詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ビリー・レイ監督「シークレット・アイズ」(★)

2016-08-19 11:02:19 | 映画
監督 ビリー・レイ 出演 キウェテル・イジョフォー、ジュリア・ロバーツ、ニコール・キッドマン

 アルゼンチン映画「瞳の奥の秘密」のリメイク。
 うーん、こういうストーリーだったかなあ。よく思い出せない。たたき揚げの刑事(男、キウェテル・イジョフォー)がエリート刑事(女、ニコール・キッドマン)と組んで殺人事件を追う、というようなストーリーではあったかもしれない。たしか、男は刑事をやめて、作家になり、昔とりあつかった殺人事件を小説にしようとしているのだったと思う。そのために、女に会いに来たのだ。
 おぼえているのは、このふたりの微妙な関係である。男が、女に対して愛を打ち明けられない。身分の違い(?)たたき揚げの刑事とエリート大学を出ている女の「身分」の違いゆえに。これが、とても深い映像の中で動くのがおもしろかった。よくおぼえていないが、この抑えきった恋愛が、妙に事件の捜査に曖昧な陰影をひきずっていく。なんとなく、恋愛が捜査を鈍らせる、という感じだったかなあ。
 でも。
 こういう「身分違いの恋」、あるいは恋愛が捜査に影をおとすというのは、よく知らない国(アルゼンチン)なら、そういうこともあるかもしれないなあと思いながら見ることができるんだけれど、あけすけ個人主義のアメリカで、いまどきこんな恋がある? という妙な「疑問」に邪魔されて、のめりこめない。恋愛にも事件にものめりこめない。アメリカの刑事(警官)なんて、みんなわがまま、自己主張が強い。見る先から、「ありえないなあ」という感じだけが、邪魔する。見ていて、嘘っぽい。
 これにたたき上げ刑事の友人の女(ジュリア・ロバーツ)が絡んでくるのだけれど、なんだかめんどうくさい。ジュリア・ロバーツは男の「恋心」を知っていて、からかったりするだが、おもしろくないなあ。邪魔にみえてしようがない。そのうえ、うさんくさい感じさえし始める。
 そして、こういう人物が、こういうストーリーものでは最後に重要な役として表に出てくるのだが、途中の「邪魔さ」かげんが影響して、「ネタばれ」のような「効果(逆効果?)」になってしまう。やっぱり、うさんくさかった、なんて思ってしまう。こうなってしまうと、だめ。

 あ、でも、問題は、そういうところにはないかもしれない。

 この映画が全然おもしろくないのは、「ストーリー(脚本)」というよりも、実は「映像」のせいである。役者の肉体(演技)そのものせいである。
 「瞳の奥の秘密」には、映像に「深い闇」があった。主役の男の目(たぶん、黒)や髭(黒)、女の目(これも黒)に「黒」が共通している。そして、それが「室内」で動くと、あるときは存在が「闇」にとけこみ、あるときは「黒い」はずなのに、「光る」。黒い目が光る。そうすると、そこに何かが動いてみえる。それがそのまま「秘密」にみえてくる。「恋心」が、暗くて美しい。「黒」がとても美しいのである。
 アメリカ映画は、こうい「黒」を撮ることができない。
 「ゴッド・ファザー」だけが唯一の例外で、あの「漆黒の黒」の美しさは、映画であることを忘れさせる。「黒」の美しさが劇場にいる観客を、マーロ・ブランドの書斎へ引きずり込む。
 この映画の「黒」は「黒」ではなく、ただ「暗い」だけ。不鮮明なだけ。これでは「秘密」にならない。ジュリア・ロバーツの半分泣いたような目は単にセンチメンタルなだけだし、ニコール・キッドマンは金髪のせいもあって「鋭い」感じはあっても、深みがない。キウェテル・イジョフォーに対してこんなことを書くと「差別主義者/レイシスト」みたいだが、瞳の黒さではなく白目の方が光ってみえて、闇の不思議さが出ない。
 「瞳の奥の秘密」をもう一度見てみたい、という気持ちにだけはなるなあ。
                     (KBCシネマ1:2016年08月18日)




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瞳の奥の秘密 [レンタル落ち]
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本郷武夫「川面は光っていて」

2016-08-18 10:19:46 | 詩(雑誌・同人誌)
本郷武夫「川面は光っていて」(「GANYMEDE」67、2016年08月01日発行)

 本郷武夫「川面は光っていて」は文体に強いものがある。ことばが断片化されず、粘着力がある。

水道橋からの川面は光っていて、中が見えない。
斜面の緑が鮮やかで、木々は警官のように風に揺れている。

 書き出しの一連、二行。「警官のように」の「警官」という比喩が少し異様だが、ぐいと迫ってくる力がある。たぶん、一行目の「中」ということばが影響している。
 「水道橋からの川面は光っていて、中が見えない。」というときの「中」というのは「川の内部=水中」のことである。光の反射がまぶしくて、水中までは見えない。そういうことは誰もが経験することである。
 ひとは「内部=中」を見ないで「表面」だけを見ている。
 その「表面」の風景を、川からその周辺にうつして眺めてみると、緑が見える。緑とは木々のことである。その「木々」が「警官」に見える。「内部」が「警官」に見える、とうことだろう。
 「警官」とは何か。たぶん、本郷を監視しているだれかだろう。本郷の行動を監視している誰か。そして行動を監視するとは、「表面」にあらわれた動きだけではなく、本郷の「内部/中」を監視することである。このとき「内部/なか」とは「ここころ」とか「精神」になる。
 で、二連目。

病院から出て、横断歩道をわたり丸善に入る。
ページを捲り、表紙絵や挿入図を見ただけでそのまま
反対の入り口から出て、ふっと、「また病院へ帰ろう」と思った。
直通のエレベーターが在ってあの部屋は守られている

 ここでは「入る」という動詞と「内部」がしっかりとからみついている。切り離せない。「病院から出て」の「出る」さえもが、「丸善に入る」とすぐ「入る」という動詞にかわり、「内部」を呼び寄せる。
 「内部/中」には、大きく分けて二種類ある。
 ひとつは「他者の内部」、もうひとつは「私の内部」。
 一連目にもどって「川面は光っていて、中が見えない。」は、一見したところ「川の内部/他者の内部」のように見える。しかし、その「中」を「内部」と意識したときから、それは「本郷の内部」の「比喩」のようにも見える。そして、その「比喩」としての「内部」が「木々は警官のように」の「警官」という比喩を木々の「内部」にもちこむのだが、このとき「警官」は「内部」でありながら「外部」でもある。本郷の「内部」から「外」へ出てきて、「形」になったもの。
 「他者の内部」「私の内部(本郷の内部)」が交錯する。「他者の内部」を意識すると「本郷の内部」が誘い出され「外部」になる、ということかもしれない。
 「丸善」というのは「本郷の外部」。けれど、その「内部」に入り、さらに「丸善の内部」の「内部」という「本」のなかへ入ろうとすると、何かが「本郷の内部」から外へ出てきてしまう。

「また病院へ帰ろう」と思った。

 「思い」が出てきてしまう。そして「外部」に「病院」をつくってしまう。病院は最初からあるのかもしれないが、そこから出てきたとき「病院」は無用のもの、ないに等しいものになっているから、「また病院へ帰ろう」と思ったというときの「病院」は「本郷の内部/記憶/意識」にあったものが、新しく「外部」として生み出されたものである。
 そのなかへ、帰っていく。これは「本郷の内部」へ帰るというのに等しい。

直通のエレベーターが在ってあの部屋は守られている

 ここにはふたつの重要な「動詞」がある。「直通」というのは「直通する」という動詞派生の名詞であり、そこには「直通する」が隠れている。もう一つの動詞は「守られている/守る」である。
 「内部」はいつでも本郷と「直通している」。そして「内部」はいつでも「守られている」。「守る」ために「病院」という「外部」が生み出されている。
 ここにも「交錯」があるのだが、この交錯こそが「粘着力」というものである。

 「空っぽに成った部屋から庭を眺める。」には、こんな行がある。

3月3日 ひな祭りの日は夕方までのことを聞かれて
幾度も同じことを答えていた
それから亡骸と
自宅に帰った

前も後ろも繋がって 時間が
なじっている
・・・・雨降り人形

 「亡骸」は「内部が空っぽになった肉体」ということかもしれない。自分自身のことだ。「内部が空っぽになった肉体」が「亡骸」という「比喩」になって、「外部」にあらわれている。
 そういうことを書いたあとの「前も後ろも繋がって」の「繋がる」という動詞がおもしろい。「前」「後ろ」と別のことばで言うことができるのだが「つながる」と、それはどこかで「融合」する。「区別のつかない領域」を持ち始める。これを「粘着力」と言いなすことができる。
 「前と後ろが繋がって」というとき、何の「前と後ろ」か。そのすぐあとの「時間」の「前と後ろ」かもしれない。幾度も同じことを答えると、「時系列」の「前と後ろがつながって」しまう。短縮(凝縮)してしまい、どこかで「まじりあう」。その「区別のなさ」。これを、本郷は「なじっている」と言いなおしている。
 あ、なじる、か。
 私は、何か納得してしまう。
 「なじる」と「批判する」は違うかもしれないが、どこか自分を客観視しすぎる力があって、つまり自己批判をする力が本郷にはあって、それが「外部/内部」という「構造」をつくりだし、その構造の中で苦悩しているように感じられる。「外部/内部」は、そのまま安定した構造ではなくて、つねに「生み出される」ものなので、構造なのに動き続ける。その動きを引き止めようとするものと、さらに構造を追加しようとするものが、せめぎ合い、それが「しつこさ」というか「粘着力」になっている。

 本郷の詩を、私は読んだことがあるかどうか、わからない。もっと多くの詩を読むことができれば、さらに本郷の「粘着力」について考えることができるかもしれない。とても気になる「文体」である。

夜は庭が静かだね一行読めればいい (烈風圏叢書)
本郷武夫
港の人
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『詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント』の入手方法

2016-08-17 22:50:49 | 自民党憲法改正草案を読む
『詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント』をアマゾンで購入される方へ。
下のURLをクリックしてください。
アマゾン本店(?)とポエムピースと、ふたつの購入先が表示されます。
アマゾン本店の方は、なぜか、ずーっと「入荷待ち」の状態です。
(予約を受け付けていたのに、発売になったとたんに「在庫なし」。
もちろん発送もされていません。--という情報があります。)


https://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4908827044/ref=sr_1_1_olp?s=books&ie=UTF8&qid=1471441278&sr=1-1&keywords=%E8%B0%B7%E5%86%85%E4%BF%AE%E4%B8%89

アマゾンは、どうも中小の出版社には冷たいようです。
2年前に『谷川俊太郎の「こころ」を読む』を出版したときも、発売後1か月くらいは「在庫ゼロ」という状況がつづきました。

