詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

戸田ひかる監督「愛と法」

2019-03-25 13:57:36 | 映画
戸田ひかる監督「愛と法」(★★★★)

監督 戸田ひかる 出演 南和行、吉田昌史、南ヤヱ、カズマ、ろくでなし子

 大阪の弁護士夫夫(ふうふ)の活動を描いている。
 二人が担当した担当している訴訟が取り上げられる。女性性器を題材に作品をつくっている女性、擁護が必要な子ども、君が代斉唱のとき起立しなかった教師、無国籍のひと……。なぜ、ひとは自分がしたいことをできないのか。自分がしたいことをするのは罪なのか。
 彼らが抱える問題は、私には直接関係がない。
 と、言ってしまうと、そこでおしまい。
 ほんとうに関係がないのか、実は、わからない。でも、自分がしたいことができないと苦しみ悩んでいるひとがいるということ、そしてそのひとたちがしたいことをできないようにしている社会があるということは、ゆっくり考えてみる必要がある。
 私のしていることも、「それはしてはいけない」と突然言われるかもしれない。たとえば、こうやってブログに感想を書いていること。自分が思ったことを思ったままに書いているだけに、なぜ、いけない?
 たとえば。
 私は安倍の進める改憲に反対している。そういう考えをブログに書き続けた。本を出した。新聞のインタビューに答えたり、映画で自分の意見を言ったりした。このとき、私の務めている会社の「許可」が必要だった。本の内容もチェックされた。会社名を出すわけでもないのに。許可はされたけれど、こういうことも、窮屈な感じがする。
 そういうことが周囲にもわかるから、映画の上映会をするときもいろいろたいへんだった。手伝ってくれる仲間もいたが、なかなか観客を集められない。安倍批判をしているひとも、実際に上映会にまでは来てもらえない。いろいろな事情があるのだろうけれど、どこかで会社の視線を意識している。
 別の活動をしているひとも、「会社には知られたくない」と、会社の視線を気にしていた。その人が正しいと思っていることを仲間といっしょにしているだけなのだけれど。
 映画の中に「空気を読む」ということばが出てきたが、「空気を読んで、まわりのひとにあわせる」。そういうことが、じわりじわりと、ひとりひとりの生き方を窮屈にしてくる。
 ここから映画に戻る。
 そういう「窮屈さ」をはねのけようとして生きているひとに、ふたりは寄り添っている。その寄り添い方が、とても自然だ。相談を持ちかけられている弁護士なのだから、関係者に対して怒ったりしてはいけないのだろうけれど、怒りもする。自分の生活をふりかえって泣いたりもする。そうやって生きながら、助けを求めるひとのために何ができるか、社会はどうあればいいのかを、語るというよりも、そういう社会へ向けて自分の肉体を動かしていく。その感じがとてもいい。
 行き場をなくして、突然二人の家にころがりこんできた少年(青年といった方がいいかも)の態度がとてもいい。ふたりの生き方を、そのまま、そこにあるように受け入れている。二人の生き方はかわっているわけではない。「自然(あたりまえ)」と思っている。彼にとって必要なのは、ただ「受け入れてくれる」ひとだったことがわかる。ひとはだれでも、自分を受け入れてくれるひとを求めている。求められたら、そして求められていることに対して自分ができることがあるなら、それをすればいい。もちろん、できなければ、できないといえばそれでいいだろう。だれひとり、無理なことはしていない。
 登場してくるひとたちを見ていると、無理をしているのは、彼らを拒んでいる社会かもしれないと思えてくる。
 君が代斉唱のとき椅子に座った教師の同僚(たぶん)たちの反応が、端的だ。「起立するように決まってるから、起立したらいいじゃないか」。多くのひとがそう思うだろうけれど、このとき、「自分は起立したかったのか」どうかを問いかけてみるとわかる。「君が代が大好き。だから立って歌いたい」と思っていたかどうか。ほんとうに、そうならそのひとは歌えばいい。ほんとうにそう思うなら「君が代は嫌い。だから立たない」というひとの気持ちもわかるだろう。でも、好きか嫌いか自分で答えを出さずに、嫌いというひとに「起立して斉唱するのは決まり」というのは、もしかすると、どこかで無理をしているのかもしれない。校長からにらまれたらいやだな、とかね。
 小さな小さな判断かもしれない。でも、その小さなことが少しずつ積み重なってくる。それが窮屈な社会をつくっているのだとしたら、小さな小さなことを少しずつはね返していくことが自由につながる。そう感じさせるとてもいい映画だった。

 映画の前に、弁護士がこの映画について少し紹介した。
 気になったことがある。LGBTについて説明するとき、一部で「男性なのに女性のこころをもったひと(女性なのに男性のこころをもったひと)」というようなことばをつかった。一般的に、そういう言い方をするのだが、もうやめた方がいいのではないだろうか。
 「男性のこころ」「女性のこころ」というものは、ない。
 あるのは「自分のこころ」だけである。
 この映画に登場するひとたちも、だれひとりとして「男性のこころ」「女性のこころ」を主張していない。「自分のこころ」を主張している。
 「肉体」は生物学的な特徴から「男/女」に分けることができる。けれど「こころ」はそういう具合には分けることができない。「こう感じるのが男のこころ(女のこころ)」というのは「社会制度」と関係がある。「こころ」に一定の型を押しつけてくるものをはね返し、「自分」(ひとりひとり)のこころのために生きていくことを大切にしたい。
 弁護士には、「ひとり」であることを応援する仕事をしてほしいと思った。
 ちょっと話がかわるけれど。映画に戻るけれど。
 映画の中にいろいろな音楽が流れる。そのうちの一部は、主役の弁護士が自分でつくったもの。そして、自分で歌っている。この歌、へたくそです。でもね、それがいい。自分に歌いたいことがある。だから歌う。ミュージックビデオみたいなものもつくる。これはプロ(?)が加わってくるので、映像はなかなか見栄えがする。これもいい。みんな自分のできることをしている。自分のできることに対しては手を抜かない。下手であろうがなんであろうが、真剣。それが自分。できあがったビデオを見ながら、本人は「いいじゃないか」と思って見ている。連れ合いも「ほーっ」という感じで見ている。幸せというのは、こういうときに生まれてくる。他者を受け入れながら、ひとりひとりが自分のできることを手を抜かずに生きていく。そのみんなのしてきたことが、寄り集まって、いままでなかったものがふっと生まれてくる。その瞬間が、幸せ。
 「自分」がいきている人間を見る。それが映画。映画の本道をあるいている映画です。見てください。
 (2019年03月24日、福岡県弁護士会館)
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池澤夏樹のカヴァフィス(96)

