詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

菅のめちゃくちゃな論理。

2020-10-09 19:00:05 | 自民党憲法改正草案を読む
学術会議問題「会長が会いたいなら会う」 菅首相
という見出しの、朝日デジタルの記事。
https://www.asahi.com/articles/ASNB95V9XNB9ULFA020.html?fbclid=IwAR3R8xvN5p7ysIPyX-SIz5T8PYKvgyUa9uD02UnHET7qNV8v86hBJ-6mWYM
とんでもないことを菅が主張している。
次の部分だ。


「首相が任命を決裁したのは9月28日で、6人はその時点ですでに除外され、99人だったとも説明した。」
↑↑↑↑↑
早くも始まった「ぼくちゃん知らない」の継承。
では、だれが6人を排除したのか。
責任を他人に押しつける。
しかし、「ぼくちゃん知らない」なら、「排除したのは間違い、ぼくちゃんが責任を持って任命する」と言えるはず。
それにさあ。
いままで言ってきた「俯瞰的、総合的判断」って、いったい誰の判断だったのか。
「首相(内閣総理大臣)が任命する」と書いてあるのに、「ぼくちゃんの知らないだれかの判断を追認することが、任命する」になるのか。
いったい、「最高権力者」は誰なのか。
言えば言うほど論理が破綻する。
この問題は、さらに「文書管理」の問題も引き起こすぞ。
学術会議は105人推薦した。菅は99人しか見ていない。
だれが学術会議の文書(推薦名簿)を改竄したのか。
改竄者の責任問題に発展する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バーツラフ・マルホウル監督「異端の鳥」(★★★)

2020-10-09 15:16:00 | 映画
バーツラフ・マルホウル監督「異端の鳥」(★★★)

監督 バーツラフ・マルホウル 出演 ペトル・コラール(2020年10月09日、キノシネマ天神、スクリーン3)

 これは語りづらい映画である。ということは、映画そのものである、ことばにするとつまらない、ということなのだが。
 ホロコーストを逃れた少年が体験する「日常」を描いている。しかし、「日常」なのに「瞬間」でしかない。「いま」しかない。過去もなければ、未来もない。過去に経験したことが何の役にも立たないし、これから先、何が起こるかわからない。
 唯一、これから起きることがわかるのは、少年がナイフを拾った場所を教えに行くシーン。そこでは少年は「うそ」をつく。「うそ」というのは、かならず「計画」を含んでいる。つまり、そこには「未来」が予想されている。予想されている「未来」のために「うそ」をつく。
 このシーンが、いわゆる「普通の映画」らしい唯一の部分。そして、ひとつのクライマックスでもあるのだけれど、このわかりやすいシーンだけが、なんといえばいいのか、興ざめするのである。主人公に感情移入して、「やったね」と言ってしまうのだが、つまり共感してしまうのだが、その共感がこの映画を壊してしまう。このシーンがなければ、私は★を5個にした。マイナス1ではすまない、マイナス2という感じで、よくないのである。
 このほかのシーンは、少年には、何が起きているのか、さっぱりわからない。どうすれば生き延びることができるのか、「計画」が立てられない。場当たりで、反応するしかない。
 女とのセックスのシーンがそれを端的に語っている。女は少年にクリトリスを舐めさせ、快感にふける。次にセックスに誘う。少年は慣れていないから(まだ10代の前半、もしかしたら10歳以下かもしれないので、あたりまえだけれど)、あっという間に射精する。女は怒りだす。さらには、山羊とセックスして見せる(そういう素振りをする)。こんなことは、少年には絶対に想像できない。わからないことが、次々に起こる。目の前で「他人の行動」として起きるだけではなく、自分の「肉体」そのものが、そういう「現場」に誘い出されてしまう。
 少年は最終的に生き延び、父と再会するのだが、あまりに過酷なことを体験しているので、どうしても「未来」がわからない。父親と少年は一緒にバスに乗って我が家へ帰るのだが、そのとき父親は「未来」がわかっているから、安心して思わず眠ってしまう。けれど、少年は「眠り」に身をまかせることができない。父親の手に刻まれた数字を見て、自分にはそれがないことを思う。そして、自分の名前を、バスの窓に書く。「いま」自分は「ここにいる」と。「いま」「ここ」を「名前」で結びつけて、生きていくしかないのだ。
 映画のタイトルは、エピソードのひとつからとってる。野鳥の羽にペンキを塗って空に放つ。すると、仲間の鳥が「色違い」の鳥を見つけて、一斉に攻撃をし始める。小鳥は力尽きて墜落し、死んでしまう。少年はかろうじて「異端の鳥」のように死なずに生きている。しかし、それは偶然である。
 しかし。
 あまりの残虐さ(陰湿さ)に、耐えられない人がいるかもしれない。私は怖いシーン、血が飛び散るシーン、残酷なシーンは大好きな人間だが、この映画には、ちょっとまいった。どのシーンも、それがストーリーとなって動いていくのではなく、ただ「いま」としてそこにあるだけだからだ。普通の映画なら、このシーンは残酷だけれど、ストーリーをこんなふうに「説明」している、と言えるのに、この映画では、ただ「残虐」なだけでからである。









**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「勧告なし」が特ダネ?

2020-10-09 07:59:39 | 自民党憲法改正草案を読む
「勧告なし」が特ダネ?

   自民党憲法改正草案を読む/番外403(情報の読み方)


 「日本学術会議」の問題の続報が2020年10月09日の読売新聞(西部版・14版)は1面に掲載されている。デジタル版では「独自」というマークがついている。「特ダネ」らしい。その見出しと記事。

学術会議見直し検討/政府「勧告10年なし」疑問視

 政府が、日本学術会議を行政改革の対象とし、運営や組織について見直しの検討に着手したことがわかった。年間約10億円の国費で運営されているにもかかわらず、法律に基づく政府への勧告が2010年8月以来、行われていないことなどから、河野行政・規制改革相の下、妥当性を検証する。

 どうして、これが「特ダネ」なのか。どの部分が「特ダネ」なのか。
 記事の末尾には、こう書いてある。

 政府は、自民党と連携して見直しを進める方針だ。河野氏は8日、自民党の下村政調会長と会談し、学術会議のあり方の検討で協力することを確認した。下村氏は7日、学術会議のあり方を検討するプロジェクトチーム(PT)を党内に設置すると発表している。
 これに関連し、内閣府の三ツ林裕巳副大臣は8日の参院内閣委員会で、学術会議のあり方を議論するよう求める山谷えり子氏(自民党)の質問に対し、「しっかりと受け止め、対応していきたい」と語った。

 「河野氏は8日、自民党の下村政調会長と会談し、学術会議のあり方の検討で協力することを確認した」は公表されているかどうかわからない。その場合は、これが「独自(特ダネ)」ということになるかもしれない。しかし、「下村氏は7日、学術会議のあり方を検討するプロジェクトチーム(PT)を党内に設置すると発表している」とあるから、これは他のジャーナリズムで報道されているかどうかは別問題として、「特ダネ」にはならないだろう。参院内閣委員会での三林、山谷のやりとりも公開されているから「特ダネ」にはならないだろう。
 そうすると、特ダネは「学術会議見直し検討」ではなく、学術会議が政府に対して10年間「勧告」をしていないことになる。(「見直し検討」は7日のニュースであり、8日のニュースではない。)
 でも。
 私は、見出しを読んだときも、思わず笑いだしてしまったのだが、勧告っていったい何?

 「勧告」というのは「こうしなさい/これをしてはいけない」というものである。普通は「勧告なし」が問題なのではなく、「勧告を受ける」ということが問題である。あらゆる組織(人間)にとって、「勧告を受けない/勧告なし」が「理想」である。よく新聞で見かける「公取委の勧告」「人事委の勧告」「労基局の勧告」というのは、すべて「勧告を受ける側」に問題があっておこなわれるもの。
 こういう勧告をすべきだったのに、その勧告をしていない、あるいは、政府が勧告を求めたが勧告しなかった、という指摘でないかぎり、勧告が10年間なかったという批判は意味を持たない。
 そのことを考えれば「勧告なし(勧告を受けなかった)」は政府が自慢していいことであって、勧告しなかった方が「仕事をしていない」という「証拠」はならない。「勧告なし」を「疑問視」する必要はない。少なくとも、政府側が、それ「疑問視」するというのは「論理的」におかしい。
 読売新聞は、いったいこの10年にどういう勧告をすべきだったと考えているのか。あるいは、政府がどんな勧告を求めていたと把握しているのか。

 国民が、「学術会議は勧告すべきなのに、何もしていない」という批判をするのならわかるが、政府が批判することではない。
 これは、こんな例を考えるといい。
 賭けマージャンが発覚した黒川が退職する。その黒川に退職金が支払われる。これはおかしいんじゃないかと国民が批判する。それに対して政府は「問題ない」という。いろいろな有識者の団体も批判している。しかし政府は「問題ない」という。
 批判を受けても問題がないと言い張る政府が、学術会議が何の勧告もしないと批判するというのおかしいだろう。

 どうして、こんな「記事」と「見出し」が成立するのか。
 根深い問題がここにある。
 この「10年間勧告なし」という情報源である。誰が調べた?
 普通、こういう「特ダネ」記事の場合は、「読売新聞が情報公開請求し調べた結果、明らかになった」という「ことわり」が書かれる。最低限「読売新聞の調べによると」という表現を含む。しかし、この記事には、それがない。
 誰が調べた? 誰の情報?
 新聞ではよく「政府筋によると(政府関係者によると)」というような「ことわり」も書かれている。その表現もない。
 これは何を意味するだろうか。
 私の「推測」だから、間違っているかもしれないが、このニュースは「政府筋(政府関係者)」からの「情報」をそのまま書いているのである。しかし、ここで「政府筋(政府関係者)によると」と書いてしまうと、政府の言われるがままにニュースを書いていることがあからさまになるので、それを隠している。
 学術会議が仕事をしてこなかったを証明するために、なんと、「10年間勧告してこなかった」と言ってしまったのだ。「しなかった」と言えば「仕事をしなかった」になると通じると国民に訴えることができると思ったのだ。
 「勧告」というものが、何か「改善」求められるものであるということ、「勧告を受ける側には問題がある」ということを忘れてしまっている。

 なぜ、こんなおかしな「論理」が「特ダネ」のなかで横行しているのか。
 インターネットでは、菅擁護の一環として学術会議批判が高まっている。それに便乗しているのだ。仕事をしていない、無用の存在と言いたいのだ。しかし、どうやったら「無用」を印象づけられるかを考えたとき、なんと「勧告10年なし」というところにたどりついてしまった。後先を考えずに「勧告を10年もしていない、仕事をしていない」と「政府筋」が読売新聞の記者に情報提供したのだ。記者は記者で、それを鵜呑みにした。10年間も政府に勧告を出していない、仕事をしていないじゃないか。
 これはね。
 くりかえすが、「10年間勧告なし」は、政府を批判し続けている人が、政府を非難しない学術会議は存在意義がない、というときの論理なのだ。学術会議は政府に勧告すべきなのに、何もしていな、そんものに金を出すなというときの論理なのだ。
 これは政府が学術会議の存在を見直すときの「根拠」には絶対にならない。ほんとうの「根拠」は別のところにある。それを隠すために、思わず「10年勧告なし」を書いてしまい、「墓穴」を掘っているのだ。

 私は、きのう夜が遅く、眠たかったのだが、読んだ瞬間にお笑いして、目がすっかり覚めてしまった。
 こんな情報をリークする方も、それをそのまま書いてしまう方も、それがどういうことを意味するか考えることもできないまま新聞に掲載する方も、ほんとうにどうかしている。
 このひとたちはみんな「日本語」を知らないのだろう。






*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柏木麻里『蝶/Butterfly 』

2020-10-08 10:03:47 | 詩集


柏木麻里『蝶/Butterfly 』(思潮社、2020年09月20日発行)

 柏木麻里『蝶/Butterfly 』は日本語と英語の二作組みの詩集である。英語版は、私にはわからない。ここでは触れない。ただ、右開きの本と左開きの本、縦書きの文字と横書きの文字が交錯するとき、それは単なる「開き」ではない。「水平」の動きだけではなく、「垂直」を感じさせる。その瞬間、本、ことばという「存在」が、一瞬、ふわりと浮き上がる感じがする。
 そして。
 糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(書肆山田、2020年09月30日発行)のことばは、「散文」のなかを動いているが、柏木のことばは、それこそ蝶のようにページからページへ軽々と待っている感じがする。
 「論理」があるのかもしれないが、瞬間的な感覚が「連続」(持続)を気にせずに、そのときそのときで、そのページで自己主張しているように感じられる。
 「羽化」という作品の19ページ。これは、18ページと向き合うことで、ほんとうの姿をあらわしているのかもしれないが(詩集自体が、二冊で左右に開かれることで「蝶」をイメージさせるように、それぞれのページは左右で開かれることで「蝶」になっているのかもしれないが)、あえて、左のページだけを引いてみる。

その朝
蝶ではないものへ
蝶をてわたしてゆく

羽化

 この3行目。蝶を「て」わたし「て」ゆく、と二回出てくる「て」の音、「手」のイメージが、この詩集のなかで、私にはとても鮮烈に見えた。「手」と「手」が出会い、触れ合う瞬間に「蝶」の形になる。そんなふうに「見えた」のである。
 「蝶をわたしてゆく」だったら、そういうイメージはあらわれない。「手渡す」ということばはふつうに使う。よほど意識しないかぎり「渡す」と「手渡す」は区別しない。ちゃんと相手に責任を持って渡せよが「手渡す」ということだろうが、そういう意識が「詩」のなかにきちんと反映してくることは、意外に少ないような気がする。会話で「手渡ししてくれよ」という感じでいうように詩のなかの「手渡す」を私は意識したことかない。あるかもしれないが、この詩でも、とくに「手渡ししてくれよ(相手の存在を確認してくれよ)」というイメージではない。
 柏木の詩のなかでは、ただ「て」と「て」が出会うということが、「手」を浮かびあがらせる。そして、出会ってしまった手は「蝶」になってしまうから、そのときは「渡す」はどこかへ飛び去ってしまっている。飛び去った「渡す」のかわりに「手」と「手」が蝶になっている……。
 ふいに、ここに柏木の「手」を見たのである。
 私は柏木に会ったことがないので、その「手」を見るといっても、あるいは「肉体」を見るといっても想像のものでしかないのだが、想像にすぎないのに「手」なのである。それも手首をくっつてけ、左右の掌をひろげて、「蝶」の形を見ている、柏木によって見られている「手」。まるで、両手が出会うことで、その内部に「蝶」が生まれるような「手」。それが「生きている」ものとして見えた。
 そして、こんなことも思うのだ。柏木の詩は短いことばを散らすように書かれている。これはワープロで書いているのだろうか。そうではなく、「手書き」なのではないのか、ということでもある。
 そんなこともで連想するくらい、私は「手」に引きつけられたのである。
 それから「舞」という作品の30ページと31ページ。

蝶と

蝶でない側が

いれちがい

いれちがい

舞う                               (30ページ)

蝶は

からだ

からだでない を

舞う                               (31ページ)

 「手」は「からだ」になっている。「手」も「からだ」も「蝶」ではない。しかし、それが「蝶」になって「舞う」。そのとき、「手/からだ」は「手でありながら手ではない/からだでありながらからだではない」。否定することで、いまを超える。いまここにあるものではない何かになる。「蝶」になる。
 ここでは柏木は「手」だけでなく、柏木の「からだ全体/肉体全体」そのものを「蝶」に変身させている。
 「ことば」も「ことば」でありながら、「ことば」ではない。

 詩は、「ことば」も「ことば」でありながら/「ことば」ではない、ものかもしれない。
 糸井の詩も、高貝の詩も、「ことば」を書きながら「ことば」ではないものをめざしている。
 柏木もそうなのかもしれないが、柏木は「蝶」というものを離れないことで、「ことば」を変えようとしている。
 そこが、ふたりとはちがうかもしれない。
 そして、柏木には、不思議なことに「手/からだ」の感覚(記憶)がどこかになる。それを私は感じた。
 これは、たまたま糸井、高貝、柏木の詩を行き来しているからそう感じることなのかもしれないが。











