戸田ひかる監督「愛と法」(★★★★)
監督 戸田ひかる 出演 南和行、吉田昌史、南ヤヱ、カズマ、ろくでなし子
大阪の弁護士夫夫(ふうふ)の活動を描いている。
二人が担当した担当している訴訟が取り上げられる。女性性器を題材に作品をつくっている女性、擁護が必要な子ども、君が代斉唱のとき起立しなかった教師、無国籍のひと……。なぜ、ひとは自分がしたいことをできないのか。自分がしたいことをするのは罪なのか。
彼らが抱える問題は、私には直接関係がない。
と、言ってしまうと、そこでおしまい。
ほんとうに関係がないのか、実は、わからない。でも、自分がしたいことができないと苦しみ悩んでいるひとがいるということ、そしてそのひとたちがしたいことをできないようにしている社会があるということは、ゆっくり考えてみる必要がある。
私のしていることも、「それはしてはいけない」と突然言われるかもしれない。たとえば、こうやってブログに感想を書いていること。自分が思ったことを思ったままに書いているだけに、なぜ、いけない?
たとえば。
私は安倍の進める改憲に反対している。そういう考えをブログに書き続けた。本を出した。新聞のインタビューに答えたり、映画で自分の意見を言ったりした。このとき、私の務めている会社の「許可」が必要だった。本の内容もチェックされた。会社名を出すわけでもないのに。許可はされたけれど、こういうことも、窮屈な感じがする。
そういうことが周囲にもわかるから、映画の上映会をするときもいろいろたいへんだった。手伝ってくれる仲間もいたが、なかなか観客を集められない。安倍批判をしているひとも、実際に上映会にまでは来てもらえない。いろいろな事情があるのだろうけれど、どこかで会社の視線を意識している。
別の活動をしているひとも、「会社には知られたくない」と、会社の視線を気にしていた。その人が正しいと思っていることを仲間といっしょにしているだけなのだけれど。
映画の中に「空気を読む」ということばが出てきたが、「空気を読んで、まわりのひとにあわせる」。そういうことが、じわりじわりと、ひとりひとりの生き方を窮屈にしてくる。
ここから映画に戻る。
そういう「窮屈さ」をはねのけようとして生きているひとに、ふたりは寄り添っている。その寄り添い方が、とても自然だ。相談を持ちかけられている弁護士なのだから、関係者に対して怒ったりしてはいけないのだろうけれど、怒りもする。自分の生活をふりかえって泣いたりもする。そうやって生きながら、助けを求めるひとのために何ができるか、社会はどうあればいいのかを、語るというよりも、そういう社会へ向けて自分の肉体を動かしていく。その感じがとてもいい。
行き場をなくして、突然二人の家にころがりこんできた少年(青年といった方がいいかも)の態度がとてもいい。ふたりの生き方を、そのまま、そこにあるように受け入れている。二人の生き方はかわっているわけではない。「自然(あたりまえ)」と思っている。彼にとって必要なのは、ただ「受け入れてくれる」ひとだったことがわかる。ひとはだれでも、自分を受け入れてくれるひとを求めている。求められたら、そして求められていることに対して自分ができることがあるなら、それをすればいい。もちろん、できなければ、できないといえばそれでいいだろう。だれひとり、無理なことはしていない。
登場してくるひとたちを見ていると、無理をしているのは、彼らを拒んでいる社会かもしれないと思えてくる。
君が代斉唱のとき椅子に座った教師の同僚(たぶん)たちの反応が、端的だ。「起立するように決まってるから、起立したらいいじゃないか」。多くのひとがそう思うだろうけれど、このとき、「自分は起立したかったのか」どうかを問いかけてみるとわかる。「君が代が大好き。だから立って歌いたい」と思っていたかどうか。ほんとうに、そうならそのひとは歌えばいい。ほんとうにそう思うなら「君が代は嫌い。だから立たない」というひとの気持ちもわかるだろう。でも、好きか嫌いか自分で答えを出さずに、嫌いというひとに「起立して斉唱するのは決まり」というのは、もしかすると、どこかで無理をしているのかもしれない。校長からにらまれたらいやだな、とかね。
