金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

コロナを逆手に取った日本語学習は定着するか?~ネパールのテストケース

2020年11月09日 | 受験・学校
 新型コロナウイルスは世界中の人々のライフスタイルを変えています。私があるボランティア団体を通じて学校建設を支援しいているネパールでも、多くの学生は在宅学習を強いられています。在宅学習は先生や友人とのコミュニケーションが不足するなど多くの問題があります。一方プラス面を探すと、長い在宅時間を利用して自分が勉強したいことを勉強できるというメリットもあります。
 私は現地のボランティア活動の世話人の方と話をして「日本語学習を希望する高校生にオンラインで日本語を教える」プログラムを始めました。
 プログラムを始めた、といって私が日本語を教える訳ではありません。実は一度繋ぎで日本語レッスンをしたことがあるのですが、骨の折れる仕事なので、専門家の友人に委ねることにしました。数年間外国人に日本語を教える活動を続けてきた友人が講師役の引き受けを快諾してくれたので、プログラムは無事動き始めました。
 実は今日本に留学を希望するネパール人は増えています。
 独立行政法人 日本学生支援機構によると、昨年一番多かった留学生は中国からの留学生で124千名、2位がベトナムで73千人、3位はネパールで26千人でした。年間増加率でみると中国8.3%で1位、ネパールは8.1%で2位です。
 従来ネパールからはオーストラリアに留学する学生が多かったのですが、ネパール人学生が増え過ぎた同国が留学生の受け入れを抑え気味なので、日本を目指す学生が増えていると思われます。これは少子化で学生数の減少を危惧する日本の大学の需要に合致するものでしょう。
 細々とスタートした我々の日本語オンライン学習プログラムがどれ位成果を上げるかはわかりませんが、前向きのプロジェクトは生徒も先生もそしてお膳立てをするものも明るい気分にすることは間違いないようですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本史を学ぶ意味~ハーバード日本史教室から

2017年12月26日 | 受験・学校

昨日のエントリーで「高校の日本史の教科書から武田信玄・上杉謙信・坂本龍馬などの名前が消えるかもしれない」と書いた。

その後少し前に読んだ「ハーバード日本史教室」(佐藤 智恵著 中公新書ラクレ)を読み返してみた。

アンドルー・ゴードン教授とのインタビューの中で次のような文章が目に付いた。

著者「膨大な数の日本人の名前をどうやって覚えるのでしょうか」

ゴードン教授「三ケ月間で(日本の)通史を教えなくてはならないので、個々の歴史的人物の名前を覚えてもらうことには注力していません。学生も暗記なんて無駄だといって覚えないと思います。それとりも、日本史に変化をもたらしたものは何だったか、世界とのつながりがどう変化していったかなどに注目し、大きな流れを把握してもらうようにしています。」

著者「日本史の授業で学生に特に学んでほしいことは何ですか」

ゴードン教授「世界には様々な政治、社会、文化のシステムがあるということ」「現代の世界各国の政治・経済システムは、『近代化』の時代に端を発していて、近代化の経験を共有しながらともに発展してきた」という二つのことです。

アメリカの大学生が日本史を学ぶ意味と日本の高校生が大学受験をするために学ぶ日本史の勉強方法を混同するつもりはない。

しかし歴史を学ぶ本当の意味に洋の東西による差はないはずだ。歴史の勉強は高校だけで終わるものではない。大学に進んでもあるいは社会人になっても、興味があれば学び続けると良い。

暗記項目を減らす目的で教科書に登場する人物を減らすというのは本末転倒だろう。暗記力ではなく、歴史の大きな流れをつかむ力を試すのが、本来の試験ではないだろうか?

暗記にリソースを割き過ぎる結果、考える力の乏しい若者を育ててはいけない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信玄や謙信の名前が歴史の教科書から消える?