2019-03-25 13:53:14 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
96 亡命したビザンティンの一貴紳が詩を作る

 散文的なタイトルの詩の最後も散文的だ。

神話を材に取り、ヘルメスやアポローン、
ディオニュソスや、テッサリアと
ペロポネソスの英雄たちを相手に楽しむ。
わたしは厳密きわまる強弱格を構築するが、
--はっきり申せば--コンスタンティノポリスの
学者どもはこの構築法を知らぬ。
この厳密さがおそらく彼らの不興を買った理由であろう。

 「学者どもはこの構築法を知らぬ。」がおもしろい。カヴァフィスは彼の詩をささえている「厳密きわまる」ことばの「構築法」が学者に理解されないと間接的に言っているのかもしれない。そのとき、「構築法」ではなく「厳密さ」に焦点を当て直しているところが特におもしろい。学者は「構築法」は知っている。でも、それを「厳密に」つくることはできない。大切なのは「構築法」ではなく「厳密さ」なのだ。「構築法」は学ぶことができる。しかし、それを「厳密」に動かすというのは簡単には学べない。力量のさが「厳密さ」にあらわれる。

 池澤の詩の主人公についての註釈。

 これは架空の人物とするか否か、判断は微妙である。つまり、彼を東ローマ帝国の皇帝ミカエル七世と見ることは不可能ではなく、あるいはミカエル七世に触発された架空の人物とする方が自然ともとれる。

 後者はそのままカヴァフィスということになるし、ミカエル七世であったとしてもミカエル七世自身が詩を書いているわけではないから、その場合も後者になる。








カヴァフィス全詩
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南野森「憲法学者が弁護士に期待すること」

2019-03-24 20:27:57 | 自民党憲法改正草案を読む
南野森「憲法学者が弁護士に期待すること」(2019年03月24日、福岡県弁護士会館)
 南野森・九州大学法学部教授の講演、「憲法学者が弁護士に期待すること」を聞いた。福岡県弁護士会館・新会館開館記念講演である。弁護士が対象の後援会なのかもしれないが、一般市民にも開放されていた。

 聞きながらいくつか疑問に思ったことがある。私は学者でも弁護士でもないから、「論理の完結性」とは無関係に自分の考えを書く。
 三点、気になった。
(1)
 南野が日本の憲法(特に改正問題)に注目するようになったのは2013年の安倍発言からと語った。安倍が「憲法96条」を改正したいと言った。そのとき憲法学者は右から左まで、こぞって反対した。「裏口入学」のような手法だ、というのがそのときの批判の「根拠」である。
 これは、私も、そう思う。
 しかし、この南野が憲法に関わるようになった契機の、安倍の主張のどこに問題があるのか、南野は語らなかった。学者の右から左までがこぞって反対したので、気になった、というのでは、「時流に乗り遅れる」のを恐れただけという気がする。
 何が問題なのか。
 私は、そのときの安倍の発言を把握していないので、明確なことは言えないが、2012年の自民党の「改憲草案( 100条)」と「現行憲法(96条)」を比較すると問題点(裏口入学の手法)がよくわかる。

「改正草案」
100条 この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議に基づき、各議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体であるものとして、直ちに憲法改正を公布する。

「現行」
96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 改正草案のどこが問題か。
(1)発議するときの「条件」がとても緩い。憲法改正のハードルがとても低く設定されている。現行憲法には「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し」とあるが、草案は「衆議院又は参議院の議員の発議に基づき」としか書かれていない。発議者がひとりであってもかまわない。これでは、いつでも発議できることになる。
(2)「国民投票」の前に「国会が議決し」という手順があるのも問題だ。「議決」は国民の意見を誘導する。「議決されたもの」を「承認する」のと、「発議されたもの」を国民が投票で賛否を表明するというのでは、判断の自由度が決定的に違う。
 こういうことはそのとき「反対」を表明した憲法学者や弁護士には分かりきったことかもしれないが、講演を聞きに来た一般市民が熟知しているとは思えない。6年も前のことだから、忘れているかもしれない。
 南野が何を問題と考えたのかわからない。

(2)
 南野は憲法は一般の法律の違いについて、一般の法律には罰則があるが、憲法には罰則がない、と説明した。道路交通法を守らなければ罰則があるが、違憲行為をしても罰則はない。これでは、「法」を「違反者を罰するもの」という定義にならないか。
 弁護士はどう考えるのかわからないが、私は、この定義に非常に疑問を感じる。
 私の感覚では、法は弱者を守るためのもの(強者の暴力を間接的に防ぐもの)だ。交通法規を守らない。そのために被害者が出る。そのとき被害者の権利を保障するのが法律であり、その保障の一貫として加害者への罰則がある。青信号で横断しているひとをはねて怪我をさせた場合は、信号を守らなかった車の運転者に対して罰則がある。歩行者は車より弱い。その弱い人間を守るためのものである。
 憲法も、国家の方が個人よりも強い。だから、その国家が個人の権利を侵害しないようにする、国家権力を拘束するというのが基本的な考えではないのか。
 国家権力への「罰則」については、選挙という手段で国民は対抗できるだろう。実際にはさまざまな制約があって、実現はむずかしいかもしれないが、理論的には、私たちは安倍政権を退陣させる力を持っている。自民党に投票しなければ、自民党政権は崩壊する。「国民主権」の論理からは、そうなるはずである。
 憲法違反に対する罰則は「落選」である。
 現行憲法の99条に「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とある。「国会議員」を私たちは落選させることができる。

