詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉増剛造「Ledburyに、鐘音ヲ聞キ、……」

2016-01-06 20:48:36 | 詩(雑誌・同人誌)
吉増剛造「Ledburyに、鐘音ヲ聞キ、……」(「現代詩手帖」2016年01月号)

 吉増剛造「Ledburyに、鐘音ヲ聞キ、……」というタイトルは正確ではない。もっと長い。そしてルビや傍点、ルビにも傍点などがあり、表記できないので省略した。正確な表記は「現代詩手帖」で確かめてほしい。(引用についても。)
 きのう、岡井隆「臓器性腐敗臭」の感想を書いた。そのとき「イメージ」ということばをつかった。「臓器性」という表記をめぐって、そんなことばをつかったのだが、書きながら「正確ではないなあ」と感じていた。
 「臓器」というと、ふつうは、なかなか直接見ることができない。私は父がガンで胃を摘出したとき、その変形した「臓器」を見たが、それ以外は直接見たことがない。岡井隆の場合はどうだろう。職業上、何度も見ているだろう。そうすると「イメージ」といっても、「想像」の部分は少なく、「実物」感が強いと思う。「比喩」とは言っても、遠く離れたものを結びつける感じではない。どちらかというと「遠く」ではなく「より密着した」もののなかへ入り込む感じ、「遠い外部」というよりも「近すぎる内部」という感じ、近すぎて(わかりすぎて)ことばにしないままにしてきたものをことばにしなおして把握しているものかもしれない。
 でも、私には「臓器」というのは、「内部」にあっても、見ることのできないもの、触ることのできないものなので「イメージ」と呼んでしまうしかない。
 そういう「差異」を意識しながら、あえて「イメージ」と書いた。「触覚」や「痛覚」を動員して「把握」するというよりも私の「視覚」を中心にして、つまり「臓器は外からは目に見えないという感覚」を手がかりにして、岡井のことばに近づいた。
 「誤読」であることを承知で、誤読を書いてみた。

 こんなことをなぜ書くかといえば。

 吉増の書いていることばに向き合うとき、どんなふうに書いてみても、これは吉増の感じていることとは決定的に違ってしまうなあ、と感じるからである。私には吉増の詩はまったく理解できない。理解できないのだけれど、こういうことをやろうとしているんだなあと「頭」で想像できることがある。そのことを書きたい。
 そして、それは、岡井の作品に対して「イメージ」ということばをつかったように、何か、簡単なことばをつかってしまうと「音」というものが、吉増の詩だ、と私には感じられる。吉増は「音」を私とは違ったふうに聞き取り、その「違い」を詩にしている、と感じる。
 あ、こんな変な日本語では、何も語ったことにならないか……。

 作品の書き出し。

恋ノ羽撃ノ、、、、、、

 この一行の「羽撃」には「キ」という送りが添えられている。「はばたき」と読ませるのだろう。最初の読点「、」のあとの「、」五個は一行の右端にではなく、中央におかれている。読点「、」ではなく、いわば沈黙の表記のように思える。
 このあと、改行があって、ルビつきのことばがつづく。その改行を無視し、ルビをカッコに補って表記すれば(アルファベットのルビのうち、e にはアクセントがついているのだが)、

羽音(ハネ)、緒(ヲ)、毛(も)、枯(が)、零(re)、手(te)

 という感じ。
漢字と音、音のつらなりと意味の関係で言えば、「万葉仮名」の漢字のつかい方ににている。音があって、その音をあらわすために漢字を借りてきている。
 これは、逆の言い方というと変だが、逆の読み方をすると、吉増のことばを動かしているのは、まず「意味」と「音」であって、その「音」をどう表記するかが問われていることになる。
 「意味」だけを伝えるなら、

恋の羽ばたきの、羽をもがれて

 ということになるが、吉増は「意味」を優先的に表現したいのではないのだ。「意味」を伝えようとするとき(意味を語ろうとするとき)、そのことばの「背後」で動く「音」そのものを表現したいのだ。
 鳥が羽ばたくとき、羽(翼)と音の関係はどんな具合にして存在するのか。
 吉増には、翼(羽)から音がもがれていく。分離していく、と聞こえるのか。いや、音から翼(羽)がもがれていくのか。
 常識的に考えると、翼は羽ばたきながら、常に「音」を生み出しているのだが、吉増はこれを逆に、羽ばたくことで音をもがれていく、分離されていくと感じている。「音」がもがれていく、と書いているように見える。
 しかし、逆に読むこともできないだろうか。「羽音」は「ハネ」とルビを打たれている。「羽の音(ネ)」なのだが、その存在そのものが「ハネ=羽(翼)」と読むこともできるだろう。そうならば、「音」から「羽」が(「羽=ハネ」を)もがれて、と読むこともできる。いや、私は、そう読みたい衝動に突き動かされて、そう読んでしまうのだ。「誤読」していくのだ。
 音から分離された翼(羽)は「(羽)毛」になり、それはいのちから分離されて「枯」れていく。いのちが「零」れていく。「羽」のない翼は「手」かどうか、ちょっとわからないが。もしかすると、「毛」と「手」の漢字の類似性、対象性が、そこに隠されているかもしれない。
 この「音」からもがれる(分離される)ことを、「いのち」からもがれる(分離させる)という印象を呼び起こすのは、「を」ということばが「へその緒(いのちのつながり/玉の緒)」の「緒」という文字で書かれるからかもしれない。
 ことばには「意味」はあっても、「音」そのものに「意味」はないと私は考えているが、吉増はことばを構成するひとつづきの「音」そのものに「意味」があり、それを「聞き取っている」のだろう。そして、その聞いた「音」の「意味」を文字(漢字/表記)の組み合わせのなかで動かしている。
 そうすることで「表記」のなかに「音楽」を再現しようとしている。「音楽」を表記しようとして、とても複雑な表記になっている。この「音楽」を聞き取れるのは、しかし、吉増以外に誰がいるのだろう。私は吉増の詩を「印刷物」でしか知らないので、とてもとまどってしまう。
 特に「もがれて」が「毛枯零手」と書かれ、「re」「te」と「e 」の韻を重ねたあと、その「手」が

手(ティ)

 と書き直され(「ィ」には傍点がついている)、そこにさらに韓国語(ハングル文字)も加わるいうややこしい「表記」がつづく。
 「え」と「い」は類似性があるときもある。田中角栄は「えろいんぴつ」と新潟訛りで言っていたような記憶が残っている。もちろん明確に区別する「国語」もある野田が、この類似性は、一種の「循環」を思い起こさせる。「毛」「手」も表記の循環性かもしれない。
 という余分な考え(あくまで私の考えだが)を経た上で、ことばは

環、考ヘルまヘに、歌(ウタ)ッていた、、、、、、

 と動いていく。「カン」から「カンガヘル」の音の響きあい。このときの「へ」は現代表記では「え」だが、歴史的仮名遣いでは「へ」。それの影響を受けて「まえ」が「まへ」と書かれ、一種の強引な「音」の融合/表記の融合をまじえ、「ティ」「カン」という「音」がさらに変化しながら「リン、トラ」という鐘の音になり、さらにそういう「分裂(?)」が

裂(サ)、毛(ケ)、火(ビ)

