夏目美知子「夕方には雨戸を閉めます」ほか(「乾河」75、2016年02月01日発行)
夏目美知子「夕方には雨戸を閉めます」の二連目。
繰り返し読んでしまった。「素っ気ない」「笑わない」「気難しい」「親しくならず」という否定的なことばがつづく。そのことばが否定的であるにもかかわらず、逆に「好ましい」「興味を引く」という動詞を引き出す。夏目は「活気づく」と変化してしまう。
「打ち解けない目」は「独りでいる強さ」という具合に、肯定的(強い)と語りなおされる。
こうした「否定」から「肯定」への変化は、「どうやって人は自分を貫くのか知りたい」という欲望にかわる。夏目は「若い人」に「自分を貫く」強さを感じたのだ。それは夏目が欲している強さでもある。欲望の発見。
で、こういう否定から肯定への「変化」を支えているのは……。
この文の中にある「本当」である。
「本当」とは何か。
夏目はすでに「若い人」と出会っている。出会って、その人がどういう人物であるか、わかっている。見かけも、性格も。もっとも、その性格は見かけから判断したものだけれど。
それでも「本当に出会う事はない」と書くのは、別なことばで言い直せば「打ち解けない」からである。「本当に出会う」とは「打ち解ける」ことである。「内面」が出会っていないからである。
だからこそ、
と言い直されている。これは、
と「内面」ということばを補うと、いっそうわかりやすくなる。
ここからさらに、私はことばを入れ替え、さらにこに「本当」を補ってみたい。
は、
であり、また
でもある。
「本当は」は「知りたい」を説明するのか、あるいは「貫く」を強調するのか。
似ているようでも違う。
私は、後者の方を、
と感じてしまう。夏目は、自分を「貫きたい」ということを発見したのだと思う。若い人が自分を貫いているのを見て、その貫いているものを知りたいと思うと同時に、自分自身を「本当は」何かで貫いてみたいと思ったのだ。その「欲望」を発見している。
「若い人」に出会うことで、「本当」の自分、自分の欲望を見つけ出している。「若い人」に託しながら、自分の「本当」を語っている。この「本当」のつかい方が、とてもおもしろい。
*
斎藤健一「旧国」。
「荒れる海が置かれ。」という遠景の突然さ、その中断と持続の「置かれ」という終止形ではない動詞の、不思議な形。「置く」という動詞そのものもおもしろい。海は「置く」(置かれる)ものではない。しかし、それを「置く/置かれる」ものとしてつかみとる。もう、この光景は「自然」(外の世界)ではなく、どこまでも斎藤の「肉体」につながった、斎藤の「肉体」になってしまった世界である。
最後は、どう読めばいいのか。「ぼくである」ということが「聞こえる」と読んでみた。「ぼくがぼくである」ことは自明のこと。しかし、その自明をもう一度「聞こえる」という動詞でつかみ取りなおす。反復と、反復による確認。
何度も繰り返されながら、結晶していく「時間」の孤独が聞こえてくる作品だ。
*
林堂一「自転公転」。
視覚的な描写にはさまれた「小鳥の声も聞こえる」が新鮮だ。聴覚は「画家」「グラデーション」とは無関係である。しかし、この無関係が世界を「ほんもの」にしている。
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。
夏目美知子「夕方には雨戸を閉めます」の二連目。
近くの店で働き始めた若い人がいる。その素っ気ない頬を
好ましく思う。彼女は笑わない。気難しい雰囲気が出てい
る。人と親しくならずに生きるスタイルが、私の興味を引
く。その興味のために少し活気づく。容易に打ち解けない
目に、独りでいる強さがある。多分、あなたと私が本当に
出会う事はないと思うけれど、どうやって人は自分を貫く
のか知りたい気がする。
繰り返し読んでしまった。「素っ気ない」「笑わない」「気難しい」「親しくならず」という否定的なことばがつづく。そのことばが否定的であるにもかかわらず、逆に「好ましい」「興味を引く」という動詞を引き出す。夏目は「活気づく」と変化してしまう。
