詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エドワード・ヤン監督「牯嶺街少年殺人事件」(★★★★)

2017-06-04 21:56:03 | 映画
監督 エドワード・ヤン 出演 チャン・チェン、リサ・ヤン

 傑作と言われている作品。たしかに傑作。でも、長すぎる。
 台湾の状況と、その状況が生み出す少年の不安定さ。それが交錯し、映画を動かしていくというのはわかる。わかるけれど、長いなあ。私は目が悪いこともあって、途中から映像がかすんで見えるようになってしまった。
 それに。
 映像の構造が侯孝賢(ホウ・シャオシェン)に、あまりにも似ている。このために★5個をつける気持ちにはならない。
 どこが似ているか。「遠近感」のつくり方がそっくりである。冒頭の並木道の緑のトンネルを見た瞬間、私はホウ・シャオシェンの映画化と思ってしまった。「童年往事」だったか「恋恋風塵」だったか、少年と少女が乗った列車がトンネルへ入っていく。そのときの「遠近感」そっくり。「遠近感」を強調することで、「空間」を広げるのである。
 さらにそっくりなのが室内の「遠近感」。手前に「空間」(だれもいない部屋)がある。その奥に別の部屋がある。そして人物は奥の部屋で動く。しかも全員が映し出されるというよりも、半分が映し出されない。二人いれば、一人の姿は見えない。手前の部屋の壁が隠している。常に、手前-奥という構造があり、その延長戦に「遠近感」がつくりだされる。「遠近感」というよりも「多重空間」をつくりだすといえばいいのかもしれない。
 台湾は日本と同じように狭い。島国である。空間が狭い。当然のことながら室内も狭い。その狭い空間をどうやって「広く」見せるか。あえて手前-奥という構造をつくりだすことで「奥行き」を意識させる。観客の「意識」のなかに「遠近感」をつくるのである。
 家があり、門があり、さらに塀(?)があるという空間を見せる半分俯瞰の映像とか、学校の二階への階段を逃げていく少年たちが、さらに三階へ逃げていくというような縦方向(垂直方向)への空間を積み上げることで、空間を多層化する方法。さらに闇と光(電灯/蝋燭)による空間の変化(変質)による多層化とか。
 さらに台湾の家空間、日本が占領中に残していった日本式の家空間とうものも重なる。単純にわりきれない。「空間」はそれぞれ独立しているが、その「独立」は完全ではない。常に他の「空間」と接して、重なることで「広がり」を複雑にし、また味わい深いものにする。
 で、この「多重空間」と人間の「多重交錯」を重ねる。少年たちの人間関係が描かれる一方、大人たちの人間関係が描かれる。それが「意識の空間」を複雑にする。大陸から台湾に逃れてきた人、最初から台湾にいる人。少年チンピラの、どこが違うのかよくわからない組織(人間構成)とか、同じ顔に見えてしまう少年とか。(主人公と、その兄は、私には区別がつかなかった。)この多重のというか、複雑に交錯する人間関係と、空間の多重構造のつくり出し方が、私には完全な「相似形」に思えた。
 わかるけどね。というか、わかるからこそ、何だかあまりにも「人工的」な感じがする。「自然」を装えば装うほど「人工的」になる。「人工的」を「意識的」と言い換えてもいい。「どうだ、複雑だろう? よくできているだろう?」と耳元でささやきつづけられている感じがしてくる。「意識」がうるさいのである。
 ホウ・シャオシェンを知らずに、この映画を見たのなら、わっと声を出して驚いたかもしれないが、ホウ・シャオシェンを知っているので驚けない。感動できない。「完璧」につくられているという感じが強烈に残って、それが逆にいやな感じになってしまう。
 先日見た「マンチェスター・バイ・ザ・シー」の場合は、「空間」の描きかたが半分無造作におこなわれ、その空間のなかで「色」が強く定着している感じがしたが、この映画は「空間」と人間の関係があまりにも「絵」になりすぎていて、興ざめしてしまう。
                       (KBCシネマ、2017年06月04日)

