詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇255)Obra, Luciano González Diaz

2022-12-09 10:13:15 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz

 Pequeña escultura de Luciano. Colgante que cuelga de una correa de cuero. Tiene una calidez misteriosa.
 Los detalles, o más bien las partes salientes, son dorados y brillantes. Parece como si el óxido se hubiera desprendido por fricción debido a los continuos toques con la mano. Incluso después de realizar la obra, ésta sigue cambiando cada vez que se toca con la mano.
 La forma en sí no cambia porque es de bronce. Sin embargo, la parte que toca la mano va a cambiar de color poco a poco. Si esta obra me perteneciera, sería ....... En este cambio, está mi tiempo conviviendo con la escultura. Aunque Luciano hizo la obra, creo que se convierte en mi obra desde el momento en que la poseo.
 No lo llevo como colgante, sino como llavero, y lo vuelvo a guardar suavemente en el bolsillo. Calmará mi corazón.

 Luciano の小さな彫刻。革紐でつるすペンダント。不思議な温かさがある。
 細部というか、突起した部分がブロンズの錆が剥がれ金色に光っている。手で触り続けてきたために、剥げてしまった、という感じがする。つくったあとも、手で触るたびに、作品がかわりつづけていく、という感じがある。
 形そのものは金属だからかわらない。しかし、手が触る部分は少しずつ色がかわる。その変化のなかに、作品といっしょに生きている私の時間がある。Luciano がつくった作品だけれど、所有したときから私の作品になる、と思う。
 ペンダントではなく、キーホルダーにして、ポケットのなかでそっとにぎり直してみる。そうするとこころが落ち着くだろうなあ。

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Estoy loco por espana(番外篇254)Obra, Antonio Pons

2022-12-08 17:58:11 | estoy loco por espana

Obra, Antonio Pons

 Un aspecto de la cultura japonesa es el "wabi-sabi". Esto es difícil de definir. Siento wabi-sabi, pero no puedo explicarlo con otras palabras. Cuando encuentre con wabi-sabi, sólo puedo decir que aqu hay wabi-sabi. 
 En esta obra de Antonio, siento wabi-sabi.
 La sensación de la madera vieja es wabi-sabi. Le queda un "mínimo" de vida de madera. Es "mínima", pero me da la sensación de algo "infinito", o en esta obra, de "música infinita". No es como una sinfonía, donde los sonidos se superponen intrincadamente y se convierten en ricos acordes, o una melodía vívida que sigue y sigue. Hay sólo un sonido, pero ese sonido, que existe como un sonido puro, es capaz de competir con la miríada de sonidos de una sinfonía.
 Este "instrumento" no produce sonido. Este instrumento existe para amortiguar la miríada de sonidos de mi conciencia. Me atrevo a decir que es un "instrumento que no suena" para descubrir el primer sonido que aparece tras un silencio total.
 Esta "contradicción" es el wabi-sabi.

 日本の文化のひとつに「わび・さび」がある。この定義は難しい。わび、さびを感じるがそれを別のことばで説明することができない。だから、何に接したときにわび、さびを感じるかというしかない。
 Antonioのこの作品に、私はわび、さびを感じる。
  古びた木の感じ。そこには「最小限」のいのちが残っている。それが「最小限」でありながら「無限」の何か、この作品で言えば「無限の音楽」を感じさせる。交響曲のように、音が複雑に重なり、豊かな和音になる、あざやかな旋律となってつづいていくというのではない。ただひとつの音、しかし、その音は純粋なひとつの音として存在することで、無数の交響曲の音に拮抗できる。
  この「楽器」は音を出さない。この楽器は、私の意識の中にある無数の音を消すために存在する。あえて言えば、完全な沈黙のあとにあらわれる最初の音を発見するための「鳴らない楽器」なのだ。
  こういう「矛盾」が「わび・さび」なのだ。

 

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Estoy loco por espana(番外篇253)Obra, Joaquín Llorens

