詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トランプの「一石二鳥作戦」

2017-11-08 15:04:01 | 自民党憲法改正草案を読む
トランプの「一石二鳥作戦」
             自民党憲法改正草案を読む/番外147(情報の読み方)

 2017年11月08日の読売新聞(西部版・14版)の1面。

米韓 北へ最大圧力/首脳会談 「FAT」加速確認

 これを、2017年11月07日の読売新聞(西部版・14版)の1面と比べてみる。

日米 北へ最大限圧力/首脳会談 首相 追加制裁表明
   トランプ氏 貿易赤字改善求める

 「日米」だったものが「米韓」に変わっている。これは「主語」が違うのだから当然である。
 では、「北へ最大限圧力」(日米)、「北へ最大圧力」(米韓)の違いは?
 見出しだけではわからないね。「最大限」と「最大」と、どちらが「強い」のかもよくわからないが。
 韓国の文は、実は、こう言っている。

「圧倒的な力の優位によって断固として対応していくことを再確認した。最大限の制裁と圧力をかけていく」

 「最大限」ということばがつかわれてるのだから「最大限の圧力」でもよさそうだが、何が理由で「最大限の圧力」ではなく「最大圧力」という「要約(見出し)」になったのか。たぶん、「制裁」ということばが「圧力」より前にあるからだ。
 文は、この発言を、こう言いなおしている。

(文は)北朝鮮問題を「平和的に解決するため努力していく」とし、「周辺国を含む国際社会とも協力していく」と述べ、対話による解決を主張する中国やロシアと連携する姿勢もみせた。

 韓国の主眼は「平和的解決」。そのためにはアメリカだけではなく、中国、ロシアとも連携する。「武力解決」を望まない。
 あたりまえだなあ。戦争になれば、朝鮮半島が戦場になる。ソウルは国境からそんなに離れていない。すぐに攻撃される。
 このあたりの日本(安倍)+とアメリカ(トランプ)と韓国(文)の意識を違いを、読売新聞は2面の見出しで、

対北 温度差隠せず

 とあらわしている。安倍はトランプのいいなりだったが、文はいいなりにはなっていない。トランプが少し困っている。
 とはいうものの、トランプは記者会見で、こう語っている。(7面に「記者会見発言要旨」が掲載されている。)

米国は世界で最高の軍事装備品を持っており、韓国は数十億ドルを購入することになった。米国に雇用をもたらし、対韓貿易赤字の削減につながるだろう。

 安倍相手にそうだったように、トランプは文相手に「武器輸出」の確約をとったのである。それがアメリカ経済を支えていることを公言した。(これは、アメリカ国内向けの発言でもある。)

 文も、こう言っている。

韓米は、朝鮮半島周辺への米軍戦略兵器の展開を拡大・強化していく。韓国の防衛力を増強するため、(韓国軍の)弾道ミサイル弾頭重量制限を完全に解除することで最終合意した。(韓国が)最先端の平気を獲得・開発するための協議も即時に開始する。韓米は、今後も合理的水準の防衛費を分担し、同盟を強化していく。

 大半の部分で、やはりトランプに押し切られている。最後に、やっと中国、ロシアとの連携するとつけくわえていると言っていいのかもしれない。それでも、トランプ相手に、きちんと自己主張しているだけ、安倍に比べると「信念」を持っているといえる。

 この、今回のトランプの日本、韓国との首脳会談は、要約するとどうなるのだろうか。トランプから見ると、「一石二鳥」ということではないか。
 アメリカは大量の武器を日本と韓国に売ることができた。それはトランプが言っているように、アメリカの雇用を拡大する。アメリカの景気がよくなる。
 それだけではない。
 北朝鮮は「核ミサイルでアメリカを攻撃するぞ」と脅しているのだが、「脅し」の照準をアメリカだけにしておくことができなくなった。韓国、日本の武装強化は、いったん戦争が始まればすぐに北朝鮮を攻撃できるということである。韓国、日本もはっきりと「視野」にいれて作戦を進めなくてはならない。アメリカを攻撃するぞと脅しているだけではすまなくなった--というのは、まあ、「建前」の見方だなあ。
 「本音」の見方は。
 戦争が起きれば、朝鮮半島と日本が戦場になる。アメリカ本土まで北朝鮮が攻撃している余裕がなくなる。アメリカは太平洋の向こう。韓国とは陸続き。日本もアメリカ本土から比べるとはるかに近い。そこで戦争があるということは、アメリカ本土が戦場にならないということだ。朝鮮半島と日本を戦場として活用するためには、武器をどんどん売り込め。武器は売り込めば売り込むほど、アメリカの経済はよくなる。そしてアメリカ本土が戦場になる危険は遠ざかる。
 「一石二鳥」というしかない。
 武器商売人のトランプに、安倍も文も押し切られた。

 もう「冷戦時代」は終わった。資本主義国対社会主義国(共産主義国)という「世界の対決構造」は消えた。それでもなおかつアメリカは、韓国と日本を、社会主義国(共産主義国)からの攻撃の「防波堤」、あるいは社会主義国(共産主義国)への「最前線基地」として活用し、太平洋側からの攻撃にそなえている。
 キューバ危機のとき、アメリカはソ連(当時)がキューバにミサイルを持ち込むことを激しく抗議した。しかしいまアメリカは、韓国と日本を、ソ連がキューバを利用したのと同じ形で利用しようとしている。中国と北朝鮮にとっては、韓国と日本は、太平洋の「キューバ」である。



 7面(国際面)には、韓国の様子が紹介されている。「反トランプデモ」がソウルでおこなわれた。文は「韓国の同意なしの軍事行動はありえない」と言っているが、それでも「トランプにノーと言おう」「戦争反対」と書いたプラカードを掲げて市民が抗議したと報道している。
 日本でも同じ行動があったはずだが、読売新聞は伝えていない。韓国の市民の行動を写真入りで伝えるくらいなら、日本人の行動をもっと報道すべきだろう。日本にも安倍の姿勢、トランプの動きを批判する市民がいるということを、多くの人に知らせる必要がある。
 安倍に不都合なことは知らせない、というのは昨年夏の参院選の籾井NHKの報道から顕著になっている。安倍の「沈黙作戦」にあらゆるメディアが牛耳られている。韓国の「反トランプ活動」を紹介することくらいで、ごまかしていてはいけない。


#安倍を許さない #安倍独裁 #沈黙作戦 #憲法改正 #天皇生前退位
 

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トランプの完勝(2)

2017-11-07 16:41:30 | 自民党憲法改正草案を読む
トランプの完勝(2)(情報の読み方)
自民党憲法改正草案を読む/番外146(情報の読み方)

 2017年11月07日の読売新聞夕刊(西部版、4版)のトランプ続報がすごい。見出しは、

トランプ氏 韓国到着

とそっけないのだが。記事に、こういう部分がある。

トランプ氏は日本を出発前、ツイッターに「日本訪問と安倍首相との友情は我が国に多くの利益をもたらすだろう。大規模な防衛装備品やエネルギーの注文が来る!」と書き込み、来日の成果を強調した。

トランプは、「北朝鮮の脅威はなくなった」というようなことは書いていない。「安全保障」は関心がない。「利益」にのみ関心がある。言い換えると「経済交渉」が目当てで安倍と首脳会談をした。
露骨というか、大統領とは思えない率直な、「商売大成功」宣言である。

このあと、どうなるか。
今は円安だが、トランプは円安にも文句を言うだろう。対日貿易赤字を解消するために、円高を要求する。
企業の9月中間決算は、円安の為に輸出企業が好調だが、これは円高になれば一転して不況になる。株高も終わる。
円高でも日本製品が売れるようになった初めて「企業業績がいい」といえる。
「北朝鮮の脅威」は、トランプの商売に利用されただけ。
日本経済の崩壊が始まる。

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野木京子「小石の指」

2017-11-07 11:12:23 | 詩(雑誌・同人誌)
野木京子「小石の指」(「交野が原」83、2017年09月01日発行)

 私は「ことば」をそのことばのまま反芻することが苦手である。反芻しようとすると「ことば」が入れ替わる。そういうことが、しょっちゅう起こる。
 野木京子「小石の指」でも、そういうことが起きた。

部屋はしんとして
窓ガラスを通って入り込んだ光も張り合いがなく ただ遊
んでいた
見えない子どもが走り抜けた木の床
ほんのわずかに空間が歪み
でも湿度の変化はなく
それでも歪みは径になって気配を変える

お母さんが横たわっているね
もうすぐ眠りにつくから
静かに静かに
見えない子どもは自分に言い聞かせる
見えない子どもがここにいるから ほら
淋しくないでしょう と
ささやいてみたけれど 見えないのだから
ここにいないのと同じ

解析不能の小石をぱらぱら 歪みと一緒に床に撒いていた
小石を順々に拾いあげるとき
見えない子どもとお母さんの
指は触れ合うはず

 一連目。「窓ガラスを通って入り込んだ光も張り合いがなく」の「張り合いがない」ということばが印象的だ。それが「ただ遊んでいた」とつづき、「見えない子ども」が登場すると、「光」は「光」ではなく「子ども」になってしまう。私は「光」を「子ども」と入れ替えて読んでしまっている。しんとした部屋、誰もいない部屋にひとりで入り込んでしまった子どもが、誰もいないことに気づいて「張り合いをなくして」、ひとりで遊んでいる。そういう情景を思い浮かべる。「見えない子ども」と書かれているのだが、私には「見える」。「見えない」ということばに触れて、逆に、より鮮明に見える感じがする。
 これも、ことばの入れ替わり、ことばの取り違えかもしれない。
 「歪み」ということばが出てくるが、その「歪み」のなかに引き込まれて、「光」と「子ども」が入れ替わったかのようだ。
 二連目では「見えない子ども」と一緒に「お母さん」が出てくる。この「お母さん」は「見えるお母さん」ということになるのかもしれないが、私はやっぱり逆に感じてしまう。「見えないお母さん」がいる。「見える子ども」がいる。その部屋の中には。
 「お母さん」は「眠りについた」。この「眠りにつく」は「死んだ」ということだろうなあ。死んだから、いない。いないから「見えない」。でも、子どもには「見える」。いつまでも、その部屋に「いる」。
 「見えないけれど、お母さんはここにいる。ほら、淋しくないでしょう」と子どもは自分に言い聞かせている。そういう「一人遊び」をするとき、子どもは「お母さん」になっているから、「子ども」は存在しない、つまり見えない。
 三連目の「見えない子どもとお母さんの/指は触れ合う」は「見えないお母さんと子どもの/指は触れ合う」だろうなあ。小石を拾い上げるとき、一緒に小石を拾ってくれた「お母さん」の指が実感できる。
 「はず」というのは、そう信じて、子どもが一人遊びをするということだろう。