 へと変化していく。「音/音楽」が「音楽の肉体」にしたがって、暴走していく。力強く動いていく。その力に吉増は吉増自身を任せている(酔っている)感じがする。
 「音/音楽」を万葉人のように、「漢字」をふりあてることで、「意味」にしようとしている。
 このとき吉増にとって、「音」が「肉体」なのか、「意味」が「肉体」なのか。「表記」が「肉体」なのか、「意味」が「肉体」なのか。
 よくわからない。
 たぶん、相互に入れ替えて読み直す、どちらかに固定化してはいけない、ということなのだと思うが、このときの「音」というのは、まるで岡井隆にとっての「臓器」のようなものであり、そういうものに日々接していない人間には、ちょっと想像を超えるものがある。特に吉増の「声」を直接聞いたことのない人間(私)には、吉増がどうしてその「音」にこだわるのか、その「音」が他の「日本語」とどう違う肉体をもって発声されるのかがわからない人間には、どうにも「音楽」として聞こえてこない。
 モーツァルトの交響曲の「楽譜」を見せられて、「この部分が美しいよね」と言われても困惑するしかないのに似ている。
 吉増が、この作品を読むのを聞けば、また印象が違ってくると思うが、活字で読みながら、そんなことを「頭」で考えた。私の「耳」はぜんぜん動いていない。
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吉増 剛造
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*

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岡井隆「臓器性腐敗臭」

2016-01-05 10:15:57 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「臓器性腐敗臭」(「現代詩手帖」2016年01月号)

 岡井隆「臓器性腐敗臭」は「旧友Oの訃報を読んで作るうた」というサブタイトルをもっている。
 その書き出しの二行。

どんなねぢくれたこころだつて仲間意識だつて
臓器性をもつて腐るんだ

 この「臓器性」とは何だろう。わからない。「腐る」という動詞、それからサブタイトルの「訃報」を結びつけると、「臓器(内臓)」のどこかを悪くして、それが旧友の死因だったのかなあ、と感じる。
 「臓器性をもつて」ということばを省略して、

どんなねぢくれたこころだつて仲間意識だつて
腐るんだ

 これでも「意味」は通じる感じがする。ただし、その場合は「ねぢくれたこころ」というよりも「純粋なこころ」の方が「腐る」とぴったりくるかなあ。美しいこころ、美しい仲間意識というものも、いつかは「腐る」。だらしなく崩れ、解体していく。死んで行く。そういうことばの方が「わかりやすい」。「流通言語」に近い。
 しかし岡井は「純粋なこころ」とは書かずに「ねぢくれたこころ」と書き、これを「仲間意識」と並列させる。そして、それを結びつけるものを「臓器性」と書いている。「臓器性」を「もつて」と「もつ」という動詞と組み合わせて動かしている。
 この「臓器性」って、何だろう。
 「ねぢくれた」という「こころ」を修飾していることばから「ねぢくれた臓器」、大腸のようなものが連想される。そうすると旧友の死因は大腸ガン?
 わかったような、わからないような……。いや、ぜんぜん、わからない。

 この「臓器性」は繰り返し出てくる。

君は汚れた手拭の外にもう一つ長大なものを股間にさげてゐた
それがわたしに臓器性の腐れごころを生んだとしても なあ しよ
 んない

 ペニスの大きさに嫉妬した。嫉妬は「腐れごごろ」、腐ったこころ、かもしれない。精神(知性?)に対する嫉妬ではなく、肉体に対する嫉妬だから「臓器性」? 肉体に関係していることを「臓器」で言い直している?  それとも「臓器」は外から見えないから「隠しているこころ」?

君とわたしともう一人Aとで行灯をともしたのは多分三人といふの
 が二人よりも腐りやすいと知つてたからだらう
三人が持つてる臓器性つてたとえば筋肉だね あるいは筋膜(この
 ごろ流行の)

 ここにも「腐る」という動詞があらわれる。ただし、それは「行灯をともす」ということばといっしょで「臓器性」からは少し離れている。「行灯をともす」は「昼行灯をともす」、無駄なことをする、役に立たないことをする、というくらいの「意味」かな? 二人よりも三人の方が仕事をさぼる、ずるをするとき、こころやすいということか。むりにことばを補えば、ここでも「こころ」が「腐る」ということになる。
 「こころ」が「臓器」?
 かもしれない。
 ここに描かれる「わたし(岡井)」は中学生。中学生のころの「こころ」というのは、「内面」というよりも「外面」、つまり「体力」の方にあるだろうなあ。もてあます肉体の力。性に目覚めるころの肉体の暴走。それが「こころ」。そこから「腐る」。
 先に引用した「股間の長大なもの」も「肉体」。
 どうしても、自分の肉体と他人の肉体を比較して「こころ」が苦悩する。「腐る」。「こころ」は肉体とぴったり重なる。その肉体を「筋肉」と言い直しているのが、この部分なのかなあ。
 しかし、「筋膜」というのが、よくわからない。「このごろ流行」というのだけれど、そんなことばある?
 もしかすると、筋肉の周りの贅肉? 脂肪? それなら「メタボ」ということばが浮かぶ。たしかに「流行」している。
 でも、それって、中学生の話題じゃないねえ。
 そう思ってると、次の連で「七十年前に別れた」ということばが出てきて、突然、時間がかわるから、「メタボ(筋膜)」は、その飛躍のための踏み切り台だったのかなあ。
 昔は他人の筋肉に嫉妬した(こころを腐らせた)、いまは他人の脂肪のつきぐあいに嫉妬したり優越感にひたったり、やっぱり、こころを腐らせている。こころを大事なことにつかっていない、くらいの意味?

庄内川はかはりなく庄内を流れそのほとりにAの死が厳存した
かういふのは臓器としては心筋の腐敗臭
かれは なんでも有頂天に喜ぶわたしの肺臓性の 腐れっぷりを手
 を叩いて憫笑した!

 単なる連想だけれど、Aの死に関係して「臓器」は「心筋」と言い直されているから、死因は心臓なのかもしれない。Oの死因はまだ書かれていないが、Aは心臓が原因。そして、岡井は? あ、生きているのだけれど「肺」が「腐る」、つまり、病んでいる?
 他人の病気に同情もするが、やっぱり病気かと他人が健康ではないのを、相あわれむということが、岡井の年代にはあるのかもしれない。
 この奇妙な関係も、「腐っている」。あまり、健康的な関係とは言えない。それを自嘲しているのかなあ。
 いや、違うなあ。
 ここの「心筋」というのは「わたし(岡井)」の心筋。Aは故郷(?)の庄内川のほとりで死んだ(墓がある)。それをしみじみ思い、感傷に浸っている。こういう感傷、感情の動き、こころの動きを「心(筋)の腐敗」と呼んでいるのだろう。センチメンタルは「こころが腐っている証拠」というふうに、「かれ(A)」は、いつも「わたし(岡井)」の感情の激しさをからかい、あわれみ、笑っていたのだろう。
 「肺臓性」というのは、その補足。肺→胸→心(臓)と連想をすすめれば、そこに「感情」が浮かび上がる。
 いままたOの死に対して感情を動かしている「わたし(岡井)」。それを見るとAは憫笑するだろうなあ、と想像しているのだと思う。