(3)
 南野は「憲法を守るのは誰か(守らせるのは誰か)」について語るとき、12条を引用した。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
 そして、憲法と国民との距離を縮めるために、弁護士には先頭に立ってもらいたい、というようなことを言った。「弁護士に期待すること」を、そう要約(結論?)した。
 私には、南野の言った「意味」が理解できなかった。言い換えると、南野が「国民の不断の努力」をどう理解しているかがわからなかったということである。
 12条は「第3章 国民の権利及び義務」に書かれている。国歌が国民の権利を侵害するということが起きないようにするために、国民は「選挙権」を行使し、そうすることで国家をきびしく監視する義務がある、ということだろう。
 統一選が始まったばかりだ。せめて「選挙権」と「国家」との関係について、一言でいいから語ってほしかったと思う。憲法学者や弁護士が、候補者や政策について何かを語るというのではなく、国民には力と権利があるということを語ってほしかったと思う。
 力を持っているのは、国家(国会議員)でも、学者でも、弁護士でもない。ひとりひとりの人間である。個人の権利(力)を保障するのが憲法であると、素人は、憲法について考える。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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スパイク・リー監督「ブラック・クランズマン」(★★★★★)

2019-03-24 10:39:36 | 映画
スパイク・リー監督「ブラック・クランズマン」(★★★★★)

監督 スパイク・リー 出演 ジョン・デビッド・ワシントン、アダム・ドライバー

 スパイク・リーの「ドゥ・ザ・ライト・シング」を見たときの衝撃を忘れることができない。私がいかに黒人差別に加担していたかを知らされた。ハリウッド映画の描かれる「黒人像」をそのまま受け入れていたにすぎないかを知らされた。
 というような抽象的なことを書いてもしようがない。
 私は、その映画の中のアフリカ系アメリカ人の「家庭」にびっくりした。美しく整っている。乱雑さ、だらしなさと無縁である。考えてみれば、これは当然のことだ。ひとは誰であれ、自分の暮らしている場所は美しく整えたい。その方が気持ちがいい。つかいやすい。それだけなのだ。それだけなのに、こういうあたりまえを、私は忘れていた。
 この「あたりまえ」を、私はこの映画でも教えられた。
 ジョン・デビッド・ワシントンが警官になりたくて、警察に面接試験を受けに行く。その試験を署長(白人)とアフリカ系アメリカ人(肩書は聞き漏らした。それまでアフリカ系の警察官はいないというのだから、警察以外の職員かも)が担当する。このときの面接のやりとり(内容)がとても自然だ。差別の問題(きっといやなことに直面するだろう)というような指摘や、それに対してどうするつもりか、というようなことが、たんたんと進んでゆく。試験をする方も受ける方も、なんといえばいいのか、「わきまえ」を守っている。必要最小限、しかし必要不可欠なことは、そのなかできちんと処理されている。これは、どこにでもある世界だ。「どこにでもある」を「どこにでもある」ままに、スパイク・リーは描く。
 この映画でおもしろいのは、この「どこにでもある/わきまえ」が、しかし、なかなか「曲者」であるということだ。
 クライマックスというより、ハイライトか。ジョン・デビッド・ワシントンがKKKのトップを護衛することになる。ジョン・デビッド・ワシントンにしてみれば、潜入捜査でたどりついた大物、逮捕したい男なのになぜ護衛をしなければならないのか、という気持ちがあるだろう。一方、護衛される方にしても、殺してしまいたいと思っているニガーが護衛だなんて、頭に来る、という気持ちだろう。でも、KKKは秘密。「アソシエーション(団体)」の代表にすぎない。警官がニガーだからというので異議を唱えれば秘密がばれてしまう。受け入れるしかない。記念撮影も、肩を抱かれたことも、ぐっとがまんして受け入れるしかない。警官を殴れば、その場で公務執行妨害で逮捕される。ほかの仲間も同じだ。隠し続けるしかない。
 さらに、さらりと描かれているが、このパーティーのために仕事を求めてきたひとのなかにはアフリカ系のひともいる。「こんな差別的な団体だと知っていたら応募しなかった」というようなことを語り合っているが、彼らにしても、その思いを語り、即座に行動するということはできない。
 ここが問題。ここが、じつは一番恐いところだ。
 不満はいつも抑圧され、いつも差別は隠れている。隠れているというよりも、いつも隠されている。差別主義者は、差別を隠すことを知っている。
 これは取り締まる側にも言える。KKKの組織をつかんだ。けれども、それを摘発してしまうことはできない。この映画では、狂信的な夫婦の「爆弾テロ」が事件として処理されるだけだ。(映画では、明確に描かれていないが。)KKKが存在し、活動しているということは、公表されない。住民の不安をあおるからだ。
 すべては隠される。だからこそ、その後も差別は繰り返される。思い出したように、噴出してくる。事件はなくならない。映画の最後に流れる「現実のニュース」がそれを語っている。それは個人の反抗なのか。隠れた組織の指示によるものなのか。問題はそれだけではない。直接的な攻撃はしないが、「排除」という暴力がすすめられることがある。「アメリカ・ファースト」という主張そのもののなかには、暴力はないように見えるが、「排除」が隠蔽されている。
 隠されているものを、どうやって明るみに出すか。それとどう向き合うか。
 あ、これはジョン・デビッド・ワシントンの「潜入捜査」そのものだね。ストーリーがテーマそのものとなっている。巧みな脚本だ。
 (2019年03月23日、KBCシネマ1)

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池澤夏樹のカヴァフィス(95)

2019-03-24 10:34:38 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
95 アンナ・コムネナ

 カヴァフィスの詩のおもしろさは、言いなおしと繰り返しにある。

しかし、真相を言えば、この権力欲の強い女性は
一つしか重要な悲しみを知らぬように思われる。
(自分では認めなくとも)この高慢なギリシャ女は
ただ一つの焼けつく苦しみしか知らなかった。
すなわち、狡知の限りをつくして
帝位を手中に収めんとしたのに、あと僅かのところで
厚顔なイオアニスに取りかえされてしまったこと。

