詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田康『エチュード 四肆舞』

2018-08-02 10:45:51 | 詩集
池田康『エチュード 四肆舞』(洪水企画、2018年07月30日発行)

 池田康『エチュード 四肆舞』の作品には番号だけがついている。個別のタイトルはない。

イヤホンコードのもつれをほどく間に
現代人の一生は終わる
曲と曲の間の
リズムの途切れる須臾

イヤホンコードのもつれの迷路は
二十一世紀の心をパズルにし
左右の耳はばらばら
違う言語を聞こうとする

 音楽(曲)と言語が「イヤホン」のなかで交錯する。それが簡単に「意味」に変わっていく。

どうしてイヤホンはもつれるのか
無意識の反映だ とフロイトは言うだろう
いい子じゃないから
とnobodyは言いたい

 私は、こういう「意味」へ向かって動くことば、しかも他人のことばが抱えている「意味」を利用して動くことばが好きになれない。「もつれをほどく」のなかには「もつれる」と「ほどく」という二つの動詞が出会っている。その出会いを「意味」ではなく「現実」として書かないと詩にはならないのではないか、と思う。

耳から怖い人が入ってきたら
ぼくはどこに隠れたらいいのか
毛布の下に身をひそませても
怖い人はやさしく毛布をたたく

 ここは、非論理的でおもしろい。「耳から入ってくる」のは「肉体」のなかへ入ってくるということだと思うが、毛布をたたくとき、その人は「肉体の外」。こういう「矛盾」が動いてしまうのが詩だ。「怖い」と「やさしい」は反対の概念だと思うが、反対のものがいっしょになって動く。
 怖い人が耳から入ってくるなら、それは怖い人を池田が待っているからだろう。
 でも、こういうことも「論理的」に書いてしまうと「意味」になってしまう。この作品の最終連は「意味」に閉じこめられている。

鳥は種を食べるのが好きだ
彼らは種が醸している時間を食べるのだろう
だから彼らは飛べるのだろう
鳥は種を探して飛ぶ

 「だから」は「論理」のことば。池田はいつも論理を探している。人の書かなかった論理を詩に書きたいのだと思う。
 でも私は「意味」ではないものを読みたい。








*

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エチュード四肆舞
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(25)

2018-08-02 09:47:42 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
25 女部屋のギリシア

みんな女部屋で育った 石屋も 皮革屋や 金鉱持ちも
火と 粉と 魚の匂う 日の差さない 女の領域で

 書き出しの二行を読みながら、ふと、「現実は」に出てきた「贅沢三昧」ということばを思い出した。「現実は」には貧しい古代ギリシアの食事(献立て)が出てきた。しかし、その献立ては「ことば」そのものを読むとき、とても「贅沢」である。「音」と「色彩」が豊かで生き生きしている。
 この「女部屋」についても同じことが言える。

母親っ子を卒業するため 老いた娼婦を呼び後ろから姦す
乳房の慕わしさの女部屋は 女陰のおぞましさの女部屋に

 否定的に語られるが、意味は否定的であっても、ことばそのものは肯定的である。こころは女部屋を離れない。ことばにすると、ことばが「ほんとう」となって動き始める。ことばが世界を「贅沢」に変える。贅沢とは「豊か」である。
 つまり「贅沢」の反対は「質素」ではなく「貧困」だ。男の「貧しさ」を「欠乏」と言い換えると、女と男の違いがはっきりする。
 「年老いた娼婦を呼び後ろから姦す」と高橋は書くが、現実は逆だ。

誰のせいでもない 男の下らぬ自尊心から出たことなのだが

 「自尊心」は「欠乏」そのものである。「自尊心」などに頼らなくても生きて行けるのが人間そのものの強さである。女の強さである。男は自尊心なしでは生きていけない。その自尊心を「下らぬ」と高橋は否定する。そのとき高橋は男を否定している。

 ここにとてもおもしろい「ことば」そのものの「肉体」がある。
 「下らぬ」ということばを引き受けても傷つかない強さが「ことば」そのものにある。ギリシアには、ことばがふんだんにある。ことばの贅沢をギリシアは生きている。そのギリシアの贅沢を高橋は引き継いでいる。
 いのちの集中力が、ことばをいくつにも分裂させ、同時に凝縮させる。そういう運動体としてのギリシアに高橋は向き合っている。

つい昨日のこと 私のギリシア
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長嶋南子『家があった』

2018-08-01 16:42:24 | 詩集
長嶋南子『家があった』(空とぶキリン社、2018年08月15日発行)

 長嶋南子にかぎらないが、おばさん(だと思う、会ったことがないので知らないが)の詩は、ことばが「テキトウ」である。「論理」を無視して「肉体」で動いていく。
 巻頭の「芹摘み」。

芹摘みをしていた
いつのまにか日暮れ
おばあさんになって
芹のごま汚しを食べている
汚してばかりいる
洗たくして食器を洗って
履歴書はきれいに書く必要はなくなった
戸籍は汚れていません

 「ごま汚し」は「汚す」ということばはつかっているが、汚れているわけではない。汚れたものは洗ってきれいにする。汚れるといっても、食べ終わった後の食器は汚れているとは言えないのだけれどね。ほら、最後の「汚れ」を舐めるように食べることもある。実際に舐めるひともいる。汚れているなら食べられない。
 というようなことは、あまり意味がない。いや、あるかもしれない。
 その「汚れ」は、反対のことば「きれい」を呼び出し、「履歴書はきれいに書く必要はなくなった/戸籍は汚れていません」と変化していく。
 このとき「汚れ」「きれい」「汚れていない」は、ことばは同じだけれど、まわりに引き連れている「世界(ことば)」は違っている。違う次元のことばを引き連れている。
 「それとこれとは違う、話をごちゃまぜにするな」
 男はときどきそういう具合にして、おばさん論理に立ち向かおうとするが、男の悪い癖だ。
 男は抽象的に「論理」を考え、「論理」そのもののなかで整合性をとろうとする。でもおばさんは違う。おばさんにとってはおばさんそのものが「論理」であって、ことばなんかどうでもいい。そんなものの整合性(一貫性)を問題にしなくたって、おばさんはおばさんとして一貫して生きている。いのちがつづいている。生きている以上の「一貫した論理」なんて、考えたって意味がない。

 私は最近、高橋睦郎の『つい昨日のこと』を読んでいるが、その高橋のことばと比較してみるとわかりやすい。高橋のことばはあくまでことばそのものの論理(整合性)を生きている。人間のそのときの都合で、意味を変えたりしない。だから高橋は英雄は芸術的に描けても庶民を描くことが苦手である。

 「履歴書はきれいに書く必要はなくなった」は、もう就職活動はしなくなった、ということだろう。「戸籍は汚れていません」は、「離婚はしていない」ということなのだろう。離婚を「戸籍を汚す」と言い換えるのは、「男の論理」なのだろうけれどね。で、その詩のつづき。

汚れは身体からいくらでも浮き出るので
陽にさらさす
布団たたきで
たたいてよ もっと ほら

 うーん。
 瞬間的に違う情景が見える。晴れた日に布団を干して、埃を追い出すように叩いているのではない。男に叩かれて、叩き返すのではなく「たたいてよ もっと ほら」と反論している女が見える。
 「たたく」ということばが、突然、違う次元にずれていく。
 ずれていくのだけれど、論理ではなく「現実(そこにある肉体)」の方が前に出てきて、「現実」の方を作り替えてしまう。
 「履歴書はきれいに書く必要はなくなった」は、かつては「履歴書はもっときれいに書かないとだめだよ」と注意されたというような現実を瞬間的にひっぱりだすのに似ている。ことばは、いま言いたいこととは別のことを瞬間的に動かしてしまうときがある。そういうものが「肉体」のなかに「時間」として残っているからだ。「ことば」そのものの論理よりも「肉体」のもっている「一貫性」の方が強いのだ。その強さをその瞬間瞬間、目の前にさらけだし、それで平気というのが、おばさんだね。男にはできない。

汚れ役はいぶし銀でなくっちゃ
好きだったなあ
いぶし銀だったあの男
つないでいた手を
途中で離してしまったけれど
芹のごま汚しはおいしいですか
女の子は汚れてはいけない
と母は言った

