詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(9)

2017-08-21 09:03:15 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(9)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「詞(ツー)」には「詞は宋代の詩」という註釈がついている。宋代の詩を参考にしてつくったということかな?

みどり葉をまどさきに、にわのおもてに、
日のあしに、あめあとのみずたまりに、
きみのひとみに、さしかけよう、
葉裏をつくろう。 葉ごとに、芯ごとに、
むしのいきに、あおいきに、
といきになって、きみを守ろう。

 さて、どう「誤読」すればいいのか。
 私は詩に限らずことばを読むときは「動詞」に注目する。「動詞」は人間を裏切らないからだ。
 この詩の書き出しには「さしかける」「つくる」「まもる」という動詞がある。「何か」をきみに「さしかけ」、何かを「つくり」、そうすることできみを「まもる」ということをしたいのだ。「何か」というのは書き出しの「みどり葉」だから、「みどりの葉」を「さしかける」ことで、きみを「まもる」。「みどり葉」は四行目で「葉裏」と言いなおされている。言いなおしたものを「同じ」というのは乱暴かもしれないが、まあ、同じものと、便宜上考えておく。「みどり葉」は「木(大樹)」の比喩だな。大樹に身を寄せひとは自分を守る。人を守ることのできる大樹になる。比喩だから「何か」と言いなおして考えた方が的確だろうなあと思う。
 途中を端折って、詩の最後は、こうだ。

離人症のきみが、独り身をあいし、
ぼくをけっして愛してくれないと告げる。
それでも天敵に、うたをわすれない、
陽気にね、あいするということ

 ふーん。「まもる」は「あいする」という動詞にかわっていくのか。そうすると、この詩は愛の詩ということになるのか。
 でもね。
 こんな「要約(ストーリー)」は「意味」になりすぎていて、楽しくない。というか、藤井のことばを読んでいるときに感じる楽しさとは関係がないなあ。
 ほかに動詞はないのかなあ。
 そう思いながら書き出しを読み返す。何が一番目立つ? 「……に」の繰り返しだね。これを「動詞」に言いなおすとどうなるのだろう。
 行をすこし書き換えてみる。

みどり葉をまどさきに、
にわのおもてに、
日のあしに、
あめあとのみずたまりに、
きみのひとみに、さしかけよう、

 「……に」「さしかける」ということになる。「……に」というのは、さしかける「対象」を指し示していることになる。指し示しながら、対象を並べている。並べているけれど、それは「まとめる」というのとは違うなあ。ぜんぶまとめて、何かを「さしかけ」「まもる」という具合にはつながらないなあ。
 むしろ逆だろうなあ。
 「……に」と並べているけれど、これは「ひとつずつ」ということではないだろうか。世界は連続している。つながっている。けれど、その「つながり」を切り離し、ひとつひとつのものとして「まもる」ということかもしれない。
 「……に」は、そういう具合に読みたい。
 きみを「まもる(あいする)」というのは、どこまでもどこまでも、その細部(?)にこだわって、細部まで「まもる」ということなのかもしれない。
 そうやってつづきを読み直すと。

葉裏をつくろう。
葉ごとに、
芯ごとに、
むしのいきに、
あおいきに、
といきになって、きみを守ろう。

 「葉裏をつくろう」の「つくる」は何だろう。「葉」には「表」があり「裏」がある。つくらなくても、それは存在している。そうすると「つくる」は別の意味だね。
 なんだろう。

といきになって

 ここに「なる」という動詞が隠れていることに気がつく。
 この「なる」をいろいろなところに補うことはできないか。

葉裏(になって)。
葉ごとに「なって」、
芯ごとに「なって」、
むしのいきに「なって」、
あおいきに「なって」、
といきになって、きみを守ろう。

 むしのいきに「なっても」、あおいきに「なっても」と読むこともできるかもしれない。検診だ。
 そしてこの「なって」は前半部分にも補えるかもしれない。「なって」をちょっと変形させると

みどり葉を
まどさきに「なったきみに」、
にわのおもてに「なったきみに」、
日のあしに「なったきみに」、
あめあとのみずたまりに「なったきみに」、
きみのひとみに、
さしかけよう

 になるかもしれない。「きみのひとみ」は「まどさき」をみつめるとき「まどさきになる」、「にわのおもて」をみつめるとき「にわのおもてになる」、「日のあし(日脚)」をみつめるとき「ひのあし」になる。
 きみがみつめるものが、その瞬間瞬間、藤井にとっての「絶対的」な「きみ」そのものなのだ。
 そういう具合に読むことはできないだろうか。
 きみをそういう具合にとらえなおすとき、そのきみは藤井自身でもある。区別ができない。「一体化」している。「あいする」というときの「感じ」は、確かにそういうものだなあ、と私の「肉体」は思い出す。

 で、このときの、こういう感じを引き出藤井の「ことばのリズム」が気持ちがいい。自然にそういうことを思う。読点「、」の多い、ぶつぶつの文体なのだけれど、私の「肉体」はなぜかなじんでしまう。
 若い人の「文体」では、こういうことが起きない。

うた―ゆくりなく夏姿するきみは去り
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(8)

2017-08-20 15:43:09 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(8)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「spirited away (神隠す)--回文詩1」は、全文を引用しないと「姿」が見えない。

むなしく、
ここに来ず、
いたましく 神か、
かつ、この
新月、雲に舞い、
楚国(そこく)よ、
つと、ふるさとに、
かず知れぬ、
からき泪羅(べきら)か、
濡れ、しずかにと去る、
ふと、つよくこそ、
いまにも屈原(くつげん)、
詩の国家、
神隠し また、
いずこに
故国死なむ。

 「回文」ということばがなければ、私は「回文」に気づかなかった。
 しかし、ひとは、なぜ「回文」などつくるのだろうか。
 (1)文というのは、たぶん「意味」を持っている。「ストーリー」と言い換えててもいいし、「要約」と言ってもいい。つまり、伝えたいことがあって、ひとは「ことば」を発し、ひとつづきの「文」にする。
 (2)もし、その「文」が逆さまに読んでも同じ音になるということに何か「意味」はあるのか。
 (1)と(2)でともに「意味」ということばをつかったが、これはもちろん微妙に違ったことを指している。(2)の方は「価値」と言い換えることができるかもしれない。けれど「価値」というのなら、(1)にも適用できる。その「意味」をつたえることで、どういうことが起きるのか、「効果」は何か。「効果」というのなら、(2)の「意味」を「効果」と言い換えることもできる。
 というようなことを書いていると、何が何だか、わからない。

 違う視点から考え直してみる。
 私は「回文」というものに関心がない。言い換えると、そういう文を考えることが面倒くさくて、とてもできない。
 こんな面倒くさいことをするのは、どうしてだろうか。
 「意味」を伝えたいのか。あるいは「意味」を隠したいのか。つまり、ことばにふれて、それをあれこれ読み直すことで、隠している「意味」を伝えたいのか。ただ上っ面を読んでいるだけではわからない何かを隠す。その隠しているものを探しているひとにだけみせる。そのために、こういうことをしているのか。
 もし、そうならば。
 最初に出会う「意味」とは、何だろう。
 一行目から順番に読んでいき、読むことによって動く「意識」がさぐっている「意味(ストーリー)」とは何なのだろうか。

むなしく、
ここに来ず、
いたましく 神か、

 たとえば書き出しのこの三行。何かしら「神話」めいたむき出しの感じがある。何が「来ず」なのか。「神」が来なかったのだろう。「神」が来なかったために、待っているひとは「むなしい」。「神」はなぜ来なかったのか。「いたましく」傷ついていたのかもしれない。そうであるなら、その「傷」は「神」を待っているひとが「神」から与えられた「試練」のようにひとを傷つけるだろう。ひとは「いたましい」という状態になる。そうなることで、「神」そのものにもなる。「神」を待つ(待つことのできる)ひとだけが「神」になる。これはあらゆる「宗教」に通じる考え方であるとおもう。「考え方」は「考え型(パターン)」であり、その「パターン」の凝縮したものが「神話」ということになる。
 などと、私はテキトウに「意味」を「捏造」する。つまり「誤読」する。

かつ、この
新月、雲に舞い、

 この二行は「神話」として美しい。「この」が何を指し示すか、そんなことはわからない。わからないけれど「この」ということばで、そこにあるもの(身近にあるもの)をぐいと提示する。その「提示する力」が強いので、それは「新月」「雲」という空(宇宙)にあるものをも呼び寄せる。呼び寄せではなく、自己拡張であるとも言える。つまり「ひと」が「神」になったように、ここでは「この」という自明のこととして指し示す力(ことばの力)が、「ひと」を「新月」や「雲」にまでかえてしまうのだ。

楚国(そこく)よ、
つと、ふるさとに、
かず知れぬ、
からき泪羅(べきら)か、

 「楚国」は「祖国」であり「ふるさと」でもある。そこでは何か「神」に頼るしかないような「大事件」が起きたのだ。ひとは「大事件」に「神」を感じ取った。「神」はあらわれるときだけ「神」なのではない。絶対にあらわれないときにも「神」なのだ。
 「かず知れぬ」とは、そこでの「悲惨(悲劇/いたましさ)」が「かず知れぬ」であろう。「からき」は「辛き」であり、「つらき」であり、「いたましい」でもあるだろう。「音」のなかに、複数の「意味」が押し寄せてくるのを感じる。これも「神話」のなかのことばの宿命のようなものだ。
 そういうことを、私は「ストーリー(意味)」として感じ取る。
 で。

からき泪羅(べきら)か、

 この一行が「回文」になっている。つまり、ここがこの詩の「ターニングポイント」である。そして、その中心点とでも言うべきものが「泪羅(べきら)」なのだが。
 あ、私は、何のことがわからない。
 「楚国」というのは中国の古い時代の、ある「国」を指していると思う。中国の歴史は私は全く知らないのでテキトウに書くのだが。「楚国」も「泪羅」も調べればわかることかもしれないが、調べてわかるのは「情報」であり、私の「肉体」とは無関係なので、そういうものに私は頼らない。むしろ「泪羅」という「文字」をとおして知っていることを頼りにする。覚えていることを頼りに、強引に「誤読」する。
 「泪」は「涙」。「羅」は「あや」というか「薄い網」のようなもの「弱いもの」だね。それは「いたましい」とか「つらい」に通じる。
 何かの「事件」の「象徴」だろうなあ。
 そこまで「ストーリー」を展開してきて、後半はどうなるか。一種の「解説(意味づけ)」がおこなわれるのだろう。
 何か「大事件」があった。それは「悲劇」であった。何かが「去った」(去ってほしくないものが去った)。けれど、その「大事件」はひとに強烈なものを残した。