 「権力欲の強い女性」は「高慢なギリシャ女」と言いなおされ、「一つしか重要な悲しみを知らぬように思われ」は「一つの焼けつく苦しみしか知らなかった」と言いなおされる。そして、この繰り返しを経ることで「ように思われる」ということばは消え、断定に変わる。
 ことばは繰り返すと、それがどんなことであっても「事実」になる。こころにとっての「真実」と言った方がいいのかもしれないが、ことばは共有されるものだから「事実」の方が正しいだろう。
 この不思議な魔術を、カヴァフィスは「音楽」の力を借りて実現する。
 「重要な悲しみ」が「焼けつく苦しみ」になったあと、「帝位を手中に収めんとしたのに、あと僅かのところで/厚顔なイオアニスに取りかえされてしまったこと」とことばが変化するとき、それはアンナ・コムネナの心理描写というよりも、読んでいる私のこころに変わる。アンナ・コムネナもイオアニスに知らないのに、怒りと憎しみが肉体の奥から沸き起こってくる。「あの厚顔なやつめ」「ああ、くやしい」。そういう「声」が自分の肉体の中から沸き上がってくる。

 池澤は、こう書いている。

ギボンは彼女について「紫衣の位に在りながら修辞学や哲学などの造詣が深かった」と書いている(『ローマ帝国衰亡史』第五三章)。

 私は歴史に対する感覚がおかしいのかもしれないが、カヴァフィスの詩を読んだあと、ギボンへと読み進み、アンナ・コネムナがどういう人間か知りたいとは思わない。この詩で充分だ。むしろアンナ・コネムナを離れ、権力指向の強い女、さらには権力指向しかできない男の精神へと、いま、ここにいる「人間」へと目が動いていく。








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吉川宏志『石蓮花』

2019-03-23 16:05:01 | 詩集
吉川宏志『石蓮花』(書肆侃侃房、2019年03月21日発行)

 吉川宏志『石蓮花』は「現代歌人シリーズ26」。読んだ印象は、このシリーズの作品群とは少し違う。

冬の日をたがいちがいに紐とおす新しき靴は濃き匂いせり

赤青の蛇口をまわし冬の夜の湯をつくりおり古きホテルに

 「透明感」の表わし方が違う。感情(センチメンタル?)を全面に押し出す、そのために構造を明確にするというよりも、肉体の動きをしっかりつたえる。感情は、肉体が動いた後、ゆっくり奥からあらわれてくる。
 「冬の日」は「たがいちがい」のなかにある動きが「とおす」によって強くなる。相互に響きあう。書かれていない「交差させ」が「とおす」によって、逆に、まっすぐになる。感情がととのえられるまでの時間というものを感じさせる。
 「赤青の」は「まわす」から「つくる」へと動詞が変わる。「古きホテル」はセンチメンタルになりそうで、そうならない。動詞の力だ。

みずうみの岸にボートが置かれあり匙のごとくに雪を掬いて

 美しい情景だが、「いま」の風景と呼ぶにはことばが古すぎるかもしれない。「匙」が古いというのではなく「掬う」という動詞が古い。動詞なのに、ここでは肉体が動いていない。見ているだけだ。

時雨降る比叡に淡き陽は射せり常なるものはつねに変わりゆく

 この歌も「見ている」歌だ。「意味」が強くて、肉体が置き去りにされている。

初めのほうは見ていなかった船影が海の奥へと吸いこまれゆく

 この歌も「見ている」作品だが、「見ていなかった」という「見る」を否定することばがあるために、後半の書かれていない「見ている(見る)」が肉体の動きとしてしずかに迫ってくる。「奥」ということばが、それを誘い出す。「吸いこまれ」てゆくのに、逆に奥からあらわれてくるものがある。「初めのほう」という時間であり「見ていなかった」という肉体の動きだ。

部活より子は帰りきて夜の更けに風呂の蓋たたむ音がひびけり

 これは「聞いている」歌。でも「風呂の蓋をたたむ」その姿、いや、そのときの「気持ち」が見えてくる。どんな気持ちを内に秘めて蓋をたたむのか、その時の音はたとえば自分がたたむときの音、あるいは妻がたたむときの音とどう違うか。そういう違いをこそ聞いている耳がここにある。

昼休み終わらんとして缶の底ねばつくようなコーヒーを飲む

 「ねばつく」はコーヒーを修飾していることばだが、コーヒーというよりも作者の「感情」を語ることばのように感じられる。「飲む」という動詞もコーヒーを飲むというよりも、「ねばつく」という動詞そのものを飲むように迫ってくる。「終わる」と「底」の響きあいがリアルだ。
 私は肉体が動いていることばが好きだ。





*

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石蓮花 (現代歌人シリーズ26)
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池澤夏樹のカヴァフィス(94)

2019-03-23 08:48:51 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
94 ダレイオス

詩人フェルナジスが、執筆中の叙事詩の
ある重要な部分に心を砕いている。

 「ダイオレスが/いかにペルシャ帝国を継承したか」。そのことを書こうとしている。池澤の註釈によれば「詩人フェルナジス」は架空の人物。「ダイオレスが/抱いたに違いない感情を分析せねばならぬ。」

おそらくは慢心、そして陶酔--いや、むしろ
偉大なるものの空しさを見てとったのではないか。
詩人はこの問題を深く考える。

 だが、戦争が起こって詩作は中断。そして、最終蓮。

さりながら、この衝撃と困惑の中で、
詩に関わる思いはそれでも去来する--
慢心と陶酔、それだったに違いない。
ダイオレスが感じとったのは慢心と陶酔だったのだ。

 「慢心と陶酔」が繰り返される。この繰り返しを読むと、「慢心と陶酔」はふたつのものではなく、ふたつでひとつという感じがする。いや、「慢心は陶酔」「陶酔は慢心」とイコールで結ばれ、ひとつになっているように感じられる。結合のなかにセックスの「愉悦」の響きがある。ギリシャ語ではどういう「音」なのかわからないが。
 「去来する」ということばがあるが、「慢心と陶酔」は、それこそ「去来する」のだろう。去ったと思えばまたやってくる。やってきたと思えばまた去っていく。その行き来さえ「愉悦」だ。
 散文だとこういう繰り返しは「うるさい」が、詩の場合は「聴く悦び」を与えてくれる。カヴァフィスは、繰り返しの音楽が得意だ。モーツァルトのように。