 芹のごま汚しは、母が教えてくれた料理なのだろう。母が教えてくれたことは、料理として、あるい「女の子は汚れてはいけない」ということばとして残っているのではない。長嶋の「肉体(いのち)」そのものとして引き継がれ、いま、ここにある。
 女にとって「断絶」とか「飛躍」というものは、ない。ただどこまでもどこまでもつづいていくいのち(肉体)があり、それがことばの「論理(整合性)」をねじまげる。ことばをねじまげることで、いのちを真っ直ぐにする。

 これは、男には、とってもむずかしい。

 谷川俊太郎でさえ「おばさん詩」を書いていない。女を主役にしていろいろな作品を書いているが「おばさん」はいない。高橋睦郎も「おばさん詩」は書けない。男のことばは、「論理」に縛られて、どこか貧弱だ。弱いものを抱えている。

 「家があった」はとても好きな詩だが、同人誌で読んだとき感想を書いたと思うので、違う作品に触れてみることにする。
 「感傷旅行」。笑ってはいけないのだろうけれど、私は笑ってしまった。百一歳になる母と旅行したときのことを書いている。

一族郎党二九人
金持ちは誰もいません
あたたかくなったら母は
帰らぬ旅に出るでしょう
縦縞もようの着物きせられて
一族郎党ゾロゾロ引き連れて
めでたし めでたし
それがね 母はどこへ行くのか忘れてしまって
「君恋し」をうたっています
誰が恋しいのでしょう
生きていればいいってことではありません
死ねばいいってことでもありません
一族がもっともっとつづけばいいということでもありません

 この旅行が最後、温かくなれば(春になれば)母は死ぬかもしれない。みんなそう思っているが、現実はそうはならなかった。母の死を望んでいるというわけではないが、ちょっと「予定」が狂ってしまった。「それがね 母はどこへ行くのか忘れてしまって」という一行が「認知症」を感じさせるところも、妙におかしい。おかしい、というのは「現実的」ということだね。
 長嶋の書く詩はどれもこれも「おかしい」が、それは「現実」だからだ。ことばと現実がわたりあっているのだ。ことばの論理(整合性)ではとらえられないはみ出したものをそのまま含んでいる。整理整頓できないものを、そのまままるごとほうり出している。









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高橋睦郎『つい昨日のこと』(24)

2018-08-01 09:41:05 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
24 現実は

古代ギリシアはお昼と夕餉の二食
献立ては 大麦の粥一杯と数個のオリーブ

 と古代ギリシアの暮らしが語られる。食生活から始まり、衣服、室内の家具が語られていく。それに対して、

ギリシア好きを標榜しながら 贅沢三昧
私たちは ギリシアから冥界ほども遠い

 「標榜する」という動詞がつかわれている。「公然と語る」くらいの意味だろうか。「語る」は「ことば」だから、「ことば」と「行為」が対比されているということになる。
 詩は「私たちの現実は贅沢三昧で、ギリシアからはかけ離れている」というのだが、これを「ことば」と「行為」をつかって言いなおすと、「私たちのことばは、ギリシアの行為からかけ離れている」になる。「私たちの行為は、ギリシアのことばとかけ離れている」になる。私たちの行為と、ギリシア人の行為はもちろんかけ離れているが、そのかけ離れていることが「ことば」と「行為」くらいにかけ離れている。この分断を高橋は「冥府」ということばで象徴している。
 「ことば」と「行為」のあいだには、生と死、生と冥界ほどの距離がある。
 「標榜する」ということばをつかうとき、高橋は、その距離を見ている。
 気になるのは「贅沢三昧」という「ことば」である。ギリシアの「行為(暮らし)」が「献立ては 大麦の粥一杯と数個のオリーブ」という具合に具体的に語られるのに対し、「贅沢三昧」は抽象的にしか語られない。高橋の「行為」は具体的なことばとしては語られていない。
 高橋は自分自身の「行為(現実/肉体の動き)」はことばにしない。すでに存在することばのなかでことばを動かし生きている。「ことば」と「行為」の乖離というのは、高橋の「性格」なのだ。
 「冥界」というのは「ことば」でしか知ることのできない世界だが、それが比喩として出てくるのも、高橋が「肉体の世界」ではなく「ことばの世界」を生きているということを「証明」しているように思う。高橋があこがれるのは、「ことばのギリシア(古代のギリシア)」である、と言いなおせば、高橋が「ことばの世界」を生きていることがより鮮明になるか。

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