小さな小さな判断かもしれない。でも、その小さなことが少しずつ積み重なってくる。それが窮屈な社会をつくっているのだとしたら、小さな小さなことを少しずつはね返していくことが自由につながる。そう感じさせるとてもいい映画だった。
*
映画の前に、弁護士がこの映画について少し紹介した。
気になったことがある。LGBTについて説明するとき、一部で「男性なのに女性のこころをもったひと(女性なのに男性のこころをもったひと)」というようなことばをつかった。一般的に、そういう言い方をするのだが、もうやめた方がいいのではないだろうか。
「男性のこころ」「女性のこころ」というものは、ない。
あるのは「自分のこころ」だけである。
この映画に登場するひとたちも、だれひとりとして「男性のこころ」「女性のこころ」を主張していない。「自分のこころ」を主張している。
「肉体」は生物学的な特徴から「男/女」に分けることができる。けれど「こころ」はそういう具合には分けることができない。「こう感じるのが男のこころ(女のこころ)」というのは「社会制度」と関係がある。「こころ」に一定の型を押しつけてくるものをはね返し、「自分」(ひとりひとり)のこころのために生きていくことを大切にしたい。
弁護士には、「ひとり」であることを応援する仕事をしてほしいと思った。
ちょっと話がかわるけれど。映画に戻るけれど。
映画の中にいろいろな音楽が流れる。そのうちの一部は、主役の弁護士が自分でつくったもの。そして、自分で歌っている。この歌、へたくそです。でもね、それがいい。自分に歌いたいことがある。だから歌う。ミュージックビデオみたいなものもつくる。これはプロ(?)が加わってくるので、映像はなかなか見栄えがする。これもいい。みんな自分のできることをしている。自分のできることに対しては手を抜かない。下手であろうがなんであろうが、真剣。それが自分。できあがったビデオを見ながら、本人は「いいじゃないか」と思って見ている。連れ合いも「ほーっ」という感じで見ている。幸せというのは、こういうときに生まれてくる。他者を受け入れながら、ひとりひとりが自分のできることを手を抜かずに生きていく。そのみんなのしてきたことが、寄り集まって、いままでなかったものがふっと生まれてくる。その瞬間が、幸せ。
「自分」がいきている人間を見る。それが映画。映画の本道をあるいている映画です。見てください。
(2019年03月24日、福岡県弁護士会館)
監督 戸田ひかる 出演 南和行、吉田昌史、南ヤヱ、カズマ、ろくでなし子
大阪の弁護士夫夫(ふうふ)の活動を描いている。
二人が担当した担当している訴訟が取り上げられる。女性性器を題材に作品をつくっている女性、擁護が必要な子ども、君が代斉唱のとき起立しなかった教師、無国籍のひと……。なぜ、ひとは自分がしたいことをできないのか。自分がしたいことをするのは罪なのか。
彼らが抱える問題は、私には直接関係がない。
と、言ってしまうと、そこでおしまい。
ほんとうに関係がないのか、実は、わからない。でも、自分がしたいことができないと苦しみ悩んでいるひとがいるということ、そしてそのひとたちがしたいことをできないようにしている社会があるということは、ゆっくり考えてみる必要がある。
私のしていることも、「それはしてはいけない」と突然言われるかもしれない。たとえば、こうやってブログに感想を書いていること。自分が思ったことを思ったままに書いているだけに、なぜ、いけない?
