詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安倍の手口(「天皇生前退位特例法」をめぐって)

2017-06-14 09:27:30 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の手口(「天皇生前退位特例法」をめぐって)
               自民党憲法改正草案を読む/番外85(情報の読み方)

 読売新聞2017年06月14日朝刊(西部版・14版)1面に皇太子の記者会見が載っている。デンマーク訪問を前に記者会見した。「天皇陛下の退位を実現する特例法の成立後、初めての会見だった」と読売新聞は「定義」している。会見のなかで、

象徴の務め「全身全霊で」

 退位と決意を語った。(見出しに、そう書いてある。記事でもそう書いてある。)
 私は疑り深い人間である。だから、ここからこんなことを考えた。
 昨年8月8日、天皇はビデオメッセージを発表した。「象徴天皇」について語ってものである。しかし、その「象徴」の部分は問題にされず、「生前退位」だけが問題になった。「生前退位」について天皇はビデオのなかで直接語っていない。直接語ったのは、あくまで「象徴天皇」についてであった。
 「生前退位特例法」では「象徴」のことが書かれてはいるが、焦点はもっぱら別なところに向けられている。いつ退位するか。いつ元号を変更するか。「皇太子」が不在になるが、どうするか。秋篠宮の身分をどうするか云々。
 で、見出しに取っている「象徴天皇」と「全身全霊で(つとめる)」という発言なのだが、これは皇太子が「自発的」に語ったわけではない。
 最初にデンマーク訪問について質問がある。(以下は読売新聞15面から)そこでは

(1)「雅子さまが同行を見送られた理由と現在の体調、今後の外国訪問の見通し」
(2)生前退位特例法成立後、「両陛下が果たされてきた国際親善をどう受け継ぎますか」
(3)「天皇陛下が全身全霊で取り組まれてきた象徴天皇の役割を引き継ぐことを、どのように受け止めますか」

 という具合に質問がされ、皇太子はそれに答えて、「全身全霊で取り組んで参りたいと思います」と言った。
 天皇は「象徴天皇」としてのつとめを果たすとき、ほとんど皇后と一緒に行動している。被災地法も、大戦の激戦地慰霊などは二人で行っている。
 同じことが、皇太子が天皇になったとき、可能か。できない。皇太子は「今後の外国訪問の見通しを、現時点でお話しするのは難しいと思います」と答えている。
 そういう状況で「象徴天皇」のつとめは果たせるか、という問題が出てくる。
 安倍(あるいは、安倍が設置した「有識者会議」)は、この問題に触れないようにしていた。「象徴天皇の務め」には触れないように、「生前退位特例法」をつくってきた。そして、実際にそれが成立してしまうと、今度は「象徴天皇の務め」を問題にする。天皇と皇后の行動について質問する。昨年夏の参院選では「憲法改正」は「アベノミクス」ばかりいいながら、終わったとたんに「憲法改正」と言い始めたのと同じ構造である。ほんとうにやりたいことは言わない。状況が有利になってから言うというのが安倍の手口である。(質問しているのは「記者」だが、きっと安倍の意向を受けて、あるいは安倍の意向を忖度して、誘導するように質問している。)
 天皇の「象徴としての務め」が天皇単独ではなく、皇后と二人で行われるものなら(二人の方が「家族」につながる)、皇太子単独の行動では不完全なのではないか。夫婦で行動できる秋篠宮の方が「象徴天皇」にふさわしいのではないのか。天皇を交代させるためにはどうすればいいか。「生前退位特例法」は「定年制」を盛り込まなかったが、「定年制」を盛り込めば、何年間は皇太子が天皇でありつづける。つまり、「夫婦で象徴天皇の務めを果たす」を理由に、皇太子を天皇の地位からひきずり下ろすということができない。しかし「定年制(年齢制限)」がないなら、いつでも秋篠宮に交代させることができる。いままで国民がなじんできた「象徴天皇」を維持するために、という理由で。
 これでは、皇太子が健康なのに、秋篠宮を天皇にするのは問題があるのではないかという指摘、批判がかならず出てくるだろう。そこで、安倍は悠仁さまを利用するのである。悠仁天皇を誕生させることで、皇太子と秋篠宮の「対立」を乗り越えてしまう。悠仁天皇が年齢的に「若い」、それゆえに「不安定」ということになれば、皇太子でも秋篠宮でもいいが、どちらかを「天皇」に残しておいたまま、悠仁さまを「摂政」にしてしまう。「摂政」の方が、天皇よりも支配しやすいだろう。「助言」という形で積極的に権力が口出ししやすい。
 安倍は、そういうことを狙っていると、私は「生前退位」が籾井NHKがスクープしたときから感じている。今回の「記者」の誘導質問からも、それを感じる。
 会見では、最後に「戦没者慰霊という形での外国訪問もなさっていきたいとお考えでしょうか」という「関連質問」がおこなわれている。これに対して皇太子は「今の私の立場で申し上げることは差し控えたいと思います。ただ、陛下が心からのお気持ちを示されながら慰霊をなさっているお姿は、大変感慨深く拝見しました」と答えている。
 私には、皇太子が天皇になったときは「海外慰霊」はさせないぞ、という予告質問のように聴こえた。「戦争犯罪」を今の天皇の時代で「封印」する、という安倍の意図が露骨に出た質問である。
 安倍はいまの天皇の「印象」(存在感)を早く消し去りたい。国民を支配する独裁者になり、独裁を強力にするために戦争を引き起こしたいと考えている。戦争になれば、国民の自由は激しく抑圧される。いまの天皇の「存在感」を薄れさせる、消し去るために、いまの天皇の「天皇誕生日」はなくしてしまう。これは「生前退位特例法」で決まっている。昭和天皇の誕生日を「みどりの日」として残したのとは大きな違いがある。もちろん「天皇誕生日」を永遠に残しつづけることは不合理だが、国民生活にたいした影響をあたえない「元号」をいつかえるかの方は成立する前に大騒ぎしながら、休日がなくなることについては触れていない。
 安倍がどんなふうに「情報操作」をしているか、どこまでもどこまでも、疑いの目で見ていかないといけない。最近の例では、憲法改正に「自衛隊の追加」「教育の無償化」の2点をアピールしながら、実際に自民党に指示するときは、こっそり「緊急事態条項」を付け加えていた。(このことは、すでに書いた。)こういうことをするのが安倍なのである。
 皇太子の記者会見、記者の質問となると安倍の意向は入りようがないようにみえるかもしれないが、私はそうは考えない。皇太子の記者会見に出席できるような記者ほど、安倍の意向を忖度するし、安倍の意向の従って動くだろうと勘繰る。