 で、最後の部分。

旧友Oよ君は新聞に顔写真が出たわたしにお祝ひを言つて来たが二
 つの腹部臓器を病んでゐたんぢやないかな 胆と胆の
むかしあの工場動員の庭で土の上に釘で線を引きながら幾何の演習
 をしたよね
幾何の線分は少くとも生き生きとしてゐた
腐りはじめたのはお互ひ名が出てからだらうね 腹部臓器性の腐れ
 つてひどいからね
二人で中学校の校庭の芝生に坐つて涙を拭ひ合つてゐた時には そ
 れはなかつた 胆嚢性のあのふかくつて厭味な腐れは ね

 Oの死因は胆嚢性の「腐れ」らしい。
 その前に「胆と胆」ということばが出てくる。これは「肝胆相照らす」ということばを思い起こさせる。互いに真心を打ち明けあい親しく交わる。中学時代は、そうだったのだ。そのころは互いのペニスや筋肉に驚き、嫉妬したり羨んだりしながら、「こころ」を「腐らせていた」。しかし、ほんとうは何も腐っていなかった。すべてが生き生きしていた。幾何学の線を引き、その線の上を走る知性が「感情(こころ)」そのものだった。
 病が進行しはじめたのは、互いの「名」が出るようになってから。有名になってから。そのころから、二人の関係も「中学時代」そのままではなくなった、ということだろう。いまは「訃報」さえ、肉親が知らせてくるのではなく、何かで「読む」ことで知る関係なのだ。周りのいろいろいなことが二人を「中学生」にしてくれない。というのは、あまりにも世俗的な読み方かな?

 「腐る」という動詞と「臓器(性)」というイメージが交錯し、その「臓器」に「こころ」が重なるように動いている。
 「こころ」と書いてしまうと抽象的になるが、それを「臓器」という「比喩」にしてしまうと、とたんに生々しくなる。きっと「臓器」というものが「肉体」の内部にあって、切り離してしまうともう「いのち」がなくなるからだろう。
 「臓器」という「比喩」によって、旧友との関係が、「臓器(内臓)」など気にかけもしない元気な「肉体」そのものの「なつかしさ」で目の前にあらわれてくる感じがする。
 「動詞」が詩のことばを動かしていると同時に、「臓器性」という「イメージ」が、詩の全体を統一している。「臓器」という「もの」と「こころ/感情」が融合し、からみあったまま「肉体」としての人間を浮かび上がらせる。イメージの力、喚起力の支配が強い。このイメージの強さは、岡井が歌人であることも影響しているのかな? 短歌が鍛え上げたイメージの力。「名詞」によって、世界を統合する力を強く感じる。




暮れてゆくバッハ (現代歌人シリーズ)
岡井 隆
書肆侃侃房
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誰に、

2016-01-05 00:14:17 | 
誰に、

坂と石の階段をのぼったところにある店で古本を買った。
絵はがきが挟まっていた。
私がのぼった坂と石段が描かれていた。
真昼の短い影といっしょに。
誰に見られてしまったのか。
海の匂いがする路地をとおってきて、その
坂から石段にかわる場所で立ち止まると、
私しかいなかった。
風と光、空と海に無防備にさらされた。
見られるしかなかった。

誰と待ち合わせるために古本屋に行ったのか。
ひとから逃れるために行ったのか。
絵はがきが挟まったページは、
「坂と石段をのぼったところにある店で」
ということばで終わっている。
誰に見られているのか、



*

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松浦寿輝「冬の猫」

2016-01-04 09:21:52 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦寿輝「冬の猫」(「現代詩手帖」2016年01月号)

 松浦寿輝「冬の猫」は、

「冬の猫」と題された小さな絵を
どこで見たのかおぼえていない

 と書きはじめられる。「おぼえていない」から思い出そうとする。さまざまな「場(絵の展示場所)」と、その「場/時」での肉体感覚のようなものが繰り返し描かれる。

床下にながれる運河の汚れた水面から
はいあがってくるつめたい湿気に
背筋がちりちりとそそけ立ち
ごつごつした粗い石壁をなでると
てのひらに血がにじむかとおもわれた

 という具合。
 ことばが対象を丁寧に描き、目だけではなく肉体全体で「場」がとらえれられる。ことばの動きがあまりに丁寧でゆっくりしているので、「場」を描いているのか、それとも肉体の記憶を書いているのか、区別がつかないような感じになるが、こういう何を書いているのか「対象/意味/内容」をつかみやすい描写は、「現代詩」ではめずらしいかもしれないなあ。「現代詩」というよりも、「小説」の描写に近いかもしれない。どこにも動いていかないような描写の形式、そのくせその描写の内部で何かが動いている感じは松浦の小説につながるものだ。
 これが、作品が半分をすぎたりあたり、(起承転結の「転」あたり?)、描写(ことばの動き、対象への向き合い方)ががらりとかわる。
 「冬の猫」という題なので「猫」が描かれた絵と思いながら松浦のことばを追っていたのだが、

そこには猫など一匹も描かれておらず
ただ 内側からほのかに輝きだすような
真っ青な闇が広がっているばかり

 えっ、と驚くのだが。
 その絵が、では何を描いているのか、という「説明」の部分に、私はさらに驚く。

画家は膝に抱いた猫の瞳を覗きこみ
そこにしずまりかえっている
人間の共感をきっぱりと拒絶した青を
その深さと暗さと輝きを
描きだそうとしたのだろう
若い頃はそう考えて納得していたいたものだ
だが そうではなかったのではないか
あれは猫の瞳の色ではなく
猫の瞳が見ているものの色だったのではないか

 「猫の瞳」ではなく「猫の瞳が見ているものの色」という「切り返し」は、「場」の描写が、いつのまにか肉体(精神状態)の描写とも読むことができる前半の構造に似ている。それは、きのう読んだ北川の詩について書いたときのことばをつかっていえば、「入れ換え可能」なものだと思う。
 そのことをきょうまた書いてしまうと同じことの繰り返しになる。だから、書かない。それに、私がこの詩で「好き」になったのは、そういうことばの動きではない。「好き」というより、思わず棒線を引いてしまった、あ、これがこの作品のキーワードがと思ったことばがあり、それについて書きたい。(すごく長い前置きだ。)

若い頃はそう考えて納得していたいたものだ

 この行の「考え」ということば。
 これが、この作品を統一している。支配している。そのことが、とてもおもしろいと思ったのだ。
 「考え」というのは基本的に「個人の意識(精神)」の動きだと思うが、不思議なことに「個人」であることにとどまらない。「個人」の「領域(?)」にとどまらない。「考え」を「思考」と言い換えるとわかりやすくなると思うが、「思考」は「個人的真実」ではなく、「真理(一般的真実?)」や「意味」へ向かって動くものだ。「真理/真実/意味」へたどりついた「思考」が「正しい思考」というふうに動く。
 前半に書かれている「冬の猫」の絵を見た「場」、あるいはそのときの肉体の記憶というのは「わたし(松浦)」の「個人的事実」であるけれど、「思考」というのは、そういう「個人的事実(真実)」を指向するのではなく、何か「人間全体」を「対象」にするといえばいいのか、「人間全体」に「共通する/共有される真実」として動いているように思う。
 作品に即して言えば、それを「どこ」で見たか、それを見たとき「肉体」にどういう変化が起きたかではなく、その作品が「何を描いているか/どういう意味を持つか」と「考える」のが「思考」である。「どこ」で見た、「肉体」がどう変化したかは、そのとき、そのひとによって「変わる」。「変わる」ものは「真実/真理」ではない。でも、「何が描いてあるか」というのは「変わらない」。つまり、そこには「事実/真実」というものがある。「考え」はその「真実/真理/事実」をめざして動いている。
 で、その「真実/真理」をめざすという動きは「訂正」によって強調される。「確定」されるといってもいい。
 それが、