 「小石の指」というのは奇妙なタイトルだが、小石を拾うとき、そこに「指」が実感できるということだろう。お母さんの指が。「小石」は「小石」でありながら、「小石」ではなく「お母さんの指」。この瞬間にも、入れ替わりがある。
 「ことば」というものは「もの」に名前を与える。名前をつけることで、「もの」と自分との関係を明確にするという働きをするものだけれど、ときどき、逆のことも起きるのかもしれない。「名前をつける」という力が、「名前(ことば)」と「わたし」を入れ替えてしまう。「名前」をつけたはずなのに、逆に、自分が「名前」をつけられてしまうと言えばいいのだろうか。

 こういう錯覚の瞬間、「誤読」が動き始める瞬間が、私は好きだなあ。こういう「誤読」を誘ってくれることばが好きだなあ。


ヒムル、割れた野原
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思潮社


*


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トランプ完勝(情報の読み方)

2017-11-07 09:20:31 | 自民党憲法改正草案を読む
トランプ完勝(情報の読み方)
            自民党憲法改正草案を読む/番外145(情報の読み方)

 2017年11月07日の読売新聞(西部版・14版)の1面。

日米 北へ最大限圧力/首脳会談 首相 追加制裁表明
   トランプ氏 貿易赤字改善求める

 「日米 北へ最大限圧力」というのは、ごくあたりまえの「認識」だと思う。でも、このことばからは「実質」がどういうものか、さっぱりわからない。
 問題は、安倍とトランプの姿勢。
 安倍は、トランプとの会談の前は「追加制裁」のような生ぬるい方法ではだめだ。対話ではだめだ、と言っていなかったか。明確に「対話ではだめ」とは言っていないが、別の「圧力」のかけ方を狙っていたはずである。別の「圧力」をかけることで事態を打開したいと思っていたはずである。それは、

 会談では「あらゆる選択肢はテーブルの上にある」とのトランプ政権の姿勢を改めて評価し、7日に新たな独自制裁を閣議了解することを伝えた。

 という文章からもうかがうことができる。「あらゆる選択肢」のなかには「軍事行動」が含まれているはずである。
 ところが、この「軍事行動」は、さすがに「確約」をとることができなかった。宣戦布告になるからだが。
「共同軍事行動」がとれないので、安倍は、かわりに「追加制裁」をとることにした。北朝鮮に対する「資産凍結」である。
 「資産凍結」とは「経済制裁」であって、「軍事制裁」ではない。そして、この「経済制裁」というのは、「経済制裁」をする過程で「対話(交渉)」をするということでもある。
 「最大限圧力」ということばは勇ましいが、実際は、そういうことしかできない。それが「国際政治」というものだろう。
 安倍は、トランプから「軍事制裁」の確約は取れなかった上に、別の要求を突きつけられている。
 「貿易赤字改善求める」は抽象的である。北朝鮮情勢と関係づけると、具体的には、こういうことである。

 トランプ氏は記者会見で「米国の防衛装備品は世界でトップクラスだ。購入によって米国の雇用創出も期待できる」と述べ、米国からの装備品購入促進を求めた。首相は新型迎撃ミサイル「SM3ブロック2A」などの米国からの購入を続ける考えを示した。

 トランプは、日本に防衛備品(武器だね)を買わせ、それによって北朝鮮への「軍事的圧力」とする、ということを狙っている。アメリカが北朝鮮に対する軍備を増強するのではなく、日本に軍備を増強させる。そうすれば、アメリカの軍事的負担は減る上に、アメリカ経済も潤う。「米国の雇用創出も期待できる」と明確に述べている。
 安倍は、迎撃ミサイルを買う、と言わせられている。
 このトランプの発言が「記者会見」でおこなわれたというのが、この日の一番の「みどころ」だね。
 トランプは、閉ざされた「首脳会談」の中だけで、安倍から「武器を買う」という確約を引き出したのではなく、「記者」という「第三者」がいる前で確約を引き出した。そんな確約はしていないと、嘘をつくことが常態化している安倍でも、「武器を買うといったことは一度もない」とは言えなくなる。
 さらにトランプは、ここで「米国の雇用創出も期待できる」と、わざわざ「経済効果」に言及している。これはアメリカ国内にいる「労働者」に対するリップサービスのようなものである。あるいはアメリカの労働者をまきこんで、安倍に武器を買わせる運動をしているとも言える。もちろん、アメリカの武器産業の資本家への、「ほら、確約をとったぞ」というPRでもある。
 さすがビジネスマン。
 トランプは、こういう「情報操作」と「実」をとる方法がうまい。安倍は、ここでも金をむしりとられている。プーチンとの日露会談と同じである。何の見返りもない。金を払わされるだけである。
 さらに2面には、

貿易は平行線/トランプ氏、市場開放迫る/FTA議論なし

 という見出しの記事の最後に、こう書いてある。

米国は来年秋に中間選挙があり、「それまでに必ずFTA交渉を要求してくる」(経済官庁の幹部)との見方は少なくない。

 「見方は少なくない」どころか、そう書かざるを得ないのは、すでにその要求がおこなわれ続けているということである。「FTA議論なし」はトランプが要求したが、安倍にはそれに応じる用意がなかったということ。
 つまり、準備が、完全に不完全だったのだ。
 安倍は、トランプとの会談で、北朝鮮への「軍事的圧力で一致」ということを狙っていた。それしか念頭になかった。トランプは「タカ派」だから必ず一致できると思い込んでいた。
 ところがトランプは、安倍の「タカ派」気質を利用して、まず「軍備」を売り込むことに成功した。実に簡単に買うことを約束させた。次はFTA交渉に応じないなら、日本の防衛に関して協力なんかしないぞ、と言ってくるだろうなあ。もっと武器を買って、自分で日本を守れと言ってくるだろう。ふつうの貿易で「対等」になれないなら、武器を売ることで赤字を解消し、米国の雇用も改善する。そういう作戦である。来年秋の「中間選挙」を控えているから、トランプは必死である。衆院選で「大勝」して、気が緩んでいる安倍とは、心構えが違う。
 安倍の完敗である。私は安倍支持派ではなく、「安倍は辞めろ」と叫んでいる人間だが、この完敗は情けない。プーチンに完敗した経験から何も学んでいない。政治家失格である。

 1面には、もうひとつ気になる記事がある。

「拉致被害者 愛する人のもとに」/トランプ氏 家族ら17人と面会

 拉致被害者の家族とトランプが面会した。面会後、トランプは「被害者が愛する人のもとにもどれるよう、安倍首相と力をあわせていきたい」と述べた。

 冷たいいい方になるかもしれないが、被害者と面会すれば、トランプでなくてもそれくらいの「リップサービス」はする。拉致被害者のひとのことなんか知りませんと言うはずがない。
 問題はトランプがどう言ったかではない。
 安倍がどう言ったかである。安倍がこれまで何をしてきたかである。だいたい日本人の被害者を救い出すのに、なぜトランプが出てこないといけないのだ。安倍には被害者を救出する「手だて」が何もないということだ。
 あるいは、何もする気がないということでもある。
 トランプに「力を合わせたい」と言わせたので、もし、救出できなくても、それは安倍だけの責任ではない。トランプも何もしなかったと、安倍は言いたいのだ。「免罪符」にしたいのだ。
 被害者救出など考えてもいない安倍のために、みえすいた「アリバイづくり」のために、トランプと面会させられる被害者家族がかわいそうである。
 被害者家族は、もっと安倍の責任を追及すべきである。「救出してくれ」と頼んでいる人を、「救出への具体的行動を起こさないのはむごい」と批判することはむずかしいかもしれない。しかし、安倍には、その批判を受けながら、救出する責任がある。「責任者」というものは、そういうものである。安倍は、批判者を拒絶し、称賛してくれる人だけをまわりに集めて、そのひとの要求に応えることは得意だが、それは「政治」ではないだろう。「政治家」の仕事ではないだろう。批判するひとに対しても、その人のために働かなければならない。


#安倍を許さない #安倍独裁 #沈黙作戦 #憲法改正 #天皇生前退位
 
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トランプの目的(情報の読み方)

2017-11-06 17:06:51 | 自民党憲法改正草案を読む
トランプの目的
自民党憲法改正草案を読む/番外144(情報の読み方)

 2017年11月06日の読売新聞夕刊(西部版、3版・4版)のトランプ、安倍会談の見出しが興味深い。

3版 日米主導で対北圧力/午後に首脳会談 確認/トランプ氏 FTAに意欲

4版 「日米貿易 公正でない」/トランプ氏 FTAに意欲/経営者会会合
(別見出しで)主脳会談 対北圧力確認へ

 見出しの主力が「対北圧力(北朝鮮問題)」から「日米貿易(FTA)」に変化している。

 朝日新聞、毎日新聞は最終版(4版)で、どう書いているか。

朝日 対日貿易「公平でない」/トランプ氏 経営者らに演説/午後 日米首脳会談
毎日 「日本の貿易は不公正」/トランプ氏 車参入障壁指摘

 どうしてだろう。
 首脳会談が始まっていない段階での紙面なので、実際におこなわれた経営者会合のほうに重点が置かれているという見方もできるが、それだけではないだろう。

 トランプの目的が、「北の脅威」をどうするかではないということだ。安倍は「北朝鮮の脅威」をあおっているが、アメリカはそんなに脅威と感じていない。北朝鮮がICBMを完成させたとしても、すぐにアメリカ本土を攻撃するわけではない。攻撃されても、すぐに反撃できる。戦争がほんとうに始まれば、戦場は朝鮮半島と日本。米国本土へ北朝鮮の部隊が上陸するということはありえない。だから気にしていないのだ。
 トランプが貿易というか「経済問題」のために訪日したことは4面を読むともっとわかりやすい。

トランプ氏「車、米国で生産を」/対日貿易 経営者会合で注文

 その見出しの記事中に、こんな文書。

 北朝鮮情勢が緊迫する中で、赤字を減らす手段として、「安倍首相は米国製の装備品を注文すべきだ」とも求めた。

 北朝鮮が気になるなら、アメリカから軍備を買って、自前で頑張れというのである。武器を売ることに関しては積極的に協力する、という意味である。武器が売れれば対日貿易赤字が減る、だから、買え。