2022-12-06 15:35:56 | estoy loco por espana

Estoy loco por espana(番外篇253)Obra, Joaquín Llorens
2022年12月6日(火曜日)

Obra, Joaquín Llorens
T.Hierro 75x34x18 Navidad 2022


 Este será el belén de Joaquín para 2020.
 Igual que los japoneses hacen adornos de Año Nuevo todos los años, Joaquín hace belen todos los años. La repetición tiene un poder misterioso. Lo que cambia con la repetición y lo que no cambia con la repetición. La forma y el tamaño de los tres triángulos cambian. Pero la oración que contienen no cambia. El amor no cambia. La mirada cálida que contempla el Nacimiento no cambia. Que continúe la paz.

 これはJoaquin の2020年のbelen だろう。
 日本人が毎年正月飾りをつくるように、Joaquin は毎年belen をつくる。繰り返しには、なにか不思議な力がある。繰り返すことで変わること、繰り返しても変わらぬもの。三枚の三角形の形、大きさは変わる。しかし、そこにこめた祈りは変わらない。愛はかわらない。キリスト降誕を見つめる温かい視線は変わらない。

 

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Estoy loco por espana(番外篇252)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-12-06 08:26:20 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
"La razón de la consciencia" 1990

 La palabra "joven" me vino a la mente en cuanto vi este cuadro.
 Si no hubiera conocido la obra reciente de Jesús, quizá no habría prestado atención a este cuadro. Este cuadro está llena de "juventud" y "limpieza". Y por "juventud" y "limpieza" quiero decir "espiritualidad". Aquí hay "pureza".
 En la juventud, el cuerpo (el deseo) se desboca. En oposición a esto, el espíritu también se desboca. De esta batalla entre cuerpo y espíritu surge una pureza inesperada. ¿Se trata de pureza física? ¿Es pureza de espíritu? Es imposible distinguir entre ambos. Tal vez sea algo que no sea necesario distinguir. Puede ser que el cuerpo sea puro y el espíritu, que intenta suprimirlo, sea embrollado.
 Tengo mucho sobre lo que escribir. Si empiezo a escribir, no podré parar. Por eso no escribiré más.

 見た瞬間、「若い」ということばがやってきた。
  もし、いまのJesus の作品を知っていなければ、この絵に注目しなかったかもしれない。この絵には「若さ」と「清潔さ」があふれている。そして、その「若さ」「清潔さ」とは「精神的」という意味でもある。ここには「純粋」がある。
  青春時代、肉体(欲望)が暴走する。それに拮抗するように精神も暴走する。その戦いの中から予想もしなかった純粋さが噴出する。それは肉体の純粋さか。精神の純粋さか。区別ができない。たぶん、区別しなくていいものなのだ。肉体こそが純粋で、それを抑制しようとする精神が濁っているということもできるのだから。
 書きたいことがたくさんある。書き始めれば、ことばがとまらなくなる。だから、もうこれ以上書かない。

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江里昭彦「風さえも共犯者となり船が岸を去るのを助けた」

2022-12-05 23:18:28 | 詩(雑誌・同人誌)

江里昭彦「風さえも共犯者となり船が岸を去るのを助けた」(「左庭」51、2022年11月25日発行)

 江里昭彦「風さえも共犯者となり船が岸を去るのを助けた」は俳句である。しかし、古典的な俳句ではない。

出航やわが血液も唄いだす

正面に長患いの城がある

 「古典的ではない」と書いたが、「古典的」かもしれない。いまそのものを感じさせることばがない。確固としたイメージがある。響きが鍛えられている。
 こういう俳句について感想を書くのはむずかしい。「意味」を語り直してみてもはじまらない。