2017年12月25日 | 受験・学校

昨日テレビのバラエティ番組を見ていると「高校の日本史の教科書から武田信玄・上杉謙信といった日本史上の英雄たちの名前が消える可能性がある」ということを取り上げていた。他にも消える可能性の「著名人」は、吉田松陰・坂本龍馬・大岡越前など。世界史上の人物では、クレオパトラやガリレオ・ガリレイなどの名前も消える可能性があるらしい。

何故教科書から著名人の名前を消すか?というと「高校生が覚える用語が多すぎるので、現在の3,500から1,500に減らす」ことが目的だという。信玄や謙信の名前が消えるのは、二人が戦った川中島の合戦というのは、地方大名の衝突で、歴史の大勢に影響はなかったことが理由のようだ。

偶々だが、昨日私はスキーの帰りに長野IC近くの川中島古戦場史跡公園に立ち寄って蕎麦を食べ、信玄・謙信一騎打ちの地・八幡原を見た。

その印象もあり「高校生や教師の負担を軽くするため、教科書の登場人物を減らす」という「高大連携歴史教育研究会」の意見に疑問を感じている。

確かに一見すると川中島の合戦は日本史の大きな転換点にはならなかった。戦国時代の終焉と全国統一は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という尾張・三河出身の大名により達成された。

しかし信玄や謙信が日本史に影響を残さなかったというのは浅薄な見方であろう。例えば織田軍団が巷間3千丁と言われる火縄銃を揃え、武田騎馬軍団に立ち向かったのは、武田軍団が川中島の合戦などを経て、最強の騎馬軍団になっていたからだ。

伝統的戦法では勝利がおぼつかないと考えた信長は、大量の火縄銃を揃えるとともに、兵制を改革し、射撃専門部隊を作る。それが兵農分離に繋がり、やがては江戸時代の士農工商という身分制度につながっていく。

つまり武田信玄という英雄がいたから、織田軍団の火縄銃部隊が強化されたという面があると私は見ている。

また武田氏が滅びた後、その兵団は井伊直正の配下に入り、家康の天下統一を支えていく訳だ。さらには徳川の先陣を務める井伊家の大老が勤王派の浪士に暗殺されるというショッキングな出来事が、幕藩体制の幕引きを早めたと考えると、歴史はつながっている。

歴史を学ぶ醍醐味とは、このような複雑な繋がりを自分なりに考えることではないだろうか?

思うに「歴史上の登場人物を減らす」という発想は、大学入試試験における高校生と受験教育を担う教師や試験問題を作る大学の負担を減らすことにあるようだ。

問題は歴史上の人物にあるのではなく「一時的な暗記力を競わせる入試方式」にあるのだ。暗記力を競わせるのではなく、大きな歴史の流れを把握し、歴史を動かす力とはなにか?ということを考える力を競わせるべきではないだろうか?

考えるためにはデータがいる。最初にインプットするデータを少なくすると処理は簡単だが、捨て去ったデータの中に重要な情報がある場合がある。その結果少ないデータからのアウトプットは浅薄過ぎて役に立たない場合があると私は考えている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実学重視の危険性

2015年05月29日 | 受験・学校

今週(5月27日)の日経新聞朝刊に経営共創基盤CEO富山和彦氏の「大学で職業訓練せよ」という提言がでていた。主旨は大学を「大学をグローバル人材を育てる『G型』とローカル人材を育てる『L型』に分け、G型の大学は10校もあれば十分、後の大学はL型とし、職業訓練学校化すべきだ」というものだ。

富山氏の発言は一部は正論だが一部は大きなリスクを含んでいると思われる。まず「正論」の部分に私の解釈を加えよう。それは日本の大学が実学を軽視し、東大の卒業生でも簿記・会計ができないのが非常に多いという部分だ。本当に東大生の多くが簿記・会計を知らないかどうかは分らないが、東大卒の富山氏が述べているのだから、事実としておこう。つまり経済学部ではエコノミスト養成的なカリュキラムを組むが、卒業生の99%は(エコノミストにならず)普通のビジネスマンになるから、大学で学んだ経済学は全く役に立たない」という訳だ。

この現状認識は正しいと思う。ただしその認識から「だから大学では職業訓練せよ」という結論するのは、やや論理の飛躍があるとともに、今後の仕事・職業を考える時に大きな危険性をはらんでいると私は考える。

まず「危険性」の問題を論じよう。富山氏は「地域経済の中心はサービス産業で、運転士、看護師、医師など『ジョブ型』の働き方が多く、この比率が高まっている」と述べている。この認識は大枠で正しい。少なくとも今後5年から10年程度の認識としてはだ。

昨日ニュースになっていたが、DeNAがベンチャー企業と組んで「東京でオリンピックに合わせて無人タクシーを運行させたい」と発表した。私は自動車の無人運転は、実用化の時代に入っているので、5,6年後に技術的には無人タクシーの運行は可能だと考えている。飛行機や大型船舶だったかなり前から無人運行されている部分が多いことを考えると、自動車が無人運行できない訳がないと考えるのが自然だろう。