あれは猫の瞳の色ではなく
猫の瞳が見ているものの色だったのではないか

 という二行。「……ではなく(否定)/……ではないか(訂正)」。
 この否定/訂正は、「わたし」という個人のなかで起きることなのだが、訂正され「真実」になった瞬間から、人間に「共有」されるもの(真理)になる。
 さらにここから、つまり「共有される真実/真理」から、松浦は「わたし」の「記憶」を「修正」する。見つめなおす。どこで見たのか、なぜ、おぼえていないか。その「原因」という名の「真実」を探しはじめる。思考する。考える。「思考の真実/真理」を求める。

必ずしも猫でなくてもよい異種の生きもの
わたしからは決定的にへだたった異形の他者
その目に世界はこう映っている
「冬の猫」は世界そのものであり
「冬の猫」のなかには世界のすべてがある
そういうことだったのではないか
そのことをわたしは本当は
ずっと以前から直感的に理解しながら
理解しているということじたいを
忘れようとしてきたのではないか
だからわたしはおぼえていないのだ

 この部分には、ふたつ、重要なことばがある。
 ひとつめは、「わたしからは決定的にへだたった異形の他者」という行の「わたし」。これは「冬の猫」を見た「わたし(つまり、松浦)」か。それとも描いた「画家」か。「松浦(わたし)」から決定的に隔たっているのはわかるが、それを描いたのは「画家」なのだから、その「画家」からも決定的に隔たっているのではないのか。そして、「隔たる」という「動詞」のなかで、「松浦(わたし)」と「画家」は、交錯し、融合していないか。「松浦/わたし/画家」は、常に入れ替わりながら、入れ替わることで「ひとり」のように動いている。

その目に世界はこう映っている

 という「認識(断定)」は「松浦(わたし)」の認識であり、同時に「(わたし)画家」の認識である。「画家」にそういう「認識」がなければ、「画家」は、そういう絵を描かない。描けない。「松浦(わたし)」は「画家(わたし)」になって、そのとき、絵を描いている。
 もうひとつの重要なことばは「ずっと以前から直感的に理解しながら」の「直感的」である。
 「考え(思考)」というのは「直感的」なものではなく、「論理的/後天的」なものである。あとからつくるものである。そういう意味からは「直感的」の直前に書かれている「ずっと前から」も重要なことばである。「考える(思考する)」前から、わかっている。このときの「直感的」は、「ずっと前から」ということばを手がかりに「潜在的」と言い換えることもできるかもしれない。「潜在的な本能」のようなもの(本能とはもともと潜在的だと思うけれど)を「直感」と言っているように思える。
 ずっと前からわかっていた(理解していた)/見た瞬間から潜在的にわかっていた。
 そして、それは「潜在的」であるがゆえに、「個人的」という「領域」を超える力をもっている。誰の「思考」のなかにも「潜在的」にそういうものが存在している。
 この「潜在的」を「起承転結」の「結」で「未生以前」と言い直している。(谷川俊太郎のよくつか「未生」を思い出す。)

だからわたしはおぼえていないのだ               
「冬の猫」をいつどこで見たのかを
それは幼年期から いや未生以前から
すでにわたしのなかにあり
いまもわたしのなかにある

 「未生以前」とは、「わたし」が「わたし」として「生まれる前」であるが、それははやりのことばで言い直せば「分節される前」になる。「分節される前」は「わたし」は「わたし」ではない可能性がある。「わたし」はほかのものになって(分節されて)、生まれる可能性があるということ。何になってか。「猫」だ。
 だから、

わたしのなかにある「冬の猫」のなかには
しかし もちろんそのわたし自身もいて

 ということになる。「わたし/猫」の区別はなくなる。「未分節」の状態にいる。それは「すでにわたしのなかにあり/いまもわたしのなかにある」。「すでに(過去)」も「いま」も区別がなくなる。
 「思考(考える)」は、「事実」を組み立てて「真実/真理」に到達するのではなく、逆に「事実」を解体し、それを「未生以前」に戻しながら、何にでも変化する「自在さ」をつかみとるとき、「真理になる」という「動詞」として動く。分節する。生み出される。その「真理」というのは「固定化」されている(定まっている)というよりも「流動的」であり、流動し、あふれ出すものである。何かの弾みで結晶化し、生み出されるという形で、混沌(未分節)のなかから生み出される。

 この先、「考え(思考)」はどう動いていくか。

小暗い青の沈鬱な輝きを見透かし
この生の時間とは何だったかという
答えのない問いの過酷と恍惚を前に
途方に暮れて立ち尽くしている
六十歳を過ぎたわたしはいまそうおもう
外に雪が降っているこの真夜中
膝に抱いた猫の瞳を覗きこみながら
その瞳から覗きかえされながら

 書きたいことがたくさんある。「答えのない問い」、「問いと答えの緊密な結びつき」については「答え/問い」「問い/答え」は入れ替え可能である。入れ替えて読むべきものである、と私は考えている。それは「覗きこむ/覗きかえされる」という形で言い直されている。それに類似したことは、谷川の作品や北川の作品で触れてきたのでここでは省略。
 最後に、

膝に抱いた猫の目を覗きこみながら

 という一行について端折って書いておこう。この一行は、「転」のところで触れた、

画家は膝に抱いた猫の瞳を覗きこみ

 とそっくりである。「主語」は「わたし」「画家」と違っている。違っていることによって「ひとり」になる。それは、繰り返しになるが、相互に入れ替え可能である。「わたし/画家」「画家/わたし」は違った人間だが「同じ」動きをしている。それは「猫を抱く」という動きだけではなく、「猫の瞳」を見ながら「猫の瞳が見ているものを見る」という運動(動詞)のなかで「ひとり」になる。そして、そのとき当然のことだが「わたし/画家/猫」もまた入れ替え可能な「ひとり」になる。
 その「入れ替え」は「潜在的」な「場」でおこなわれる。「未生」の「場」でおこなわれる。
 そんなふうに「考え(思考)」が動いていくとき、それは「個人的な思考(考え)」ではなく、「個人」を超越する。「考え」ということばが、この詩を、そういうところまで引っぱっていく。

 なんだか行ったり来たりの感想になってしまうが……。
 この詩で「考え/考える」ということばに引きつけられたのは、「考える/思考する」という動詞が、まるで肉体の動きのようにひととひとを結び、融合させる動詞として働いているからである。「考える/思考する」がセックスをするような感じで、欲望/本能を刺戟してくるからである。
 わたしはもっぱら肉体を直接動かす具体的な動詞に注目しながら詩を読んでいるが、松浦のこの作品では(後半では)肉体はありま動かず、純粋に「考える/思考する」という動詞を動かしている。それが、とてもおもしろいと思う。「考える/思考する」も、やはり動詞なので、肉体を直接動かす動詞と同じように人間を動かし、その運動のなかに読者を引き込み、融合させる力をもっていることに気付かされる。
 松浦は「ことばの肉体」を動かす詩人なのだ。


