詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野沢啓『言語隠喩論』(10)

2021-09-18 14:44:48 | 詩集

 

野沢啓『言語隠喩論』(10)(未來社、2021年7月30日発行)

 「終章 現実をそのまま書けるという幻想」。
 「終章」の最初の方に野沢は「どうも読んでくれているらしいのだが、残念ながらちゃんと理解してくれているとは思えない文章に出くわすことがあって、がっかりさせられることもすくなくない」と書いている。うーん、これは私のことかとも思うが、「ちゃんと理解する」というのは、私の場合、誰に対してもできないなあ。「読む」というのは「理解する」ということではなく、「読む」ことを通して「考える」ことであり、書くというのは自分の考えを「ことば」にして動かしてみる、確認するということだからだ。私は「理解したい」から読むのではなく「考えたい」から読む。開き直りみたいだが、まあ、開き直りである。
 何度でも書くが、私は、野沢の詩に対する特別な意識が理解できない。たとえば「詩を書くことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは書いてみるまえにはわからない」と書いているが、なぜ「詩」なのだろうか。私は「詩」に限定して考えることができない。また「書く」ということに限定して考えることもできない。「ことばを書くことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは書いてみるまえにはわからない」「ことばを話すことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは話してみるまえにはわからない」。それはさらには「ことばを読むことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは読んでみるまえにはわからない」であり、それは「ことばを読むことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは読んで、考えてみるまえにはわからない」でもある。
 野沢は「散文を適当に改行したものがほんとうの詩ではないのは、そこにあらかじめ仕込まれた平凡な流通的意味-価値しか存在しないからである」と書くが、それは野沢の問題視している作品が「散文文学」ではない、「文学」の領域に達していないということだろう。逆に言えば、散文の中には「適当な改行」を許さない文章というものがある。私がいま思い浮かべているのは、サラマーゴの『白い闇』というタイトルで邦訳されている作品である。原文は、読点(コンマ)はあふれているが、句点(ピリオド)がなかなか出てこない。この文章は、「適当な改行」を許さないし、「きちんと理解して」「改行」したとしても詩になるかどうかわからないが、読む瞬間瞬間において、私は、あっと驚く。読点の間合い、ことばの切断と接続の生き生きとしたリズムに出会ったときの、この驚きは、「詩」と呼んでいいものだ。それこそ「隠喩」に満ちたことばだ。ことばの衝突の「間合い」を含めて「隠喩」だと私は感じた。
 たとえば。
 書き出しは「Se ilumino el disco amarillo.」。「disco」は丸いものである。「丸い、黄色いものが光った」くらいの意味になるか。だから、この書き出しを読んだあるアメリカ人(スペイン語ができる)は「太陽を想像した」と言った。実は「信号」の円形の光のことである。ふつうに聞く信号「semaforo」という表現は後で出てくる。なぜ一般的なことばをつかわなかったのか。それは、この小説が、突然盲目になるという感染症が広がった世界を描いた小説だからである。私たちは、ふつう、信号を見るとき「色」だけを見る。でも、そこに色があるとき見ているのは「色」だけではない。かたちも見ている。その無意識に肉体が見て、無意識に肉体が排除しているものの存在が「disco」なのだ。つまり、この小説の書き出しは、人間には見ていながら見ないものがある。そしてそれは見えなくなる(盲目になる)ことによって見えるときがあるということの「隠喩」なのだ。この深い人間観察(洞察)を、人間ではなく、街のどこにでもある信号の描写のなかに集約させている。
 これは野沢もつかっている「身分け=言分け」という表現をつかって私なりに言いなおせば(野沢は違うかたちでつかうかもしれない)、こういうことになる。信号を見ているとき、人は色も形も見ている。しかし、ふつうは色しか意識しないので、その意識が色を識別するという肉体を動かし(身分け)、「黄色が点滅した」ということばになる(言わけ)。サラマーゴが書いているように丸い黄色(黄色い丸)が点滅したとことばが書かれるとき(言分けされるとき)、その背後では肉体が形と色を見るという具合に動いている(身分け)。肉体が色だけではなく形も見るという具合に動いてた(身分けしていた)からこそ、ことばは「黄色い丸が点滅した」という具合にことばがつかわれたのだ(言分けされたのだ)。「身分け=言分け」は、あらゆることばの現場で起きていることである。
 言いなおせば。
 「隠喩」は詩の特権ではない。優れた作品ならば、それが「散文」であっても「隠喩」に満ちている。「隠喩」が結び合って動き、世界を隠しながら切り開いて見せてくる。サラマーゴの書き出しでは「disco」ということばは「semaforo」ということば、その存在を隠しながら、ふつう、人間は信号を見ているとき信号のかたちが「丸い」ということを見逃しているという「事実」を切り開いて見せてくれる。この作品の書き出しには、歩行者用の信号が「青い人間のシルエット」を持っているということばも出てくるが、歩行者はたいてい「青」しか見ていない。しかし、そこには「歩く人間」がかたどられている。大抵は「四角い信号」のなかに「青い人間のシルエット」。でもね、ふつうは、そんなことを気にしない。「青」が見えればいい、と思っているからだ。信号の中のシルエットではなく、実際に生きている人間を、他の人間がどう見ているかはもっと複雑である。そのことも次々にあきらかにしていくこの小説にとっては「青い人間のシルエット」も強烈な「隠喩」である。もちろん、「隠喩」であることに気づかない人もいるだろうけれど。つまり、ことばから何を読み取るかという問題が、つねに「隠喩」にはつきまとう。それは「書く」人間だけの問題ではない。詩人だけが利用していることばの「働き」でもない。
 このことは、これから、もう一度触れる。

 野沢はデリダを引用しながら、「隠喩化作用(比喩が哲学的コンテクストのなかで隠喩になり、隠喩が固有の意味になること)」について、こう書いている。「第一の意味と第二の意味の二重の消失がどうしておこらなければならないのか」。これはもちろん反問のようなものであって、野沢は彼自身で、こう答えを代弁している。「隠喩」とは、「隠喩としては自ら消失し、その消失においてこそ隠喩としてひそかに復元するというじつにやっかいなシロモノなのだ、とデリダは主張する」。
 さて、ふたたび、サラマーゴの『白い闇』の「disco(円盤)」である。これは「信号」の言い換え、「譬喩」である。第一の意味は「信号」である。そして、「信号」の「意味」であると理解したとき、実は「信号の譬喩である(隠喩である)」という意味は消えて、「信号を見るとき、人は信号の色を見ているのであって形を見ているのではない」という別の「隠喩」、「人間の見ているものは何か」という問いとなって「復元」してくる。その問いは、もちろん気づかなければ気づかないでもいい。野沢は「ひそかに」という副詞をつかって書いているが、これは「わかる人」がわかればいいだけのことであり、「わかる人がわかればいい」だけなのだけれど、サラマーゴは「わかってほしい」と願って書いているだろうと思う。この小説にはいろいろな人々が登場し、いろいろなことばを言う。その「発話」のひとつひとつが、汲めどもつくせぬ「隠喩」になっている。「意味」がわかったと思った瞬間、「黄色い丸/丸い黄色」が「信号」だとわかった瞬間、「信号」という意味が消えて違う「意味」、人間は信号を見ているとき形ではなく色を見ているという「意味」があらわれると同時にそれさえ消えて、人間は何かを見るとき何かを見落としているという「深い意味」、「隠喩」を超えた「哲学(人間認識)」があらわれる。つまり、知っているはずの人間の中から、新しい人間が生まれてくるのを目撃することになる。その瞬間に立ち会うことになる。
 それは「黄色い丸が点滅した」(雨沢泰の訳は「丸い」を省略していて、サラマーゴのやっていることをたたき壊している/NHK出版)だけでも、そうなのである。人間は信号を見ているとき色だけではなく実は形も見ているという意識の覚醒が、その後の「見る」ということをめぐる「身分け=言分け」の世界を深め、肉体とことばは「哲学」そのものになっていく。繰り返しになるが、『白い闇』の書き出しから、読者は「新しい人間」の誕生に立ち会っているのである。

 かなり脱線したかもしれない。
 野沢は、デリダを、さらに他の多くの人をルソーの《最初の言語は比喩的でなければならなかった》と結びつけて、考えを進めている。はっきり理解しているわけではないが、野沢がこのことばを引用するとき、野沢の視点は「比喩(的)」ということばに向いているように思う。
 だからこそ、私はあえて問いかけてみたいのだが、ルソーが書いている「言語」とは、いったい何を指しているのか。ルソーの書いている「言語」というこばこそ「隠喩」なのではないのか。つまり「意識化されたことば」のことではないのか。言いなおすと、「いま私が言ったことばは、これまで言われていることばと違う」という意識でつかわれていることばを指すのではないのか。この本の最初の方で野沢は雷を体験した古代の人間が、驚きの中で発することばについて書いていたが、その驚きとともに発する「ことば」は、それまで知っていることばではない。知っていることばでは伝えられない驚きをなんとか伝えようとすることば、言いなおせば「最初のことば」を否定する「ことば」である。野沢の書いている古代人がいったい何歳の人間を想定しているのか知らないが、雷を初体験したわけではなく、雷を体験してきたが、それまでの体験をこえる雷に遭遇したとき、今までとは違うことばをいいたいという気持ちになったのだろう。つまり、そのときのことばは、「雷」ということばを知っていて、その知っていることを否定して、なおかつ伝えたいものを伝えようとするものだったと思う。「最初の言語」は最初に「意識化」された言語のことだろう。「意識化」を補わないことには、私には意味が理解できない。
 野沢の書いていることは、この「意識化」のことなのかもしれないが、どうにもわかりにくい。詩の特権化が無意識におこなわれているように、いくつかのことばが無意識的につかわれている(定義が明確にされていない)と私は感じてしまう。
 (この問題は、パロールとかラングとか、さらにエクリチュールとかという「用語」と関係づけて見ることもできると思うが、私はカタカナを正確に読むことができないので、これ以上は書かない。)

  もうひとつ。
 そして、このときの「意識化」の問題というのは、人が生きている「現場」によって、それぞれに違う。だから「隠喩」としての詩を必要とする人もいれば、違うかたちの詩を必要とする人もいるということも忘れてはならないことなのではないだろうか。野沢の求める詩は野沢の求める詩。ことばは、たとえば「日本語」とか「英語」とか言ってしまうけれど、ほんとうは個人個人の「野沢語」「谷内語」のようなものであって、「文法」が違うのだ。それは何も「文学語」だけではなく「日常語」においても。その「違い」をどう意識化するか、どう違いを共存させていくかということを考えないといけないような気がする。少なくとも、私は「詩の言語の特権化(隠喩の独占)」という野沢の視点には疑問を感じてしまう。私には私の目指す「言語」というものがあるけれど、だからといってその他の「言語」を排除はしたくないのである。他人の言語がなければ、私はことばで考えることができない。他人の言語は多ければ多いほどいい、と思っている。もちろん、それを全部つかえるわけではないし、つかいたいとも思わないが。

 

 


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自民党憲法改正草案再読(24)

2021-09-18 09:23:39 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(24)

(現行憲法)
第四章 国会
第41条
 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
第42条
 国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。
第43条
1 両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。
2 両議院の議員の定数は、法律でこれを定める。

(改正草案)
第四章 国会
第41条(国会と立法権)
 国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。
第42条(両議院)
 国会は、衆議院及び参議院の両議院で構成する。
第43条(両議院の組織)
1 両議院は、全国民を代表する選挙された議員で組織する。
2 両議院の議員の定数は、法律で定める。

 表記の変更と、「これを」の削除。「これを」という書き方がテーマの提示であることは、第42条、第43条の「文体」をみればはっきりするだろう。「これを」という再提示はしつこく、うるさい感じがするかもしれないが、憲法のような基本的なものには必要なことだと思う。

(現行憲法)
第44条(議員及び選挙人の資格)
 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律で定める。この場合においては、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。
(改正草案)
第44条(議員及び選挙人の資格)
 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律で定める。この場合においては、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。

 大きな変更点は「障害の有無」が改正草案で付け加えられたこと。これは、改正草案のいい点である。「但し」を「この場合において」と書き換えている理由はわからない。「この場合において」ということばを改正草案では他の部分でもつかっているか。丁寧に読んでみないと、「意味」(狙い)がわからない。
 「又は」については、先日、現行憲法は「又は」の前に読点をつけないのが普通である。現行憲法では「又は」で結ばれることばは、切り離せない、つまり「同一のもの」という認識があるのかもしれない、と書いた。「財産」と「収入」は基本的には違うが、「財産はあるけれど収入のない人」「収入はあるけれど財産のない人」の区別をしないためのものだろうか。「又は」の前に読点「、」があると印象が違う、ということを先日、書いた。
 これは強引な読み方かもしれないけれど、私は、とりあえずそう読んでみた。
 ところが「但し」「この場合において」は、どういう「違い」を明確にするために「この場合において」をつかったのかわからない。「但し」を「ただし」と表記変更する例は、次の第45条に出てくるが、「この場合において」とはしていない。
 ここには私には気がつきようのないとんでもない「罠(落とし穴)」があるかもしれない。第45条のように変えなくてすむなら、わざわざ変える必要がない。変えたからには何らかの「意図」があるはずだ。