ということは、富山氏のいう「運転士」のような職業は今後大きく減る可能性がある訳だ。「医師」はどうか?「医師」についても、CT画像や症状例を大量に収集し、分析するビッグデータ解析技術が進むと、診断領域には人工知能が進出する可能性は非常に高いと思う。

「会計・簿記・税務」なども仕訳などは益々自動化されるだろう。つまり「大学で学んだ職業訓練がそれほど遠くない将来陳腐化し、経済価値を失う」可能性がかなり高いと私は考えているのである。

日経の記事には「シェークスピアよりも、実践的な英会話」というポンチ絵がついていた。確かにシェークスピアは読めても、役に立つ英会話ができないと、ビジネスパーソンとしては失格だ。少なくとも今のところは。

だが人工知能が進化すると「翻訳」「通訳」という作業も人工知能に置き換わる可能性は高いと私は考えている。いつその時代が来るかは分らないが、10年後20年後には実現する可能性はかなり高いだろう。

だが「翻訳」「通訳」が人工頭脳化しても、シェークスピアの人間に対する深い洞察を伝えることができるかどうかは疑問だ。不可能かどうかは分らないが、「翻訳」「通訳」よりははるかに時間がかかることは間違いない。

つまり「人間に対する深い洞察」や「深い洞察に基づいたコミュニケーション能力」といったものは、簡単に機械化されない分野なのである。だから大学ではそういった基礎的な知識や能力を身に着けるべきなのだ。

繰り返しになるが、富山氏が指摘するように、日本の大学がアカデミズムに偏して実学を軽視していることは大きな問題だ、と思う。

さらにいえば、日本の大学のアカデミズムそのものにも問題があると私は考えている。例えば社会科学の場合、現実の問題に具体的な解決策を提供するのが、学問の使命だという認識が欠けている点だ。そのようなアカデミズムならば学ぶ必要はない。だがアカデミズムが現実の問題に具体的な解決を提供することを使命とするのであれば、私は大学生にはアカデミズムを捨てないで欲しいと思う。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

補習するなら現代史から

2006年11月01日 | 受験・学校

高校の必修科目未履修問題で補修回数を巡って、与党と文部省の意見対立があると報じられている。文部省は70回、与党は50回という案だそうだ。これについて私は回数より補習の内容ではないか?と考えている。歴史を例にとれば古代史や中世史を70回補習するより、現代史を50回補修する方が良いに決まっている。

日本の歴史教育の大きな問題点は「今日的有用性の欠如」「リアリティの欠如」「生涯学習へのステップボード意識の欠如」であると私は考えている。歴史教育の今日的有用性とは「歴史を学ぶことで、現実生活における理解力と判断力を高める」ということである。現実の生活には近い過去の方が遠い過去より強い影響力を持っていることは当然である。従って限られた時間であれば、まず近い過去から学ぶべきで余力が出ると少し遡り近世史を学べば良いのだ。

リアリティの欠如とは歴史を現実感を持ってとらえることだ。何処かの高校が「オーストラリアへの修学旅行を世界史の単位に加えていた」などと詭弁を弄していたが、これは論外としても、史跡等を見ることは極めて有効だ。できれば今日も使われているような建築物等を見て歴史を考えることが出来れば良い。歴史におけるリアリティとは過去が我々の生活につながっていることを実感することに他ならない。

生涯教育のステップボートとは、高校程度で勉強する歴史はスタート点であっても終点ではないということだ。世界史などは生涯勉強しても尽きるということはない。しかし尽きないから役に立たない訳ではない。勉強し考える過程が人生を豊かにし、現実問題への対処をプルーデントなものにする。

「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」という言葉には歴史教育の意味が込められている。50回でも70回でもどちらでも良いが、高校生に負担感しか残らない様な歴史教育は歴史嫌いを作るだけなので止めた方が良い。回数は少なくとも将来の歴史好きを作る様な教育こそ必要だろう。繰り返して言うがそのためには縄文式だ弥生式だなんて話は止めて、現代史を履修するべきである。

現代史を教えられないとすればそれは先生方の長年の怠惰である。もし有用な先生が不足するというのならボランティアでやってあげても良いすら考えている位だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする