金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

映画「ハゲタカ」、面白かった

2009年06月15日 | 映画

昨日(6月14日)ワイフと武蔵村山のモールに映画「ハゲタカ」を見に行った。中々面白い映画だった。約2時間15分退屈するところがなかった。ストーリーは日本の名門だが問題を抱えるアカマ自動車を中国の国家ファンドが買収にかかり、それを鷲頭ファンドという日本人が率いるファンドがホワイトナイトとして防衛するという話だ。

メインシナリオを加えて、中国残留孤児の問題、派遣社員の不法採用や解雇の問題、リーマンブラザース(映画ではスタンリー・ブラザース)の破綻問題、サブプライムの一種オルトA市場の崩壊、オイルマネーなど現在の金融や経済を取り巻く話題が盛り込まれていて中々リアリティがある。

だが本当のリアリティは中国のファンドが日本企業を買収することがあるかどうかだ。今のところ具体的にこれ程大きな買収の話は聞かないが、中国企業による日本企業への投資や場合によっては買収ということは今後起きると予想されることだ。

というのは中国政府は今まで制限していた中国企業による海外投資を大きく緩和することを決めたからだ。中国政府は中国企業が輸出で稼いだ外貨(主にドル)で米国国債を買っていたが、米国債一点投資の不安から民間企業に稼いだドルによる投資を進める方向に舵を切ったからだ。

企業を投資対象と見て、買収後は一番投資リターンが高くなるように企業の再編や解体を平気で行うという点で中国人とアメリカ人の企業観はよく似た面がある。資本の論理が支配する世界だ。もっともアメリカ人の企業観は多様なので、拝金色が強く企業倫理が一般的に低い中国の企業観と同一視する訳にはいかないが。

アカマ自動車は中国ファンドの買収から逃れるが、社長は経営責任は経営責任を取らされて解任される。アカマ自動車が新しい社長の下で困難な再建を果たせるかどうか?映画はここで終わる。

グローバル化は否応なしに日本企業を激しい資本の論理の下に置いたことを描いた迫力ある映画だった。「こんなことってあるの?」と映画の後ワイフは聞く。かなりリアリティがあると思うよというのが私の答だ。近未来を含めての話だが。

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「おくりびと」を観た

2009年03月01日 | 映画

2月28日(土曜日)ワイフと武蔵村山のワーナーマイカルに「おくりびと」を観に行った。アカデミー外国語映画賞を取った映画なので混むと思い、前日にオンラインで予約をしておいた。細かい話だが、オンラインで予約すると1枚100円の手数料がかかる。銀行の送金など通常はネット取引の料金を優遇しているのに、どうして映画館はネット予約に手数料を取るのか理解に苦しむところだ。

さて本題の「おくりびと」。全般的に良かった。本木雅弘や山崎勉の演じる納棺師の死者の衣装を着替えさせる作業が、茶道のお手前や能の舞(詳しくは知らないが)のように様式美に満ちていた。死者を弔うという荘重さに満ちていた。死者を丁重に弔うことは、故人への最後にできるだけのことをしたという気持ちを遺族に与え、遺族の悲しみを軽減する意味を持つ。

この映画で印象に残った言葉は火葬場従業員役の笹野高史が「(火葬は)門のようなものだ。死は終わりではなく、新しい世界への門出なのだ」という趣旨の言葉をつぶやく場面である。

舞台が山形県酒田というのが良い。私は山形県庄内地方は、死者と生者の距離が近い場所だと思っている。死者との距離が近い一例をあげると出羽三山信仰だ。出羽三山ので一番高い月山は「死の世界」を象徴するという。信仰深い人々は羽黒山、月山とお参りして最後に湯殿山に参詣する。湯殿山は生の山、つまり月山で一度死んで湯殿山で新しく生まれるのである。

羽黒山を登っている時、古い木の幹の洞(うろ)の中に若い木が生えている姿を見たことがある。再生の象徴なので写真を紹介しよう。

Saisei

映画では鳥海山のおおらかな山容の映像が効果的に使われていた。数年前の夏鳥海山に行ったが、台風のため登ることはできなかった。今度再チャレンジするときは「おくりびと」のことを思い出しながら登ってみよう。

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母(かあ)べえに涙が出た

2008年01月27日 | 映画

今日武蔵村山のイオンモール内にあるワーナー・マイカルに「母(かあ)べえ」を見に行った。今まで大泉学園のシネコンに行くことが多かったが、映画の後の食事の選択が少ないので今日はイオンモールに行くことにした。

「母べえ」の詳しい内容を知らないまま吉永小百合さんの映画だということで見に行く。劇場内は私より少し年齢が上のカップルが多い。映画の舞台の野上家では夫を「父(とう)べえ」妻を「母(かあ)べえ」娘達の名前をとって「初べえ」「照べえ」と呼び合っていた。優しい家族である。坂東三津五郎演じる父べえ、野上滋は治安維持法違反で検挙される。吉永小百合演じる母べえは「夫と別れろ」という父の言葉にも負けず、代用教員として働きながら二人の子供を育てる。