松浦寿輝詩集 (現代詩文庫)
松浦 寿輝
思潮社

*

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北川透「距離」

2016-01-03 10:10:27 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「距離」(「現代詩手帖」2016年01月号)

 北川透「距離」は「距離・錯乱・傾き」というタイトルのうちの一篇。「一篇」ではなく「一部」かもしれないが、私は気にしないで、「一篇」として読む。
 その一連目。

チェ・ゼモックは言った
わたしという形式は傷だ と
わたしはわたしにたどりつけない
わたしは距離だから
距離は傷だ
あなたとわたしを隔てる海は傷だ

 これを読んだとき、起きたこと。
 二行目「わたしという形式は傷だ」と言ったのは「チェ・ゼモック」。しかし、三行目からは? 誰が言った? チェ・ゼモックが言った?
 それとも北川が考えた?
 つまり、三行目の「わたし」はチェ・ゼモックなのか、北川なのか。
 「文法的」には、どちらの読み方も成り立つと思う。
 で、そのとき、私に起きたことというのは、実は、いま書いたこととはまったく逆のこと。私は三行目以下を読むとき、それがチェ・ゼモックのことばか、北川のことばか、ということを完全に忘れていた。チェ・ゼモックが消え、北川も消えていた。
 「わたしという形式は傷だ」と断定するそのことばそのもの、ことばの運動に巻き込まれて、それが誰のことばであるか、考えなくなった。

わたしという形式は傷だ

 えっ、これって、どういうこと?
 その「疑問」が、それを言ったのがチェ・ゼモックであることを忘れさせる。だから、そのあと、三行目から登場する「わたし」が「誰」であるかを忘れてしまう。
 そのことばが、いったい何を表現しようとしているのか、そのことだけが気になる。
 「傷」というのは「比喩」である。
 チェ・ゼモックは「比喩」でしか言えない何かを言おうとしている。北川は「比喩」でしか言えない何かについて考えようとしている。「ふたり」は「共犯者」のように、そのことばのまわりで動いている。
 三行目以下は、誰が言ったことば(誰が考えたことば)であるにしろ、「わたしという形式は傷だ」ということの「言い直し」である。「わたしという形式は傷だ」では言い切れないことを、何とか言おう(考えよう)としている。
 で、

わたしはわたしにたどりつけない

 ここに「わたし」が「ふたり」登場する。「わたし」と「わたしではないわたし」。あるいは「わたしではないわたし」と「わたし」。最初に書かれている「わたし」はどっちなのか。わからない。たぶん、特定できない。どっちも「わたし」であり、また「わたしではないわたし」なのだ。
 この「矛盾」のようなあり方(形式)が「傷」。それは「傷」と、とりあえず呼んでつかみとるしかない何か。
 そして、「わたし」が「ふたり」いるということは、その「ふたり」は「分離している」のだから、そこには「隔たり/距離」がある。「ふたり」を「チェ・ゼモック」と北川と考えると「隔たり/距離」が「物理的」に見えてくるが、私はそうではなく、あくまで「わたし」「わたしではないわたし」と読む。
 この「ふたり」の関係が、「わたしは距離だ」と言い直す。
 言い直された「距離」は、「傷」を言い直したものでもある。
 ここには「三段論法」がある。「論理」の「算数」がある。
 「わたしという(形式)は傷だ」、「私は距離だ」、だから「距離は傷だ」。
 私は「三段論法」が「好き」なわけではないが、この「三段論法」の有無を言わさないスピード、暴力的なリズムというのは「好き」だなあ。「論理」というのは私の考えでは、どこかにかならず「間違い(誤り)」があるのだけれど、その「間違い(誤り)」を考えさせてくれないスピードが、なんとも言えず快感なのである。錯乱できる喜びが、そこにひそんでいる。それに酔ってしまう。
 というようなことは「脱線」?
 詩にもどると、その「三段論法」のあと、突然「あなた」が出てくる。
 誰? この「あなた」は誰? 「あなた」は詩を書いている北川ではない人間、「チェ・ゼモック」と考えると「関係」がわかったような錯覚に陥ってしまうが、何か、違うなあと私は感じる。やっぱり「わたし」と「わたしではないわたし」としか言いようのない関係なのだ。(「あなた」ということば、異質なことばが、「海」というちょっと抒情的なことばに結晶している、とも一瞬感じたが、これは書くと長くなるので省略。)
 「わたし」と「わたし」、「わたし」と「わたしではないわたし」、あるいは「わたしではないわたし」と「わたし」の間には「距離」があった。つまり「隔てられていた」。それがここでは「あなた」と「わたし」と言い換えられて、さらに「距離」という名詞は「隔てる」という「動詞」で言い直されている。
 うーん。
 「たどりつく/たどりつけない」という「動詞」、「隔てる」という「動詞」が「距離」を明確にしようとしている。
 で、その「距離」が「海」と言い換えられ、「傷」と呼ばれる。「海」と「傷」は同じものを、別なことばで言ったものである。
 えっ?
 同じものを別なことばで言うことがある?
 あ、「比喩」は、そういう表現行為だなあ。
 でも、どっちが「比喩」?
 「海=隔てる(距離)=傷」。このイコール(=)は、ほんとうにイコールなのか。違うんじゃないのか。
 「違う名詞」なのにイコールなのは、「名詞」ではなく、ほかのものがイコールなのではないだろうか。
 ほかのものって?
 私は、ここで「動詞」を考える。

 「たどりつけない」という動詞がこの詩のキーワードではないだろうか。
 「たどりつけない」というのは、しかし、「動詞」ではない。「動詞」としては「たどりつく」という形、「たどる」と「つく」という「動詞」があるだけである。「たどりつけない」は「状態」、「たどりつこうとしている」途中の「状態」。この「状態」をチェ・ゼモックは「形式」と呼んだのではないだろうか。
 「たどりつく/たどりつけない」という「動詞」の「間=隔たり/距離」に結びつく形で「わたし/わたしではないわたし」が結びついている。「肯定/否定」の強い結びつき、はやりのことばで言えば「分節されない状態」が、ここでは「比喩」として書かれていることになる。
 この「分節されない状態/状況/事故存在のあり方」が、あまりにも鮮烈に書かれているので、それを言った(考えた)のがチェ・ゼモックなのか北川なのか「区別できない」。つまり「分節」させてとらえることができない。
 この「未分節」に、私は強く引きつけられた。
 この私の感情(心理?/精神?)を「好き」ということばで言っていいのかどうか、よくわからないが、あ、いいなあ、このことばの強い結びつき、「好きだなあ」と感じたのである。強い結びつきを何とか揺り動かし、解体し、整理し直して、もう一度自分自身のものとして組み立てなおそうとする暴力的な(力業的な)ことばがカッコいいと思ったのである。

 二連目以降は「傷」が「海」と言い換えられている。「海は傷だ」というのが一連目の最後の「断定」だが、二連目以降は「傷は海だ」と言い換えられた上で、ことばが動いている。「海は傷だ」を「傷は海だ」と入れ換えて言い直されている。あるいは「身体(わたし)は海だ/海は身体だ」と入れ替わりながら動く。
 「わたし/わたしではないわたし」が入れ替え可能なように「海/傷」も入れ替えが可能なのだ。「わたし/あなた」「あなた/わたし」も、そのとき入れ替わるのだ。