 池澤の註釈。

 政治のみにかかわった偉大な君主の心を詩人が推量する。彼はこれが哲学を要する問題だと考えている。

 たしかに「哲学を要する問題だ」ということばは出てくるが、どうだろうか。「君主」も虚構のための素材ではないのか。誰にでも「慢心と陶酔」はある。カヴァフィスが目を向けているのは、人間に共通する愉悦だと私は思う。







カヴァフィス全詩
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松浦成友『斜めに走る』

2019-03-22 20:46:58 | 詩集
松浦成友『斜めに走る』(思潮社、2018年12月25日発行)

 松浦成友『斜めに走る』の巻頭の「万華鏡」は、万華鏡をのぞきみたときの世界を視覚化したものだ。

つつ の なか は かがみ の せかい
   ゆきのけっしょう ほうせき かじつ はなびら

さまざまな けいしょう が いろどられて
       ふゆ の ひ を あたためている

 私は目が悪いので、視覚を刺戟してくる作品が苦手だ。でも、他の作品と読み比べると、この詩には何か「音楽」のようなものがある。
 詩集のタイトルになっている「斜めに走る」に似たことばが登場する「走るクリナメン」の書き出しを引いてみる。

肉体の微妙な不均衡は正確な歩行を許さない
斜行への誘惑は無意識の内に発動される
まして左脳の軽微な損傷は世界を把握する言語体系から
砂のように言葉が滑り落ち
フィルターの掛かった通りを正しく間違えるのだ

 このリズムは、とてもつらい。「意味」が強すぎる。「微妙」と「軽微」の違いなど「微」の文字が重なるから「雑音」に聞こえるし、「まして」という間延びした感じのことばも「漢語(漢字熟語)」と「和語」の結びつきに変な「休止」というか「間合い」を持ち込んできて、すっきりしない。
 このリズムに比べると、「万華鏡」の「分かち書き」はとても自然だ。「かじつ」「けいしょう」という「硬質」な音も、鏡の乱反射のようで楽しい。いま見たのは、なんだったのかな? 見たと思っただけで「錯覚」だったのかな、と感じさせる。スピードの変化がリズムになっている。
 私は黙読しかしないので、音読すると「音楽」が違って聞こえるかもしれないが。
 で。

かたち は つねに へんか し
あらたな けっしょう を うんでいく

 「けっしょう」が前に出てきているのでうるさいのだが(もっと短いことばなら印象が違うと思うが)、「へんか し」の「し」の独立が刺激的だ。「死」が音に重なるように闖入してきた。そして、それが「うんでいく(生んでいく)」という正反対のことばを誘い出す。
 「意味」が強いのだけれど、その「意味」の強さと向き合っている「し」の一文字が美しく見える。「詩」に見える。
 最終蓮の三行、

くるしみ を ろか して
いのち の さいご の ひ が
かがみ の なか で うつくしく はな ひらく

 書かなければ詩が終わらないと思って、こう書いてしまうのだと思うが、「種明かし」になりすぎていて、おもしろくない。「の」の繰り返しにもうんざりさせられる。
 「苦」を屹立させるとか、「殺して」を連想させる「ろか して」の配置の仕方を工夫するとかすれば、万華鏡の奥の「闇」が輝いたのではないかと思う。

えめらるど さふぁいあ そして いちじくのみ

 という途中にある一行、特に「いちじくのみ」が「音」としても「絵」としても印象的なので、読んでいて、なんだか残念だなあ、という気持ちになる。




*

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イングマール・ベルイマン監督「ファニーとアレクサンデル」(★★★★★)

2019-03-22 10:28:33 | 映画
イングマール・ベルイマン監督「ファニーとアレクサンデル」(★★★★★)

監督 イングマール・ベルイマン 出演 ペルニラ・アルビーン、バッティル・ギューベ、アラン・エドワール、エバ・フレーリング、グン・ボールグレーン

 最初に見たときはクリスマスのシーンにただただ圧倒された。あとにつづく陰鬱なシーンはせっかくのクリスマスシーンを台なしにするようで、無残な気持ちがした。でも、再び見ることができて、発見が多かった。
 いちばんの発見は、時間の処理である。特に二部に入ってからがびっくりしてしまう。
 かけはなれた場所で起きるできごとを、カメラを瞬時に切り換えて映し出して見せる。(もちろん、これは編集、ということなのだが。)そうすると違った場所なのに、それが同じ時間に起きていることになる。実際に同時に起きていることがあるかもしれないが、そういうことはかけはなれた場所でのできごとなので、誰にもわからない。
 しかし。
 記憶というのは、かけはなれた時間も場所も「いま/ここ」のように整えてしまう。「あのとき、ここではこういうことが起きていたが、あそこではああいうことが起きていたのか。そして、これとあれは、完全につながっていたのか」と言う具合に。
 この映画のひとつのクライマックス。アレクサンデルが人形工房で迷子になる。幽閉されている男の部屋に招き入れられ、その男と話をする。男はテレパシーのようにアレクサンデルの頭の中をことばにしてみせる。そのとき、教会では、ほとんど寝たきりの女性がランプを倒して、それが衣服に燃え移り、火まみれになって部屋を飛び出す。男の語っていることばにつづいてそういうシーンが映し出されると、まるでアレクサンデルの願望がそのままかけはなれた場所で実現されているようにも見える。
 でも、これは正確に言いなおすならば、その事故を警察が母親に報告にきたのをアレクサンデルが聴いて、あ、きのうのことばは、こういうことだったのか、と整えた結果だろう。幽閉されていた男が語ったことばは、抽象的で、現実的な描写ではないのだから。
 ことばが先にあって、現実があとからやってくる、というよりも、ひとはことばによって現実を整える。そのとき、時間や場所は「距離感」をなくして凝縮する。「追憶」のなかで世界は緊密に結びつき、より濃密になる。
 アレクサンデルの父親が、ハムレットの「亡霊」の練習をしていて、倒れる。それは事故なのだが、その後、母が再婚し、新しい父が世界を牛耳はじめると、まるで「ハムレット」の世界がそのまま現実になったように思える。幼いアレクサンデルには、そうとしか思えない。復讐心がわく。父の「亡霊」も見える。
 クリスマスシーンも濃密だが、その後の陰惨な物語もまた濃密である。いつまでたっても終わらないのじゃないかと錯覚させる。
 映画の中で、アレクサンデルの祖母が「子どものときの、終わらないのじゃないかと思う濃密な時間」というようなせりふをちらりともらす。ファニーが「クリスマスの晩餐は長いから嫌い」とつぶやく。子どもにとっては、どの時間も非常に長い。(小学生のとき、夏休みは永遠に終わらないんじゃないかと思うくらい長かったなあ。)その長い時間、濃密さが、この映画の中に、そのまま動いている。

