監督 ビリー・レイ 出演 キウェテル・イジョフォー、ジュリア・ロバーツ、ニコール・キッドマン
アルゼンチン映画「瞳の奥の秘密」のリメイク。
うーん、こういうストーリーだったかなあ。よく思い出せない。たたき揚げの刑事(男、キウェテル・イジョフォー)がエリート刑事(女、ニコール・キッドマン)と組んで殺人事件を追う、というようなストーリーではあったかもしれない。たしか、男は刑事をやめて、作家になり、昔とりあつかった殺人事件を小説にしようとしているのだったと思う。そのために、女に会いに来たのだ。
おぼえているのは、このふたりの微妙な関係である。男が、女に対して愛を打ち明けられない。身分の違い(?)たたき揚げの刑事とエリート大学を出ている女の「身分」の違いゆえに。これが、とても深い映像の中で動くのがおもしろかった。よくおぼえていないが、この抑えきった恋愛が、妙に事件の捜査に曖昧な陰影をひきずっていく。なんとなく、恋愛が捜査を鈍らせる、という感じだったかなあ。
でも。
こういう「身分違いの恋」、あるいは恋愛が捜査に影をおとすというのは、よく知らない国(アルゼンチン)なら、そういうこともあるかもしれないなあと思いながら見ることができるんだけれど、あけすけ個人主義のアメリカで、いまどきこんな恋がある? という妙な「疑問」に邪魔されて、のめりこめない。恋愛にも事件にものめりこめない。アメリカの刑事(警官)なんて、みんなわがまま、自己主張が強い。見る先から、「ありえないなあ」という感じだけが、邪魔する。見ていて、嘘っぽい。
これにたたき上げ刑事の友人の女(ジュリア・ロバーツ)が絡んでくるのだけれど、なんだかめんどうくさい。ジュリア・ロバーツは男の「恋心」を知っていて、からかったりするだが、おもしろくないなあ。邪魔にみえてしようがない。そのうえ、うさんくさい感じさえし始める。
そして、こういう人物が、こういうストーリーものでは最後に重要な役として表に出てくるのだが、途中の「邪魔さ」かげんが影響して、「ネタばれ」のような「効果(逆効果?)」になってしまう。やっぱり、うさんくさかった、なんて思ってしまう。こうなってしまうと、だめ。
あ、でも、問題は、そういうところにはないかもしれない。
この映画が全然おもしろくないのは、「ストーリー(脚本)」というよりも、実は「映像」のせいである。役者の肉体(演技)そのものせいである。
「瞳の奥の秘密」には、映像に「深い闇」があった。主役の男の目(たぶん、黒)や髭(黒)、女の目(これも黒)に「黒」が共通している。そして、それが「室内」で動くと、あるときは存在が「闇」にとけこみ、あるときは「黒い」はずなのに、「光る」。黒い目が光る。そうすると、そこに何かが動いてみえる。それがそのまま「秘密」にみえてくる。「恋心」が、暗くて美しい。「黒」がとても美しいのである。
アメリカ映画は、こうい「黒」を撮ることができない。
「ゴッド・ファザー」だけが唯一の例外で、あの「漆黒の黒」の美しさは、映画であることを忘れさせる。「黒」の美しさが劇場にいる観客を、マーロ・ブランドの書斎へ引きずり込む。
この映画の「黒」は「黒」ではなく、ただ「暗い」だけ。不鮮明なだけ。これでは「秘密」にならない。ジュリア・ロバーツの半分泣いたような目は単にセンチメンタルなだけだし、ニコール・キッドマンは金髪のせいもあって「鋭い」感じはあっても、深みがない。キウェテル・イジョフォーに対してこんなことを書くと「差別主義者/レイシスト」みたいだが、瞳の黒さではなく白目の方が光ってみえて、闇の不思議さが出ない。
「瞳の奥の秘密」をもう一度見てみたい、という気持ちにだけはなるなあ。
(KBCシネマ1:2016年08月18日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
アルゼンチン映画「瞳の奥の秘密」のリメイク。