 *

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-35)

2017-06-04 08:32:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-35)(2017年06月04日)

69 *(記憶を閉ざしている)

その裏側にある別の遠い記憶を

 「その裏側にある」記憶と言ったあと、「別の遠い記憶」と言いなおされる。そのとき「別の遠い記憶」は「裏側にある」いくつもの記憶のなかから、さらに選び抜かれた記憶として存在するように感じられる。ひとつだけ、遠くにある。「遠い」が「別」ということばと結びついて「孤立する」。
 その「孤独」を愛する。

70 *(合わせた両手のなかに)

何もないことが心を落ちつかせる

 この「何もない」は「もの」というよりも「無我」の「無」につながる。「私」というものがない。「私」は放心している。世界へ広がって、消えていく。その広がりつづける世界の、

その闇の遠くを蛍火が漂う

 「無心」と私は書いたのだが、その「無心」を象徴するように、螢火が揺れている。「無」はほんとうは「有」である。「心」はある。しかし「こころ」をつなぎとめ、固定するものがない。
 だから「漂う」。 




嵯峨信之全詩集
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広田修『vary』

2017-06-03 11:34:03 | 詩集
広田修『vary』(思潮社、2017年06月01日発行)

 広田修は、私にとって「論理」を詩にする詩人であった。「あった」と過去形で書いたのは、今回の詩集の作品が少し変わっているからである。
 「探索」の「2」の部分。

スクリャービンの気孔から巻いてゆく指々を看取る。痛いのはここから何㎞の地点? 人生に苦悩するときの時給はいくら? (略)髪は鉱物、手は気体。午後にはラフマニノフの散乱。靴音を拾い集めるのは火を焚くためであって、種を蒔くためではない。

 荒川洋治の『水駅』をちょっと思い出した。ことばの選択。飛躍のつくり方。
 でも、それは「表面的」なことであって、読めば読むほど「論理の詩人」に戻っていく。「あった」という過去形の印象は、すぐに「ある」に修正される。
 どこが「論理的」?

 私は実は「ずるい」引用の仕方をした。(略)の部分を復活すると、こうなる。

スクリャービンの気孔から巻いてゆく指々を看取る。痛いのはここから何㎞の地点? 人生に苦悩するときの時給はいくら? あまりに鍵盤を折檻するので見ながらつづら折りになる。髪は鉱物、手は気体。午後にはラフマニノフの散乱。靴音を拾い集めるのは火を焚くためであって、種を蒔くためではない。

 「あまりに鍵盤を折檻するので見ながらつづら折りになる。」という一文のなかにある「ので」が「論理」のことば。「……なので、……である」。このことば(論理構造)が、あらゆるところに隠れている。「……である」というのは「断定」だが、この断定は「事実」にもとづくものではない。言い換えると、「客観的」に認定されるものではない。

あまりに鍵盤を折檻するので見ながらつづら折りになる。

 ここに「客観的」なことは何も書かれていない。つまり、一読して私たちが、「これは何のことを書いている」と、そこに書かれていることを共有できない。自分の経験と書かれていることを結びつけることはできない。
 広田にとって「事実」とは「論理」によって生み出されるものである。「断定」が「事実」を生み出す。
 鍵盤を右に左に、折檻するように叩く。そうやってメロディーと和音が生み出される。その激しい動きは、まるで「つづら折り」の道のように何度も左右を往復する。この激しさが、「ラフマニノフ」へと引き継がれていく。

つづら折りになる「ので」ラフマニノフ「を思い出す」

 なのか、

ラフマニノフの旋律は飛躍の多い「ので」指の動きはつづら折りに見える

 なのか、

指がつづら折りのように左右に動く「ので」、鍵盤を折檻しているように感じられる

 なのか、

指がつづら折りのように左右に動く「ので」、指を折檻しているようだ

 なのか、いくらでも言い換えることができる。
 そして、このとき最初の行に書かれていた「指」も結びつく。
 「指」と「鍵盤」と「つづら折り」と「ラフマニノフ」が、「論理(ストーリー)」としてつなぎとめられ、それが「事実」になる。
 「屁理屈」に見えるかもしれないが、あるいは「後出しジャンケン」のようにご都合主義に見えるかもしれないが、「論理」とはそういうものである。「論理」とは「脳」をごまかすためのものである。「脳」はずぼらだから、自分の都合のいいように(わかりやすいように)、「事実」をつくりかえていく。その方法を「論理」と呼んでいるに過ぎない。