なお、サイン入りをご希望の方は
yachisyuso@gmail.com
までお知らせください。
1200円(税なし、送料込み)で販売します。
版元から取り寄せての配送になるので時間は多少かかりますが、アマゾンよりは早くお届けできると思います。

書店での販売は、地方では遅れます。
福岡のジュンク堂の話では「東京先行販売なので、入荷はいつになるかわからない」ということでした。
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中井ひさ子「甕」

2016-08-17 22:26:49 | 詩(雑誌・同人誌)
中井ひさ子「甕」(「GANYMEDE」67、2016年08月01日発行)

 中井ひさ子「甕」の前半。

台所の片隅から
蓋つきの甕が出てきた
うすく積もったほこりを払う

蓋を開けると
甲高い声が飛び出した

入れるものがないのなら
考えなしに買うんじゃない
空っぽの寂しさは
骨身にしみているくせに

 さて、この「甲高い声」というのは何だろう。「甕」の叫びである。しかし、甕はものをいったりしない。でも、中井は、その声を聞いた。それは中井にだけ聞こえる声。ということは、それは中井の声かもしれない。
 で、

骨身にしみているくせに

 この一行について、私は考えるのである。「骨身にしみている」とは別のことばでいうとどうなるか。「知っている」である。「骨身にしみて知っている」という具合に重複してつかうこともある。「骨身」は「肉体」、「肉体」にしみている。「しみる」は中まではいっている。あるいは「中身」そのものになっている。切り離せない。
 こういうときの「知っている」は「おぼえている」でもあるなあ。
 「おぼえている/知っている」、でも、ふつうは口に出しては言わない。そういうことが、ふいに「肉体」の奥からあふれてきた。
 「甕」が中井の「肉体」と重なった。
 ことばが先に重なったのか、「肉体」の方が先に重なったのか。区別がつかない。けれど、その「甲高い声」は「甕の声」であり、その「甕という肉体」は「中井の肉体」でもある。
 このあとも、「知っている」声が聞こえる。声に出さなかったけれど、「肉体」のなかで叫びつづけた声「おぼえている」。それを思い出してしまう。

何とかせんと
こんなことしていたらあかん
あんたの
流し台での独り言
いやというほど聞かされた

 これは「甕」が話していることになっているけれど、中井が言いつづけたことばなのだ。「何とかせんと/こんなことしていたらあかん」と台所で、自分だけに、声に出さずに何度も言い聞かせた。そんなことを思い出している。こういうことはだれにでもあることだから、こんなふうに中井の姿を想像するのは、実は私自身を思い出すことでもある。

なのに
どうして
あんたは甕の気持ちに
知らんぷり

その上
台所の隅っこは
けっこう冷たい風が吹く

 ここが、とてもおもしろいなあ。
 「空っぽの寂しさ」とか「こんなことしていたらあかん」というのは「気持ち」になりすぎていて、それが「意味」の押し売りのようにも聞こえる。つまり「同情」を誘う。「同情」を強要する、強要されたという感じにもなる。
 そして、その「同情」というか、「同情の対象」(寂しい/こんなことしていたらあかん)というのは、中井だけの「気持ち/意味」ではなく、私なんかも「わかる」、つまり「自分の中におぼえている気持ち/意味」なので、ちょっと「べたっ」とした感じにもなる。この「べたっ」が「よくわかる」と思うときもあるが、「うるさくていやだなあ」と感じることもある。「感情」というのは、知っている(わかっている)だけに、面倒である。
 それを、ぱっと吹き払う。

台所の隅っこは
けっこう冷たい風が吹く

 というのは「感情」ではなく、「事実」。すきま風が吹くからねえ。こういうことも「肉体」がおぼえていること、知っていること。
 「感情」のあとに、こういう「事実」が書かれると、「感情」のしつこさがぱっと消える。思わず、笑い出してしまう。
 で、そのとき。
 ちょっと前にもどるのだが、「知らんぷり」と、そこに「知る」ということばがある。「知る」という動詞があるところがおもしろい。「知っている」をつきはなしている。「知っている」のに「知らない」ことにする。そこに、ちょっと、生きていく「力」のようなものがある。

甲高い声は止まらない

次の日
この甕しゃべります と
三千円で売りにだした

 ここでは、もう「感情」は完全に吹っ切れている。「寂しさ」あるいは「かなしさ」のようなものが、「笑い」になっている。
 「えっ、しゃべるんですか? でも、なんてしゃべるの?」「買ってみれば、わかります。買わないと、わかりません」
 そんなやりとりがあるわけではない。
 ただし、この詩を読んだひとには、「この甕しゃべります」は、とてもよくわかる。なぜわかるかというと、どんなふうにしゃべったか「知っている」からだ。

 この詩には「知っている/わかっている」ということばが省略されている。「知らんぷり」という複雑な否定の形が隠されている。そのために、逆に、こういうこと「知っている/おぼえている」という感じる。「わかる」「わかったこと」が「骨身にしみる」。

 あ、私の感想は「しゃべりすぎた」かもしれない。


詩集 思い出してはいけない
中井 ひさ子
土曜美術社出版販売
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自民党憲法改正草案を読む/番外9(核兵器先制不使用政策)

2016-08-17 10:25:56 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外9(核兵器先制不使用政策)

 毎日新聞(2016年08月16日、デジタル版)が、次のニュースを報道している。

<安倍首相>核先制不使用、米司令官に反対伝える 米紙報道
 【ワシントン会川晴之】米ワシントン・ポスト紙は15日、オバマ政権が導入の是非を検討している核兵器の先制不使用政策について、安倍晋三首相がハリス米太平洋軍司令官に「北朝鮮に対する抑止力が弱体化する」として、反対の意向を伝えたと報じた。

 このニュースへの疑問点はふたつ。
 (1)なぜ、アメリカの「核兵器の先制不使用政策」が「抑止力を弱体化する」ということになるのだろう。
 核兵器を持っている国が、他国から核攻撃を受ける前に核兵器をつかわないこと、というのが「核兵器の先制不使用政策」ということだろう。
 具体的には、アメリカは核兵器を持っている。しかし、たとえば北朝鮮がアメリカに対して核攻撃を仕掛けてこない限りは、アメリカは北朝鮮に核攻撃をしないというのが、「核兵器の先制不使用政策」。
 では、「核兵器の先制不使用政策」をアメリカがとったとして、実際に核兵器をつかうのはどういうときか。
 北朝鮮がアメリカに対して核攻撃をしてきた。それに対抗するためにアメリカが核攻撃をする。これは一種の「防衛」か。北朝鮮が戦争を仕掛けてきた。それに対して「防衛」するために北朝鮮に核攻撃をする。
 こういう政策では「抑止力が弱体化する」というのは、どうしてだろう。
 北朝鮮の核兵器がどれくらい持っているか私は知らないが、アメリカが持っている数よりは少ないだろう。その規模も小さいだろう。ということは、アメリカは北朝鮮が使用した核兵器より多くの核兵器、しかも強力な核兵器で北朝鮮に反撃できる。アメリカが受けた被害よりも大きな打撃を北朝鮮に与えることができる。被害の大小を言うことは核兵器の場合問題があるが、核兵器戦争の場合、どうみたってアメリカが北朝鮮に勝つ。
 そうわかっていれば、それは「抑制力」として十分に機能するのではないか。
 だいたい、アメリカや北朝鮮は、何のために核武装するのか。自国を守るため(他国に核兵器を使用させないため)ではないのか。
 先に核兵器を使用する権利を放棄すると自国の平和が守れないというのは、戦争を仕掛けてくると予想できる国に対して先に攻撃を仕掛けないと自国の安全を守れないというのに等しい。

 安倍の論理は、核兵器だけでなく、他の兵器についても同じように適用されるだろう。安倍は「核兵器」だけではなく、他の武力しようについても、同じように考えているのではないだろうか。
 つまり、自分の国に対して攻撃を仕掛けてくるかもしれない国に対しては、先に攻撃する権利を残しておく必要がある。攻撃されたから反撃するという方法では安全は守れない。「武力の先制不使用」では「戦争の抑止力が弱体化する」という主張につながる。
 こういう「論理」では、どうしても先に攻撃しなければいけない、という「結論」になってしまうだろう。
 日本にこれをあてはめると「自衛隊(専守防衛)」では「戦争の抑止力が弱体化する」という「論理展開」にならないか。

 そこでふたつめの疑問。
 (2)この「専守防衛(自衛隊)」では「戦争の抑止力が弱体化する」という「論理展開」を「自民党憲法改正草案」にあてはめるとどうなるだろうか。

第九章緊急事態
第九十八条
内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。

 ここに書かれている「我が国に対する外部からの武力攻撃」とは基本的には「我が国に対する外部からの武力攻撃を受けたとき」と読むのだと思う。「内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害」というのも、そういうことが「起きたとき」と読むのだろう。
 しかし、明確に「受けたとき/起きたとき/発生したとき」とは書いていない。
 読み方によっては「受けると予想できたとき/起きると予想できたとき/発生すると予想できたとき」と読むことができる。
 そして、あらゆる「対処」というのは、それが発生したあとで進めるよりも、発生する前に「対処」する方が効果的である。
 たとえば「津波」が発生する。津波が陸地に押し寄せ、被害をもたらすまえに、津波の発生を迅速に伝え、住民の避難を促し、人的被害を最小限におさえることが大事だ。津波の発生が予想された段階で「緊急事態」を宣言し、強制的に住民を避難させる方が効果的である。
 同じように、「戦争」も、攻撃を受けてから対処するよりも、受ける前に対処する方が効果的ということになるだろう。安倍は、そう読みたい願望を持っていると、私は思う。
 「核兵器の先制不使用政策」に反対というのは、「核兵器の先制使用」に賛成ということであり、核兵器の攻撃を受けるかもしれないと予想できるなら、先に核攻撃をし、相手に核攻撃をさせないという「対処」方法をとるべきだということであり、それは通常の兵器(武力)についても同じ。
 「自衛隊」(専守防衛)では、安全を守れない。「戦争の抑止力にならない」と考える人間なら、当然、そう考えるだろう。
 こういう場合、「予測」がとても重要だ。
 何によって、たとえば北朝鮮が日本に攻撃を仕掛けてくると予測、判断するか。
 そのとき「根拠」とされたものが「嘘」だったら、どうなるのだろう。(アメリカのイラクへの武力攻撃は、イラクが大量破壊兵器を持っているという間違った情報=嘘によって引き起こされた。)どこかの国が日本に攻撃を仕掛けてくる、という嘘をでっちあげて、その国へ戦争を仕掛ける危険がここにある。戦争が内閣総理大臣の判断次第で引き起こされる危険がここにある。