(現行憲法)
第45条
 衆議院議員の任期は、四年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。
(改正草案)
第45条(衆議院議員の任期)
 衆議院議員の任期は、四年とする。ただし、衆議院が解散された場合には、その期間満了前に終了する。

 「但し」「ただし」は先に書いたので触れない。
 この条項では「衆議院解散の場合には」を「衆議院が解散された場合には」を書き直している。ここには大きな問題がある。
 「衆議院が解散された場合には」という文体の中では「国会」は「受け身」である。誰かが「国会を解散する」のである。だれがするのか。
 現行憲法では、第69条に「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」という規定がある。衆議院(主語)が内閣不信任案を可決(内閣信任案を否決)した場合、その決議が正しいかどうか国民に問うために内閣は国会を解散し、総選挙に訴えることができる。いわば衆議院の議決に対する「対抗手段」として内閣に「解散をする権利」を与えている。この「対抗手段」がないと、内閣は「独自性」を確保できないという考えに基づいている、と私は読んでいる。あくまで、衆議院の可決に対する「賛否」を問うのが「解散→総選挙」である。「議会制民主主義」に対して、一定の「歯止め」をかける条項といえる。内閣の構成員(首相)は選挙で選ばれた人である。その選挙で選ばれた人が「不信任」されたときは国民にその是非を問いかけることができる、という「権限の付与」ということになる。
 国会(衆議院)は「自動的」に解散できるわけではない。ちゃんと「任期」が決められており、任期の変更ができる(解散ができる)のは、内閣と国会が対立したとき(内閣不信任が可決されたとき)だけなのである。現行憲法第7条第2項を「借用」して、解散権を振りかざす首相が何人もいたが、第7条は天皇の「権能規定」であって、内閣(首相)について規定したものではない。あきらかに憲法を逸脱したものである。
 改憲草案の第45条は、そういう「経緯」を抜きにして「衆議院が解散された場合には」と書いている。内閣=首相(主語)が勝手に(不信任されたわけでもないのに)国会を解散するという一方的な「暴力」を許すことになっている。いま横行している内閣(首相)による民主市議の破壊を追認し、それを推進する条項である。「解散権」は、「内閣」の条項にふたたび出てくる。ここでは、その問題を「主語」を隠すことで、こっそりと忍び込ませていることになる。
 憲法は権力(内閣、首相)を拘束するためのものなのに、そのことが隠され、内閣(首相)が「主語」になって、国民を拘束するということが改憲草案で押し進められるのである。首相がかってに国会(衆議院)を解散できるのであれば、衆議院議員の「任期」はあってないに等しい。ある議員を落選させるために国会を解散するということさえできてしまう。内閣に人気があるうち解散し、野党の議席を減らす、内閣が不人気の場合は人気が回復するまで選挙をしない、という方法が横行することになる。
 実際、そういうことが、いま、起きている。
 きょうの読売新聞は「自民総裁選告示」のニュースと同時に、今後の「日程」について書いている。
↓↓↓↓
 政府・与党は、衆院選の日程について、10月26日公示、11月7日投開票を軸に検討を進めている。衆院議員の任期満了日(10月21日)以降の衆院選は、現行憲法下では初めてとなる。
↑↑↑↑
 任期が10月21日に満了になるのはわかっている。わかっているなら、任期が満了になる前に選挙をすべきだろう。なぜ、それができないのか。できないのではなく、しないのだ。いまは、菅が辞めたとはいえ、自民党の不人気がつづいている。ここで選挙をすればコロナ感染が終息しないことも影響して、きっと自民党は議席を減らす。その影響を少なくするために、選挙を先のばしにしているのだ。
 菅が辞任を表明したときは、国会を開いて、国会を解散させ、解散による総選挙というかたちにすることで11月28日まで投票日を延ばせる、ということが読売新聞によって報道されていた。コロナ感染がどうなるかわからないが、いまの感染者減少傾向がつづけば、自民党のコロナ対策は「成功した」という印象を生むことになるかもしれない。それを狙っているのだ。
 自民党の「議席確保」だけのために選挙(解散)が利用されようとしている。
 「衆議院解散の場合」「衆議院が解散された場合」の違いを見逃してはならない。

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建畠晢『剥製篇』

2021-09-17 10:46:03 | 詩集

 

建畠晢『剥製篇』(思潮社、2021年09月01日発行)

  建畠晢『剥製篇』の一篇、「犯罪惑星の斥候」。これを取り上げるのは、野沢啓『言語隠喩論』を読んだからである。私の言いたいことを書くのに、この作品が都合がいいからである。野沢の論を読むと、野沢が「隠喩」こそが詩の出発点であると言っているように思う。しかし、それではその「隠喩」はどうやって生まれるのかを説明しているようには思えない。「原始」とか「原初」とかが「隠喩」にかかわっていると考えていることはわかるが、どうやったら「原始」「原初」を手に入れることができるか。そのことを書いているとは思えない。唯一の手がかりのようなことばは「身分け=言分け」であるが、そのことを具体的な作品に触れながら書いているとは私には思えなかった。哲学者のことばをくっつけて「身分け=言分け」と論を進めているように思えた。
 野沢がどう考えているかわからないが、私自身が「身分け=言分け」をどう考えているかを書いてみたい。野沢が引用した哲学者のことばとも、野沢自身のつかっていることばとも違うかもしれない。いや、きっと違うだろう。私は野沢が引用している哲学者のことばをほとんど読んだことがない。私は目が悪いせいもあって、ほんとど本は読まない。
 一連目は、こうはじまる。

 惑星の朝ぼらけ。戦いの野は薄明に眠り、鉄の館はいまだ門
を閉ざし、私は惑星の犬とともに斥候に出る。
 
 この書き出しのなかにも「隠喩」がある、と私は読む。そして、そこには「身分け=言分け」がある。「朝ぼらけ」は「薄明」と言いなおされているが、その二つのことばは「眠る」という動詞と一緒に動いている。ふつう、「朝」になれば人は「起きる」。「眠る」ではない。「起きる」ことで初めて「朝ぼらけ/薄明」を認識できる。実際に、ここに書かれている「私」は起きている。しかし、起きているのに、起きていることを意識せずに、「眠る」という動詞の方へ意識をむける。なぜか。「斥候」は、他人に気づかれないように相手の動きを探ることだからである。「斥候」にとっては相手が無意識である(=意識が目覚めていない=眠っている)ということが好条件である。「私」は、相手が(そして世界が)眠っていることをまず確認するのだ。「戦いの野は薄明に眠り」の「眠る」という動詞は「斥候」にとっては不可欠な条件なのだ。「眠る」は「閉ざす」とも言いなおされている。「眠る」「閉ざす」は「斥候」自身の動詞(身分け)をあらわすことばではないが、「斥候」のしなければならないことを「暗示」している。「暗喩」している、といってもいいだろう。「相手に気づかれないように相手を探る」。「眠っている/意識を閉ざしている」ものを「探る」。「閉ざしている」「鉄の館の門」と敵の門ではなく、味方の門かもしれないが、それは「斥候」というものが多くの「味方」の知らないことを先に探るという仕事ととも関係しているからだし、もし「斥候」が「味方の知らないこと」を探るものなら、同時に味方を裏切るということも、どこかに含んでいるかもしれない。このままでは負ける。寝返ってしまえ、ということが「斥候」の行動になるかもしれない。
 そんなことを暗示させることばが、すぐつづく。

                    あいまいな意図を
もった犯罪はどの方角でなされるのであろうか。

 「あいまいな意図を持った犯罪」という、それこそ「あいまい」なことば。「戦い」なら「あいまいな意図」など、ふつうは、ない。「勝つ」という「意図」しかない。もちろん、この一文だけでは「意味」はわからないが、「味方も眠っている/敵も眠っている」という状況の中で、「斥候」である「私」が「はっきりとした意図」をもっていないからこそ、その意識のなかに「あいまいな意図をもった犯罪」というものが浮かび上がってくる。「探る」という「斥候」の「動き=身分け」が「あいまいな意図」という「言分け」を引き寄せるのである。
 これは、さらにおもしろい展開を見せる。

                      すべてを見逃
すための斥候であるから、朝霧に沈む川向こうの砦から点呼の
声が響いたとしても、あるいは不意に馬の嘶きが聞こえてきた
としても、気持ちを騒がせることはない。

 「斥候」がここでは「見逃す」という動詞で定義されている。ふつうに私たちが考える「斥候」とは違う「動詞」を「私=斥候」は考えている。そうなのだ。人間は、ふつうに考える「定義」とは違った「定義」を選び、生きることができる存在なのである。それは「他人」を裏切るだけではなく「自分」をも裏切るということかもしれない。「忠誠」であるという「自分」を否定して「不実」であることによって「生きる」を選ぶこともできるのである。
 人間は矛盾した存在である、ということが「隠喩」されているかもしれない。そして「隠喩」が指し示す世界は「動詞」のなかから生まれてくる。ある行動を選択する。「身分け」する。肉体をその選択にかかわらせていく。そうすると、その肉体の動き(身分け)によって、今までとは違った世界が「言語化される=言分けされる」。「身分け」する瞬間というか、「身分け」するまでに、人間は「あいまいな、どっちを選んでいいかわからない場」をくぐりぬける。そうした「場」を、私は「混沌」と呼んでいるが、混沌をくぐり抜け、実際にひとつの行動が決定されると、それに合わせるかたちで「ことば」も違って見えてくるのである。
 「斥候」が「点呼の声(戦いの準備の声)」を意図的に見逃す、「馬の嘶き」をあえて見逃す。それは、味方が戦いに勝つという意図に反する。「斥候」の目的に反する。その意識のなかから、さらに新しいことばが動き始める。「言分け」が始まる。

                   誰かが誰かをさらっ
た日は犯罪惑星の起源であり、彼らは暫定的な罪と罰を繰り返
しながら記憶の中を生き延びてきた。

 「罪と罰」は「暫定的」なもおよすぎない。「生き延びる」という動詞を選択するとき、罪や罰を気にするいのちはない。罪も罰もまた「身分け=言分け」にすぎない。そして、「言分け」とは「記憶」にすぎないのである。
 さて。
 では「言分け」(身分けを通して生まれてきたことば)が「記憶」であるならば、ここに書かれた建畠のことばの世界は、そのまま「詩」の「隠喩」になっていないか。
 最後の段落は、こう書かれている。

 犯罪惑星が音もなく運行する暗い宇宙。あいまいな意図を
もった犯罪の起源。暫定的に繰り返される罪と罰。点呼の声は
止んだ。静けさの中で時折聞こえてくる馬の嘶き。樹木の下で
惑星の犬は耳を立てる。やがて喊声が沸き上がるのであろう。
私はそのすべてを見逃すための斥候である。

 「喊声」は味方の声か、敵の声か。どちらでもいい。「すべてを見逃す」は、どちらにも与しないということを意味するだろう。どっちでもいい。それがあったということを、「見逃す=語らない」ことによって、別な世界を暗示する(隠喩する)のが「詩人」なのだ。建畠にとって、詩人とは「語らない」ことなのだ。もちろん、この「語らない」は「隠喩」である。「語らない」といいながら、「語らない」という方法を「語っている」からである。ことばは「語らない」ということを「語る」ことができるのである。
 「矛盾」したかたちでしか言えないことがある。「隠喩」でしか言えないことがある。そういう世界に建畠は対峙して、ことばを動かしている。

 建畠の詩の紹介というよりは、野沢の書いていることへの疑問だけにおわったかもしれない。
 だから、少し書き加えておく。詩集の中では「霧と剥製」が一番好き。巻頭の「あの声をどうして防ぐのか」も好きである。野沢の評論を読んでいなかったら、その二篇に触れながら感想を書いたかもしれないが、私は、どうしてもいま読んでいる本や、現実に私が直面していることにひきずられながら他の本を読んでしまう。だから、どうしてもこういう感想になる。
 「引用」抜きで、さっと書いておけば、建畠のことばには無駄がない。同じことばが繰り替えされてもうるさくない。また逆に、削りすぎているという窮屈感もない。ことばの呼応がしっかりしていて、構造にゆるぎがない。一方で、「わからない? そんなこと、私の知ったことじゃない」というような突き放したところもある。それも気持ちがいい。いいさ。どっちにしたって、他人のことばなんか、わかるわけがない。私は私の「意味」を生きている。私以外の「意味」を生きることができない。だから、自分の好みのままに読んで、自分が思ったことをただ書くだけだ。


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自民党憲法改正草案再読(23)

2021-09-16 10:54:41 |  自民党改憲草案再読

 

自民党憲法改正草案再読(23)