ふと、つよくこそ、

 この一行を、私は思わず、「ふとく、つよく」と読んでしまう。「屈原」の「屈」は「屈する」。屈しながらも「詩(神話)」を残した。そこには「神」が隠れている。「故国」は死なない。ひとの中で生きている。

 という感じ。

 書かれているのは「回文」、言い換えると「遊び歌」のようなもの。「意味」はない。けれど「意味」は探し出せる。「回文」は「誤読」できる。
 で、「誤読」するとわかるのだが、「誤読」とは、「ことば」を自分で引き受け、そこに「意味」を付け加えていくということなのだ。
 藤井(作者)の思いとは関係なしにね。
 いわば「誤読」も遊び。
 それを承知で、私はテキトウに遊ぶ。

 「回文」の詩は、この詩集にもう一篇ある。「翡翠輝石」
 同じような読み方を繰り返してもしようがないので、省略する。気づいたことを一つだけ書いておく。
 「ターニングポイント」となっているのは

**知事、自治がなお、

 藤井は註釈で(**に知事の名をいれてください。)と書いている。「回文」なのだから「おなが」がそこに入る。
 ここで問題なのは(大切なのは)、なぜ、藤井は「翁長」ということばを書かなかったかということ。書いてしまえば、「主張」になる。書かずに「翁長」を読者に探させる。そうして、詩の中に参加するよう誘っているのである。
 「翁長」は読者がかってに読み込んだ「誤読」。

 「論理(意味)」でことばの運動の中にひとを閉じこめるのではなく、遊びをとおして「ことば」そのものの中に入ってくること、ことばと一体になることを藤井は誘っている。
 あ、こんなふうに「意味(結論)」を書くことが、してはいけないことなのだけれど、ついつい書いてしまう。

 藤井は「ことば」の「音」のおもしろさ、不思議さと遊んでいるのだと思う、と付け加えてもしようがないかもしれないが、付け加えておこう。藤井の詩を読んで感じる「快感」は、「回文」でも同じである。意味を切断するような読点「、」とことばの飛躍。その短く切断された「音」は明るく、強い響きに満ちている。それが、藤井の詩では一番魅力的なところである。「音」はたぶん「肉体」の「好み」の問題なので、ひとによっては印象が違うだろうけれど。

続・藤井貞和詩集 (現代詩文庫)
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(7)

2017-08-19 10:53:29 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(7)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「ひとのさえずり」も「書き方(形式)」に特徴がある。

まがつびのあさ 禍つ火の朝
こうしてほろぶ 斯うして滅ぶ
ことのはじまり 言の始まり
おごりのためし 傲りのためし
ひにもえさかり 火に燃えさかり
のたうつからす 輾転つ烏
さけぶにわとり 叫ぶ鶏

 上段にひらがなが書かれ、下段には漢字まじりで書き直されている。漢詩の書き下し文みたいだ。ひらがなの書き下し文、だな。
 なぜ、こういうスタイルをとっているのだろう。「意味」がわかりにくいからだろうか。「意味」を正確に伝えるためなんだろうなあ。
 そう「理解」したうえで書くのだが。
 「ひらがな」と「漢字まじり」を比較したとき、私は、「ひらがな」の方がおもしろいと思った。というよりも「漢字まじり」はつまらないと思った。
 「ひらがな」では「意味」がわかりにくい。そこに妙な「味」がある。「なんだろうなあ」と思う瞬間が愉しい。
 「漢字まじり」は「意味」がわかるというよりも、「意味の押しつけ」と感じてしまう。ちょっとゲンナリする。がっかりもする。「こういうい意味?」反発心も起きる。他のことを考えてはいけないのかなあ。たとえば「禍つ美の朝」「事の始まり」。
 それに、こういうことを書いてしまっては藤井に申し訳ないのだが、「禍つ火の朝/斯うして滅ぶ/言の始まり」と書き下されても、うーん、何のことかわからないぞ。「意味」は何かしら限定されている感じがする。その「意味」を押しつけられている感じはするが、その「脅迫感」があるだけで、実際の「意味」はわからない。「ストーリー」がわからない。「何が起きているのか」、その「事実」がわからない。何となく「わかったような感じがする」だけである。それも「瞬間」としてであって、すべてをつないで「ストーリー」ができあがるわけではない。
 詩は、わかった感じがするだけでいいというものかもしれないが。

 ここからちょっと逆戻りして。
 「ひらがな」を読みながら、私はなぜおもしろいと思ったのか。そのとき、私の「肉体」は何に反応していたのか。
 まず、わかること。「音」の数がそろっている。それが「肉体」に入ってくる。私は音読はしないのだが、目で見る「文字の数」と黙読しながら聴く「音の数」がそろっている。音を揃える「意識」がある、ということがわかる。藤井の「作為」といってもいいかな。何かしようとしているということが、わかる。
 これは「漢字まじり」の文を読み、「あ、何か意味を伝えようとしている」と感じるのに似ている。「わかる」のは、あくまでも「漠然」としてことであって、「ストーリー(意味)」がわかるわけではない。
 「意味(ストーリー)」がわからないという点では同じなのだが、「ひらがな」の方が「自由(無責任)」な感じがする。「自由」というのは、私の方でかってに(無責任に)「誤読」できる「自由」のことである。
 漢字があると、漢字そのものに「意味」があり、それを読み違えると完全に「誤読」。ところが「ひらがな」の場合は「音」だけであり、そこには「意味」はない。脈絡からわかることばもあるが、脈絡というのはいわば「つくりあげていくもの」。昔流行ったことばで言えば「ゲシュタルト」。ひとのかずだけ「ゲシュタルト」は違う、と書いてしまうと、脱線してしまうが……。
 で、「意味」を半分置き去りにして、音を楽しむ。リズムを楽しむ。「からす」とか「にわとり」とか、具体的な「もの」を指し示すことばは、まあ、たぶん「聞き間違えない(読み間違えない)」。つまり、そこだけははっきりわかったような気持ちになる。そして、その「はっきりわかった」と思い込んだものを中心に、いま何が起きているのかなあと手さぐりをする。「意味(ゲシュタルト)」をつくっていく。
 この「ゲシュタルト」が藤井の考えているものと「重なる」かどうかは、わからない。でも、「漢字まじり」のように「意味」に誘導されるという感じがない。わからなくて、迷うのだけれど、それは自分で迷っているだけで、迷わされているという不快感がない。耳に響く音が「いま/ここ」から私を引き剥がしてくれる。
 「不快感」ということばまでたどりついて、あ、これかもしれないなあ、とまた私は振り返る。
 「ひらがな」を読んでいるときは「快感」がある。「音」がそろっている。その「音」が「意味」にならなくても、聞いていて心地よい。「リズム」が快感をつくる。「意味」がわかる快感とはまた別の「肉体」の快感がある。
 「意味」がわかったとき、たぶん「脳」が快感を覚えるんだろうなあ。
 藤井は「肉体の快感」と「脳の快感」を比較したと(?)、たぶん「肉体の快感」の方を重視するんだろうなあ、と思った。
 「ことば」を「肉体で味わう」ということを、「頭で味わう」ことよりも優先する。
 この感じ、私は好きだなあ。

 私は、こんなことも考えた。もし、「ひらがな」と「漢字まじり」が逆だったら、どうなのだろう。

禍つ火の朝   まがつびのあさ 
斯うして滅ぶ  こうしてほろぶ 
言の始まり   ことのはじまり 
傲りのためし  おごりのためし
火に燃えさかり ひにもえさかり
輾転つ烏    のたうつからす
叫ぶ鶏     さけぶにわとり

 とても奇妙なものを見ている感じがしないだろうか。
 なぜ、奇妙に感じるのだろうか。
 たぶん「漢字」に「意味」があるのに、その「意味」を解体している(わざと、あいまいに、不定形にしている)と感じるからだろうと思う。
 「意味」はできあがってしまうと、それが「消える」とき、何か「不安」のようなものが入り込むのだ。
 これは逆に言うと、人間は、それだけ「意味(ゲシュタルト)」を求めたがるものなのだということかもしれない。

 で、ここから私はさらに飛躍する。論理を端折って、テキトウなことを書く。
 藤井は、この詩では「音(ひらがな)」を「意味(漢字)」に変換してみせているが、それは「意味」を重視しているからではなく、「無意味(音楽)」を重視していることを逆説的に証明するためではないだろうか。
 ことばは「音楽(音)」である。「音楽」を生かしながら詩を書くにはどうすればいいのか。そういうことを模索しているように感じるのである。
 「音」から始まり「意味」にたどりつき、それをさらに「音(音楽)」に結晶させる。そういうことを夢見ているのかもしれないなあ、と私はかってに「妄想」する。誤読する。

 私は最近の若い詩人の「音楽」についていけない。私の「肉体」にその音が入ってこない。
 藤井の「音楽」が藤井の狙い通りに私の「肉体」に入ってきているかどうかはわからないが、何と言えばいいのか、私は藤井のことばに「音への偏愛」のようなものを感じ、みょうに落ち着く。書いている「意味」はわからないが、「音」が聞きづらい(音が不愉快)ということがない。

美しい小弓を持って
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加計学園「獣医学部」問題

2017-08-19 00:32:39 | 自民党憲法改正草案を読む
加計学園「獣医学部」問題
            自民党憲法改正草案を読む/番外113(情報の読み方)

 加計学園「獣医学部」問題を、少し違った視点で見つめなおしてみる。獣医学部新設には「石破4条件」がクリアすることが不可欠と言われている。そのことと関係する。
 いま、大学の獣医学部はどうなっているのか。
 加計学園が問題になったころ、2017年04月22日の読売新聞(西部版・14版)には、鹿児島大学と山口大学が共同で大学院を設置するという記事が載っている。

 鹿児島大と山口大は21日、来年4月を目標に大学院の「共同獣医学研究科」を設置すると発表した。複数の国立大が共同設置する全国初の学部となった2012年4月開設の「共同獣医学部」(6年制)の1期生が来春卒業する予定で、その受け皿とするために大学院の設置を決めた。
 4年制の博士課程で、定員は両大とも6人ずつの計12人。手術方法といった臨床獣医学などを修める獣医科学コースと、専門医資格を取得できる獣医専修コースを設ける。

 この記事からわかるように、鹿児島大学と山口大学では、2012年に「共同獣医学部」を設けていた。
 何のためにか。
 2012年09月17日の読売新聞の「山口県版」に、