 安倍が「アベノミクス」と連呼しているように、トランプも「経済優先」なのである。
 安倍は、昨年の日ロ会談で大失敗をしている。経済協力の約束をさせられただけで北方領土は進展なし。金出せ出せば、人が動くと思っているところが基本的な間違い。
 今度も大失敗だろう。経済問題で押し切られる。「北朝鮮の脅威」に共同歩調という「ことば」だけ与えられて、実際は何の実体も得られない。
 北朝鮮問題では、だいたい韓国が米国と協力するが、日本とは共同歩調をとらないと言っている。アメリカだって、主力は「朝鮮半島」をどうするかであって、日本はその次。
 トランプがこのあと中国へ行くのも、「経済問題」を話し合うためだろう。もちろん北朝鮮問題も話し合うだろうが、そこでは「戦争」の話になるはずがない。

 安倍は経済センスもなければ、外交センスもない。そのことだけが目立つ。
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北川透「「佃渡しで」を読む」

2017-11-06 00:53:02 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「「佃渡しで」を読む」(「KYO」12・13、2017年11月01日発行)

 北川透「「佃渡しで」を読む」は連載評論「吉本隆明の詩と思想」12回目の「第七章」の一部である。その一部についてだけ取り上げるのは不親切な感想ということになるが、どうしても書きたいので書いておく。
 北川は詩を引用している。それをそのまま「再引用」しておく。

佃渡しで娘がいつた
〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまつて揺れてるのがみえるだろう
ずつと昔からそうだつた
〈これからは娘には聴こえぬ胸のなかでいう〉
水は●くてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねつているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ掘割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてとりに行つた
そして沼泥に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいつた
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞つていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちよつとした砦のような感じで
夢のなかで掘割はいつでもあらわれる
橋という橋は何のためにあつたか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみを流すためにあつた

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいつてしまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いつさんに通りすぎる
                  (谷内注・●は「黒」ヘンに「玄」のつくり)

 北川の書いている文章で、私が疑問に思ったのは、次の部分。

《佃渡しで娘がいつた》が第一連、第二連と二度繰り返され、第三連目も省略されているが、                              (19ページ)

わたしの読みは「佃渡しで」第三連にまで到達したが、すでに初めに触れているように、この連の冒頭では、《佃渡しで娘がいつた》の一行が省略されている。(23ページ)

 そうなのだろうか。
 第一連と第二連は確かに「佃渡しで娘がいつた」ということばのあとに〈 〉があって、そこには娘のことばが書かれているが、だからといって第三連目もそうだといえるのか。
 私は第三連目の前には、

佃渡しでわたしはいつた

 が省略されていると思う。
 第一連、第二連は娘のことばに誘い出されるようにして「わたし」のことばが書かれている。その「わたしのことば」には二種類ある。娘に聴こえるようにいうことばと、娘に聴こえないように胸のなかでいうことば。
 しかし、この二種類は、とても複雑な書き方(レトリック)で書かれている。
 娘のことばについては〈 〉で書かれている部分は娘が声に出したものだと推測できる。けれど、〈 〉でくくられている部分が「声」に出されたことば(聴こえることば)とは言えない。〈 〉でくくられていても、声に出されなかったものがある。

〈これからは娘には聴こえぬ胸のなかでいう〉

 この一行は、声に出されたものではない。そんなことを「声」に出せば、娘が変な顔をして「わたし」をみつめるだろう。このとき、では、「わたし」は誰に対して、そのことばを言っているのか。
 読者か。そうかもしれない。そのとき「わたし」はどういう人間を「読者」として想定しているのか。昔/むかし(過去)という「時間」を知っているひとだろう。一連目では、「昔」は「そうだった」のあと、「住んでいた」「とりに行つた」「泳いだ」という過去形で書かれている。「過去形」にふれて、「むかし」をすぐに思い浮かべるのは、「むかし」を知っているひとだけである。娘はおそらく「住んでいた」「とりに行つた」「泳いだ」ということばを聞いても「普遍(常態/状態)」としてしか想像できないだろう。「揺れているのがみえる」と同じように、「住んでいた」ではなく「住んでいる」「とりに行く」「泳ぐ(泳いでいる)」という「わたし」の「いま」の姿を想像し、自分自身の姿をそれに重ねるだけだろう。「そうであった」を「そうである」という具合に反復する。「動詞」を「肉体」で「現在」において反復するのであって、「過去」を思い浮かべたりはしない。「いま」と切り離しては考えない。
 二連目では「むかし」と同時に「それはいた」「舞つていた」という「過去形」がつかわれる。
 この二連目の「動詞」が、私の読み方から見ると、とてもおもしろい。一連目とはまったく違う「動詞」である。一連目では主語が「わたし(あるいは人間)」なのに、二連目では主語が「鳥」にかわっている。「鳥」の「動詞」をそのまま「人間(娘)」は自分の肉体では反芻できない。確かめることはできない。「想像」するだけである。「実感/体験」ではなく、「想像」しなければつかみ取れないものがここに書かれている。同じことを書いているようであっても、一連目と二連目では書かれている「過去/時間」の性質が違っている。「昔からそうだった」ものを少し違った形でとらえている。かもめや鳶が目の前にいるので、一連目で汚れた佃の渡しを見ていると同じことを書いているように感じられるが、少し違う。
 その微妙な(あるいは、とても大きな)変化のせいだろうか、一連目そっくりのことばが実は違っている。

〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉

 一連目にはなかった「さき」ということばが書き加えられている。「さき」はなくても「意味」は同じである。でも吉本は「さき」と書かずにはいられなかった。
 反復なのに、ただの反復ではなく、別なものが入ってくるのである。
 「何のためにあつたか」「悲しみ」を「流すためにあつた」。これは、頭と感情でつかみとる世界である。「欄干に」「身をのりだす」ということは「肉体」で確かめることはできるが、「悲しみ」を「流すためにあつた」というのは、ことばでしか追体験できないものである。つまり、これは「思想」である。「思想」になった人間の形である。
 「人間の肉体」ではなく「鳥の肉体」が二連目でまぎれこむ。それは人間の「肉体」そのものでつかみとるものではなく、「想像力」でつかみとるものである。それと同じように、「むかし」の「わたし」、言い換えると「少年」が出てくるにもかかわらず、その「少年」を「追体験」することは、いまの「娘」にはできない。「娘」がそこに書かれている「思想」を「追体験」できるは、「娘」が「悲しみ」を体験し、橋の上から流れていく川の水を見るということを自分の「肉体」で体験したあとである。橋の上から川の水の流れを見て、「悲しみを流したい」と思ったことがあるひとだけが、この二連目を理解できる。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」というのはほとんどの読者にとって「常識」になっている。そのため、「悲しみを水に流す」というようなことも、知らず知らずに体験している。だから、ここに書かれていることが「思想」だというと変に聴こえるかもしれないが、それは「娘(幼い人間)」にはわからない世界である。

 「体験できるもの」から「想像しないとわからないもの」へと世界が変化したあとで展開する世界(三連目)は、一連目、二連目とはまったく違った世界である。
 ある世界を体験した人間、時間を生きてきた人間にとって、いまある世界はどう見えるか。
 「見る/見える」は一連目にも出きた。
 「揺れているのがみえる」。これは「現象」である。見えているのは「水」であり、「動き」である。
 ことろが三連目では

ちいさくみえる

 「ちいさく」は「水」や「揺れる」のように、だれにでも「同じ」にみえる「対象/現象」ではない。「心理」にとってそう見えるである。「視力」ではなく「認識力」によっては「小さく」みえる。
 こういうことは、直接的には言えない。
 だから、

あれが小学校 ちいさいだろう

 と「わたし」は娘に語りかける。その小学校は、娘がかよっている小学校よりも実際に小さいのだろう。でも、それは「建物」として現実に小さい以上に、「わたし」にはむかし通っていたときはそんなふうに「ちいさい」とは思わなかったけれど、いまみると「ちいさい」という変化の実感として語られている。現実と「想像/認識」が合体して「ちいさい」という感覚になっている。
 そういう、「認識論」のようなもをのを「娘」に語るというのはなかなかむずかしい。語っても、娘には理解できないだろう。
 こんなふうに詩のことば(詩の世界)が変化しているのだから、三連目の最初に

佃渡しで娘がいつた

 ということばが省略されていると考えるのは、すこし無理があるのではないだろうか。それは、三連目では

これからさきは娘に云えぬ

 と、それまで〈 〉に入っていたことばが、裸で登場するのも、この連が一連目、二連目とは違うことを書いている証拠になると思う。

これからさきは娘に云えぬ

 は〈 〉に入っていないだけではなく、「聴こえぬ/きこえぬ」もないし、「胸のなか」もない。「いう」は「云う」と書き換えられてもいる。
 「胸のなか」ではなく、「ことば」として、はっきり「わたし」は語りたいのだ。読者に対して。
 何をいいたいのか。

すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる

 この三行がポイントだと私は感じる。
 「ちいさくみえる」ものとして最初に書かれていたのは「わたしが通っていた小学校」。その小学校のように「昔の街」は「ちいさくみえる」。子供にとっては大きな街がだ、大人になっていろいろいな街を見ると、子供時代は「世界そのもの」にみえた大きな街が実際に「ちいさい」ということに気づく。
 その気づき(認識の変化)は「距離」という物理的(客観的)なことばと同時に「思想」ということばで言いなおされている。「思想」の比喩として「距離」ということばがつかわれているのだと私は思う。
 「思想」と「距離」を結びつけられることばとして「道」ということばもつかわれている。「道」を「生きてきた」ということばでとらえなおすとき、それは「思想」そのものになる。「道」だから、そこには「距離」もある。ただし、その「距離」は客観的な数字では測ることのできないものだ。
 「ちいさく」みえる。「おおきく」みえる。それは「対象」そのものの「大きさ」というよりも、「認識する力」によって違う。何を認識するか、何に重点を置いてみるかによって「おおきさ」が違う。
 そんな感想を、吉本は「佃渡しで」持った、とういことを書いているのではないか。

 私は吉本の詩をほとんど読んでいないし、吉本の思想もよくわからない。ただ単純に「佃渡しで」を読んだときに、北川が書いているように、三連目の最初に

佃渡しで娘がいつた

 が省略されている、と読むことはむずかしい。



なぜ詩を書き続けるのか、と問われて
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夏目美知子「雨についての思索を一篇」

2017-11-05 09:10:18 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目美知子「雨についての思索を一篇」(「乾河」80、2017年10月01日発行)

