惑星ダルの日常(goo版)

(森下一仁の近況です。タイトルをはじめ、ほとんどの写真は交差法で立体視できます)

カント

2010-05-12 21:23:35 | 学問
 NHK教育テレビで放送されている「ハーバード白熱教室」を楽しみに視聴しています。政治哲学者マイケル・サンデル教授の授業はとても興味深く、面白い。

 前回(8日)の放送はドイツの哲学者イマヌエル・カントをめぐってのものでしたが、これまでに比べてかなり難しかった。
 サンデル教授は明らかにカントの立場を支持していて、カントの主張を正確に伝えようとしているのでしょう。簡単に要点を指し示すのではなく、難しい考え方もそのままに。

 私はカントをきちんと読んだことはなく、彼の哲学への理解は大学時代の師・山崎正一先生の教えによるものがほとんどです。
 山崎先生のカント紹介でいちばん記憶に残っているのは、道徳は個々の人間の判断を超えたところにあるが、現実世界で道徳に従って正しく生きた者が必ずしも幸福であるとは限らない。しかし、私たちはそのような人が幸福であることを願う。ゆえに、そうした人びとを救うために、人間は神の存在を要求するのだ――というような「神の存在証明」でした。
 神の存在が人間の幸福を保証するというよりは、正しい人間の幸福を保証するために神は必要とされるという、いわば逆転の発想。そこにキリスト教世界に住む近代人の思想的な苦心を見たものでした。

 ひさしぶりに山崎先生の著書を取り出して、哲学史を見直してみたのもマイケル・サンデル教授のおかげ。
 全12回の放送なので、まだ7回残っています。残りも逃さず見つづけるつもり。


主語抹殺論

2007-03-08 21:36:18 | 学問

 少しずつ読んでいる三上章の文法書。馴れない分野なので飲み込むのに苦労したり、三上さん独特のユーモアにクスクス笑ったり。
 『現代語法序説――シンタクスの試み』(くろしお出版)の第2章に入って、真髄に触れる思いがします。

 今はまだきちんと理解していないかもしれませんが、「日本語に主語は不要」という三上さんの主張は、単に英語の「Ⅰ love you」が、日本語では「好きです」になって、「Ⅰ(私)」が消えるということではないようです。

 「好く」という動作・状態(述語)の主体になるのは「私」であって、述語に対する主格としては存在する。
 文法用語がややこしいのですが、主語と主格とはちょっと違うのです。三上さんによれば、主語とは、英語やフランス語の活用に見るように、術後となる動詞の形を決めたり、形容詞との間をつなぐbe動詞の形を決めたりして、ひとつの文の構造に決定的な役割を果たすものだというのです。彼は「主語は、主格が或る特別なはたらきをする国語において、その主格に認められる資格、としか考えられないものである」といっています。
 これに対して、日本語では主格が述語動詞の活用を支配したりするような特権的な地位にはない。また、文の主題を主語が示すという考え方に対しても、日本語では「象は鼻が長い」のように助詞「は」が主題を提示する役割をもっているので、主格となる語(この場合は「鼻が」でしょうか)が必ずしも文全体の主題を示したりはしない、というのです。

 同様のことを指摘している文法学者は他にもいるのであって「ただ主語という用語の廃止を主張しているのが、目下のところ私一人なのである」と、三上さんは書いています。
 けれども、用語の違いは考え方の違いに通じるので、やはり「日本語に主語はない」という言いかたは刺激的です。これが妥当かどうかを知るために、(私は)しばらく勉強をつづけなくてはなりません。

 なんだか、文の作り方に妙な意識が働くようになってしまいました。


ベストSF投票、今夜締切です

2007-02-25 20:50:09 | 学問
 図書館へ行って、三上章『現代語法序説』(くろしお出版、1972年)ほかを借りてきました(『象は鼻が長い』は2冊とも貸し出し中)。
 仕事の都合ですぐに読めないのが残念。

 どうしてこれまで三上文法に触れる機会がなかったのか、考えてみました。

 そもそもは、文法の本を読もうという気が起こらなかった。これはたぶん、中学、高校で齧った文法なるものが、知的刺激の乏しい、つまらないものだったからだと思います。
 その後、チョムスキーという人が「生成文法」なるものを唱えていると聞き、「それは凄い」と思ったものの、実際に解説を読むと「どうも違う」という感じを抱いて、あまり信用しなかったのです。とはいえ、この延長上でデレック・ピッカートンやスティーブン・ピンカーを読み、それはそれで面白かった。

 文法関連の本で他に読んだ記憶があるのは井上ひさしさんの『私家版日本語文法』(新潮社、1981年)で、ここに三上章がチラッと出てきます。
 「ガとハの戦い」という章がそれで、

「は」は大きく大まかに係る。「が」は小さくきちんと係る。
 という、『象は鼻が長い』からの引用があります。しかし、これだけ。
 基本的に井上さんは大野晋さんの説をよりどころにしていて、三上文法はどうも敬遠していたようです。もし、ここで井上さんが三上文法をもっと重点的に取り上げ、精髄を教えていてくれれば……というのは、責任転嫁になるのでやめます。

 ともかく、今の仕事が一段落したら三上文法を勉強してみるつもり。

 「ベストSF2006」、昨夜から今日の午後にかけて、3人の方から投票いただきました。

毛利 信明さん
林 芳隆さん
平林 孝之さん

 どうもありがとうございました。
 投票は今夜12時まで受け付けますので、どうぞよろしく。


極東文明

2005-10-13 21:25:41 | 学問
 今度は4000年前の麺ですか。先日は1万6000年前の絵文字が見つかったというし、中国文明は奥が深い。

 麺はアワやキビが材料らしいから、今の麺とは違いますが、茹でて鉢に入れていたとすれば、食べ方は同じ。どんな味付けをしていたのだろう?

 絵文字が描かれた1万6000年前といえば、ヨーロッパはまだ氷河期まっただ中。西アジアが発祥といわれる農耕もまだずっと後の時代の話です。
 その頃、黄河上流の中国奥地で人類はどのような暮らしをしていたのか? この前読んだブライアン・フェイガン『古代文明と気候大変動』の記述から類推すれば、砂漠が拡大縮小を繰り返し、人々はそのまわりで土地の恵みを享受していたのかもしれない。
 これまで「最古の文字」とされてきたのはメソポタミアの楔形文字で、税の記録をつけたものといわれています。都市文明が起こって後のもの。
 今回の中国の絵文字はそれとはまったく意味合いが異なるのではないでしょうか。どちらかといえば呪術的な性格が強い? 漢字の祖先とされる甲骨文字とよく似ているのかもしれません。文字の歴史に新たな流れが生まれるのではないでしょうか。

 考古学は西洋中心に発達してきたので、どうしてもヨーロッパ文明に近いところでの研究が進んでいます。それとはかなり色合いの異なる極東の文明についても、これから大いに研究していただきたいところ。人類を見る目そのものが変わってくるように思います。