呪詛として岬でひらく十指かな

 「血液」「長患い」「呪詛」とつづけば、闘病している人間を思う。「血液」が、古い病気といっていいのかどうか分からないが「結核」を連想させる。結核患者が病棟を抜け出して、岬で風に吹かれている。吐血したとき、血を受け止めた手、その指を開いてみる。運命を見る感じか。などと、つづければ、何か、どんどん「悲劇的な意味」がつながってくる。それも、第二次大戦までの、古い感じの風景として。
 まあ、これは、何と言うか、江里の「体験」ではなくて、私の「読書体験」をかたるようなものだが。
 あ、ことばというのは、誰のことばか分からないが「過去」をもっているんだなあ、どうしても「過去」から逃げきれないものなんだなあ、と思う。といっても、これはあくまで私のことばが「過去」から逃げきれないのであって、江里は振り切って別の時間を生きているのかもしれないのだけれど。

偏西風を蓄えきれぬ砦かな

炙っても鸚鵡は飛ばぬ海のうえ

倦まず仰ぎ虹が授くるもの知らず

船乗りがみるは匂いのなき性夢

渡り鳥まぢかで見たきその素顔

ねむる耳朶(みみ)が磁石となりて砂鉄吸う

酔いどれの体臭(におい) 飛雪も消せないなら


 最後に、おさえきれないリズムが破調となって展開するが、それが、とても気持ちがいい。破調は「古典的」ではないかもしれないが、破調を抱え込む力のあり方が「古典的」というか、ゆるぎないなあ、という感じになって残る。
 「呪詛」と「船乗り」からあとの四句が好きだ。「渡り鳥」は「まぢか」が強烈でいいなあと思う。今回の江島の句の全体を象徴するとすることばがあるとすれば「まぢか」だろうなあ。何か遠いものがある。それを「まぢか」でとらえたい。「出航する船」は、すでに江里から遠い場所にある。それなのに「酔どれの体臭」は「血液」よりも「まぢか」にあって、夢を掻き削る。そのときの「肉体の内部に響く音」が全部の句を貫いている。

 

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坂多瑩子「スースーする」、長嶋南子「なにやってんのよ」

2022-12-04 20:58:11 | 詩(雑誌・同人誌)

坂多瑩子「スースーする」、長嶋南子「なにやってんのよ」(「天国飲屋」2、2022年11月26日発行)