共同獣医学部 設置半年 国際認証取得に高い壁 山口大・鹿児島大
 
という見出しで、こんな記事がある。

 全国初の複数の大学による共同学部として、山口大と鹿児島大の共同獣医学部が新設されて9月で半年になる。両大は規模拡大の利点を生かし、質・量ともに獣医学教育の向上を進めているが、目標とする国際認証取得には、課題も多い。

 ここで注目すべきは「国際認証取得」ということばである。
 日本の獣医学部は世界的水準に達していない。まず「国際認証取得」を獲得するために、鹿児島大と山口大は連携したことがわかる。
 その「経緯」については、さらに詳しく書いている。(山口版なので、山口大学を中心にして書いている。)

 山口大が鹿児島、宮崎、鳥取大と共同獣医学部設置の検討を始めたのは2007年。背景には、▽自治体で食肉検査などを行う獣医師や畜産動物専門の獣医師の減少▽欧米に比べて遅れている獣医教育の充実の必要性▽口蹄疫(こうていえき)など国境を越えた感染症の発生――などがあり、獣医学教育の改革は不可避だった。
 しかし、鳥取大が交通の利便性の悪さを理由に離脱。宮崎大も学内での連携に方向転換した。山口大と鹿児島大は10年3月、共同獣医学部設置に合意。国際認証の取得を目指す。

 大学の連携も、なかなかむずかしいことがわかる。ここにも「国際認証」ということばがある。
 「国際認証」というのは、どういうことなのか。

 山口大の丸本卓哉学長は「獣医学教育を評価するAVMA(米国獣医師会)やEAEVE(ヨーロッパ獣医科大学協会)の認証を取得したい」と構想を話す。国際的な信用が高まり、卒業生が欧米の機関に就職しやすくなるなどの効果が生まれるからだ。
 ただ、認証取得のためには、▽全ての講義や実習を英語で行う▽学生1人当たり50頭の小動物診療――など高いハードルがある。

 詳しいことはわからないが、なかなかたいへんな「認証」らしい。

 で、このことと加計学園「獣医学部」と、どういう関係があるか。
 既存の獣医学部は(鹿児島大と山口大は)、「国際認証」を取得するには単独ではむずかしいと判断し、共同で「教育内容」を深めようとした。そうしないと、とても「国際認証」は取得できない。つまり、日本の獣医学部の水準は国際的に低いと認識している。
 これは「共同獣医学部」に加わらなかった島根大、宮崎大も同じだろう。一番の課題は「獣医学部」のレベルアップである。たぶん、獣医教育にたずさわるひとの共通認識であるはずだ。
 私は「獣医学部」の現状については何も知らないけれど、読売新聞の記事の書き方からみるかぎり、関係者は同じことを思っていると推測できる。
 読売新聞の記者は、こう書いている。

 文科省や大学の担当者、獣医教育改革に携わってきた研究者……。取材した誰もが「獣医学を国際レベルに引き上げなければならない」という危機感を共有していた。共同獣医学部設立という“大きな前進”を生かすためには、遠隔講義の回数を増やしたり、教官が移動して両大学の学生を直接指導したりするなどの取り組みが必要だと感じた。

 そこで、問題である。
 日本の獣医学教育の水準が、そんなに低いのなら、いま新しい獣医学部をつくって、それがどんな効果をあげることができるか。
 多くの教育関係者は、疑問に思っているはずである。
 それを、もっと国民に知らせないといけない。
 「獣医学部を新設するよりも、既存の獣医学部の水準をアップすることの方を優先しないといけない。既存の獣医学部のレベルアップのために何をするべきかを問題にしないといけない」
 その声が共有されれば、加計学園問題は、別の展開になるだろう。
 野党も追及の仕方を考えないといけない。
 安倍も加計も(加計は姿をみせないが)、ほんとうのことを言わないなら、ほんとうのことを言うひとを探してきて、獣医学部の新設は急務ではないということを語らせればいい。そうすれば、なぜ、安倍が加計学園に肩入れしているのか、その肩入れに問題がないのかというところから、問題をより深く追及できるはずである。
 獣医学部を新設して、その大学がいきなり国際水準に達することができると考えるのは、いくら何でも「空想」というものだろう。そこから問題点を追及すべきである。そうしないと、獣医学部の問題は何も解決しない。

 新聞に書かれていることを読むだけでも、そういうことが考えられる。
 実際に獣医学部の教育に接することができるひと(取材できるひと)は、ほんとうの問題点がどこにあるか知っているはずである。
 自分は知っているから、それでいい、というのではなく、その知っていることを他人に語り(他人に伝え)、いま起きている権力の私物化を告発すべきである。
 「事実」を知っている人間が、みんな口を閉ざしている。口を閉ざすことで、安倍から何かの見返りを受け取ろうとしている。
 そんなふうにしか思えない。




 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(6)

2017-08-18 10:18:27 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(6)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「うたあわせ--詩とは何か」は「うたあわせ」の形式で書かれている。でも、藤井は「左」「右」という形式を守っているだけで「短歌」が書かれているわけではない。こんな感じ。

  一番 左
アトム大使。
回し読みする 少年のわれら、
御用学者になる
六十年
    右
詩はどうして書けなくなるのだろうか。
われらのうたに詩はあるのだろうか。
うたならばいつでも、どこにでもやって来るのにね。
うたは後ろ姿のおばあさん。

 「左」は少年時代は鉄腕アトムを回し読みしていたが、それから六十年、いまでは御用学者になっている、という「感慨」が五七五七七に整えられる前の形。
 「右」と合わせて読むと、鉄腕アトムを読んでいた時代は、詩と歌が一体となっていた(区別できないままに肉体といっしょにあった)ということになるかな? 「右」は「左」の「解説」のようになっている。詩は、どこへ言ってしまったのか。「うた」ならば五七五七七という形式といっしょに、いつでも、どこにでもあらわれるのに、ということか。五七五七七は、古いから、「おばあさん」という比喩になっている。「後ろ姿」というのは、後ろ向き、前には進んでいかない、時代を切り開かないという「比喩」かな。

  二番 左
われら 御用学者となって、
夢を継ぐ。
少年の日の汚名よ、
消さぬ
    右
うたは掴まえられると、ぴょいぴょいして、
57577になる。
やって来る日には、おおぞらいっぱいに、
ひろがってかけぶとんになる。

 「左」は鉄腕アトムをひきずっている。「夢」は鉄腕アトムがもっていた夢だね。同時に少年の夢。御用学者になっても、それは消えない。消えないように、こころのどこかで守っている、というのが「消せぬ」かなあ。これも短歌形式に整えられるまえのことば。たぶん、その「乱れ」のなかに「詩」がある、ということなのだろう。
 「右」は、また「解説」。「詩」が「うた」になると、そこに五七五七七があらわれる。リズムが整えられる。「ぴょいぴょい」はリズムを「体感」としてあらわしたものだろう。ここでは「おばあさん」のかわりに「かけぶとん」という「比喩」が出てくる。なんだろうなあ。安心して眠られることを言っているのかなあ。「左」の「夢」を引き継いでいるのかもしれない。

 「左」が「詩」を代弁している。「詩」は「短歌」になるまえの、ことば。リズムを「形式的」に整えるまえの「素材」。「右」は「解説」を装った何かかもしれない。「短歌」からみて、「左」の主張は受け入れられるか。あるいは「解説」を装った、「短歌(うた)」の自己主張そのものかもしれない。
 57577のリズムを生き抜いているのが「うた」。「詩」は、そいうものを持っていない。
 まあ、これはテキトウな、「論理」を展開するための方便。
 つまり、私は、こういうことを書きながら、ただ「論理」らしきものを捏造しているだけ。
 こんなことは「詩とは何か」に対する「意見」にはなり得ない。
 「結論」を出すのがこの感想の目的ではないので、私は、自分自身をはぐらかしながら藤井のことばに向き合う。
 途中を省略して、

  五番 左(持)
するはずがない! だましたり、
うそをついたりするはずが。
(ラララ)科学の子
    右
いまというときを元気にする素。
葉陰にキーボードが捨てられて、
だれも叩かなくなって、それでもうたは、
ひとりで自分をたたいている。

  六番
ほんとうはおばあさんも、
かけぶとんもやさしいリズムも、
未来志向のキーボードも、
ほんのひととき、詩だったかもしれない。
隠れてそれでも、うたいたいのかも。

 五番「左」はあいかわらず鉄腕アトムにこだわっている。「左」は何だろう。「いまというときを元気にする素」というのは「うた」の定義なのか。なぜ、「げんきにする」ことができる? 「ひとり」で自己証明できるから? 五七五七七なら短歌と言ってしまえるから、だれのことも気にせずに、ただそのリズムをまもって自己存在を証明できるから?
 まあ、こんなことは考えてもわからない。
 それよりも、

 再び出てきた「葉」と「キーボード」に注目するべきなんだろうなあ。
 「キーワード」には二種類ある。頻繁に出てくるものと、ずっと隠れていて、ある瞬間、一回だけ仕方なしに出てくるもの。「葉(裏)」と「キーボード」は頻繁に出てくる藤井のキーワードということになる。
 これとは別に、どこかで一回だけ出てくるキーワードがあるはずだ。それは「なぜ、葉裏なのか」「なぜ、キーボードなのか」という「問い」を「答え」に転換することばなんだろうけれど、私にはまだそれが何かわからない。まだ出てきていない。もしかすると、すでに出てきてしまっているかもしれない。

 で、「六番」。
 ここだけ「左」「右」がない。「うたあわせ(歌合戦)」なのに対抗していない。とけあって、ひとつになっている。
 「うた(短歌)」も「詩」だったのかもしれない。
 それまでは「詩」を「短歌」に整えられるまえの形とみてきたが、そういう見方だけでは不十分。「うた」は「ほんのひととき」(整えられるまえ?)は「詩」だったかもしれない。
 「うた」と「詩」は、どこかで行き来している。
 「おばあさん」「かけぶとん」「キーボード」という「比喩」。「比喩」がうまれてきた瞬間、そこに「詩」があった。そして「比喩」が五七五七七のリズムに整えられたとき「うた」になった。「うた」は五七五七七も守っているが、その前の「比喩」(詩の素)をこそ「うたいたい」のかも。
 「うたあわせ」という形式を借り、「詩」と「短歌」を向き合わせながら、ふたつの関係を、そんなふうにとらえているのかもしれない。

 というような「結論」を書いてしまっては、いけないんだよなあ。
 きょうの反省。

美しい小弓を持って
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(5)