太平洋戦争突入後暫くして父べえは獄死する。母べえは悲しみに浸るひまもなく、働き子供達を育てる。父べえの教え子で母子を支えた山崎(浅野 忠信)も南方戦線に向かう船の中で魚雷を受けて死亡する。

時は流れ映画の最後の場面は母べえが病院で死ぬ場面である。次女は母べえに「死んだら天国で父べえに会えるよね」というが、母べえの答は「生きて父べえと会いたかった」というものだった。ここで次女が泣き崩れ、私も思わず目頭が熱くなった。母べえが何年も何十年も思い続けていた無念、それが父べえの死なのである。

戦争は常に悲惨だ。思想統制も悲惨だ。それにしてもあの頃の日本を覆っていた狂気は一体何だったのだろうという思いで私は映画館を出た。「良い映画だったけれど、皆死んでしまうので救いのない映画だったわね」とワイフが言った。

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続・三丁目の夕日、ちょっと涙がでた

2007年11月18日 | 映画

年を取ると涙腺がもろくなるらしく、今日ワイフと見たAlways続・三丁目の夕日で小雪さん演じるヒロミが吉岡さん演じる売れない作家のところに戻ってくるラストシーンにはちょっと涙が出た。

この話は男女の三つの恋愛ストーリーが絡まっている。一番若い層は鈴木モーターの一人息子一平と暫く鈴木家が預かった親戚の娘美加との淡い淡い感情。二番目の組み合わせは鈴木モーターに住み込みで働く六子(掘北真希)と悪い世界に足を踏み入れそうになった同級生の淡い感情。そして最後がヒロミ(小雪)と茶川(吉岡)の純愛。

これを横糸としながら、茶川の芥川賞への挑戦が縦糸となる。

舞台は昭和33年の東京。昭和33年というと私は8歳、映画の中では一平や淳之介、実加などとほぼ同じ年代。子供達が野良犬をかわいがっている場面があったが、当時私も野良犬に近いような犬を飼っていた記憶がある。あの頃は本当に野良犬が多かったなぁ・・・などと懐かしい気持ちになった。

皆が物質的には豊かでなかったと思う。京都の奥地でプールは言うに及ばず安全な遊泳場がなかった私達の町では、夏にバスを仕立てて琵琶湖に水泳に行くのが唯一のまとまったレジャーだった。「三丁目」を見るとあの頃のおじさん、おばさんの姿に重なるものがある。

豊かではないが、皆がストレートに夢を信じて生きていた時代。時計の針を巻き戻すことは出来ないし、またその必要もないが、忘れ物を捜しに行くことはあって良いだろう。続・三丁目の夕日は忘れ物探しの旅の出発点である。

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愛の賛歌を観た

2007年09月30日 | 映画

9月の月末は日曜日、終日雨で気温が低い。クールビズが終わり明日から又ネクタイを締めて会社に行くが、季節の移り変わりは上手く出来ている。しかし雨で一日ゴロゴロしていても仕方がないので、ワイフと大泉のTジョイへ映画を観に行く。作品はエデット・ピアフの生涯を描いた「愛の賛歌」だ。2時間半の映画はピアフの生涯をほぼ余すところなく描いている~といってピアフの人生については付け刃で調べたのだけれど~

歌手としての成功と栄光、妻子あるボクシングのチャンピオン、マルセル・セルダンとの恋、そのマルセルの飛行機事故による突然の士。その後のモルヒネ中毒・・・・ピアフの一生は短く激しい。47歳で死を迎えるピアフは猫背になりヨボヨボだ。少なくとも60歳を越えている様に見えた。酒、モルヒネで元々弱いピアフの体はぼろぼろだったのだろう。主演マリオン・コティヤールは弱り切ったピアフを好演している。

この映画のテーマは何か?私はピアフが最後に歌った「水に流して」の歌詞の中に答があると思った。

いいえ 私は何も後悔していない 私は代償を払った 清算した 忘れた 過去なんてどうでもいい

「愛の賛歌」でピアフは歌う。

あなたが死んでも あなたが遠くに行っても あなたが愛せてくれさえすれば平気 だって私も死ぬのだから

最近は結婚披露宴に出席することもほとんどなくなったが、若い時出席した披露宴ではこの曲がよく流れた。しかしピアフの愛の背景を考えるとそれがふさわしい選曲なのか疑問を感じた。

私は不倫の愛が悪いとか良いとか言うわけではない。ピアフの愛はそのような善悪の彼岸を行っている。「そう生きるしかない」「そう愛するしかない」というぎりぎりを生きたからピアフの歌と人生は心を動かすものがある。しかしそれは一般の人々には強過ぎる飲み物かもしれないのである。

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