 私がおもしろいと思うことばと、作者がおもしろいと思っている部分は違うかもしれない。
 夏目美知子「雨についての思索を一篇」。

目覚めた時、外はもう雨だった。そのうち止むだろうと
思っていたが、同じ強さで、いつまでもいつまでも降り
続いた。無表情な雨だ。一日が、閉ざされたように重く
暗く、「どうかしている…」と、独り言が出る。雨を詰
る。
それが、思いがけず、夕方遅く止んだ。止んだことに気
づいた時には、既に西日の最後の柔かな光が窓ガラスの
端に映っていた。そして夜になると、庇と庇の間にみず
みずしい満月さえ上がった。

ありふれた一日だが、取り残される構造が、堪える。何
かの反映かと。つまりそういうことなのだ。いつも空回
りに気づかないでいるだけなのだろう。

 「どうかしている…」と、雨を詰(なじ)る。すると、思いがけず、気づいた時には雨が止んでいる。その不思議な関係。これを私は「取り残された構造」と感じた。夏目は、そのことを「取り残された構造」と呼んでいるのだと思った。
 雨をなじった。その「なじり」を聞いて、いつのまにか雨が止んでいた。ふともらしたことばに相手が反応して、こたえるような感じ。はっきりした「関係」はわからない。すぐにではなく、「気がつけば」なのだから。「思いがけず/気づいた時」とは「いつの間にか」ということだろう。「間」がある。「間」とは「あいだ」であり「関係」だ。その「間」「関係」ははっきりとは定義できない。こういうとき「間(ま)」は「魔(ま)」かもしれない。ことばにできない。
 だから、妙に「堪える」。不思議な形で「肉体」に響いてくる。「関係ない」と思ってもいいのだが、「関係ある」と思うと、その「関係」をはっきりさせたくなる。
 「堪える」という動詞は、なかなか解釈がむずかしい。説明がしにくい。何かが働きかけてくる。それを持ちこたえる。受け止める。そこには耐える、とか、我慢する、ということもふくまれるかもしれない。それが転じて、こたえられない(気持ちがいい)になるかもしれない。(セックスなんかが最後の例だね。)
 こんな、あいまいな、反対の意味さえ含んでいるような「ことば」が、そのまま「なじる」、「反応がある」、というような「構造」となって、一日をつくっているように感じられる。
 なじっていた雨がやんだということに気づいたというよりも、なじったら雨がやんだであるかもしれない。そういう雨と私、対象と私の関係、つまり「構造」が、「堪える」。肉体に響いてくる。
 うーん、たまらない。これは、無意識のセックス。こういうところが、私はとても好き。でも、私が感じたことは「誤読」かもしれない。夏目は違うことを書きたいのかもしれない。

何時止むと決まった雨なら、
私はタイマーをかけておきたい。
そして出来るなら、その間に、
縺れてほどけない糸を、
はらりと、解きたい。

 「堪える」が「縺れる」「ほどける」(解く)という具合に「構造」として比喩化されている。私は、なんとなく「違う」と感じてしまう。
 途中に、

けれど、私はやはり悲しかった。
何者でもないのだと思って。

 という二行が出てくる。
 これを中心点にして、ことばの世界が「一転」していることになる。不透明な「肉体」が「感情」に整えられ、それが「比喩」という「抒情」にかわる。「昇華する」という言い方もある。夏目が狙っているのは、それかもしれない。けれど私は、「抒情」にならないまま、「あいまい」なまま、ことばが動いている方に魅力を感じる。

私のオリオントラ
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順序が逆

2017-11-05 07:56:38 | 自民党憲法改正草案を読む
順序が逆
            自民党憲法改正草案を読む/番外143(情報の読み方)

 2017年11月05日の読売新聞(西部版・14版)の1面。

朝鮮半島有事/邦人退避策 協議へ/首相 来日トランプ氏と

 という見出し。
 安倍は、戦争をはじめるみたいだ。戦争がしたくてたまらないらしい。戦争が始まると、だれも安倍を批判しなくなる。みんな死ぬのはいやだからね。殺されるのはいやだからね。戦争が始まっているのに、「戦争反対」とは言えなくなる。
 読売新聞によると、在韓邦人は6万人、在韓アメリカ人は20万人とある。米軍基地があるから日本人より多いのかもしれない。
 そこで気になるのが、邦人、アメリカ人の韓国からの脱出策。
 安倍は米軍艦船で日本人を救出するイラストを示して、戦争法の必要性を訴えたが、米軍にそういう余裕はある? アメリカ人より先に日本人を救出したら、アメリカ本国で問題になるだろうなあ。アメリカ人を退避させる米艦船を日本の自衛隊が援護する(守る)ということが優先的に求められるのではないか。(数の多い方を優先する、というのは、ほら「国会の質問時間」で自民党が打ち出した方針でしょ?)
 それよりも気になるのが、次の部分。

 日本政府は、釜山港などから日本までは、海上自衛隊の油送艦などでピストン輸送を行いたい考えだが、韓国は同国内での自衛隊の活動に否定的で、実現のメドは立っていない。

 北朝鮮と戦争したくてたまらないらしいが、戦争をするなら、それなりの準備が必要。まず、韓国との関係を改善し、いつでも協力できる体制にしておかないといけない。
 アメリカが日本を助けてくれると、安倍は簡単に信じきっているようだが、海の向こうの遠い国よりも、いちばん近い韓国と協力できなくて、どうやって戦争するつもりなのだろう。
 順序が逆だろう。
 まず韓国との関係を良好なものにし、何が起きても協力できるようにする。信頼関係が必要だ。信頼関係がゆるぎのないものになってから、戦争の準備をする。良好な関係ができないなら、戦争そのものをあきらめる。
 というか、戦争をおこさせないために何をするか、ということを考え、探し続けなければならないのだけれど。

 アメリカは、朝鮮半島と日本で戦争が起きているかぎりは、本国が攻撃されることがない(少ない)。ベトナム戦争や、かつての朝鮮での戦争を思い出すだけでいい。ほかの中東での戦争も思い浮かべてみよう。
 アメリカは世界戦略として「戦争」を考えている。「戦場」になる国のことなど考えはしない。そんな国の大統領と「邦人退避策」を協議すれば、「米人退避策」のために日本は何ができるか、と問われるだけだ。トランプはまず「米人退避策」を主張する。こんなことは、あたりまえだけれど。この「あたりまえ」のことが安倍にはわからない。自分中心にしか考えられない。
 アメリカに視点を移せば、

朝鮮半島有事/米人退避策 協議へ/大統領 訪日し、安倍首相と

 という見出しになるはずである。
 こういう簡単な論理を無視して、安倍の自己中心的な考えが、新聞にそのまま載っているということが、とてもおそろしい。
 トランプは日本だけを訪問するのではない。安倍とだけ会談するわけではない。トランプは「アジア」を訪問し、アメリカの「戦略」を説明するのである。アメリカが中心なのであって、日本はその戦略の一部。安倍がトランプと一緒に韓国、中国、ベトナム、フィリピンを訪問するわけではない。安倍は、「蚊帳の外」とまではいわないが、単なる「脇役」だ。
                   


#安倍を許さない #安倍独裁 #沈黙作戦 #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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林和清『去年マリエンバートで』

2017-11-04 10:54:53 | 詩集
林和清『去年マリエンバートで』(書肆侃侃房、2017年10月15日発行)

 林和清『去年マリエンドートで』は歌集。最近の、若い人の歌集とは少し違う。いや、かなり違うかなあ。

あけぼののやうやうしろき山際を見つつリビングに朝の茶を飲む

 巻頭の一首。「あけぼののやうやうしろき山際を」は「枕草子」を踏まえている。この「古典を踏まえたことば」という部分が、最近の短歌とは大きく異なる。
 どんなことばも、それぞれ「過去」を持っている。「過去」はことばの可能性を縛る。だから、「過去」を断ち切って、最近のひとはことばを動かすのだろう。もちろん、断ち切っても、断ち切っても、「過去」からことばはよみがえってくる。断ち切っているようで断ち切っていない。断ち切っていないのに断ち切ったつもりになっている。どんな世界で起きることだけれど。
 林は、こういうことに対して自覚があるのだろう。断ち切ったつもりが断ち切れていないなら、断ち切るのではなく逆に接続を強くする。そうすると、接続できないものが見えてくる。接続できないもの、といっても、ことばに接続できないものはない。どうしても接続してしまうのがことばなのだけれど。
 「リビング」くらいでは、単なる「名詞」の衝突。こういうことばは「やうやう」と同じように、アクセサリーになってしまう。
 などということを思いながら。
 「朝の茶」。うーん。これが、おもしろい。この「朝の茶」って、何? 緑茶? いわゆる日本茶? それともコーヒー? あるいはモーニング・コーヒーなんだけれど、ことばの数をあわせるために「朝の茶」と言ってみただけ? 「茶」だからコーヒーはありえない? そうかなあ。「あけぼののやうやうしろき」は、それでは、どう? 「現実」を「すでにあることば」で整えているだけであって、それは林の「オリジナル」ではない。つまり、そこには林はいても、それは林ではないということが起きている。そうであるなら、そこに「朝の茶」と書かれていても、それは「茶」ではないということが起きていてもいい。コーヒーなんだけれど、こういうときは「朝の茶」という方が世界が整う、という感じで。「リビング」に重きを置けばコーヒー、「あけぼの」に重きを置けば「茶」。さあ、どっちにする? 「事実」ではなく、ことばの問題だね。
 これは別な言い方をすると、「あけぼののやうやうしろき」と同じように、「茶」にも「出典」があるかも、ということ。そうすると、その「出典」の選択そのものが、世界の整え方、ということになるけれど。そして、その「出典」というのは、「無意識」ということもある。「あけぼののやうやうしろき」というのも、多くの日本人にとっては「意識」というより、「無意識」。「ことばの肉体」になっている。「註釈」がいらない。こういう「註釈」なしのことば、というのは私たちの「肉体」のなかにたくさんあって、それが「自然」に動いている。「自然」と「無意識」は同じ。
 で、この「自然」と「無意識」は同じというとろこから、「詩はわざと書くもの」、「意識的に書くもの」という「方法」もうまれる。「わざと」が「意識的」。
 ややこしいのは、この「わざと」には「あけぼののやうやうしろき」のように、ほとんど「無意識」のものもある。だれもがわかる「わざと」と言えばいいのか。
 そして私は、この「無意識」に近い「わざと」が好き。というか、「わざと」のなにか「無意識の肉体」が感じられることばが好きなのだ。「ことばに幅がある」「ことばに奥行きがある」と言ってもいいけれど。
 そういうものを、ひさびさに、短歌から感じた。
 そういうものを、林は「精神体」と呼んでいるようだけれど。

 読み始めたばかりなのだけれど、

母方の曽祖父母祖父母夜を来て月の屏風を踏み倒しゆく

浚渫船がずるずる引き摺り出してゐる東京の夜の運河の臓腑

木曽川長良川揖斐川とわたりつつ途中のひくい川の名をしらず

 というような歌が私は好きだ。「来て-踏み倒しゆく」「ずるずる引き摺り出して-臓腑」「ひくい-しらず」ということばの「連絡」に、「ことばの肉体」の「強さ」を感じる。この「連絡」は、一首のなかで他のことばにも「通路」をつくっている。それをどう読んだかを書いていくと、どこまで書いても終わらない「誤読」になるので、きょうは書かない。
去年マリエンバートで (現代歌人シリーズ18)
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軍事的措置の「主語」は?