 「野いちご」もそうだが、「追想」なのだからストーリーはある。初めがあって、終わりがある。けれど、そこにあるのはストーリーではなく、ストーリーを突き破って動いていく人間の存在の充実だ。アレクサンデルの叔父の大学教授(?)夫婦のやりとり、夫婦げんかなど、アレクサンデルにとっては何の関係もないようなものだが、その存在が「思い出」の奥で、ほかの人間といっしょになって動いている。こういうことも、きっとあとから「あのとき、こういうことがあったんだよ」と聞かされ、ひとつのストーリーになっていくんだろうけれど。
 登場する人間のひとりひとりが、むごたらしいくらいに生々しい。

 それにしても、と思う。
 デジタル化された映像はたしかに美しい。しかし、デジタルでこれだけ美しいならフィルムはもっとつややかで美しいだろうと悔しくなる。フィルムを劣化させずに残す方法はないのだろうか。
 (2019年03月21日、KBCシネマ1)
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池澤夏樹のカヴァフィス(93)

2019-03-22 09:18:03 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」

93 翳が訪れる

一本の蝋燭で充分。  ほのかな光こそ
よほどふさわしい、 ずっと好ましい、
愛が翳となって、 訪れる時には。

一本の蝋燭で充分。  今宵この部屋に
明りは多くいらない。  夢想のさなか
想いえがくところ、 ほんの少しの光--
この夢想のさなか、 幻のうちに
愛が翳となって、 見える時には。

 短い詩だが、そのなかに同じことばが何度も出てくる。この繰り返しはモーツァルトの曲のように酔いを引き起こす。そのために、この詩の「意味」を忘れてしまいそうだ。
 「愛が翳となって訪れる」というのは、愛が弱まっていく、ということだろう。「意味」としては否定的なものである。しかし、この詩で展開されるリズムは、まるで快感である。
 悲しみが快感にかわる、悲しみがひとを酔わせるのは、それが「思い出」であるときだ。
 この詩は「回想(追憶)」の形をとっていない。むしろ、これから起こることのように読める。
 しかし、そのリズムは追憶のリズムだ。追憶は、一回ではおわらない。繰り返し繰り返し、繰り返すことで形を整える。そういう追憶の「動き」そのものが詩のリズムに乗り移っている。

 この詩の原形はどうなっているのかわからないが、句点のあとの二字あき、読点のあとの一字あきの表記が、私には「耳障り」である。「音」が寸断される。そこに「沈黙の音」があるのかもしれないが、追憶というのは「間」を消すものである。十年前も、きのうも、そして一時間前も、すぐに「肉体」のそばにやってきて、肉体をわしづかみにする。

 池澤は、註釈でカヴァフヘスの声について言及している。

生前の詩人を知っていた人々の話によれば、彼はたいへん良い声をしていて、朗読もきわめて上手だったという。

 私は、好きな詩は、朗読では聞きたくない。ことばのもっているリズムと、声の持っているリズムが、どうもあわない。黙読の時に、肉体の奥で動く音楽が私は好きだ。

カヴァフィス全詩
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池澤夏樹のカヴァフィス(92)

2019-03-21 08:03:37 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
92 シドンの若者たち(紀元四〇〇年)

 俳優が「アイキュロスが自分のために書いておいたとされる墓碑銘(池澤の註釈)」を朗唱する。すると、

文学に熱をあげている一人の元気な若者が
さっと立ちあがって大声で言った、

《その四行詩はぼくは好きではない。
その表現にはどこか気のぬけたところがある。
あえて言えば、自分の仕事に力のすべてを投入し
関心をすべて集中すべきなのだ。そして苦しい時にも
非力に思われる時にも、仕事を忘れてはいけない。

 この詩の構造は複雑だ。
 カヴァフィスは若者にアイキュロスの墓碑銘を批判させている。そしてそれはアイキュロスを評価するが故である。アイキュロスが自分で書いた墓碑銘は、彼の悲劇に劣る。好きではない。カヴァフィスの代弁なのだろう。
 自分の意見を誰に主張させるというのは、特に複雑な構造とは言えないかもしれないが、その主張が批判するための主張ではなく、むしろ他に評価するものがあると主張するためというところが複雑である。
 なぜ、こんな面倒くさいことをしたのだろうか。
 「複雑さ」を詩だとカヴァフィスが考えているということだろう。
 これは逆に言えば、「単純」に書かれているように見える詩も、奥には複雑な構造があるということだ。
 この詩でもタイトルは「若者たち」なのに、本文の中は「一人の元気な若者」である。なぜタイトルは複数なのか。同じような批判をするひとが複数いたからこそアイキュロスは古典として生き残った、引き継がれてきた、と言える。しかし、そういうことは、言わなくてもわかる。カヴァフィスは、そのひとりに、いま、なりたいと言っているのだ。紀元四〇〇年ではなく、現在、同じ批判をしたいと言っているのだ。
 それは、アイキュロスの墓碑銘批判というよりも、「若者」を支持するためのものであり、アイキュロスの悲劇賞賛なのである。

 池澤はの註釈は、こう書いている。

文学至上主義というほどのことではないが、あれらの傑作が無視されるのはやはりおかしな話で、たしかにこの墓碑銘は妙に力んでいるわりに気が抜けている。





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池澤夏樹のカヴァフィス(91)

2019-03-20 09:09:39 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
91 まことみまかられしや