 「危険事態」については、内閣総理大臣の権限の強化や、運用次第で選挙がなくなるという問題が指摘されている。そういう「見えやすい」部分を指摘するだけではなく、「我が国に対する外部からの武力攻撃」というのが「受けたとき」なのか、「受けると予想されるとき」なのか、明確にしていない。つまり、その「適用」が内閣総理大臣の「恣意」次第になってしまっているということも、問題にしないといけない。
 いや、こちらの方が重要かもしれない。
 ほんとうに戦争が起きたあとでは、だれだって殺されたくない、死にたくないという気持ちが優先して、命を守ってくれるひとの方にすりよってしまう。
 現行憲法では、前文に、こう書いてある。

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

 戦争は「政府の行為によつて」「起る」ものなのである。政府が「「我が国に対する外部からの武力攻撃」を受けると判断し、それに対して「専守防衛(武力の先制不使用)」ではなく、「先制攻撃(武力の先制使用)」をするとき、戦争は引き起こされる。
 「核兵器(武力)先制不使用政策」に反対をとなえるということは、「先制使用」することについての「歯止め」の放棄である。
 
 安倍は、戦争がしたくてしたくてしようがない人間のように、私には思える。

 安倍は広島原爆の日に「核兵器のない世界に向け努力する」というようなことを言ったはずである。それはただ言っただけである。「TPP絶対反対」と同じように、「そんなことは一度も言ったことない」という一言で片づけてしまうだろう。
 いま起きていることを、現行憲法の視点、あるいはいままでつづいてきた自民党の政策との整合性から批判するだけではなく、安倍のやっていることは「自民党憲法改正草案」の先取り実施なのだという点から見つめ、「改憲草案」の問題点を指摘し続けることが必要なのだと思う。そうしないと、すべてが「既成事実」になってしまう。「既成事実」にあわせて「憲法を改正する」、つまり「現状追認の憲法」を誕生させてしまうことになる。
 そんな危険性を今回のアブの発言から感じた。


*

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このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
アマゾンでも発売中。(アマゾンサイト内の出品者「ポエムピース」の方が早く入手できます。)
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自民党憲法改正草案を読む/番外8(全国戦没者追悼式)

2016-08-16 10:49:23 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外8(全国戦没者追悼式)

 8月15日の「全国戦没者追悼式」で、天皇が「お言葉」、安倍と大島衆院議長が「式辞」を述べている。その三人の「ことば」を比較してみる。一番違う部分はどこか。(引用は、読売新聞08月15日夕刊(西部版・4版)から。なお、大島の式辞は「要約」。)

(1)天皇
 ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります。

(2)安倍
 あの、苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃(たおれ)られた御霊(みたま)、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥(はる)かな異郷に亡くなられた御霊、皆様の犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを、片時たりとも忘れません。(略)明日を生きる世代のために、希望に満ちた国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。そのことが、御霊に報いる途(みち)であると信じて疑いません。
 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に永久の安らぎと、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。

(3)大島
 戦没者の御霊の安らかならんことをお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様の心の平安とご健勝を祈念いたします。

 私が注目したのは、

(1)天皇は「御霊」ということばをつかっていない。「人々」ということばしかつかっていない。
(2)安倍は「御霊」ということばを四度つかっている。そのうちの三回は動詞の連体形で修飾されているがひとを指し示すことばはない。最後の一回は「戦没者の御霊」と「戦没者」という「ひと」と「御霊」を結びつけている。「意味」としては最初の三回の「御霊」も「戦没者の御霊」ということだろうが、そこには戦没者ということばはない。人間の存在感が希薄である。そのかわり「どうやって死んでいったか」という「行為」が重視されている。
(3)大島は「戦没者の御霊」と「戦没者の」ということばをつけて一回だけつかっている。「戦没者」のことは、引用はしなかったが「戦禍の犠牲となられた方々」と言っている。「方々」は「人々」と同義語である。大島は天皇と同じ言い方をしたあとで、「御霊」ということばを補っている。

 という点である。
 安倍は「ひと」ということば省略して「御霊」ということばをつかっている。「ひと」よりも「行為」を重視して「御霊」を重視している、ということがわかる。
 これは、私には大問題であると思える。
 「ひと」というのは具体的である。生きている「肉体」として、ひとりひとり、そこに存在する。そして、ひとにはできる行為とできない行為がある。したい行為としたくない行為がある。「肉体」は、とても具体的なものである。
 しかし「霊」となると、それが存在しているかどうか、具体的にはわからない。「霊」を信じるひとには存在は明確だろうが、そうではないひとには、さっぱりわからない。「霊」にできること、できないこと、したいこと、したくないことがあるかどうか、私にはわからない。
 「神」と同じように、「霊」というようなものは存在しないと思うひともいるはずである。私は、そのひとりである。
 そんな存在するかしないかわからない「霊」に「御」という「敬意」をあらわすことばつつけられると、何か奇妙な感じがする。何のために「御霊」などと「呼ぶ」必要があるのか。「御霊」と呼ぶことで、何かの「意味/思想」を押しつけてはいないか。

 「御霊」ということばは「美しい」が、私には、その実体がわからない。「御霊」の「御」は敬意をあらわしているのだろう。「敬意」というのは、「特別視」ということかもしれない。広辞苑によれば「神の霊」という「意味」が最初に出てくる。「御霊」ということばをつかうとき、安倍は「神の霊」(神になった霊)という意味を込めているのだろう。
 もっと具体的に言えば、戦場で戦って死んで、靖国神社にまつられて「神」になった「霊」を「御霊」と呼んでいるのではないのか。

 天皇が、「御霊」という「美しいことば」をつかわないのは、もしかすると、そこに「美しさ/価値」というような「意味」がふくまれるからかもしれない。何かを「神」にあがめること、天皇がある「神」を信じていると表明し、それを語ることは国民の信教の自由を侵害することになると考えているからではないのか。
 「神」とは信仰の対象である。現行の憲法では、第十九条で「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」、第二十条で「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と定めている。「神」を連想させることばをつかってしまうと、「信教の自由」を侵してしまうと天皇は考えているのかもしれない。何人も、それぞれの方法で慰霊することが保障されている。その権利を侵害しないように、「人々」とだけ言っているように思える。天皇は「無宗教性」を強く意識している。ことばが「宗教」に触れないように配慮している。
 「霊」ということば、「御霊」という表現を避けているのは、遺族に対して冷たいようであって、そうではない。どのような宗教を生きる遺族をも、同等に見ているから、そうなったのだろう。「神」というのような、「宗教」が関係してくることばを連想させるものを、排除しているのだ。
 天皇は、あくまでも現行憲法を守って、ことばを語っているのだ。

 安倍は、そうではない、と思う。「自民党憲法改正草案」を先取りする形でことばをつかっている、と私には思える。
 安倍のことばの特徴的なところは、先に書いたことの補足になるが、「御霊」ということばを「ひと」を省略してつかうことが多い点。「御霊」では「死んでいったひと」の「肉体」は、すぐには思い浮かばない。逆に言うと「生きている霊」という印象になる。(これは、私だけかもしれないが。)「死んでいる霊」というものを、「霊」とか「御霊」とかいうことばをつかう人は想定していないと思う。「肉体」は死んでしまったが「霊」は生きている。その「生きている霊」を「御霊」と呼び、特別視する。それは「霊」を「御霊」として「生かしつづけたい」ということかもしれない。「霊」の「理想像」として存在させたいのだろう。
 しかし、「生きている霊」というものは、なんともつかみ所がない。抽象的で、見えない。抽象的で見えないということは、それを、ことば次第で何とでも言える、ということにつながると思う。つまり、「御霊」の「特別視」は、ある「宗教/神」を特別視することにつながりかねないということである。
 繰り返しになるが、現実の問題として言えば、靖国神社がある。そこに「合祀」されている人々(の霊)。それを「特別視」する。だから、参拝もする。そこに合祀されていない普通のひとびとは、たぶん安倍の「御霊」ということばからは抜け落ちている。
 自民党憲法改正草案では、第十九条は「思想及び良心の自由は、保障する」、第二十条は「信教の自由は、保障する」と定めている。「侵してはならない」が削除され、「保障する」に変わっている。
 この問題については何度か書いたが、これでは、国が理想とする「思想(宗教)」については、それを信じる権利を保障するが、そうではないものに対してはそれを侵害することができる、ということになってしまう。「これこれの宗教を信じろ」という「命令」に変わってしまう恐れがある。具体的には、靖国神社にまつられている人々、その「霊」を尊重する人々の、その宗教を押しつけるということにつながっていく。
 靖国に合祀されている「御霊」の尊重は、これからもそういう「御霊」をつくりだすということでもある。「御霊」が増えれば増えるほど、その「宗教」を信じるひとが増えるということでもある。そういう形で「思想(信教)」を統一したいのだ。
 安倍は、ここでは、そういう改正草案の「神髄」を先取り実施する形で、「御霊」ということばをつかっているように思える。自民党が「正しいと保証する宗教を信じるひとの権利は、保障する」。そうではないひとの「宗教」は保障しない。
 「御霊」の乱発には、そういう「戦場で死んでいった人の霊を祭る」という「宗教」の押し付けがある。
 
 別な角度から見直してみる。
 天皇は「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」と「戦陣」と「戦禍」を連続して、区別せずに書いている。「戦陣」とは「戦場/前線」のことだろう。「戦禍」には空襲にあって死ぬというようなことも含まれるだろう。戦場で死んだひと、国内で死んだひとを区別せずに「戦没者」と呼んでいることがわかる。
 安倍は、まず「戦場に斃られた御霊」と言ったあと、「戦禍に遭われ」た「御霊」と追加している。「御霊」を「区別」している。「戦場に斃られた御霊」を「優遇」している。「戦場で死んでいった」ひとの「霊」こそ「御霊」なのだ、と、その「行為」をたたえているのだ。「優遇」しているのだ。
 この「優遇」は違った視点から言いなおせばわかりやすいかもしれない。
 安倍が「御霊」ということばをつかうとき、戦場以外で死んでしまったひと、たとえば戦争に反対し、抵抗して死んでいったひとも含んでいるだろうか。たとえば作家の小林多喜二とか創価学会創設者の牧口常三郎も、安倍の「御霊」と呼ぶだろうか。
 「戦場に斃られた御霊」を優遇する安倍は、彼らを「御霊」には含まないのではないだろうか。彼らを「戦禍に遭われた御霊」とも呼びはしないだろう。
 安倍が「御霊」と呼ぶのは、国の命令に従って死んでいった肉体の「霊」だけなのである。そういうひとたちのなかには、いやだけれど仕方なしに戦場へ駆り出されたひともいる。反対しても殺される、家族まで弾圧されると思えば、戦場へ行くしかない。そういう苦しみを封印して「国のために戦った美しい精神=御霊」というものをかかげていると思う。
 国の命令で戦場に行っても大丈夫、その「霊」を「御霊」と呼んで、国が大事にしてやる。だから、安心して戦場へ行きなさい、ということばに、それはすぐにかわってしまうだろう。
 「靖国で会おう」が、また、若者の合いことばになる日がくるのだ、と私は感じてしまう。
 ほんとうに戦争の犠牲になって死んでいったひとのことを思うなら「御霊」という「美しいことば」ではなく、もっと「肉体」に密着したことばで語る必要があると私は思う。「美しいことば」の背後に何があるのか、常に疑ってみないといけない。「精神(ない損)というものは、完全に個人のもの。そこに「美しい」という「価値」をおしつけられたくない、と私は思う。



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田口三舩『能泉寺ヶ原』

2016-08-16 09:43:01 | 詩集
田口三舩『能泉寺ヶ原』(榛名まほろば出版、2016年08月11日発行)

 田口三舩『能泉寺ヶ原』の「花いちりん揺れた朝」は、こんな具合に始まる。

老人クラブの会員一同 うち揃って
鎌の素振りなどしながら腕を確かめ合い
恒例の堤防の草刈りである
ちょっと清々しい一日のはじまり

 四行目の「清々しい」と書きたい気持ちはわかるけれど、そう書いてしまうと「詩」を狙っているようで、私なんかはおもしろくない。おもしろくない、と書きながらこの連を引用したのは「鎌の素振りなどしながら」が具体的で、こっちの方が「詩」なんだよなあ、と言いたかったからである。
 草刈りというのは、私は長いあいだしていないが、あれはけっこう大変で、草刈り前に鎌をどう動かすか、「素振り(すぶり)」をしてみるのは、体にとっていいことだ。事故を防げる。「腕を確かめ合い」というのは、「いや、そうじゃない、こうだよ」と教えあっているのだろう。なんだが、そこにいるひとが見るえるようでうれしい。

しばらくすると
歳はとりたくねえもんだとぼやいたり
来年の草刈りはもう無理だよなどと
あちこちから心細げな声しきり

 この二連目も散文的だけれど具体的。
 途中を省略するが、そのあと、こんなことがある。

とその時
刈り込んだ草の間から
澄みきった空の色を映した花がいちりん
首をもたげて朝の風に揺れている

ぼやきながら誰かが
鎌をちょっと手加減して
この澄みわたった空の色の花に
イノチのひとかけらを吹きかけたのだ

 あ、いいなあ。「書かれる」ことによって、いままでことばにならなかったことが「見える事実=詩」になった。花を残した人の「肉体」のなかでうごいていたものが「論理的」に浮かび上がり、ゆるぎのないものになった。
 ここで詩は終わってもいいのだが、田口はこのあともう一連書いている。

老人クラブの会員一同 来年の方を見やり
ひときわ明るくわっはっはと笑って
今年の草刈りは無事にそして
めでたく終わったのだ

 ここでまた文体は詩から散文にもどるのだけれど、私は最後の「めでたく」に思わず棒線をひき、そこから線を伸ばして余白に☆マークを書き込んだ。これについて書きたいと思ったのだ。
 この「めでたく」は「詩」のことばではない。詩のことばではない、というのは「清々しく」というような、何かを修飾するために追加されたことばではない、ということ。
 二連目に出てきた「歳はとりたくねえもんだ」とか「来年の草刈りはもう無理だよ」ということばと同じように、そのとき誰かからもらされた「実感」のことばである。「よかったなあ」という「安心」のことばである。
 それは、無意識のうちに、老人クラブの人たちの「肉体」のなかに動いていたことばなのだ。ちゃんと刈れるかなあ、ちゃんと刈れたなあ。めでたいことだなあ。
 肉体の奥で生きていたことばが、ふっと開放されて表に出てくる。
 それは一輪だけ残された花のように目を引く。

 田口の詩には、この詩の最終連を除いたような作品が多い。ある情景を「論理」でととのえ、そこから「意味」を引き出すという感じのものが。
 それはそれでいいけれど、私は、そのあとに追加されたもの、ふっと肉体の奥からあふれてきた「ことば」の方が好き。「自然」がある。そういうことばは、「新しい論理」ではなく、むしろ逆である。むかしからある「実感」。「肉体」のなかにいきつづけている「思い」。それが、ふっと思い出されて、ことばになっている。
 それが、詩の最初の部分、鎌の素振りとか、草刈りをしながらのぼやきと結びつき、世界を立体的にしている。とても「強い」ものを感じる。「自然」の強さ、「生きている」強さを感じさせる。

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ノア・バームバック監督「ヤング・アダルト・ニューヨーク」(★★★★)

2016-08-15 08:58:07 | 映画
監督 ノア・バームバック 出演 ベン・スティラー、ナオミ・ワッツ、アダム・ドライバー、アマンダ・セイフライド

 うまい映画だなあ。
 40代のベン・スティラー、ナオミ・ワッツ、20代のアダム・ドライバー、アマンダ・セイフライドの交流(?)を描いている。情報量が非常に多いのにうるさくない。ひとつひとつのシーンが短くてぱっと切り替わる。しかも、切り取られたそのひとつひとつのシーンが、その背後にきちんと時間をかかえているということがわかる。映像の質がとても充実している。
 映画は、「ドキュメンタリー」をキーワードにしているのだが、まるでドキュメンタリーそのものを見ている感じ。そうか、いま、ニューヨークの40代と20代はこんなふうに生きているのか。
 こんなふうに、というのは40代は、大人になろうと必死にあがいている。40代だからもちろん大人なのだが、安定した「地位」がなく、大人という実感が持てない。アメリカン・ドリームの国なので、ドリームを実現しないことには大人ではない、成功しなければ大人ではない、ということなのか。子供を産み、父親・母親になるにも、もうそろそろ限界が近い。で、妙にいらいらしている。
 一方20代はアメリカン・ドリームなど知らない、という感じ。レトロな趣味を生きている。CDは聞かずにレコードを聴く、という感じ。インドの瞑想(?)に身を任せたりもしている。
 本当は、野望をもっていて、その野望の実現のためには40代の二人よりも、もっともっと「現実的」な方法をとる。「根回し」というか、「下工作」だね。40代のふたり(特にベン・スティラー)が「自尊心」のために「下工作」できないのと対照的だ。20代のふたりは(とくにアダム・ドライバー)は40代の男が「自尊心」を捨てられないということを熟知していて、それを利用する。そういう「ずるさ」を身につけている。
 でね。
 これからが、感想を書くにもちょっとむずかしい。
 この20代の「ずるさ」が、妙に生々しいというか、人間的なのだ。成功するためにコツコツ努力する。「信念」をつらぬくなんていうことは、しないのだ。「信念」にこだわっていては40代の男のように、結局、つまずく。そうわかっているので、最初から「信念」を放棄する。
 この、なんというか、若者ではなくなった年代から見ると「いやな男」をアダム・ドライバーが「ぬめっ」とした感じで演じている。自分の「信念」ではなく、自分が「他人にどう見られているか」ということを生き方の基本にしている。それで「世間」をわたってしまう。
 60代の男(40代の男が「手本」にした男)は、40代の男(信念の継承者)の生き方を無視して、20代の男の生き方を支持するのである。そういう「支持」を取り込むことを20代の男は、できるのである。
 この部分(ナオミ・ワッツの父親の受賞パーティー?)が、かなり、ぞくっとする。
 最後の、こんどは0代の赤ん坊が、スマホで遊んでいるのを見て、「養子」を引き取ることにした40代のふたりが見て、そこにまた「新しい年代」を発見し、わっ、どうなるのだろうという表情を見せるところも、ぞくっとするねえ。
 そうか、「時代」というのは、こんな風に動いていくのか。
                      (KBCシネマ2、2016年08月14日)





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自民党憲法改正草案を読む/番外7(天皇の「お言葉」再読)

2016-08-15 00:49:41 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外7(天皇の「お言葉」再読)

 前回、天皇の「象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉」について、よくわからない部分があると書いた。
 その部分を引用すると、

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 これについて、私は、天皇が個人的な体験を語った前段に比較すると「微妙である」と書いた。「不透明」なのものを感じる。「個人的」であることによって生まれることばの美しさに欠けている、と書いた。
 「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」とは、何を言いたいのだろう。
 このことについて、2016年08月10日の読売新聞朝刊(西部版・14版)は「象徴天皇 おお言葉の背景 上」で、興味深いことを書いている。
 読売新聞は、私が引用した文に先立つ、

既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

 ここに注目している。
 「幸いに健康であるとは申せ」というのは最初の文案にはなく、ビデオ放送前日に加筆されたものだという。そして、この一文から、「首相官邸の関係者」は「摂政は望まない」という天皇の強い意思を感じ取ったという。そのうえで、この関係者は「これで摂政を前提とした検討はできなくなった」と感じ、退位を前提とした法整備しかないと覚悟を決めた、という。
 えっ?
 「幸いに健康であるとは申せ」が、なぜ「摂政を望まない」になるのか、私にはわからない。
 わからないまま読んだのだが、読売新聞は、先の部分を次のように補足している。

 関係者によると、陛下の退位の意向については昨年から、宮内庁と官邸側が、水面下でやりとりしてきた。官邸側は「摂政ではダメなのか」と何度も確かめたが、同庁側は「ダメです」とかたくなだった。天皇自身が国民とのふれあいを積み重ねていくことが象徴天皇の務めという陛下の考えと、摂政という制度はそぐわないためだ。

 でも、この「補足」では、やっぱり何のことかわからない。
 わかるのは、宮内庁と官邸側のあいだで、「退位」をめぐってやりとりがあったということだけである。 
 「幸いに健康であるとは申せ」ということが、なぜ「摂政否定」につながるのか、わからない。

 こういったときは、もう一度、天皇のことばを読んでみる。先の部分は三つの文章から成り立っている。

(1)天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。
(2)また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。
(3)しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 (1)の「思われます」は天皇が思ったこと、天皇自身の「思い」。
 (2)は、同じように天皇の考えか。官邸側が「摂政ではダメなのか」と問い合わせているということを手がかりにすれば、「ダメ」という天皇の考えのように思える。しかし、ここには「ダメ」ということばがない。「ダメ」という要素があるとすれば、それは(3)である。
 では、(2)の「考え」はだれのもの?
 読売新聞は「皇室典範第16条第2項」を引用している。
 「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」
 これは天皇の「考えられます」とぴたりと重なる。
 つまり、天皇は、ここで官邸側から「摂政ではダメなのか」という問い合わせがあったということを語っているのである。
 今回のことば、特にこの部分は、天皇の完全な自発的なものではなく、官邸とのやりとりがあって、生まれたものであると、国民に語っているである。
 天皇は「国政」に口をはさめない。政治的発言をできない。けれど、政治的な働きかけがあったとここで語っている。
 そのうえで(3)は、摂政を置いたとしても、象徴天皇は象徴天皇である。「生涯の終わりに至るまで」(死ぬまで)天皇だから、摂政ではなく、「生前退位」により、皇太子に「天皇」を継承するという形にする必要がある、と言っている。この(3)には「思う」という動詞も「考える」という動詞もない。
 「断定」である。 
 「幸いに健康であるとは申せ」は、健康な今のうちにという強い思いということか。これも安倍官邸とのう交渉(圧力)ゆえに、そう言ったことにはならないだろうか。
 で。
 私は、実は、ちょっと興奮したのである。
 天皇が「生前退位」を言い出したことについて、いろいろ言われている。
 そのなかに「これは天皇が、安倍改憲を阻止するための抵抗だ」という説がある。私はなかなかその説を信じるわけには行かないのだけれど、たしかにありうるかもしれないとも思った。
 それは、先の(2)の部分、「考えられます」が一般的に「考えられます」、「皇室典範にのっとれば、そう考えられます」であると同時に、官邸側は「皇室典範にのっとって、そう考えています」なのだ。「考える」の「主語」は「官邸側」なのである。天皇でも、宮内庁でもない。
 それを「考えられます」という「動詞」をつかって、天皇は明確にしている。
 そのうえで、最後に、

これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。 
 国民の理解を得られることを、切に願っています。

 と、「国民」に訴えたのだ。
 これは安倍への抵抗と同時に、国民への「呼びかけ」かもしれない。
 もし「呼びかけ」だとすれば、それは天皇がそれだけ強く官邸側からの「圧力」を感じているということかもしれない。安倍への「抵抗」というよりも、「悲鳴」かもしれない。
 どちらかはわからないが、少なくとも、天皇は、官邸側から「摂政ではダメなのか」という問いかけがあったことを、先の「ことば」で明確にしていることだけはたしかである。もし、そういう問いかけ、接触がなかったら(2)の「考えられます」は違った形で書かれたに違いない。
 文章が「ぎくしゃく」しているのは、そういう「交渉」を伝えるために工夫しているからだ。官邸側からの「検閲」をくぐりぬけて、何かを言おうとしているからだ。
 「ぎくしゃく」と私が感じたのは、そういう「経緯」を最初はつかみきれなかったからだ。「思われます」「考えられます」という動詞の「主語」を「天皇」と思い、「天皇」が「思う」「考える」と読んだために、奇妙に感じたのだ。「天皇」が「思い」、「安倍官邸」が「考える」、その両者の違いを明確にした上で「死ぬまで天皇である」と「天皇」の「気持ち」を「思う」「考える」という「動詞」を省いて言っている。
 しかも、その表現が「検閲」にひっかからないように、「安倍官邸」という「主語」を省略し、あたかも「天皇」が「考える」とも受け取れるように配慮しているからなのだ。
 読売新聞の記事を読み、私は、そう感じた。
 でも、なぜ、読売新聞は(あるいは、官邸の関係者は)、「幸いにも幸福ではあると申せ」にこだわったのだろう。そこから「論理」を展開したのだろう。ここにも、書かれていない「交渉/圧力」が隠されているかもしれない。これは、憶測だが、「まだ80歳を超えたところ、まだ健康なのだから生前退位の問題は、もう少しあとでもいいのではないか」と関係側が言ったのかもしれない。「もう少しあと」というのは、つまり憲法改正のあとである。
 これに対して、天皇側は「憲法改正よりも生前退位問題の方が先」と主張した。
 そういう「経緯」があるなら、たしかに、天皇は安倍に対して「抵抗」している。
 私がもうひとつ「ぎくしゃく」と感じたのは、天皇が最初の方で「私も八十を越え」「既に八十を越え」と二回言っていることである。わざわざ二回言っているのは、さらにそれに「幸いにも幸福ではあると申せ」と付け加えているのは、たしかに「強い意思」のあらわれかもしれない。




 今後、天皇のことばを受けて、政治はどう動くのか。「生前退位」へ向けて(1)皇室典範を改正する、(2)特別立法で対処する、(3)憲法まで一気に変えてしまう、という三つの方法が、様々なところで語られている。
 私は(3)になるのではないか、と恐れている。
 そのことと関連して、「文藝春秋」2016年09月号で、不気味な記事を読んだ。赤坂太郎の「安倍が狙うもう一つの「同日選」」。なんと、衆院選と憲法改正の国民投票の「同日選」を狙っているというのである。その方が改憲の実現も与党勝利の可能性も高まると言う。
 ひとつひとつのことをじっくりと考えさせない作戦である。
 参院選のテレビ放送を少なくするという作戦を考えた人物が、どこかで指揮をしているのだろうか。
 とても気になる。

 もうひとつ。
 籾井NHKが今回の報道の口火を切ったのだが、このスクープに対して籾井はどう反応したのか。
 私は、それが気になって仕方がない。
 もし、今回の天皇のことばが、安倍の狙っている改憲を阻止するための「抵抗」だとすれば、(読売新聞が宮内庁と官邸側のやりとりを把握しているのだから、籾井NHKも当然把握しているだろう。官邸側が動いているのだから、それが安倍から籾井につたわならいと考えるのはむずかしい)、籾井はなぜ、そういう報道を許したのか。安倍への天皇の「抵抗」という「解説」が出回るようなことを許したのか。
 想定できなかったのか。
 想定したが、その想定は取るに足りないと判断したのか。つまり、逆に利用できると読んだのか。

 きょうは終戦の日。天皇の追悼のことばは、どうなるか。
 聞いてしまうと、考えたことが変わってしまうかもしれない。そう思って、とりあえず、いま思っていることを書いてみた。



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岡本啓「風の車両」、大崎清夏「炊飯器」、大江麻衣「踏み絵」

2016-08-14 10:37:58 | 詩(雑誌・同人誌)
岡本啓「風の車両」、大崎清夏「炊飯器」、大江麻衣「踏み絵」(「現代詩手帖」2016年08月号)

 岡本啓の詩にはアメリカの匂いがする、というのが私の記憶。あるいは印象。今度の「風の車両」はどうか。

ないドアから
熱風が
粉塵をつれてふきこんで
乗客すべてを薄く覆った

 この日本では見られない光景か。あるいは、

ないドアから
身をのりだして
見えないものへ抗議する
セーターで着膨れした女の姿は
圧倒的

 ここに出て来る「女」か。たしかに、そういう女は日本にはいないなあ。沙漠のようなところを行く車にセーターを着込んでのりこむ女は日本にはいないだろう。
 でも、そういう「光景」に私は「アメリカ」を感じたのではなかった。
 以前、岡本の詩を読んだとき、会話に、私は「アメリカ」を感じた。詩のなかに登場する人間が会話する。そのときのことばの形に「アメリカ」を感じた。アメリカの短編小説を感じた。他人がいて、他人が自己主張する。その自己主張にぶつかって、「話者(詩人/岡本)」の「自己」というものが明確に動く。他者の強さが「詩人」を強くし、ことばが凝縮する。その作用/反作用のようなものが刺激的だった。
 それが、この詩からは感じられない。なんだか、とても不思議。



 大崎清夏「炊飯器」。

いちばんすきな画家がいたはずなのに 忘れてしまった
いちばんすきな歌があったはずなのに 忘れてしまった
しかたがないから 炊飯器でごはんを炊いた
炊飯器なんかすきじゃないのに

 一連目。あ、いいなあ。「ごはんなんか好きじゃないのに」ではなく「炊飯器なんかすきじゃないのに」か。うーん、炊飯器が好きかどうか、考えたことがない。この炊飯器はごはんがうまく炊ける、この炊飯器は変だなあ、と思うことはあっても、それは炊飯器のことを考えているのではなく、あくまでごはんのことを考えて、そう思うのである。炊飯器は、私の場合好き/嫌いの対象にならない。だから、はっと、驚く。この驚きの瞬間、いいなあ、ということばが出てくる。

あなたがノートの見開きに書きとめることばと
わたしが本で読んで泣いたことばは ちがう
あなたはおかしいと思うかもしれないけど
わたしはそのことが 嬉しすぎて笑えた

 ここに書いてあることばを借りて言えば、大崎が書いていることば(書こうとしている意味/内容)と、私が読んでいることば(意味/内容)は違うかもしれないけれど、私はそのことが嬉しくて、笑ってしまう。
 そうか、炊飯器が好きか嫌いか、考えるのかあ。



 大江麻衣「踏み絵」は刺激的。

おもいきり踏んでくれ裸足で
と言われれば したくない けど しなくては
ためらうのは、足の 裸の足の心細さのほう
土踏まずのない足はうまれてはじめて試されている

 これはセックスをしていて(?)、男に顔を踏んでくれと言われたときの反応。
 ためらいを「足」という「肉体」を中心に語っているのがいいなあ。
 私は「こころ」とか「精神」というものが「ある」とは感じていない。そんなものは、ない。多くの人は「ある」という。どこに? たとえば「脳」にうあるいは「胸(心臓)」に。さらには、「ことば」に、という人もいる。
 うーん。私は、それを見たことがない。
 「頭」とか「胸」は見えるし、触れるが、それにはちゃんと「頭」「胸」という名前があって、「こころ」という名前ではない。
 でも。
 たとえば、この大江の詩で、「こころは足にある」と言われれば、信じてしまうなあ。「足」がためらっている。そのとき「足」こそが「こころ」なのだ。「足」が「こころ」になるのだ。この「なる」という動詞、変化を「こころ」と呼ぶなら、納得できるなあ、と思う。
 詩のつづき。

私は顔を踏んでいって
そうすれば今までで一番攻撃的ではない性器が
なにかを待ちわびて
信仰心がどんどんわいてくる 信仰心 それ自体にすがり
顔はやわらかい
人のほとんどすべては、顔だから 好きな人の顔を踏むなんて

 「一番攻撃的ではない性器」ってなんだろう。「土踏まずのない足」か、あるいは「土踏まず(ない)」か。私は「ない」土踏まずの「ない」が「一番攻撃的ではない性器」と瞬間的に思う。そして、その「ない」土踏まずの「ない」に触ってみたいという欲望をおぼえる。
 私は顔を踏まれるのはいやだが、「ない」土踏まずの「ない」に触りたいと思う。
 その「ない」は「顔は柔らかい」の「やわらかい」と呼応しているなあ。セックスしているなあ、と思い、欲情してしまう。
 「信仰心」というものも、私にはない。「宗教」というものが、私にはわからない。だから、「わかる」ことばを探して、それとだけ夢中にセックスしてしまう。
 大江が書いている「中心」がどこにあるのか、気にしないで、「ない」土踏まず、その「やわらかさ」に、わくわくしてしまう。

踏み絵
守りたい(彼を) 守られたい(自分を)
唾で 私のいまの宗教を清めていく
対義語に近い、いやな言葉をさがしても
何も信じなかった私より意味がある

 この部分は「わからない」。「意味がある」といわれても、その「意味」がわからない。わからないのだけれど、いや、わからないからこそ、ここのところには「ほんとう」が書いてあると感じる。
 「足」の「ない」土踏まずでうまれた「こころ」が、ここでは「いや」なものを探している。「いや」をみつけることで、「したくない けど しなくては」とはいう「こころ」の矛盾を乗り越えようとしていると感じる。
 こういう「わからない」何かに出会ったときだな、「あっ、傑作だ」と思うのは。