 坂多瑩子「スースーする」は何を書いているか。

いつだったか
夜ふけ
鏡をみると
母が死んでいた
よく似た顔だ
うんざりだ

もう死んで一〇年は経っている
一緒につれていかれたあたしも死んで一〇年

背中のどこかがスースーする
母親に食べられたとこ
メロンパンが三個ポッカリ入る大きさ

ちょっと哀しい日常が凝縮されて

あたしを食べた母を
あたしは
いつか書くはずだったとファミレスで女友だちにいい

ああ 友は夢のような美少女だった

おかあさん
死ぬのはいいけど
美少女のあたしをつれていって
残りかすみたいなあたしを残していったね

そのせいで
あたしの書くものはいつも消しゴムの消しカスでいっぱい

いつだったか
夜ふけ
鏡に
にっこり笑ってやった

 母親が死んだ。十年になる。ときどき思い出す。これは、思い出したときのことを書いている。「鏡をみると/母が死んでいた」とあるから、鏡をみて母を思い出した、顔が似ているなあ、と気づいたということか。あとは、哀しいのだか、恨みがましいのだか、よくわからないが、まあ、こんなことは、よくわからなくていい。その日その日の気分で、なつかしかったり、いやだったりする。その、なんだかよくわからないものが、よくわからないまま書かれているところがおもしろい。
 「メロンパンが三個ポッカリ入る大きさ」というのは具体的すぎて、何のことかわからない。「抽象」というか、「要約できるもの」が、ここにはない。それは比喩を突き抜けている。
 それは「スースーする」にもいえる。
 私は詩の講座で、こういうことばを取り上げるのが好きだ。「スースーするって、意味わかる?」。たいてい、「わからない」という声はかえってこない。「じゃ、このスースーするを自分のことばで言い直してみて」。しかし、これが、できない。「背中のどこかがスースーする」というのは、だれが体験したことがあると思う。たとえば、いまの季節、すきま風が背中のあたりを吹き抜けていく。あるいはマフラーを忘れた日、首筋から寒風が吹き込むことがある。そういうとき「スースーする」。そのときの「肉体の感覚」に何か似ているのかもしれない。しかし、これを別のことばで言い直すのはとてもむずかしい。「肉体」がことばを超えてつかみとっているものがあり、それは「スースーする」で言い直すことができない。「すきま風を背中で感じて……」ということをぼんやり思ってみるが、それは坂多の「スースーする」と重なるかどうか、論理的に説明できない。だから、言い直しもできない。
 ほかの行も、なんとなく「わかる」。「わかった気持ち」になる。「あ、わかる、わかる」と言いたくなる。でもほんとうにわかっているのなら、それを別のことばで言えるはずだが、それができない。
 それが、論理的に展開されているか、テキトウに散らばっているのか、それを説明することもできない。でも「わかる」という気持ちだけが残る。
 私は、こういう詩がとても好きだ。「おばさん詩」と呼んでいる。どういうことかというと、こういうことばの動かし方は、ある程度年齢を重ねないとできない。論理を踏み外すという体験を何回かして、あ、論理というのは大したものではないのだ(そんなものでひとは死なないのだ)とわかったときだけに、言うことができるのである。これは論理にとらわれている「おじさん」にはできない。だから、「おばさん詩」というのはあっても「おじさん詩」というのは、私のなかでは存在しない。(唯一、例外になりうるのは、細田傳造かもしれない。) 

 長嶋南子「なにやってんのよ」は、どうか。

男と別れた

買い物をジャンジャンする
豚肉豆腐刺身に納豆ホッケにさんまブロッコリー
食べないうちに腐っていく

腐っていくからだ
尖った乳房も
すべすべしたお尻も
どこかへ消えてしまった
あたしゃどうしたらいい
どうもこうもありゃしない
きょうの次はあしたで
あしたの次はあさってでしょ

そのからだで
その頭で
やっていくしかない
そんなことも分からないのか
出来の良い姉さんに笑われるよ
と松丸先生は職員室でいった

別れた男はどこで腐っていくんでしょね

 男と別れた。それがどうしたということはないかもしれない。でも、ことばにするくらいだから、ことばにしなければならないだけの重みのようなものはある。で、「なにやってんのよ」と自問自答している。といっても、答えは、でない。それだけのことだが、それだけであるところがいい。
 生きていくというのは、答えがないということを納得することなのだと思うが、それとどう向き合うか。「開き直り方」が「おばさん」だなあ、と思う。

 


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オドレイ・ディワン監督「あのこと」(★★★)

2022-12-04 15:03:53 | 映画

オドレイ・ディワン監督「あのこと」(★★★)(2022年12月03日、KBCシネマ、スクリーン2)

