藤井貞和『美しい小弓を持って』(9)(思潮社、2017年07月31日発行)
「詞(ツー)」には「詞は宋代の詩」という註釈がついている。宋代の詩を参考にしてつくったということかな?
さて、どう「誤読」すればいいのか。
私は詩に限らずことばを読むときは「動詞」に注目する。「動詞」は人間を裏切らないからだ。
この詩の書き出しには「さしかける」「つくる」「まもる」という動詞がある。「何か」をきみに「さしかけ」、何かを「つくり」、そうすることできみを「まもる」ということをしたいのだ。「何か」というのは書き出しの「みどり葉」だから、「みどりの葉」を「さしかける」ことで、きみを「まもる」。「みどり葉」は四行目で「葉裏」と言いなおされている。言いなおしたものを「同じ」というのは乱暴かもしれないが、まあ、同じものと、便宜上考えておく。「みどり葉」は「木(大樹)」の比喩だな。大樹に身を寄せひとは自分を守る。人を守ることのできる大樹になる。比喩だから「何か」と言いなおして考えた方が的確だろうなあと思う。
途中を端折って、詩の最後は、こうだ。
ふーん。「まもる」は「あいする」という動詞にかわっていくのか。そうすると、この詩は愛の詩ということになるのか。
でもね。
こんな「要約(ストーリー)」は「意味」になりすぎていて、楽しくない。というか、藤井のことばを読んでいるときに感じる楽しさとは関係がないなあ。
ほかに動詞はないのかなあ。
そう思いながら書き出しを読み返す。何が一番目立つ? 「……に」の繰り返しだね。これを「動詞」に言いなおすとどうなるのだろう。
行をすこし書き換えてみる。
「……に」「さしかける」ということになる。「……に」というのは、さしかける「対象」を指し示していることになる。指し示しながら、対象を並べている。並べているけれど、それは「まとめる」というのとは違うなあ。ぜんぶまとめて、何かを「さしかけ」「まもる」という具合にはつながらないなあ。
むしろ逆だろうなあ。
「……に」と並べているけれど、これは「ひとつずつ」ということではないだろうか。世界は連続している。つながっている。けれど、その「つながり」を切り離し、ひとつひとつのものとして「まもる」ということかもしれない。
「……に」は、そういう具合に読みたい。
きみを「まもる(あいする)」というのは、どこまでもどこまでも、その細部(?)にこだわって、細部まで「まもる」ということなのかもしれない。
そうやってつづきを読み直すと。
「葉裏をつくろう」の「つくる」は何だろう。「葉」には「表」があり「裏」がある。つくらなくても、それは存在している。そうすると「つくる」は別の意味だね。
なんだろう。
ここに「なる」という動詞が隠れていることに気がつく。
この「なる」をいろいろなところに補うことはできないか。
むしのいきに「なっても」、あおいきに「なっても」と読むこともできるかもしれない。検診だ。
そしてこの「なって」は前半部分にも補えるかもしれない。「なって」をちょっと変形させると
になるかもしれない。「きみのひとみ」は「まどさき」をみつめるとき「まどさきになる」、「にわのおもて」をみつめるとき「にわのおもてになる」、「日のあし(日脚)」をみつめるとき「ひのあし」になる。
きみがみつめるものが、その瞬間瞬間、藤井にとっての「絶対的」な「きみ」そのものなのだ。
そういう具合に読むことはできないだろうか。
きみをそういう具合にとらえなおすとき、そのきみは藤井自身でもある。区別ができない。「一体化」している。「あいする」というときの「感じ」は、確かにそういうものだなあ、と私の「肉体」は思い出す。
で、このときの、こういう感じを引き出藤井の「ことばのリズム」が気持ちがいい。自然にそういうことを思う。読点「、」の多い、ぶつぶつの文体なのだけれど、私の「肉体」はなぜかなじんでしまう。
若い人の「文体」では、こういうことが起きない。
「詞(ツー)」には「詞は宋代の詩」という註釈がついている。宋代の詩を参考にしてつくったということかな?
