ある種の小説は読む年齢によって随分重さが違うものだ。吉村昭の「海猫」は20年程前に文芸春秋に発表された短編小説だ。私は10年程前に「法師蝉」という吉村氏の短編集の中で読んだことがあったが、すっかり忘れていた。
この週末天気が悪かったので、近所の図書館で「法師蝉」を借りてその冒頭を飾る「海猫」を読んだが、以前は感じなかったある種の親近感と不安感を感じた。少し引用してみよう。
「自分をとりまいていた泡立つ渦が消え、かれは、子会社の役員の席に座って時間をすごした。・・・・・・休日といってもこれといって行くところはなく、居間の椅子に座ってテレビをみたり、買ってきた本を読んで居眠りをしたりする。・・・・・・・ゴルフ道具は玄関の上がり框(かまち)に置かれたままになっているが、友人に誘われてもゴルフ場に行くまでがわずらわしく、腕が人並以下なので熱も入らず、その後の疲れを考えると行く気にはなれない」
主人公の塩崎は商事会社の部長から、子会社に転籍し退職を向かえた。長い会社勤めの開放感を味わったのは三ヶ月ほどで、なにもすることがない時間を持て余すようになる。塩崎は些細なことで、妻に苛立ちと不満を覚え、妻が外出している間に家出をする。塩崎が暫く暮らしたのは北日本の漁師町だ。
やがて妻が塩崎を訪ね、不満な点は直すから彼に戻って欲しいという。塩崎は「妻に対して不満は数限りなくあるように思えるのだが、具体的に言われてみると、新聞以外のこと(彼が早朝ベッドで新聞を読むと妻が新聞を広げる音がうるさいと言った)のことはすぐ浮かばない。あえて言えばなにもすることがなくなっている自分に対する思いやりに欠けるのだ」と思う。
しかし一人娘の妊娠を聞いた塩崎は家に戻ることにする。小説は「海猫が、つぎつぎと防波堤から飛び立ちはじめた。」と結んでいる。
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ゴルフ道具が玄関に鎮座しているのは我が家も同じ。「ばね指」から暫くゴルフはご無沙汰していて、ゴルフバッグはワイフの雨具の物干し代わりになっている。
幸いなことに休みの日にすることがなくて困るということはない。山登りに行ったり、サイクリングに出かけたりとやることは多い。しかしである。これは体が動く間の話。それと「毎日が日曜日」となっても、山登りやサイクリングで「余暇」は埋まるのかしら?
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次に「海猫」を読むのは何時だろうか?その時深い共感を持っているのだろうか?それとも「これは他人の話。俺は違う人生を歩いている」と言えるのだろうか?
雨は午後に上がったが、湿った空気が家並みを覆っている。