「山登りで何が楽しいですか?」と聞かれて、大部分の人は頂上からの素晴らしい眺めと答えるだろう。私もまた頂上からの眺望を楽しみに山に登っている。先週末八ヶ岳連峰の横岳(2829m)に登りに行ったが、目的は頂上から新雪をまとった赤岳などの写真を撮ることだった。
ところが生憎八ヶ岳連峰は強風の上、粉雪が舞い視界は全くなかった。
森林限界を抜けて、強風の吹く急な新雪の斜面をラッセルしながら私は「修証一如」ということを考えていた。
「修証一如」とは道元禅師の正法眼蔵に出てくる言葉で、「修=修行」と「証=悟り」は一体であるという教えだ。日本思想史に燦然と輝く道元禅師の言葉を正しく理解しているかどうか自信はないが、私はこの言葉を次のように理解している。
「証」は山の頂上に立ち、眺望を楽しむことつまり登山の目的である。「修」は頂上に至る辛い登り、つまり手段だ。だがこう考えると「頂上に到達できないと失敗」「眺望が得られないと失敗」ということになる。確かに美しい景色を写真におさめることをビジネスとする商業写真家の場合はそうだろう。写真があって幾らなのだ。
だが趣味で山を登る我々は違う・・・と私は思った。たとえ頂上に至ることができなくても、雪を踏みしめ雪に遊ぶそのひと時もまた楽しみなのである。即ち修証一如なのである。
道元禅師は修証一如という言葉で、日々の座禅に精進することが総てであり、座禅を通じて何かを悟ろうとする考え方は間違っていると教えられた。
そんなことを考えながら風雪の中を歩いていたが、寒いものは寒いし、風に叩かれるとフラフラする。風雪の山は辛い・・・・。修証一如はいうは易く、行うは難いと思いながら私は横岳頂上の直下で雪道を引き返した。