかな。

真っ暗やみにある街路樹の梢
空中に道らしいものを作って
夜陰にそれが揺らめいている

 夜の街路樹。見上げると梢が並んでいる。空中に「道」が見える。あ、そうか、あの空間は「道」なのか。
 その発見に誘われて、あ、そうだなあ、と思う。
 しかし、そのあと少しへんな気持ちになる。

道らしいもの

 たしかに「道」ではないのだから「道らしい」の方が正しい(?)のだろうけれど、この「らしい」って何だろう。「比喩」であることをあらわしている。「比喩」であることを強調している。「直喩」ということになる。さらに、そのあと「もの」ということばがつづく。「道」ではないけれど、「道らしい」と「道」を強調することになるのかなあ。よくわからないが、こんなふうに「丁寧」に言われると、視線は、「道らしいもの/空中の形」に固定されてしまう。
 で、三行目。

夜陰にそれが揺らめいている

 えっ、「道」って「揺らめく」?
 あ、違うね。街路樹の「梢」が「揺らめいている」。「梢が」道らしいものを「作って」「揺らめいている」。
 三行目の「それが」は「道らしいもの」ではなく、一行目の「梢」なのだ。
 でも、そう「わかり」ながら、逆に、「道らしいもの」が「揺らめいている」と読みたい(誤読したい/わかりたい)という気持ちに襲われる。
 「梢が揺らめいている」では「意味」になりすぎる。「意味」として通じすぎて、おもしろくない。びっくりしない。
 道が揺らめいて、つまり、動いている。道がどこかへ行こうと身震いしている。準備している、と驚きたい。
 何か大変なことが起きそう、と期待したい。

遠く明かりを灯す窓と
夜のとばりで微かに明滅する星は
帰路に迷った鬼火に見せかけて
蝙蝠という暗闇の精霊の顔を
見えるほどには照らせない

 ここでも、私は少し混乱する。文体が交錯する。主語/述語(動詞)が交錯する感じがする。
 三行目の「鬼火に見せかけて」。この「見せかけて」はやはり「比喩」であることを強調している。「鬼火」はほんとうの「鬼火」ではなく「比喩」としての「鬼火」。
 そして「見せかけて」というのは「使役」の表現。何を「鬼火」に「見せかけて」いるのか。窓の明かりと、星の明滅(明かりの変化)。窓と星は、窓の明かりと星の明滅(ゆらぎ)を「鬼火(の明滅/ゆらぎ)」に「見せかけて」いる。うーん、めんどうくさい言い方だなあ。窓の明かりと星が「鬼火」に「見える」(ゆらぐ鬼火のようだ/鬼火らしくゆらいで見える)では「意味」が違うのかな?
 たぶん、違う。
 窓の明かり、星の光が「鬼火らしく(のように)見える」だと、次のことばへとつながっていかない。
 窓や星は、窓の明かり、星の明滅「鬼火らしく見せかけて」いるのだけれど、それは「蝙蝠」の「顔を/見えるほどには照らせない」。「照らせない」という動詞の主語は「窓の明かり/星の明滅」だ。
 でも、これって、「鬼火」が「照らせない」というのと、どう違う? 「鬼火」を主語だと考えると変?
 あ、こんなふうに「厳密」に考えなくて、「窓の明かり/星の明滅」は「鬼火」であり、それは「蝙蝠の顔」を「照らせない」でいいのだろうけれど。そこに「鬼火」という「比喩」が割り込んでくると、次の「蝙蝠の顔」の「比喩」が弱くなる。「蝙蝠の顔」という「比喩」に集中できなくなる。だから、「鬼火」という「比喩」を遠ざけるために、つまり「蝙蝠の顔」という「比喩」を明確にするために、そういうことばの操作がおこなわれているのかな?
 「蝙蝠という暗闇の精霊の顔」の「という」は、やはり「比喩」を強調している。ほんとうは蝙蝠ではない。だから「蝙蝠という」と書いているのだが。
 こういう「文体」は、何か、度の強過ぎる眼鏡を強制的にかけさせられている感じがする。「見る/見える」というよりも、「もの」を網膜に直接焼き付けられている感じ。もう、それ以外のものが「見えない」という感じ。くらくらする。「見えるほどには照らせない」、つまり「見えない」はずの「暗闇の精霊の顔=蝙蝠の顔」が、逆に「見える」ように感じてしまう。遠い窓の明かり、星の明滅は、どこかに消えている。
 ことばの「意味」としては一連目は「梢」が「揺らめいている」、二連目は「窓の明かり/星の明滅」は「蝙蝠の顔」を「照らせない」(蝙蝠の顔は見えない)のに、受ける印象は「空中の道」が「揺らめいている」、「蝙蝠の顔」が「見える」になる。主語/動詞が「比喩」を中心にして、ずれる。何か、「錯乱」してしまう感じがする。