2017-08-17 09:41:43 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(5)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「鳥虫(ちょうちゅう)戯歌から」と「鳥獣戯画」は関係があるか。まあ、あるのだろう。でも、どんな関係か、私にはわからない。「鳥獣戯画」は教科書で見た程度で、具体的な感想がない。動物が人間のように遊んでいる。人間の遊びを動物で描いてみせたのかな?
 でも、こんな「ちょっとした印象」が、どういうわけか詩を読むときに影響してくるからおそろしい。
 詩の書き出しを読んだだけで、ふーん、なるほど、と私は思ってしまったのだ。

そっと、かげを映す能舞台に、
古典短歌を置くひと。
ははは、と笑う、
また鳴いている。 編集後記に、
鈴虫の声を置くひと。

 どこが「鳥獣戯画」か。「置くひと」と「置くひと」の重なりが「鳥獣戯画」である。違う人間が同じ「置く」という動きをしている。「動詞」が同じ。(あるいは同じ人間(ひとり)がふたつの場で「置く」という動詞を繰り返しているのかもしれない。)
 ウサギが相撲を取る。人間が相撲を取る。同じ「相撲を取る」がウサギと人間に共通するように、動詞が同じ。
 もちろん「古典短歌を置くひと」の「置く」と、「鈴虫の声を置くひと」の「置く」は内容的には違うだろう。「古典短歌を置くひと」というのは、能舞台を身ながら古典短歌(万葉集とか、古今集とか)を思い出し、能の内容(動き)をつかみ直しているということだろう。「鈴虫の声を置くひと」というのは編集後記に「秋になった、鈴虫の声を聞いた」というようなことを書いたということだろう。
 でも、「古典短歌を置く」ことによって、そこから「能」以外のところへ「意味領域」をひろげようとした。あるいは「古典短歌」の「意味領域」を「能」からインスピレーションを得てひろげようとしたと考えることができる。「鈴虫の声を置く」ことによって、そこから「雑誌(?)」にとりあげているテーマとは違う領域へ視線をひろげようとしたと考えると、どちらも「意識を違うところまで拡大しようとした」というストーリー(意味)」として「共通性」をつかまえることができるかもしれない。
 どちらがウサギでどちらが人間か。どちらでもいい。

 そのあいだの「ははは、と笑う、」というのはだれかなあ。「古典短歌を置くひと」、それとも「鈴虫の声を置くひと」? 読点「、」でつながっているから、文法的には後者だね。
 でもそうではなくて、「ひと」ふたりを向き合わせるかたちで「置いたひと」、つまり藤井かもしれない。違うことをしているひとを、同じ動詞で結びつけて、そこから何かを考えようとしている藤井だろうなあ。あるいは先に「補足」に書いたように、二人は同一人物であって、二人をつなぐ藤井と合わせて「三位一体」ということかもしれない。

遂げることばと、
「何ができるか」の韻律。

という二行を挟んで、詩は、こうつづく。

謡うキーボードを、
笛柱に掛けて、
鳥の砂嘴で、
打つ葉のうら。
あ、と打てば、
「は」の鳴りを、
は、と鳴らせば、
「あ」の、
返信。 ははあ、窓から、
そらの交信を聴くのは愉しいな。

 「ことば」と「韻律」が、文字入力(キーボードを打つ)と「鳴り(音)」となって動いている。この部分は、先に読んだ「葉裏のキーボード」といくぶん重なっている印象もある。
 ここにも「鳥獣戯画」の「構図」(比喩の中で世界が重なる)が反映しているかもしれない。
 で。
 私は、この詩では「交信」ということばに、とても興味を持った。
 誰かがメールし、それに返信がある。それからまたその返信を打つ。そういうことを「交信」と言うのだが。
 そうか、藤井の関心は「交信する」ということなんだな。
 私の直感は、そう言っている。
 「古典短歌を置くひと」と「鈴虫の声を置くひと」も交信している。ふたりは直接「交信」していないかもしれないが、あいだに藤井が入ると「交信」が成立してしまう。
 「口寄せ」というのも「交信」だなあ。そこにいない誰かのかわりに、藤井が「語る」。「交信」を担うのが藤井なのだ。
 かけ離れたものを結びつけるのが「現代詩」という定義があるが、それにならって言えば、藤井はかけ離れた存在を「交信させる」。ことばで「交信」をつくりだすということをしているのだろう。
 このときの「交信」の手段にはいろいろあるが、藤井は「韻律」に重きを置いている。「鳴る」という動詞といっしょにあるもの。「声」といっしょにあるもの。だからこそ「聴く」という動詞がつかわれるのである。
 「読む(見る)」のではなく「聴く」。
 「見る(見える)」という動詞も、この詩の中にあるのだが、「聴く」ということば、そのまわりに鳴っている「音」が美しいので、「聴く」(声/語る)というのが藤井のことばの基本なのだろうなあと感じる。
 日常、さまざまな場所で聴く「声(音)」、それが藤井には「交信」しているように感じられる。かけ離れたことばが、藤井を媒介にして「交信」している。そのことを書きたいのだ。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(4)

2017-08-16 10:04:19 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(4)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「葉裏のキーボード」は風にゆれる草の葉(あるいは木の葉)を見ているのだろうか。

葉裏のキーボードを、
かぜがさわります。
なんだか通信したそうにして、
メールがやってくる。
葉裏のパソコンが、
かたかたと打っている、それが、
ここから見える。

 風が吹くと、葉が小刻みに裏返る。それがキーボードの動きに見える。
 私は木の葉(草の葉)が風に吹かれて裏返るのを見ても、そんなふうに感じたことはなかったが、そう言われれば、そう見えるかもしれない。
 「事実」が先にあるのではなく、「ことば」が先に動いて、「事実」の見方を教えてくれる。「ことば」によって「事実」の見方を学ぶ、と言ってもいい。
 ここから風景と藤井との、ことばによる交流が始まる。
 詩は、こう展開する。

切実なメールが、
交わされている。 「基地」を、
「墓地」と打ち間違えている。

 あ、これは何かなあ。
 「基地」を「墓地」と読み違えるというのはあっても、「打ち間違える」はどうかなあ。私はアルファベット入力ではなく、親指シフト入力。打ち間違えることはない。アルファベット入力でも打ち間違えないなあ。
 「打つ」という動詞を基本にして「文字変換変換」を考えると、これは「嘘」である。
 これは「見間違え」が先にあって、「見間違えた」ことを「打ち間違え」に言いなおしている。
 (藤井は風景を「見間違えている」。「比喩」というのは「見間違え」を強引に「正当化」して主張することである。葉裏のキーボードは「事実」ではなく「見間違え」を「比喩」であると主張することで、ごまかしている。その影響が、「打ち間違い」にも影響してきている。)
 いやしかし、「見間違い」「打ち間違い」には、そんな明確な区別はないだろう。
 とっさに出たことばなのである。
 この「とっさ」を「のり」と考えるといいのだと思う。
 言い換えると、藤井は、ここでは「事実」を書いてるのわけではない。「のり」でことばを動かしている。
 風が吹いた。葉が裏返った。緑の色が変化する。その変化を「比喩」にすると、どうなるか。
 藤井はキーボードを思い出した。
 でも、そのキーボードというのは、単に入力機械ではない。
 キーボードを打ちながら、藤井は文字の変換も見ている。
 指の動きと目の動きが交錯する。指の認識と目の認識が交錯する。
 これは手(指)と目の、メールのやりとりなのか、と書いてしまうとまた違ったことになってしまうが。

 さらに、詩はこうつづく。

返信したそうに、
しばらく鳴って、
動かなくなる、あなたはだれ。

 うーん。「あなた」は「葉(裏)」か「かぜ」か。これは、区別ができない。「一体」となって動いている。
 だから、というのは論理の逸脱だが、強引に「だから」ということばを利用して、私はこう言いたい。
 だから、「打ち間違い」「読み間違い」は区別できない。おなじもの。一体になった動き。「比喩」で語り始めたときから、藤井は藤井以外のものと一体になって動いている。
 「現実」に起きていることは、何か区別のできない「一体」のものである。
 「さわる(打つ)」と「見る(見える)」、「見える」と「鳴る(聞く)」が交錯する。その「交錯」の瞬間に「メール」とか「パソコン」が「比喩」として入り込む。その「入り込む瞬間」の、何か区別のできない動き、「のり」によって突然うまれてくる「逸脱」。
 「逸脱」というのは「一体」とは矛盾するものだが、つまり「一体」から離れていくのが「逸脱」というものだが、「逸脱」は「一体」がうみだす「のり」が加速してうまれるものである。

 あ、何を書いているか、わからなくなりそう。

 藤井のこの詩には「軽快」がある。「のり」の軽さと、速さがある。明るさもある。
 この「軽快」というのは、私にとっては重要だ。読むときに「軽快さ」がないと、読んでいてつまずく。
 最近、私は若い世代の詩、そのことばのリズム(音楽)にまったくついていけない。読んでいて、ことばが耳に入ってこない。
 ところが藤井の詩ではそういうことがない。
 何が書いてあるのか、その「意味」を語りなおせと言われれば、答えに詰まってしまうが、読んでいて、ともかく読みやすい。
 きのう読んだ「口寄せ」には「/」という「音」のない「記号」があった。しかし、その「記号」さえ「分断」を視覚化していて、それが「わかる」。もちろん「わかる」は私の誤読だが。

 どうして瞬間瞬間に、「誤読」が可能なのか。
 藤井のことばが、どこかで「日本語」の「文学」の伝統を呼吸しているからだと思う。特に「音」の「文学」をしっかり呼吸していて、それが「声」の美しさになって響いてくる。
 どこが、ということは具体的には言いにくい。けれどあえて言えば、

なんだか通信したそうにして、

 この行末の「して」が、とても「論理的」なのである。「して」が次のことばを誘い出す。
 この響きは、

しばらく鳴って、

 に引き継がれている。
 ともに「……して」、そのあとに別の動詞がくる。「……して」というのは、別の何かを誘い出すための動きなのである。その動きを守って、藤井のことばは動いている。こういうところに「文学の(日本語の伝統の)論理」がある。それが「……して」という「リズム(音楽)」となって動いている。
 だからね、というのは、またとんでもない飛躍なのだが。
 こういうリズムのおかげで、藤井の詩はとても読みやすい。「理解」できなくても「のり」で、どこかに誘われていってしまう。
 こういうのを、詩の快感という。