監督 オドレイ・ディワン 出演 アナマリア・バルトロメイ

 ノーベル文学賞受賞作家アニー・エルノーの小説が原作。主役の女性が1940年生まれという設定だから、1960年ごろのフランスが描かれていることになる。アメリカを揺るがしている中絶問題がテーマなのだが、フランスはそれをどんなふうに解決したのか、問題を克服したのか。しかし、映画は、これをフランスの問題、あるいは国家の問題としては描いていない。ひとりの女性がどう向き合ったか、そのとき社会が(男が)どう対応したか、それに対して主人公がどう反応したかに焦点を絞って描いている。
 だから。
 この映画の特徴は、視線が拡散していかないところにある。情報量が少ないわけではないのだが、すべてが主人公の身体に接近した場所で描かれる。この主人公の肉体との距離をどう感じるか。ひと(他人)との距離の取り方は、習慣というか、国民性によって随分違うと思う。フランス(人)のことは私はよく知らないが、どちらかというとひととひとの「物理的距離」は近い。挨拶のとき抱き合ったり、キスしたり、カフェなどの座席の距離も狭い。しかし、「心理的距離」はどうか。独立心が強いというべきか、わがまま度合いが強いというべきか、意外と「遠い」。「遠い」(距離感が広い)から、わがままが許されるのだろう。そして、いったん対立すると、近づかなくなる。日本は、「物理的距離」はかなり広いが、「心理的距離(拘束感)はかなり強い。「同調圧力」(というらしい)がある。他人の「わがまま」を否定し、自立を許さないところがある。
 この映画は、私が感じているままの「フランス人の距離感」で展開する。
 カメラは主人公に密着する。いつも彼女から離れない。いつも1メートル以内(もっと短い、50センチ、30センチの距離か)にいる。遠くのものがカメラの中に入ってくるときもあるが、それはあくまで彼女の視線がその遠くのものをみつめたから。たとえば大学の教室での、離れた席にいる男、教壇にいる教師を見るという具合。主人公の「視線」から自由にカメラが世界をとらえるわけではない。
 印象的なシーンがいくつかあるが、私にとってもっとも強烈だったのは、海のシーン。主人公が男友達と海へ行く。沖へ向かってどんどん泳いでいく。男が危ないと追いかけてくる。このときカメラが映すのは海の広さではない。追いかけてくる男や、遠ざかる岸も映さない。ただ水のなかで泳いでいる女を映す。彼女は、自分だけではどうすることもできない圧倒的なものと対面している。それは「全体」が見えない。水のようにただ肉体に絡みついてくる。決して「親身になることのない(近づいてくれない)」ものが、肉体のそばにぴったりとはりついている。ここに、彼女の「息苦しさ」が象徴されている。戦いたくても戦えない、助けを求めたいのに誰も助けてくれない。「いのち」が、ただ、「いのち」のまま存在している。巨大な、手に負えないもののなかで。
 問題は。
 このとき、私はどこにいるのか。私は、彼女にとって、たとえば巨大な海なのか。彼女を追いかけてきて、「引き返せ」といっている友達なのか。わかっているのは、私は彼女ではない、ということだけなのだ。この映画のなかには、私は、いない。そのことを、もっとも強烈に感じさせるのが、この海のシーンだ。そして、私がそこにいない(関与できない)にもかかわらず、私を彼女の「30センチ以内」の距離に引っ張りこむのがカメラなのである。
 私は、ほんとうは、そこにいるのだ。たとえば、主人公に妊娠を告げる医師として。流産を引き起こすと嘘を言って流産防止薬の処方箋を書く医師として。助けを求められた男友達として。あるいは、堕胎の処置をする女として。同じ寮の友達として。その距離の中にいて、彼女を拘束するのではなく、彼女の独立とどう向き合うか。「30センチ」の距離以内に入らなければ、まあ、「知らん顔」ができる。私には無関係ということができる。しかし、カメラは、そういう私の「わがまま」を許さない。
 他人を「わがまま」と切って捨てることは、もしかしたら簡単かもしれない。私と無関係ということは簡単かもしれない。しかし、簡単だから、その方法がいいとはいえない。これが、むずかしい。この映画が、ある瞬間、「恐怖映画」のように迫ってくるのは、その「距離感」があまりにも現実的だからかもしれない。古い時代設定だが、時間の距離を超えて迫ってくる。特に、あの海のシーンでは、そこには「歴史(過去)」ではない「時間(いま)」が動いている。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇251)Obra, Calo Carratalá