**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(2)

2020-10-07 09:29:59 | 詩集


糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(2)(書肆山田、2020年09月30日発行)

 ことばには「音」があると同時に「文字」がある。糸井茂莉は「文字」の触れ合う「音」にも見を傾ける。「目で聞く音」といえばいいのか。
 先日引用した「パ」「pas 」の「pas 」にも、それがある。フランス語を読んだことがある人には「パ」だが、読んだことがない人には「パス」と感じられるかもしれない。「文字」は「音」を裏切る。あるいは「音」は「文字」を裏切ると言えばいいのか、そこには奇妙な「ずれ」がある。この「ずれ」を「ちがい」と呼ぶこともできる。「ずれ」を「ちがい」ととらえなおすと、次の詩がおもしろくなる。
 14ページ。

百を白と読みちがえて、日のいちばんたかい時間の明るいめまいの
なかに置かれる。すこしぼやけたうれしいずれのなかに。けれど頭
上の一点、見あげるいちばんたかいところは不動のまま。日はま白
く百とおりにもずれ、この白さ。目の愉悦。

 「読みちがえ」と、くりかえされる「ずれ」。「目」が「まちがえる」とき、その目で見た「対象」が「ずれ」。対象のなかに「ちがい」が反映され、「日」は「白」に、「白」は「百」になるのか、「百」が「白」、「白」が「日」になるのか。どちらにしろ「白」がその中心にあって「ちがい」と「ずれ」を結びつけ、同時にその結合を分解する。
 この瞬間を「めまい」と定義し、さらに「愉悦」と言い直す。そして、それは「頭」のなかに起きるのだ。「頭上の一点」と「頭」ということばを引き出してしまうのは、単に「目」が「頭」のなかにあるからというだけではない。「空の、見上げるいちばんたかいところ」でも意味はおなじだけれど「頭上」と糸井はいいたいのだ。
 もし糸井のこの四行のなかで、言い換えの聞かないことばがあるとすれば(私は言い換えたが、糸井には言い換えられないことばがあるとすれば)、それは「頭」なのだ。そして、これこそ糸井の「キーワード」なのだと思う。
 「パ」と「pas 」。これをおなじ「音」と理解するのは、「頭」なのである。
 「頭」で聞く音(ことば)、「頭」で見る文字(ことば)がふれあって、世界を作り上げていく。
 そしてそのときの「頭」は、直感的にいうだけなのだけれど、高貝弘也の「頭」(ことばを選択するときに働く意識)とは少しちがう。高貝は日本の「古典の音(どちらかというと柔らかい)」のに対して、糸井は「pas 」のような「柔らかさとはちがう何か」を含んでいる。高貝の音は「肉体的」であるのに対し、糸井の音は「知的(より頭的)」である。
 こういう抽象的なことは、書いてもしようがないか……。
 26ページに、

             番いにもなれずにいる言葉が浮かんだ
りとどまったりしている。

 という表現がある。「言葉」と糸井は、ここで明確に書いている。「言葉」こそが糸井の関心事なのだ。高貝も「ことば」に関心を中心があると思うが、糸井のように「言葉」と直接的には書かないだろうと思う。高貝ならば、たとえば「こと(言)とは(葉)」のように「番い」そのものを分離させた何かとして書くような気がする。
 これもまた抽象的で、直感的な、思いつきにすぎないが。

 もう一度、別の詩で(断片で)、「ちがう」と「ずれ」、「文字(視覚)」について感想を書いてみる。34ページ。

白い夢の記述。ちがう。白い記述の夢。紙について、打ち捨てられ
た風にあおられる布について。骨。石灰。乾いた小石。白の固さに
ついて。日輪。その充溢について。文字を燃やす。思考はいっとき
覚醒する。始まりについて。そして恐らく破綻について。光る湖。
雪。落下するもの。水。白い記述の夢。ちがう。夢の白い記述。

 くりかえされる「ちがう」。それは、「発見した」ちがう、なのか。あるいは、ちがうと叫ぶことで「生み出した(発明した)」ちがうなのか。おそらく「発見したもの」ではない。最初から、そこにあったものではない。「ちがう」と叫ぶことで、そこにあるものを否定し、否定のあとに、別のものを生み出している。だから、そこには「連続性」がある。ちがうものなのに「連続性」がある。凸凸ではなく、必然がある。意識が連続しているのだ。紙は白い、布は白い。骨も石灰も小石も、羽毛も月も、日輪も。そこには「連続」と同時に「対比」(ちがうことの強調)もある。やわらかさと、固さ。さらに光を発する日輪と、光を反射する月。ここから「思考」がはじまり、「覚醒する」。それは「始まり」であると同時に「破綻」でもある。常に、すでに存在したものを破壊するとき、それは破壊であると同時に断片の誕生でもある。
 何とでも言える。「論理」だから。「論理」については、いつでも「ちがう」と異議をとなえることができる。ことばは。
 と、書いて。
 私は再び、直感的に思うのだ。糸井のことばは、いつでも「発明」の方へ動く。これに対して高貝は「発見」の方へ動く。高貝のことばを読むと、「あ、このことばの響きは遠い古典につながっているなあ、何か忘れてしまっていた音を呼び覚ますなあ、肉体の奥を刺戟してくるなあ」という印象があるのに対し、糸井のことばの運動は「頭」が覚醒する(攪乱される)という感じがする。
 おなじなのに「ちがう」といのうが、糸井。ちがうのに「おなじ」へと誘うのが高貝、という印象がある。












**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「公金」はだれのもの?

2020-10-06 09:21:04 | 自民党憲法改正草案を読む
「公金」はだれのもの?
   自民党憲法改正草案を読む/番外402(情報の読み方)

 「日本学術会議」の問題について、菅が新聞インタビューに答えている。 2020年10月06日の読売新聞(西部版・14版)は1面、2面、4面、10面で記事を書き分けている。2面が「要約」にあたる。見出しは2本。(番号は、私がつけた。)

①任命見送り正当性強調
②首相「学問の自由 侵害せず」

 ①については、記事ではこう書いてある。

 学術会議には多額の公費が投入されていることなどから、任命権の行使は当然とした。
 学術会議の年間予算は約10・5億円。内訳は人件費など事務局の費用に約5・5億円、政府などへの提言活動に約2・5億円、国際的な活動で約2億円などとなっている。

 公費を出しているから「任命権」がある。これは、一見正しいように見える。しかし、「日本学術会議法」に「政府が予算を出しているから、任命権は政府にある」と規定しているか。そんなことは書いてない。
 だいたい「公金を出しているから、何かに対して権力を行使する権利がある」というのはおかしい。
 「公金」のもとである「税金」は、政府の考えに反対の人も収めている。日本学術会議は、菅が設置した機関でもなければ、自民党が設置した機関でもない。
 もし、自分の考えを補強するための「機関」が必要だというのなら、菅なり、自民党が「自費」で設置すればいいのである。
 「公金」をつかうかぎりは、そこに自分の意思を恣意的に反映させてはいけない。
 「公費を投入しているから任命権がある」というのは錯覚である。「公費」には必ず政権批判者の収めた税金も含まれている。公費は菅の私費ではない。

 ②については、こう書いてある。

 「学問の自由」を侵害しているとの指摘に対しては、「全く関係ない。どう考えてもそうではないでしょうか」と語気を強めた。学術会議の会員であるか否かにかかわらず、大学などで自由な研究活動が行えるとの思いがあるとみられる。