 今回の特集には、ほかにも「傑作」が隠れているかもしれない。
 でも、いい。
 一篇、傑作と思える詩に出会ったから、あとの詩人たちの作品は「素通り」。また別の機会に出会えるだろう。「2010年代の詩人たち」の作品全部について感想を書くつもりで始めたのだが、いったん中止にする。(いったん、というのは思いついたら、また書くかもしれないということ。)

グラフィティ
岡本 啓
思潮社
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本になりました。

2016-08-13 14:40:29 | 自民党憲法改正草案を読む


「自民党憲法改正草案を読む」が本になりました。
タイトルは『詩人が読み解く自民憲法案の大事なポイント』
ポエムピースからの発売。
アマゾンでも発売中です。
ポエムピースからの直接購入もできます。(送料無料)

「天皇の生前退位」問題で、緊急の話題が憲法改正から少し離れた感じですが、先のことはわからない。
自民党憲法改正案が抱えている問題を、自分の語り合うことができればと思っています。



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伊藤浩子「マグダレーナ・ゼマーネク通り(抄)」、浦歌無子「大杉栄へ」ほか

2016-08-13 09:59:15 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤浩子「マグダレーナ・ゼマーネク通り(抄)」、浦歌無子「大杉栄へ」ほか(「現代詩手帖」2016年08月号)

 伊藤浩子「マグダレーナ・ゼマーネク通り(抄)は、ある都市の肖像である。いくつかの断片から構成されている。その最初の「時計塔」。

 時計塔の内側の襞を行くときは上も下も見てはいけない、なぜなら両方とも切りがないからだ。

 この「切り」には傍点が打ってある。この作品のなかでは、この「切り」だけが、まるで別のことばのように生き生きしている。
 つづきは、こうである。

    そこはまるで悪夢か苦悩の只中かのように蠢く。そこが高い時計塔の中であることに随伴して歩が止まってしまうのは、およそ記憶の本流が襲ってきたときである。現存は残像となり、残像が予期せぬ物と出会う場所では感覚的相貌こそが主体の根拠になる。

 「切り」だけが、別のことばである。日常のことばである。ほかは「辞書」に収録されている。いや「切り」も辞書に載っているだろうが、辞書を引かなくても知っている。というか、辞書をひくとわからなくなる「思想/肉体」のことばである。「定義」できないのだ。このときの「定義」とは、だれそれが、何々の本の中で書いていると「注釈」できないということである。
 私は、作品から、そういう「注釈」不能なことばを探して、そこに書き手の「肉体」を感じるのだが、このせっかくの「肉体」を伊藤は、その後のことばで台無しにしている。
 「記憶の本流」を「現存は残像となり、残像が予期せぬものと出会う」と言いなおされても、それは「言い直し」にはならない。ことばが「肉体」をくぐっていない。だから「出会う」という「動詞」がそののまま「場所」を修飾してしまう。そうしてそこから別なものが動き始める。
 こういう文体は文体でいいのだろうけれど、よほど「概念」を「概念」のまま動かす訓練をしないと、新しくはならない。
 それに。
 もし、概念を概念という「名詞」ではなく「動詞」として動かしていく覚悟があるなら、「切り」というような「定義」されずにつかわれる日常語を同居させるのは、やめておいたほうがいいかもしれない。

 「火薬庫」という断章には、次のことばがある。

 貰われっ子の悟性は、貰われっ子であるかもしれぬ不安と比較、共苦可能かどうか。

 この「共苦」というのは、日本語ではなく「翻訳語」だろう。しかもキリスト教経由の翻訳語の「匂い」がする。(私は、こんなことばを知らない。日常つかわない。)そういう非日常的なことばと「貰われっ子」というこれまた「非日常的」なことばが一緒に動いている。この「貰われっ子」は「切り」よりも始末が悪い。いま、だれか、こんなことばを言うかねえ。言わない。言わないのに、意味がわかる。「定義」しないのに、「肉体」の奥が、もぞもぞと動いて「意味」になろうとする。これも、もしかすると、いまでは「翻訳語(翻訳されたことばのなかにしか存在しないことば)」かもしれないなあ。
 もし「貰われっ子」が「翻訳語」ではなく、伊藤の「日常語」だとすると、さて、こういうことばと「共苦」なんて「翻訳語」を同居させる「肉体」とは、どういうものか。私は想像がつかない。



 浦歌無子「大杉栄へ」は「ごうごうと風よ吹け 他二篇」のなかの一篇。ここまで「現代詩手帖」を読んできて、あ、この特集は「あいうえお順」「ひとり3ページ」なのかと気づき、その機械的な編集に少し興ざめしてしまった。
 無機質に感じてしまったのだ。
 ことばは、どうやって「つながる」かが重要。機械的な接続では、接続にならない。
 浦の作品。

あなたの鋭い眼光にわたしはじゃぶじゃぶ洗われた
そのとき海の波はぴたりと止まり
火の玉のような月がじゅうじゅう音を立てて
海から空へ昇っていった

 あ、おもしろいなあ。「眼光」が「じゃぶじゃぶ」ということばで「水」を呼び寄せる。「洗われた(洗う)」という動詞へ自然に移行する。「じゃぶじゃぶ」「洗う」の「水」から「海」への接続がとてもスムーズだ。
 火の玉は「太陽」ではなく「月」。その飛躍がおもしろいし、「火の玉」なので「じゃぶじゃぶ」は「じゅうじゅう」に変わるのだが、これも妙に自然だ。
 この「妙に自然」というのは「肉体」がおぼえているので、納得できるという意味である。伊藤の詩に出てきた「切り」に似ている。「定義しろ」(説明しろ)といわれると、答えるのにめんどうくさい。「定義」がいらないくらい「肉体」にしみついていて、「定義」というような「頭」の操作が必要ない。
 接続と切断が、妙なのだけれど、その妙が一定しているから、納得してしまう。

わたしたちを祝福してくれたのは奈落だけだったが
わたしはいっこうにかまわなかった
本当の生をいきるのには
誰の賞賛もいらない
鎖は断ち切られ
わたしはわたしの亡骸を海に捨てた
わたしたちはお互いに
ずいぶん恋文を書いたけれど
愛するとはすがらないこと

 「奈落」というようなことばが突然出てくるけれど、「じゃぶじゃぶ」「じゅうじゅう」という「定義」の必要のない、その状態のことを指しているのだろう。
 最後のほうの「お互いに」は大杉栄と浦の二人か。まあ、浦が、いまはいない大杉に向けて恋文を書くというのはありえるけれど、大杉が浦に向けて書くというのは不可能。不可能だけど、その不可能は「現実/歴史」の時間で考えるから。ひととひと、ことばとことばの出会いは「時間」を超越するから、そういうことは浦の「現実」には起こりうる。そう読むこともできるし、大杉はだれかに対してたくさんの恋文を書いた、浦も誰かに対してたくさんの恋文を書いた。その「たくさん書く」という「動詞」のなかで二人が出会っている、と読むこともできる。たくさん書くことで「恋するとはすがらないこと」という思いにたどりつくのも、「お互い」なのだ。「二人と/ただし別々に」と言い換えるとわかりやすいかも。
 浦のことばには「翻訳語」がないところが、とても共感できる。



 榎本櫻子「木曜日の消失(抄)」はページの関係が小さい活字で組まれている。目の悪い私にはとても読みづらい。こんな窮屈な組み方をしてまで、ひとり3ページにこだわる必要があったのか、とても疑問。
 榎本の詩の書き出し。

あ、そういうことだったのか、などとでも納得がいったのか、よくしらないはずのひとの貌だけがぼんやりと浮かびあがってきて、そのままこびりついてしまうことがときどきあって、しろい腕が、しかもそのすべてが左腕だけなのが奇妙だが、何本も壁から生えてきてしまうのはなんとも陳腐な発想だといえるだろう、

 榎本には、感想を書くなら本を買えと言われたことがある。買って読んで書いたら、読むのは勝手だが感想を書くな、とも言われたことがある。
 何を言われようと私は書きたいときは書くし、書きたくないときは書かない。
 で、この書き出しだが、「すべてが左腕だけなのが奇妙だが」と書いたあと「何本も壁から生えてきてしまうのはなんとも陳腐な発想だ」とつづけるところが、安直だ。「奇妙」ならば「陳腐」ではない。以前は「奇妙」という「定義」で語られていたが、いまではもう「常識化」してしまっていて「陳腐」としかいえないという「批評」がそこにふくまれているのだったら、そういう「思想の経路」を丁寧に書くことが詩ではないだろうか。「名詞」の数で圧倒することを狙っているのだろうけれど、目の悪い私には、その乱反射が乱反射にすら見えない。単なる装飾に見える。思想(肉体)の乱反射は外部(名詞/概念)ではなく内部(動詞)にある、と私は信じている。





Wanderers (詩と思想新人賞叢書7)
伊藤浩子
土曜美術社出版販売
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岡井隆『森鴎外の『沙羅の木』を読む日』

2016-08-12 12:09:13 | 詩集
岡井隆『森鴎外の『沙羅の木』を読む日』(幻戯書房、2016年07月10日発行)

 岡井隆『森鴎外の『沙羅の木』を読む日』の「帯び」に

今の時代の自分たちにとって、この詩歌集は、どのような印象なのか。おもしろいのか、古めかしいのか、まるで問題にならない変な本なのか、それともたい大そう示唆的な本名のか。

 と書いてある。
 そういうことを考えながら岡井が読んだということだろう。当然、「結論」は書かれているのだろう。しかし、私は、どうも「結論」というものに興味がないせいなのか、岡井のたどりついた「結論」というものがわからなかった。
 読みながらおもしろいなあと感じたのは、「結論」とは無関係なところ、たとえば

 この連載も、月の半ばに、数時間を費やして一気に書いていたころと違って、今回のように毎日数枚ずつ書くことになると、大分様子が違ってくる。なにしろ、昨日と今日の間に、たとえば、今日だと、昨日の午後、家内と一しょに、日本近代文学館へ行き、「青春の詩歌」展を見て来たことが、何となく経験として挟まれている。