2022-12-04 08:52:43 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá

 ¿Qué peinta Calo? Es el tamaño del espacio. Sólo veo un espacio tremendamente enorme. No hay nada más que luz, y es interminable. La luz empuja todo a lo lejos, no sé si es el horizonte de mar o de tierra. Y luego hay un espacio frente al campus que no se representa, pero que es aún más grande y lleno de luz que esa inmensidad.
 Calo pinta la silueta de un hombre en primer plano. Sin embargo, el primer plano es un primer plano aparente creado al recortar un lugar lejano, que en realidad está muy lejos. El hombre está a medio camino entre el horizonte lejano y yo, en el "medio lejano". Y lo que veo es la extensión del espacio que se extiende alrededor del hombre, la luz que sigue empujando el espacio.
 El hombre refleja la luz, pero también está silueteado por la fuerte luz. Y al mismo tiempo está emitiendo luz. La luz que lo inunda penetra en el interior del hombre y destruye sus contornos desde dentro. Los contornos del hombre se rompen desde dentro y las sombras se dispersan ahora en la inmensidad del espacio y desaparecen en la luz. Sólo la luz pura y el espacio puro permanecen en el mundo. Esto es lo que me hace sentir el cuadro.

 Caloは何を描いているのか。空間の大きさである。私には、ただとてつもなく広い空間が見える。そこには光だけが無限にあふれている。光が、水平線か、地平線かわからない何かを遠くへ押し広げる。そして、描かれていないが、その広さよりももっと遠い光に満ちた空間がキャンパスの手前に広がっている。
 Caloは男のシルエットを手前に描いている。しかし、その手前は、遠いところを切り取った(トリミングした)結果生まれた見かけの手前であり、ほんとうはとても遠い。男は、遠い水平線と、私との中間、「遠い中間」にいる。そして、私が見ているのは、その男を中心にして広がる空間の広さ、空間を押し広げ続ける光である。
 男は光を反射しながら、強い光のためにシルエットにもなっている。そして同時に光を発している。まわりにあふれる光が男の内部に侵入し、男の内部から輪郭を破壊する。男の輪郭は内部から砕け、影はこれから広大な空間の中へ散らばり、光になって消えていく。世界に、ただ純粋な光、純粋な空間だけが残される。そう感じさせる絵である。

 

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杉惠美子「小春日和」、徳永孝「雲の橋」、青柳俊哉「フィルター」、永田アオ「スポーツバッグ」、木谷明「十一月の挨拶」

2022-12-02 23:34:37 | 現代詩講座

杉惠美子「小春日和」、徳永孝「雲の橋」、青柳俊哉「フィルター」、永田アオ「スポーツバッグ」、木谷明「十一月の挨拶」(朝日カルチャーセンター、2022年11月21日)

 受講生の作品。

小春日和  杉惠美子

やわらかなものは みどり児の手
やわらかなものは 秋の陽だまり
やわらかなものは 明日を待つこころ

視線を少し遠くに向けて
次の季節を予感しようと思う
待ってみようと思う

少しバランスが取れてきそうな気がする
心を拡げることが出来たら
違う時間が流れそうな気がする

 どの行が好き? そこから詩に近づいていくことにした。「待ってみようと思う」。最後につながる行。待つことが大切。問題があっても、待っていれば解決する。「違う時間が流れそうな気がする」。少しずつ気持ちが外へ動いていく。それが違う時間、違う世界につながる。「やわらかいもの」の繰り返しの理由がここにある。「やわらかなものは みどり児の手」。手を思い浮かべながら、最後につながる。と言う具合に意見が分かれた。意見が分かれるというのは、とてもいいことだと思う。
 私は「やわらかなものは 明日を待つこころ」。少し理屈っぽいかもしれないが、「やわらかなものは」という繰り返しが理屈っぽさを消している。リズムにのって、無意識に読んでしまう。あるいは理屈っぽさを読み落としてしまう、といえばいいのか。これは、なかなかできない「技巧」というものである。そして、この「こころ」が二連目で「思う」ということばにかわり、三連目で「気がする」ということばにかわる。「待つ」ときの「こころ」の変化が、それとはわからないように書かれている。その変化のはじまりが、この行にある。二連目、三連目の「思う」「気がする」はなくても、成立する。もちろん、それを削除するときは「思う」だけではなく「と思う」を削除しないと行けないし、「気がする」は「な気がする」を削除し「な」のかわりに「だ」(形容動詞の語尾)をつけくわえないといけない。しかし、こういうことは、無意識にできる。「思う」「気がする」はなくても、成立する、とはそういう意味である。そのうえで、「思う」「気がする」を削除したものと、元の詩を比べてみるとわかると思うが、「こころ」「思う」「気がする」は、ことばこそ違うが「やわらかなものは」ということばの繰り返しと同じように、繰り返すことでリズムをつくっていることがわかる。
 杉は、そういうことを意識していないかもしれない。無意識に、ことばが変化しているからこそ、そこに「正直」があらわれる。「正直」がことばの奥深いところで動いていると、詩が、とても自然に響いてくる。
       