2017-11-04 07:04:13 | 自民党憲法改正草案を読む
軍事的措置の「主語」は?
            自民党憲法改正草案を読む/番外142(情報の読み方)

 2017年11月04日の読売新聞(西部版・14版)の1面。

トランプ氏あす来日/対北有事 日韓と協議/米補佐官明言 危険性を共有

 という見出し。前文には、こう書いてある。

北朝鮮の核・ミサイル開発を巡り、米国のマクマスター国家安全保障担当大統領補佐官は2日、トランプ大統領が3日からのアジア初歴訪で「軍事措置の可能性について話さなければ無責任なことになる」と述べた。

 意味がよくわからない。
 「軍事的措置」の「主語」がわからない。
 名詞(軍事的措置)を動詞に書き直して(「軍事的措置をとる、軍事的制裁をくわえる」と書き直して)、その動詞の主語を探し当て、文章をとらえなおさないといけない。
 北朝鮮に対して、誰が(どの国が)「軍事的措置」を取るのか。韓国が? 日本が? 違うなあ。アメリカだろう。
 でも、なぜ?
 北朝鮮が韓国侵攻を企てている。日本への戦争を企てている。これも違うだろう。
 北朝鮮の核開発、ミサイル開発が進んで、アメリカ本土が「射程」に入ってきつつある。このことに対して、アメリカは「軍事的措置」を考えている、ということだろう。
 そのことを日本、韓国と「協議する」必要があるのはなぜか。
 アメリカが北朝鮮を「先制攻撃」する。北朝鮮の核開発施設、および核兵器を格納している施設を攻撃し、破壊する。「戦争」は、それだけでは終わらない。北朝鮮はきっと反撃する。「核弾道ミサイル」が破壊され、つかえなくなったとしても、反撃する。アメリカ本国を攻撃できないなら、近くにある米軍基地を攻撃する。韓国にある米軍基地、日本にある米軍基地を攻撃する。つまり、アメリカのしかけた戦争に韓国と日本がまきこまれる可能性がある。だから、「事前協議」をしておく必要がある。言い換えると、韓国と日本に対し「準備をしておけ」と言いにくるぞ、と言っている。

 これは、こんなふうに言いなおされている。これを読むと、かなり「内容」がわかる。

①北朝鮮による侵略の危険性
②軍事行動に伴い発生するかもしれない重大な犠牲
③北朝鮮の核・ミサイル開発阻止のために十分な努力をしないことの危険性
について、(マクマスターは)「共通の理解」を得る必要があるとした。

 ①は、主語、補語を明確にして書き直すと、「北朝鮮が核ミサイルをつかってアメリカを攻撃する可能性」である。「主語」は北朝鮮。
②は北朝鮮(①の主語)に対して、対抗措置として、アメリカが軍事行動を起こした場合、発生するかもしれない重大な犠牲。ここでの主語は「アメリカ」であり、「重大な犠牲」が発生する場所は、書かれていないが韓国と日本である。(北朝鮮については、敵国なので、「重大な犠牲」とは言わないだろう。)これは、韓国、日本を「犠牲にしてでも」、アメリカはアメリカ本土を守る意思がある、ということ。
③は、だから、日本と韓国に対して、北朝鮮が核ミサイルを開発することをやめるようにするために、どんな「努力」をするのか、明言しろ、ということ。戦争になれば、犠牲になるのは韓国と日本。犠牲になりたくなかったら、何かしろ。何をするか、はっきり言えというのである。

 ③は、簡単に言えば、防衛のためにもっとアメリカから「軍備」を買え、ということだろう。そうすれば「犠牲」は、ある程度は少なくできる。
 「日韓と協議」とは「日韓」と「武器売りつけ」に関する協議をするということだろう。これだけ買えば、これだけ安全が高まる、という「説明」をし、武器を売りつけるということだろう。
 インタビューの「要旨」(7面)を読むと、このことがさらに鮮明になる。

安倍首相は日本の防衛力をいかに進化させるかについて明確な展望を持っており、米国は支援を惜しまない。弾道ミサイルが日本を飛び越えるようなことは容認できない。

 後半の「弾道ミサイルが日本を飛び越えるようなことは容認できない」は、安倍の「北朝鮮ミサイルが日本上空を通過した」という表現を借用したものだろう。安倍の言い分を借用しながら、北朝鮮の危険性を訴える(安倍の説を正しいと肯定する)つもりなのだろう。
 でも、注意深く読んでみよう。マクマスターは、

北朝鮮ミサイルが日本を攻撃することは容認できない

 とは言っていない。「飛び越えるようなことは容認できない」と言っている。言い換えると「日本を飛び越えずに、日本に落とすことは容認できる」でもある。日本を飛び越えて「アメリカを攻撃すること」は容認できないと言っているのだ。
 そういうことが起きないようにするために、韓国と日本に米軍基地をつくっている。韓国、日本という、北朝鮮に近い場所に米軍基地をつくり、そこからいつでも北朝鮮を攻撃するぞ、と言っているのである。
 前半は、安倍首相は、日本の防衛力を進化させるために、「何をアメリカから買うべきか」ということについて明確な展望を持っている、ということであり、その展望を支持するということは、それに必要な武器を必ず売る。けっして売り惜しみはしない、ということである。
 「明確な展望」に「憲法改正」を含めるひとがいるかもしれないが、憲法改正を「有事」は待っていてくれるとは限らない。それよりも「武器を買え」だろう。

 アメリカは、北朝鮮危機をあおりながら、「日本に武器を買え」という交渉をしにくる。日韓が武装を強化しつづければ、北朝鮮はアメリカではなく日韓に目を向ける。そうすれば、アメリカが攻撃される危険性は減る。
 外交とは、言い換えると、戦争をしないで、どうやって金をもうけるか、という交渉が基本だろう。「戦争」を前面に出すと問題が多いので、「平和を守り続けるために」と言うけれど、いまやっていることは「金もうけ」ばかり。金がもうかれば、それでいい、金を多くもうけるのが「正しい」という資本主義がのさばっている。金もうけのために、「戦争の聴き」さえ利用しようとしている。安倍が衆院選で利用したものを、トランプがさらに利用しようとしている。
 金をばらまくことで、相手の歓心を買う(気に入られるために金を惜しまない)ことが大好きな安倍は、トランプとの「協議」のあと、アメリカからどういう「軍備」を買うのか。きっと、膨大な「支出」が約束されるのだろう。
                    


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たなかあきみつ『アンフォルム群』

2017-11-03 09:00:37 | 詩集
たなかあきみつ『アンフォルム群』(七月堂、2017年09月30日発行)

 たなかあきみつ『アンフォルム群』の作品群は、「息が長い」文体で書かれている。
 [振りかざすナイフの刃に似た鳥の風切り羽(レミージュ)……] は二部構成。前半の「Ⅰ 濃霧のプラグを引き抜いて」の一連目。

振りかざすナイフの刃に似た鳥の風切り羽(レミージュ)……
吊す鉤がやおら褪色し文字通り血潮が色褪せる死の鋸の目立て
Arz.氏の友人たる元高校教師の夫の死亡証明書を
簡易書留で郵送したいと郵便局の窓口で思わず首を振りつつ申し立てる
彼女の右に左に首の振りようはこの一年でますます激しくなった

 「息が長い」というよりも、「息が余っている」のかもしれない。「息」が余っていて、「声」になってしまう。「ことば」になってしまう。「ことば」が多くなってしまう。--というのは、しかし、私の「誤読」だろう。田中は「多く」を書きたい、ことばにしたいのだろう。私はときどき、その「多さ」に混乱するが、「多い」ことが田中のリズムなのだから、ここでつまずいていたら田中の詩の中へは入っていけないかもしれない。と、思うけれど。
 でも、やっぱり気になる。

吊す鉤がやおら褪色し文字通り血潮が色褪せる死の鋸の目立て

 この行の「褪色し」と「色褪せる」は、かなりしつこい。違う存在の中にある、同じ「動詞」を繰り返すことで、「動詞」そのものの中へ入っていくというのなら、こういう書き方があってもいいかもしれないと思うけれど。「やおら」と「文字通り」も、次のことばを待ちきれずに「息」が「声(ことば)」になってしまった感じがする。「褪色し」と「色褪せる」というのは、新しいことばを待ちきれずに、ついつい動いてしまう「喉」があるからなのだろう。
 「息は長い」、けれど「気は短い」。
 慣れてくると(?)、これはこれで「快感」だけれど、慣れるまでがなかなかたいへんである。私なんかは、ついつい、よそ見をしてしまう。

簡易書留で郵送したいと郵便局の窓口で

 この部分など、目がちらちらして「郵送したい」と言っている「主語」の存在を忘れてしまいそうになる。そのあとに、

                  思わず首を振りつつ申し立てる

で、あ、「主語」がいたんだ思い出し、思い出した瞬間に、「首を振りつつ」と「申し立てる」のふたつの「動詞」でまた集中力がなくなってしまう。
 私のような老人には、かなりつらい文体である。

 私が好きなのは[とある美術館の、人工皮革の黒いソファーたち……]の一連目のような文体。

とある美術館の、人工皮革の黒いソファーたち、
館内のソファーはその時たまたま全部空席で
若干の体躯の凹みのあるソファーもあれば《時間のロープ》上の
アイマスクの定位置から、欠伸のようにずれたソファーもある