 もちろん「……ので、……である」という「論理」は簡単にはあらわれてこない。「……ので、……である」という「論理」を浮かび上がらせるためには、ちょっと工夫がいる。

スクリャービンの気孔から巻いてゆく指々を看取る「ので」、痛いのはここから何㎞の地点?「と想像する」。

 これは、「痛みを感じるのは何㎞の地点である」。指はまだ「痛い」わけではない。しかし、その指をじっと見ていると、やがて「痛くなる」ことが実感できる。それは「何時間後(何㎞進んだところ)だろうなあ、と思う。想像し、断定するのである。断定を想像するのである。
 で。
 私は「想像する」ということばをつかったのだが、「論理」とは結局「想像力」の働きである。「想像力」とは「事実」を歪める力。嘘を捏造する力のことである。嘘の方が、現実を処理するのに都合がいいときがある。というか、嘘なんか捏造しなくても「事実」は動いていくものだが、その動きはまだるっこしいから、面倒くさがり屋の「脳」は嘘の処理を受け入れる、というべきか。
 ま、どっちでもいい。
 で、「論理」がそういうものであるということは、「論理」が詩と相性がいいということでもある。詩は「事実」を書いているわけではない。自分にとって都合のいいことを書いているに過ぎない。都合のいいことを「抒情」と呼んで、感傷にふけるというのも「脳」には快感である。

 こんなことを書くと、広田の詩を否定していると受け止められるかもしれない。ある部分否定はしているが、否定しないと肯定できないこともあるので、こう書く。

 「論理」が「論理」であるために重要なことは何か。私は「音楽」(リズム)であると感じている。ことばが軽く、素早い。そうでないと「論理」が重たくて、読むのが面倒になる。
 広田のことばは、軽くて響きがいい。
 「3」の部分。

渾身のささやきでさえ、彼の要点を囲めない。傷ついた大陸へと月は進み、濡れた新聞が彼の皮膚へと文字を移す。

 「彼の」ということばが繰り返されるが、こういう「所有」の概念は、ことばの重力になるので、省略した方がもっと軽快になると思う。また「傷ついた大陸へと月は進み、濡れた新聞が彼の皮膚へと文字を移す。」は「傷ついた大陸へと月は進むので、濡れた新聞が彼の皮膚へと文字を移すのである。」ということだが、読点「、」で文章をつなげると、「……ので、……である」が見えすぎてしまう。句点「。」で処理した方が「論理」がより背後に沈み、軽くなると思う。
 「渾身のささやきでさえ、彼の要点を囲めない。」は「渾身の力でささやくのだが、彼の要点を囲めない。」である。「……ので、……でない」「……のだが、……できない」である。つまり「……ので、……である」の否定形の「論理」なのだが、否定形は置き場所がむずかしいかもしれないなあ、とも感じた。
 起承転結の「転」のような形で全体を活性化する働きを担うと、もっと軽快になると思う。

 ところで。
 「……ので、……である」を取り上げるのなら、なぜ「1」の書き出しの、

川の表面に見えない川が重なっているので、刻み採る、反転したウグイスを読むための辞書を踏みながら。

 を、例に引かなかったのか、と疑問に思う人がいるかもしれない。
 1ページだけ読んで感想を書いているわけではないということを「証明」するために「2」を取り上げたのである。(と、わざわざ書くのは、もちろん「嘘」をつらぬくためである。「無題Ⅳ」には、「人生は形容の分割力にどこまでも抵抗するので、分割することなく肯定する「美しい」の一語のみが君臨します、」という行がある、とも書いておこう。)
 また広田が、「論理の詩人」である、「論理」のなかに詩を感じているということを「証明」するために、次の部分もあげておこう。