永遠は地平線で腐乱している
身体は流れ波立ち
時に沖まで干上がるかと思うと
激しく打ち返す打楽器となる
身体は深い振動数の秘密だ
身体は利己的で貪欲で素晴らしい豚だ

 この二連目では「傷」は「腐乱している」と言い直されている。傷ついている肉体は「腐乱する」。「腐乱/腐乱する」には汚いイメージ、否定的なイメージがつきまとう。そういう汚れをはねのけるようにして突き進むことばの強さ、暴力的な輝きもいいなあ。そして、その「腐乱する」という否定的な動詞、変化しつづける流動性から見つめなおすと「形式(定まったもの)」は「永遠(定まったも/不動のものの)」と言い直されていることになる。「地平線」は「距離」を言い直したものだろう。
 これは、別々のことばで書き分けられているが、方便である。「永遠」を「傷」と読みかえ、「形式」を「腐乱している」という「動詞」で読み替えることもできるはずである。いや、そうしなければ、詩を読んだことにはならないだろう。「分節」されている「とば」を「未分節」に戻しながら、そこに動いているものをつかみとらないといけない。
 二行目に出てくる「身体」は「わたし」を言い直したものと読むことができる。「わたし」は「わたし/わたしではないわたし」という存在(形式)であったから、それは「安定」していない。つまり「流れ/波立つ」。とまることを知らず、不安定である。それが「海」の「あり方」と重なる。
 この「波」から「打ち返す」という「動詞」が呼び出され、「打ち返す」から「打楽器」が呼び出され、「打楽器」から「振動(数)」が呼び出される。それは、とりあえずそう呼ばれているだけであって、やはり「入れ換え可能」な存在であり、入れ換えながら読まないといけないのだと思う。「貪欲」と「豚」も「貪欲=豚」であると同時に「豚=貪欲」と読み替えることで「身体」がいっそう「動く」。肉体に存在が密着し、豚や貪欲になった気持ちになる。「形式」は「状態」であると同時に「動詞」としてそこに動いていることがわかる。
 このあと、三連目、さらに「波」から「波動」「突き崩す」「犯す」というような「動詞」の展開があるのだが、長くなるので端折って、四連目。

距離は定まることのない運動だ
錯綜する波線を描くわたしの位置が
おだやかな円を形成する時
身体の死が訪れる
おごりたかぶる傷はドブに落ち
痛みを看板に書く手は溺死する

 「距離は定まることのない運動だ」は一連目に戻って言えば、「わたし/わたしではないわたし」の分節できない(さだまらない)「形式」が、「たどりつけない」という「距離」を呼び覚ますということだろう。
 「わたし(身体)」とは「運動」である。つまり「動詞」である、と読むのは、まあ、私の強引な「誤読/我田引水」なのだろうけれど、この「我田引水/誤読」が「好き」ということなのだから、仕方がない。
 激しい運動(動詞)こそが「生きる/生」であり、運動が終わって「円」という「形式」になってしまっては、それは「死」にすぎない。「死」にたどりついてしまえば「傷」は単なる「痛み」の表象である。
 うーん……。
 でも、こう読んでしまっては、何かおもしろくない。
 「意味」になりすぎる。
 で。
 私は、実は、この四連目が「嫌い」である。
 私は北川のことばの過激なスピード、暴力/暴走が「好き」なのだ。暴力/暴走は「乱れる」ものだが、北川の暴力には鍛えられた強さ、文体の美しさがある。それがカッコいい。そのカッコよさのなかで「たどりつけない」という動詞をとおって「わたし/チェ・ゼモック/北川」が自在に入れ替わる。その自在な入れ替わりに、私(谷内)の肉体が巻き込まれていく。北川が書いていることばなのに、北川が書いているということを忘れ、このことばの運動の先に、私は何を考えることができるか。このことばを自分のことばとして、どうやって引き受けながら動かしていくことができるか、と考えはじめてしまう。
 セックスしている感じ。他人の「肉体」なのに、自分の「肉体」と思い込んで、どうすればもっと感じる? もっと興奮できる? もっと忘我になれる? このまま、自分からでて行ってしまう(エクスタシー)には、どうすればいい?
 なのに……。一連目、二連目と興奮して読んできたのに、その興奮が冷めてしまった感じがする。
 「意味」が、これは「あなた(谷内)」のことを書いているのではなく、北川が書いているのです、と私(谷内)を突き放す。
 私の「読み方」は間違っていて、ほかに「正しい読み方」があるのかもしれないが、それはいまの私にはわからない。つかみとれない。だから自分の無知をそのままにして、「嫌い」と開き直る。(あ、無知と言えば……「チェ・ゼモック」が誰なのか、私は知らない。調べることもしなかった。)
 きのう私は、今年はいままでよりももっとわがままに感想を書くと「宣言」したのだが、その「わがままな感想」の第一弾が、きょうの日記ということかな。


なぜ詩を書き続けるのか、と問われて
北川透
思潮社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

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2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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ご希望の方は、
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

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谷川俊太郎「テラス」(追加)

2016-01-02 11:05:34 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「テラス」(「現代詩手帖」2016年01月号)

 谷川俊太郎「テラス」について、もう少し書いておく。

焼身自殺という方法で
この世から出て行く僧侶の
魂の行方を知りたい
鳩が一羽足元まで来た

 この二連目のことばの動きが、私はとても好きである。特に「鳩が一羽足元まで来た」が好きでたまらない。
 きのう感想を書いた直後、なぜそこが好きなのか、もう一度考えられないか、もう一度ことばを動かせないか、と思った。でも、そうするためには一度完全にこの詩を忘れないといけない。
 で、一晩置いた。
 きのうと同じことを書いてしまうのか、それともまったく違う感想になるのか、わからないが、なぜ好きなのか、そのことをもう一度書いてみようと思う。

魂の行方を知りたい

 これは谷川の「願望/欲望」である。一連目の「物語の流れに身を任せたくない/むしろ曼陀羅の片隅に身を隠したい」と同じ「……したい」という形の動詞で終わっている。(「任せたくない」は「任せたい」の否定形である。)「……したい」は「欲する」という動詞に置き換えることができる。言い直すことができる。
 「知りたい」というのは、しかし、また別の「動詞」で言い直すことができる。「知ることを欲する」よりも、もっと簡単ないい方がある。

魂はどこへ行ったのか

 疑問である。一連目で「……したい」という表現をつかったために、二連目でも「……たい」という形をとることで、「起承転結」の「承」の感じをととのえているのだが、「疑問」をあらわしているととらえることができる。
 「疑問」に対しては「答え」が必要である。一般的に。
 だから「答え」を「鳩が一羽足元まで来た」に見出そうとすると、「魂」は「鳩」になって谷川の「足元」にきた、という「意味」になる。「意味」といっても、これは「象徴/暗示/啓示」のようなもの。
 でも、私は、そういうふうには読みたくない。何か、違うと感じる。鳩はほんものの鳩にしか感じられない。「意味」をもっているとは感じられない。
 「質問(疑問)」には、「答え」がないものがあるのではないのか。「疑問」そのものが「答え」であるようなことがらがあるのではないだろうか。
 焼身自殺した僧侶の魂はどこへ行ったのか。
 疑問の形でしか、魂の存在はつかめない。疑問に思ったとき、その疑問のなかに魂がある。「どこかにある」のであって、「どこかにある」以外のほかのどこにも魂は存在しない。特定/限定できない。「どこにあるか/どこかにある」は一つになっているので、それはそういうものなのだと言うしかない。
 では、そのあとの