うーん、こういうストーリーだったかなあ。よく思い出せない。たたき揚げの刑事(男、キウェテル・イジョフォー)がエリート刑事(女、ニコール・キッドマン)と組んで殺人事件を追う、というようなストーリーではあったかもしれない。たしか、男は刑事をやめて、作家になり、昔とりあつかった殺人事件を小説にしようとしているのだったと思う。そのために、女に会いに来たのだ。
おぼえているのは、このふたりの微妙な関係である。男が、女に対して愛を打ち明けられない。身分の違い(?)たたき揚げの刑事とエリート大学を出ている女の「身分」の違いゆえに。これが、とても深い映像の中で動くのがおもしろかった。よくおぼえていないが、この抑えきった恋愛が、妙に事件の捜査に曖昧な陰影をひきずっていく。なんとなく、恋愛が捜査を鈍らせる、という感じだったかなあ。
でも。
こういう「身分違いの恋」、あるいは恋愛が捜査に影をおとすというのは、よく知らない国(アルゼンチン)なら、そういうこともあるかもしれないなあと思いながら見ることができるんだけれど、あけすけ個人主義のアメリカで、いまどきこんな恋がある? という妙な「疑問」に邪魔されて、のめりこめない。恋愛にも事件にものめりこめない。アメリカの刑事(警官)なんて、みんなわがまま、自己主張が強い。見る先から、「ありえないなあ」という感じだけが、邪魔する。見ていて、嘘っぽい。
これにたたき上げ刑事の友人の女(ジュリア・ロバーツ)が絡んでくるのだけれど、なんだかめんどうくさい。ジュリア・ロバーツは男の「恋心」を知っていて、からかったりするだが、おもしろくないなあ。邪魔にみえてしようがない。そのうえ、うさんくさい感じさえし始める。
そして、こういう人物が、こういうストーリーものでは最後に重要な役として表に出てくるのだが、途中の「邪魔さ」かげんが影響して、「ネタばれ」のような「効果(逆効果?)」になってしまう。やっぱり、うさんくさかった、なんて思ってしまう。こうなってしまうと、だめ。
あ、でも、問題は、そういうところにはないかもしれない。
この映画が全然おもしろくないのは、「ストーリー(脚本)」というよりも、実は「映像」のせいである。役者の肉体(演技)そのものせいである。
「瞳の奥の秘密」には、映像に「深い闇」があった。主役の男の目(たぶん、黒)や髭(黒)、女の目(これも黒)に「黒」が共通している。そして、それが「室内」で動くと、あるときは存在が「闇」にとけこみ、あるときは「黒い」はずなのに、「光る」。黒い目が光る。そうすると、そこに何かが動いてみえる。それがそのまま「秘密」にみえてくる。「恋心」が、暗くて美しい。「黒」がとても美しいのである。
アメリカ映画は、こうい「黒」を撮ることができない。
「ゴッド・ファザー」だけが唯一の例外で、あの「漆黒の黒」の美しさは、映画であることを忘れさせる。「黒」の美しさが劇場にいる観客を、マーロ・ブランドの書斎へ引きずり込む。
この映画の「黒」は「黒」ではなく、ただ「暗い」だけ。不鮮明なだけ。これでは「秘密」にならない。ジュリア・ロバーツの半分泣いたような目は単にセンチメンタルなだけだし、ニコール・キッドマンは金髪のせいもあって「鋭い」感じはあっても、深みがない。キウェテル・イジョフォーに対してこんなことを書くと「差別主義者/レイシスト」みたいだが、瞳の黒さではなく白目の方が光ってみえて、闇の不思議さが出ない。
「瞳の奥の秘密」をもう一度見てみたい、という気持ちにだけはなるなあ。
(KBCシネマ1:2016年08月18日)
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瞳の奥の秘密 [レンタル落ち] | |
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