(現行憲法)
第38条
1 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
(改正草案)
第38条(刑事事件における自白等)
1 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 拷問、脅迫その他の強制による自白又は不当に長く抑留され、若しくは拘禁された後の自白は、証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされない。
 現行憲法の「強制、拷問若しくは脅迫による自白」を「拷問、脅迫その他の強制による自白」と改正する意図はなんなのだろうか。現行憲法の「強制」は必ずしも「拷問、脅迫」だけを指すわけではないのだろう。「お願いします」というかたちでの「強制」もある。「助言」というかたちの「強制」もあるかもしれない。しかし、改憲草案では「依頼」「助言」は「強制」にはならないだろうなあ。
 よくよく他の条文と(さらには法律と)あわせて読んでみないとわからない問題が隠れているかもしれない。
 「刑罰を科せられない」の削除も、有罪ではないのなら刑罰がないのは当然と思うけれど、では、なぜ現行憲法にはわざわざ「刑罰を科せられない」があったのか。それがわからない。13条の「個人」から「個」が削除され「人」になったのと同じで、よくよく考えてみないとわからないことが隠されているかもしれない。
 前にも書いたが、私自身が刑事事件を引き起こすという「可能性」について考えてみたことがないので、どうも真剣になれない。何かを見落としているだろうなあ、という不安がつきまとう。

(現行憲法)
第39条
 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
(改正草案)
第39条(遡及処罰等の禁止)
 何人も、実行の時に違法ではなかった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。同一の犯罪については、重ねて刑事上の責任を問われない。

 「適法であつた行為」と「違法ではなかった行為」は、まったく違う。たとえば「売春」が公認されていた時代、「売春」は適法だったと言うことができる。ちゃんと法律が「売春」を認めていたのである。ところが「違法ではない」というのは、法律が現実においついていかない場合のことがある。たとえば「著作権法」では昔の法律では「デジタルコピー」とういものは存在していなかったので「デジタルコピー」は「違法ではなかった」。「違法ではなかった」が法律を見直し、被害者を救済する(加害者を罰する)ということが改憲草案ではできなくなる。加害者を罰するはむりだとしても、それに連動する被害者の救済もむずかしくなる。これでは、なんというか、「法律ができる前に、やれることはやってしまえ」という風潮を生まないか。そして、そういう風潮は、普通の国民ではなく、法律をつくったり、施行したりするひとの「有利」にならないか。
 情報公開を請求された政府の資料。「完全公開しなければならない」という法律がないかぎり、どれだけ「黒塗り」にするかは資料をもっているひとの判断に任せられ、黒塗りした人は「違法ではなかった行為」をしたにすぎないから「無罪」だね。「無罪」なら、被害者救済も進まない。事実の解明も進まない。「赤城ファイル」問題は、こういうことを明るみに出す。きっと、これも「改正草案」の「先取り」というものだろう。

(現行憲法)   
第40条
 何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。
(改正草案)
第40条(刑事補償を求める権利)
 何人も、抑留され、又は拘禁された後、裁判の結果無罪となったときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。

 「又は」のつかい方が、微妙に違う。「抑留又は拘禁された後」「抑留され、又は拘禁された後」。読点「、」があるかないか。現行憲法は「又は」の前に読点をつけないのが普通である。現行憲法では「又は」で結ばれることばは、切り離せない、つまり「同一のもの」という認識があるのかもしれない。
 ここから振り返ると、第38条の「有罪とされ、又は刑罰を科せられない」という条文ができたとき「有罪」と「刑罰を科す」は「同一のもの」ではなかったということになる。「、又は」という書き方は「有罪」と「刑罰を科す」は同一でないという考えがあるから「、(読点)」を必要としているのだ。それがどういうときか、私には想定できないが、別のものと考えることが一般的だったのだろう。
 第39条の「又、」が改憲草案では削除されているが、これは「又、」があると「同一のものではない」という強調を消すためのものだろう。
 改憲草案に多く見られる「これは」という文言の削除、あるいは「及び」「又は」という何気なくつかっていることばの微妙な変化は、大きな「落とし穴」かもしれない。意味(というか、その条文の拘束力)が同じものなら、わざわざ変更する必要がない。時代の変化に合わせて緊急に変更しなければならない問題点なら、そういう「細部」にこだわらず、「細部」は踏襲して、必要な部分だけを最小限に改正するという方法があっていいはずなのに、改憲草案がやっていることはあまりにも「細かい」。「細かい」ことは、たぶん、見落とされる。見落とした方が悪い、と言い逃れる「悪徳商法」のパンフレットみたいなものだ。
 ことばは、「意味」だけではなく、「意図」を読み取る必要がある。

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野沢啓『言語隠喩論』(9)

2021-09-16 09:42:06 | 詩集

 

野沢啓『言語隠喩論』(9)(未來社、2021年7月30日発行)

 「第八章 言語の生命は隠喩にある」。
 私の書いていることは「揚げ足取り」というか、「後出しジャンケン」のように見えるかもしれない。しかし、公表されている『言語隠喩論』についての感想なのだから、どうしたって「後出しジャンケン」的な「揚げ足取り」になってしまう。
 私の疑問は、野沢の「詩の特権化」につきるが、その「特権化」の方法にはかなり強引なものがある。
 たとえば野沢は、こう書く。「散文的論理はあくまでもひとつの整合性をめざすものであってその先になんらかのテロスをもっているのにたいして、詩はそうした論理的帰結とはもっとも縁遠いものである。理屈で詩は書いてはならないし、そもそのまともな詩が書けるわけがない」。
 この文章をよく読むとわかるが、野沢は「散文的論理」と「詩」を比較しているが、実際にやっていることは「散文」と「詩」の比較ではなく「論理」と野沢が「詩」と読んでいるものの比較である。詩には詩の「論理」があるはずである。たとえば野沢は「詩は隠喩でなければならない」という「論理/結論」を持っている。その「論理」にしたがって野沢は詩を書いているし、詩の評価もその論理に基づいている。
 「論理」は当然「結論」を持つが、それは「散文」が「結論」を散文の先にもっているということではなく、あくまで「論理」がもっているのである。これは「音楽」でも「絵画」でも同じだろう。音楽そのものは「結論」をもたないかもしれない。しかし「音楽的論理」は「結論」を持つだろう。音楽(楽曲)はたいてい、いわゆる「ド」や「ラ」で終わる。これが「ファ」や「シ」で終わったら、妙に感じるかもしれない。私は音痴なので、はっきり妙な感じをもつとは言えないが、それでもたとえば「月の砂漠」の最後が「ドシラ」で終わらずに「ドシファ」だったら変だなあと思うだろう。ピカソの「ゲルニカ」に青の時代の貧しいピエロのようなタッチと色が紛れ込んでいたら、ここの部分、どうもおかしいと感じるだろう。「論理」というのは明確に言語化されないときでも存在している。言語化されていないから存在していないとは言えない。そして「論理」というのはいつでも「後出しジャンケン」だから、必ず「結論」は正当化される。ピカソの「アビニョンの娘たち」は最初は批判されたが、いまでは現代絵画の出発点のように「評価(結論)」されている。その「評価/結論」にむけて、新しい「論理」が展開されたのだ。これはピカソが「論理」をもって、そういう「結論」にむけて「アビニョンの娘たち」を描いたかどうかとは関係がない。ピカソは「論理(ことば)」で描き、「結論(ことば)」に到達したのではないからだ。「ことば(論理/結論)」は遅れてやってくるのだ。
 つまり、というのはかなりの「飛躍」というか、脱線、いや「誤読」なのかもしれないが。
 野沢は詩は「論理」なし、つまり「結論」を想定せずに書かれているというが(これはたぶん野沢の実感)、散文だって「結論」を想定せずに書くということはあるのではないのか。森鴎外は「渋江抽斎」を書いたとき、渋江抽斎が作品の途中で死んでしまう、ということを想定していたか。渋江抽斎が死んだ後でも、「結論」を目指してことばを動かし続けたのか。私には、どうしても、そう考えることはできない。プラトンというかソクラテスと言っていいのか私にはよくわからないが、「対話篇」のことばは「結論」を想定して動いたのか。話し始めたら、たまたまそうなった、というだけではないのか。そして、その「対話」が終わった後、それを読み返せば、そこに「論理」が存在するというだけのことではないのか。もう一度書くが、「論理」も「結論」もあとからやってくる。それは「後出しジャンケン」である。
 これは、こう言いなおせるだろうか。私には作者の「論理/結論」とは別に、受け手の「論理/結論」というものがあるように思える。そして「作者の論理/結論」と「受け手の論理/結論」は完全に一致するものではないからこそおもしろいと思う。受け手が「作者の論理/結論」をそのまま受け入れれば、すべての作品が「傑作」になるのではないだろうか。
 現代物理の「論理」は少し違って見えるかもしれない。「論理」が先行する。「結論」が正しいかどうか、膨大な実験で「実証」し、実証されてはじめて「理論」になる。逆に見えるが、「後出しジャンケン」が起きていることを決定するという意味では同じなのだ。実験で起きたことを「論理」でととのえ直すことができるから、その論理は正しいということなのだ。
 「理屈で詩は書いてはならないし、そもそのまともな詩が書けるわけがない」と野沢は書くが、散文(たとえば小説)だって同じだろう。詩だけを特権化してしまう「根拠」が私にはわからない。ただ野沢が詩を書いている、ということ以外に特権化の理由がないのだとしたら、同じ主張を散文を書いている人、音楽をやっている人、美術を自分の人生だと思っている人が小説を特権化し、音楽を特権化し、美術を特権化してもいいだろう。詩の特権化に意味があるとは、私は思えないのである。

 「散文的論理」を野沢は「哲学」と同一視しているように見える。「詩と接近と訣れ」という項目を立てて、哲学と詩の違いを検証している。
 そのなかで私がいちばん注目したのはニーチェのことばである。野沢は、次の文章を引用している。「われわれの感官知覚の基礎になっているものは譬喩であって、無意識的な推論ではない」。これは、私の受け止め方では「われわれの感官知覚の基礎になっているものは譬喩であって、譬喩というのは、言いなおすと意識的な推論(論理)である」という意味になる。そして、その「意識的な論理」を言いなおすと「類似のものを類似のものと同一化すること--一方の事物と他方の事物とにおけるなんらかの類似性を見つけ出すこと、これが根源的な過程である」になる。「一方の事物と他方の事物とにおけるなんらかの類似性を見つけ出す」というのは「AとBは別のものであるけれど、二つのものの間には似たものがあると、ふたつの存在を知った後で、後出しジャンケンのように指摘すること(見つけ出すこと)」である。この「後出しジャンケン的発見」は「記憶」となる。そして「記憶はこの活動によって生き、間断なく練習をつづけている。混同ということが、根源的な現象なのである」。野沢がこの文章をどう読んだか、私にはよくわからないが、私なりに読めば、「類似」をつぎつぎに発見し、「A=B」という「譬喩」を「記憶」として積み重ね続けると、いつしか「混同」がおきる。「A=B」が「B=A」になったり、「A=B」「B=C」から「A=C」になったりする。「君はバラだ」「バラは甘く匂う」から「君は甘く匂う」になったりする。「バラの花びらは柔らかく傷つきやすい」から「君はバラの花びらだ」になったりもする。この「混同=根源的な(錯覚)現象」のために必要なのは「無意識的な推論」ではなく「論理的なことば」である。「論理的なことば」だけが「間違える」ことができる。もっと正確にいえば「正しく間違えることができる」。私の考えでは、この「正しく間違える」ことが「隠喩」なのだ。そして「正しく間違える」ためには、まず「論理」が必要なのだ。
 野沢が「原初的な叫び声」と読んでいるものは、私からみると「正しく間違える」という欲望になる。他人の語っていることばでは満足できない。そして、「正しく間違える」というとき、その主眼は「間違える」ではなく「正しく」にある。「間違える」けれど、そこには「正しさがある」というのが「譬喩/隠喩」の「論理」ということになるだろう。「譬喩」をつかうとき、そこには「私には私の正しさがある」という主張があると思う。それはあくまでも既にあるものへの「異議申し立て」であり、「論理」である。

 野沢はシェリーのことばも引用している。「言語の生命は隠喩にある。すなわち、言語は、事物の、まだ理解されずにいた関係を明確にし、その理解を永続せしめるものである」。野沢は、これを詩にだけに結びつけるのだけれど、私は詩以外の言語にも、それは適用できるものだと考える。私はいまサラマーゴの『白い闇』という小説を読んでいる。視界が真っ白になるという感染症が広がる。そのとき人はどう行動したかを描いている。それは私から見れば「《喩だけで成立している》テキスト」である。「《喩だけで成立している》テキスト」のことを野沢は「詩と呼ぶべきものである」と定義しているが、それでは『白い闇』は詩なのか。

 私の書いていることは、「論理」ではなく「支離滅裂」なことばかもしれない。それは、そうなのである。私はいつでも「結論」を想定せずにことばを書いている。つまり、野沢は「散文的論理はあくまでもひとつのひとつの整合性をめざすもの」と書いていたが、それはあくまでも「論理」の問題であって「散文」の問題でも「ことば」の問題でもない。だから詩の対極に「散文的論理」を設定し、その枠内で「言語隠喩論」を展開しても、それは「散文」と「詩」の違いを証明することにはならないと思う。詩を特権化することは、詩の強化にはつながらないと思う。特権化はいつでも「排除」と背中合わせだからである。野沢は「哲学」と詩を接近させて論を展開するが、ことばの到達点は「哲学(書)」のなかにだけあるのではないと思う。言いなおせば、参照すべきなのは「哲学(書)」だけではないのではないだろうか、と思うのである。

 さて。
 この章では、野沢は島崎藤村、土井晩翆の詩を吉本隆明がどう読んだかを引用しながら、とても興味深いことを書いている。土井晩翆の「星と花」の一部。

同じ「自然」のおん母の
御手にそだちし姉と妹
み空の花を星といひ
わが世の星を花といふ。

 吉本はこれを「この詩の芸術的自立感は、ただ星を空にある花として意味連合し、花を地上の星として意味連合させたことによるだけであることに注目すべきである。いわば、喩法だけで成立している詩ということができる」と書いている。これを受けて、野沢はこう書く。「ここでの〈意味連合〉とは、いまならたんに初歩的な隠喩と呼んでもかまわないものだが、こうしたレベルであっても原初的な喩が動き出した時代を的確につかんで《喩法だけで成立している詩》として方法的に見出していく吉本の詩史論的嗅覚はさすがである。わたしからすれば、《喩法だけで成立している》テクストこそ詩と呼ぶべきものなのであって、吉本はそこまで喩の自立性を信憑していなかったことになる」。
 「初歩的な」ということわりをつけているのだけれど、野沢は「星と花」のことばを「隠喩」と呼んでいる。そして「《喩法だけで成立している》テクストこそ詩と呼ぶべきもの」と言っているのだが、ここに書かれている「初歩的」と「現在の詩(初歩的ではない詩)」への移行がどうやって行なわれたのか、その「詩史」が書かれていないので、わたしはびっくりしてしまう。いまでも、野沢は、この「星と花」を詩であると「評価」するのだろうか。この本のなかに引用されてきた安藤元雄、石原吉郎、高倉勉、氷見敦子の作品などと比べると、私には、その接点というものがみつけられない。
 さらに「喩法」ということばを野沢はつかっているが「法」であるなら、それは「論理」ではないのか。今回の最初に引用した野沢のことばに「散文的論理」という表現があった。「喩法」とは「譬喩の論理」のことではないのか。「散文の論理」ではなく「譬喩の論理」だけで成立していることばの運動、それが詩、というものならば、やはり詩にも論理が存在し、論理が存在するところでは結論が生まれてしまうということにならないか。

 書かれなければならないのは「喩の論理(隠喩の論理)」なのではないのか、と私は思っている。具体的には、「星と花」が「喩法だけで成立しているテクスト(詩)」であるというのなら、その「喩法」のなかに、野沢がこれまで書いてきた「身分け=言分け」がどんなふうに実行されているかを書かなければならないのではないのか。「初歩的」というのは多くの人ができることに通じると思うが、野沢は、この詩にどんな「身分け=言分け」の動きを見ているのか、ことばの「初心者」にもわかるように書いてほしいと思う。

 


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長田典子『ふづくら幻影』

2021-09-15 08:58:46 | 詩集

 

長田典子『ふづくら幻影』(思潮社、2021年09月01日発行)

  長田典子『ふづくら幻影』の「夏の終わり」にも「降りる」という動詞が出てくる。野沢啓が高く評価している高倉勉、氷見敦子の作品に出てくる「降りる」である。「降りる」という動詞の働きについて野沢は書いていなかったが、私は「降りる」という動詞こそが高倉勉、氷見敦子の作品を読むときの「キーワード」だと思った。地底(鍾乳洞)へ降りることで、地上では見えなかったものを発見する。それを明るみに出す。
 長田の作品では、こうつかわれている。

ダムの施設点検のために
湖から水が全部抜かれたことがあった
家の跡が見られるかもしれないというので
家族で底まで降りて行ったのだ

 この「降りる」は高倉、氷見のつかっていた「降りる」に通じる。「降りていく」ことで過去(歴史)に出会う。隠れていたものに出会う。それは知っているには知っているが、自分ではまだことばにしたことのないものだ。
 それは、何か。

わたしたちは 無意識に
庭の入り口だった場所から
失われた空白となった土地に入って行った
ここが庭 このあたりが築山
ここには柚子の大木があった
母屋はここ 玄関 台所 風呂場
製紐工場は母屋に対して直角に建っていた

 この部分は、「谷川さん、詩をひとつ作ってください。」という映画に出てくる、東日本大震災の被害者の中学生(だったかな?)のことばに似ている。津波で跡形もなくなった家の跡を訪ねる。そこで、ここが台所、ここが私の部屋というようなことを言う。それは単に場所の記憶ではなく、場とともに生きる肉体の記憶だ。肉体で何をしたか。玄関で靴を脱ぐ。台所で大根を切る。風呂場で体を洗う。肉体の記憶へ、肉体の時間へ「降りて行く」。そのことばの前では、谷川の詩は無力である。突然噴出してきた「他人のことば(他人のことば)」が谷川を圧倒して、存在している。そこに私は「詩」を感じた。谷川が主人公の映画なのに、谷川がかすんでしまう。それを谷川は受け入れている。
 きのう書いたことに関連して言えば、谷川はその女子中学生のことばをどんなに詩に書きたかっただろう、と思ったに違いないと思った。でも、書くことはできない。映画の中で少女が言ってしまっていて、谷川が出てくる映画を見た人は、そのことばが少女のことばだと知っているからだ。谷川も、その少女の肉体を見て(直接か、間接かはわからないが)、その肉体を覚えている。それは谷川の肉体とは絶対に違う。ことばはときどき「肉体」そのものをもって動くのである。
 長田は、その映画を見たかどうか、私は知らない。見ていたって、かまわない。同じ映画の中で長田と少女が一緒にいたわけではないのだから。谷川は少女とは顔を合わせていないかもしれないが、映画の中で一緒にいた。それが問題。もし、バスの中で聞いた誰かのことばなら、谷川はそのままつかえる。同じバスのなかにいたということを知っているのは谷川だけであって、私たちはそれを目撃していないからだ。だれも少女の肉体を思い出せない。そこには単純に「ことば」があるのだ。詩のことばは「自分が生む必要はない。選んでいけばいいんだ」というのはそういう意味だろう。映画の中の少女は、自分でことばを選んでいる。それが自分の肉体だと差し出すことを選んでいる。映画に、ことばと肉体を撮られていることを知っている。でもたまたまバスの中でいっしょになった少女は、肉体を差し出しながらことばを選ぶということをしていない。だから、谷川は肉体を引きずっていないことばを「選ぶ」のである。それに谷川の肉体(谷川のなかに存在する少女の肉体)を重ね、少女になる。ことばとともに少女として生まれ変わる。これは野沢がつかっていた表現で言えば「再=構成」「再=創造」ということになる。私の「誤読」では、だが。
 長田は、このあと、こんなことばを「選んでいる」。

いつも陽が射した明るい道は見当たらず
棚田は埋もれ
土が水平に広がって
集落は もう本当に閉じられてしまった、

 「埋もれる」という動詞がつかわれている。「埋もれる」は「閉じられる」と言いなおされている。「降りて行って」「埋もれる」「閉じられる」を長田は見つけ出している。その途中で、長田は、

ここは むかし道だったのだから

 ということばを繰り返している。「埋もれた/閉じられた」ものは家や田んぼだけではない。「記憶」が「埋もれ/閉じられた」のである。だから、それを「掘り起こし/開く」のである。
 この「埋もれる/閉じる」と「掘り起こす/開く」という相反する動詞の動きを通して、私はたとえばダムが支えた経済成長の時代、そのために失われたものというものを想像したりする。「埋もれる/閉じる」「掘り起こす/開く」という動詞を通して、単に長田(一家)の歴史/世界を見るだけではなく、その時代の世界と人の動きそのものを見る。つまり「隠喩」としての詩がここに成立していると見る。
 野沢は、どうだろうか。

 「ここが庭 このあたりが築山」というような行の展開だけだったら、私は、この詩についてそんなに感動しなかったかもしれない。けれど「埋もれる/閉じられる」という動詞を含むことばの動きに、長田の書きたいことは「掘り起こし/開く」ということだったのだと気づき、そのことを書いておきたいと思ったのだ。私たちの暮らしのなかには「掘り起こし/開く」ことが必要なものがあるのだ。
 「ツリーハウス」には、こんな行もある。

村はたべられちゃったの?

なにに?

あは、
食べられてなんかいないさ
ドングリの大木みたいに
続いていくのさ

 村が「食べられた」のなら、「食べた」のは何? 高度成長という日本の経済政策かもしれない。でも、長田は「食べられていない」という。そして、それに対抗して「続いていく」という動詞を向き合わせている。
 ある世界に対し、あることばをつかって向き合い、向き合うことで見えなかった世界を浮かび上がらせようとする働きを「隠喩」と呼ぶならば、この長田の世界もまた「隠喩」の世界であると思う。長田の「掘り起こしている」のは「原始」というものではなく、数十年前の、ひとつの村の記録であるけれど。沖縄の激しい戦闘の記憶、あるいは胃がんの壮絶な苦しみというものではないけれど。そこにはたとえば「白いセドリック」のような、まばゆい夢もあるのだけれど。

 かなりいびつな感想になっているかもしれない。私は、何かを書くとき、純粋にそれだけに向き合って書くということがなかなかできない。そのとき考えているほかのことがどうしても混じってくる。いまは野沢の『言語隠喩論』を読んでいるので、どうしてもそのことと関連づけて書いてしまう。私の感想は、その日、その日で変わってしまう。「ひとつの答え」を想定していない。「絶対詩」のようなものを考えないからだ。

 

 

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鴎外の日本語

2021-09-14 16:15:33 | 考える日記

 

いま、日本語を勉強しているアメリカ人と一緒に森鴎外の「雁」を読んでいる。新潮社の文庫の20ページ。
「坊主頭の北角の親父が傍から口を出した。」という文章がある。「口を出した」は、他の地の文の「こう云った」と同じ意味である。しかし、ニュアンスが違う。「口を出した」には「余分なことを云った」というニュアンスがある。
で、これを「頭をつるりと撫でて云った」と言いなおしている。
「頭をつるりと撫でる」という動作は「余分なことを言いまして、申し訳ありませんね、へへへ」という感じだ。
「余分なことを言いました」と実際に言う人もいるが、この北角の親父は、それを言わずにかわりに「頭をつるりと撫でる」。
このことばの連携(口を出した-頭をつるりと撫でる)の「絶妙」としか言いようのない感じをアメリカ人に伝えたいのだが、これはむずかしいね。
理解されないかもしれないと思いながら、しかし、私はそれを説明する。いま伝わらなくても、いつかきっとわかる日がくるだろうと信じて。
このことばの連携のニュアンスがわかるようになれば、N1というより、「日本語の達人」という感じか。
私の経験で言うと、こういうことばの連携に気をつけて「ことば」を読むということを、いまの若い世代の多くの人はやっていない。
「口を出した」という表現から、あ、次には「余分なこと」がくるな、と予測して読む人はもっと少ない。
でも日本語を教えるかぎりは、そういうところまで教えたいなあ、と私は思ってやっている。
外国人相手だけではなく、日本人相手にも、そういうことをしてみたいなあと思っているが……。


どうでもいいが、この新潮文庫「国の女房や子供を干し上げて置いて」の「干し上げる」に注釈をつけていない。
これは、なんというか、いまの若い人にも通じにくいだろう。
「上戸」などは辞書を引けばわかるし、若い人もつかうが、「干し上げる」はどうか。
「ひもじい思いをさせる」なんだけれど。
「口を出す」と同じで、なかなか、ね。
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野沢啓『言語隠喩論』(8)

2021-09-14 08:28:25 | 詩集

 

野沢啓『言語隠喩論』(8)(未來社、2021年7月30日発行)

 「第七章 詩という次元」。
 「われわれは、言葉が制度化している世界のなかに生きている」というメルロ・ポンティのことばを引用した後、野沢は「われわれはこうした日常的消費のもとにあることばを超えて、ことばの〈根源〉にさかのぼり、〈始原の沈黙〉を見いだしてそれを破る所作で記述できるところまでいかなければならない」と書く。さらに「〈思惟の感性的世界への現前〉〈思惟の身体〉こそ、いかなる要請も受け付けずみずからの成立根拠を世界と同致させることばの実存であり、それを目的意識に実現する詩の言語であり、その言語の世界開示生の隠喩的本質にほかならない」と。
 あ、だんだんわからなくなる。
 これを言いなおしたのが、たぶん、つぎのことばだ。やはりメルロ・ポンティを踏まえて、こう書いている。メルロ・ポンティは「《知覚がまず与えられるのは、たとえば因果性の範囲が適用できるような世界のなかでのひとつの出来事としてではなく、それぞれの瞬間における世界の再=創造ないし再=構成としてである》と述べているが、このことは知覚のみならず詩の言語にもあてはまるだろう。そしてその場合、知覚とは違って詩の言語の世界は再=創造ないし再=構成されるのではなく、まさにあらたに創造ないし構成されるのである」。
 野沢が引用している範囲のことばを手がかりに、私なりに考えれば、メルロ・ポンティは、世界は「われわれ」に先立って言語化されている。そのなかで「知覚」というものが生まれるのは、「ことばによって制度化されている世界」のその「制度化」をそのまま受け入れる(たとえば、学校で教えられた通りに理解する)ときではなく、自分のことばでもう一度納得できる形につくりなおすときである」と言っている。「再=創造」「再=構成」には、すでに存在する「制度」への疑問と、解体が含まれている。「再=」には、とても重要な意味が込められていると思う。この「再=」という考え方は、その後、フランス(?)で展開された「脱構築」というような思想につながっていったのではないか、と私はぼんやりと考えている。
 野沢はこの「再=」の部分を否定し、「世界は再=創造ないし再=構成されるのではなく、まさにあらたに創造ないし構成されるのである」と書くのだが、では、「疑問、解体」なしに、どうやって「あらたな創造」「あらたな構成」が可能なのか。〈根源〉とか〈始原の沈黙〉とか、野沢は書いているが、それはどのようにして獲得できるものなのか。このことを野沢は書いていないように私には思える。
 野沢は、メルロ・ポンティの「知覚」に対して「未知」を対峙させ「詩を書くことはひとつの未知の世界をつくりだすことだと断言してしまっていいだろう」とも書くのだが、私の読み方ではメルロ・ポンティは「知覚するということは、ひとつの未知の世界をつくりだすことだ」になる。つまり、規制の「制度化されたことば」では把握できない(表現できない)ものを「あらたなことばで、あたらしい世界として再=創造、再=構成することが知覚する」ということである。「知識」をそのまま教えられるままに受け取るのではなく、自分自身が知に目覚める、認識に目覚めるが「知覚」だろう。
 野沢は「ことばを通じて既成の世界のなかにひとつの世界の開けを見いだす者こそ詩人と呼ぶべきものである」とも書いているが、メルロ・ポンティなら「ことばを通じて既成の世界のなかにひとつの世界の開けを見いだす者こそ知覚した人と呼ぶべきものである」というのではないか。そうであるならば、たとえばソクラテスは「対話」を通じてそういう仕事をしなかったか。ソクラテスは「知覚する人」ではなかったか。
 野沢は「詩にかぎらず創造的な思想においてことばの連鎖である言説、言表、言述とはそれを表出した個人の存在を超えている」とも書いているが、では、なぜ詩だけを特別視するのか。
 野沢はフーコーのことばも引用している。「言表の主体を定式的な表現の作者と同一なものとして考えるべきではない。(略)それは、確定された、空の--相異なった諸個人によって実際には充たされうる--ひとつの場所である」。この「ひとつの場所」を野沢は〈ひとつの次元〉と言い直し「ことばの語ることのもっとも深い審級に立っているのが詩人である」と書く。でも、フーコーの言っている「ひとつの場所」が、定冠詞つきの場所ではなく、定冠詞の存在しない場所、つまり、意識が確定していない場所(そこには相異なった諸個人の「定義」が確定されないままうごめいている)ということなら、それは東洋哲学で言う「混沌」というものではないのか。それはメルロ・ポンティのことばでいえばことばが制度化される前の状態ということではないのか。その「混沌」のなかをくぐりぬけて生み出されることばこそが「表現」になるのではないのか。そして、その「表現」は「詩」に限定されるものではないだろう、と私は思う。

 野沢はメルロ・ポンティの「画家や語る主体にとって、絵画やことばは、すでにつくられてある思想を展示する行為ではなく、その思想そのものをわがものとする行為なのだ」ということばも引用している。メルロ・ポンティメルロ・ポンティは「画家や語る主体」と言っている。「詩人は」と特定していない。

 でも、こういうことはいくら書いても「すれ違い」になるだろうなあ。なんといっても、私はメルロ・ポンティとかフーコーとか、野沢の引用している他の人のことばを直接読んだことがない。野沢の引用を通して読んでいるだけだ。次の谷川俊太郎のことばも、私は読んだことがないが、とても印象に残った。野沢は谷川を引用しながら、こう書いている。「谷川は(略)《詩の才能てのは、有限の語彙から何を選択するかという才能なんだ。自分が生む必要はない。選んでいけばいいんだ》とも発言している。谷川らしい目ディエーターとしての立場を自覚した発言になっている」。
 私なりに谷川のことばをフーコーのことばと結びつけて読めば、谷川は「自分のことばを書く必要はない。詩に書かれていることばは、詩の表現の作者のものである必要はない。詩に書かれていることばを谷川のことばであると考えるべきではない。それは、確定された、空の--相異なった諸個人によって実際には充たされうる--ひとつの場所から、谷川が選んだものである。不特定多数のひとがつかっている(話している)ことばから、そのときの状況に合わせて選んだものである」ということになる。「他人のことば」を選ぶとき、その瞬間瞬間、谷川はいわば谷川を自己否定する。そうすることで「個人」を超える。「個人を超える」方法として、谷川は「他人のことば」に耳を傾ける、「他人のことば」を選択し、それを「再=構成」するという方法を選んだ。それは谷川にとっては世界の「再=創造」すると言いなおせば、それはメルロ・ポンティの言っていることにもつながる。
 詩人ではないが、私の大好きなセザンヌは、キャンバスの塗り残し(空白)について聞かれたとき、「ルーブルで色が見つかったら、それを塗る」というようなことを答えている。これは谷川の言っていることにつながる。「画家の才能というのは(才能のひとつは)、有限の色のなかから何色を選択するかという才能なんだ。自分が生む必要はない。選んでいけばいいんだ」。ことばも色も、すでに世界に存在している。そして、それはそれぞれ「制度化」されている。この「制度」をどうやって「再=創造」「再=構成」するか。
 野沢は「詩人」を特権化し、「原始」や「根源」というようなことばを提示するだけで、「方法」を語っていないように私には思える。

 


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中上哲夫『川の名前、その他の詩篇』

2021-09-13 08:28:38 | 詩集

中上哲夫『川の名前、その他の詩篇』(花梨社、2021年09月01日発行)

  中上哲夫『川の名前、その他の詩篇2011~ 2021』の「無口な川のほとりで」は「川端進に」ということばがついている。私は川端進のことを知らないが、別の詩には「川端進の思い出に」とあるから、死んだ友人なのかもしれない。親友に宛てて書かれている詩だ。

もしも生まれ変わることがあるなら
製材所のような騒々しい町なかではなくて
無口な川のほとりでひっそりと暮らしたいと
たとえば映画『四万十川』のような
足下もさだかでないうちから
河原に降りていって
仕掛けておいた置き針をぐいと引き上げる
すると
金色の腹の細長いものがくねくねと上がってくるのだ
なんてったって母親が樋口可南子なんだぜ

 さて、この詩を野沢啓なら、どう読むか。「隠喩」を感じ取るか。ここには、高倉勉や氷見敦子の詩につかわれていた「降りる」という動詞がつかわれている。ただし、中上は「地底(鍾乳洞)」ではなく、降りていっても河原までだ。そして、その河原に降りていくのは中上ではなく樋口可南子である。映画『四万十川』を見ていないのでわからないのだが、たぶん、母親役だ。
 映画を見ていないから、私は勝手に想像する。「降りる」にも感情移入をする。「降りる」はふつうはしない行動である。河原へ「降りる」のはなぜか。うなぎ(たぶん)を取るためである。なぜ、わざわざうなぎをつかまえに行くのか。うなぎは、よくいわれることだが、一種の精力剤である。樋口可南子には、きっと病弱な夫がいるのだ。その夫にうなぎを食べさせるために、川に針を仕掛けておいたのだ。そういう思いを私は読み取ってしまう。書いていないから「誤読」というよりも、「妄想」だが。
 そして、その「妄想」はさらに拡大する。樋口可南子は単に夫に回復してもらいたいだけではない。いや、夫は、もう回復できないところまで病気が悪化しているのだが、「食べて元気になって」と言いたいのだ。そして、そういうとき、樋口可南子がそう思うかどうかではなく、映画を見ている観客は、樋口可南子と夫とのセックスを想像する。なんといっても、うなぎだからね。樋口可南子だからね。そして、そのうなぎを、川上は「くねくね」ということばで表現している。セックスが「くねくね」したものかどうかは一概に言えないが、そのときの人間の体はどこか「くねくね」に通じる。ふつうとは違う「しなやかさ」をもって動く。樋口可南子の「腹」は「細長く」(つまり、脂肪にまみれていなくて)、「くねくね」を強調する。
 「降りていく」の直前に書かれている「足元もさだかでないうち」も、そういうことを誘い出す。樋口可南子は「夜の布団」のなかから、夜のうちに抜け出し、河原へやってきたのだ。
 それで、どうしたのだ、と言われると、ここから先がつらい。
 別にどうもしない。思うのは、もしかすると川端進は樋口可南子のファンだったのかもしれない。川上もファンだったのかもしれない。あの樋口可南子が朝の暗いうちから川へ行ってうなぎをつかまえてくる。それを食べさせてくれる。それだけで、なにか、こういやらしい元気が出るじゃないか。いいなあ、と感じるじゃないか。
 そう、語りかけたいのかもしれない。
 高倉や氷見の詩のように、壮絶な感じはしない。あくまでも個人の思い出にとどまる世界かもしれない。しかし、私は、こういう超個人的な感じもいいなあ、と思う。自分以外の「世界」へ出て行かない決意もいいと思う。中上と川端には「なんてったって母親が樋口可子なんだぜ」と言えば通じる「共有の秘密(そこから出て行かない世界)」があるのだ。その「秘密」は私の「誤読/妄想」かもしれないが、その「誤読/妄想」のなかで、私は中上に触れる。中上に会ったことがあるわけではないが、不思議と懐かしい気持ちになる。
 もう一篇。「岩だらけの詩」。この詩は大好だ。同人誌で読んだとき感想を書いたかもしれないが、もう一度書く。

道といわず
屋敷といわず
畑といわず
野といわず
森といわず
まるで空から降ってきたみたいに
象のような岩が至る所にごろんごろんと転がっている村があるのだ
ヨーロッパのずっと北の方に
太古の昔
氷河が運んできたものらしいのだけれど
気にするものはだれもいない
昔からの知合いのように
庭に岩礁のように突き出したものを撫でながら
その家の主が片目をつぶってみせる
「呑んだくれの兄貴のように
すてきじゃないか
もし彼がいなくなったら
みんな声をあげて泣くだろうな
川が水を失ったときのように」

 私は、この庭に突き出た岩は、吉岡実が書いていた「一個の卵」よりも「よくわかる」。嘘がない。正直があふれていると感じる。私の「よくわかる」は「正直だなあ」と感じると同じ意味だ。これならだまされてもいい、という安心感。
 この岩は、たしかに「ある位置を占めている」。そこに「ある」ことによって、人を支配している。この支配は、統治というよりも、いつも一緒にいることを意識させる、かもしれない。「呑んだくれの兄貴」は迷惑な存在かもしれない。しかし、「いる」という感じが、何か安心させる。奇妙な言い方だが、「役に立たない/迷惑」な存在は、人間は役に立たなくても生きていけるというような、「強さ」のようなものを教えてくれることがある。役に立たなくても、人間は、死なないのだ。
 そういうものがいなくなったら、やっぱり人間は泣くかもしれない。
 中上の最終行は、なんともいえずに、不思議な「深さ」を感じさせる。岩は「氷河」が運んできたもの。「氷河」には「水」はないが、氷は水でできている。岩があることで、そこに見えない水が流れている、川が流れているということを想像させる。岩がなくなれば、その見えないけれど見えるもの(想像できるもの)が、ほんとうに見えなくなるのだ。これは、さびしいね。
 中上の詩は、そういうことを私に感じさせる。書かれていることば以上のことを私は想像してしまう。そういうとき、私はその詩の世界を「隠喩」と感じているということだろうと思う。中上が実際にみた「世界」ではなく、中上のことばをとおして浮かびあがってくる「世界」を私は見ているのだから。

 「彼がいなくなったら」は「彼が死んだら」に通じるだろうなあ。死んだ後でも、その人を思うとき、その人は生きている。忘れられたとき、ほんとうに死ぬ。忘れない、覚えているよ、というために書く詩もある。この詩には「〇〇に」ということばがついていないが、私は死んでしまった友人のために書いた詩のようにも読んでしまうのだった。

 

 

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野沢啓『言語隠喩論』(7)

2021-09-12 09:26:30 | 詩集

 

野沢啓『言語隠喩論』(7)(未來社、2021年7月30日発行)

 「第六章 詩作とはどういうものか」。
 「詩を起動することばが隠喩として設定されることばである」と野沢は書いている。ただし、これには注釈がある。「そのことばが詩のはじめに置かれるとはかぎらないが、どこに置かれようとも、そのことばを起点として詩の独自のイメージが展開されるだろう」。これは「隠喩」が生まれた瞬間に、詩の世界の「再構築」がはじまるということだろう。どこから書き始めるかではなく、書かれた瞬間に、その世界が揺るぎないものになって独立する。
 そんな例(?)として、野沢は吉岡実の「卵」を引用している。

神も不在の時
いきているものの影もなく
死の臭いものぼらぬ
深い虚脱の夏の正午
密集した圏内から
雲のごときものを引き裂き
粘質のものを氾濫させ
森閑とした場所に
うまれたものがある
ひとつの生を暗示したものがある
塵と光りにみがかれた
一個の卵が大地を占めている

 野沢は「詩を起動することば」として、「神も不在の時」と「一個の卵が大地を占めている」を想定する。「どちから、あるいはこの両方が起点になったのではないかと思われる。この二行が見出されたことによって詩の骨格はできあがり、そのあいだをつなぐべく二次的な詩的論理のことばが紡ぎだされたのであろう」。しかし、即座に「いや、吉岡的イメージの世界では、最後の〈一個の卵が大地を占めている〉という生物画的なイメージが先行したかもしれない」と言いなおしている。
 しかし、ここに書かれているのは吉岡の実感ではなく、あくまでも野沢の「感想」である。ここからわかることは、野沢は「神も不在の時」と「一個の卵が大地を占めている」に「詩を起動する力」を感じているということである。
 だから、そのふたつのことば(行)をつなぐようにして、こう書くのである。「〈一個の卵〉とはすでに神にも見紛う絶対的存在、あるいは神なき世界における絶対的存在の隠喩であることは見やすいだろう」。
 私は、ここで、困ってしまった。
 私は「神」というものの存在を見たことがない。野沢が「神」と呼んでいるものが何か分からない。そして吉岡が「神」と呼んだものと、野沢が「神」と呼んだものが同じであるかどうかもわからない。だから「神にも見紛う絶対的存在、あるいは神なき世界における絶対的存在の隠喩」と言われても、どんな世界の「隠喩」なのかわからない。
 さらに、野沢はこう書いている。「すでにして〈神〉というもの自体がなにか実体的なものであるわけではなく、それ自体が宗教的な意味での絶対的存在の隠喩にすぎないということである。そうすると、ここでの〈一個の卵〉とは単なる隠喩ではなく、バシュラールのことばで言えば、隠喩の隠喩ということになるだろう」。
 前の部分に「『創世記』的な宗教性は微塵もない」とも野沢は書いているのだが、では、どんな「宗教的な意味での絶対的存在」が想定されているのか。
 そもそも「一個の卵」を「絶対的存在(の隠喩)」と呼ぶ時の、その「根拠」のようなものが、私には、野沢の文章からつかみ取ることができない。「一個の卵」を「絶対的存在(の隠喩)」と呼ぶのなら、そう呼ぶだけの「根拠」が必要だろう。「神も不在の時」だから、その「不在」によって卵が絶対的存在(の隠喩)になるのか。なぜ「一個の卵」が「絶対的存在(の隠喩)」であって、その卵がある「場所」としての「大地」が絶対的存在(の隠喩)ではないのか、その「証明」のようなもの、野沢が、どのことばをどう把握することで、そう判断したのかの「説明」が必要だろうと思う。

 私は、この詩を、こう読んでいる。
 この詩で一番大事なのは、最終行の「占めている」という動詞である。なぜ、それを重要視するか。「一個の卵」と「大地」の関係において、「一個の卵が大地を占めている」ということは常識的にはありえないからである。よほど巨大な卵を想定しないかぎりは大地を占めることはできない。だから、ここでは「占めている」ということばが「占有する」という意味を超えていることになる。あえて言えば、この「占めている」は「支配している/統治している」。独占している、占有している、占領している、かもしれない。そして、一個の卵が「世界」を「支配/統治している」ということを「占める」ということばで代弁させているのだとしたら、それは、たとえば一般的に存在しているといわれる「神」の「力」と類似したものが卵にあることにならないか。「占める」という動詞をつかった時、「一個の卵」は「(一個の)神」の隠喩となるのではないのか。
 私はもともと「神」の存在を信じていないから「神も不在の時」そのものは、単なる「ことばのあや」としか考えないが、絶対的な支配力、統治力、統合力の存在しない世界では、「一個の卵」を「ある絶対的な統合力」の「隠喩」と考えることもできるかもしれない。それはニュートンが引力を発見した時「りんご」のようなものである。「りんご」そのものに何か力があるわけではないが、「りんご」が大地に「落ちる」ときの運動そのものをみて、そこからニュートンは「引力」という目に見えないもの(それまでだれも見たことがないもの)を「見える形」で証明した。りんごの落下は引力の隠喩、引力が存在することの隠喩であり、それは私には理解できない「数式」で存在が「確定」された。吉岡が感じ取ったのは「引力」ではなく、もっと別の「力」だろうけれど、それが「占める」という動詞のなかに隠されている。だから「占める」を私は「隠喩」と呼ぶ。
 この「占める」の前に繰り返される「ある」も重要なことばだと思う。「神も不在」(存在しない、ない)ときに、何かが「ある」。それは「うまれたもの」(今まで存在しなかったもの)であり、「ひとつの生を暗示したもの」である。それが「ある」その何かわからないものに吉岡は「一個の卵」と名前をつけた。なぜ「卵」なのか。なぜ、「一個の石」「一本の花」ではなかったのか。それは「卵」からは何かがうまれるという「意識」があるからだろう。「石」や「花」からも何かがうまれることがあるが「卵」の方が「いきもの/力を振るうことができるもの」がうまれるという意識がある空かもしれない。こういうことは「後出しジャンケン」のようにどうとでも追加できることである。重要なことは、「占める」ためには、「占める」主体の存在が必要、「ある」がないと「占める」ということができないということ。「ある」を書くことによって、吉岡のことばは「占める」へとたどりつくことができた。ほかにも、「一個の卵」が「うまれる」までの過程の動詞が書かれているが、私が注目したのは「ある」である。「ある」はニュートンの例で言えば「落ちる」であり、ニュートンの「落ちる」が「引力(引っ張る力)」にかわったように、吉岡の「ある」は「占める」に変わるのである。「意味」が見えやすくなったのである。この何かが「見えやすくなる」ことが「隠喩」の効果のひとつではないだろうか。

 私の書いていることは、野沢がこの章で批判しているレイコフ/ジョンソン批判のたぐいのものかもしれない。野沢は、こう書いている。「レイコフ/ジョンソンが考える隠喩がひとびとの生活のなかに埋没した常套的メタファーにすぎず、それ自体がなにか新しい創造性をもつ隠喩ではなく、すでに使い古された、わかりやすく凡庸な隠喩にすぎない」。「占める」が「独占する/支配する/統治する/占領する」という読み方は「新しい創造性をもった」読み方ではなく、すでに「使い古された」読み方(読み替え)にすぎない。でも、私は、そういう自分の知っている「読み方」でしか、ことばと向き合うことしかできない。自分の知っている生活のなかに埋没している常套的な「読み方」で「誤読」し、そこに書かれている「ことば」を点検する。
 私はかつて田中庸介に「反知性主義」と批判されたことがあるが、私は自分の「肉体」が知っている「動詞」を手がかりにして読むことしかできない。「占める」は「支配する」とか「統治する」という大げさなことは体験したことないが、なんという遊びか忘れたが「陣地取り」のようなもので「占める」がそれに通じるものであることをなんとなく感じている。

 

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服部誕『息の重さあるいはコトバ五態』(2)

2021-09-11 11:04:05 | 詩集

 

服部誕『息の重さあるいはコトバ五態』(2)(書肆山田、2021年08月31日発行)

  前回は野沢啓『言語隠喩論』に突き合わせすぎたかもしれない。今回もその影響が尾を引くだろうけれど、服部誕『息の重さあるいはコトバ五態』の感想の続きを書いてみる。
 「迷路をめぐる簡明なメモ」は

  迷路であることの要諦は以下の二点にある

  まず第一に 迷路はスタートとゴールがなければならなない

 第二のポイントは「第一」の説明が終わった後に書かれるのだが、この「第一」の一行を読んだだけでも服部のことばの動きの特徴がわかる。一行目に書かれている「二点」の「二」。これを意識することが服部の論理のポイントである。
 迷路には「スタート」と「ゴール」という二つの要素が必要である。
 しかし、これはあくまで「論理」上のことである。

  ただしこの地上に実際に構築された迷路においては
  あなたには出発点しか明示されていない
  ゴールはたしかにどこかにあると信じて
  迷路をただひたすらに進んでゆくことになる

 つまり、「ゴール」も「ある」と「ない」の「二つ」存在することになる。「一つ」はつねに「二つ」に分かれていく。これが服部の論理のポイント。
 だから、こう言いなおされる。

  第二に 迷路には行き止まりと分かれ道がある

 しかし「分かれ道」があったとしても、

  あなたは分かれ道でどれかひとつを選んで歩き続けてゆきさえすればよい
  分かれ道のない迷路はもはや迷路とはいえない
  それは迷路ではなく ただの長い曲がりくねった一本の道である

 「分かれ道」はどちらかを選択した瞬間、すでに「分かれ道」ではなくなる。「長い曲がりくねった一本の道」。「二」はいつも「一」に収斂する。「一」は「二」に分裂し、「二」は「一」に収斂する。それが服部の「論理」の運動の特徴である。
 この「二」に分かれることを、鴎外ならば「参照」というかもしれない。「一つ」のことをまた別の「一つ」の視点から眺める。そうするとその「一つ」が立体的に見えてくる。迷路は歩き通したものには「長い曲がりくねった一本の道」となるかもしれないが、その「一本」を明確に意識するためには、たどりなかった「分かれ道」が必要である。いくつもの「分かれ道」を「参照」するときに初めて「長い曲がりくねった一本の道」が生まれてくる。「一」と「二」は別個のものだが、同時に「不可分」のものである。
 こういうとき、私がつかった「参照」ということばは何を意味するだろうか。それは「隠喩」に似ていないか。「迷路」は「不可分の一と二の結合」を浮かび上がらせないか。そして、「迷路が不可分の一と二の結合」であるという意識が、「迷路であることの要諦は以下の二点にある」に先取りされていないか。
 そして、この「一」と「二」は、実は「一」と「二」という構造ではなく、詩のなかに出てきた「進む」「歩く」という動詞に視点を当ててみていくとき、もっと簡単になる。「スタート」は「入る」、「ゴール」は「出る」と言いなおせば、そこに描かれているのは、すべては人間が動くことの「様相/状況の描写」になる。「迷路」は人間が生きていくとき必然的に人間の目の前にあらわれてくるものになる。だからこそ、服部は「迷路」を題材に詩を書いている。人間が、野沢のつかっていたことば(ハイデガーのことば?)「自己投企」が生み出す「迷路としての世界」が「暗喩」として浮かび上がることになる。
 野沢が、この服部の詩に、高倉勉や氷見敦子の詩に感じた「隠喩」を読むかどうかはしらないが、ここにも「隠喩的世界」がある。

 「きのう女を殺したという記憶」は「プールの底/水没した家」のなかを漂う男を描いている。

  首を絞めて殺した若い女の死体を昨日
  おまえはこの家つまり広いプールのどこかに隠した
  ところが今日になっておまえは
  何人かの連れといっしょに
  この家の中で何かを捜しているのだ
  (略)
  おまえは何か分からないものを
  みんなといっしょに捜し回りながら
  おまえが隠した死体の在り処を
  みんなに見つからないように捜している
  おまえはおまえ自身が
  捜しものを捜し当てたいのかどうか分からないでいる

 ここにも「迷路」と同じ「一」と「二」の交錯がある。「隠す」と「捜す」のどちらが「ゴール」なのか分からない。わからないからこそ「隠しているものを捜す/捜しているものを隠す」ということが、いまを生きていることの「隠喩」になる。この「複数」の交錯は「事実」と「真実/真理/心理」でもあり、「真理」が「心理=思想」として強く意識されるほど、それは「隠喩」になるということだろう。

 きのうの野沢啓『言語隠喩論』だ書きそびれたが、高倉勉、氷見敦子の詩に共通した「降りる」は「鍾乳洞の底へ降りる」であり、「地底へ降りる」である。それは隠されている世界へ降りる、隠されている世界にあるものを「ことば」によって外へ出すということである。「表層」ではなく、「深層」に「事実/真実」があるという視点がここにある。隠されているものを「捜し」、それを明らかにする。「隠しているもの/隠されているもの」を外(表)に出すのだから、それは「隠喩」そのものでもある。「隠喩」は「隠したまま、それを表す」のだが。「隠したまま」だけれど、隠されているものが強烈に見えるというのが「隠喩」だろう。
 そして、「隠喩」が明らかにするものは隠されているものであるから、同時にそれを隠しているものの存在も明らかにするだろう。特に高倉の詩は高倉個人の肉体の問題ではなく沖縄の歴史にかかわってくるものだから、それを隠しておきたいという人間の存在をどうしても浮かび上がらせてしまう。沖縄の歴史を隠しておきたいという権力の存在を暗示する。社会性が強くなる。ことばが社会と直接的に結びつく。いま生きている社会と、必然的に、ことばが向き合うという形になる。そういうことばは、インパクトが強い。
 服部の、殺したか殺さないかわからない(現実か夢かわからない)「捜す/隠す」とは違う広がりを持っている。だが、高倉、氷見の作品が「隠喩」なら、服部の詩もまた「隠喩」である。
 なぜこんなことを書くかというと、野沢の論は「詩」という言語運動を、他の言語運動とは別格においている点が気になるからである。きっと「隠喩」についてもどんな隠喩でも隠喩として認めるというのではなく、野沢が考える「射程」を持ったものだけを隠喩として評価するという視点があるのではないか、と気になるからである。詩に特権を与えすぎていないか、それが気になるのである。もしかしたら野沢は、あることばに「特権」を与えていないかと、それが気になるのである。