鳩が一羽足元まで来た

 これは何なのか。「答え」ではないとしたら何なのか。
 「疑問」からの「解放」である。「どこにあるか/どこかにある」を、そのままほうり出して、その「疑問/答え」から「自由」になる。束縛されない。
 「自由」というのは「ほんらいの存在の形(あり方)」かもしれない。すべての存在は「限定されない/特定されない」という「自由」をもって生きているはずである。
 この「自由」を一連目にもどって、一連目のことばを動かすと、つまり「自由」ということばを補って動かしてみると……。

物語の流れに身を任せたくない
むしろ曼陀羅の片隅に身を隠したい

 は

物語の流れに身をしばられず、自由にいたい
むしろ曼陀羅の片隅に身を隠したい、自由にいたい

 ということかもしれない。

 三連目の「信用」は「自由」とは「正反対」のものなのかもしれない。「信用」のためには「自由(好き勝手)」は許されない。
 繰り返される「信用しているのか」という「疑問」。
 では、この「疑問」は「焼身自殺した僧侶の魂はどこへ行ったのか」という「疑問」とどう違うのだろう。
 たぶん「答え」があるのだ。「信用しているのか」の方には。
 つまり、「答え」を出すことができるのだ。あるいは、「答え」を必要としていると言えるかもしれない。
 「信用する」というのは「人間」と「人間」の関係、社会的な関係である。社会であるかぎり、そこに一定の「基準」がある。「ルール」がある。
 「魂」なら「鳩になった」と言っても、「木になった」と言っても、「空になった」「星になった」と言っても、「間違い」ではない。「間違い」であると証明できない。私のように「魂なんて存在しない」と言っても「間違い」であると証明できない。何と言っても「自由」である。
 「社会(人間の信用が動いている場)」では、「信用」を裏切ることはできない。「自由」は制限される。どんな疑問にも一定の「答え」がある。
 赤信号のときも道路を横断していいか、だめ。ひとを殺してもいいか、だめ。
 それは他人の「信用」を裏切るから、だめなのだ。
 四連目の最後に出てくる「よちよち歩きの子」は、そういう「ルール」から、まだ「自由」な存在である。まだ「限定」を踏み外して歩き回ることが許されている。
 足元にやってきた鳩。これは何? なぜ、逃げる? なぜ、飛ぶ? 逃げたのに、また、なぜ近くにやってくる? 鳩は、なぜ、そんな行動をする? もし「答え」があるとするならば、「そうするのが鳩」という答えしかないだろう。
 同様に。
 「よちよち歩きの子」が足元の鳩を追いかけるのはなぜ? そうするのが「よちよち歩きの子」なのだ、という答えしかないだろう。
 それは「答え」のふりをしているが、「答え」ではなく、そういう「答え」を引き出す「疑問」が「そこにある」としか言えない。

 あ、何か、書きたいこととずれてしまったかなあ。

 強引に言ってしまえば、私は、谷川の書いている「疑問」と「答え」の関係、「無意味」の浮かび上がらせ方が「好き」なのだ。

 「好き」かどうかでは、詩の「批評」にならない。詩を「評価」したことにはならない、という考え方があると思う。
 まあ、そうなんだろうなあ。
 ただ、私の考えを言えば、私にとって「詩」とは「対象」ではない。
 ある詩を「好き」になるとき、その「詩」、ことばを「対象」として「好き」と言っているのではない。
 「好きになる」というのは「対象そのものになる」ということだ。
 これは「好き」の「対象」を「人間」で考えるとわかりやすい。誰かを「好き」になる。そのとき、私は「そのひと」になってしまっている。「そのひと」は「私」である。だから、「私であるはずのそのひと」が「私」の思いとは違ったことをすると、なぜなんだ、という気持ちに襲われる。そこから何かを見つけ出し、さらに「好き」になることもあれば、「大嫌い」になることもある。
 「好き」は「対象になる」ことだけれど、「対象に縛られることはない」。わがままで、矛盾している。

 私の「日記」は詩への「批評」を書いたものではない。詩を対象として「評価」(採点)しているものではない。私は、出合って「好き」になった詩そのものに「なりたい」。
 この「なりたい」は詩だと欲望がつたわりにくいかもしれないが、音楽を例にとるとわかってもらえると思う。(私は音痴なので、自分にはできないことなのだが……。)
 たとえばモーツァルトの曲がある。それは演奏の「対象」である。しかし、それを演奏するとき、たぶん演奏者は「対象」として曲を認識しない。そうではなく、モーツァルトの書いている「音楽」そのものに「なる」ために演奏する。演奏することでモーツァルトの「音楽」に「なる」。そしてモーツァルトそのものに「なる」。そんなふうにして、私は「詩」に「なりたい」。
 谷川が「焼身自殺した僧侶の魂の行方を知りたい(魂はどこへ行ったのだ)」と書いたあと、足元まで来た「鳩」を書いている。その「鳩」のことを谷川は「好き」だと思う。「好き」だから鳩を書いたのだと思う。そして、そのとき谷川は鳩に「なっている」と感じる。私がその「鳩」に意味を感じないのは、谷川は「意味」になったのではなく「鳩」に「なっている」からである。谷川が「鳩になった」ように、私は、「好きな詩になりたい」。そのために、わがまま放題にことばを動かして、感想を書く。

 いままでもわがままな感想を書いてきたが、ことしはもっともっとわがままな感想を書きたいので、前もって「わがまま宣言」をしておくことにする。


現代詩手帖 2016年 01 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
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平林敏彦「生きて、書く」、谷川俊太郎「テラス」

2016-01-01 10:46:13 | 詩(雑誌・同人誌)
平林敏彦「生きて、書く」、谷川俊太郎「テラス」(「現代詩手帖」01月号)

 平林敏彦「生きて、書く」は「詩を書くぞ/なにがなんでも 詩を書くぞ」という大岡信の引用からはじまっている。
 その二連目の「詩を書いた仲間があつまって来る」ということばのあとに、

かれらは感傷に溺れることを拒まない
みんな詩が好きで好きで
生きのびてきたのだと

 という三行がある。
 いいなあ。「感傷に溺れることを拒まない」。これを「好きで好きで」と言い直している。好きなんだから、他人の批判なんか関係ない。感傷に溺れて何が悪い! 「好きで好きで」の繰り返しがいい。一回言うだけでは満足できない。言った気持ちになれない。
 これを四連目で、また言い直している。

寝ても覚めてもおれたちは
詩という毒に衿首をつかまれたのだ

 「好き」は「好きになる」という「自発的」な行動ではない。「好き」にさせられるのだ。そして「好きにさせられた」のに、そこに「強制的」なものを感じない。「好きになる/好きにさせられる」は区別がない。
 それは、冒頭の大岡信の「詩を書くぞ/なにがなんでも 詩を書くぞ」のことばについても言える。そう言ったのは大岡信だが、そのことばを引用したとき、それは平林のことばにもなる。厳密な「区別」は意味がない。