#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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貞久秀紀『具現』

2017-06-13 11:05:53 | 詩集
貞久秀紀『具現』(思潮社、2017年06月30日発行)

 貞久秀紀の詩を私ははっきりと覚えているわけではないのだが。そして、他の人の詩も記憶するということはないのだが。
 読み始めてすぐ、私は江代充の詩を思い出した。
 巻頭にあるタイトルのない4行。

日のあたる時と所に
みえているこの光景が
これと逐一同じべつのものだとしても
だれがちがいを語りうるだろう

 江代の文体とは違うところもある。もっとも、きちんとした比較ではなく、私の印象なのだが。「印象」なので、江代の作品を引いて比較はしないが。
 1行目から2行目への移行、1行目を2行目で言いなおすときの「みえている」という動詞の差し挟み方、「この」という指示代名詞での引き受け方、これは私の印象では江代の作品に多く見られるものである。
 この不思議な「ごつごつ」感を散文にして動かすと、小川国夫の文体になるとも思う。これも「印象」なので、まあ、いいかんげんなものなのだけれど。

 「例示」という作品。

きょう、やぶ道をきてひとつの所に立ち
それがこの岩であるときはみえずにいる雲が
おなじ岩の台座から
きのうの曇りぞらにとりわけ陰がちにかたまり
光につよくふちどられて
山の真上にかぎりあるちぎれ雲のすがたまで
高められ親しくながめらなたことは
その日そこに涌きいでたただひとつのことがらとして
指折り数えることができる

 1行目の「きて」「立ち」という動詞の「主語」は書かれていない「私」。2行目の「ある」「みえずにいる」の「主語」は「私」ではない。ずれがある。特に「みえずにいる」という微妙な「動詞」のつかい方から、私は、どうしても江代を思い出してしまう。「みえずにいる」を「みえない」と書き換えると「主語」は「私」になる。「主語」という言い方は、文法的には正しくないのかもしれないが。「私(主体)」には「みえない」ものを、「私」をとりはらって「客観化」すると「みえずにある」ということになる。「主語(私)」を消して、対象を「物理的(客観的)」に書くといえばいいのか。
 「陰がちにかたまる」「つよくふちどられる」「ちぎれる」というような「動詞」も「私」ではなく「存在(もの)」を「客観的」に描写するときの「動詞」である。それを「ながめられた」と言いなおす。「私」が「ながめた」ということだが、「私」を消し去って、「もの」のあり方として描く。
 「私」を消し去って「もの」を描く。--ここから私は小川国夫を思い、また志賀直哉を直感的に思い出すのだが、小川国夫にしろ志賀直哉にしろ、それは実際には「私」の消去ではなく、逆に「私」の絶対的な定着なのだが。
 「だが」「だが」と半端な形で書いてしまうのは、私は小川国夫の愛読者でもなければ、志賀直哉の愛読者でもなく、本屋で立ち読みしたくらいの印象しか持っていないからである。でも、感じてしまうのだ。
 江代は、その「私」の「絶対性」というものを、散文化できない文体、ねじれて、折れて、断面がむき出しになる文体で、「悲鳴」の強さで放り出している。
 貞久は、その江代の「ねじれて、折れて」という感じを、いまふう(?)に飛躍にしているという印象なのだが。
 貞久という「署名」がなければ、私はここに書かれている作品の多くを江代の作品と勘違いすると思う。具体的に対比すれば、たぶん全然似ていないのだろうけれど、「動詞」の「主語」がすりかわり、融合し、その変化のなかで「風景」が完成していくという世界のあり方、そういう「印象」を呼び覚ますところが似ている。

 これじゃあ、批評にならないか。
 私は批評ではなく、ただ感想を書いているのだから、仕方がないか。

具現
貞久 秀紀
思潮社
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ピーター・バーグ監督「パトリオット・デイ」(★★)

2017-06-12 09:11:26 | 映画
監督 ピーター・バーグ 出演 マーク・ウォールバーグ、ケビン・ベーコン、ジョン・グッドマン

 予告編がすばらしかった。本編で感心したのは、その予告編の部分だけだった。
 どの部分かというと。
 巨大な倉庫のなかにテロが起きたボストンの街路を再現する。そこで犯人の動きを推測する。防犯カメラに映っている映像で、犯人の動きを追認する。追認できたことによって、犯人だと特定する。ここが、短い時間だけれど、実におもしろい。
 ケビン・ベーコンが犯人になり、いま、ここにいる。これから先は?と問う。土地鑑のあるマーク・ウォールバーグが防犯カメラが設置されている店の名前を上げる。その映像を再現する。そうすると、そこに犯人らしい姿が映っている。この「再現」ドラマは、操作の基本なのかもしれないが、いままでの映画では、映像分析官がただ映像を見つめて不審者を探していた。これに、現場の警官が加わる。そして、それが「事件」を解決していくことにつながる。「解決」を加速する。
 そこで暮らす人。「市民」の視線。「市民」の力。
 これは、後半になって、「愛のメッセージ(ボストンを愛している、この愛を誰も奪うことはできない)」にかわるのだが、この「うさんくさい」(言い換えると感動的な)テーマは、このマーク・ウォールバーグとケビン・ベーコンのやりとりのなかに凝縮している。問題を解決し、乗り越えていくのは、あくまでその土地に生きている人。自分の土地を知り、愛している人が、その土地とそこに住む市民を救う。
 で、このあとは「犯人の逃走」と「犯人追跡」。
 見どころは、それまでのハリウッド映画のように、警官(組織)が一気に犯人を追いつめるという感じではないところ。「個人単位」というと変だが、少しずつ「現場」に駆けつけてくる。犯人と向き合う警官の数が、最初は非常に少ない。銃を奪われそうになる顕官はたった一人。銃撃戦になっても、犯人が二人なら、応戦する警官も二人、という感じ。警官が「組織」である前に「個人」。そして、その「個人」のまわりに、「個人」が暮らす「街」が「街」のまま加わってくる。
 ボストンの街に詳しい人なら、これでいいんだけれど。
 私はボストンを知らない。だから、ここで描かれているボストン感覚が、いまいちぴんと来ない。クライマックスの「ボート」など、湖との距離感がわからないから、リアリティーが「肉体」に伝わってこない。
 だんだん「理屈」で映画を見ている気持ちになってくる。そしてこの「理屈」が「愛のメッセージ」になるのだから、やりきれない。
 あ、もう一か所、おもしろいところがあったなあ。犯人の妻が拘束される。その妻をイスラム教徒を装った(?)黒人の捜査官が訊問する。これが非常に強い。まるっきり別の人。ボストンとは無関係。訊問の「論理」だけを生きている。だから聞き出せないとわかったら、さっさと引き上げる。彼女には、この映画がテーマにしている「愛」というものがない。それが強烈である。「論理」だかがもつ美しさがある。

