ひょんなことから顧問先でブロックチェーンについて初歩的な解説を行うことになった。
「ブロックチェーンなんて知らないから勘弁して」と言っていたのだが、みんな素人ですから分かる範囲で分かり易く、と押し切られてしまった。
そこでやむなくブロックチェーンの利用方法を「複数企業が特定分野で共同作業を行うコンソーシアム型に限定して話をする」ことにした。
一般にブロックチェーン=ビットコイン(数ある仮想通貨の代表格)というイメージがあるが、現在ではこれは必ずしも正しい理解ではない。現在では「中央に管理者を置かずに、各参加者が同じ台帳(分散台帳という)を持ってその正確性を確認し合いながら、業務プロセスを進める仕組み」をブロックチェーンと呼ぶという位に理解しておいた方が良いだろう。そして誰でも参加できる代表格がビットコインのような仮想通貨(暗号通貨)で、参加者が限定された仕組みが貿易取引へのブロックチェーンの活用などと理解しておいて大きな間違いはないだろう。
ところで少し勉強し始めて気が付いたことは「ブロックチェーンって伝統的な日本社会・商慣行に馴染み難いのではないか?」ということだ。
日本の社会は豊臣政権から徳川幕府の発足時にかけて検地や庄屋の制度などを経て、土地という資産に係るデータ(所在・地積・生産高など)を行政(お上)が管理する仕組みが出来上がっていた。ところがアメリカのような開拓型の社会では、当初は行政は存在しないから開拓者同志でお互いの財産を確認し合うことで「個々人の財産権(所有権)」が確立していったのではないか?などと考えている。つまり社会や商慣行の深い部分で「分散台帳」という考えがあるのではないか?
日本の製造業者・問屋・小売業などの強固な繋がりもブロックチェーンより強い連鎖(少なくとも過去は)なので、敢えてブロックチェーンなどを必要としない産業構造なのかもしれない。
もっともこんな話はどこでも目にしたことはない。そもそもビットコインを創設したのはナカモトサトシという人(日本人名だが正体不明)なので、分散台帳という技術の源泉が開拓型社会であるという私見もまったくの仮説いや盲説かもしれない。
ただある時期まで日本の「中央に管理者を置いた台帳管理システム」は堅牢で間違いの少ないもの、という神話があったことは間違いない。
例えば日本の銀行の事務処理はアメリカのそれに較べると非常に正確だ。アメリカでは時々間違った口座引き落としなどが起きる。間違っているというとすぐ修正してくれるのだが。つまりアメリカのシステムは「中央の管理者に対する一定の不信=自分で検証することの必要」を内包しているのではないか?と私は直観的に感じている。
その堅牢で間違いの少ないと思われてきた日本の中央管理システムにもほころびは目立ち始めている。少し古いところでは公的年金の記録問題だ。そして今大きな社会問題になりつつあるのは、土地の所有権に関する登記の問題だ。中央管理システムの問題といえば「取りやすいところから税金を取る」という日本の所得税の仕組みも歪みの一つと言えるだろう。
デジタルという枠組みを取り外して「分散台帳技術」というブロックチェーンの根幹をなす概念を考えてみると、それは参加者(例えば同じ村の住人)が互いの土地に関する所有権を確認し合う(登記していようがいまいと)ことで成り立つ仕組みであることに気づく。ところが高齢化や都市部への人口流出で村人などの参加者がいなくなると「分散台帳」は成り立たなくなる。一方登記という「中央に管理者をおいた台帳管理システム」も台帳への記帳義務がないから、機能不全に陥っている。
とりとめのない話になったが、頭が痛くなる技術関係の本から目をあげて、世間の出来事を見てみると何かが見えるような気がするから、多分野のことを勉強するのは面白いとふと感じた次第だ。