 「学術会議の会員であるか否かにかかわらず、大学などで自由な研究活動が行える」という論理は、菅の決定を支持するひとの間で多く聞かれる論理だが、そういうひとは菅のいう「自由」に、金の問題をからめて見つめなおすといい。
 すでに菅は「公金を出しているから任命権がある」という旨のことを言っている。大学には公金が支出されている。つまりどんな研究にも公金が支出されている。公金を出しているのだから、その使い道を指定する権利があると、菅はいつでも言い直せる。そして、実際にそういうことが起きるだろう。
 そういうことをさせない、というのが「学問の自由の保障」である。そして、それは「権力は学問の自由を侵害してはならない」という、権力に対する「禁止規定」なのである。菅は、憲法が、権力がしてはいけないこと(禁止規定)で構成されているという基本的な事実を忘れ、憲法の精神から逸脱している。
 簡単に言い直せば「憲法違反」をしている。
 学者は、公金をつかって権力が望まないことを研究する自由を持っている。それを公金を支出しないという形で拘束するのは、憲法で禁じられている。
 どんな活動にも金がかかる。そして、その金の額の大きさは、何ができるかの規模の大きさにも関係してくる。「学術会議の会員であるか否かにかかわらず、大学などで自由な研究活動が行える」というのは空論である。会員であった方が(予算を多く持っていた方が)、より自由な研究活動ができる。

 どんな分野でもそうである。
 金がないと「自由な行動(自分の思いのままの行動)」はできない。金がなくても、自由にものは考えられる。金がなくても運動できる。金がなくても詩は書ける。小説は書ける。音楽活動はできる。「詩集出さなくたって、詩を書いていれば詩人でしょ?」「音楽活動ってコンサートだけじゃないでしょ? 家で一人で歌っていても音楽でしょ?」
 こういうことは、すべて実際に、そういうことをしていないひとの主張。
 すぐれた学問、芸術、スポーツには「公金」が支出されている。それは「公金」を支出することでそれを助成するためである。活動をしているひとは「公金」をもらうために活動しているわけではないだろうが、公金を受け取ることができれば、それを有効につかいさらに活動を推し進めることができる。自分の成長にもつかえるし、これから育ってくるひとのためにもつかえる。
 そして、こういうとき、どういう分野であるにしろ、何がすぐれているのかというのは「専門家」以外には判断がむずかしい。100メートル競走のようにタイムでわかることもあるが、多くのことは「客観的基準」があるようで、ない。誰に、何に「公費」を支出するかは、「専門家」に助言を受けるしかない。
 菅は「公金を支出する」権利を持っている(予算を提出できるのは与党だけである)。しかし、どの研究に金を出し、どの研究に金を出さないか(金を受け取る権利を持つ「会員」をどうやって選別するか)を決める権利を持っていない。もし、ある学問が研究に値しないというのなら、その「証拠」を示さないといけない。公金を支出しているからこそ、「公平」でなくてはいけないのだ。

 ところで。(補足だが)
 読売新聞は、とてもおもしろいことを書いている。「学問の自由」に対する学者の意見として、こうい声を紹介している。

 学術会議は17年、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」に反対する声明を出したが、一部の研究者からは「安全保障に関わる研究の禁止を大学などに強要していることこそ、学問の自由の侵害だ」と不満の声が出ている。

 これは、一見正しそうに見える。
 でも、これって、単なる「内輪もめ」の話であって、権力(政権)とは関係がない。それこそ「学術会議」が何をいおうと、その人が研究したいのなら自分で研究すればいい。菅の論法をつかえば、別に大学で研究しなくてもいい。
 言い直そう。
 読売新聞が紹介していることは、菅とは関係が6人を任命しなかったこととは関係がない。菅が「安全保障に関わる研究の禁止を大学などに強要している」わけではない。
 「学問の自由」というとき、問題としているは「(政治)権力」と「学問」の関係である。
 読売新聞は、その「政治権力」と「学問の自由」という問題を、学者内部の意見の対立の次元に引き下げて、「学問の自由を侵害しているのは学者だ(学術会議だ)」と主張することで、菅を援護射撃している。






*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎「夜のバッハ」を読む

2020-10-06 07:51:13 | 現代詩講座


谷川俊太郎「夜のバッハ」を読む(2020年10月05日、朝日カルチャーセンター福岡)

 谷川俊太郎「夜のバッハ」(『ベージュ』、新潮社、2020年07月30日発行)を読んだ。

立ち枯れてしまった意味の大通りを
幼児の一団がよちよち歩いて行く
ほつれたセーフティネットにひっかかって
老爺が一人雀のようにもがいている

議会では夥しい法案が葬られ
台所では昔ながらの豆が煮えている
地下深くゴミと化した歴史は埋められ
ウェブは無数の言葉を流産している

終わりを先延ばしして物語は始まった
既に言われたこと書かれたことに
望ましい沈黙が象嵌されている

未来の真実は現在の事実を模倣するだろうか
夜のバッハが誰に聞かれるともなく
人々の耳に近くチェンバロで呟いている

 受講生に感想を求めたところ、「一行目、立ち枯れてしまった意味、がいきなりわかりにくいのだけれど、いまの社会を憂えている」「いまの社会の状態を危惧している。反対する気持ちが表れている」「いまの社会の、ことばのあり方、ことばの形骸化について異議を唱えている」「現実と、バッハの神聖な音楽、精神性が対比されている」。
 うーん、なんだか、おなじような感想がつづいてしまった。最後の感想は、いきなり結論のような感じで、抽象的だ。共通しているのは、この詩に「いま」を見ていること。そしてその「いま」をけっして肯定しているとは感じていないこと。
 私は、受講生に感想を求めておいて、それを否定してしまうことになるのがちょっといやなのだが、こういう「要約」的な感想というものになじめない。バッハの精神性を持ちだしてくるのは的確だと思うけれど、ちょっと抽象的。もっと具体的感想を聞きたい。
 とくにむずかしいことばはつかわれていないけれど、わからなかったところはないかな? ということから問いかけなおしてみる。
 「幼児が突然出てくるところがわからない」
 「なぜ台所で豆が煮えている、という描写が出てくるのかわからない」
 「望ましい沈黙が象嵌されている、の望ましい、が何を指して言っているのかわからない」
 あ、ちょっとおもしろくなってきた。
 で、こんなふうに質問する。
 「なぜ、幼児が突然出てくるかわからないということだったけれど、幼児の一団がよちよち歩いて行く、という様子はわかる?」
 「それは、わかる」
 「それじゃあ、この詩のなかに幼児とは反対のことばはない?」
 「老爺」
 「ほかに反対というか、対になることばはないかな?」
 「一団(大勢)と一人」
 「歩いていくともがいている(歩けないでいる)」
 「感想のなかに、対比ということばがあったけれど、そこに注目すると、この詩からいろいろなものが見えてくると思う。一連目では幼児と老爺が対比するような形で書かれていることになると思う。二連目では、どうだろう。議会と対比されているのはなんだろう」
 「台所」
 「どうして?」
 「議会は公的な場所。台所は公的ではない」
 「議会ではことばがやりとりされる。台所では、ことばではなく豆が煮られている」
 「議会では法案が葬られるけれど、台所では料理が完成する。未完成と完成」
 「議会はウェブとも対比されている。でも、両方ともことばが飛び交うというのでは、共通している」
 「対比なのに共通もある、ということだね」
 「葬られると反対のことばは? 共通のことばは?」
 「埋められる、は共通している」
 「流産している、も共通するものがある。法案も赤ん坊も生まれてこない」
 「夥しいと無数も似ている」
 「葬られた法案と、ゴミと化した歴史も共通するかもしれないね。葬られ、ゴミとなってしまった法案。その歴史」
 こう読み進んでくると、ことばの「意味」は「辞書」に書かれているだけの「定義」ではないということが、だんだん肉体の中に入ってくる。言い直されたり、あたらしいことばが追加されながら、「いいたいこと」がすこしずつ見えてくる。「いいたい」ことが形になってくる。
 まだまだ、生まれる前の形だけれど。
 一連目、二連目には、わりと具体的なことが書かれている。「幼児」「老爺」「台所」「豆」などは、すぐに目に浮かぶ。
 これは「起承転結」でいえば、「起承」にあたる。だからいくらか似ている。そのために、また、わかりやすいと感じる。「わかる」というのは、ことばが重なり合い、それが「意味」に近づいていくことだと思う。
 三連目は、調子ががらりと変わる。一気に抽象的になる。だからこそ「望ましい」もわかりについ。「望ましい」自体はわかるけれど、なぜ「沈黙」を修飾しているのか。修飾すること(ことばが結びつくこと)で意味がどう変わるのか、それがわかりにくい。
 「終わりを先延ばしにして物語は始まった、というのは、わかったようでわからない矛盾した言い方だね。でも、物語、ということばはわかるよね。この物語に似たことばは、一、二連目になかったかな?」
 「歴史。歴史は、物語」
 「歴史って、何?」
 「いままで起きたことを記録したもの」
 「何で記録する?」
 「ことば」
 「既に言われたこと書かれたこと、というのは、既に言われたことば、書かれたことば、のことだね。歴史につながるね。ことばは、二連目の議会やネットにも関連している。議会、ネットでのことばは葬られたり、流産したりしている。でも歴史として書かれたことばは、葬られても、流産してもいない。そこにある。そこに、ことばはあるのだけれど、それだけが歴史の全てでもない。きっと書かれていないこと、ことばがある。書かれていないことばを言い直すと、どうなるかな?」
 「沈黙」
 「そうだね、沈黙にはことばがない。それは、議会に対する台所の豆みたいなものかもしれない。何か生活を支える実質的なもの。ことばに記録されないけれど、暮らしのなかで生きつづけていく命のようなもの。それが現実の世界にははめ込まれている。そのことばになっていない暮らし、いのちのようなものを、谷川は望ましい、と言っているだと私は思う」
 最終連。
 「未来と対比されているのは?」
 「現在」
 「真実と対比されているのは?」
 「事実」
 「でも、真実と事実、って違うもの?」
 「?」
 「歴史はくりかえすと言われることがある。繰り返しは、同じこと。おなじは、模倣、にもつながる。未来は、現在を繰り返し、事実を真実に高めるということかなあ。くりかえされ、生き残るもの、たとえば台所で煮える豆、というのは事実であると同時に、ものを料理して食べて人間は生きていくという暮らし方の真実を語っているかもしれない。バッハは、古典。古いもの。歴史。でも、その音楽はいまも聞かれている。それは、音楽のなかに、台所で煮える豆のよう真実、ことばにされることのない沈黙、のぞましい沈黙があるからかもしれない。呟く、というのは小さな声だね。小さな声は沈黙とは言えないけれど、聞こえにくい声。耳を澄まさないとわからない。いまもだれかの台所で、豆が煮えている。豆を煮ている人がいる。そういうことは、ことばにしてみないと、はっきりとは想像できない。でも、ことばにすると、はっきり見えてくる」
 詩は、意識していなかったものを、ことばにすることで見えるようにするものかもしれない。










