先日武蔵五日市の奥の養沢から御岳沢沿いの道を辿って鍋割山に登った時のこと。
林道を歩きだすとアゲハチョウ系の美しい蝶がさかんに飛び回っていた。写真を撮ろうと思うのだが、乱舞を続ける蝶はまったく羽を休める気配がない。
あきらめて暑い林道を歩き続けていると「七代の滝」が近づいてきた。いよいよ滝に向かう急坂が始まるその時、濡れた砂地の上で羽を休めている二匹の蝶をようやくカメラに収めることができた。
「夏蝶の羽を休めて滝近し」
蝶は春の季語、ということだがは春に庭先で蝶を見ることは本当に少なくなった。
そして猛暑の夏に自宅付近で蝶を見ることはほとんどない。
蝶が涼しさを求めて滝まで飛んできたとは思わないが、踊り疲れて砂地の上で涼んでいたのかもしれない。
ちなみに夏蝶というと夏の季語になるそうだ。そういえば暦の上では既に秋であるが、暑さは今がピークだろう。地球温暖化で季語の使い方も難しくなるのかしら・・・・
「好きだけれど詳しく知らない」というものがある。私にとって芭蕉の俳句というのはそのようなものだ。
旅先で芭蕉の句碑を見ては、芭蕉はこんなところまで来て俳句を詠んでいるのだ、と感心することも多い。しかし生来のなまけもので、芭蕉を体系的に勉強しようという意欲はない。
旅先というと先日大阪から乗った新幹線のグリーン車の中の「ひととき」に掲題の句についての記事があった。
話はそれるが私は東海道新幹線に乗る時、4,5回に1回程度グリーン車を使うことがある。贅沢だとは思うが、在来線等に較べると東海道新幹線のグリーン車は普通車に較べてシートがゆったりしていて、お値打ち感がある。「ひととき」や「ウエッジ」を読みながら、水割りを飲み、眠くなったら眠るというのは、楽しいひと時であり、飲み会一回分の値打ちはあるだろう。
さて「海に降(ふる)雨や恋しき浮身宿」の句である。この句は芭蕉が奥の細道の旅の途中、新潟で詠んだそうだが、「奥の細道」には載っておらず、芭蕉作と認めない学者も多い。真贋はさておき、甘くて艶っぽいところが良い句だと思う。
浮身とは越前越後地方の遊女で旅商人が宿に滞在するとき、同居して世話をしてくれたという。
「奥の細道」は越後越中地方に実にそっけない。酒田で知人との惜別に日を重ねた芭蕉は急ぎ足で金沢(加賀)まで旅を続ける。途中「荒海や佐渡に横たふ天の河」という超有名な句を残すが、月山・羽黒山・最上川などでの句作のペースに較べると完全にペースダウンしている。
「暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事をしるさず」と奥の細道に芭蕉は書いている。時期は現在の暦で8月中旬。一番蒸し暑い頃だ。旅の疲労も積り、句作のモチベーションも下がっていたのだろう。そんな時「浮身」が親身に世話をしてくれたのだろう。あくまでも推測だが。
海に降る雨を見て芭蕉は親切だった浮身宿を思い出している・・・。奥の細道には「一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月」の句が載っているが、こちらは少し離れた場所から遊女と一つ屋根の下で寝ている芭蕉を客観的に眺めている感じで、切なさにおいては「海に降雨」の方が上ではないか?と私は感じている。
ちなみに「海に降雨」の句には季語がないと「ひととき」は書いていた。芭蕉は無季の句を否定せず、その可能性を探っていたという。
季語を気にせずに「つぶやき」を俳句として良いのであれば、俳句はもっと楽なものかもしれない・・・などと考えている。
夜長は秋の季語だ。短い夏の夜の後だけに秋の涼しい夜は長く感じる。
正岡子規に 長き夜や 孔明死する三国志 という俳句がある。写生俳句の正岡子規にしては蕪村のように故事を踏まえた面白い句だ。中国の長編小説「三国志」で諸葛孔明の死ぬというクライマックスまで読み進むということで夜の長さをあらわしている。
この俳句は土井晩翠の星落五丈原という歌を思い出させる。
祁山悲秋の風更けて 陣雲暗し五丈原 ・・・・・丞相病いあつかりき 丞相病いあつかりき
先帝劉備玄徳の死後、諸葛孔明は魏と雌雄を決すべく数度五丈原に出陣する。しかし魏の名将司馬仲達は孔明の鋭気を避けて守りに徹する。孫子の兵法が教える「堂々の陣はうつことなかれ」ということだ。そうする内に命をすり減らして政務と軍務に精励していた孔明はついに五丈原にて死んでしまう。
正岡子規が何時この句を詠んだのかは知らない。彼は既に己の病と寿命を知っていたのだろうか?もしそうだとするとこの句にはもっと重みがある。
暑い日が続くものの、暦の上では秋である。9月7日頃を「白露」(しらつゆ)という。地球温暖化とはいえ、窓の外では秋の虫が鳴いている。季節の移り変わりは規則正しい。そして山では一足先に秋の気配が忍び寄っているいるようだ。
つかれた足へとんぼとまった 種田山頭火
写真は去年撮ったアキアカネだ。今年はまだ赤とんぼに出会っていない。山頭火の足に本当にトンボはとまったのだろうか?などと詮索することはあるまい。癒されてくる感じを味わいたい。
すすきのひかりさえぎるものなし 種田山頭火
秋の空の高さが見える俳句だ。今年の秋は富士山の見えてススキの茂る高原を歩いて見たい。年中歩いているところだが大菩薩峠付近が良いかもしれないなどと考え始めている。できれば日が沈む頃に黄金色に輝くススキを見ながら華やいだ寂しさに身を任せていたいなどと思っている。