これは随分マイナーな話題なのだが、少し気になる文章などを読む機会があったので、思うところ書き留めておきたい。
先日昔私が所属した大学山岳部のOB会が東京で開催され、関西から事務局の人が来て、「歳の差を越えて、現役・OBがフランクに話し合える場を作っていきたい」「海外登山に対する情熱の火を消さないようにしたい」といった趣旨の話をしていた。
運動部の中で山岳部というのは、目標設定の上でかなり特殊なクラブである。大方の運動部は「全国大会で上位に入る」とか「シード権を守るべく選手を強化する」といった具体的な目標を共有しやすい。
ところが国内はもちろんのこと、海外においても未踏峰や未踏ルートが極めて少なくなった現在、山岳部とOB会は具体的な目標を共有し難くなっていると思う。
また「そもそもなぜ山に登るのか?」「一旦始めた山登りは生涯続けないといけないのか?(続けないと一流のOBとはみなされないのか?)」「いつまでも大学時代の山仲間と登り続けることが一番良いことなのか?」という基本的な疑問を持つ人もいるのではないか?と私は考えている。
これらの問いに対して私は恐らく主流派とは異なる考え方を持っている。
「なぜ山に登るのか?」ということについては楽しいからである。なぜ楽しいか?というと我々は「未知を求めて遠く旅する」という本能を持っており(それ故にアフリカで誕生した人類は世界の果てまで生活圏を広げることができた)、登山という行為はその本能を満足させるからである。
従ってその本能を満たすのであれば、別の手段をとっても構わないと私は考えている。
学生時代は山登りに没頭していても、社会人になって別の形で未知の世界を極める喜びを知り、その世界に入ればそれはそれで良いのである。
最近モンベルの季刊誌OUTWARDでモンベル代表の辰野勇氏と霊長類学者の松沢哲郎氏の対談を読んだ。松沢氏は京都大学山岳部のOBで、ヒマラヤのヤルンカン(カンチェンジュンガ西峰)遠征に参加した本格的登山家。現在は京都大学学士山岳会の会長でもある。松沢氏とは学生時代に関西岳連の委員として何回か顔を合わせており、懐かしく記事を読んだ。
松沢氏の話の趣旨は次のようなことだ。「二度目のヒマラヤ遠征(カンチェンジュンガ縦走)で自分は登山家として二流だということがはっきり分かった。(それゆえ)自分は学問の世界で身を立てその学問(チンパンジー学)をしっかりやっていくと決断した」
私は松沢氏と歩んだ道は違うが、当時発展著しかった金融工学の実務への応用ということに30代から40代を費やした。金融技術が身を立てる道だと自覚していたからである。
そして暇になった今また元の職場の仲間たちと簡単な山登りを楽しんでいる。
山登りの楽しみ方は山に登る人の数ほどあって良いと思う。ただ大事なことは今を大切にすることだ。
ドイツ文学者でエッセイストの池内紀氏は「前へ、前へ」というエッセーの中で「思い出を語るのはこころよいが、新しい何かが見つからないかぎり過去自体に意味はない。しめっぽさを友情と錯覚しないことだ。・・・過去にもどるのは市の前の一瞬でいい」と書いている。
私がOB会とやや距離を置いているのも過去の話にあまり興味がないからだと私は思っている。