みどり葉をまどさきに、にわのおもてに、
日のあしに、あめあとのみずたまりに、
きみのひとみに、さしかけよう、
葉裏をつくろう。 葉ごとに、芯ごとに、
むしのいきに、あおいきに、
といきになって、きみを守ろう。
さて、どう「誤読」すればいいのか。
私は詩に限らずことばを読むときは「動詞」に注目する。「動詞」は人間を裏切らないからだ。
この詩の書き出しには「さしかける」「つくる」「まもる」という動詞がある。「何か」をきみに「さしかけ」、何かを「つくり」、そうすることできみを「まもる」ということをしたいのだ。「何か」というのは書き出しの「みどり葉」だから、「みどりの葉」を「さしかける」ことで、きみを「まもる」。「みどり葉」は四行目で「葉裏」と言いなおされている。言いなおしたものを「同じ」というのは乱暴かもしれないが、まあ、同じものと、便宜上考えておく。「みどり葉」は「木(大樹)」の比喩だな。大樹に身を寄せひとは自分を守る。人を守ることのできる大樹になる。比喩だから「何か」と言いなおして考えた方が的確だろうなあと思う。
途中を端折って、詩の最後は、こうだ。
離人症のきみが、独り身をあいし、
ぼくをけっして愛してくれないと告げる。
それでも天敵に、うたをわすれない、
陽気にね、あいするということ
ふーん。「まもる」は「あいする」という動詞にかわっていくのか。そうすると、この詩は愛の詩ということになるのか。
でもね。
こんな「要約(ストーリー)」は「意味」になりすぎていて、楽しくない。というか、藤井のことばを読んでいるときに感じる楽しさとは関係がないなあ。
ほかに動詞はないのかなあ。
そう思いながら書き出しを読み返す。何が一番目立つ? 「……に」の繰り返しだね。これを「動詞」に言いなおすとどうなるのだろう。
行をすこし書き換えてみる。
みどり葉をまどさきに、
にわのおもてに、
日のあしに、
あめあとのみずたまりに、
きみのひとみに、さしかけよう、
「……に」「さしかける」ということになる。「……に」というのは、さしかける「対象」を指し示していることになる。指し示しながら、対象を並べている。並べているけれど、それは「まとめる」というのとは違うなあ。ぜんぶまとめて、何かを「さしかけ」「まもる」という具合にはつながらないなあ。
むしろ逆だろうなあ。
「……に」と並べているけれど、これは「ひとつずつ」ということではないだろうか。世界は連続している。つながっている。けれど、その「つながり」を切り離し、ひとつひとつのものとして「まもる」ということかもしれない。
「……に」は、そういう具合に読みたい。
きみを「まもる(あいする)」というのは、どこまでもどこまでも、その細部(?)にこだわって、細部まで「まもる」ということなのかもしれない。
そうやってつづきを読み直すと。
葉裏をつくろう。
葉ごとに、
芯ごとに、
むしのいきに、
あおいきに、
といきになって、きみを守ろう。
「葉裏をつくろう」の「つくる」は何だろう。「葉」には「表」があり「裏」がある。つくらなくても、それは存在している。そうすると「つくる」は別の意味だね。
なんだろう。
といきになって
ここに「なる」という動詞が隠れていることに気がつく。
この「なる」をいろいろなところに補うことはできないか。
葉裏(になって)。
葉ごとに「なって」、
芯ごとに「なって」、
むしのいきに「なって」、
あおいきに「なって」、
といきになって、きみを守ろう。
むしのいきに「なっても」、あおいきに「なっても」と読むこともできるかもしれない。検診だ。
そしてこの「なって」は前半部分にも補えるかもしれない。「なって」をちょっと変形させると
みどり葉を
まどさきに「なったきみに」、
にわのおもてに「なったきみに」、
日のあしに「なったきみに」、
あめあとのみずたまりに「なったきみに」、
きみのひとみに、
さしかけよう
になるかもしれない。「きみのひとみ」は「まどさき」をみつめるとき「まどさきになる」、「にわのおもて」をみつめるとき「にわのおもてになる」、「日のあし(日脚)」をみつめるとき「ひのあし」になる。
きみがみつめるものが、その瞬間瞬間、藤井にとっての「絶対的」な「きみ」そのものなのだ。
そういう具合に読むことはできないだろうか。
きみをそういう具合にとらえなおすとき、そのきみは藤井自身でもある。区別ができない。「一体化」している。「あいする」というときの「感じ」は、確かにそういうものだなあ、と私の「肉体」は思い出す。
で、このときの、こういう感じを引き出藤井の「ことばのリズム」が気持ちがいい。自然にそういうことを思う。読点「、」の多い、ぶつぶつの文体なのだけれど、私の「肉体」はなぜかなじんでしまう。
若い人の「文体」では、こういうことが起きない。
うた―ゆくりなく夏姿するきみは去り | |
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