フィロストラトスの著述にかかる
「ティアナのアポロニオス伝」を読んだ後、
みすぼらしい家の中でこう夢想したのは
数少ない異教徒の一人、
残ったほんの数人のうちの一人。しかも(この地味な
気の弱い男)、公式にはキリスト教徒で、
教会にもきちんと通うのだ。

 「こう夢想した」の「こう」の内容は、引用から省略した詩の前半部分。
 ひとはなぜ夢想するか。
 あるいは逆に考えるべきか。
 なぜ、夢想だけを書いて終わりにできないのか。
 カヴァフィスは「夢想する人間」を描写している。夢想するとき、ひとは「いまある自分」と「夢想」に分裂するが、この詩のなかでその夢想するひとは「自分を偽装している」。「偽装された自分」と「偽装する自分」に分裂する。
 キリスト教徒を装う、異教徒。
 この不思議な分裂は、さらにつづく。

ユスティヌス帝の信仰篤い統治が
その極に達し、アレクサンドリアという
神の都がみじめな偶像崇拝者を
忌み嫌っていた時代のことである。

 夢想するひとはカヴァフィスではない。カヴァフヘスは夢想するひとを想像して書いている。虚構でしか語れない自己を書いているとも言える。そして、そういう人間を書くのは、人間を書くためというよりも、理想のアレクサンドリア、アレクサンドリアの理想を描くためだ。
 詩の最後が、そう語っている。

 池澤は、こう註釈している。

 ティアナのアポロニオスにはイエス・キリストと共通する面が多い。これは偶然ではなく、キリスト教の隆盛に対して意識的にアポロニオスを立てた人々がいたからで、彼の伝記は反福音書として読まれた。この詩がユスティヌスの時代に設定されているのは重要な伏線である。
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谷川俊太郎『バームクーヘン』を読む

2019-03-19 10:03:18 | 現代詩講座
谷川俊太郎『バームクーヘン』を読む(朝日カルチャーセンター、2019年03月18日)

 朝日カルチャーセンターの「一日講座」で谷川俊太郎の『「バームクーヘン』(2018年09月01日発行)を読んだ。

 「あさこ」「とまらない」「くらやみ」の順に三篇。
 主人公は、どんな人物?
 「すき」を詩の中のほかのことばで言うと何になる?
 「ひそんでいる」を、ほかのことばで言いなおすと?
 というような意地悪な質問を私がして、受講生が、それに答えるというような方法で読んで行く。

 私は質問するだけで、どれが「正解」なんて、考えない。
 詩は、どう読んでも、読んだ人のかって、と思っているから。

 「あさこ」は、こういう作品。

おんがくしつであさこはハイドンをさらっていた
わたしはうちでおなじきょくをひいてみた
なんどかつっかえたけど
わたしのほうがうまいとおもった
あさこはらいねん ウィーンへいく

わたしはそらをみるのがすき
あおぞらじゃなく くもをみるのがすき
くもはじっとしていない
かぜがないときでもかたちをかえながら
いつもゆっくりうごいている

わたしはあさこが きらいなのかすきなのか
わからない でもともだちだとおもう
ときどきひみつのはなしをメールでするから
あうとだいたいしらんかおだけど
あさこなんて ださいなまえ!

 この詩のわたしは誰? どんな人? 何歳くらい? 男と女、どっち?
 「高校を卒業する女子」「中学生くらいの女子」「谷川俊太郎の若い妻」「あさこのボーイフレンド」
 どうして、どのことばから、そう思う?
 「ウィーン留学するのだから、高校卒業くらいだろう」(ウィーンは、学費が安いから、とても留学しやすいんです、という情報が別の人からあった)
 「音楽室が中学校や、小学校を思い出させる」
 「谷川は何度も結婚している。激しい人なんです。だから若い妻がいるんです」
 「あさこなんて ださいなまえ!と突き放しているところが、男を感じさせる」
 男は、意外とそういう露骨なことばはいわないんじゃないかなあ。
 「ひみつのはなしをメールでする、というのが女の子を感じさせる」
 「わたしのほうがうまいとおもった/あさこはらい ウィーンへいく、には嫉妬のようなものがふくまれているから」

 じゃあ、すきということばが何度か出てくるけれど、好きって、どういうこと? この詩の中にあることばで言いなおすと、どれ?
 「ともだちとは少し違う。ともだち以上という感じかなあ」
 「感情が、うごいていく。二連目の、ゆっくりうごいていく、が好きというときの気持ち」
 「わたし、この二連目のように、空ではなくて雲を見るのが好きなんです。だから、自分のことみたいだと思った」
 この連だけ、あさこが登場しないね。どうしてだと思う?
 「ここは、虚構じゃなくて、ほんとうのことが書いてあるんだと思う。ほんとうに、教室から空の雲を見ている」
 わ、すごいなあ。目からうろこが落ちる、というのは、こういうことを言うんだろうなあ。私は谷川が「女子中学生のふり」をして書いている詩だと思って、ぱっと読んだ。そこには女子中学生が描かれているが、「ほんとうのこと」が書いてあるとは思わなかった。
 すぐれた詩は、どこかに「ほんとう」がある。
 そのほんとうは、谷川が書いたものか、それとも読者が見つけたものかわからないけれど、「ほんとう」と感じたとき、その読者は谷川になっている。

 〇〇さんも、教室の窓から雲を見たことがある? 雲が好き?
 思わず、聞き返してしまった。

 こういうやりとりをしていると、谷川俊太郎の詩を読んでいるのが、参加者のこころを読んでいるのかわからなくなる。
 でも、私は、こういう瞬間が好き。
 詩を読むのは、詩人の心を読むだけではなく、自分が何を考えているかを振り返ること。
 ひとりで読むのも楽しいけれど、多くの人といっしょにやるのもおもしろい。自分が見落としていたものが、いろいろ見えてくる。

 それは谷川のこころ?
 その発言をした人のこころ?
 それとも私のなかにかくれていたこころ?