 実際の事件ビデオもまじえながら、よく構成された映画である。
 でも、私は、こういう「愛のメッセージ」は嫌い。「愛は勝利する」というけれど、「勝利」などいらない。「敗北」は誰だっていやだが、「勝った、負けた」とは関係なく世界は存在しないといけない。
 「勝たなければいけない」というのは、トランプの「アメリカ・ファースト(アメリカが一番)」の思想の先取りかもしれないなあ。これから、こういう映画が増えてくるのかなあ。いやだなあ。
     (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ・スクリーン3、2017年06月11日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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野沢啓「発熱装置」

2017-06-11 09:34:53 | 詩(雑誌・同人誌)
野沢啓「発熱装置」(「走都」第二次創刊号・通算21号、2017年06月15日発行)

 野沢啓「発熱装置」は、こう始まる。

ことばが放たれたがっている
誰のものでもないことばが場所をもとめている
だからこの空間は用意されるのだ

 詩は「誰のものでもないことば」である、と私も思う。放った人はいない。ことばが「ひと」を離れていく。「ひと」を捨てていく。書いた人が、そのことばを追いかけてつかまえることもある。しかし、逃げられてしまうこともある。たぶん逃げられてしまったときの方が「正しい」のだ。書いた人には「逃げられてしまった」という喪失感ではなく、ことばが「野生」にかえったのだ、という喜びが残る。そういうときが、きっと詩なのだと思う。
 詩人の喜びは、自分にはことばを「野生」に返す力がある、という自覚と一緒に動く。そういうものだと思う。いま、ここにあることば。それを鍛え直す。「野生」に、あるいは「野蛮」に、「制御できないもの」に。それは自分自身のなかにある「未分節」なものをことばに預けて、「自然」へ解放することだ。

 というようなことは、「抽象」なので、なんとでも書ける。どのように書いても「論理」にすることができる。これが、ことばのいちばんこわいところ、困ったところである。この困った罠、困難な罠と、どう闘うか。

《無学だからといって、それだけ弾痕が固くならないことがあろうか》
とローマの詩人は言ったそうだ
知識はひとを虚弱にさせる
《人はなにもしることはできないのだと考える人は、なにも知ることはできないと断言できるほど、自分がよく知っているかどうかを知らないのである。》
なんだって!

 野沢は「他者」のことばに向き合っている。(引用には注釈があり、原典が示されているが省略した。)そのことばは他者によって「放たれたことば」である。この「放たれたことば」を野沢は、それを放った人には返さない。自分で引き取り、動かしていく。

なんだって!

 ということばとともに。
 「なんだって!」は、野沢自身のなかに閉じこもっていることばを解放する「カギ」である。「なんだって!」ということばで扉を開ける。それは随所に隠れている。
 この断章の部分のつづきは、こうである。

結局ひとはしることができるのかできないのか
なにも知らないことを知っているのは
やはり知らないことなのか
どうにもややこしい
はっきりしているのは
知らない者が知っているふりをする滑稽さだけだ
それでも知らないより知っているほうがいくらかましだろう
そのぶん悲惨さも深いだろうけどね

 これは、次のように書き換えることができる。

結局ひとは知ることができるのかできないのか
(なんだって!)
なにも知らないことを知っているのは
やはり知らないことなのか
(なんだって!)
どうにもややこしい
(なんだって! ややこしくしているのはおまえじゃないか)
はっきりしているのは
知らない者が知っているふりをする滑稽さだけだ
(なんだって!)
それでも知らないより知っているほうがいくらかましだろう
(なんだって!)
そのぶん悲惨さも深いだろうけどね
(なんだって!)

 「なんだって!」を補ってみると、どのことばも「肯定」ではないことがわかる。言ったことを「肯定」して「論理」を積み重ねていくのではない。常に「否定」を孕んでいる。

結局ひとは知ることができるのかできないのか

 という一行が象徴的だが、ことばは「疑問」によって扉が開かれ、「答え」を探すことで解放される。「答え」の所有者は「疑問」であると言うこともできるが、「答え」などほんとうはなくて、ただ「答え」へ向けて動いていく動きがあるだけである。言い換えると「答え」は「正しい」ものでなくてもいい。「間違い」であってもいい。常に、

なんだって!

 という新しい「怒り」というか、「衝動」をうながすものならそれでいいのだ。野沢は常に「なんだって!」という怒りをバネに、「論理の罠」と闘っている。
 で。
 私はというと、野沢のことばを読みながら「なんだって!」と繰り返し、自分のなかのことばを動かしている。野沢のことばに刺戟を受けて、かってにあれこれことばを動かしている。私のなかから「詩」と呼べることばが飛び出してくるかどうかはわからない。けれども、こうやって書いていることは、ことばが動いているということであり、「放たれたがっている」ことばがあるということなのだろう。

ことばが命と同じぐらいに軽くなったいま
どうしてことばを発せられるか

 「ことばが命と同じぐらいに軽くなった」は、「命がことばと同じぐらいに軽くなった」と読み替えた方がいいのかもしれない。現代の状況に重なるかもしれない。
 「どうしてことばを発せられるか」と野沢は自問の形で書いているが、そういう状況だからこそ、ことばを発しないといけない。ことばを命と同じくらい重いものにしないといけない。ことばを「自然/野生/野蛮」にしないといけない。だれのものでもないもの、ただそこに生きているだけのもの、所有されないものにしないといけないという思いがあり、それが再び野沢に「走都」を発行させ、詩を書かせているのだと思う。

この時代
哲学のことばは浪費され
低能な施政者の紋切り型だけが虚空をうつ
ことばはこれほど価値がなくなったのか
どこかにあるべきことばの力を
いまなお求めるのはだれの仕事なのか