 で、その「錯乱」が次の連で、世界を大きく揺さぶる。

夜は巨大な黒い翼
計り知れないエネルギーをこっそり隠し
空を低くし
大地を上昇させる

 この「空を低くし(下降させ)/大地を上昇させる(高くする)」という、「交錯」がそのまま「事実」として見えてしまう。
 この「見える」は私に田原のことばが「わかった」からなのか、それとも「わからない(間違っている/誤読している)」からなのか。

 どっちでもいいのかもしれない。どっちでもいいことにすればいいのかもしれない。いや、何度もことばを入れ替え、読み違え、「意味」を固定化するのではなく、流動化させてしまえばいいのだろう。
 「意味」はそのつど(読んだ瞬間)、考えればいい。
 「どういう意味?」そうとうときの「どういう」ということはでしかあらわせない何かこそが「意味」かもしれない。「どういう意味?」とことばを揺さぶるときに、思わず問いかけてしまう瞬間に、肉体のなかに走る衝撃。見える何か(見ている何か)、まだことばに固定できない「印象」が、きっといちばん正確に「意味」を納得している。

 たしかに夜、暗闇のなかで「空を低くし/大地を上昇させる」ものがある。「空は低くなり/大地は上昇する」ということがある。そのとき、きっと「空は大地になり/大地は空になる」。そうなることで、「夜」は「ひとつ」になる。
 そして、それが五連目のことばにつながっていく。

距離は疎遠であり また融和である
それは残酷でしかも美しい
見えない力によって
冷静にぶつかりながら殺し合う

 「矛盾」にみえることばが、「ひとつ」になる。「距離は疎遠であり また融和である/それは残酷でしかも美しい」を「距離は疎遠であり しかも融和である/それは残酷でまた美しい」という具合にもことばを動かして読む必要があると思う。




夢の蛇
田原
思潮社

*

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ピーター・ボグダノビッチ監督「マイ・ファニー・レディ」(★★★★★)

2016-01-07 09:52:00 | 映画
監督 ピーター・ボグダノビッチ 出演 オーウェン・ウィルソン、イモージェン・プーツ、キャスリン・ハーン、クエンティン・タランティーノ