雲の橋  徳永孝

青空に長く弓なりに伸びる
一本の飛行機雲
遠くに広がる白い雲へ続く橋

雲の国には何が有るのかな
どんな人達が住んでいるのかな
橋を渡って行ってみよう

細いけれど
まっすぐだから
楽に行けそうだよ

あ、橋のあそこが風で乱れてきた
崩れ落ちる前に
急いで通りすぎよう

こんどは雲のもやがかかってきた
道を踏み外さないよう
用心して行かなくちゃね

やっと着いた大きな雲の国
雲の草原に寝ころがって
しばらく休けい

 「しばらく休けい」。オチが軽やかでいい。がんばって、たどりつき、休憩するという感じがいい。「あ、橋のあちこちが風で乱れてきた」。情景を想像できる。「雲の草原に寝ころがって」。同じ気持ちになる。大きな雲のイメージが自然に浮かぶ。
 私は「遠くに広がる白い雲へ続く橋」。「続く」という動詞が、イメージを「つづけている(つないでいる)」。変化を追いかけて、それがイメージとしてつづいているのだが、その出発点が「続く」という動詞のなかにある。
 少し疑問を書けば。「飛行機雲」は雲のない晴れ渡った空にあらわれる。想像の上では、それは「大きな雲」につながるかもしれないが、私は、現実の風景としては飛行機雲が別の大きな雲につながることはないと思う。(見た記憶がない。)詩は現実を書くものではないから、もちろん「空想」を完結させてかまわないのだが、「青空に長く弓なりに伸びる」という「写生のことば」ではじまった運動が「空想」にかわっていくときは、その「空想」のなかに「写生としての描写」があった方がいいと思う。「雲の草原」は「弓なり」に比べると、比喩として常套句という感じがする。

フィルター  青柳俊哉

太陽はうすく細く
厚い砂の層に覆われていく地球 
砂から伸びている 無数の
仄白い鉱物 鉱物の周りを 
衛星のように
球体がめぐっている

球体の中に 
人は花になって生きていた 
砂と石のうえを浮遊する 光る花の群れ 
風にそよぐことも 砂に根を下ろすこともなく 
光も水も もとめない花々 
花が光自身であったから
花の意識にとっては生も死もないのかもしれなかった 
球体の中央に 
二つのフィルターの口が開いていて 
そこから ひときわ眩しい花々が
吸い込まれるように消え   
吹き散らすように生まれていた

星の空間が 内部へ折り返し
花の球体をうみだす 
花の光を浴びて 鉱物は樹木のように
伸びていく 二つの空間を
フィルターが結び 星の光を
いのちへ変えていた

 「球体の中に/人は花になって生きていた」。美しい。花が好きなので、こんな風だったらいいなあと思う。「花が光自身であったから」。花から光へ、それが最後に星に変化していく。その変化が美しい。「花の意識にとっては生も死もないのかもしれなかった」。人間以外は、みんなこうなのだろうか。生も死もない世界。無垢なイメージが美しい。「フィルターが結び 星の光を/いのちへ変えていた」。わからないけれど、イメージが美しい。「球体が何かわからない」という声も出て、これに対して青柳は「星の空間が 内部へ折り返し/花の球体をうみだす」が書きたかったと言った上で、太陽が沈み、死が訪れる、そのあと死が生へとかわる感じとつけくわえた。循環、円環のイメージか。
 私は「球体の中央に/二つのフィルターの口が開いていて」がイメージできなかった。なぜ「二つ」なのか。青柳によれば、「二つ」というよりも、フィルターの「両面」というイメージらしい。