 誰の仕事でもない。それぞれひとりひとりの仕事だという思いが、野沢に「個人誌」をつくらせている。

詩の時間、詩という自由―「同時代詩通信」より (1985年)
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れんが書房新社
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梁川梨里『ひつじの箱』

2017-06-10 11:35:26 | 詩集
梁川梨里『ひつじの箱』(七月堂、2017年03月26日発行)

 梁川梨里『ひつじの箱』に「揺れる」という作品がある。

風は、気孔を空に向けるゆびさきを持つ
なめらかな所作で
ひかり、なのか、花、なのか
ひかりの花なのか
分からないことは
わからないままのほうが
うつくしい

 一行目が魅力的だ。意識がひっかきまわされる。書かれていることを「理解した」とは言えないが、その「ひっかきまわされた」という感覚が詩なのだろう。
 梁川にもわかっていないのかもしれない。だから、言いなおすのだ。「やわらかな所作」という別のことばで。「ゆびさき」と「やわらか」「所作」が結びつき、ゆじが空に向かってゆらゆら揺れるように感じる。
 「ひっかきまわされ、ごちゃごちゃになったもの(混沌)」が、少しずつ落ち着き、濁り水が透明になるように澄んでくる。
 それが「ひかり」と「花」とさらに言いなおされる。ただし、その言い直しは一行目から二行目への言い直しとは違う。

ひかり、なのか、花、なのか
ひかりの花なのか

 区別がなくなり、ひとつになる。融合する。この融合は、むしろ「結晶」と読んだ方がいい。言いなおすことは、「結晶」をうながすことなのだ。ことばの運動が「結晶」の「触媒」なのだ。
 思い返せば、最初の一行、二行も「融合」である。ただし、それは「結晶」ではなく、複数のものが複数のまま、からみあった融合、「混沌」というものだ。「混沌」のまま、ひとつになっている。
 そこから「気孔」ということばが出てきて、「ゆびさき」ということばも出てくる。書き出しの「風」は最初は「風」ではなく、何かが「融合」したひとかたまりのものだった。それが「風」と読んだ瞬間から「気孔」ということばを誘い出し、「空」を誘い出し、「ゆびさき」ということばにもなる。
 何が絡み合っているかがわかったあと、絡み合ったものが、他のものと誘い合うのだ。新しい結びつき、「結晶」になることを求めて動き始める。
 「風」がつぎつぎにことばを生み出、生み出したものがまた結びついて「ひとつ」になる。「風」が「風」ではなく、「ひかり、花、ひかりの花」という「ひとつ」になる。「ひとつ」になったとき、最初の「風」が「美しい結晶」としてよみがえってくる。
 ここには往復運動がある。「融合(混沌)」から「結合(結晶)」へと「往復」する。その「運動」こそが「うつくしい」。

 感覚的に見えて、この「往復」は「論理的」である。つまり、そこからさらに「論理」の運動を利用して世界を広げていくことができる。
 少し省略するが、

わたしの右側を駆け下りていく
サラリーマンの鞄からこぼれ落ちている
ひかり、
(落しましたよ)

 「ひかりの花」は、そこに唐突に復活してくる。風がさっと吹き抜けたように新鮮な空気がひろがる。「ゆびさき」が、その「ひかり、」を拾おうとする動きが見える。

 「さかなをかく」の一連目。

雨が降る、ずんずんと降る
傘に長靴、から、ボートに変わってから
かれこれ三ヶ月が経つ頃、二階の窓から出入りをはじめた
こんなにたくさんの水は何処に隠されていたのだろうか
牛乳瓶に入れて流された言葉でうおうさおうしていたわたしたちは
半年で雨がやまないことに同意した

 「論理」は「物語」へとつながっていく。これはことばの宿命なのかもしれない。しかし、

傘に長靴、から、ボートに変わってから

 この行の「、から、」という分断と接合の意識が、物語をつなぎながら切断する力になっている。詩がときどき噴出してくる。それがおもしろい。

詩誌「妃」17号
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安倍の手口(「天皇生前退位特例法」をめぐって)

2017-06-10 09:11:40 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の手口(「天皇生前退位特例法」をめぐって)
               自民党憲法改正草案を読む/番外84(情報の読み方)

 天皇を生前退位させる「特例法」が06月09日に成立した。読売新聞2017年06月10日朝刊(西部版・14版)の1面の見出し。

 退位特例法 成立/天皇陛下 来年末にも上皇に/新元号選定 本格化

 私は「天皇の生前退位」は安倍が仕組んだ憲法改正の第一歩と認識している。「護憲派天皇」の追放が目的である。憲法について何も言わせない、第二次大戦について発言させないための強行手段である。
 安倍は天皇をどうやって国民のあいだから消し去ろうとしているか。
 見出しに「新元号選定 本格化」とある。いつから新元号にするかは、特例法が成立する前から新聞を賑わした話題である。最初は2019年01月01日から新元号という「説」がひろがった。年の途中でかわると、わかりにくく、国民生活に影響がある、というのだが。私にはとても信じられない。元号がいつかわっても、私なんかはぜんぜん影響されない。何一つ困ることはない。カレンダーも「日付/曜日」を確認するものであって、元号を確認するために見たりはしない。
 いちばん国民生活に関係するものは何かといえば、「祝日」だろう。「12月23日の天皇誕生日」はどうなるか。「特例法全文」によれば、祝日について「2月23日 天皇の誕生日を祝う」と改めると書いてある。これは、いいのだが、そのあと、

「天皇誕生日 12月23日 天皇の誕生日を祝う。」を削る。

 とある。天皇ではなくなるのだから「天皇誕生日」ではなくなる。だから削る。あたりまえのようだが、私には「違和感」が残る。
 昭和天皇の誕生日「04月29日」は「みどりの日」になって、祝日のまま残った。どうして、平成天皇誕生日は「名称」を変えて残らないのか。
 12月の祝日がなくなる、というのは、元号の変化以上に国民生活に影響するだろう。どうして誰も話題にしなかったのか。昭和天皇の誕生日がそのまま祝日として残ったのだから、平成天皇の誕生日も残るだろうと思い込んでいたのかもしれない。それとも、私以外は祝日ではなくなるということを知っていたのかな?
 で。
 疑り深い私は思うのである。なぜ、「平成天皇の誕生日」を削除するのか。「平成天皇」を思い出させないためである。護憲派の天皇、被災地を訪問し被災者によりそう天皇を思い出させないためである。平成天皇を思い出させるものは、国民の目につくところから消してしまう。
 平成天皇を封印して、憲法を改正する。戦争のできる国にする。
 これも、安倍の「手口」のひとつである。
 憲法改正の動きが加速し、独裁が進む。
 憲法が権力を拘束するものであるように、法律も権力を拘束するものでなくてはならない。「生前退位特例法」が権力(安倍)の意思によって天皇を交代させるという動きに利用されないか、その点をもっと真剣に点検しなければならないはずなのに、点検されなかった。
 この特例法は、皇太子が天皇になって、天皇としてどう振る舞うかをみきわめたとき、どう動くのか。安倍にとって気に食わない存在とわかれば、すぐに「特例法」を適用させて、天皇を交代させるに違いない。

 権力の暴走をどう防ぐか。
 森友学園にしろ、加計学園にしろ、権力の暴走である。権力が、自分に都合のいい人間だけを優遇し、支配を強めている。秘密保護法も共謀罪も同じ。
 いま、あらゆる法律が権力の暴走を手助けするためにつくられている。「天皇の生前退位特例法」も同じである。
 安倍の、反対者を沈黙させて、やりたい放題をするという手口は天皇制にまで及んでいる。それを野党は見逃した。共産党も民進党も法案に賛成した。高齢の天皇に配慮するとは聞こえのいい言い分である。やっていることは天皇の封印である。

#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位
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安倍の手口(「加計」文書をめぐって)

2017-06-10 00:55:39 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の手口(「加計」文書をめぐって)
               自民党憲法改正草案を読む/番外83(情報の読み方)

 読売新聞2017年06月09日夕刊(西部版・4版)の1面の見出し。

 「加計」文書 再調査へ/文科相表明 聞き取り対象拡大

 「総理の意向」をめぐる文書について、文科省は「確認できない」と言っていた。再調査はしないと主張し続けてきた。菅は、「怪文書」と断定し、前川前文部次官の人格攻撃までしていた。
 それが突然の方針転換である。
 なぜだろう。世論の声に抗しきれなくなったのか。2社面には

「国民の声」受け一転

 という見出しがある。
 私は疑り深い人間であるから、こういう「方針転換」は信じない。「裏」があると勘繰る。
 気になったのが、再調査を決めた松野文科相の次の発言である。

「総理からは徹底した調査を速やかに行うよう指示があった」

 安倍が「徹底した調査」を指示した。しかも、「速やかに行うように」。
 どうもおかしい。「徹底した調査」は「速やかに」はできない。どうしても時間がかかる。ほんとうに「徹底した調査」をするのならば、まず文部省(職員)が調査するのではなく、第三者が調査すべきだろう。調査対象も、文部省の職員全員のパソコン、サーバーを調べないといけない。単に文書が残っているかだけではなく、「削除」した形跡がないか調べないといけない。パソコンだけではなく「紙(プリントアウトしたもの)」も調べないといけないし、個人のパソコンやメールも調べる必要が出てくる。「徹底」とは、そういうことだろう。
 そして、この「徹底」は「速やか」とは相いれない。
 ポイントここである。
 「速やかに」は「嘘」である。「時間をかけろ」と安倍は言っているのである。
 国会審議は、とどこおっている。09日は「天皇の生前退位特例法」が可決されたが、「共謀罪」の審議は「加計学園」をめぐる「文書」のせいで、なかなか進まない。何度も質問が繰り返される。
 これをストップさせる(加計学園問題を審議させない)ためには、どうすればいいか。簡単である。「調査中」という状態をつくればいい。
 きっと、月曜日からの国会審議では、「その問題については、文部省が調査中である。調査結果が出るまで、その問題については答えられない」という答弁が展開されるだろう。
 「口封じ(質問封じ)」のための「方便」である。
 安倍の政策は、いかに「沈黙」をつくりだすかということで一貫している。「沈黙」し、押し切る。説明などしない。
 2社面には、文部省の職員の声が載っている。

「これまでの対応を一転させたのには驚いた」

 そう、みんなが驚いたはずだ。そして、驚くとき、人は一瞬何が起きたのかわからなくなる。衝撃で、何か、大事なものを見落とす。
 「徹底調査」は「罠」である。「速やかに」というのは、「速やかに着手する」ということに過ぎない。結論はできるかぎり遅く、言い換えると国民が忘れてしまうまで、ほうっておけ、という指示なのである。安倍の指示は。
 「共謀罪」が強硬可決されたときは、そのショックで、もうみんな「加計学園」のことを忘れている。忘れてしまう。それを狙っている。
 民進党などは、どこか「共謀罪」を成立させないために「加計学園」問題を追及するというような「論理の混同」があるから、この安倍の作戦に「コロリ」と騙されてしまうだろう。
 このままでは、国会を延長させずに、「共謀罪」を成立させるという安倍の作戦が成功する。さらにその勢いで東京都議会選を突破するつもりなのである。

 昨年の参院選の「沈黙作戦(選挙報道をさせない作戦)」が顕著だったが、誰が安倍のブレーンかしらないが、この「沈黙活用作戦」は、非常に手が込んでいる。いままでは誰も気がつかなかった方法である。

#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園
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荒木時彦「物事は具体的に書かなければならない。」

2017-06-09 10:34:44 | 詩(雑誌・同人誌)
荒木時彦「物事は具体的に書かなければならない。」(「荒木時彦×網野杏子×秋川久美」創刊号、2017年06月05日発行)

 荒木時彦「物事は具体的に書かなければならない。」は、具体的に書かれているか。

内面の状態。



ブラック・コーヒーを飲んでいる時、私の心の状態は落ち着いている。カフェなどよりも、部屋で一人でいる時のほうがより心が休まる。

 タイトルとは裏腹に、私には「抽象的」にしか感じられない。「内面の状態」が「心の状態」と言い換えられても、具体的になったとは感じられない。
 私は「心」よりも「内面」の方を「具体的」と感じる人間である。「こころ」はどこにあるかわからないが、「内面」ならどこにあるか「わかる」。「わかる」はもちろん「誤解」だが、「内」ということばが「外」ということばと向き合うことで「方向性」が出てくる。「面」というのは「内」と「外」を区別する境界線の「別称」である。ある「線」からこっち側が「内面」、あっち側が「外面」という具合に判断することができる。「円」を想定すれば、「中心」のある方が「内側」、「中心」のない方が「外側」。ある区切りによって生み出される「方向」が「内側/外側」の指針になる。
 「方向性」が「具体的」ということになる。
 「こころ」に関しては、私はこういう「定義」、あるいは「肉体」を動かしながら存在を確かめる方法を持っていない。言い換えると「こころ」が存在していると「実感」したことがない。
 「ブラック・コーヒー」さえ、私には「具体的」とは感じられなかった。抽象的な「ことば」にすぎないように思えた。
 ところが。