 私の書いているのは「批評」ではない。もちろん「評論」でもない。「感想」ですらない。
 「でたらめ」である。
 と、書いて気づくのだが、私は藤井の詩に触れて、どこまで「でたらめ」が書けるか、「でたらめ」を維持したまま反応できるか、それが知りたくなったのである。
 藤井の詩が何を書いているか、その「意味」を私は私のことばで語りなおすことができない。つまり藤井の書いている詩の「意味」がわからない。わからないのに、読みながら、ところどころで何かを感じてしまう。反応してしまう。
 これは何なのだろうか。
 わからないまま、その反応を整えずに、ただ書き流してみたい。
 私が書いていることが「でたらめ」であるとして、なぜ「でたらめ」を書くことができるか。藤井のことばと交わりながら「でたらめ」を書き続けると、それはどこにたどりつくのか。そういうことを知りたい。
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小笠原真『父の配慮』

2017-08-15 11:37:33 | 詩集
小笠原真『父の配慮』(ふらんす堂、2017年04月07日発行)

 小笠原真『父の配慮』。
 たんたんと書かれている。エッセイのようにも読むことができる。こういう詩について感想を書くのはむずかしい。
 「哀しい眸」はガン患者を手術したときのことが書かれている。

何度目かの大出血の時
流石にもう助からないと直感したのか
いつもシャイで無口なAさんが
にっこりとほほ笑んで両手を拝むように合わせ
今生の別れを告げられたのであった
しかしぼくは
死は敗北だと思っていたぼくは
一分一秒でも命を長らえるのが仕事だと思っていたぼくは
無情にも苦しい処置を施しながら止血し助けてしまったのだ
その時のAさんの哀しい眸が忘れられない

 それから一週間後、患者は亡くなる。
 こういう話はときどき聞く。特に新しいことが書いてあるわけではない。と、感想は簡単に書くことができる。
 でも、書いた小笠原にとってはどうだったのだろう。
 たんたんと思い出すように書いているが、たんたんとは思い出せないだろう。何かを抑えるようにして書く。
 おさえても、おさえても、あふれだすものもある。

しかしぼくは
死は敗北だと思っていたぼくは
一分一秒でも命を長らえるのが仕事だと思っていたぼくは

 ここに三回「ぼくは」が出てくる。繰り返される「ぼくは」に「意味」がある。真剣に、向き合っている。患者に。医師という仕事に。いや、「ぼくに」だろうなあ。医師は「ぼく」を捨てて、患者に、仕事に(手術に)向き合わないといけない。でも、そこに「ぼく」が出てきてしまう。
 この「ぼく」は最後にも出てくる。

あれから三十年たった今
もう同じ状況にあったならば
ぼくは一体どんな行動をとっただろうか
鬼手仏心の心持ちで
同じように必死に闇雲に
救命しただろうか

恥ずかしいことに
ぼくは未だに
その回答を持っていない

 だれも、「答え」など持っていない。その時にならないと、どう動くかはわからない。それを正直に書いている。どこかに「答え」はあるかもしれない。けれど「ぼくは」持っていない。
 小笠原は「ぼく」から出て行かない。「ぼく」を出ていって、「客観的」になることはない。そこに小笠原の正直がある。
 それは「答え」に頼らない、と言いなおしてみると、小笠原の美しさがわかる。
 「答え」に頼ると、「ぼく」がいなくなる。何かあったとしても、責任を「答え」に押しつけることができる。小笠原は、そういうことはしない人間である。
 その瞬間、その瞬間、探し求めるしかないのか「答え」なのである。それを貫いて生きている。


父の配慮
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(3)

2017-08-15 10:25:28 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(3)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「口寄せ」はとても変な詩である。

駅 / ビルの柱に凭れて、口寄せしていたらば、と ぼくは書いた。
いなく / なってからのぼくは、荻の花咲く飲みのこしの水が、
真っ青な顔 / を映す大理石のまえで、ちいさな声になる。 聞こえる?

 何が書いてあるか、あいかわらずわからない。でも、はっきりわかることもある。
 ネット(ブログ)では横書き表示なのでつたわりにくいと思うが、各行にある「/」がだんだん下へ下がっていく。本で見ると、「/」が各行を斜めに切っている。分断している。そのことがはっきりわかる。詩は二ページにわたっているので、ページの変わり目は妙にずれるのだが、これが一ページにおさまっていたら、その分断線はもっとわかりやすい。
 でも、この「/」はいったい何か。何をあらわそうとしているのか、それがわからない。
 さらに、「読み方」もわからない。
 私は黙読派であって、音読はしない。けれど、「音」が聞こえない(声に出して読めない)部分は、何が書いてあるか理解のしようがない。私はことばを「理解する」ときは「音を聞いて」理解する。「音」がわからないと、「意味」もわからない。理解することができない。
 外国語を例にすると、私の言っていることがタンテキに通じるかもしれない。私は音が正確に聞き取れないと意味がわからない。逆に言うと、音が聞き取れることばは意味がわかる。日本語でも、同じ。
 私は「読む」よりも、「聞いて」ことばを覚えてきたのだろう。「声」をとおして、耳で聞いたことがないことばは、私は理解できない。さらにいえば、そのことばが「話される状況」を体験しないと、私にはことばがわからない。繰り返し聞いて、なんとなく「意味」がわかり始める。「状況」がことばの意味領域を限定するのを感じながら、「ああ、こういうときにこう言うのか」というのが私にとって「意味」なのである。「状況」と切り離せないのが「意味」。
 ここから逆に、何が書いてあるかわからないというのは「状況」がわからないということにもなる。そこにいる「ひと」がどんな風に動いているか、わからない、ということでもある。

 藤井は朗読をすることがあるのかどうか知らないが、朗読をするときは、この部分をどう読むのだろう。それを聞けば「/」が納得できるかもしれないが、目で読んでいる限りでは、ぜんぜんわからない。聞けばわかるかもしれない、というのは、そのときの藤井の顔とか身振りとか、そういうものから何かを感じ取り、そこから「意味」へ近づいていくことができるかもしれないということ。
 でも印刷された活字だけでは、そういう「手がかり」は何もない。

 しようがないから、私は分断線を無視して読む。つまり、

駅ビルの柱に凭れて、口寄せしていたらば、と ぼくは書いた。
いなくなってからのぼくは、荻の花咲く飲みのこしの水が、
真っ青な顔を映す大理石のまえで、ちいさな声になる。 聞こえる?

 という感じ。
 で、そうやって読んで、そこに「ちいさな声」「聞こえる?」ということばを、あらためて見つけ出す。「/」があったときは、「/」に意識が引っぱられて、「声」も「聞く」も読み落としていた。
 ことばを「聞いて」覚えると言いながら、目は「文字」を見ているのだ。
 (ちょっと横道にそれると、私は左目の網膜剥離の手術をした。その関係で左目の視力が非常に弱い。キーボーを打つときは、基本的にブラインドタッチだが、やはり見ている部分があるのだろう。ミスタッチが非常に多くなった。)
 で。
 この「声」「聞く」ということばに出会った瞬間、ぱっと思い出したのが一行目の「書いた」である。「書く」という動詞。

 この詩では「書く」と「聞く」が、ことばの「本能」のようなものとして、向き合っている。

 直感として、そう思った。
 「口寄せ」というのは「聞く」と関連している。「聞いた」ことを「口」で「寄せる」のだろう。「読んだ」ことを(書かれたものを)、「口」で語るときは、きっと「口寄せ」とは言わないだろう。
 「聞く声」(聞こえる声)は「大声」ではないだろう。「小さな声」だろう。「口寄せ」することができる人にだけ聞こえるような「小さな声」。

 うーん。

 では、たとえば「書く」(書かれた文字)の場合、「小さい」というのは、ありうるだろうか。
 ないだろうなあ。
 「書く」には「大小」はない。
 これは、ことばにとってみれば、大問題かもしれない。
 「声」には「大小」がある。そして「小さい声」は聞こえない。「小さい声」は存在しないことになる。ほんとうは存在するのに。
 その、「存在しない声」を聞き取り、語りなおす。それが「口寄せ」という行為かもしれない。

 この詩では「聞こえる?」ということばが三回繰り返されている。「声」は「ちいさな声」「啜る泣き声」から、「メモの中から声がする」というもの、さらに「告げず(つげる)」「言う」という動詞、また「笑う」という動詞としても「姿」をみせている。
 最後に「舞うてはる」「のぼってゆかはる」という「口語」としてあらわれている。
 というか、いくつもの「声」が最終的に「舞うてはる」「のぼってゆかはる」という「口語」のなかで結晶するように感じられる。

 なんだろうなあ。

 論理的なことばにはできないけれど、直感として、藤井は「声」を「聞き取り」、人に聞こえるように「語りなおす」ということを「口寄せ」という行為の中につかみとり、それを実践しているのかもしれない。何か「意味」があるとすれば、それは「単語」というよりも「口語」の「言い回し(言い方、そのことばを発するときの肉体の微妙な動き)」にあるのかもしれない。
 「書く」は「語りなおす」ときのためのメモかなあ。

 でも、私がいま書いたことと「/」はどんな関係があるのかなあ。
 まあ、わからなくてもいいか。
 私は自分の考えを宙づりにしておくのが好きである。何かきっかけがあれば動き出すだろう。それまでは放置しておく。いま、書いたように。

 と、書いて、あ、ひとつ書き忘れていることがあるなあ、と思い出す。
 私は書き出しの三行の中では

荻の花咲く飲み残しの水が、

 この部分がとても気に入っている。「音」がとても美しく感じられる。その「荻の花咲く飲み残しの水が、」「ちいさな声になる」と私はつづけて読んでしまう。そうか、どんなものにも「声」がある。その「声」を正確に聞き取るひとは少ない。藤井には、それが「聞こえる」。だから、思わず誰かに「聞こえる?」と問うてしまう。
 聞き取ってしまった「ちいさな声」を「口寄せ」し、「拡大し」「語りなおせば」聞こえる? わかってもらえる?
 同じような「ちいさな声」を「舞うてはる」「のぼってゆかはる」という「口語」のなかにも聞き取っているんだろうなあ。聞き取ったから、「口語(声)」をそのまま「口寄せ」する、繰り返しているんだろうなあ、と思う。
 こうした思いは「結論」ではなく、やっぱり「宙づりのままのあれこれ」ということになる。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(2)

2017-08-14 09:27:52 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(2)(思潮社、2017年07月31日発行)