 「ソファー」の繰り返しが、溢れ出ることばを、溢れ出させながら引き止めている。そして、その「係留」のなかに「時間のロープ」とか「欠伸」という「抽象」と「具象」がまじりあったことばが動く。「欠伸のようにずれた」という比喩は、誰も座っていなソファー、「空席のソファー」を「肉体の直喩」にかえてしまう。ソファーと肉体が、その瞬間、入れ替わってしまう。
 [新型コロナウィルスの電子顕微鏡写真が放映されるたびに……]の、

《乗合バス》というフレーズを耳にしなくなって久しいその秘文字
はセピア色の柿の木坂の絵葉書にインクの染みのように滲んでいる

 「乗合バス」と「柿の木坂」の呼吸の仕方もいいなあ。「息の長さ」がとても効果的だと思う。でも、これは私が年寄りだからかもしれない。若い人は、こんなことばに「和音」を感じることはないかもしない。
 詩集には、「外国語」の音もたくさん出てくる。私は耳に聞いたことがないことばは苦手だ。自分で「声」に出せないことばは、意味がつかめない。詩は意味ではないとは思うが、それも私はつらく感じてしまう。
 たなかの「翻訳」を読んでいるときは、これは翻訳なのだと思うから(もとは外国の音なのだと思うから)、聞き取れなくても「耳をそばだてる」(耳に神経を集中する)ときの昂奮があるが、日本語なのに(翻訳ではないのに)という意識が動くと、どうもつらくなる。
 [ともすればスクラップ・アンド……]の、

ともすればスクラップ・アンド
スクロール・アンド
スキャン・アンド
眼球・アンド
ゴーグルよ眼光・アンド
眼精疲労にして眼帯・アンド

 こういう展開は、とても気持ちがいいが、これも私はここに書かれている「カタカナ」を自分で言ったことがあるからだなあ、と思う。
 「眼球」から始まり、「ゴーグル」を経由して「眼光」「眼精」「眼帯」とつづくと、「ゴーグル」という「音」に「眼」という「文字」をあてはめたくなる。「眼」と聞こえたような気がする。
 詩集のなかでは、この行の展開がいちばん私の好きな部分。
ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
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ふらんす堂


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カニエ・ナハ『IC』

2017-11-02 12:03:15 | 詩集
カニエ・ナハ『IC』(私家版、2017年10月22日発行)

 カニエ・ナハ『IC』はしかけに満ちている。タイトルは背表紙にしか書かれていない。本を開くとタイトルがない。と、思って読み進むと、途中で出てくる。装画の担当者の名前も途中で出てくる。あれっ、乱丁本? しかし、最後に「目次」があって、その目次の順に作品が並んでいるから、乱丁本ということではないのだろうなあ。

 あ、でも、これは「あとから」考えたこと。最初は、そうか「タイトル」を本の中には書かないのか、と思って読むだけである。本を開くといきなり、

命なき石の悲しさよければころがりまた止まるのみ 中原中也

 とあって、ふーん、この中也の短歌(?)に刺戟されて書いたのかと、ぼんやり思う。私は中也には関心がなくて、この一行も、よくわからない。
 最初、「命なき石の悲しさよ」と読んで、それにつづく「ければ」って何? あ、「命なき石のかなしさ/よければ」なのかと読み直す。どうも「リズム」があわない。だから中也に関心がもてないのかもしれない。
 「よければ」とわかったあとも、また悩んでしまう。「よければ」というのは「よしあし」の「よい」? それとも「避ける」? 私は「避ける」と読みたい。
 石に出会う。あ、この石は、と思い、引きつけられる。近づいていく。そうするとそこにあるだけの石が、ころっと転がる。転がっていって、離れてしまうとまた止まる。何かの昆虫みたいに。まるで「いのち」があるみたいに。
 こういうことって、経験したことない?
 私は、ある。それは「転がる」というほどのことではないかもしれないが。たとえば、川で「水切り遊び」をする。適当な石を探そうとする。そうすると、「ころっ」と転がるものがある。積み重なった石の「土台」が揺れて、それで転がるだけなのだが、それでも石は自分で動いたように見える。
 そういう「体験」があるので、「よければ」を「避ければ」という読んでしまう。
 私の体験は「避ければ」ではなく「近づけば」なのだけれど、「近づけば」そういうことが起きるのなら、「避ければ」でも同じことが起きそうだ。その石から離れようとする。その石を避けて歩こうとする。すると、石の方が歩く方向に転がって、そこで止まる。それだって、起きてかまわない。
 石が何かを求めている。もちろん、これは私が何かを求める気持ちがあって、それが石の偶然の動きを、石が何かを求めていると「誤読」するだけのことなのだけれど。
 あ、余分なことを書いたなあ。
 私は中也の詩に魅力を感じたことがないので、カニエはどんなふうに中也に向き合うのか、それについて行けるかなあ、と、
 まあ、不安になったんだね。
 不安なまま、ページをめくり始める。本を読むときは、たいてい不安だが、今回は特に「不安」が大きかった。だから、こんなふうにして、余分なことを書きながら、その不安の中に入っていくのをためらっているのだが。

 最初の作品。

私は私を降りるガラス窓の向こうの声をさえぎって雨

ここから矩形の水槽のガラスの三面が見えていて、二匹泳いでいるはずの金魚が、場所によって、四匹に見えたり六匹に見えたりする。ときに頭と頭が重なり合って、頭のない、ふたつの尾ひれをもったひとつの生きものになったりする。「気づかずに、偶然、あなたの前の席に座ってしまって、けれどしばらくあなたの声だと気づかなかったの。外国映画の日本語の吹き替えみたいに、別のひとの声のようだった。」

 最初の一行は、文字が少し大きい。タイトルなのか。あるいは短歌なのか。「五七五七七」と数えられるかどうかわからないが、「抒情」の形が短歌っぽい。音を整えれば、正式な(?)短歌になる「予感」のに満ちた一行だ。
 それにつづく散文は、「短歌」が生まれたときの「状況」を書いているのか。別のことばで、短歌の世界を言いなおしているのか。
 あるいは、「歌合」のようなことを短歌と散文でやっているのか。
 よくわからないが、ここでは「一」と同時に「二」が強く意識されている。ことばが「二」ある。
 その形式のなかで、散文の方は、さらに「二」になる。ある状況がある。しかし、その状況は「私」と「あなた」によって違うものになる。それを意識するとき、「私」はさらに「私」と「気づかなかった私」という「二」になる。
 この「分裂」はけれど単純な「算数」ではない。いや、「単純」だけれど、単純であるからめんどうくさい。どんな形にも変化することが簡単にできるのが「一」と「二」の関係である。「一」であると意識すると、必然的に「二」が生まれてくる。「意識する」という運動が「二」を誘い出す。「意識するもの」と「意識されるもの」。でも、その境界線は、いいかげんだ。「意識するもの」「意識されるもの」という区別自体、すぐに入れ替わる。どっちが「意識するもの」であったか、わからなくなる。
 そんなことが、水槽の三面、二匹の金魚、水槽の壁が鏡になって映し出す金魚の姿にあわせて書かれている。
 で、その「結論」は?
 あ、そんなものはないねえ。
 何か奇妙なもの、「結論」というか、「断定」できないことを、ただことばが動いたままに書いている。「ことば」には「いのち」があって、それが勝手に動いている。ただ勝手に動いているといっても、ある「決まり」のようなものがある。
 この詩集では「一」と「二」が常に意識されるということ。

 もうひとつ、引用してみる。

未明には無声映画の夢の中のことばが口を開きかけている

高速道路を走っている。どこかのインターチェンジで降りたいのだが、私はこれまでにいちども車の運転をしたことがなく、ひたすらにまっすぐ進むことしかできない。じきにガソリンがなくなるかもしれないし、そのまえに私が眠ってしまうかもしれない。車内にはたくさんの植物が積まれていて、水を求めている声が聞こえている。母が運転免許をとったばかりのころ、そのとき小学生だった私を乗せて、突然降り出した激しい雨に、ワイパーを動かすことができず、雨粒で視界がさえぎられていく。そのときの彼女と、いま高速道路を降りることができずにいる私は、同じくらいの年恰好で、私は映画を見るように、車の正面から雨粒にさえぎられているフロントガラスの向こうの私と母とを眺めている。彼らは口をぱくぱくさせてなにか訴えているのだが、その声を聴きとることができない。

 口を開くけれど声が出ない。これは夢のなかで経験すること。それと逆に口をぱくぱくさせているのが見えるけれど、そのことばが聞こえない。これは現実に経験することだが、夢のなかでももちろん経験するだろう。
 というようなことは、まあ、どうでもよくて。いや、どうでもよくないが。
 カニエの「一」と「二」は、「視覚」と「聴覚」という形で肉体が「一」になったり「二」になったりするんだなあ、と思う。
 ただ「視覚」だけで「二」が生まれるわけではない。「一」が複数になるわけではない。
 金魚の詩も、この詩も、最初は「視覚」から始まっている。けれど、それが知らずに「聴覚」の世界に広がり、「一」が立体的になる。
 で、こういう「交錯」に引き込まれていくと。
 あ、「IC」は「ICカード」のIC(集積回路)ではなく、「インターチェンジ」の略称のICか、と思えてくる。ひとつのICにつながる複数の道路。複数といっても、運転している人にはいま走っている道(一)から別の道(二)へ進路を変えること。けれど、変えてしまえば「道」は「道」そのもの、「一」でしかないのだけれど。
 そういうインターチェンジ構造を「詩」という「枠」のなかで再現しているんだな、とわかる。
 で、この視点から見直すと。

IC カニエ・ナハ

 というのが、本の真ん中辺り(前半よりだけれどね)に出てくる「意味」もわかる。ICを通って、カニエはほかの道へと進のだ。
 具体的に言うと。
 最初の高速道路(?)では、「短歌+散文(詩)」という形式が採用されていた。ICを通ったあとは、これが「短歌+行分け詩」になる。この分岐点(?)には、「二〇一七年八月」という表記がある。

外国の映画の中のなにもない地球にはじめて火が生まれた日

泳ぎに行ったね。
私は泳いでいなかったのだけど。
誰も泳がなかった。
泳がなかったから。
今日はすばらしい日でした。
その日(石の日)のために、
出来事が落とされ、
何も言わずに伝えた。