雨粒が落ちていく。それは冷たい雨だ。
部屋の空気が、時間をかけて冷えていくのがわかる。

 この部分は、「具体的」だと感じた。「わかる」のだ。私は、こういうことを「体験したことがある」とはっきり思い出すことができる。もちろん私が思い出したものと荒木が書いているものは別のものかもしれない。つまり、私は荒木のことばを「誤読」して、自分のおぼえていることに触れているだけなのだが。
 なぜ、「具体的」と感じたのか。

時間をかけて

 この「経過」をあらわすことばに「力」がある。何事かを指し示す力がある。
 「内面」ということばに触れた時「方向性」と私は書いたが、この「時間をかけて」にも「方向性」がある。「方向性」は「動き」である。「動き」を誘う何かである。「動き」にあわせて、私の「肉体」が動くのである。
 私は、私の「肉体」を動かしてくれることばを信じる。
 部屋が冷えていく時、私の「肉体」は、たぶん動かずにじっとしている。だからそれを「動き」というのは変かもしれない、運動と呼ぶのは変かもしれないが。
 実は、「肉体」の「体温」も変化している。「肉体」が部屋の温度に合わせて動いている。その、つかみどころのない「変化(動詞になりうるもの)」が、ここには書き留められている。ことばとして定着している。
 だから、というのは飛躍になるかもしれないが、
 だから、その二行が、

それは、何も奪わない、しかし、誰も救わない出来事だ。

 ということばへと結晶していく時、それを「抽象的」とは感じない。荒木がそのとき考えた「具体的」なことなのだと感じる。「具体的」とは、この場合、「必然的」という意味である。

drop
荒木 時彦
書肆山田
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-40)

2017-06-09 09:47:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-40)(2017年06月09日)

79 *(火の中に投げ込む)

魂の一束
燃えあがる炎のむこうにひろがる時雨れる沙州

 魂は嵯峨の魂。妻をなくして、悲しみに燃え上がる。激しい対立、整えることのできない激情がある。
 それが「炎」と「時雨」という対立したもの、熱い火、冷たい雨を呼び寄せる。炎が時雨を呼び出したように感じる。炎がなければ、時雨もやってこない。「ひろがる」という動詞が「むこう」を呼び寄せる。その呼び寄せる力によって「時雨」がやってくる。
 これは実景であると同時に心象風景である。
 ここでは「ひろがる」「時雨れる」と、動詞が二つ重なって動くのだが、その重なる動詞に、何か「呼び寄せる」力のようなものを感じる。
 呼び寄せる力を「祈り」と「誤読」したくなる。

その沙州にぽつねんと立つている一基の墓だけが
口もあれば鼻も眼もある

 呼び寄せる力のなかで「墓」が「顔」になる。

80 *(遠い記憶の果にただ一つの名が残つた)

遠い記憶のはてにただ一つの名が残つた
その名に祈ろう
晴れた日がこれからもつづくように

 「名」を「梢」という。注釈に、嵯峨は記している。
 「晴れた日」は妻のために祈るのだ。激しい時雨の日に、悲しみの炎を燃え上がらせながら。



嵯峨信之全詩集
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-39)

2017-06-08 11:25:05 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-39)(2017年06月08日)

77 *(忘却ということのなかに)

忘却ということのなかに
記憶は小さな領土を持つ

 この二行も、読んでいるうちにことばが入れ換わる。「忘却」と「記憶」がすれ違う。

記憶ということのなかに
忘却は小さな領土を持つ

 「忘却」は「記憶」が前提だからかもしれない。「おぼえている」から「忘れる」がある。「忘れる」が先にあって「おぼえる」がやってくるからではない。
 不思議なことに、「忘却」は「記憶」がなくなることではない。「思い出せない」のだけれど「おぼえている」感覚がある。
 「忘れよう」としても「忘れられない」「思い出さずにはいられない」ということも、誰もが経験する。
 「忘却」と「記憶」は、相対化し、固定化できないものである。
 愛している人についてなら、なおさら「記憶」と「忘却」は区別できない。

78 *(その他は余分だ)

これから先きどのように生きようと
どこにもカンマもなければピリオドもない

 なぜ「カンマ」「ピリオド」なのか。「読点」「句点」ではないのか。意味としては同じ。「読点」「句点」の方が日本語らしい。「肉体」に無意識にはりついてくる。
 「カンマ」「ピリオド」という軽い音で、向き合っているものを「対象化」しようとしているのかもしれない。

つづきつ放しだ

 切実な「つづく」感じ。それを何とか切り離し、対象化しようとしているか。

嵯峨信之全詩集
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安倍の手口(憲法改正をめぐって)

2017-06-07 09:21:13 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の手口(憲法改正をめぐって)
               自民党憲法改正草案を読む/番外82(情報の読み方)

 読売新聞2017年06月07日朝刊(西部版・14版)の1面に、びっくり仰天する「大ニュース」が載っている。

 自民改憲案 4項目軸/自衛隊根拠や合区解消/年内めど

 安倍が05月03日の読売新聞の「首相インタビュー」で語っていたのは「20年施行目標」と「9条に自衛隊明記」「教育無償化」。項目としては2項目である。これが、突然、増えている。

 検討項目は、首相から指示のあった①憲法9条1、2項を維持して自衛隊の根拠を追加②大学などの高等教育を含む教育無償化③緊急事態条項--の3項目に加え、党内の要望を踏まえて参院選の合区解消に取り組むことにした。

 4項目目の「合区解消」は党内の要望から出てきたもので、それを検討するのはいいのだが、

③緊急事態条項

 これは、何だ。
 抜き打ち的に追加されている。
 「自民党憲法改正草案」(2012年)の「目玉」項目である。「改憲草案」が話題になるたびに国会でも取り上げられてきた項目である。これが、こっそりと追加されている。
 読売新聞は、これを見出しに取っていない。
 気づかなかったのか、気づかせないようにしているのか。