**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高貝弘也『紙背の子』

2020-10-05 10:26:37 | 詩集


高貝弘也『紙背の子』(思潮社、2020年09月20日発行)

 高貝弘也『紙背の子』。
 難しい。ルビがついていることばがあるのだが、それを私のワープロ(と、ブログ)で再現するのはむずかしい。括弧でルビを表記する方法があるが、それでは、たぶん高貝の表現とは違ってきてしまう。「意味」は単に「ことば」だけにあるわけではない。表記の方法も「コンテキスト」のうちのひとつだからだ。ここでは、ルビを省略して引用する。一行空き、二行空きと「行空き」にも変化があるのだが、すべて一行空きで引用する。(正確には何行なのか判断できないからである。)また、おなじタイトルの詩があり、その「識別」をどう表記すればいいのか、悩ましい。ページ番号がないから、〇ページとはできない。このことは、あとで考えることにする。
 
 「逆光」という作品。

そこに、透かし入り

かみのよの

(……かみのよの、)

浅いあかみの黄色

 「かみのよ」とは何か。「神の世」「紙の世」「紙のよ(う)」。「透かし」とは存在を主張するのか、存在を否定するのか。「ある」のなか「ない」のか。ことばは、「意味」に直結しない。「意味」は揺さぶられる。
 「浅いあかみの黄色」という一行にも「かみ」は紛れ込んでいる。
 「かみのよの」と書いたあと、「(……かみのよの、)」と言い直す。そのときの括弧、……、読点は何か。声にならない意識。声にならないけれど、存在している。
 でも、それが「表記」として出現してくるということは、どういうことなのか。「表現」に変わるのは、なぜなのか。
 欲望があるのだ。
 それは高貝の欲望か、それとも「ことば」の欲望か。「ことばの欲望」に高貝が反応しているのか、高会の欲望を「表記されたことば」が反映しているのか。
 これは、よくわからない。
 ただ、ことばが「呼び掛け合っている」ということだけが、私の印象として残る。それは「かみ」(神/紙)という「意味」の二重性を超えて、もっと複雑になる。というか、この「かみ」は「あかみ」ということばのなかへ動いていったときから、「意味」を失い、「音」そのものとして響き始める。

さしかわし そのあと、揺れあう
紙背の子と
裏の水 もののすみ

 「あかみ」の「か」は「さしかわし」の「か」へ動き、「さしかわし」ということばのなかの「さ行」の音は「紙背」と響きあう。
 それこそ「紙の裏側(書かれていることばの裏側)」にあるものと響きあう。
 高貝の場合、その「裏にあるもの」(そのままでは見えないもの、意識できないもの)とは「音」なのだと私は感じている。 
「裏の水 もののすみ、」には「の」の繰り返しがあり「水」と「すみ」は音が逆転しながら(裏返りながら)重なり合う。まるで「透かし」のように、と私は一行目に出てきたことばを借りながら思うのだ。

--さようなら

とけこむかげから
かみの、きれはしを
ひかりのなかで

 ふいに転調したあと、ここでは「か行」が交錯する。「か」の音がくりかえされる。その「か」を少し響かせ、最終連は、

あの かげの
あわいひの、
浅い さみしいあさみどりよ

 「あの」「あわい」「浅い」。ふと漏れてしまう「あ」に導かれ、違う音にかわる。「さ行」にかわる。
 「浅い さみしいあさみどりよ」。「あさ」の繰り返し。「あさみどり」のなかには「あさいみどり」が隠れている。逸脱した「い」が「あさ」と「みどり」をさらに強く結びつける。「さみしい」の「み」の音も、非常に美しく感じられる。

 さて。

 何が書いてあったのか。「透かし」の入った「紙」を逆光で透かしてみたとき、動いたことばを、透かしの繊細さと響きあわせる形でととのえたということかもしれない。
 息継ぎとか、無言とか。いわば「肉体」の調子のようなものも反映させることで、その繊細さを強調している。繊細さを高貝の存在と重ねるように提示する。
 これをととのえなおして言えば「批評」になるかもしれないが、そうしてしまうことに、私はためらいを覚える。「結論」のようなものを書いてはいけない、と感じる。
 だから、こう言い直す。
 「浅いあかみの黄色」の「あかみ」ということば、そこから「さしかわし」ということばへ変化する響き。「裏の水 もののすみ」という行、「浅い さみしいあさみどりよ」の音の美しさが、私の「肉体」に響いた、と。








**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「学術会議不要論」のひとは、なぜ菅批判をしないのか。

2020-10-05 08:18:50 | 自民党憲法改正草案を読む
日本学術会議の会員任命問題で、不可解な反応のひとつに、こういうのがある。

「学術会議は不要だ。」

単独の主張ならば、これは意味を持つだろう。
だが、菅の6人任命拒否という問題と絡めて言うならば、「学術会議は不要だ」というひとたちは、なぜ、菅が99人も任命したことに対して黙っているのか。
99人と6人を比較すれば、99人の方がはるかに多い。
さらに。
なぜ、学術会議を存続させてきた安倍を批判しないのか。
もしほんとうに「学術会議」の存在を批判するならば、同時に学術会議存在させている菅を、存在させるために99人を任命した菅を批判すべきだろう。
「学術会議不要論」を持ちだした人がやっていることは、「学術会議不要論」を盾に、「菅批判を許さない」という「論理のすりかえ」である。
ほんとうに「学術会議不要論」を主張するなら、「6人を任命しなかったことを追及するだけでは手ぬるい。99人も任命した菅を許さない」という論理になるはずだが、私は「学術会議不要論」と「菅批判」をいっしょに展開しているひとの発言を、まだ、読んだことがない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

糸井茂莉『ノート/夜、波のように』

2020-10-04 10:55:14 | 詩集


糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(書肆山田、2020年09月30日発行)