 長いので全部は引用しない。(この引用は書き出し部分)。
 うーん、何が書いてあるのかなあ。
 行わけで「詩」のスタイルのなのだが、これよりも最初に読んだ「散文」の方に私は詩を感じてしまう。凝縮した「ことば」の力を感じる。高速道路(直線)を降りて、スピードが落ちたという感じなのかなあ。
 こういうことは、感想にもならないかもしれないけれど。
 これがさらに進むと。
 縦書きの一行に、横書きの行変え詩という組み合わせになる。私のブログでは表記がむずかしいので、全部横書きだけれど。(実際の作品は、詩集で確かめてください。)そして、この分岐点には「二〇一七年九月一日」という表記がある。区分けが、前よりもこまかくなっている。高速道→大通り→一般道路(路地?)へと進む感じか。

どの穴も塞がなくては。あなたが石をゴヂ起こすので

降ることを切望して
使い果たされる
眠り
たくさんの
水を求める声を聞いて
母が
雨滴になって
何かを象徴している
声は水で覆われて
落ちて
終わりのない
残りの部分も
いま燃え尽きようと
している目だ
 
 これまで読んできたことばが、より短くなって動いている。「水」「声」「母」。なんとなく、あ、母親が死んだのか。そのことを書いているのか、という感じがしてくる。事実か、ことばの運動がひきよせた虚構か。(二番目の部分では、違う作品を引用した方が、ストーリーの説明はしやすかったのかもしれないが。)
 で、こうやって読んでくると、最初の「短歌+散文」がいちばん私には詩に近く感じられ、「詩(行分け、長い詩→短い詩)読み進むにしたがって、逆に「私小説」みたいに感じてしまう。
 これは、不思議だなあ。
 ことばは、どんなに短いものであっても、それを積み重ねていけば「詩」ではなく「散文」のようになってしまう。つまり、「意味/ストーリー」として受け止めてしまうようになるということなのか。
 これは、私だけが感じることなのか。
 よくわからない。

 さらにこの「詩集(?)」は、最後に「短歌(?)」だけになる。この短歌は「目次」にも含まれていない。

心臓で私はよく眠れ。光が悲しみ、部屋が病んでも

という最初の作品は一行のみ。次からは一ページに向かい合う形でふたつの作品。短歌と短歌が向き合っている、ととらえれば、それまでの作品と同じ「構造」になるが。

私は虫として在り途中から盛りになり水を傾ける

それぞれの底に設定されている小説。別の言葉で続ける

 「短歌+短歌」は路地というよりも、部屋の中に帰った感じかも。
 これは、あるいは、この詩集全体の「解説(自註)」なのかもしれないなあ。どんなことばも、向き合うと「小説」のようなものになる。「対話」がことばを逆に自立させる。それぞれが動いていくことをうながす。そこから「ストーリー」が自然に生まれる。

 私は、ことばを読むと、読んだままにすぐに感想を書いてしまうが、もっと時間をかけて、カニエのことばのなかを歩き回らないといけないのかもしれない。短い部分に触れるにしたがって、大股で歩いてしまった感じがするなあ。
 ICを「インターチェンジ」と読み替えた瞬間、仕掛けがわかってしまった気持ちになったのがよくないのだろうなあ。詩は「わかった」と思ったら読んだことにならないものなのだ。ひたすら「誤読」のなかをさまよわなければならないものなのだ。「誤読」二「誤読」を積み重ね、なんだかさっぱりわからないけれど、おもしろいという具合に読まないといけないものなのだ。



IC
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*


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国会会期(安倍が語らないこと)

2017-11-01 22:50:59 | 自民党憲法改正草案を読む
国会会期(安倍が語らないこと)
            自民党憲法改正草案を読む/番外140(情報の読み方)

 2017年11月01日の読売新聞夕刊(西部版・4版)の1面は非常におもしろい。

第4次安倍内閣 今夜発足/特別国会 来月9日まで

 という見出し。
 何がおもしろいかというと、国会の会期。もっぱら「8日まで」と噂されていた。なぜ8日までか。10日に加計学園獣医学部の新設認可が出る。そのことで安倍が再び追及されたら困る。だから認可が出る前に国会を閉会し、加計学園問題の追及を封じ込める。そうだれもが予測していた。
 おや、加計学園問題は追及されてもかまわない、という方針転換か。あるいは、加計学園獣医学部は「認可されない」ので、国会で追及されないということか。
 確かに、インターネットの一部で、安倍は加計を見限った。獣医学部は認可されないという「予測」を読んだ記憶があるが……。

 私は違うことを考えた。
 この直前の「情報の読み方(番外139)」に書いたが、2017年10月31日の読売新聞(西部版・14版)の記事を思い出した。

難民申請者の就労制限/偽装対策 一律許可を撤廃/法務省方針

 これが問題の1面の見出し(ニュース)だが、「1面トップ(特種?)」にしては、とても奇妙なのである。
 これは何を意味するのか。何度読み返してもわからない。私が一点注目したのは、「見出し」にはなかった「11月中にも」という部分である。もう一度引用しておく。

 就労目的の「偽装申請」が横行する日本の難民認定制度について、法務省は、申請6か月後から一律に日本で就労を許可する現在の運用を撤廃し、就労を大幅に制限する新たな運用を始める方針を決めた。早ければ11月中にも実施する。年間1万人を超す申請者の大半が就労できなくなるとみられ、急増する申請数の大幅な抑制が期待される。

 「11月中」に「実施する」。つまり「法律」が「法令」かわからないが、「11月中」に何かを変更しなければならない。国会で「可決」しなければならないことがあるのだ。
 これは逆に言うと、国会の会期が「8日まで」では、それが「可決」できない、ということである。
 何を、どんな法律を「可決」しなければならないのか。「成立」させなければならないのか。
 前文の中には書かれていなかったが、記事の中には「留学」「技能実習」ということばが何度か出てくる。「留学」しながら、「技能実習」しながら、実質的には「就労する」という新しいシステムを国が模索している。「難民」の就労を排除し、「留学(生)」「技能実習(者/生)」を「就労させる」システムを作ろうとしているということだろう。
 それを今月中(11月中)につくらないことには、不都合が生じる。
 どこで、どうして?

 ここからは、私の妄想だが、たとえばいま「建設現場」のほかに「介護現場」でも、外国からの「労働者」を受け入れる動きが進んでいる。「正規労働者」ではなく「技能実習生」として、技能を習得させながら、同時に働いてもらう。
 「技能を習得させる」というのは、まあ、名目だね。だいたい日本で「介護技術」を身につけたとして、それを帰国して実務に生かせるほど、「実習生の本国」では「介護問題(高齢者問題)」が深刻になっていないだろう。もし深刻なら、日本で「介護技術」を学ぶよりも先に、その国の政策として介護要因を育成するだろう。わざわざ日本語まで勉強する必要がない。
 だから。
 この「介護技術研修生」というのは、ほんとうは「低賃金の介護要員」なのである。日本の「搾取システム」なのである。「研修生」だから何年かわからないが、期限が終われば強制的に帰国させる。「研修生」が技術を取得し、そのまま日本で就労し続けるというわけではない。つまり、常に「低賃金の介護者」を外国から(東南アジアから?)補給し続けるシステムを作ろうとしているのだ。
 だれが?
 前回、ちらりと書いたのだが、たとえば福岡では麻生の関連会社というか、麻生絡みの会社がそういうことをしようとしている。「介護部門での技能研修者」を「介護現場」に斡旋する仕事をしようとしている。
 きっと麻生が、「国会会期が8日まででは、技術研修生を受け入れるための法律ができないじゃないか、どうするんだ」と安倍に迫ったのである。それに安倍は押し切られたのである。

 加計は、まあ、安倍の友人かもしれないが、麻生に比べると「重要性」が違うな。

 こんなことは、私の妄想。海外からの日本に来ているひとたち(そして労働している人たち)の現場も、それがどんな法律をもとに「運用」されているのかも知らないのだけれど、きっとこの国会期間中に「技能研修生/技能実習生」に関する「法律」ができる。なんとしても、それを成立させないといけない「事情」が、安倍の周辺にはあるのだ。
 それを実現するために「偽装難民」という問題まで引っぱりだしてきている。ほんとうの「情報」を隠すための、それこそ「偽装」工作だな。
 この特別国会で、どういう「法律」ができるか、あるいはどんな「法令」が11月中に発令されるか、それに注目したい。

 10月31日の読売新聞の「難民申請者の就労制限」は、その見出しだけではわからないが、「国会の会期は8日までではないぞ」ということを隠した「特種」だったのである。たぶん、だれも国会会期がもっと「長い」という「予測」をしていないので、それを見落とすことになったのだが。
 (どの新聞もそうかもしれないが、読売新聞には、こういう「小さな部分」での「特種」隠しがある。昨年の日露首脳会談の前の、ラブロフが経済協力は安倍が持ち出した、という2面に掲載されていた1段見出しの記事も同じ。ロシアが北方領土については無視する、ということが「予告」されていた。安倍が持ち出した問題だから、北方四島などかえす必要がない、とラブロフは事前に言ったのだ。岸田が、どこかで「交渉」を間違えたのだ。このことは、日露階段前に、ブログで指摘しておいた。新聞記事は、読み返すと、とてもおもしろい。)
                    


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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ダニエル・トンプソン監督「セザンヌと過ごした時間」(★★★)

2017-11-01 20:45:18 | 映画
監督 ダニエル・トンプソン 出演 ギヨーム・カネ、ギヨーム・ガリエンヌ

 私はピカソが大好きである。その次に好きなのがセザンヌ。三番目がマチス。
 セザンヌの生涯を私はまったく知らない。(ピカソについても、マチスについても知らないが。)
 この映画はゾラから見たセザンヌを描いている。こども時代からの友情と反発。当然、間に女がからんでもくる。ゾラは小説家として成功するが、セザンヌは名声を手に入れることができない。そればかりか、ゾラの「制作」という小説のなかで、みじめな画家として描かれる。そのことが二人の関係をとりかえしのつかないものにするのだが。
 というようなことは、別にして。
 あ、別でもないのかなあ。うーん、セザンヌというのは、こんなに我の強い人間だったのか。
 まあ、それはそれでいいんだけれど。