 藤井貞和『美しい小弓を持って』を読みながら、「結論」を出さないように(?)感想を書いてみる。その二回目。
 「野遊び」の一連目。

歌うひとのメモから、
かたちが消える日は近いか。
かたちのあとから、
草原のおとはのこるか。
あたらしいおとには輪郭があるか。
泥炭のうえを風はこするか。

 何を書いているのか、「意味」はわからない。「ストーリー」がわからない、と言い換えてもいいと思う。
 わかることは何か。「かたち」と「おと」について藤井は書こうとしている。
 「かたち」とは何か。「かたち」にいちばん近いことばを一連目から探すと「輪郭」ということばになるだろうか。それは「あたらしいおと」ということばといっしょに動いている。
 ここが一つ目のポイント。
 「おと」とは、それでは何か。「おと」にいちばん近いことばは何だろう。「風はこするか」の「こする」が「おと」を連想させる。「おと」は何かを叩いたときに出るが、「こする」ときも出る。「擦過音」。「こする」とき、「こすり」「こすられる」ものはそれぞれ「かたち」をもっている。
 ここが二つ目のポイント。
 「かたち」と「おと」は互いに越境しながら、自分ではない「領域」で自分をさがしているという感じ。
 こういうところに、私は詩を感じる。
 いままで知らなかった何かが生まれてくる感じ。

 そういう「対」と同時に、もうひとつ別の「対」もある。三つ目のポイント。
 「消える」と「あたらしい」である。「あたらしい」は「消える」のではなく、「あらわれる」。
 「消える」には、もうひとつ「対」がある。「のこる」。「のこる」は「消えない」と言いなおすこともできる。
 そうすると、この「のこる」は「古い」ということでもあり、「古い」を踏み台にして「きえる」は「あたらしい」と「対」になっていると言いなおすこともできる。
 これは「かたち」「おと」が「名詞」の意味領域の越境であるのに対し、「用言(動詞/形容詞)」の運動領域の越境、あるいは相互刺戟。
 これが交錯するところがとてもおもしろい。

 で、
 何を言いたいかというと。
 ひとつのことばは、かならず別のことばと響きあう。ことばはことばを呼びながら、それまでのことばとは違った「意味領域」へと進んで行く。その「意味領域」がどんな「領域」なのか、それは進んでみないことにはわからないのだけれど。
 でも、そこに詩の可能性、ことばの可能性が広がる。
 というふうに書いてしまうと、何となく「結論」のようなものが、見え隠れしているような感じになる。
 あ、ことばは危険だなあ。
 こんな感想を、これ以上つづけることはよくない、と私の直感は言っている。だから、きょうは、ここまで。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』

2017-08-13 13:32:10 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(思潮社、2017年07月31日発行)

 藤井貞和『美しい小弓を持って』を読みながら、「現代詩は難解である」という定義、あるいは批判(非難)を思い出した。私は「難解」というようなむずかしいことばは苦手で、うーん、わからない、と言うのだが。
 で、その「わからない」ということから藤井の詩を読んでみるとどうなるか。

 何が書いてあるかわからないというとき、私は「意味」をさがしている。「意味」とは「結論」のことである。あるいは「要約」と言ってもいいかもしれない。
 「結論」と「要約」は同じものである。なぜか。結論は単独では存在せず、論理過程と一体になって成立するものだからである。
 だが、詩人が書こうとしているものが「結論」でも、「結論への過程」でもないとしたらどうだろう。
 「わからない」は「結論」を探すから「わからない」。「結論」や「結論への過程」を探さなければ、「わからない」は成り立たない。
 こういうことを「詭弁」というかもしれないけれどね。

 でも、ことばは「結論」を目指さなくても、存在する。
 あ、これは、言い過ぎかなあ。
 「結論」が何かわからないままでも、ことばは発することができる。「結論」は予測がつかない。でも、なんとなくことばを言ってしまう、ということはある。
 「結論」を探すことをやめて、そこに書かれていることばだけを見ると、どうなるか。詩集のタイトルにもなっている「美しい小弓を持って」の、こんな部分。

同級生の「おみくじ」といったら、ひどかった。
「A 絵だ、B 美だ、C 詩だ、D 泥だ、
さあどれよ、引いてみな」って、
引いても引いても D 泥だった。

 ABCはそのまま絵、美、詩なのに、Dだけ「泥」と違う音になっている。(「でい」と読めば同じ音になるが、ふつうは単独で「でい」とは読まない。)一音の意味のあることばが見つからなかったのだろうなあ。そこで「泥」。これは吉、凶の占いでいえば凶だろうなあ。そんなことはどこにも書いていないのだが、なんとなく、そう思う。このなんとなくそう思うときの感じが「わかる」だね。
 「D 泥」というおみくじは、他のに比べて見劣りがする。凶に違いない。というのは「誤読」なんだけれど、「誤読」が「わかる」ということ。つまり、そこでは「私(谷内」の思いが自然に動いている。「結論」なんかを探さず、瞬間的に、動いてしまっている。
 だから、どうなんだ、と言われると、どうということはないのだけれど。
 で、このあと、

弦を叩いてかがみのおくにかげの見える人、
歌人の言う、あなたはけさ行かないほうがよい。
かげを認めると、烏(からす)が鳴いているこれはあぶない、
子供が二、三人、けさは隠されるじつにあぶない。

 「あぶない」ということばに出会って、あ、これが「凶」か、と思い込む。

消されるかもしれない、あぶないぞ。

未知る季節に世は満ちる、ああそんなにあぶないのか。

迎え火があなたを手招きする、あぶないな。

みくじの読めないうらがわに置く あぶない。

 「あぶない」が次々に出てくる。
 「あぶない」は「現実」であると同時に「予感」。「事実」になってしまったら「あぶない」は存在しない。「事故」になる。あるいは「事件」ということもある。ようするに、「いま」がかわってしまう。「いま」のままではいられない。それが「あぶない」。
 あ、藤井は「あぶない」を書きたいんだなあと「わかる」。「あぶない」が「意味」をこえて迫ってくる。何が「あぶない」のかわらないが、藤井が「あぶない」と言っていることは「わかる」。
 そして、この「わかる」に、次の一行が重なる。

神ひとり、髪一本、分からなくなった。

 「意味」は「わからない」のだが、「分からない」ということと「あぶない」はどこかでつながっている。そのことを藤井が発見している。そのことと藤井が出会っている、ということが「わかる」。
 「うらない(みくじ)」というのは「わからないこと」を「わかる」ための方法。
 そして、そこで「わかる」のは「あぶない」だけである。世の中には「あぶない」がある。

 だから? それでどうした? それが「結論」?
 いや、結論なんかじゃないのだけれど、ことばは面倒くさいものであって、どんなことでも書いてしまうと、そこに「論理」ができ、論理は「結論」を捏造してしまうものである。
 「わからない(難解)」から書き始めたのに、「あぶない」が存在し、「あぶない」と予感して、藤井は何かを書いている、というようなことを簡単に言ってしまえる。
 「結論」が正しいか、間違っているか、そういうことは問題ではない。ただ、「結論」はいつでも捏造できる。

 でも、こういうことは、詩の喜びとは関係がない。
 詩の「思想」とも関係がないと、私は思っている。
 では、この詩の「思想」とは何か。

「A 絵だ、B 美だ、C 詩だ、D 泥だ、
さあどれよ、引いてみな」って、
引いても引いても D 泥だった。

 このことばのなかにある音とリズムだね。「意味」の否定があって、その否定と音が結びつき、さらにリズムをつくり、音楽になる。
「意味の否定」というのは、たとえば「A 絵だ」は「A=絵」ではないということ。でも、「B=絵」「C=絵」ということばの動きよりも「A=絵」に納得してしまうということ。ナンセンス。しかし、そこには不思議な「センス」もある。藤井の場合、その「センス」は「音楽のセンス」ということになるのかな?
 別なことばで言うと、読みやすい。「意味」はつながらない、「意味」はでたらめなのに、音が読みやすい。音が「意味」とは別の統一感を持って動いている。

 こんなことを書いても詩の感想にもならないし、ましてや批評にはならないとひとは言うかもしれない。私もそう思うが、しかし、藤井の詩に向き合ったとき、最初に動くのは、いま書いたようなことなのだ。
 いま感じたことが、次の詩を読むとどうかわるのか、それはわからない。私は、そういうことを「決めたくない」。思ったことを「整えたくない」。垂れ流し続けたい。
 あすも(ただし気が変わるかもしれない)、つづきを書いてみよう。

 
美しい小弓を持って
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自衛隊日報

2017-08-13 11:47:09 | 自民党憲法改正草案を読む
自衛隊日報
            自民党憲法改正草案を読む/番外112(情報の読み方)

 2017年08月11日朝日新聞(西部版・14版)の1面。

相田氏関与認めず/日報再調査は拒否/防衛省答弁 監察結果なぞる

 という見出しで、衆参委の閉会中審査の記事が出ている。そのなかにこんな部分がある。

 小野寺氏(防衛相)は、防衛観察本部の聴取結果を踏まえ、「(稲田氏に)報告したかどうかは意見が分かれた」と答弁。「(報告した事実が)『ない』とした方は明確に『なかった』と終始一貫している。(報告を)『したかもしさない』という方は意見が二転三転し、あいまいなところもあった」と説明した。


(1)「報告をした事実がない」は「明確」
(2)「したかもしれない」は「二転三転し、あいまい」
(3)だから、「明確」な方が正しい(稲田は知らなかった/関与していない)

 と言いたいようだが、これは、奇妙な論の展開ではないか。

(1)複数の人間がいる。そのうちの誰かは「報告した事実がない」という。これは、その人が報告していなければ、「私は報告していない」と明確に言える。だれかが稲田に報告しているのを聞いていても(その場にいっしょにいても)、「私は報告していない」と言うことができる。
(2)「したかもしれない」が「二転三転」している、というのはどうしてなのか。それを考えてみる必要がある。「報告した」と発言したひとが、ほんとうに「報告したのか」と再度確認され、さらにそのとき稲田はどう反応したのか、他のひとはそのときどう反応したのかと詰問されたからかもしれない。その人が「報告した」のは事実だが、稲田の反応、他の人の反応については正確に答えられなかった。そのために「あいまい」な部分が残った、ということかもしれない。
(3)複数の「証言」があるとき、その証言に揺らぎがないかどうかだけで、それが「事実」とは断定できない。少しでも疑問があれば、その疑問をもっと追及しなければならない。
さらに私はこう考える。
(4)「したかもしれない」という証言が揺れているのはなぜなのか。その人物に対して、どのような訊問の仕方をしたために証言がゆれたのか。その「過程」を明確にしなければならない。「二転三転」しているから「正確ではない」とはいえない。多くの「冤罪」は取調官の「証言の強要」によって生じている。「ほんとうはこうなのじゃないか」と証言をリードするようなことはおこなわれなかったか、それを点検しなければならない。どんな「答え」も「質問」の仕方によって、内容が違ってくる。
(5)「報告をした事実がない」と主張しているひとに対しては、「だれそれは報告したと答えているが、そのときあなたはどこにいたのか。(誰が右隣にいて、誰が後ろにいたのか)声を明瞭に聞き取ることができたのか。」「では、そのひとは、どういう報告(発言)をしたいたのか。そのときの稲田の反応は?」などを聞いてみるべきである。きっと「あいまい」な部分が出てくるだろう。それでも「誰も報告していない」と断定できるのかという問題が生じるはずである。

 他の事例と比較してみよう。
 文部省の「加計学園」をめぐる「文書」。文部省は存在しない、と言い張っていた。ところが「文書」はあった。多くの人間が「記憶にない」と言い張っている。ところが、「文書」は残っている。
 「記憶」については、いつでも「ない」と言い張れる。全体的な「証拠」が出てくるまでは「記憶にない」と言い張れる。証拠が出てきたときは、「あ、そうだった、いま思い出した」と言い逃れができる。「すっかり忘れていた。記憶を訂正します」と、言い張ることができる。

 「したかもしれない」とひとりでも答えているなら、それは「報告した」のだ。
 「していない」と答えているひと、「したかもしれない」とこたえているひと、防衛省が「調査/監察」した人物を全員喚問し、国会の場で答弁させればいい。
 「監察結果にこう書いてある」というのでは何も答えたことにはならない。
 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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二宮清隆『消失点』

2017-08-12 13:02:07 | 詩集
二宮清隆『消失点』(私家版、2017年07月05日発行)

 二宮清隆『消失点』は「地図がない」で始まり「消失点」で閉じられる。「予定調和」である。これは個々の作品にもあてはまるかもしれない。
 「地図がない」は「大きな鏡の前で/地図を持って立って」いる自画像を書いている。「その地図には/何も画かれていない」。

それにしても
引き返すには遠すぎるほど
ぼくはぼくの出発点を見失っていた
だから地図を描いておけばよかったのにと
鏡の向こうのぼくが非難めいて言う

 こういう「感慨/感想」は年をとってからのものである、と言いたいけれど、実際はそうではないだろう。若い世代のものである。青春時代に、まだ敗北もしていないのに敗北を夢見て書く抒情詩。青春には「未来を予測する」特権がある。ふつうは「輝かしい未来」を予測するのかもしれないけれど、ひねくれた抒情詩人は敗北を予測する。これは1970年代に流行した。
 読んでいて、いま書かれている詩というよりも、過去にこういう詩を読んだことがあるという「記憶」の方が刺戟されてしまう。
 ここで終われば、まだ抒情詩という感じがするが、

見果てぬ夢は
見果てぬまま
行く着く地図など
地の果てに行っても
ありはしない

 ここまで書くと「説明」になってしまう。「説明」してしまうので、二宮が「青春」の詩人ではないということがわかる。同時に、あ、古い詩(過去に書いた詩)にとらわれているなあ、とも感じる。
 修辞に破綻がない、ということがその印象を強くする。
 「消失点」は真っ直ぐな線路で、やってくる列車がやがて消えていくまでを見つめる詩。一点透視図の「消失点(焦点)」を描いている。それは「絵画(図)」なのだが、図があらわすのは「時間」である。
 「地図がない」の「地図」も「平面(地理)」を表示したものというよりも、そこには「時間」が書かれていた。「空間」と「時間」を「絵(図)」のなかで交錯させるというか、「時間」を「図」として把握するのが二宮の肉体(思想)なのだと思う。この図式化された「時間感覚」というのはあまりおもしろくないが、「消失点」には一か所、とても美しい部分がある。

手をかざして見ると 点から丸になり
小さなちいさな蒸気機関車の形になり
あっというまにずんずん大きくなり
線路わきの草むらに飛びのいて
通過する蒸気機関車のバッタのような腹を
からだ全体ゆさぶられながら見上げた

 「バッタのような腹」という比喩に「事実」がある。頭で考えた比喩ではなく、実際にその場にいて二宮がつかみ取った比喩。そのとき二宮は「蒸気機関車」だったのか、「バッ」タだったのか。おそらく、その両方であり、同時に二宮でもあった。
 もしかすると、二宮が飛びのいた草むらからバッタが飛び出して列車に「トランスフォーマー」したのかもしれない。
 ここには、少年の二宮が、少年の肉体(思想)をもって動いている。「敗北」という抒情を知らない、いきいきとした肉体だ。

詩を読む詩をつかむ
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沼田真佑「影裏」

2017-08-11 10:27:15 | その他(音楽、小説etc)
沼田真佑「影裏」(「文藝春秋」2017年09月号)

 沼田真佑「影裏」は第百五十七回芥川賞受賞作。書き出しは、最近の芥川賞の受賞作とは印象がまるっきり違う。文章が美しい。(引用ページは「文芸春秋」)

 勢いよく夏草の茂る川沿いの小道。一歩踏み出すごとに尖った葉先がはね返してくる。かなり離れたところからでも、はっきりそれとわかるくらいに太く、明快な円網をむすんだ蜘蛛の巣が丈高い草花のあいだに燦めいている。( 398ページ)

 美しいを通り越して華麗。自然の描写なのだが、どこか人工的な感じがする。ことば数が多い。自然に触発されてことばが動いたというよりも、ことばの力で自然をつくりだしていく、という感じ。
 蜘蛛の巣の描写の「はっきり」を「わかる」という動詞で言いなおした後、さらに「太く」「明快な」と言い直している。それらの「修飾語」は、「はっきりしたものになる」「太くなる」「明快になる」という具合に「なる」という動きをともなって「わかる」を支える。「わかる」は、他のことばに支えられながら、「燦めいている」にかわっていく。「燦めいている」は蜘蛛の巣の描写なのだが、蜘蛛の巣を認識する主人公の感覚(認識力)そのものが「燦めいている」ように感じられる。「強さ」を含んでいる。これが、実に美しい。
 「かなり離れた」が「細部」の「はっきり」を強調している。さらに、その前の「踏み出す」とか「尖った」とか「はね返す」ということばが「強さ」を前もって引き出しているので、まるで夏の野原に肉体がひきだされたような感じになる。
 とても美しいが、うるさい感じもする。初期のカポーティのような文章である。
 この書き出しは、こうつづいていく。

 しばらく行くとその道がひらけた。行く手の藪の暗がりに、水楢の灰色がかった樹肌がみえる。( 398ページ)

 私は、ここで少し違和感を覚えた。文体が書き出しとは違っている。「小道」が「広い道(道がひらかれた)」にかわり、変わった瞬間に「暗がり」という閉塞感のあるものが対比される。歩いている「小道」の描写が「開かれた」感じのするものなのだから、わざわざ「道」を「ひらか」なくてもいような気がするのである。
 つまり、

 しばらく行くと、藪の暗がりに、水楢の灰色がかった樹肌がみえる。

 でも十分な気がする。「その道がひらけた。行く手の」が、どうも「説明」的すぎる。そして、「説明」の仕方が書き出しと大きく異なっている。「はっきり」「太く」「明快な」、「わかる」「燦めいている」というような、感覚をこじあけるような動きがない。「しばらく」ということばが、それまでのことばに比べて「間が抜けている」。文章の「勢い」「緊張感」がまるっきり違ってしまう。
 さらに、こうつづく。

 もっとも水楢といっても、この川筋の右岸一帯にひろがる雑木林から、土手道に対し斜めに倒れ込んでいる倒木である。それが悪いことにはなかなか立派な大木なのだ。( 398- 399ページ)

 「もっとも」からつづく「説明」がまた輪をかけて間が抜けている。「倒れ込んでいる倒木である」は「いにしえの昔、武士のさむらいが、馬から落ちて落馬して」の類である。「悪いことには」と書かれても、どうして「悪いこと」なのかわからない。
 「悪いことには」は、次の文章で、こう説明される。

ここから先は、この幹をまたいで乗り越えなければ目的の場所までたどり着けない。

 「悪いこと」は水楢に属するものではない。主人公にとって「不都合」ということである。ここにも「またいで乗り越える」という「馬から落ちて落馬して」が出てくる。ことばに酔っているのかもしれない。
 このあと、ようやく主人公が登場する。

 近ごろではわたしは、それこそ暇さえあればここ生田川に釣りをしに出かけることに決めている。( 399ページ)

 やはり描写になっていない。「説明」なので、非常にうるさい感じがする。引用は省略するが、「昨日」の説明がこのあとにつづき、非常にまだるっこしい。「昨日」は、そのあとストーリーになって動くというか、主人公の「履歴」を語っているのだが、どうもめんどくさい書き方である。
 そういうものを挟んで、

午後五時の時報が流れる時分には、わたしはすでにこの川端の草むらに立ち、餌箱から大ぶりのブドウ虫の繭を選り出し、引き裂いていた。( 399ページ)

対岸の沢胡桃の喬木の梢にコバルトブルーの小鳥がいたり、林の下草からは山楝蛇が、ほんとうに奸知が詰まっていそうに小さくすべっこい頭をもたげて水際を低徊に這い出そうとする姿を目の当たりにした。一種の雰囲気を感じて振り仰いだら、川づたいの往還に、立ち枯れたように直立している電信柱のいただきに、黒々と蹲まる猛禽の視線とわたしの視線がかち合ったりした。( 400ページ)

 釣りの描写がある。ここは美しいといえば美しいが、奇妙といえば奇妙である。梢のコバルトブルーの小鳥(上)、山楝蛇(下)と視線を動かした後、「自然」の中で敏感になる感覚が「気配」を察して振り返ると、電信柱(人工)に「猛禽」がいる(上)。視線の動きが忙しい。それはそれでいいけれど、「ブドウ虫」「山楝蛇」と餌や蛇が特定されているのに、小鳥は「コバルトブルー」、猛禽に至っては「猛禽」でしかない。名前がない。「馬から落ちて落馬して」とは逆に、ことばが不足している。こんなに視線(感覚)が鋭敏なら、とうぜん鳥の名前も知っていてよさそうな気がする。
 このあと、主人公の友人が登場する。釣りには二人できていることがわかる。その主人公の描写が、すごい。えっ、と思い、私は三回読み直してしまった。

ゆうべの酒がまだ皮膚の下に残っているのか、磨きたての銃身のように首もとが油光りに輝いている。( 400ページ)