 自民党が「何項目」検討しようが、それは自民党の自由だが、この「こっそり」「抜き打ち的」な追加は、国民の目をごまかすものである。
 加計学園の問題につながる。最初は存在しなかった「広域的に」「1校のみ」をこっそり追加することで、基準にあう大学が加計学園のみになった。議論をすすめておいて、最終段階でそっと結論を「誘導」する。議論をはじめているので、もう、引き返せない。「結論」が「追加項目」によって決まってしまう。「広域的に」「1校のみ」という条件を追加したのは、審議している委員ではないだろう。政権だろう。

 今回の場合、「改憲のテーマ」が「第9条と自衛隊の関係」「教育無償化」であるように語り続けている。「改憲テーマ」が国民のあいだに広がると、そのあとでこっそりと「緊急事態条項」を付け加える。
 05月03日のインタビューでは語られていない「緊急事態条項」。これこそが、安倍が「20年施行」を目標にしている一番のテーマである。これを追加するように「指示」した。国民(読売新聞)には語らず、こっそりと自民党に指示した。
 国民向けに語ることと、自民党内に指示することが違っている。国民が納得しそうなことだけを国民に語り、激しい議論が起きそうなことは語らない。秘密裏にすすめる。これが安倍の手口である。
 もし05月03日のインタビューで、安倍が「緊急事態条項」を語っていたら(読売新聞がそれについて書いていたら)、その後の国会でのテーマは「緊急事態条項」に集中していただろう。国会で話題にならないように、安倍は語らなかったのだ。テーマを隠していたのだ。
 「共謀罪」も「緊急事態条項」と関連づけて、さらに厳しく追及されているはずである。「共謀罪」が成立するというメドをつけておいて、それから「緊急時第条項」を出してきたのである。
 「共謀罪」は何とか強行採決できそうだ。「憲法改正」の議論も「教育無償化」を掲げることで、国民の納得を得やすい形でスタートさせることができた。
 そうやっておいて、「緊急事態条項」を追加する。いちばんの「結論」へと「議論」を誘導する。きっと自民党では「首相の指示があった。だから、緊急事態条項を憲法改正に追加する」ということになるだろう。そして、そのとき「追加」が安倍の指示だけによるものではなく、議員の要望を汲んだものでもあることを「証明」するために「合区解消」も、あえて追加するのである。

 ニュースの「続報」というのは、なかなか読まないものである。

 自民改憲案 4項目軸/自衛隊根拠や合区解消/年内めど

 この見出しでは、あれ、安倍は「2項目」を掲げていなかったか。どうして4項目なのだろうという疑問がかすかに頭をかすめるだけである。「自衛隊根拠」は安倍の2項目にあったが、「合区解消」はなかった。追加されたのは「合区解消」と似通った、憲法の本質とは違う何か(軽い?何か)なのだろうという印象を持ってしまう。
 こういうことこそ、「印象操作」というのである。
 いちばん大事な部分、いちばん問題になる部分は隠してしまう。ひっそりと議論をすすめてしまう。「結論」を出してしまう。

 この安倍の手口を、しっかりと認識すべきだと思う。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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#安倍をゆるさない #憲法改正 #緊急事態条項
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-38)

2017-06-07 09:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-38)(2017年06月07日)

75 *(遠いひかりになつているおまえの母)

ぼくはぼくの手に墓を建てる
おまえの体温がいつまでものこつているこの掌の上に

 「手」が「掌」に変わる。「手」が「掌」に収斂していく。「収斂する」は「結晶する」かもしれない。「のこつている」は収斂することで見つけ出した「結晶」である。
 嵯峨は「墓を建てる」と書いているのだが、何かをつくるというよりは、見つけ出すという感じがする。妻の「体温」を見つけ出す。「のこつている」は見つけ出すであり、見つけ出すは「おぼえている」である。「掌」がおぼえているものを、見つけ出す。

76 *(イマージュから出てきて)

ぼくを通りぬけて遠い街角をまがつてゆく殿さま行列
それを見ている蛙もいるだろう

 「殿さま」から「とのさま蛙」へと動いていく。このナンセンスを嵯峨は、「意味」へと変えてしまう。

いつものように大地に両手をついて
その全身をこゆるぎもさせずにじつと支えて

 ここに「抒情(悲しみ)」があるのだが、ナンセンスはナンセンスのままの方が、悲しみを深くするかもしれない。

 「考えかた(方)」の「方」というのは、一種のパターンだが、そのパターンは私の知らないものである。私の肉体はそういうパターンを経験してきていない。だから、ついていけない。
 最初から「ついていけない」のなら気にならないが、書き出しはぐいと引き込まれる。私の「肉体」が体験してきたもの、「肉体」がどこかでおぼえているものを刺戟するのだが、ことばが進むにつれて、そのことばといっしょに動く「肉体」とはどういうものなのか、つかみどころがなくなる。つかめなくなる。
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-37)

2017-06-06 10:40:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-37)(2017年06月06日)

73 *(妻の死を嘆くな)

と 自分にいいきかせるのだが
時刻を宿していないその言葉はぼくには少しも聞きとれない

 「時刻」は「時刻表」の時刻。タイムスケジュール。いつとは決まっていない。いつやってくるのか、わからない。やってこないと思っていると、突然やってくる。驚き(衝撃)が強すぎて、何が起きたかわからない。
 いや、何が起きたかはわかる。
 わかるけれど、受け止められない。
 それを「聞きとれない」と言いなおしている。
 自分の発することばだから「意味」はわかる。しかし「わからない/聞きとれない」ということでしか、その瞬間を生きることができない。

 「時刻表」という詩集のタイトルの意味が、この詩を読むことでわかる。感情には「時刻表」がない。

74 旅の小さな仏たち

何も数えなくてもいい
指は五本ずつある
二つの手を合わせて同じものが十本
それを折りまげずに真つすぐにして 向い合わせて
指の腹と腹 掌と掌とをぴつたりくつつけて両手を閉じる