 ことばは「コンテキスト」にしたがって意味を持つ。しかし、「コンテキスト」を逸脱していくことばというものもある。そのとき逸脱したことばは、どんな「コンテキスト」を求めて逸脱したのか。いまの「コンテキスト」の何が不満だったのか……。
 私は、その逸脱していくことばの欲望(ことばの肉体/ことばの思想)を知りたいと思う。

 糸井茂莉『ノート/夜、波のように』が何を考えて詩を書いているのかしらないが、私は私の欲望にしたがって、その詩集を読んでいく。
 5ページの作品。

くさはらの(草)。水うみの(みず)。あかるい夜、だから光ってい
る。くさを掻き分けさがす、逃げた夢の尾びれ。ときにひとの手
(と声)を借りて。くさを書き分け、なくした草稿のひとひら。彼
方でひかっている。(あれが、そう)

 「掻き分け」の「掻」は本文は「又」のなかに「、」があるが、私のワープロは文字を持たないので代用した。また括弧は本文は半角の活字をつかっている。私の引用では一行の長さがそろっていないが、本文はそろっていることを最初に断っておく。この詩集では、表記そのものにこだわっているからである。
 さて。
 この詩では、ひらがなと漢字が交錯する。漢字と漢字も交錯する。その交錯のなかで、ことばがそのことばにふさわしい「コンテキスト」を探しているように感じられる。「みずうみ」は「湖」という漢字があるのに、それを拒んで「水うみ」と書かれ「みず」と言い直されている。その逸脱をバネにして、書き出しの「くさ」と「草」は「掻き分け/書き分け」られて「草稿」の文字のなかへたどりつき、最後に「そう」という「音」になる。「肯定」の息。
 その奥には「ひと」と「ひとひら」も交錯する。草稿とは、ひとの「手」によって書かれたものが多い。(いまは、ワープロでも、草稿というかもしれないが。)この「手書き(草稿)」の「手」に「声」を追加していること、文字ではなく「音」にも「テキスト」の領域を広げていることが糸井のひとつの特徴かもしれない。
 ことば(言葉)の「葉」は「草の葉」なのかという思いも、私は抱く。それを掻き分けるときの触れ合う音、書き分けるときに消えていく音……。
 ことばを探している。そして、そのことばは、どうも「コンテキスト」にしばられないインスピレーションのようにやってきた「単語」の形をしている。しかし、それは、それでもやはり「コンテキスト」を求めているのだ。
 その「コンテキスト」は?
 (あれが、そう)。
 「あれ」としか言えない形で、糸井を誘っている。
 7ページの終わりの部分。

孤独に漂流する夥しい数の枕のように見える島々。パン屑のように
こぼれるその中身。世界は場所を知らず、洞となった私の夢が散
乱する詰物の乱雑さでみたされる。

 「島々」には「パンセ」、「中身」には「かけら」、「洞」には「うろ」のルビがある。「パンセ」から「パン(屑)」。そして、屑のように散らばっている(あるいは島のように散らばっている)ものが「パンセ」であると定義して、このことばたちは9ページのことばのなかに「コンテキスト」を投げ込む。

吃音の連続というより、孤独な自己主張の音として、パ。パンセの、
パスカルの、絶対的な不安の、破裂音としてのパ。攻撃のしずく。
あるいは唐突な閃き。制御できない懐疑の増殖として、パ、の連ら
なり。その暗さ。果てしなさ。宇宙的な静寂が押しつぶしてもなお。
そしてその強靱さ。スリッパの、ラッパの、消えてなお明るい残響
をしたたらせ、自らを砕く尊大な、pas の音。

 「音」には「おん」のルビがある。
 7ページの「孤独」と「パンセ」が引き継がれ、「パスカルの、パンセ」が定義される。断片は「吃音」か、吃音はことばの「破裂」か、あるいは、それは「増殖」か。「暗さ」であると定義することも、「明るい」と定義することもできる。「コンテキスト」は閉じられることなく、逆に開かれていくのである。
 「パ」はカタカナで書かれたあと「pas 」とアルファベットで書かれる。パスカルのことば、フランス語。否定の「ne……pas 」の「pas 」。
 5ページのことばは「そう」という肯定で終わっていた。9ページは「pas 」という否定が締めくくっている。肯定と否定が交錯し、糸井のことばは動いていく。「コンテキスト」を否定し(破壊し)、その断片(ことば)を別の形で肯定するために新しい「コンテキスト」をさがす。しかし、そこで完結するのではなく、さらに出現してしまう「コンテキスト」を疑い、その疑いの増殖としての、全体的孤独の「音」を求めているようだ。
 「コンテキスト」の美しさではなく、テキストなしで存在しうる「音」。意味がないことによって、意味を喚起せずにはいられない音。
 絶対音への憧れが、糸井を動かしているのかもしれない。

 ほかの人の詩集、詩と行き来しながら、糸井の詩を読み続けてみよう。(と、書いたけれど、あくまで、いまそう思っているだけで、つづけられるかどうかはわからない。あらかじめ断っておく。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学問の自由という幻

2020-10-03 22:35:16 | 自民党憲法改正草案を読む
facebookの中沢けいさんのページで、読者の、こんなコメントを読んだ。

「学術会議のメンバーにならないと学問の自由は侵害されるのでしょうか?
学術会議のメンバーから外されたら自身の主張はできなくなるのでしょうか?
そもそも学術会議の存在意義はどこにあるのでしょうか?」

この反応は、まさに菅・加藤が期待した通りの反応だろう。
独裁は、いつでも「見えにくい」ところからはじまる。
その「見えにくさ」を利用したクーデター(中日新聞・大森記者のことば)がいま起きている。
もちろん、学問はいつでもどこでも、できる。何を学びたいかは自分で決定できる。その「価値」を決めるのは、個人である。
しかし、
そういう自由な活動に対して、権力が、この学問は学術会議の会員にはふさわしくない(会員に任命できない)と価値判断を押しつけるのが「学問の自由」への侵害になる。
多くの学者が討議し、重要だと認めているひとを、権力が根拠も示さずに任命を拒否したことが、学問の自由の侵害につながる。
だれが認めてくれなくても「学問」はできる。
けれど、この「学問」は推奨するけれど、この「学問」はだめ、と権力がいいつづければ、「学問」の世界はしだいに、権力のいう「学問」だけになっていく。
極端な話、自民党政権を批判する研究には研究費を出さないという(そういうことを研究している大学への助成はしない)ことが決定されれば、政権を批判する研究、政権と国民の闘争の歴史研究などは、しだいに少なくなる。
逆に、自民党政権の功績だけをとりあげる研究者(学者)にだけ予算を投入するようになれば、そういう研究だけになる。
そういうことが「学術会議」だけではなく(つまり、しっかりとした理念を持った学者の世界だけではなく)、義務教育の現場でも行われるようになったらどうなるか?
侵略戦争の事実は教えられず、原爆の悲惨さを語り継ぎ平和教育もないがしろにされる。
そういうことが起きるはず。
実際に、平和憲法について勉強会を開こうとしたら会場を貸してもらえないということが起きていたりする。
「学問の自由」は個人の問題だが(何を学ぶかは人それぞれの自由だが)、この世界にどれだけ「学問」があるか、それを個人が個人の力ですべて見つけ出していくことはできない。
だから「教育」も大切になる。「学問」と「教育」はセット。
単に、「学問の自由」は、高等な「学問」をしているだけの問題ではない。
それはじわじわと、国民の教育(学問)全部に及んでくる。
「学術会議の存在意義」は、いろいろな政策がほんとうに国民のためになるのか、ということを専門的な知識を踏まえて政権に助言するということあるだろう。
そのときの「助言」というのは、ときには「批判」を含む。
「批判」を含むからこそ、その「批判」が気に食わないという理由で、政権は「メンバー」を拒否する。
そういうことが、いま起きている。
これを個人の「学問の自由」と言い換えてはいけない。
政権の「好みの学者の押しつけ」が、「嫌いな学者の排除」という形で起きているのだ。
「学問の自由は一人で守れる」というような言い方は、菅・加藤の代弁にすぎない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

破棄された詩のための注釈23

2020-10-03 22:31:31 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈23
                        谷内修三2020年10月03日