 では、私は、私の「好きな詩」について「感想」を書きつづけよう。
 「好き」になってしまえば、もうそれは誰が書いた詩であっても、関係がない。「私のことば」として「好きなように」読む。「誤読」する。「そんな意味じゃない」と言われたって知ったことじゃない。間違って好きになって何が悪い。
 そこにことばがある。それを読む。誰が書いたものかで区別してもはじまらない。「私が読んだ」ということだけがある。「読んで好きになった」という事実だけがある。だから、私は今年もわがまま放題を書く。



 谷川俊太郎「テラス」の全行。

物語の流れに身を任せたくない
むしろ曼陀羅の片隅に身を隠したい
と思いながら午後のテラスに座って
老若男女が行き交うのを見ている

焼身自殺という方法で
この世から出て行く僧侶の
魂の行方を知りたい
鳩が一羽足元まで来た

みな人類の一員なのだ
どこまで自分を信用しているのか
人類を信用しているのか

知らず知らずのうちに
強面の口調になっている私の内心
よちよち歩きの子がいるとほっとする

 最終連も印象的だが、私は二連目の「鳩が一羽足元まで来た」が好きだ。
 「魂」というものが存在すると私は考えたことがないので、「意味」をとろうとすると、そこでつまずいてしまうのだが。書いていることがかなりいいかげんになるのだが……。
 「鳩」は何だろう。焼身自殺した僧の「魂」と読むと「意味」になる。ただの「鳩」、寺や駅のホームにもいる誰のものでもない「鳩」そのものと読むと「無意味/ナンセンス」になる。
 「意味」に読むこともできるが「無意味/ナンセンス」としても読むことができる。どっちでもいい。その感じが私は好きだ。そして、どっちでもいいと思うからこそ「無意味/ナンセンス」の方に力点を置いて、「ここが好き」と言う。
 でも、そう言ったあとで、困る。三連目に困る。
 ここには「意味」しか書いてない。「意味」というのは、別なことばで言うと「論理」。抽象的で、「もの」が動いていかない。「ことば」が「考え」として動いている。「考え」だから、それこそ、どうとでも考えることができる。「ありえないこと」さえ人間は「考える」ことができ、その「ありえない」ことを「ことば」として存在させ、あたかも「ある」かのようにみせかけることができる。いや、実際、そうやって動いた「ことば」がそこに存在してしまう。
 三連目の一行目の「みな」ということばが、そういう「論理」の無責任さ(?)に拍車をかけている。「みな」って誰? 私は読んだ瞬間、二連目の「鳩」と思って、そうか、「鳩」も人類か、うれしいなあ、と感じたのだが、これは私がそう読みたいだけで違うだろうなあ。
 一連目に「老若男女」ということばがある。二連目に「僧侶」が出てくる。「鳩」は「無意味/ナンセンス」そのものであり、「みな」の「意味(内容)」は「老若男女」「僧」を引き継いでいるんだろうなあ。行き交う人々や僧は「自分を信用しているのか」「人類を信用しているのか」。
 こういうことを「考える」のはなんだか、めんどうくさい。
 こういうめんどうくさいことを考えてしまうことばの動きを、谷川は四連目で、ふたつのおもしろいことばであらわしている。

知らず知らず

 「意味(論理)」というのは意識的に追いかけるときもあるが、ときには知らず知らず、無意識に動いてしまうことがある。「意味(論理)」だけを勝手に追いかけて、ことばがことばのなかを暴走する。ことばの暴力である。ことばの肉体は、暴走するものなのだ。自分自身が何ができるかは問題ではなくなる。三連目に即して言えば、そこで問われているのは「みな」であり、谷川は自分は「何を信用している」とは書いていない。書かずに、他人に問いかける。そこに、ことばの暴力がひそんでいる。
 もうひとつ、

強面の口調

 「強面」という表現のなかに「暴力」がなんとなく隠れている。「強面の口調」とは「意味」をおいつづける口調のことだ。「意味」をおいつづける、「意味」にしばられると、「口調」が「強面」になる。あ、避けたい。近付きたくない、と思うときの「口調」だね。
 で、そのあと、「口調」はそんなふうに「論理」を無意識に、抽象的に追っているのだが、ここで谷川は突然立ち止まる。「内心」ではどうか。自分自身に「自分を信用しているか/人類を信用しているか」と問いかける。そして、違うものを発見する。

よちよち歩きの子がいるとほっとする

 「よちよち歩きの子」は「意味/論理」を追いかけない。たとえば「足元に来た鳩」をただそこに「鳩がいる」というだけのことで「鳩」を追いかける。追いかけると逃げる。逃げるだけではなく、飛ぶ。つかまえられない。つかまえられないのに、そのことが楽しい。「無意味」が楽しい。
 そこでは「意味」はまだ生まれていない。「未生」である。「意味」は「未生」でも「肉体」はすでにある。その「意味にしばられる前の肉体」を思い出せる、思い出すということが楽しいなあ。
 そして、こから三連目へ引き返してみる。「信用している(信用する)」ということばが二度出てきている。谷川は何を「信用している」のか。「強面の口調」ではないな。むしろ、「よちよち歩きの子」を「信用している」。
 四連目の最終行の「ほっとする」は「信用している(信用する)」に通じる。それは「信用できる」「安心できる」という具合に言い直すことができる。「強面」は「安心できる」こともあるかもしれないが、なんとなく「警戒心」を誘う。
 「知らず知らず」無意識のうちに意味ということばの暴力へと突き進んでしまったが、そこで立ち止まり、谷川は「よちよち歩きの子」にもどることができる。「意味」を捨てて、「無意味」に生きることができる。その、瞬間的にぱっとあらわれた谷川の姿に、私はそれこそ「ほっと」する。「はっと」して引き込まれる。
 谷川は「無意味」を「信用している」。「無意味」のなかにある、不思議な力をを信用している。それは「強面」ではない何かだ。「やわらか」な何かだ。
 で、ここからさらに一連目へ引き返すことができる。

物語の流れに身を任せたくない

 書き出しの「物語の流れ」とは何か。きっと「意味」の流れ、「意味の形」なのだろう。「流れ」というからには、ある「方向」がある。「意味」とは「方向」のことである。「方向」にあっているものが「意味」として尊重される。「流れ/方向」から逸脱していくものは「無意味/ナンセンス」として否定される。
 だから、ここでは谷川は「意味になること」に「身を任せたくない」と言っているのだと思う。
 「曼陀羅」にももちろん「意味」はあるだろうけれど、それは「物語」のように「流れ」をつくっていない。どこまでも広がっている。

 あ、こんなふうに書いてしまうと、それはそれで「意味」になってしまうなあ。
 やっぱり最初にもどろう。
 二連目の「鳩が一羽足元まで来た」がいいなあ。その「鳩」に「意味」などなくて、意味がないからこそ、むじゃきに追いかける「よちよち歩きの子」になることができる。「意味」(物語)の「流れ」とは無関係に存在している「肉体」、「肉体」で「鳩」と向き合う瞬間がいいなあ。二連目で「鳩」に気がつくとき、谷川は「よちよち歩きの子」になっている。「焼身自殺」「僧侶」「魂」というようなことばのすぐあとでも、谷川は「よちよち歩きの子」に「なる」ことができる。そこが好きだなあ。


ツィゴイネルワイゼンの水邊
平林 敏彦
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あたしとあなた
谷川 俊太郎
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