 

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野沢啓『言語隠喩論』(6)

2021-09-10 10:31:24 | 詩集

野沢啓『言語暗喩論』(6)(未來社、2021年7月30日発行)

 「第五章 レトリックから言語の経験へ」。
 「誰かにむけてことばを切り出すということは、すでに身分け=言分け的な行為であり、どれだけ創造性が稀薄であろうとも、ひとはそんなことをいちいち意識せずに日常のなかでみずからのことばを発し、そのことをつうじてなんらかの意思の伝達ないし創出をしているのである」と野沢は書く。さらに「日常的言語でさえも隠喩的本質を内蔵させているというのがことばの本質である」とも。
 私は、この部分には納得できる。
 だからこそ、次のことばにつまずく。
 「文学、とりわけ詩という書法、書く行為は、誰に要請されたわけでもないのに、こうした状況投企的なポイエーシス行為であり、ことばを創出する純粋さにおいて、書く行為の極限である」「詩を書くという主体的選択において書くことの動機とは、書くこと以前にはもともと存在せず、書くことによって初めて状況が作られるという意味で状況投企的になるのであって、そういう主体的選択行為なしにはどんな詩の一行も書かれる必然性はないからだ」
 なぜ、詩なのか。なぜ小説であってはいけないのか。あるいは絵画、彫刻、音楽、さらには物理や数学であってはいけないのか。たとえばモーツァルトにとって……。
 「モーツァルトにとって音楽、とりわけ作曲(音符を書く)という行為は、誰に要請されたわけでもないのに、こうした状況投企的なポイエーシス行為であり、メロディー、和音、リズムを創出する純粋さにおいて、作曲は音楽行為の極限である」「作曲するという主体的選択において作曲することの動機とは、作曲する以前にはもともと存在せず、音符を書くことによって初めて状況が作られるという意味で状況投企的になるのであって、そういう主体的選択行為なしにはどんな楽曲の一小節も書かれる必然性はないからだ」
 こう書かれている文章に出会ったら、私は、なるほどなあと思うだろう。野沢の書いている文章は、それこそ「暗喩」なのである。暗喩だから、何にでも当てはまる。詩に限定する必要はない。なぜ詩を特権的であると書くのか。それは野沢が詩を書くからだとしか言いようがない。「ことばを創出する純粋さ」という表現があったが、「純粋」ということばに何か詩至上主義のようなもの、詩を書いている野沢を「特権化」する視点を感じて、私は落ち着かなくなる。
 「詩を構築する世界が、現実の世界にたいして擬似的な様相をみせようが、あるいはまったく幻想的なイメージの提出になろうが、おのずから現実世界にたいする反世界、反現実の世界であるということは、この世界が現実の世界にたいして隠喩的であることを必然的に示している」
 野沢はどう読むか知らないが、鴎外は「雁」の終わりの方で、こう書いている。「実体鏡の下にある左右二枚の図を、一の映像として視るように、前に見た事と後に聞いた事とを、照らし合わせて作ったのが此物語である」(一部表記変更)「二枚の図」の「一枚」は自分の知っていること、「もう一枚」は他人から聞いたこと。それを「ひとつのことば」のなかに統一する(ひとつの視点で制作する=ポイエーシスする?)と、そこにいままで気がつかなかった「世界」が出現する。「ことば」によって創り出された世界は、現実世界の「隠喩」として「雁」という作品になる。「雁」には現実が「隠喩」されている、ということになりはしないか。
 この章で野沢は、高良勉の「ガマ(洞窟)」と氷見敦子の「日原鍾乳洞の『地獄谷』を降りていく」を引用しながら、二人のことばが現実世界の「隠喩」になっている、と語る。具体的には、高良の作品について「沖縄の戦後世代の詩がもつことばの力、歴史的現実に密着しながら詩的創造力をことばに託して拡張していく力こそ、詩のことばが隠喩としてどこまでも想像の世界を広げていく可能性を示唆している」。この「文体」に鴎外を当てはめるとどうなるか。「明治の小説がもつことばの力、歴史的現実に密着しながら小説的創造力をことばに託して拡張していく力こそ、小説のことばが隠喩としてどこまでも想像の世界を広げていく可能性を示唆している」にならないのか。
 野沢の書いていることは、あらゆる「芸術(創作)」の、そしてあらゆる「精神活動(たとえば数学や物理、あるいは哲学)」の「隠喩」になっている。隠喩として読むことができる。こういう言い方をしてしまえば、一台のパソコンもまた世界の隠喩として表現できることになる。私はその構造を語ることができないが、パソコンの仕組みを知っている人なら、設計から製造、そして実際の稼働を含めて「世界の隠喩」として語ることができるだろうと想像できる。

 「隠喩」を問題にするのなら、もっと「ことば」そのものにこだわって、どのことばがどのような「隠喩」になっているのか、それを指摘しながら、自分が知っている世界と、高良、氷見の書くことで出現させた世界がどう違うのか、それを書かないと「隠喩」について書いたことにならないのではないか、と私は疑問に思う。
 「詩」ではなく、あくまでもいま読んでいる、その作品。ジャンルではなく、個別の作品の中で「隠喩」がどう動いているか、その詩的を抜きにして隠喩と詩を語り、詩を特別視するのは危険ではないだろうか。
 野沢が取り上げている高良と氷見の詩には、不思議なことに共通点がある。「鍾乳洞」が出てくる。鍾乳洞の特徴は、それが長い時間をかけて誕生したということにある。鍾乳洞は歴史を持っている。鍾乳洞に入り込み、高良はそれを「子宮」と感じる。氷見は胃がんを抱えている「内臓(腹部)」と感じているようだ。だが、それは胃、腸だけではなく、やはり「子宮」にも通じているようだ。「柔らかい胎児の足」ということばが、それを感じさせる。ふたりは、ともにその鍾乳洞の暗い内部を歩きながら、そこに「歴史」を感じている。高良は沖縄戦の歴史、自分を超える人々の歴史、氷見は彼女自身の「歴史(一生、半生)」を思い、またその想像力の中で人間の一生を思い描いている。歴史には「暗い内部」がある。
 二人の詩には「鍾乳洞」とは別に、同じことばが登場する。「降りる」である。高良は「ガマの迷路を降りていく」、氷見は「「三途の川」を渡って「地獄谷」に降りる」とつかっている。「降りる」は「這い寄っていく」「移動する」のように、肉体の動きとして書かれる。窮屈さを感じながら、それでもその「奥」へ動いていく。高良の詩には「這い寄る」のかわりに「はい上がる」がある。「這う」が共通している。「這う」は普通の歩き方ではない。「這う」歴史というものがあるのだ。「這う」ということば、その動詞が呼び寄せる世界がある。そして、それは「暗さ」と通じている。ただ暗いだけではなく、「生きる」ことの切実さともつながっている。
 そういうことが重なって、ふたりの詩は、人間が生きていることの「隠喩」となっている。人間が生きている時間よりもはるかに長い時間をかけて動いている地球。その底、その穴のなかを這いずり回って生きるとき、自分だけではなく、自分を超える命のつながりを感じる。自分自身か「隠喩」になったような感じがするかもしれない。
 だが、こういうことを書いているのは、二人の詩だけとは限らないだろう。小説にも、そうした体験を書き、そこに現実の世界を浮かび上がらせる作品があると思う。私は目が悪いので、多くの本を読むことをあきらめている。具体的な作品を呈示して野沢に反論することはできないが、詩だけがことばを「隠喩」としてつかい、詩のことばだけが「隠喩としての世界」を創作(制作)しているわけではないだろう。

(これまで野沢の書いている「隠喩」を「暗喩」と私は誤読していた。そして「暗喩」と書いてきたが、「隠喩」の間違いです。訂正します。誤記の訂正は、いつになるかわかりませんが。)


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服部誕『息の重さあるいはコトバ五態』

2021-09-09 10:00:41 | 詩集

 

服部誕『息の重さあるいはコトバ五態』(書肆山田、2021年08月31日発行)

  服部誕『息の重さあるいはコトバ五態』の「泳鳥飛魚」という詩がある。その途中の二行。

  ありとあらゆる人間に ありとあらゆる動詞を当てはめてみて

  いったい 人間はどんな言葉によって定義できるのか

 と、服部は考えている。たとえば「本を読む 詩を書く 花を活ける 絵を描く ダンスを踊る ギターを弾く」とことばは動く。このことばの動きの特徴は動詞の前にかならず「対象」があることだ。そして、服部がここで書いている「例」は非常に常識的である。別なことばでいえば「定型」である。これを、たとえば「本を踊る 詩を活ける 花を弾く」という具合にすると奇妙な感じがする。「定型」からずれるからだ。「定型」がはずれるからだ。だが、そのとき「定型」をはみ出したのは「名詞」なのか「動詞」なのか。逆に言えば「定型」を決めるのは「名詞」なのか「動詞」なのか。
 一連目に戻る。

  遊ぶ人間 工作する人間 苦悩する人間 智慧を持つ人間
  それとも
  笑う人間 歌う人間 話す人間 祈る人間 泣く人間 ……
  人間を動詞で定義してみよう 飛ぶ鳥 泳ぐ魚 のように

  だが 泳ぐ鳥 飛ぶ魚 だっているではないか
  話す蝶 祈る猿 笑うライオン 吠える蛙 洗濯するキリン のように
  泳ぐ赤ん坊 飛ぶ恋人 走る病人 散歩する兵士 歌うキリスト ……
  ありとあらゆる人間に ありとあらゆる動詞を当てはめてみて

  いったい 人間はどんな言葉によって定義できるのか
  本を読む 詩を書く 花を活ける 絵を描く ダンスを踊る ギターを弾く

 これは「人間は」という主語を補えば、「人間は本を読む 人間は詩を書く 人間は花を活ける 人間は絵を描く 人間はダンスを踊る 人間はギターを弾く」であり、それを簡略化すれば「人間は読む 人間は書く 人間は活ける 人間は描く 人間は踊る 人間は弾く」と言えると思う。しかし「人間は本 人間は詩 人間は花 人間は絵 人間はダンス 人間はギター」とするのはかなり無理がある。対象が対象ではなく、「比喩」にかわってしまう。そうすると「定義」の基本は動詞ということになるのだろう。そのとき対象は必ずしも服部が考えたものと同じになるとは限らない「人間はこころを読む 人間はこころを書く 人間はこころを活ける(活かす、生きているように引き立てる?) 人間はこころを描く 人間はこころを踊る(たとえば、人間は喜びのこころを踊る) 人間はこころを弾く」という文を考えることもできる。もちろん人間は「本を捨てる 詩を捨てる 花を捨てる 絵を捨てる ダンスを捨てる(ダンスをすることをやめる) ギターを捨てる」ということもできる。「捨てる」をダンスのように「やめる」の「比喩」ととらえれば、人間は「本を読むのをやめる 詩を書くのをやめる 花を活けるのをやめる 絵を描くのをやめる ダンスを踊るのをやめる ギターを弾くのをやめる」になる。これは「の」によって先行する「本を読む」を「名詞節」に変えているのだが……。ここからさらに「人間は……をやめる」という「動詞」を基本にしたことばの動きへと定義(?)を整理し直すこともできる。
 そうであるなら。
 というのは、かなり飛躍した言い方だが、そうであるなら、人間を「定義」するなら、やはり「動詞」が基本だろうと私は思う。人間は動詞によって定義できる。
 「いったい 人間はどんな言葉によって定義できるのか」は、

いったい 人間はどんな「動詞」によって定義できるのか

 にかわる。そして、「定義」をより深めるために、たとえば「人間は本を読む」を「人間は本を泳ぐ」「人間は本を照らす」「人間は本を産む」「人間は本を排便する」と言いなおせばどうなるだろうか。「動詞」はふつうにつかわれる辞書の定義をはなれて「比喩」になる。「比喩」(暗喩)になるのは「名詞」だけではない。
 ここに、考えてみなければならない問題がある。

 と、私が強引に書いてるのは、実は私はいま、野沢啓の『言語暗喩論』を読んでいて、野沢の書いていることに大きな疑問を感じているからである。どうして「動詞の暗喩的活用」について考えないのか、私は野沢に問いかけてみたいからである。
 「動詞」は「暗喩」になる。人間は何よりも「名詞」を覚える前に「動詞」として生きている。赤ん坊は「おっぱい(ミルク)」ということばを覚える前に「腹が減った/飲みたい」という欲望を「泣く」ことで訴える。「動詞」を満足させたいのだ。おしめが濡れて気持ちが悪い、おしめをかえて、も泣いて伝える。「動詞」を求める。「動詞」を正確につたえるために、やがて「名詞」を覚える。「動詞」はことばにしないけれど、肉体が「動詞」そのものになって動く。
 だから、