海を信じるということは、たとえば魚の色と海流の速度との類似について矛盾なく説明することだ。(6)

いのちが影のように伸びていくといつか人間にぶつかる。(7)
暇さえあれば知らない街でもさかのぼっていける。(7)

 「……ということは、……である」「……すると、……になる」「……すれば(であれば)、……になる(できる)」というバリエーションがある。

なぜならば僕は三角形である。(15)

 と、「なぜならば」と「理由」を「論理」にして語ることばもある。

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-34)

2017-06-03 09:51:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-34)(2017年06月03日)

67 *(死がさし迫ると)

習いおぼえた平仮名を書くような手つきで

 この「比喩」は、おぼつかない、たよりない、という「意味」だろう。死がさし迫って力をなくしている。
 だが、私は違和感をおぼえる。
 「習いおぼえた」ばかりの文字を書くとき(こどものとき)、その手は力に満ちていないか。「客観的」に、つまり傍から見れば「おぼつかない」かもしれない。けれど、こども自身にとってはどうか。「おぼえた」喜びで力が満ちていないか。
 そして、ここから私は逆のことも考える。
 もしかすると、嵯峨の妻は、近づいてくる死を「確かなもの」として実感していないか。拒絶するのではなく、力を込めて受け止めてはいないか。力を込めて確かめていないか。嵯峨の「悲しい」思いとは別なところで。
 そう思って読みたい気持ちが、私の「肉体」のどこかにある。

68 *(小さな岬を廻つて)

誰ひとり乗つていない船が大きくはいつてきた

 この「大きく」のつかい方が印象的だ。「大きな船」がはいってきたのではない。船の大きさは描写されず、「はいってくる」ときの動詞が「大きく」と描写される。視線が船から「大きく」ひろがり、海と、空にまでつながっていく。
 そして、それは

ぼくが忘れたのはその船のことではない
二人がぼんやりとそれを見ていた一日のことである

 「一日」という「時間」にまでひろがっていく。「大きく」という副詞の力。動詞を励ます力が、人間のあらゆる動きを膨らませる。
 詩の基底には「悲しみ」があるのだが、「弱さ」ではなく「強さ」を感じさせるものがある。


嵯峨信之全詩集
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天皇生前退位

2017-06-02 10:20:08 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇生前退位
               自民党憲法改正草案を読む/番外81(情報の読み方)

 天皇の生前退位法案が衆院委で可決された。
 読売新聞2017年06月02日朝刊(西部版・14版)の1面に次のくだりがある。

 菅氏は、特例法案で退位の対象を今の天皇陛下に限った理由について、「将来の政治・社会情勢や国民意識の全てを網羅した要件を定めることは困難」と説明した。その上で「(特例法案の)作成プロセスや基本的な考え方は、将来の(天皇の退位の)先例となりうる」との見解を示した。

 「見解」ということばがくせものである。菅個人の「見解」か、安倍政権の「見解」か。だいたい憲法を「解釈」で変えてしまう政権に「見解」というフリーハンドをあたえておいていいのか。
 「将来の政治・社会情勢や国民意識の全てを網羅した要件」というようなことを言い出せば、あらゆる法律が成り立たない。「現在の要件」から出発し、必要があれば改正するしかないのが法律というものだろう。
 「先例となりうる」ではなく、「先例とする」ということだろう。
 「先例」とした場合、どういう問題が出てくるか。