 そういう「部分」。
 「経験」が書いているものに影響するのは当然だけれど、それを「何となく」とぼんやりした形でとらえている。そこがおもしろい。
 ひとによっては、そういう「経験」をふりすててて、対象(テキスト)と向き合う、テキストをあくまで歴史のなかでとらえ直す、現代の状況と結びつけてとらえ直すことに専念するのだろうけれど、岡井は「専念」というのとは少し違う。その少し違う部分がとてもおもしろい。
 そこには「結論」をめざして、自己を制御する、ことばを統一するというとは違った、「ぶれ」というか、あいまいなものがあり、そこに岡井の「人間性」が出る。
 先の引用では「家内と一しょに」がとてもおもしろい。
 私はここで、ふと天皇と皇后のことを思い出した。09日に天皇がビデオで「象徴」について語った。そのとき、皇后と一緒に全国を回ったというようなことを語った。そのことと、何か重なる。そうか、一緒に行ったのか。
 夫婦で一緒に行こうが、ひとりで行こうが、岡井の読んでいる『沙羅の木』には何の関係もない。ないはずである。「青春の詩歌」展で、どんなことばを読んだか、どんなことばに触れたかは、『沙羅の木』に影響するかもしれないけれど、夫婦で展覧会に行ったからといって、それが影響するはずがない、とは、しかし言えないのである。
 この本を読んでいる私は、すでに、そうか夫婦で行ったのか、岡井の文章にはよく夫婦で出かけることが書いてあるなあ、そういうときの気持ちを引きずって読んでいるのだなあ、と思ったりする。そのぼんやりした「印象」が好きである。本を読みながら「ぼんやり」する瞬間が、妙に、こころに残る。
 随所に出てくる短い感想(?)も、とてもおもしろい。こういう感想の方が「結論」よりも重要に思える。「結論」のために、「論理」として整えるという圧力がかかっていない。たとえば、

鴎外は、人を驚かすことの好きな人である。            ( 136ページ)

そのころの鴎外は、「やけになれ。」と訳したい気分でいたとも考えられる。
                                ( 218ページ)

 そこに自然な「正直」が出ていると思う。それは「家内と一しょに」を挟んでしまう正直に似ている。 
 あ、岡井は「人を驚かすことが好き」なのかもしれないなあ、そうか、岡井も「やけになれ」と自分に言い聞かせたことがあるのかもしれないなあ、と思うのである。
 それは最初に引用した「文学的結論」とは無縁の、もうひとつの「結論」であると思う。「文学」ではなく「人間」が無意識に触れる「結論」。
 そういうものに触れるのは、やっぱり「文学」の喜びだなあ。その本が「現代」にとってどういう意味があるとか、歴史的に見るとどういう位置づけにあるとかは関係がない。他人がどう評価するかは関係がない。そこに書かれていることばを「架け橋」にして、ことばの向こう側の人に触れる。このときの「触れる」は読む人の(私の)一方的な勘違い(誤読)かもしれないけれどね。

 あのデエメルの詩「鎖」の背後に、こうしたデエメルの恋愛遍歴があったと知る。鴎外はそうしたところまで含んで、デエメルが好きだったのであり、デエメルの生き方に共感するところがあったのだろう。                  ( 238ページ)

 というのような部分を読むと、その鴎外を「岡井」と入れ換えたくなる感じ。あ、私は、「岡井の恋愛」の実際を知らないのだけれど、ちらちらと噂で聞いただけなのだけれど。

 最後に、岡井の書いている鴎外の詩への感想と、私が感じた鴎外の詩への感想を並べてみたい。デエルメの「夜の祈」を訳したもの。(ルビは一か所をのぞいて省略)

 夜の祈

汝、深き眠よ。
汝が覆の衣を垂れよ。
汝が黒髪を我に巻け。
さて汝が息を我に飲ましめよ。
喜と云ふ喜の限、
悲と云ふ悲の限、
汝が唇の我胸よりさそひ出す息に滅(き)ゆるまで。
さて汝が口附に我を逢わしめよ。
汝、深き眠よ。

 岡井は、こう書いている。

 「さて、汝(深き眠)の吐く息をわたしに飲ませて下さい。そのあなたの息というのは、すなわち、わたしのすべての喜びを、そしてわたしの悲しみという悲しみのすべてを、わたしの胸からさそい出してそれらをみんな「滅(け)してしまうような、そういうあなたの呼気を、わたしに飲ませて下さい」。そう言っているのだろう。だから四行目の「息」は、七行目の「息」と同じものなのである。八行目の「さて」は、「さてそのうえで」といった間投詞風の除法。「口附」は、ベーゼ、キス、接吻である。しづかな、やすらかな、そっとふれる「口附」で、「深き眠」へとさそいこむような種類のそれ、たとえば、母親が、眠ろうとする幼児に与えるような「口附」である。

 私は、ちょっとびっくりした。「母親が、眠ろうとする幼児に与えるような「口附」」とは少しも思わなかった。
 私はこの詩では「汝が唇の我胸よりさそひ出す息に滅ゆるまで。」の「まで」がとても印象に残った。直前のと密着している。「限」は「限界」であり、その前に動詞がつくと、そこに「時間」があらわれる。「限界まで」たどりつくのにかかる「時間」。それはとても「長い」かもしれないが、この「長い」は充実していると「短い」になるという矛盾した「時間」である。そういう「時間」を感じてしまう。
 岡井は、さきの鑑賞の前に「わたしは床に就いてすぐに眠ってしまうことが多いし、昼寝や宵寝の習慣はは、八十代に入ってから特にふえている。」と書いている。実は私も目をつむれば十秒もかからずに眠ってしまうし、昼寝もする人間なので、なおのこと、この「まで」にこめられた「長さ/強さ/充実」が気になって、岡井のように読むことができない。
 「眠り(夜)」の「息」の交換、口づけ、となれば、これは「眠りとのセックス」ではないのか。充実したセックスのあとの忘我の眠りなのではないのか。
 「滅(き)ゆる」を岡井は「滅(け)してしまう」と読んでいるが、「消える」と「消す」は自動詞と他動詞の違いがある。私は自動詞として読み続けたい。
 「息に滅ゆる」と「息が滅える」(息が消える)は違うかもしれない。けれど喜びや悲しみが息のなかでひとつになっているなら、「喜びが息に消える」は「息が喜びとなってきえる」と読み変えることもできるだろう。そして「息が消える」と読めば、それは「死ぬ」。「死ぬ」(行く/逝く)はセックスをするときの万国の「忘我/エクスタシー」のことば。
 喜びも悲しみも区別がなくなり、忘我になる、そうして消えてしまう「まで」、口づけを交わしたい、口づけを交わしながら、忘我のうちに眠りたい、と私は読んでしまうのである。「誤読」してしまうのである。
 「覆の衣」とか「黒髪」とか、「垂れよ」「巻け」という命令形(?)なんかも、母というより「おんな」「セックス」を想像させる。

 そうか、人によって、詩はこんなんに違った風に読まれるのか(もちろん、私の方が間違っているのだろうけれど)、と思うと、とても楽しい。

追加。
 岡井は「あとがき」で

このように一篇一篇読んでいくのが、詩歌集を論ずるのに一番よい方法かどうかはわからない。一冊読んで、代表作を選出し、それを中心に、その詩歌集を評論する方法もある。そのとき、時代背景とか、作者の年譜を参考にしながら読むやり方も、一般的によく見られるところだ。

 と書いている。私は、岡井がこの本で展開しているような「一篇一篇読んでいく」というのが好きである。「一冊読んで、代表作を選出し、それを中心に、その詩歌集を評論する」というのは、何か「結論」にしばられているというか、結論に向けてことばを整えてしまう感じがして、窮屈である。
 結論よりも、私は、ことばが動く瞬間の方が好きなのかもしれない、とこの本を読みながら思った。ことばが動くというのは、著者のことばの動きであると同時に、読んでいる私のことばが動き出すということ。たとえば、「夜の祈」を読みながら、岡井の鑑賞を読みながら、私のことばが動き出し、書かずにはいられなくなる。「誤読」であるなら、なお、それを書いておきたいという気持ちになる。「正解」はいつでも存在する。「永遠」になる。しかし「間違い」は、その瞬間にしか存在しない。なんらかの「理由」があって、その瞬間に噴出してきたものだと私は信じている。

森鷗外の『沙羅の木』を読む日
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村田沙耶香「コンビニ人間」

2016-08-11 13:41:11 | その他(音楽、小説etc)
村田沙耶香「コンビニ人間」(「文藝春秋」2016年09月号)

 書き出しの一行で「傑作」と確信する作品がある。村田沙耶香「コンビニ人間」は、そういう作品。第百五十五回芥川賞受賞作。
 その書き出し。

 コンビニエンスストアは、音で満ちている。

 どこがすごいか。「音」を書いていることがすごい。音からはじめているところがすごい。この小説の主人公は、しかし音でコンビニを認識している。コンビニに音があるとは、私は考えたことがなかった。わっ、私の知らない人間がいる。そのことに驚くのである。
 人間というのは、もちろんひとりひとり違うから、知っている人間などいないと言えるのだが、「知らない」ということを私たちは(私は)自覚しない。人間は同じようなものだと思う。たとえばコンビニなら、手軽な商品が売られている。深夜も営業している。ATMもある。まさしく、便利な店だ。そして妙に明るい。特に深夜の時間帯は、その明るさが冷たい、と私は感じている。
 しかし主人公は違うのだ。
 そうか、音か。音で「世界」を認識している人がいる。「音楽」ではなく、音楽とは別な世界を音で認識している人がいる。この「特異性(?)」だけで、主人公は、とても際立っている。
 で、どんな音?

 コンビニエンスストアは、音で満ちている。客が入ってくるチャイムの音に、店内を流れる有線放送で新商品を宣伝するアイドルの越え。店員の掛け声に、バーコードをスキャンする音。かごに物を入れる音、パンの袋が握られる音に、店内を歩き回るヒールの音。全てが混ざり合い、「コンビニの音」になって、私の鼓膜にずっと触れている。

 近くのコンビニへ走って行って、耳を澄ましたい。確かめたい。そういう気分にさせられる。私の知らない(私の見落としていた)世界が、私のすぐそばにある、という驚き。さらに、その音が「私の鼓膜にずっと触れている。」が、すごい。
 音が「肉体(鼓膜)」と一体になっている。

 売り場のペットボトルが一つ売れ、代わりに奥にあるペットボトルがローラーで流れてくるカラララ、という小さい音に顔をあげる。冷えた飲み物を最後にとってレジに向かうお客が多いため、その音に反射して身体が勝手に動くのだ。

 あ、すごいなあ。「身体が勝手に動くのだ」か。音が「肉体」の一部になっていて、音が肉体を動かすのだ。「勝手に」とは「無意識に」である。「無意識に」というのは「意識がない」ではない。逆である。「意識」が「肉体」になってしまっていて、「意識」とは「意識されない」状態なのである。
 このコンビニ店員の「肉体」のなかで、たとえば、私は自分がコンビニで冷たい水を買うときの様子まで思い出してしまう。手前のペットボトルをとると、その空間を埋めるようにボトルが奥から滑ってくる。それを見ている「肉体」になる。そのとき、たしかに音があったといえば、あっただろうなあ。そんなことを思いながら、単に、その描写に主人公の「肉体」を感じるだけではなく、私自身が「肉体」として参加している(そのばに居合わせる)感じになる。コンビニにいて、そこで働いている主人公を見ている気持ちになる。
 書き出しの一ページだけで、大傑作である。