スポーツバッグ  永田アオ

横長のスポーツバッグを抱きしめて
電車の中で丸くなって眠っている
少女よ
下にも置かず抱きしめているそのスポーツバッグは
とても大切なものなんだろうね
あなたはきっと知らないが
わたしたちもあなたをとても大切に思っているよ
だから、ビクッと目を覚まし
ずりおちそうなスポーツバッグを抱えなおして
恥ずかしそうにしなくていいんだよ

(どうかこの少女を戦禍が襲いませんように)

少女よ
眠りなさい
みんなであなたを守るから
あなたが抱きしめている
そのスポーツバッグみたいに

 「下にも置かず抱きしめているそのスポーツバッグは」。気持ちがこもっている。「眠りなさい」。呼びかけているところがいい。「みんなであなたを守るから」。少女への気持ちが、ここに集約されている。「恥ずかしそうにしなくていいんだよ」。少女を包み込む視線がいい。「ビクッと目を覚まし/ずりおちそうなスポーツバッグを抱えなおして」がリアリティーがあっていい。
 私も「下にも置かず抱きしめているそのスポーツバッグは」が印象に残った。特に「下にも置かず」が単に「客観的描写」を超えて、少女の気持ちになっているところがいい。「抱く」という動詞は、途中で「抱える」ということばにかわり、ふたたび「抱く」があらわれる。その途中に「守る」というこどが出てくる。「抱く(抱える)=守る」である。そしてそれは「大切な」ものだから「抱き、抱え、守る」。このことばの呼応が強固で美しいのだが、「下にも置かず」がそれをていねいに「肉体」で言い直している。どんなふうに、抱き、抱え、守るのか。「下に置かず」というと、大事にしている感じが強くなる。その少女の気持ちが、永田に影響し、「抱く」ということばを誘っているのだと思う。

十一月の挨拶  木谷明

あ、お月さま
この頃 機嫌がいいようね
こんなに はやい じかんから
白く ぽっかり
日毎 お顔が ふっくらしてく
おかえり
浮かびに来ただけ ふとりに来ただけ
でも おかえり 夕方だから、そういうよ
それで
夜空に光ったら いってらっしゃい っていう

 「でも おかえり 夕方だから、そういうよ」。いい感じ。夕方の、なつかしい感じを思いだす。「浮かびに来ただけ ふとりに来ただけ」。月のセリフだが、ぶっきらぼうな感じいい。ふとるというネガティブなことを言っている。「この頃 機嫌がいいようね」。話しかける感じがいい。「夜空に光ったら いってらっしゃい っていう」。いってらっしゃいが、新鮮。
 月がふとる(満月に近づいていく)ことを、人間が太ると重ね合わせ、ネガティブ(健康的ではない?)という声があったことに、私は驚き、新鮮な気持ちにもなった。私は、その前の「ふっくら」とあわせ、満月(に近づく)を肯定的にとらえている。書いている木谷も私も「意味の定型」にとらわれているかもしれない。
 私も「でも おかえり 夕方だから、そういうよ」が好き。「そういうよ」は月に言っているというよりも、自分自身を納得させているのだと思う。月への気持ちであると同時に、自分の気持ちを確かめる。そのために、言う。それは最終行にも繰り返されている。ことばは、だれか、相手に向かって言うものだが、ときには自分自身に言うこともある。自分を整えるために言う。詩も、だれかに向かって書くのだが、同時に自分を整えるためにも書く。自分でもわからない何かを、はっきり自分のものにするために書くのだと思う。

 

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