たとえば。
私は安倍の進める改憲に反対している。そういう考えをブログに書き続けた。本を出した。新聞のインタビューに答えたり、映画で自分の意見を言ったりした。このとき、私の務めている会社の「許可」が必要だった。本の内容もチェックされた。会社名を出すわけでもないのに。許可はされたけれど、こういうことも、窮屈な感じがする。
そういうことが周囲にもわかるから、映画の上映会をするときもいろいろたいへんだった。手伝ってくれる仲間もいたが、なかなか観客を集められない。安倍批判をしているひとも、実際に上映会にまでは来てもらえない。いろいろな事情があるのだろうけれど、どこかで会社の視線を意識している。
別の活動をしているひとも、「会社には知られたくない」と、会社の視線を気にしていた。その人が正しいと思っていることを仲間といっしょにしているだけなのだけれど。
映画の中に「空気を読む」ということばが出てきたが、「空気を読んで、まわりのひとにあわせる」。そういうことが、じわりじわりと、ひとりひとりの生き方を窮屈にしてくる。
ここから映画に戻る。
そういう「窮屈さ」をはねのけようとして生きているひとに、ふたりは寄り添っている。その寄り添い方が、とても自然だ。相談を持ちかけられている弁護士なのだから、関係者に対して怒ったりしてはいけないのだろうけれど、怒りもする。自分の生活をふりかえって泣いたりもする。そうやって生きながら、助けを求めるひとのために何ができるか、社会はどうあればいいのかを、語るというよりも、そういう社会へ向けて自分の肉体を動かしていく。その感じがとてもいい。
行き場をなくして、突然二人の家にころがりこんできた少年(青年といった方がいいかも)の態度がとてもいい。ふたりの生き方を、そのまま、そこにあるように受け入れている。二人の生き方はかわっているわけではない。「自然(あたりまえ)」と思っている。彼にとって必要なのは、ただ「受け入れてくれる」ひとだったことがわかる。ひとはだれでも、自分を受け入れてくれるひとを求めている。求められたら、そして求められていることに対して自分ができることがあるなら、それをすればいい。もちろん、できなければ、できないといえばそれでいいだろう。だれひとり、無理なことはしていない。
登場してくるひとたちを見ていると、無理をしているのは、彼らを拒んでいる社会かもしれないと思えてくる。
君が代斉唱のとき椅子に座った教師の同僚(たぶん)たちの反応が、端的だ。「起立するように決まってるから、起立したらいいじゃないか」。多くのひとがそう思うだろうけれど、このとき、「自分は起立したかったのか」どうかを問いかけてみるとわかる。「君が代が大好き。だから立って歌いたい」と思っていたかどうか。ほんとうに、そうならそのひとは歌えばいい。ほんとうにそう思うなら「君が代は嫌い。だから立たない」というひとの気持ちもわかるだろう。でも、好きか嫌いか自分で答えを出さずに、嫌いというひとに「起立して斉唱するのは決まり」というのは、もしかすると、どこかで無理をしているのかもしれない。校長からにらまれたらいやだな、とかね。
小さな小さな判断かもしれない。でも、その小さなことが少しずつ積み重なってくる。それが窮屈な社会をつくっているのだとしたら、小さな小さなことを少しずつはね返していくことが自由につながる。そう感じさせるとてもいい映画だった。
*
映画の前に、弁護士がこの映画について少し紹介した。
気になったことがある。LGBTについて説明するとき、一部で「男性なのに女性のこころをもったひと(女性なのに男性のこころをもったひと)」というようなことばをつかった。一般的に、そういう言い方をするのだが、もうやめた方がいいのではないだろうか。
「男性のこころ」「女性のこころ」というものは、ない。
あるのは「自分のこころ」だけである。
この映画に登場するひとたちも、だれひとりとして「男性のこころ」「女性のこころ」を主張していない。「自分のこころ」を主張している。
「肉体」は生物学的な特徴から「男/女」に分けることができる。けれど「こころ」はそういう具合には分けることができない。「こう感じるのが男のこころ(女のこころ)」というのは「社会制度」と関係がある。「こころ」に一定の型を押しつけてくるものをはね返し、「自分」(ひとりひとり)のこころのために生きていくことを大切にしたい。
弁護士には、「ひとり」であることを応援する仕事をしてほしいと思った。
ちょっと話がかわるけれど。映画に戻るけれど。
映画の中にいろいろな音楽が流れる。そのうちの一部は、主役の弁護士が自分でつくったもの。そして、自分で歌っている。この歌、へたくそです。でもね、それがいい。自分に歌いたいことがある。だから歌う。ミュージックビデオみたいなものもつくる。これはプロ(?)が加わってくるので、映像はなかなか見栄えがする。これもいい。みんな自分のできることをしている。自分のできることに対しては手を抜かない。下手であろうがなんであろうが、真剣。それが自分。できあがったビデオを見ながら、本人は「いいじゃないか」と思って見ている。連れ合いも「ほーっ」という感じで見ている。幸せというのは、こういうときに生まれてくる。他者を受け入れながら、ひとりひとりが自分のできることを手を抜かずに生きていく。そのみんなのしてきたことが、寄り集まって、いままでなかったものがふっと生まれてくる。その瞬間が、幸せ。
「自分」がいきている人間を見る。それが映画。映画の本道をあるいている映画です。見てください。
(2019年03月24日、福岡県弁護士会館)