 この音は、途中から「声」にかわる。てきぱきとしたマニュアルどおりの「店内」の声。そのあと、その声が少しずつずれていく。

「あ、それ、表参道のお店の靴だよね。私もそこの靴、好きなのー。ブーツ持ってるよー」
 泉さんは、バックルームで少し語尾を延ばしてだるそうに喋る。

 会話の「内容」も描かれているが、そのときの「声」の調子がていねいに描かれる。コンビニのなかでは主人公は、どの音にもすぐになじんでしまう。他人の口調を吸収し(真似し?)、世界を調和させている。
 ところが一歩、コンビニの外へ出ると、どうもうまくいかない。「肉体(鼓膜?)」が「会話」をスムーズにさせない。自然な(つまり普通の)会話ができない。肉体(無意識)になじまない。つっかかる。その結果、主人公は「変な人(普通じゃない人)」にされてしまう。
 そういう主人公の世界に、コンビニで働くことには向いていない男がやってきて、その男と接触したために、主人公の世界は大きく変わってしまうのだが、そこでも交わされる会話の「内容」よりも、そこから始まる音の変化に私は引き込まれた。
 男と一緒に暮らしながら、別々の世界を生きている。男が風呂場で食事をしている。ドアを閉めて、主人公は久しぶりに一人でテーブルに座って食事を始める。(464 ページ)
 自分が咀嚼する音がやけに大きく聞こえた。さっきまで、コンビニの「音」の中にいたからかもしれない。目を閉じて店を思い浮かべると、コンビニの音が鼓膜の内側に蘇ってきた。

 主人公は、コンビニ以外の音(コンビニで発せられる事務的な会話の調子)以外が苦手である。主人公と男の関係(いわゆる恋愛、あるいは肉体関係)を探るような、店員仲間の「声」がだんだん「雑音」のように主人公を苦しめる。人間の「肉体」と「肉体」の結びつきを求める「声」が主人公を追い込む。
 そのことを、こんな具合に書く。

 店の「音」には雑音が混じるようになった。みなで同じ音楽を奏でていたのに、急にみながバラバラの楽器をポケットから取り出して演奏を始めたような、不愉快な不協和音だった。( 465ページ)

 ここが、この小説の「焦点」。主人公の聞いていた「音」は、彼女にとっては「音楽」だった。コンビニという「場」に集まってきて演奏されるセッションだった。それが、突然、崩れ始める。日常会話が「ノイズ」なのだ。
 そして、そういう「声」に押されつづけ、男の指示に従い、コンビニをやめることになると、さらに変化が起きる。

 今までずっと耳のなかで、コンビニが鳴っていたのだ。けれど、その音が今はしなかった。
 久しぶりの静寂が、聞いたことのない音楽のように感じられて、浴室に立ち尽くしていると、その静けさを引っ掻くように、みしりと、白羽さんの重みが床を鳴らす音が響いた。( 472ページ)

 部屋の中には白羽さんの声や冷蔵庫の音、様々な音が浮かんでいるのに、私の耳は静寂しか聞いていなかった。私を満たしていたコンビニの音が、身体から消えていた。私は世界から切断されていた。( 474ページ)

 「音」が聞こえない。その「肉体」の変化。(作者は「身体」ということばをつかっているが。)これが、なまなましい。痛々しい。
 人間の変化を、音と肉体の関係(肉体の編が/聴覚の変化)でとらえつづけているところが、この小説を傑作にしている。途中の人間同士の会話は、主人公の肉体の変化を明らかにするための、ストーリーという「補助線」にすぎない。面白おかしく書かれているが、そこに作者の「主眼」があるわけではないだろう。
 
 この肉体的苦痛から、主人公は、どうやって「人間」を、つまり「肉体」を回復させることができる。
 いよいよ新しい仕事のために面接にいく、その日。トイレを借りるためにはいったコンビニで、変化が起きる。
 
 ここはビジネス街らしく、客の殆どはスーツを着た男性や、OL風の女性たちだった。
 そのとき、私にコンビニの「声」が流れ込んできた。 
 コンビニの中の音の全てが意味を持って震えていた。その振動が、私の細胞へ直接語りかけ、音楽のように響いているのだった。
 この店に今何が必要か、頭で考えるよりも先に、本能が全てを理解している。

 そして、このコンビニの「声」に従いコンビニ店内の商品配列をてきぱきと変更していく。それに誘われて、入ってきた客が主人公の並べ替えた商品を買っていく。女性二人が新商品に声を上げ、はしゃいでいる。買い物をする。

 今日は暑い日なのに、ミネラルウォーターがちゃんと補充されていない。パックの2リットルの麦茶もよく売れるのに、目立たない場所に一本しか置いていない。
 私にはコンビニの「声」がきこえていた。コンビニが何を求めているか、どうなりたがっているのか、手にとるようにわかるのだった。( 480ページ)

 それをみて「何をしてるんだ!」と叱りつける男に対して、主人公は言う。

「コンビニの『声』が聞こえるんです」
(略)
「身体の中にコンビニの『声』が流れてきて、止まらないんです。私はこの声を聴くために生まれてきたんです」( 481ページ)

 アイデンティティ宣言である。
 感動してしまった。人間を「精神」ではなく「肉体」として、生み出している。
 コンビニの「音」から始まり(起)、コンビニ内での会話から「人間の声」を通り(承)、そこから店外の普通の「人間の声」へと広がり、コンビニの音が聞こえなくなり(転)、コンビニの「声」を聞き取る(結)という具合。コンビニの「音」は「音」ではなく「声」だったのだ。その発見。それが「肉体」としてしっかり描かれている。



コンビニ人間
クリエーター情報なし
文藝春秋
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一方井亜稀「青色とホープ」、江夏名枝「光の萼」

2016-08-10 11:00:14 | 詩(雑誌・同人誌)
一方井亜稀「青色とホープ」、江夏名枝「光の萼」(「現代詩手帖」2016年08月号)

 きのう読んだ板垣憲司の詩。「素材」というか登場してくる「もの」が古くてびっくりしたが、一方井亜稀「青色とホープ」にも同じことで驚かされた。

捨てられた青い目の人形
その青を望みのようにして
飾りのように過ごしていく
高い窓から転落した体も
フロアの隅に置き去りにされた体も
言葉になって取引されて
古いレコードばかりが回る

 「レコード」はまたブームになっているようだから「古い」とは言えないかもしれないが、「捨てられた青い目の人形」に驚いてしまう。一方井には「青い目」が新鮮なのだろうか。「捨てられた」という1970年代の「抒情」が新鮮なのだろうか。
 「捨てられた青い目の人形」は「高い窓から転落した体も」と言い換えられたあと、「フロアの隅に置き去りにされた体」と「話者」の「体」と重ねあわせられる。そのとき「捨てられた」は「置き去りにされた」となり、「置き去りにされた」の意味が「捨てられた」へと変わる。「体」という「名詞」がそれをつなぐ。
 この瞬間、「話者」は「青い目の人形」という「比喩/象徴」と入れ代わる。つまり、「話者」は自分自身を「青い目の人形」と見ていることになる。
 整然とした「抒情」だなあ。
 ここから「古いレコード」へとつながっていくのだが、うーん、レコードのように「一本の道」でできた「抒情」だと私は感じてしまう。
 いまの若者って、ほんとうにこう感じている?

HOPEをポケットに捩じ込んでいく
空き地のライターも
螺子もコードも
すべて吹っ飛んだあとだろう

 私はたばこを吸わないので知らないが、まだ「HOPE」というのはあるんだろうか。「空き地」「ライター」「螺子」「コード」というのは、いまもあるだろうけれど、うーん、そういうものに目が注がれる、そしてそれがことばになる、というのは、私の年代の「肉体」ではどうしても1970年代へ引き戻された感じがしてしまう。
 「ライター」は、私は、ここ10年以上、見たことがない。いや、たばこを吸っている人や、たばこを吸う人を見たことがあるから、そのとき「ライター」も見ているはずだろうけれど、「ライター」ということばで、そのものが「分節」されてくることはなかった。なんだか驚いてしまうのである。

いつもの角を曲がろうにも
いつもの角が見つからない
取引されたあとの
空の青さだけがあり
ここには望みしかないのだと
誰かがうたう

 「空の青さ」。その直前の「取引されたあと」というのは、「捨てられた」「置き去りにされた」と同じ意味だろう。
 「捨てられる」を「取引する」という「動詞」へと動かしていくところが、1970年代とは違うね。
 この「新しさ」を指摘しないといけないのだろうけれど、途中に出てくる「素材」に足元をすくわれる感じがして、どうことばを動かしていっていいのか、まだ、わからない。
 そういうこととは関係なく。
 この「空の青さ」は最果の詩にも、暁方の詩にもあったような気がするなあ。虚無と言っていいくらいの絶対的な青。透明すぎる青。透明すぎて、逆に暗くなる青。深さを持った青。その「深さ」。そうか、あれは「捨てられた」青、「断絶した」青だったのか、とぼんやりと思うのだった。
 それは「世代」の共有感覚なのか。



 江夏名枝「光の萼」。

 薄明は見そめられたかのように深い濃紺へ眉をひき、初夏は夕暮れから息を長く。反射する塵のうつわ。言葉を介さずとも、あなたの背中が綺麗だ。

 ここに出てくる「深い濃紺」も、一方井の「空の青さ」に通じるのだろう。
 江夏の書き出しの一行は「薄明」から「夕暮れ」へと時間的に長い。「眉をひき」という「比喩」を挟んで、一気に飛躍する。その「飛躍」の「着地」が私にはよくわからないが「眉をひき」の「ひく」という動詞が、「息を長く/ひく」という具合に隠されているのかもしれない。
 「眉を(長く)ひく」と「息を長く(ひく)」ということばの中には、隠蔽と表出が交錯していて、この見せているような、隠しているような感じが、交錯の瞬間、反射する。「反射する」ということばが出てくるから、そう感じるのかもしれないが。
 そのあとの、「言葉を介さずとも、あなたの背中が綺麗だ。」の「言葉を介さずとも」は、「言葉を介して」何かを「綺麗」にしたいという江夏の欲望を隠しているかもしれない。存在を「言葉を介して」明るみに出す、存在させる、「言葉を介して」生まれ変わらせる。それが、詩。そう信じているのだと思う。

 夏の空が美しいのは、季節は終わらないというやさしい嘘をついてくれるから。

 「ことばを介して」は「嘘」をついて、と同じである。そこから読み直すと、「あなたの背中は、嘘をつかなくても、綺麗だ」ということになる。「ほんとうに」綺麗だということになる。
 本当と嘘(ことば)が、ここでも隠蔽と表出の拮抗として動いている。

 このあと江夏のことばは、一方井のことばとは違って、1970年代のキッチュ(?)へではなく、「外国文学」のなかのことばを収集しにゆく。

 いまの若い人たちは、いったいどこにいるのかなあ、その「場」がよくわからない。「断絶」というのは古いことばだが、私とは「断絶」した世界にいるのだろうなあ、というようなことを感じた。
 (最果や暁方の詩には、同じ時代に生きている、という感じはするのだが。)

白日窓
一方井 亜稀
思潮社
コメント
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