「打ち解けない目」は「独りでいる強さ」という具合に、肯定的(強い)と語りなおされる。
こうした「否定」から「肯定」への変化は、「どうやって人は自分を貫くのか知りたい」という欲望にかわる。夏目は「若い人」に「自分を貫く」強さを感じたのだ。それは夏目が欲している強さでもある。欲望の発見。
で、こういう否定から肯定への「変化」を支えているのは……。
あなたと私が本当に出会う事はないと思うけれど、
この文の中にある「本当」である。
「本当」とは何か。
夏目はすでに「若い人」と出会っている。出会って、その人がどういう人物であるか、わかっている。見かけも、性格も。もっとも、その性格は見かけから判断したものだけれど。
それでも「本当に出会う事はない」と書くのは、別なことばで言い直せば「打ち解けない」からである。「本当に出会う」とは「打ち解ける」ことである。「内面」が出会っていないからである。
だからこそ、
どうやって人は自分を貫くのか知りたい
と言い直されている。これは、
どうやって人は自分(の内面)を貫くのか知りたい
と「内面」ということばを補うと、いっそうわかりやすくなる。
ここからさらに、私はことばを入れ替え、さらにこに「本当」を補ってみたい。
どうやって人は自分の内面を貫くのか知りたい
は、
どうやって人は自分の内面を貫くのか「本当は」知りたい
であり、また
「本当は」どうやって人は自分の内面を貫くのか、知りたい
でもある。
「本当は」は「知りたい」を説明するのか、あるいは「貫く」を強調するのか。
似ているようでも違う。
私は、後者の方を、
「本当は」自分を貫きたい
と感じてしまう。夏目は、自分を「貫きたい」ということを発見したのだと思う。若い人が自分を貫いているのを見て、その貫いているものを知りたいと思うと同時に、自分自身を「本当は」何かで貫いてみたいと思ったのだ。その「欲望」を発見している。
「若い人」に出会うことで、「本当」の自分、自分の欲望を見つけ出している。「若い人」に託しながら、自分の「本当」を語っている。この「本当」のつかい方が、とてもおもしろい。
*
斎藤健一「旧国」。
穀物と地球儀がある。誰も訪問しては来ない。権威を持
つ大学の門。黒く光る自動車がすべり込む。テエブルだ。
荒れる海が置かれ。電池の切れる時計の飾り物である。
「荒れる海が置かれ。」という遠景の突然さ、その中断と持続の「置かれ」という終止形ではない動詞の、不思議な形。「置く」という動詞そのものもおもしろい。海は「置く」(置かれる)ものではない。しかし、それを「置く/置かれる」ものとしてつかみとる。もう、この光景は「自然」(外の世界)ではなく、どこまでも斎藤の「肉体」につながった、斎藤の「肉体」になってしまった世界である。
何日も経て届く手紙の内。粉末がまじる。而していつま
でも下肢は重たい。眼鏡のくぼみ。赤燐の半透明がはね
あがる。きこえるのはぼくであることだ。
最後は、どう読めばいいのか。「ぼくである」ということが「聞こえる」と読んでみた。「ぼくがぼくである」ことは自明のこと。しかし、その自明をもう一度「聞こえる」という動詞でつかみ取りなおす。反復と、反復による確認。
何度も繰り返されながら、結晶していく「時間」の孤独が聞こえてくる作品だ。
*
林堂一「自転公転」。
夜明け前に目覚め
暗い寝室でベッドの端にすわる
手許はまだ暗いのに
窓の外が少しずつ明るくなる
小鳥の声も聞こえる それは
画家のどんな技量をもってしても及ばない
地球の回転が描きだす
みごとなグラデーションだ
視覚的な描写にはさまれた「小鳥の声も聞こえる」が新鮮だ。聴覚は「画家」「グラデーション」とは無関係である。しかし、この無関係が世界を「ほんもの」にしている。
私のオリオントラ | |
夏目 美知子 | |
詩遊社 |
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。