 過去が、まだ、残っていた。夏の終わりの光が、壊れた自転車に影をつくっていた。影は板壁に傾いて伸びていた。
 でも、何も私には近づいてこないのだ。そこに、ただ、ある。
 これは現在だろう。未来だろうか。
 彼は話している、彼と。私は話している、私と。ことばは話している、ことばと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金井雄二『むかしぼくはきみに長い手紙を書いた』

2020-10-03 11:35:25 | 詩集


金井雄二『むかしぼくはきみに長い手紙を書いた』(思潮社、2020年09月25日発行)

 金井雄二『むかしぼくはきみに長い手紙を書いた』を読みながら思う。金井の詩を金井の出している個人誌「独合点」やいろいろな同人誌で読んできている。詩集には、読んできた作品が収録されている。(未発表もあるかもしれないが。)思い出すこともあるが、思い出せないこともある。
 「台所の床で」という作品について書いてみる。
 書いたことがあるか、書いたことがないか。私は自分のことを思い出せない。同じことを書くか、まったく違うことを書くか。できれば違うことを書いてみたい。

眠くなったら
どこにいても
眠ってしまう
電車のなかでも
風呂のなかでも
ぼくのなかでも

 私も、どこででも眠ってしまう。目をつぶれば、おそらく10秒以内で眠る。眠くなくても。
 「ぼくのなかでも」という一行に非常にひきつけられる。そうか、眠るというのは「自分のなかで眠る」ことなのか、自分自身が「眠り」の入れ物になるのか、と納得してしまう。
 このあと詩は転調する。

過去におこったいやなこと
たとえば
雨に濡れた暗い歩道で蟇蝦を踏んづけてしまったこと
風に舞った汚れたビニール袋が顔にはりついたこと
心のなかにきざみこまれたさびしい言葉など

 この部分には「思い出す」という動詞が省略されている、と思う。眠りのなかで(夢のなかで)、ここに書かれていることを思い出す。「過去におこったこと」を具体的にみっつあげている。
 ここには、私の体験(過去)に重なることは書かれていない。だが、想像はできる。想像はできるが、歩道で蟇蝦を踏んづけるというのは、どういう歩道かなあ、と悩んでしまう。汚れたビニール袋が顔にはりついた、というのも違和感が残る。私は目が悪いせいか、この二行を一緒にしてしまっていて、

雨に濡れた歩道で汚れたビニール袋を踏んづけてしまったこと

 と読み違えていた。
 そして、「雨に濡れた歩道で汚れたビニール袋を踏んづけてしまったこと」ならば、松下育男や清水哲男が絶賛するだろうなあ、と思った。
 この、だれにでもありそうだけれど、それをなかなかことばにしないでいること、それをことばにするとき生まれてくるものがある。それが、まあ、「抒情詩」の「抒情」のようなもので、それは次の行の「さびしい」ということばにつながっていく。
 雨の日に、落ちているビニール袋を踏んづけても世界が変わるわけではない。自分自身に衝撃が走るわけでもない。ただ、あ、ちょっと気持ち悪いな。できれば踏みたくなかったなあ、くらいの気持ちだろうけれど、そういう他人から見ればとどうでもいいけれど、自分の肉体には響いてくるもの。そこに「さびしさ」をみつける。「さびしさ」と呼んで、「さびしさ」と呼ぶことで、残しておく。
 でも金井は松下でも清水でもないから、そうは書かずに、「蟇蝦を踏んづけて」「汚れたビニール袋が顔にはりついた」と書くのだけれど、これは私の感覚では、逆に嘘っぽい。私はそういう体験がない、とすでに書いたが、そういうことを体験しているのを目撃すれば、そのひとの「いやな感じ」はよくわかる、と思う。そして、よくわかりすぎるから、逆にいやなのだ。
 なぜか。
 よくわかりすぎて「いや」を通り越して、きっとそのとき、私は笑いだしてしまう。思い出したって、笑いだしてしまう。
 それは「さびしい」にはつながらない。
 何か、爆発的なものを含んでいる。だから、それは「おこったこと(起こったこと)」ではなく、「怒ったこと」としてなら、私の肉体は「理解」できる。カエルをふんづけて、「くそっ」とののしる。ビニール袋を顔から引き剥がし、「だれだ、袋を捨てた奴は」と怒る。これなら納得できる。
 瞬間的に「怒ったこと(ば)」が「さびしい言葉」だったというのなら、まあ、理解できないことはないけれど、それはそれで「心のなかにきざみこまれた」とはそぐわない。 書いてあることばは全部理解できるし、そのことばで金井が言おうとしていること理解できる(つもり)。とくに「さびしい言葉」の繊細さに、私は(前後の脈絡を無視して)共感もするけれど、何か、この長々しい行のことばには親身になれないなあ、と感じる。 詩はこのあと、さらに転調する。

目を覚ますと
すべては
まっしろな色にもどることができる

 ふーん。
 これも、私は体験したことがない。「眠っていやなことを忘れてしまう」というのは理解できるが、それが「まっしろな色」というのが、納得できない。いや、これは比喩であって本当の「色(まっしろ)」ではないと理解はするのだけれど、何か、ついていけないものを感じる。「もどることができる」の「もどる」という自動詞にも「えっ」と驚いてしまう。世界がかってに「もっどていく」?

だから
いつでもどこでも
眠ってしまう
今夜もきみは
そのまま倒れ込み
冷たく乾いた
台所の床で
たった一人で
昏睡す

 あ、「ぼく」のことではなく、「きみ」のことを書いていたのか。最初の「ぼくのなかで」と「ぼくの腕のなかで」くらいの意味だったのか。「ぼく自身の肉体のなかで」ではなかったのか。これまで読んできたのは「ぼく」の体験ではなく、「ぼく」が「きみ」から聞いたことだったのか…。
 何とも言えない、不思議な、「あっ」という声が漏れてしまう。

 こういう詩を読んだあとでは、「ヴァージニア・ウルフ短篇集を読んで」が、とても気持ちがいい。ウルフを読んだあとに書いたのか、ちょっといつもの金井の「文体」とは違う。

庭園の隅にあるスズカケノキ
その幹に触れてみた
樹の内側から
水をくみあげる感触が
伝わってくるかと思ったが
なにもなかった
ただザラリとした肌の匂いが
ぼくの手にしみついた
樹の根に座り込み
本を開いた
暑くもなく寒くもなく
風は東からかすかにふいていて
サンシュの樹もあった
サトザクラの枝がのびていた
タラヨウの葉が手招きしていた
この庭園のこの場所で
本を開きたかった
ぼくは乾いた喧騒をまるめて捨てて
胃袋のなかには幸福をつめ
頭のなかを
ヴァージニア・ウルフと
そして、あの日のきみとで
いっぱいにした

 どこがいつもの金井の文体と違うか。「サンシュの樹もあった/サトザクラの枝がのびていた/タラヨウの葉が手招きしていた」この三行の、「人情」を切り捨てて動くスピードが違う。ここには「非情」がある。「非情」が、人間の「肉体」を強く刺戟する。その刺激に反応している「肉体」の健やかさを感じる。
 それは「乾いた喧騒をまるめて捨て」るという感じに昇華していく。
 もう思い出すこともできないのだけれど、ずいぶん昔に読んだ葉紀甫の『不帰順の地』には、こういう「非情」があったな、という気がする。






**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(104)

2020-10-03 09:22:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくは低いところなら)

どこへでも行く 水のよう そして自らのなかに消える

 「自らのなかに消える」とき、そこに残るのは何か。「無我」ということばが浮かぶ。「我」はない、しかし、肉体はない。この「我」のない状態を嵯峨は、こう言い直している。

ぼくはぼくの名もない野花として
人間にむかつて手をさしのべる

 「野花」。しかもそれには「名」がない。「我」とは「名」のことである。「高名」ということばがある。その逆。「低名」の状態へと「ぼく」はかえっていく。そして「野花」になる。
 「名」のないものが「人間」と親和する。そうであるなら、「名」ものない人間は、みな親和できる。手をつなぐことができる。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池田清子「秘密」、青柳俊哉「水平線上の祈り」、徳永孝「カラス」

2020-10-02 17:32:09 | 現代詩講座
池田清子「秘密」、青柳俊哉「水平線上の祈り」、徳永孝「カラス」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年09月29日)


秘密 池田清子

三畳一間 三千円
半畳の押し入れ付き
本間の一帖は広かった

部屋にも玄関にも鍵はない
机とこたつとりんご箱
西日だけがよく入った
マーガリンはどろどろ
首筋にあせもができた

壁には手作りの大きなカレンダー
ロートレックの絵に十二カ月の日付をつけた
隣とはベニア板一枚 音楽がグラグラ

知った 学んだ 迷った 聞いた 話した
驚き つまずき 見つけ 考え あせった
没頭し 気づき 沈み あきらめた
静かに声をたてて笑い 思い 想った

三畳の部屋は 秘密にあふれていた

そして 今 私は
ここに こうして 在る

 学生時代の一人暮らし。アパートか、下宿か。1970年代の風景だ。私も他の受講生も、こうした空間、時間を経験してきたことがあるので、それぞれの青春を思い出し、共感が広がった。手作りのカレンダー、ロートレックには池田の個性が反映している。
 その「個性」のさっと一筆書きしたような描写のあと。
 四連目が印象的だ。
 「何を」という目的語がなく、「知った」「学んだ」という具合に動詞がつづいていく。部屋の様子だけではなく、池田の「息づかい」のようなものが感じられる、という感想があった。
 池田は、「怒った」など、「悪いことば」(否定的な印象を引き起こすことば)が足りないかなあ、反省していたが、私はこの連では「静かに声をたてて笑い」ということばが効果的だと思う。ここだけ、ことばが長い。「笑う」という動詞を説明している。
 そして、その「静かに」ということば、内省的な響きのあることばが、つぎの「秘密」に静かに、深くつながっている。
 私はこういう関係を「ことばの呼応」と呼んでいる。
 もしこの部分が、「明るく声を上げて笑い」だったら、「秘密」は「秘密」ではなく「青春の宝石」になったかもしれない。四連目のなかに、よろこびや輝きを感じさせる動詞がもっと多かったかもしれない。
 人に語らなかった秘密(内省)が、最後の「私」に結晶化していく。「私」がここに「在る」というとき、それは肉体的な「存在」だけを意味するのではない。精神や感情を含んだ「内的立体性」をともなっている。
 何気ないように書かれているが、だれにでも共通する「三畳一間」からはじまり、「手作りのカレンダー」というたったひとつのもの、個性的なものを媒介にして、様々な自己を動詞で描写し、そこから「秘密」を経て、「今の私」までことばを運ぶ。このことばの運動はとても自然だ。



水平線上の祈り  青柳俊哉

労働を終えたはれやかな舌へ 
祝福される 一日の光に焼かれた
黄色いナスと
空から注がれる自家製の白いワイン

菜園の果てを上りつめて石垣に腰かけ 
巨大な梨のような太陽が
海中に没していくのをみた
一日の終わりの 深い眠りの中へ

水平線のうえの 光を失っていく言葉が
葡萄(ぶどう)や玉蜀黍(とうもろこし)を積んだ船の祭壇をきずいて 
海の太陽に祈る 
あすの労働の すこやかな実りへ

 この作品には、多くの「ことばの呼応」がある。
 一連目、一行目の「はれやかな舌」について考えてみよう。「はれやかな舌」とは何か。労働を終えたあと、舌ははれやかだろうか。むしろ肉体の疲れのために、はれやかとは違うものが舌を支配していることが多いだろう。苦さ、酸っぱさが舌を刺戟しているかもしれない。けれど青柳は、「はれやか」と書く。
 ここには「はれやかな舌」ということばを読んだだけではとらえきれないものがあるのだ。
 「はれやか」に似たことばに「祝福」がある。「祝福」に似たことば「ワイン」がある。「祝福」のとき「ワイン」を飲む。そうすると、この一連目は、全体としては、働いたあと、食べて、飲んで、一日を祝福する。そういう雰囲気が「舌」のよろこびをよみがえらせているということにならないだろうか。「空から注がれる」ということばは「祝福」を強調するだろう。そのとき「はれやかな空」ということばを思い浮かべる人もいるかもしれない。
 文法的には「はれやかな」は「舌」を修飾している。だが、コンテキストの全体としては「舌」というよりも、労働のあとの「お祭り」を表現している。「祝祭」を先取りするようにして動いている。
 こういうことばが動くと、詩は,とても生き生きとしてくる。
 三連目の「光を失っていく言葉」という表現も、とてもおもしろい。「水平線のうえの 光を失っていく」ということばにつづくのは、ふつうは「太陽」だろう。たぶん、これは「太陽」の比喩なのだ。沈んでいく太陽の前を荷物を満載した船が横切る。そのときできるシルエットは「祭壇」のように見える。「祭壇」も比喩である。比喩とは「言葉」であらわした何かである。「言葉」そのものである。船のシルエットを「言葉」で「祭壇」と名づけたとき、そこに「祭壇」が浮かびあがる(きずかれる)のだ。
 この「祭壇」には一連目の「祝祭」や「空」も関係しているだろう。「空」は「天」であり、「神」でもある。
 「言葉」はこのとき、「太陽」の比喩というよりも、人間のこころの動きをあらわす「総体」になる。「言葉」で一日を振り返り、「言葉」で一日をつなぎとめる。そして、いのる。
 地中海やギリシャの海を連想させる明るく澄み切った世界だ。



カラス 徳永孝

パチンコ店のビルの上 バルコニー
送電線 電柱の上
その先に広がる枯れた畑

何千 何万のカラス
大きな群れ 小さな集まり
じっとしているもの 互いに話すようにしているもの
時に数十羽が飛びたち
また どこかからか戻ってくる

遠くの家並みは
人の気配が無く 車も通らない

ここは見すてられた植民地星
発見されたときはパラダイスと言われた
温暖な気候 豊富な水 四季さえ有る
地球に似た生物

多くの人が移住してきた
しかしこの星の生物は
全て地球生命に毒だった

人々はてってい的に消毒しドームを作り
その居住地を広げていった
だが原生生物の死がいやかけらは
雨やあらしにまぎれドームのすきまから侵入してくる
そのたびに人々はけんめいに排除した

その努力もついに力つき
じょじょにこの星を離れる人が増え
ついに完全に放棄された

でも あきらめきれず きどうえいせい星から観測をつづける
時々、我々のような調査隊が地上に降りたち
何らかの変化がないか調べるが
何の違いも無い

カラスは原生生物で
地球のカラスに似ているのでそう呼んでいるだけ

もっと大きく力強い
こう質の羽は金属質にかがやきはるか遠くまで滑空する

人類の侵入など
かれらにはほんの一エピソードにすぎないのだろう

いつか人類がこの星を征ふくできるのか?
それとも彼らの世界に侵入しようとするのは
人類のごうまんなのか?
答は、まだ見つからない 

なんてことを 空想し
遊んでいます

 この詩は、長い。最初の三連は日常の風景を描いている。それが四連目から「植民地星」という架空の場が舞台になる。この瞬間、一、二、三連は「架空の場」として読み直され、そこに登場するカラスも日常と架空を結ぶ存在となるのだが、その二重性がうまく動いているとは感じられない。
 「こう質の羽は金属質にかがやきはるか遠くまで滑空する」という魅力的な行がある。そういうことばを利用してカラスが二重させ、パチンコ店なども二重させる。ことばが「呼応する」感じが強くなると世界は生き生きしてくると思う。
 ドームの街とパチンコ店、カラスが二重になると、読者の想像力の中では、たとえば「侵入してくるもの」がいま世界を騒がせている「コロナウィルス」の比喩のようにして動く(世界をさらに二重化する)。ここに書かれていることは、空想なのだろうか。それともいまを象徴しているのだろうか。そういうことを読者に考えさせるようになると詩はおもしろくなると思う。
 ただし。
 そのときは、最初に書いたことと矛盾するが、この長さでは足りないかもしれない。詩ではなく「小説」になるかもしれない。
 受講生から「最後の二行はいらない」という指摘が出たが、私もそう思う。






**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする