野沢啓『言語隠喩論』(10)(未來社、2021年7月30日発行)
「終章 現実をそのまま書けるという幻想」。
「終章」の最初の方に野沢は「どうも読んでくれているらしいのだが、残念ながらちゃんと理解してくれているとは思えない文章に出くわすことがあって、がっかりさせられることもすくなくない」と書いている。うーん、これは私のことかとも思うが、「ちゃんと理解する」というのは、私の場合、誰に対してもできないなあ。「読む」というのは「理解する」ということではなく、「読む」ことを通して「考える」ことであり、書くというのは自分の考えを「ことば」にして動かしてみる、確認するということだからだ。私は「理解したい」から読むのではなく「考えたい」から読む。開き直りみたいだが、まあ、開き直りである。
何度でも書くが、私は、野沢の詩に対する特別な意識が理解できない。たとえば「詩を書くことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは書いてみるまえにはわからない」と書いているが、なぜ「詩」なのだろうか。私は「詩」に限定して考えることができない。また「書く」ということに限定して考えることもできない。「ことばを書くことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは書いてみるまえにはわからない」「ことばを話すことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは話してみるまえにはわからない」。それはさらには「ことばを読むことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは読んでみるまえにはわからない」であり、それは「ことばを読むことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは読んで、考えてみるまえにはわからない」でもある。
野沢は「散文を適当に改行したものがほんとうの詩ではないのは、そこにあらかじめ仕込まれた平凡な流通的意味-価値しか存在しないからである」と書くが、それは野沢の問題視している作品が「散文文学」ではない、「文学」の領域に達していないということだろう。逆に言えば、散文の中には「適当な改行」を許さない文章というものがある。私がいま思い浮かべているのは、サラマーゴの『白い闇』というタイトルで邦訳されている作品である。原文は、読点(コンマ)はあふれているが、句点(ピリオド)がなかなか出てこない。この文章は、「適当な改行」を許さないし、「きちんと理解して」「改行」したとしても詩になるかどうかわからないが、読む瞬間瞬間において、私は、あっと驚く。読点の間合い、ことばの切断と接続の生き生きとしたリズムに出会ったときの、この驚きは、「詩」と呼んでいいものだ。それこそ「隠喩」に満ちたことばだ。ことばの衝突の「間合い」を含めて「隠喩」だと私は感じた。
たとえば。
書き出しは「Se ilumino el disco amarillo.」。「disco」は丸いものである。「丸い、黄色いものが光った」くらいの意味になるか。だから、この書き出しを読んだあるアメリカ人(スペイン語ができる)は「太陽を想像した」と言った。実は「信号」の円形の光のことである。ふつうに聞く信号「semaforo」という表現は後で出てくる。なぜ一般的なことばをつかわなかったのか。それは、この小説が、突然盲目になるという感染症が広がった世界を描いた小説だからである。私たちは、ふつう、信号を見るとき「色」だけを見る。でも、そこに色があるとき見ているのは「色」だけではない。かたちも見ている。その無意識に肉体が見て、無意識に肉体が排除しているものの存在が「disco」なのだ。つまり、この小説の書き出しは、人間には見ていながら見ないものがある。そしてそれは見えなくなる(盲目になる)ことによって見えるときがあるということの「隠喩」なのだ。この深い人間観察(洞察)を、人間ではなく、街のどこにでもある信号の描写のなかに集約させている。
これは野沢もつかっている「身分け=言分け」という表現をつかって私なりに言いなおせば(野沢は違うかたちでつかうかもしれない)、こういうことになる。信号を見ているとき、人は色も形も見ている。しかし、ふつうは色しか意識しないので、その意識が色を識別するという肉体を動かし(身分け)、「黄色が点滅した」ということばになる(言わけ)。サラマーゴが書いているように丸い黄色(黄色い丸)が点滅したとことばが書かれるとき(言分けされるとき)、その背後では肉体が形と色を見るという具合に動いている(身分け)。肉体が色だけではなく形も見るという具合に動いてた(身分けしていた)からこそ、ことばは「黄色い丸が点滅した」という具合にことばがつかわれたのだ(言分けされたのだ)。「身分け=言分け」は、あらゆることばの現場で起きていることである。
言いなおせば。
「隠喩」は詩の特権ではない。優れた作品ならば、それが「散文」であっても「隠喩」に満ちている。「隠喩」が結び合って動き、世界を隠しながら切り開いて見せてくる。サラマーゴの書き出しでは「disco」ということばは「semaforo」ということば、その存在を隠しながら、ふつう、人間は信号を見ているとき信号のかたちが「丸い」ということを見逃しているという「事実」を切り開いて見せてくれる。この作品の書き出しには、歩行者用の信号が「青い人間のシルエット」を持っているということばも出てくるが、歩行者はたいてい「青」しか見ていない。しかし、そこには「歩く人間」がかたどられている。大抵は「四角い信号」のなかに「青い人間のシルエット」。でもね、ふつうは、そんなことを気にしない。「青」が見えればいい、と思っているからだ。信号の中のシルエットではなく、実際に生きている人間を、他の人間がどう見ているかはもっと複雑である。そのことも次々にあきらかにしていくこの小説にとっては「青い人間のシルエット」も強烈な「隠喩」である。もちろん、「隠喩」であることに気づかない人もいるだろうけれど。つまり、ことばから何を読み取るかという問題が、つねに「隠喩」にはつきまとう。それは「書く」人間だけの問題ではない。詩人だけが利用していることばの「働き」でもない。
このことは、これから、もう一度触れる。
野沢はデリダを引用しながら、「隠喩化作用(比喩が哲学的コンテクストのなかで隠喩になり、隠喩が固有の意味になること)」について、こう書いている。「第一の意味と第二の意味の二重の消失がどうしておこらなければならないのか」。これはもちろん反問のようなものであって、野沢は彼自身で、こう答えを代弁している。「隠喩」とは、「隠喩としては自ら消失し、その消失においてこそ隠喩としてひそかに復元するというじつにやっかいなシロモノなのだ、とデリダは主張する」。