 「合掌」の形を描写している。描写することで、嵯峨自身が「小さな仏」になる。詩は「その群れにまじつてたち去つて行くおまえに」とつづくのだから、妻の描写と読むべきなのかもしれないが、私は妻の冥福を祈る嵯峨と読む。
 祈ることで、妻と一体になる嵯峨。離れていても一体。一体になるために、ことばが重なる。ことばを肉体で反復するとき、一体であることが「事実」になる。


嵯峨信之全詩集
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陶原葵『帰、去来』

2017-06-05 10:09:09 | 詩集
陶原葵『帰、去来』(思潮社、2017年04月29日発行)

 ことばを読む。そのとき最初に感じるのは何だろうか。私は、ことばとことばの「間合い」。「間合い」にリズムがあると読みやすい。リズムがないとつまずいてしまう。
 たぶん私の年齢と関係があるのだと思うけれど、私は、「最近の若い人」のリズムについていけない。
 陶原葵『帰、去来』の「窟」という作品。

花の首の折れ方
その細胞の潰れ方が

 この二行はとてもおもしろい。「花の首が折れる」を「細胞が潰れる」と言いなおされる。「方」ということばを反復することで、言い直しであることを明確にしている。これはリズムとしてもとても納得できる。リズムに従って、ことばの視線が「花の首(茎)」に集中していく。「ことばの肉体」を感じるのは、こういうときである。
 あ、傑作が誕生する、という期待をいだきながら読み進む。

花の首の折れ方
その細胞の潰れ方が

並んでいる

わたしが首をまわす亀裂音は
そとの耳 にも響いている か

 私は、しかし、つまずきはじめる。「並んでいる」までの一行空きが、「方」を反復したリズムとかけ離れている。「方」を反復する。反復はリズムの強調。ここからリズムが加速していくのなら納得できるのだが、反復してリズムを強調したあと、突然中断してしまうと、私のような年齢(私だけかもしれないが)では、次の「一歩」をどう動かしていいかわからなくなる。
 詩は、さらに一行空きを挟んで「わたしの首」「亀裂音」へと動いていく。「わたしの首」は「花の首」を引き継いでいる。「亀裂音」は、しかし、「潰れる音」を引き継いでいない。言い直しにはなっていない。もちろん、言い直しでなければならない理由はないし、陶原のこの作品の場合、「首」から「耳」へと「肉体」(感覚)が拡大/拡張していくのだから、これはこれで、もうひとつのリズムと言える。
 だが、そのあとはどうなのだろう。
 連がかわって、詩はこうつづいていく。

夜 にはまだときおり
覆水を手ですくい
集めようとしている のだが

行き交うひとはみな
満杯の蛍籠をさげている

(どこかで風船の糸が絡まりますので


地にはりついた月、

 私は完全についていけなくなる。「間合い(リズム)」がどうなっているのか、わからない。
 「首」(折れる/潰れる)が「首(まわす/亀裂)」を通って「耳(音/響く)」に動いていくのは「人間」の「肉体」(感覚)が連続しているととらえ直すことができるが、そこから突然「手」へとことばが飛躍する。さらに「蛍(籠)」「月」という「光(視覚)」へと移動する。
 私の「肉体」は、こういう具合に動けない。「耳(聴覚)」から「手」へ、さらに「手」から「目(視覚)」へとはスムーズには連続しない。
 もちろん「折れ方」「潰れ方」から「触覚(手)」へとつながる道はある。そしてそこに「視覚(折れ方/潰れ方)」もつながる。けれど、それはそれで別の道であって、途中に「耳(音/響き)」を挟むとぎくしゃくしてしまう。
 陶原のことばは、どこへ行こうとしているのか、と思う前に、どうしてこんな「ずれ方」ができるのか、私の「肉体」はわからなくなる。

 「眠、度、処方」という作品。

それ おぼえている夢と そうでないものがありますが
どのように ふりわけられているのでしょう

 とても魅力的な行で始まる。

「……大きさが ちがうのですね」

気のもちよう、とか 考えかたのちがい、なども
大きさ、でしょうか

 カギ括弧(他者の声)をバネにして、ことばが加速していく。「考えかた」ということばがある。「考え方」。「方」というものが、ひとつの「リズム」であり、(たぶん陶原の詩のキーワードになる)、とてもおもしろいのだが……。
 そのあと、「浸透圧」が出てきて(ここまでは納得できる)、それが「魚/眼」「膜/ミズスマシ」を経て「死んだ貝(開かない)」などを経て「かちん、と あたる」「触れる」という動詞へ動いていく。

 「考えかた(方)」の「方」というのは、一種のパターンだが、そのパターンは私の知らないものである。私の肉体はそういうパターンを経験してきていない。だから、ついていけない。
 最初から「ついていけない」のなら気にならないが、書き出しはぐいと引き込まれる。私の「肉体」が体験してきたもの、「肉体」がどこかでおぼえているものを刺戟するのだが、ことばが進むにつれて、そのことばといっしょに動く「肉体」とはどういうものなのか、つかみどころがなくなる。つかめなくなる。
帰、去来
陶原 葵
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-36)

2017-06-05 08:55:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-36)(2017年06月05日)

71 *(かずかずのことばのなかを通つて)

その路すじに一基の野仏が立つている
晴れた日も雨の夜も
同じ方角をむいていつまでもそこで待つている

 逝ってしまった妻。野仏は、それを見送った嵯峨である。しかし、逆に「誤読」することもできる。野仏となって妻の「こころ」が残っている。やがてやってくる嵯峨を待っている。前を通る嵯峨に対して「あの方角へ行った」と教えるために、そこで嵯峨を待っている。
 「立つている」から「待つている」へと動詞が変わる。だから、そう「誤読」したくなる。

72 *(夜は見えない)

夜そのものを通してもなお夜は見えない
でもおまえのなかに小さな夜が閉じこめられている

 「夜」を「おまえ」と置き換え、「おまえ」を「夜」と置き換え、「誤読」する。

おまえそのものを通してもなおおまえは見えない
でも夜のなかに小さなおまえが閉じこめられている

言葉からぬけ落ちた小さな夜を

 ここでも「夜」を「おまえ」と読み替えてみる。

言葉からぬけ落ちた小さなおまえを

 会話しながらも、どこかで完全にはつかみきれない「小さな」なにか。その「小ささ」こそが、人間の「本質」のような感じがする。「小さな」ということばこそ、嵯峨は書きたかったのかもしれないと思う。
 小さいもの同士が寄り添い、生きる悲しみを抱き締める。


嵯峨信之全詩集
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