ありとあらゆる人間に ありとあらゆる動詞を当てはめてみて
いったい 人間はどんな言葉(=動詞)によって定義できるのか

 と思考するのは、とても重要なことに思える。
 そして、「動詞は暗喩である」ということを忘れずに、「ある説明文」を読むと、どういうことがおきるか。

  上空に浮かんでいる永久発光体は
  第二六星系ソラス(現79305418+)の基準標である
  ソラスは地球・木星・火星・金星及び月(地球の第一衛星)が
  自治的な星区結合を行なった時代の星区名で
  中心星の太陽に因んで呼称したものである

 いくつ「動詞」を抜き出せるか。「浮かぶ」「結合を行なう(結合する)」「因む」「呼称する」のほかに「発光」から「発光する」、「基準標」から「基準(標)を設定する」という「動詞」も派生させることができる。何かしら、そのままでは不安定なもの(浮かんでいる、固定化されていないもの)を結びつけることで安定させ、それを「基準」にし、その「基準」にひとつの名所をを与え、「呼称とする」という人間の動き、欲望が見えてこないか。
 それが見えてきたとき「第二六星系ソラス」はたとえば「現代社会の暗喩」ともなるのだが、「第二六星系ソラス」が「現代社会の暗喩」となるためには、それをある統一に向けて動かしていく「動詞」の存在が不可欠である。

 何かを理解するためには「動詞」が重要なのではないか。「動詞」こそが、ことばのすべてではないのか。
 そういうことを考える「手がかり」になることばが、この詩集には多く存在する。

 私の感想は、服部の今回の詩集の感想になっていないかもしれないが、服部の詩集をもとに考えたことが「感想」であるなら、これもまたひとつの感想ということになると思う。野沢の論と切り離した形で書かなければならないとは思うが、今回は、あえて結びつけて考えたことをそのまま書いておく。


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野沢啓『言語隠喩論』(5)

2021-09-08 17:18:02 | 詩集

野沢啓『言語隠喩論』(5)(未來社、2021年7月30日発行)

 「第四章 詩を書くことの主体的選択」。
 私は同じ疑問を何度でも書く。
 野沢は「《言語の具体的実践》という問題意識こそが、詩を書くという言語実践の立場から言語の創造力を問おうとするわが言語暗喩論にとっての本質的な問題である」と書いたあと、「言語実践」と「主体的選択」について、まずエミール・ヴァンヴェニストのことばを引用する。「話し手がみずから〈主体〉として発言できるのは、わたしがこの話し手を指名する言述の審級においてほかならない。したがって主体性の根拠は言語の実践のうちにあるということは文字通りほんとうである」。そのうえで、こう言いなおす。
 「詩を書くという主体的選択をするということは、わたしという主体を言語に預け、あたかもその言語を書きつづけていく書き手という〈わたし〉をわたしが再設定するという以外のものではない」
  私の疑問は単純である。ヴァンヴェニスト(私は、やはり、読んでいない。名前を聞くのも初めてである)は、詩について語っているのか。暗喩について語っているのか。野沢の引用している文章を読むかぎりでは、ヴァンヴェニストは「わたし」という存在と「ことば」との関係を言っているのはたしかだが、その「ことば」は詩に限定されていない。詩であろうが、散文文学であろうが、日常会話であろうが「わたしという主体の根拠は発話する(発言する)という行為(運動、と私は言いなおす)にある」と言っている。これを私なりに言いなおすと「ことばを発するわたしの、そのことばを発するという主体的な行為こそがわたしなのだ」になる。「私はことばを発する、ゆえに私は存在する」と要約することもできる。何も詩に限定されない。
 野沢は「詩を書くという主体的選択をする」と書いているが、「詩を書く」のかわりに「ことばを発する(話し手、発言、ということばをヴァンヴェニストはつかっている)」と言いなおせば、
 「ことばを発するという主体的選択をするということは、わたしという主体を言語に預け、あたかもその言語を発しつづけていく話し手という〈わたし〉をわたしが再設定するという以外のものではない」
 となる。
 なぜ「ことばを発する」ではなく「詩を書く」と野沢はヴァンヴェニストのことばを言いなおしたのか。ヴァンヴェニストが「詩を書く」ということを問題にしているのならわかるが、「詩を書く」ということ限定して発言していないのだとしたら、この書き換えは、いわゆる「我田引水」にならないか。
 たぶん、こういうことは野沢は意識している。だからこそ野沢は詩人・入沢康夫のことばを引用しながら、「主体」の問題をこう言いなおしている。ヴァンヴェニストの書いていることは「詩」に展開できると主張する。
 「詩を書くとき、詩の書き手はこのわたしではなく、わたしによって指名された書き手が詩のことばを書くのである。わたしであってわたしではない者こそが詩人であり、書くことの審級とはランボーの言う〈わたしとはひとりの他者である〉という位相にほかならない」
 「主体」は「ひとりの他者」と言いなおされている。でも、これは「詩の書き手」に限定されないだろう、と私は思う。散文も同じだと思う。そして「書き手」にも限定されないと思う。「読み手」もまた「ひとりの他者」として「ことば」を読む。だからこそ、私たちは「殺人者」にさえ共感してしまう。魯迅があるとき芝居を見た。その芝居では悪人が処刑される。そして処刑されるとき「今度生まれてきたらこんな失敗はしない。もっと上手くやってやる」というようなことを言う。それを聞いて興奮した、というようなことを書いている。悪人に共感するということは、「現実」の問題としてあってはならない。けれど、芝居を見ているとき「芝居を見るというもうひとりの他者」になって、現実の法律の問題、倫理の問題をはなれて「感情」も「理性」も動いてしまう。人間の中には、どんなときでも「もうひとりの他者」がいて、それは「主体的」に動くのである。詩を書くときだけではない。
 なぜ、詩に限定しているのか、詩を書くことに限定して「暗喩」の問題を語るのか。詩の「特権」であるように語るのか、その疑問を私は捨てることができない。

 この第四章で野沢は『発熱装置』(思潮社)から「15」を引用し、「自己分析ないし自己解説」をしている。そして、こう書いている。「明治の近代から現代までを包括するひとつの世界を構築してみたわけである。わたしとしてはこの作品全体が部分的に散文脈を織り込んだけっこう大がかりな暗喩的世界だと思っている」。
 どのことばが「暗喩」か。そういうことを野沢は問題にしていないことが、この書き方からわかる。詩というものを「暗喩的世界」ととらえ、それが実現されているとき、野沢はその作品を詩として認識するということだろう。
 この「論理」は論理として理解はできるが、私はやはり疑問を持つ。野沢の文章を読むと「散文文学」と「散文」の区別がよくわからない。同じように「暗喩的世界」と「暗喩」の区別がよくわからない。
 「暗喩」ではなく「比喩」ということばをつかっているアリストテレスの、次の文章を野沢は引用する。「重要なのは、比喩をつくる才能をもつことである。これだけは、他人から学ぶことができないものであり、生来の能力を示すしるしにほかならない。なぜなら、すぐれた比喩をつくることは、類似を見てとることであるから」。そして、この文章に対して「暗喩(比喩)についてポイエーシス的立場からみても基本中の基本の定義である」と書く。
 そうであるなら。
 まず「自己分析ないし自己解説」では、どのことばが「暗喩(比喩)」なのか、それを明示してほしいと思う。基本の基本を脇においておいて「作品全体」が「比喩的世界」というのでは、個別のことばが見えてこない。
 アリストテレスは、また野沢が引用している文章によれば「比喩は、なによりも特に、明瞭さと快さと斬新さを文章に与えるもの」と定義している。アリストテレスは「文章」ということばをつかっている。「詩」ということばではない。なぜ、それを引用した上で「他人から学ぶことのできない比喩(暗喩)の感覚、比喩的発想、世界を文字通り(字義通り)ではなく比喩の目で見ることが詩人であることの初期条件である」と展開するのか。アリストテレスのことばを踏まえるならば「他人から学ぶことのできない比喩(暗喩)の感覚、比喩的発想、世界を文字通り(字義通り)ではなく比喩の目で見ることが文章家(ことばをつかう人)であることの初期条件である」になるのではないのか。私には、野沢はいろいろな哲学者が語ったこと、必ずしも詩人や詩について限定して書かれたものではないものを、「詩人」に適用し、論理を展開しているように見える。なぜ、原典の論理を逸脱する?
 それはたぶん野沢が哲学者のことばを「詩」として読んでいるからだろう。「暗喩」として読んでいるからだろう。つまり詩との「類似を見てと」り、「類似」をバネにして、「暗喩的世界」としての「詩論」を展開しているからだろう。あるいは野沢の論と、野沢の引用する哲学者のことばは、たがいに「暗喩」になっている、ということだろう。
 野沢は、こうも書いている。(文章に含まれる注釈を省略する。)「リチャーズの暗喩論を擁護したマックス・ブラックは《暗喩は予め存在する類似性を定式化するというより、類似性を創り出す》と評価した。この力こそが暗喩の発見的創造力なのである」。私はここでも思うのである。リチャーズ、マックス・ブラックは「詩の暗喩」について語っているのか。それともことばが必然的にかかえこむ「暗喩」の問題を語っているのか。繰り返しになるが、野沢は、哲学者の論理を「詩論のための暗喩」として「創造的に発見」している。そして、語っている。

 野沢の本のタイトルは『言語暗喩論』である。ここには「詩」ということばはない。詩に限定せずに「暗喩」について語ったものであるなら、私は野沢の書いていることに教えられることが多い。しかし、その教えられたものを詩に限定するとき、私は疑問を感じる。
 詩を書くから詩にこだわる、というかもしれない。しかし野沢は評論も書いている。野沢は評論を書くときは「暗喩」をつかわないのか。ある論が「暗喩的世界」を浮かび上がらせることはないのか。

 


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濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(★)

2021-09-08 09:46:40 | 映画

濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(★)(2021年9月6日、中洲大洋、スクリーン2)

監督 濱口竜介 出演 西島秀俊、三浦透子

 毎年カンヌ映画祭に行っているアメリカ人が「とてもおもしろかった」と激賞したので見に行ったのだが。
 私は村上春樹の小説が大嫌いなので、やっぱり、この映画はダメ。
 ぞっとした。
 何がぞっとしたかというと、冒頭の、女が夢か何か、物語を語る声にぞっとした。あえて感情を殺したような、たんたんとした口調。聞いた途端に、あ、この映画は「声」を描いているのか、と直感してしまう。その直感に、ぞっとしたのである。
 村上春樹の小説にぞっとしてしまうのは、それが「予想通り」だからである。「予想」を裏切るようには進まない。何か、全然知らないものが突然あらわれて物語を変えていくという瞬間、作者(村上)がそれにつられて変わってしまうという瞬間がない。
 いちばん「あざとい」と感じたのは、映画の中に出てくる「ワーニャ伯父さん」。これを役者が多国語で演じる。そのリハーサルの過程で「ことば/声」の問題が語られる。つまり、説明される。感情を込めずに、ただ、正確に。その訓練をしたあと、「正確なことば」が「演技」のなかで「感情の共有」を生む瞬間がある。それを「劇場」に来ている観客にも共有させる。それが芝居だ。その通りだと思うが……。だからこそ、芝居は「一声、二顔、三姿」というのだとも思うが。これを、そのままことばで説明してしまってはねえ。「手話」をもってきて、それを強調するのはねえ。
 私は、「ワーニャ伯父さん」でやっていことをこそ映画でやればよかったのだと思った。つまり、映画を多国語で演じる。逆に「ワーニャ伯父さん」を日本語だけで演じる。そうすると声の問題がもっと切実につたわる。声の中にはわかるものとわからないものがある。それを手さぐりで、あるいは体当たりでというべきか、探りながら自分を開いていく。わからないものにであったとき、人間は、たいてい自分に閉じこもる。西島秀俊は妻の浮気を目撃して(これも声がきっかけ)、自分に閉じこもる。妻が急死したあとも自分に閉じこもる。そこから、どうやってこころを開いていくか。何が西島のこころを開かせるか。それが「ことばの意味」ではなく、「ことばを語る声」である、というのなら、この部分こそ「声」を頼りにするしかない「多国語(何を言っている、意味がかわからない)ことばで映画にして見せなければ、映画にする意味がない。
 映画の中で起きていることを「ワーニャ伯父さん」の「日本語」が手がかりになって、観客の中で広がる。そういうふうにしないと。
 まるで、とてもよくできた村上春樹の「解説本」を読んでいるような映画だった。
 役者たちも、やっていることを完全に理解してやっている。この映画は「声」がテーマだとわかってやっている。それがまた、気持ち悪い。えっ、この役者、こんな人間だったのか、と映画を忘れて引きつけられる瞬間がない。こういう「完璧さ」というのは、私は大嫌い。

 


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メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


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また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

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「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/item/DS2001652


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

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