 「銃身」という比喩がなぜここで突然出てくるのか。獣をつかう猟師ならわからないでもないが、釣りをしているふたりである。その身の回りに「銃」があるのか。そもそも主人公は「銃」を見たことがあるのか。
 これは「描写」ではなく、「借り物の」説明である。
 沼田のことばは、沼田の「肉体」から生まれてきているのではなく、読んだ「文学」から借りてきたものであると感じた。「油光り」「輝く」も「馬から落ちて落馬して」の類だ。「定型」というか「常套句」の「無意識」。これが、借り物の文章という印象を強くする。
 もっとも「銃身」は、次のように言いなおされている。友人が倒れた水楢を「樹木医」のように調べる場面である。

医者というより、仕留めた獲物の鼓動を調べるハンターだった。( 401ページ)

 ハンター(猟師)を引き出すための「伏線」として「銃身」がある、ということになるかもしれないが、これはどうみてもおかしいだろう。
 釣りのことをていねいに描ける(釣りの世界に没頭している)主人公が「銃身」の比喩を出してくることは不自然すぎる。銃もつかえば釣りもするという、まあ、外国の文学ならありそうな比喩ではあるが。たとえばヘミングウェーとか。
 変な比喩は、たとえば、こんなところにもある。

 雨の日に遊園地に出かけるような、心もとない気持ちを抱えて、わたしがこの川原に到着したのは六時過ぎだった。( 410ページ)

 わかるけれど、「雨の日に遊園地に出かける」ということを、ほんとうにしたことがあるのか。ひとりでしたのか、だれかとしたのか、そのだれかはだれなのか。そういうことが一緒に思い浮かんでこなければ、その比喩は嘘、借り物ということになるだろう。
 さらにぎょっとしたのは、主人公が友人の父親を訪問する場面である。

「息子さんが、釜石で被災した可能性があるのはご存じでしょう」こんどは日浅氏ははっきり首を振った。
「もう三か月になろうとしていますよ」
 うつむき加減で氏はコーヒーを啜っていた。( 429ページ)

 日浅氏を「氏は」と省略する形で受けている。新聞か何かの「文体」のようだ。主人公は、「氏は」ということばをどういう気持ちでつかうのだろうか。これがわからない。友人の父親に対して、まるっきり感情というものがない。友人の消息を心配しているのに、父親に対してはまるで第三者。会話こそ心配口調であるけれど、「地の部分」には「心配」が滲んでいない。
 これはいったい何なのだろう。
 どういう気持ちになったら、こういう文章が書けるのだろう。

 選考会では「文章のうまさ」が評価されたらしいが、うまければいいというものでもないだろう。それにほんとうにそんなにうまいのか。一見、うまそうに書いてあるだけのように思える。
 「うまさ」よりも「ほんとう」かどうかが重要だろうと思う。釣りのシーンで「銃身」が出てきた段階で、私は「ほんとう」が書かれていないと思った。「氏は」という部分で、とても嫌な気持ちになった。

影裏 第157回芥川賞受賞
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文藝春秋
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添田馨『非=戦(非族)』

2017-08-10 11:01:25 | 詩集
添田馨『非=戦(非族)』(響文社、2017年07月20日発行)

 添田馨『非=戦(非族)』の帯にこう書いてある。

「非族」とは誰か?
「非=戦」とはいかなる戦いなのか?
歴史の闇に葬られた幾多の〈声〉が、
いま言葉の殻をつき破り
一千行の奔流となって溢れ出る……。

 うーん、かっこいいなあ。
 昨日読んだ青木の詩が「母親になること(母親として生まれなおすこと)」の書き直しならば、添田の詩集は「戦争を企む為政者と戦争を拒む市民の戦い」を書き直したものだろう。
 で。
 「書き直し方」なのだが、青木は多くの母が語ってきたことを、ちょっと力みのあることばで語っていた。日常会話ではつかわないが(お母さん同士が語るときにはつかわないが)、かといってまったく知らないことばかというとそうではない。ちょっと「背伸び」したときに読む本や何かに書いてある。文章に「整えられた」ことば。そういうものがまじってきている。
 添田の場合は、詩集のタイトルからわかるように、誰もつかわないことばで語り直している。

「非族」とは誰か?
「非=戦」とはいかなる戦いなのか?

 これは辞書を引いてもわからない。詩集を読んではじめてわかることばである。添田のオリジナル語、「添田語」である。
 詩のことばは、それが「日本語」で書かれていても、「外国語」として読んだ方が読みやすい。自分の知っていることばを捨てて、そこに書かれていることばがどう動いているかからつかみ直した方がわかりやすい。自分の知っていることばを頼りに読むと、混乱するばかりである。「外国語」なら、あ、こういうときはこういうのか、と思える。
 とはいうものの、なかなか、簡単にはゆかない。
 私は「外国語」を読むときは「動詞」を基本にして(出発点にして)読む。人間が動くときの「肉体」を手がかりにして読む。そうすると、そこに書かれていることを、自分の「肉体」に重ね合わせてつかみ直すことができる。
 そのとき、「名詞」「形容詞」も「動詞」に言いなおすようにしている。「名詞」には「動詞」派生のことばがある。「形容詞」は日本語では「用言」。活用する。つまり「動き」を含んでいるから、その動き(変化)に注目するのである。

 ちょっと添田の詩について、そういうことをやってみる。
 『非=戦(非族)』の「非」は「否定」をあらわす。「非常」は「常ではない(常にあらず)」という具合。「名詞」の上につくことが多いと思う。「動詞」の上についたものをすぐに思い浮かべることはできないが、たぶん同じように「動詞」を否定することになると思う。
 「非=戦」という表記は、どう読んでいいのか、わからない。「=」は「=」なのか、外国人の名前を片仮名表記するときにときどきつかわれる記号のように、強い結びつきをあらわすもの(切り離せないもの)をあらわしているのか、わからない。
 「=」を省略して「非戦」と読むと、「戦い」を否定している。「戦い」は「戦う」という「動詞」に通じるから「戦うことを否定している」ということになる。「戦いにあらず」と読むこともできるかもしれないが、私は「戦いを否定する、拒否する」という具合に「動詞」化して理解した。
 詩集には英語の「ルビ」がふってあって、それは「Non-War(Non-Natives)」とある。「Non-War」に影響されて、そう思うのである。「War」は名詞なら「戦い」だが、動詞なら「戦う」である。「non」は英語では動詞にはつけないかもしれないけれど。動詞につけるなら「not」かもしれないけれど。
 厳密に考えるとむずかしいが、私は「だいたい」のところで考える。「意味領域」を広げながら「てきとう」に考える。
 「非族」の「非」も同じく「否定(ない、あらず)」だろう。「族」はなんだろう。「家族」ということばがいちばん身近だが、「家族」とは「血のつながり」。むりやり(?)動詞化してみると、「つながる」ということばになるかもしれない。何かがつながるとき「族」になる。「部族」「民族」というのも「血のつながり」の「集団」ということになる。「つながって」「あつまる」、「集団になる」を「族」というのかもしれない。
 英語の「Native」はネイティブスピーカーのネイティブだろう。「生まれてついの」くらいの意味か。(私は辞書で確かめたわけではないので、間違っているかもしれない。)「生まれついて」には「生まれる」という動詞があり、生まれるは「血のつながり」も意味するだろう。英語のルビを参照すると、「族」はますます「つながり」を意味領域としてもっていことが推測できる。
 そこから翻って、では、「非族」とはなにか。「つながりにあらず」「つながりの否定」「つながることを拒む」。

 うーん、なんだろう。うまく、ことばがつながらない。

 「非族」だけではなく「戦(非族)」という「説明」を含んだ表記を手がかりに考え直した方がいいのかもしれない。
 「戦い」は「戦争」。「戦争」というのは「つながり」をもった「集団(たとえば、ある国民)」が別の「集団(族)」と戦うこと。このとき「集団」は「一致団結」するのが望ましいが、現実は必ずしもそうではないだろう。「族(集団)」の行動(動詞)に叛く人間も出てくる。たとえば「戦争」のとき「戦争反対」と叫ぶ人。「非国民」と呼ばれたりする。
 「非国民」「非」と「非族」の「非」はつながっているのではないか。「戦争のとき、戦争を拒んでいるひと」、それを「非族」と添田は呼んでいるのかもしれない。
 そういうひとは「戦い」のなかに「含まれている」。添田が( )でくくっているのは、「戦」の「内部」のありかたとして表現するために、そうしたのかもしれない。

 戦争のとき「非国民」であること。戦わないこと、「非戦」の行動をすること。「非戦」を「動詞」として生きること。「戦い」と「つながらず」に生きること。
 「非族」と定義されたひとは、そのまま「非戦」を生きることになる。
 「戦争」をまんなかに挟んで、「戦争を否定する」ということが、戦争をする主体の内部においても動く。それが動くとき「戦争」はつまずく。「戦争」になりえない。あるいは「戦争をする主体」のなかから「戦うという動詞になることを拒んだ人」があらわれ、主体の外に溢れ出るとき、「戦争」は成り立たない。

 「非=戦(非族)」の冒頭の「非」は「非族(非国民)」と結びつき、「戦」を封じ込める力になる。「非戦」と明記せず「非=戦」と書き、そのあとで「戦」を「戦(非族)」と添田は書いているのだ。
 そう読むと「=」は「イコール」をあらわしているのではないことがわかる。「非戦」を強調するために、あえて書き加えたものだとわかる。「つながり」を強調している。これをあえて「イコール(=)」ととらえ、強引に因数分解(?)すれば、「非戦=非族」なのだ。戦争に反対するために、非国民であろうと勧めている。非国民の歴史を浮かび上がらせ、そこに可能性を見いだそうとしている。
 この複雑にねじれた書き方は「力業(ちからわざ)」としか言いようがないが、その「力」がこの詩集を動かしている。

 こんな抽象的なことは詩集の感想にならないかもしれない。もっと具体的に、そこに書かれていることば(行)を取り上げ、ことばの動きを追わないといけないのかもしれないのだが。
 私には知らないことばが多すぎて、感想を書けない。
 政治の歴史も、私はほとんど知らない。いくつも「註釈」がついているが、それは「情報」にはなりえても、私の「実感」にはならない。
 私のぼんやりした把握では、添田は「非国民」と「つながる」ことをとおして、「戦争」に対して「非」を訴えている。「非」を生きた「個人」と「つながる」ことで「非戦族」というものを明らかにしようとしている。


非=戦(非族) 詩集
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