一昨日、成立した、旧優生保護法により強制不妊手術を受けさせられた人たちに対する救済法に関連して、なぜ、こんなことが行われていたのか詳しく知りたくて、旧優生保護法が成立した当時の国会記録を見てみました。
優生保護法は1948年に議員立法で成立、その後、1996年に改正され、名称も母体保護法と変更されています。このため、改正前の法律を「旧優生保護法」と呼ぶわけです。
旧優生保護法が提出された1948年6月の参議院本会議において、提出者の1人である厚生委員会理事・谷口弥三郎氏(民主党――後に自民党)は、戦後の人口過剰問題解決策には、食糧増産、移民促進、そして「第三の対策」として産児制限があると指摘。その上で――
- 併しこの産兒制限は極めて注意をいたしませんというと、子供の將來を考えるような比較的優秀な階級の方のみが産兒制限をいたしまして、無自覚者や低能者などが行いません結果、國民素質の低下即ち民族の逆淘汰を起す虞れがあるのでございます。又現に我が國におきましては、すでに逆淘汰の傾向が現われておるのでございます。
と述べ、この法律は「優生学的の見地から、不良分子の出生を防止し、尚同時に母体の健康を保護するということを目的」としていると説明しています。
その上で、各章の条文の内容に移り――
- 第四章以下のいわゆる強制断種の制度は、これは社会生活をいたします上に、甚だしく不適應な者とか、或いは生きて行くことが第三者から見ても極めて悲惨な状況を呈する君に対しては、優生保護委員会の審査決定によつて、たとえ本人の同意がなくてもその者には優生手術を行い得るというようにいたしておるのでございます。これは惡質な、強度な遺傳因子を國民素質の上に残さないようにというのが目的であるのでございます。
と言っています。
つまりは、このような法律が制定され、内容が制度化されたということなのですね。
現在から見ると、怖ろしいとしかいいようのない人間観だと感じました。