 また、菅氏は「天皇の意思を退位の要件とすることは、天皇の政治的権能の行使を禁止死する憲法との関係から問題がある」と指摘した。

 今後の天皇の「退位」については、特例法案が先例になる。ただし、天皇の意思表明は前提としない。前提としないことを明確にするために、天皇の意思によるものであるという文言は特例法案に盛り込まなかったということらしいが。
 私は逆に読む。
 天皇の退位の意思表明がないと天皇を退位させられないのであれば、不都合が生じるかもしれない。「意思」には「したい」という意思と、「したくない」という意思がある。天皇が「退位したくない」と表明したときはどうするか。それは「天皇の政治的権能の行使を禁止」に抵触することはないのか。
 「天皇の意思」がどういうものか、問わない。「天皇の意思」そのものを排除するために法案がつくられた、ととらえるべきだろう。「天皇の意思」とは無関係に、政権が政権に都合のいい天皇を生み出すためにつくられた法案である。
 政権の「意思」で天皇を自在に交代させるということを防ぐために、法案はどういう項目を設けているのか。そのチェックはおこなわれたのか。
 「先例化」は自民党が民進党の主張に譲歩した結果であると読売新聞は報じている(4面)が、民進党は安倍・菅に利用されているだけである。天皇を天皇の意思に反して交代させる(退位させる)ということが起きたとき、「民進党が先例化を求めた。だから、その意向に沿って、天皇を交代させる根拠にした」と言われるだけである。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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「前川抹殺事件」その3

2017-06-02 09:47:30 | 自民党憲法改正草案を読む
「前川抹殺事件」その3
               自民党憲法改正草案を読む/番外80(情報の読み方)

 読売新聞2017年06月02日朝刊(西部版・14版)の4面に小さな記事が載っている。

加計学園問題で首相、前川前時間を批判/現役時「反対なかった」

 安倍首相は1日、ニッポン放送のラジオ番組収録で、学校法人「加計学園」(岡山市)の獣医学部新設計画を巡り、早期開学を「総理の意向」とした文書が存在していたと明言した前川喜平・前文部科学次官について、「(現役時代に)なんで反対しなかったのか不思議でしょうがない」と批判した。

 この記事には驚くべきことが書かれている。
 読売新聞が安倍の発言を知ったのはいつか。「1日、ニッポン放送のラジオ番組収録で」「批判した」とある。放送はいつか。まだ放送されていない内容が、読売新聞に書かれている。「1日のニッポン放送によると」ではない。
 これは、とてもおかしい。ニッポン放送が放送前の情報を読売新聞に提供したということだ。報道機関がこういうことをするのは異常ではないだろうか。突発事故が何か起きて、収録したけれど放送されない番組もある。放送に先立ち、新聞が内容を伝えるのでは、放送の意味がないだろう。ニッポン放送は「詳しくは読売新聞の報道を読んでください」とでもいうのだろうか。
 「なぜ反対しなかったのか」ではなく、「なんで反対しなかったのか」と口語そのままを再現しているところをみると、ニッポン放送は「収録音源」を読売新聞に提供している。「収録音源」を読売新聞に提供するという「了解」をとって取材したのだろうか。
 報道機関というのは、それぞれ独立しているはずである。同じ事件でも報道機関によってとらえ方が違うということがある。だからこそ複数の報道機関が存在する意味もある。同じ「意味」、同じ「解説」では、複数存在する存在理由がない。ニッポン放送は、自らの首を絞めている。

 安倍の批判内容はすでに世間に流布しているものと同じである。「(現役時代に)なんで反対しなかったのか」。まっとうな批判のようだが、現役時代に反対できないことはいくらでもある。反対できない事情はいくらでもある。「降格されるといやだなあ、首になると困るなあ」という個人的な事情も入ってくる。「正義のため」という理由だけですべての人が行動できるわけではない。
 現役時代は反対できなかった、反対しなかったが、現役を離れたので、かつての行為を反省し、明らかにする、ということは別におかしいことではない。反省する、反省した過去の過失を明らかにするというのは、批判されるべきことではない。間違いに気づいて、その間違いが過去のことだから言わないという方がおかしくないか。ひとが正しいことをするのに「遅い」ということはない。
 読売新聞の記事はさらに書いている。