 どれでも、いい。
 それが何であっても(どれであっても)、自分が少しかわることができたという感じが楽しい。

 「とまらない」。

なきだすとぼく とまらない
しゃっくりみたいに なきじゃくって
なきやみたいのに とまらないんだ
もうなみだは でてこないのに
もうなにがかなしいのか
わからなくなっているのに

ほんとはおかあさんに しがみつきたい
でもぼくはもう
いちにんまえの おとこのこだから
あまえてはいけない
そうおもったらまた
まえよりもっと かなしくなった

 ぼくは、何歳?
 多くの人が小さな子どもを想像した。「孫がこれくらいの年」という人もいた。最近、母を亡くしたひとがいて、「二連目は自分の気持ちのようだ」と言った。何歳になっても、ひとは同じように感じる。
 詩の「意味」を探して読むと、どうしても小さな子どもを思い浮かべるけれど、実際に小さな子どもがこのことばを言えるとは思わない部分、大人のことばがあって、それが読む人をぐいとつかみとるということも起きる。

もうなみだは でてこないのに
もうなにがかなしいのか
わからなくなっているのに

 この三行、言いなおすと、どんな感じ?
 「なにか、ぎゅうっと集中していく感じ」
 そういう体験をしたことがありますか?

 誰もが、体験をしたことがある。でも、それを谷川のように、ことばにはできない。ことばにできないけれど、知っている。そういうものに出会ったとき、ひとは、「あ、これは私が言いたかったこと」と思う。その瞬間、詩は、詩人のもではなく、読者のものになる。

 もっと、答えやすい(?)部分でも聴いてみた。
 この詩のぼくが、小さい子どもだとして、その子どもが目の前にいたら、どうしますか?
 「だきしめる」
 「なにもしない。そのままにしておく」
 なにもしないという声が想像以上に多かった。
 どういえばいいのかわからないが、あ、親は強い、と思った。何もしなくても、子どもは乗り越えて成長していくということを「実感」として知っている。

 「くらやみ」の「わたし」には年齢や性別を感じさせる手がかりのようなものがなくて、これをどう読んでいくかには、読者そのものがくっきり出てくる。でも、時間が足りずに(時間配分を間違えて)、いろいろな感想を聞き出すことができなかった。
 「くらやみはこころからなくならない」のは、なぜ? 「わたしはくらやみをすきになりたい」の「すき」を別なことばでどう言い換えているだろう? そういうようなことを「ひそんでいる」「いる」「さわっている」ということばや、「ちから」「うちゅう」ということばと一緒に考えてみることができるとたのしいと思っている。

 四月から、月二回のペースで講座が始まります。
 受講生募集中です。
 講座日は第1・第3月曜日13時00分~14時30分
 4月1日、15日、5月6日(祝日)、20日、6月3日、17日
 申し込みは、朝日カルチャーセンター、博多駅前・福岡朝日ビル8階☎092-431-7751


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池澤夏樹のカヴァフィス(90)

2019-03-19 08:50:05 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
90 デーメートリオス・ソーテール(前一六二~一五〇)

ああ、シリアへ行きさえすれば!
彼はあまり幼くして国を離れたので
国のさまはおぼろげにしか憶えていない。
けれども彼の思いの中では祖国はいつも
神聖にして、畏敬の念をもって近づくところ、
とりわけ美しい場所、ギリシャの町と
ギリシャの港の光景のように、映っていた--

 ギリシャの町、港を直接「美しい光景」として描くのではなく、主人公の「想像」として描いている。「美しい光景」ではなく、美しい光景を「想像する」という精神の動きに焦点があたっている。
 実際の光景ではなく、想像する精神。そこにカヴァフィスは、自分自身を重ねているのだろう。
 カヴァフィスはいつでも「対象」ではなく、対象を思い出す(想像する)精神の美しさを書いている。それは「想像する力」を描くということになる。
 「ギリシャ」を繰り返すことで、想像力を駆り立てている。そこに切なさというか、切実さを感じる。

 池澤の註釈。

カヴァフィスは一つのもくろみが結局は失敗に帰した場合をくりかえし扱っている。本質的なところで敗者への共感のようなものがある。

 好みの問題だが、私は「敗者への共感」というものは「理性的(論理的)すぎる」と思う。「抒情的すぎる」と思う。
 私は、センチメンタルよりも、ロマンチックなものが好きだ。「理性/論理」でことばを整えるよりも、美しいものを美しいという理由だけでつかみとる視線が好きだ。美しものなど思い出している場合ではないのに、美しいものを思い出す、という理不尽な精神の動きの方を信じる。
 思うに、感情を「理性/論理」で整えるのは、精神の衰弱である。無軌道に突き進んで言って、たどり着いてみれば「荒々しい道(強い道)」が後ろに残っていた、という感じが好きだなあ。


カヴァフィス全詩
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書肆山田


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池澤夏樹のカヴァフィス(89)

2019-03-18 00:00:00 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
89 船の上で

もちろんこれも彼に似ている、
この鉛筆で描いた小さな肖像も。

 とはじまる詩の三連目。

似ている。けれども記憶にある彼はもっと美しい。
病的と見えるまでに繊細で、
それが彼の表情をエロティックなものにした。
今わたしの魂が、時の奥から、呼びおこす
その姿はこれよりずっと美しい。

 こう書くとき「病的と見える」のは実際のそのときの彼の姿なのか、「わたしの魂が、時の奥から、呼びおこ」したものなのか。
 「記憶にある彼はもっと美しい」が「わたしの魂が、時の奥から、呼びおこす/その姿はこれよりずっと美しい」と言いなおされるとき、ことばの重心は「彼」よりも「記憶」である。「記憶」が「彼」を美しくしている。「記憶」は「彼」を変形させている。
 実際に「病的に見える」のかもしれないが、「記憶」が「病的」にしたのかもしれない。「記憶」は「記憶」であるよりも、いつでも「理想」がまじっているだろう。
 そして、この詩の「病的」は「88 イメノス」の「不健康な衰弱的な快楽」ということばを思い出させる。それはこの詩では「繊細」とも言いなおされている。
 ギリシャ彫刻が健康な人間の姿をしていたのは遠い昔。九世紀にはすでに「不健康」が魅力になっていた。いま、カヴァフィスは、再びそのことを書いていると言えないだろうか。

 池澤は「肖像画」について註釈している。

写真以前の時代に肖像画は恋の小道具としてずいぶん大事な役をしていたのだろう。



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