 この映画の収穫は、そういう人間描写よりも、エクス・アン・プロヴァンスの自然の美しさをとらえていること。ふたりが(仲間も参加するが)エクス・アン・プロヴァンスの野山を歩くと、そこにそのままセザンヌの描いた風景があらわれる。赤い土、水分の少ない木々のみどり、でも太陽に向き合う強いみどり。透明な光。あ、セザンヌの絵だ、と叫びそうになる。
 私は「芸術」の舞台には関心がないが、あっ、エクス・アン・プロヴァンスへ行きたいと思ってしまう。エクス・アン・プロヴァンス全体がセザンヌの絵なのだ。
 サント・ヴィクトワール山をみつめるシーンが途中で一瞬出てくる。このときはまだサント・ヴィクトワール山を描いていないが、セザンヌの絵といえばサント・ヴィクトワール山。それをちらっただけみせるところが、とても印象的だ。いつセザンヌがサント・ヴィクトワール山を描くところを映画にするんだろうとずーっと待っていたら、映画の終わりで、何枚ものサント・ヴィクトワール山が重なるようにあらわれる。
 思わず涙が流れる。セザンヌは十分な評価を受けないまま死んでいったが、他人の評価とは関係なく、ひたすらサント・ヴィクトワール山を描くことで、絵の構図と色との関係を追及したのだと思うと、「芸術家の理想の生き方」のように感じてしまう。
 映画のなかでポーズを取るモデルに向かって、「リンゴは動かない」と何度もいう。モデルが動いてしまうことに対して怒るのだが、この「リンゴは動かない」の「動かない」にはセザンヌの「哲学」があふれている、と私は思う。「動かない」を象徴するのがサント・ヴィクトワール山だ。セザンヌのふるさとの山だ。動かないものを求めている。動く必要のないものを求めている、と言えばいいのか。
 セザンヌといえば、構図と色だが。がっしりした構図と堅牢な色。
 その色について、やはりおもしろいことを言う。妻をモデルに描いているとき、動くことに対して「リンゴは動かない」と文句を言うだけでない。「色」が違う(いろが動いている)と文句を言う。きのうは美しかった肌の色が、きょうは青ざめている。セザンヌは動かない色を求めていたのだ。
 でも。
 サント・ヴィクトワール山の色は、季節によって違うね。動いているね。セザンヌは、何枚ものサント・ヴィクトワール山を描いているが「同じ色」のものはない。セザンヌは、この「色の変化」をどう感じていたのか。
 たぶん「変化」を描きながら、その「変化」の奥にある「不動」を探していたのだろう。これは、「見果てぬ夢」というか、かなえられない「到達点」かもしれない。
 でも、この「動かない色を求める」という意識がセザンヌの堅牢な色を産み出しているのだと思う。
 そしてこれは「動かない色」というのは、変な言い方になるが「動き出すことができる色」なのかもしれない。光が動く、感情が動く。そうすると、それにあわせて「色」のなかから別の色があらわれて動く。ちょうどエクス・アン・プロヴァンスの野山で、風が吹くと木々のみどりが変化し、風の匂いが変化するように、その絵を見た人の「感情」に触れて、動き出すことができる色。
 セザンヌの色は「堅牢」だが、その「堅牢」は、「色が生まれる力を持っている」という強さの別の言い方かもしれない。
 うーん、セザンヌ詣でをしたくなるぞ。

 でも、やっぱり、映画としては不満だなあ。
 何よりもセザンヌが絵を描くシーンが少なすぎる。カンバスの上で絵筆が動くシーンが少なすぎる。「色」がうまれてくる瞬間がパレットでしか描かれていない。筆の動きが描かれていない。
 これは「再現できなかった」ということなのだろうけれど。
 再現してみせたら再現してみせたで、「文句」がくるだろうけれど。私も、えっ、その描き方おかしいんじゃない、と苦情を言う方かもしれないけれど。
 セザンヌ好きには、ちょっと、評価に困る映画だった。
(KBCシネマ1、2017年11月01日)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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難民と移民

2017-11-01 10:08:53 | 自民党憲法改正草案を読む
難民と移民
            自民党憲法改正草案を読む/番外139(情報の読み方)

 2017年10月31日の読売新聞(西部版・14版)の1面の見出し。

難民申請者の就労制限/偽装対策 一律許可を撤廃/法務省方針

 という見出しがある。トップ記事である。
 記事は、こう書いてある。

 就労目的の「偽装申請」が横行する日本の難民認定制度について、法務省は、申請6か月後から一律に日本で就労を許可する現在の運用を撤廃し、就労を大幅に制限する新たな運用を始める方針を決めた。早ければ11月中にも実施する。年間1万人を超す申請者の大半が就労できなくなるとみられ、急増する申請数の大幅な抑制が期待される。

 「難民」とふれあう機会がないので、なんのことかよくわからないが、とても変。読んでいて、「この記事って何が言いたい?」と疑問だけが動き始める。
 日本に「難民」って何人いる? 何人、受け入れている?
 記事中に「難民申請者」と「認定数」のグラフがある。それによると16年には1万901人の申請があり、認められたのは28人。これは、ほとんど「難民」はいないということに等しい。
 そして、このグラフをもとに考えると1万800人以上が「不法就労」していたかもしれないことになる。
 でも、そういう「不法就労」が可能なのは、どうして?
 逆の方向から見ていくと、違う現実が見えるのではないか。
 日本の企業が「不法就労」させてでも、安い賃金で雇用できる人を求めている。「難民」が働いている職場では「安い賃金で働く人手が足りない」という状況がつづいているということだろう。高い賃金を払えば、日本の若者もそういう職場にくるだろうけれど、賃金が安いから就職しない。こまった企業が、安い労働者を求めて「難民」を雇用している。
 また他方に、「難民」を偽装してでも日本で働きたいという外国人が増えているということだろう。日本人にとっては「安い賃金」であっても、「難民」を装って日本にやってくる人にとってとは「高い賃金」である。需要と供給のバランスがとれている、ということだろう。
 で、疑問に思うのは。
 記事中にある「早ければ11月中にも実施する」。10月31日の新聞で、「早ければ11月中にも」って、どういうことだろう。もう日にちがない。なぜ、11月中?
 外国人就労の問題について考えたことがなかったのでわからないが、きっと「11月中」(あるいは12月)に外国人就労に関係する別の制度(法律)が動き始めるということだろう。
 いま日本には「留学」が「技能研修」というような名目で、いろいろな外国人が来ている。そのほとんどは「留学(何かを学ぶ)」「技能研修(技能を身につける)」ということを名目にしているが、実際は「労働力」として来ているのだと思う。「技能」を実践的に学びながら、同時に賃金も稼ぐ。「外国人労働者」の「主体」を、こちらの方に「力点」を移したいのだろう。
 「技能研修」「留学」というと聞こえはいいのだが。
 これを「裏側」から見れば、「技能を身につける」「学ぶ」が終わったら、日本から「追い出す」ということではないのか。そのまま日本に定住することを前提としていない制度ではないのか。
 言い換えると。
 何年間かで、常に「新しい技能研修者」に入れ替えることで、「技能研修社」の給料を抑制する。日本の賃金体系は、たいてい就労期間が長くなると賃金がアップする。「技能研修者」に長く働かれては、日本人労働者を雇うのとかわりはない。それでは困る。
 かつて「派遣」が問題化した。同じことが「外国人労働者」を対象におこなわれようとしている。「技能研修者」は「外国人派遣労働者」を言い換えたものにすぎない。

 で、難民問題にもどると。

 「難民」認定し、日本に定住することを認めてしまうと、この「賃金の安い外国人派遣労働者」のシステムが機能しなくなる。安い賃金で働いている「外国人(難民)」を国外に追放できなくなる。賃金がアップし、徐々に、企業が苦しくなる。そうなっては「外国人労働者」を雇う意味がなくなる。
 そうならないようにするために、つまり「外国人労働者」を次々に交代する形で受け入れながら「安い賃金体系」を守るということが狙いなのではないのか。
 「安い賃金で働き続ける外国人労働者」というシステムを維持するためには、「難民就労者」を増やしてはならない、と安倍政権が考えているということだろう。

 いま、いろんな職場で「人手不足」がつづいている。もちろん「安い賃金で働いてくれる労働者」が不足しているという意味である。介護とか建設現場とかでは「外国人(研修者)」が頼みのところもある。
 日本の少子化、高齢化を考えると、「留学生」「技能研修生」に頼らずに、「移民」を「労働者」として受け入れる、「定住させる」ということが必要なのではないのか。外国人を受け入れながら、日本の「労働人口」を維持する。労働力を維持する。そういう「共存」が必要なのだと思う。
 フランスのように「多民族国家」にならないかぎり、日本は滅んでしまうだろう。

 でも、日本はおそろしいくらいに「民族主義」の国である。人種差別の国である。そして、安倍が、その人種差別をあおっている。
 衆院選の安倍の最後の街頭演説は警官に守られながらの演説だったが、その「守られた場」に「北朝鮮殲滅」という横断幕が掲げられていた。自民党の支持者はそれを容認している。安倍も容認している。むしろ、その横断幕を推奨しているかもしれない。

 で、また「11月中にも」という部分にもどってみる。
 こういうことを考えるのは初めてなので、考えが右往左往して、一直線に「結論」という具合にはいかない。
 「11月中」あるいは「12月までに」、なんらかの新しいシステム(法律)ができる。それはきっと「留学」とか「技能研修者」と「低賃金職場」に関連する法律(システム)だろう。
 そして、こういう「システム」が動き出すということは、単に「留学生」「技能研修者」が日本に来やすくなる、働きやすくなるということを意味するだけではない。
 雇用する企業が直接「留学生」「技能研修者」と交渉し、受け入れるわけではないだろう。直接交渉する余裕は、企業にはない。どうしても、「斡旋する中間業者」が必要になる。「中間業者」がいないと、そのシステムはスムーズには動かない。「中間業者」とは、「派遣業者(中間マージン搾取業者)」なんだけれどね。
 ということは、これはもしかすると、そういう「派遣業」を始めるだれかのための法改正ということにはならないか。
 たとえば福岡では、麻生の関連会社が、そういうような仕事を始めようとしているが、この会社は、法改正がおこなわれれば動きやすくなるなあ。外国人を「技能研修者」としてどこかに「派遣(斡旋)」して中間マージンを、合法的に詐取できる。
 わざわざ、こんな、何のことかわからないような記事が載っているのは、もしかすると麻生が官僚に「ハッパ」をかけているのかもしれないなあ。
 こういう「システム」を維持しようとする人には、「難民」が増えてもらっては困るのだ。「難民」が日本に定住して、「安い労働力(やがて少しは上がるだろうが)」でいてもらっては困るのだ。

 日本経済の「グローバル化」は、「搾取システムのグローバル化」である。
 こんなことをやっていては、北朝鮮に核攻撃されるまえに、日本は内部から崩壊する。ほんとうの「危機」は日本の内部、自民党の政策から始まっている。
 日本を活性化するには、どんどん外国人を受け入れ、共存するしかないのだ。外国人と共存するシステムを作らないかぎり、日本社会は完全崩壊する。



                         


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