 首相は、「前川氏は私の意向かどうか確かめようと思えば確かめられる。大臣と一緒に私のところに来ればいいじゃないですか」とも語った。

 これも、「組織」としては不可能だろうなあ。
 「反対」と言おうとしても、「一緒に」行くはずの大臣が押しとどめるだろう。「きみが直接首相にいうようなことではない」とか。「直属の上司である私に言え。その意見に納得すれば、私が首相に言う」と大臣は言うだろう。
 安倍だって、「その話は直属の上司と十分に話し合え。十分に話し合った結果なのか」と叱り飛ばすだろう。
 だいたい次官が安倍に直接反対を言えるような開かれたシステムになっているのか。
 問われているのは、システムそのものなのだ。個人の意見が反映しなくなっている安倍独裁が問われているのに、「直接言え」というのは問題のすりかえである。

 今回の「前川事件」で問題なのは、菅が情報提供し、読売新聞が書いた前川についての記事が「誤報」ではないということだ。前川が出会い系バーに出入りしていたということは「事実」。前川も認めている。ただ、その「事実」は真相の一部しか伝えていない。前川がそこで何をしたのか。それを読者の「想像力(妄想)」に任せてしまっている。その想像力が間違っていたとしたら、「訂正」すべきは記事ではなく、読者自身の想像力であるという「論理」(屁理屈)が成り立つ。そういうところで、前川批判が動いている。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-33)

2017-06-02 08:59:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-33)(2017年06月02日)

 「旅の小さな仏たち」という章に入る。

65 *(妻よ)

妻よ
日も夜も追いつけないほど遠く行つてしまい

 「日も夜も追いつけない」とはどれだけ時間をかけてもということだろう。昼も追いかけ、夜も追いかける。休まずに追いかける。「何日かけても」も同じ意味だが、「夜」が入ってくると印象が変わる。切実になる。「日に夜をついで」ということばを思い出させる。古いことばを洗い直して鍛える、というのも詩の仕事だ。

66 *(さいごの一枚をめくつても)

さいごの一枚をめくつても
まだそのあとに一枚残つていたカレンダー

 「さいご」と思っていたが、まだ「残つていた」。「思っていたが」が省略されている。「思う」を省略することによって、衝撃が強くなる。「思う」間もなく、「事実」があらわれてくる。「事実」は「思い」を裏切る。

そこに死がこつそりと隠れていた

 妻の死を語る作品群はどれも短い。悲しみが強くて、ことばを持続できない。その不完全さ(?)のなかに美しさがある。


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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-32)

2017-06-01 08:24:07 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-32)(2017年06月01日)

63 泥人形

魂しいの
表記はそこになつているが
いま誰も住んでいない

 「表記」は「住所表記」ということか。

行方不明だつた泥人形がそこに崩れていた

 「泥人形」は「魂しい」をなくした人形だろうか。
 しかし「魂しい」そのものように思えてくる。「魂しい」が「泥人形のように」、そこに崩れている。「崩れている」は「魂しい」が崩れていると読んでしまう。「崩れた魂しい」がそこにある。「崩れた」から「存在の在り処」がわからない。つまり「行方不明」。言い換えると「行方不明」なのではなく、「崩れた」ために存在がわからなくなっていた。
 ことばは往復しながら「誤読」の迷路を深める。「意味」がだんだんわからなくなる。非論理的になる。けれど気持ちは逆に「わかる」にかわる。

64 *(氷で家を造るような哀しさになる)

氷で家を造るような哀しさになる
太陽が出ると
溶けてしまう

 詩は、「論理」で読むと奇妙なことになる。
 氷の家は太陽の熱で溶ける。氷の家が「哀しさ」の比喩ならば、溶けてしまった方が幸せになるから、いいのではないか。
 でも、この詩は、そんなことを書いているわけではないだろう。
 氷の家が太陽の熱で溶けてしまう。そういうふうに形がなくなるものが「哀しい」と言っているのだと思う。
 「論理的」には説明できない。
 ただ、そういうふうに「誤読」して、その瞬間「哀しさ」というものが見えたような気がする。「哀しさ」が「わかる」。



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