 懐かしいなあ、という感じがあふれてくる。ピーター・ボグダノビッチが懐かしいという意味だけではなく、何だろう、映像、テンポ、その他もろもろがなつかしい。映画って、昔はこうだったなあ。
 で、その「こうだった」の「こう」って何かというと。
 映画というのは(芝居というものもそうだけれど)、私はストーリーは見ていない。出てくる役者を見ている。その役者が好き、嫌い。ミーハーなのだ。出ている役者が好きになれば、その映画はいい映画。昔の映画は、まず役者を見せていた。
 どういうことか、を、この映画に沿って書くと……。
 冒頭、若い女優がインタビューを受けている。成功物語を語る。その話がそのまま「映画」として再現されるのだけれど、こう、他人の話を聞いているとわかることというのは、「ストーリー」以上に、その人の「人柄」がわかる。その人の過去がわかるというよりも、そのひとそのものがわかる。伝わってくる。「人柄」がわかるというのは、あ、このひとはこういうことを「する」ひと、というわかること。その「する」ことというのは「大切にする」ということ。何を大切にするかが「人柄」だね。自分にできないすごいことをやったり、ばかなことをやったりする。そういう「事件」に感動するよりも、こいうことを「大切にする」とこういうことをしてしまうのか、とわかって感動することって多くない? これを私は「人柄」に感動すると言うのだけれど。
 ここでこんな例を出すのは変かもしれないけれど、昨年ノーベル賞を取った大村さん。「実績」そのものに対する「客観的評価」は知識のない私にはできないから、ただノーベル賞受賞はすごいと思うだけだけれど、そのあと新聞などで紹介された「人柄」には感嘆してしまう。稼いだ金でふるさとに美術館をつくって絵を寄贈したり、となりに蕎麦屋をつくったり、アフリカへ行って子どもたち交流し、子どもたちが失明せずにすんでいるのを確かめ喜んでいる姿を見ると、あ、素晴らしい人だなあと「わかる」。自分にできることで、他人と幸せを分かち合いたいと思い、それを実践していることがわかる。人柄がわかり、感動してしまう。むずかしいことはわからなくても、「人柄」というのは、その人を見れば「わかる」。「人柄」への感動というのは、何か「直接的」なものだ。「客観的評価」とは別なものだ。
 で、映画。
 インタビューって、「人柄」がそのまま、わかる。(映画だから、わかるように工夫して撮っているのだけれど。)女優の方は、自分をさらけだすタイプ。他人を批判しない。(女優は映画のなかで、一度も他人を批判していない、ジャッジしていない、と思う。)こうやって生きている。それで幸せ、という感じが、なんら構えるところなく出ている。他人がどう見るかは気にしない。だから、少し「バカ」にも見える。これに対し、インタビューをするひとは冷徹な感じ。こういうふたりを比べると、どうしたって女優の方が「人柄」がいい。他人を尊敬している、他人に感謝しているという生き方がとてもやわらかな感じで出ている。そう感じる。
 この「他人を尊敬する、批判しない人柄」がいろいろな男をひきつけ、そこから「どたばた」がはじまる。その「どたばた」をいちいち書いてもしようがないので書かないが。おもしろいのが、映画のなかの「芝居」。女優の生活そっくりの女が主役の「芝居」なのだが。
 そのオーディションとけいこのシーンがおもしろい。「実生活」そっくりの状況なので、そこでは「芝居」というよりも「現実」が出てしまう。なまの「人柄」そのものが舞台のうえで展開する。「役」であることを忘れて、その人を見てしまう。逆に言えば、真に迫る演技になる。「役」のなかにそのひとがいる、とはっきりわかる。「役」なのに、この人はこういう人なんだ、こう感じるんだという具合に、錯覚する。
 極端な話、「ローマの休日」を見て、そこにある国の王女の姿が描かれているなんて、誰も思わない。あ、オードリー・ヘップバーンはかわいい。清らかだ。いいなあと、心底思う。それがオードリーのほんとうの「人柄」かどうかはわからないけれど、それがオードリーの「人柄」だと思い、観客はオードリーが好きになる。
 これは、「役者」が美人とか美男子、あるいは「役」が善人であるとかということとはあまり関係がない。美人じゃなくても、悪人でも、ひかれてしまう。悪人(殺人者)であっても、味方し、はらはらしてしまう。「人柄」を「納得」してしまうんだなあ。
 こういう「人柄」は「どたばた」の方が、なんといえばいいのか、笑いながら近づけるので気持ちがいい。安心して「人柄」を好きになれる。
 現実の生活(といっても「映画」だけれど)と舞台のうえでの、男と女の「浮気/嫉妬/よりを戻す」の関係がからみあうことで、それは「ストーリー」ではなく、「人柄(なまの感情)」のぶつかりあいになる。「演技(役)」のはずなのに、登場人物の「実生活/実感」になってしまう。「役」を見るのではなく「役者」の存在そのものを見てしまう。「人間そのもの」を見ている感じになる。「ストーリー」を瞬間的に忘れる。
 これが、くすぐったいくらい、なつかしい。
 観客は(ミーハーな私は)、いつでも「ストーリー」ではなく、役者の「実生活」を映画や芝居で見てしまう。ほんとうは違う「実生活/感情」かもしれないけれど、この役者は「こう感じるんだ」と思い込んで、その役者を「好き」になる。
 いまの映画は、役者は「ストーリー」の操り人形。役者の「人柄」なんて関係がなく、CGの映像があるだけ。
 だから、もしかすると、その反動で「おもしろい」と感じすぎているのかもしれないけれど、いやあ、うれしい映画だなあ。ニューヨークの街並み、ブロードウェイも、映画とは思えないくらいあったかい。手触り感がある。アメリカ映画の緑は私は好きになれないが、この映画ではきらきらと美しかったなあ。音楽も、古いジャズという感じで、そこにやっぱり「人柄」が出ている。
 ピーター・ボグダノビッチは「ラストショー」「ペーパームーン」以来だと思うけれど、まだ生きていたんだね。映画をつくっていたんだね。うれしいなあ。なつかしいなあ。
 クエンティン・タランティーノが最後にちょっと出てきて、そういうのもうれしい。タランティーノってボグダノビッチが好きだったのか、知らなかった、なんて思ったりした。
 あ、映画に何度も出てくる「リスに胡桃(ナッツ)をやる人がいる。ナッツにリスをやるのもいい」という台詞。後半の「ナッツ」は「バカ(頭が軽い?)な人」という意味? 実際、リスの縫いぐるみをやるシーンが出てくるけれど、あれって、「あなたってバカね、でも大好きよ」って意味かなあ。私もほしいなあ、あのリス、なんてことも思ったりした。「人間はみんなバカ。でも、バカと非難するのをやめれば、みんな大好きになれる」。それが「ハッピーエンディング」ということだね。
                      (KBCシネマ2、2016年01月06日)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
新ラスト・ショー [VHS]
クリエーター情報なし
日本ヘラルド映画(PCH)
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(時間が通って行った、)

2016-01-06 22:09:22 | 
(時間が通って行った、)

まだ書かなければならないことが残っているが、
冬の堀に裁判所への橋をが逆さに映っている、
(時間が通って行った、)
という描写を消して、
ことばが
ハスの実が影になりにゆくとき、
弱いひかりのなか
水の上を風ということばがわたってきて、
ハスの実の輪郭を透明に削る
(時間が通って行った、)
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