さて、ふたたび、サラマーゴの『白い闇』の「disco(円盤)」である。これは「信号」の言い換え、「譬喩」である。第一の意味は「信号」である。そして、「信号」の「意味」であると理解したとき、実は「信号の譬喩である(隠喩である)」という意味は消えて、「信号を見るとき、人は信号の色を見ているのであって形を見ているのではない」という別の「隠喩」、「人間の見ているものは何か」という問いとなって「復元」してくる。その問いは、もちろん気づかなければ気づかないでもいい。野沢は「ひそかに」という副詞をつかって書いているが、これは「わかる人」がわかればいいだけのことであり、「わかる人がわかればいい」だけなのだけれど、サラマーゴは「わかってほしい」と願って書いているだろうと思う。この小説にはいろいろな人々が登場し、いろいろなことばを言う。その「発話」のひとつひとつが、汲めどもつくせぬ「隠喩」になっている。「意味」がわかったと思った瞬間、「黄色い丸/丸い黄色」が「信号」だとわかった瞬間、「信号」という意味が消えて違う「意味」、人間は信号を見ているとき形ではなく色を見ているという「意味」があらわれると同時にそれさえ消えて、人間は何かを見るとき何かを見落としているという「深い意味」、「隠喩」を超えた「哲学(人間認識)」があらわれる。つまり、知っているはずの人間の中から、新しい人間が生まれてくるのを目撃することになる。その瞬間に立ち会うことになる。
それは「黄色い丸が点滅した」(雨沢泰の訳は「丸い」を省略していて、サラマーゴのやっていることをたたき壊している/NHK出版)だけでも、そうなのである。人間は信号を見ているとき色だけではなく実は形も見ているという意識の覚醒が、その後の「見る」ということをめぐる「身分け=言分け」の世界を深め、肉体とことばは「哲学」そのものになっていく。繰り返しになるが、『白い闇』の書き出しから、読者は「新しい人間」の誕生に立ち会っているのである。
かなり脱線したかもしれない。
野沢は、デリダを、さらに他の多くの人をルソーの《最初の言語は比喩的でなければならなかった》と結びつけて、考えを進めている。はっきり理解しているわけではないが、野沢がこのことばを引用するとき、野沢の視点は「比喩(的)」ということばに向いているように思う。
だからこそ、私はあえて問いかけてみたいのだが、ルソーが書いている「言語」とは、いったい何を指しているのか。ルソーの書いている「言語」というこばこそ「隠喩」なのではないのか。つまり「意識化されたことば」のことではないのか。言いなおすと、「いま私が言ったことばは、これまで言われていることばと違う」という意識でつかわれていることばを指すのではないのか。この本の最初の方で野沢は雷を体験した古代の人間が、驚きの中で発することばについて書いていたが、その驚きとともに発する「ことば」は、それまで知っていることばではない。知っていることばでは伝えられない驚きをなんとか伝えようとすることば、言いなおせば「最初のことば」を否定する「ことば」である。野沢の書いている古代人がいったい何歳の人間を想定しているのか知らないが、雷を初体験したわけではなく、雷を体験してきたが、それまでの体験をこえる雷に遭遇したとき、今までとは違うことばをいいたいという気持ちになったのだろう。つまり、そのときのことばは、「雷」ということばを知っていて、その知っていることを否定して、なおかつ伝えたいものを伝えようとするものだったと思う。「最初の言語」は最初に「意識化」された言語のことだろう。「意識化」を補わないことには、私には意味が理解できない。
野沢の書いていることは、この「意識化」のことなのかもしれないが、どうにもわかりにくい。詩の特権化が無意識におこなわれているように、いくつかのことばが無意識的につかわれている(定義が明確にされていない)と私は感じてしまう。
(この問題は、パロールとかラングとか、さらにエクリチュールとかという「用語」と関係づけて見ることもできると思うが、私はカタカナを正確に読むことができないので、これ以上は書かない。)
もうひとつ。
そして、このときの「意識化」の問題というのは、人が生きている「現場」によって、それぞれに違う。だから「隠喩」としての詩を必要とする人もいれば、違うかたちの詩を必要とする人もいるということも忘れてはならないことなのではないだろうか。野沢の求める詩は野沢の求める詩。ことばは、たとえば「日本語」とか「英語」とか言ってしまうけれど、ほんとうは個人個人の「野沢語」「谷内語」のようなものであって、「文法」が違うのだ。それは何も「文学語」だけではなく「日常語」においても。その「違い」をどう意識化するか、どう違いを共存させていくかということを考えないといけないような気がする。少なくとも、私は「詩の言語の特権化(隠喩の独占)」という野沢の視点には疑問を感じてしまう。私には私の目指す「言語」というものがあるけれど、だからといってその他の「言語」を排除はしたくないのである。他人の言語がなければ、私はことばで考えることができない。他人の言語は多ければ多いほどいい、と思っている。もちろん、それを全部つかえるわけではないし、つかいたいとも思わないが。
*********************************************************************
★「詩はどこにあるか」オンライン講座★
メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。
★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)
★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
**********************************************************************
「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。
https://www.seichoku.com/item/DS2001652
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349
(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com