金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

化身と輪廻転生~ネパールの旅から~

2017年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

ネパールのヒンドゥ教の寺院に行き、英語の説明を聞いているとIncarnationという言葉をよく耳にする。

Incarnationとは化身のことである。たとえばネパールで一番古いチャンぐ・ナラヤン寺院に行くと「主神ナラヤン神はヴィシュヌ神の化身である」といった説明を受ける。

ヴィシュヌ神は「維持」を司る神で、ヒンドゥ教ではブラフマー神(創造)・シヴァ神(破壊)と並ぶ御三家である。ヒンドゥ教は神様が多い上、化身という形で違った形を示すので誠に分かり難い。

もっとも解説本によると「それは、それぞれの神や女神たちの多面的な性格や能力を個別に強調するための表現の多様性によるものである。信者は同じ一つの神を、それぞれの必要に応じて異なった名称と姿を拝むのである。」(「ヒンドゥー教ーインドの聖と俗」森本 達雄 中公新書)ということである。

私流の解釈をすれば、信者の願望が化身を生み出したということだろう。創造・維持・破壊(次の世界を作るために創造的破壊)という抽象的概念だけでは、日々の信仰の対象になり難い。そこで「その神の前でウソをつくとたちまち死んでしまう」というカーラ・バイラヴ(シヴァ神の化身)のような具体的な神様が必要になったのだろう。(写真はカーラ・バイラヴ)

ところでIncarnationに「再び」という意味のReという接頭辞が付き、Reincarnationとなると「輪廻転生」という意味になる。

Incarnationの元々の意味は「肉体を与える」ということだから「再び肉体を与える」⇒「再生する」ということで輪廻転生を意味すると私は考えている。

ヒンドゥ教や釈迦直伝の仏教では「輪廻転生」という概念は非常に重要だ。人は死んでも魂は必ず何かに生まれ変わる。良いことをした人は「天界」や「人間界」へ生まれ変わり、悪いことをした人はそれ以下の「畜生」「地獄」などに生まれ変わる。

魂は永遠だが、肉体は仮の乗り物なので重視しない。死体は極端にいうと蛇の抜け殻程度のものなので、火葬に付して骨はガンジス河に流してお仕舞である(当然墓はない)。

化身と輪廻転生の間に直接的な関係があるとヒンドゥ教徒が考えているかどうかは私には分からない。

しかしあらゆる生命の源は、多様な形をとってこの世にその姿を現すと考えると根っこでは共通するものがあると私は考えている。

ともすると我々は「個体の命」を生命と考える。しかし個体は死んでも子孫がいる限り遺伝子は持続する。我々の「個体の命」は太古に生命が生まれた時から綿々とつながる命の流れ(遺伝子の連続)の中の一つの「表現型」と考えるならば、命の流れの中の一つの「化身」ということもできるだろう。

★   ★   ★

カトマンズの街でカーラ・バイラヴに熱心にお詣りしている人に聞いてみた。

「あなた達は輪廻転生を信じているはずだ。従って死を恐れることはないと思う。何を神様にお祈りするのか?」

答はこうだった。「次の世で良い世界に生まれ変わるには、この世で良いことをしないといけない。そのためには長生きして功徳を積む必要がある。事故等で不慮の死を遂げると功徳を積むことができない。だから災難等で命を落とすことがないようお願いしている」

★   ★   ★

ヒンドゥ教の教えを迷信であると一笑に付す人は多いかもしれない。

だが大きな運命を絶対者に委ね、死を恐れず、しかも命を大切にするという生き方は、これから老境に入っていく我々に教えてくれる何かがあると私は考えている。

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盛り沢山だった11月もあと3日

2016年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

1日は24時間、1ヶ月は大体30日か31日である。しかし時の流れは一様ではない。時にイベントが重なり、時に暇な時間が流れる。

11月は私にとってイベントが重なった月だった。10日までネパールに行っており、その後相続学会の研究大会があった。そしてその後高齢の親父が消化器系で不調を訴え、病院に検査に行き、日頃元気なワイフも少し体調を崩すという出来事が重なった。

ネパール旅行については二つの団体から会報に寄稿を求められ、更には親密先の現地旅行会社に日本人観光客向けのHPを作る準備に入るということもあった。

また来月初には顧問先で今年の新入社員に講話をするのでその準備を進めたり、学会の決算(10月が年度末)準備をし、来年度の事業計画を作成するという作業も残っている。

多忙という言葉は「忙」という字が「心を失う」と書くので、極力使わず「イベントが重なる」という言い方をしているが、世間的にいうと結構忙しい月だった。

重なるイベントをこなしていく上で、役に立ったのは一つの心がけと新しく利用し始めたインターネット上のアプリケーションだった。

一つの心がけというのは「段取りと目先のことからこなすバランスを重視する」という日頃の習慣である。段取りというのは後工程を考慮して、作業を行い重複を避けるということである。目先のことをこなすとは余り後工程のことを考えずに、とりあえず目先発生するタスクを処理していくということである。

事務的なことは後先をあまり考えずに(つまりまとめて一括処理をするなど)、目先のことから片付ける方が速い場合多いというのが私の経験則である。

新しく利用し始めたアプリというのはマイクロソフトが提供しているSWAYである。これは写真・文章・インターネット上の参照リンクなどを簡単に一元化するとともに、ストーリー的な展開を可能にするアプリだ。クラウド上のアプリなので、URLを取り込むと誰でもどのようなデイバイスからでも見ることができる。公開性が高い一方守秘性が低いことが気になるが、それを承知で使うと非常に便利なツールだ。

ネパールから帰国した後、直ぐにSWAYを使って、写真中心の報告書をまとめた。記録と記憶が新鮮な方が旅行記は作成しやすい。そしてSWAYであれば、色々な会合でも簡単に発表することができる。元ネタがしっかりしていると、異なるタイプの読者向けに記事をかくことも容易(たやす)い。

HPづくりの提案もSWAYで行った。見栄えはパワーポイントの方が良いかもしれないが、作成する手間は圧倒的にSWAYの方が少ない。

基本的な段取りができると、行動に余裕ができて、多少の突発的な出来事を吸収することができる。行動管理の要諦は、できることはできるだけ早めに済ませて、常に余裕を持っておくことだと思う。

年をとってくると、我が身のこと、家族のことで突発的なことが起こり易い。それに対応するには、色々な段取りをサポートするIT技術をできるだけ活用することであると感じた1ヶ月だった。

 

 

 

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リタイアメント近づく

2012年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム

株主総会(6月)の準備等を進めていると、「アー、僕にもリタイアメントの時期が近づいた」と少し実感するこの頃だ。来月一杯で今の役職を退任する。7月からは某メーカーの監査役(非常勤)として暫くお世話になる予定だが、どうもビジネスの前線からは離れることになりそうだ。

その環境に身を置いてみると、先人のエッセーなどを読んでも感慨が違う。城山三郎に「四十代最後の年に」という小文がある。

・・・・「私の四十代最後の仕事となった『毎日が日曜日』は、当時出会った大学時代の旧友の一言がきっかけになった。「きみも、定年まであと五、六年か」と、私が何気なく訊いたのに対し、友人は答えた。「実質的にはとっくに定年だ。四十代の終わりからは、もう『死に体』も同然さ」

知的にも肉体的にも出力100パーセントという年代なのに、何ということか、私は思った。先の長い人生を、「死に体」のままで、どう生きるつもりなのか、と。私は自分の問題として考えたい、と思った。・・・・・・・・・

☆   ☆   ☆

四十代の終わりからは死に体も同然、というのは少し厳しい例かもしれないが、多くの会社では、五十代中頃には、子会社への出向等という形を取る。それを「死に体」と切り捨てる積もりはないが、モチベーションがガラッと変わることは事実だろう。モノ作り系の人の場合はよく分からないが、管理畑ではこのような形でバトンタッチが行なわれていく。その中で多くの人は「次の生きがい」を見つけて、新しい人生へのトランジションを始める訳だ。

もっとも計画性のある人はトランジションも上手くいくのだろうが、私のように「なるようになるさ」といういい加減さで生きてきた人間にはトランジションの絵が描けていない。

週末には、その手の本など読んでみようか?という気がしないではないが、今週日曜日は山(清里の飯森山)であり、来週はワイフと旅行の予定だ。結局「気の重い」話を避けながら、目先の楽しみに身を浸し、ずるずるとニア・リタイアメントという汽水域に進んでいく・・・というのが私の場合のようだ。

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漸く退院しました

2008年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム

今日(4月4日)約4週間ぶりに退院して自宅に戻りました。入院していた病気は「肝膿瘍」です。肝膿瘍なんて病気は自分が罹るまで知りませんでした。最初は風邪かなぁと思っていたのですが、高熱が続いたので、総合病院に行ったところ血液検査とCTの結果「肝膿瘍」と診断されたのです。病気の原因などについては入院中も詳しく分からなかったのですが、退院した今インターネットで見て概略分かったという状態です。私の肝膿瘍は「可能性肝膿瘍」に該当すると思いますが、担当医の先生によると「感染経路」は特定できないということでした。因みにインターネットによると、胆肝炎に続発する胆管経由のものが一番多いようですが、原病巣や感染経路が同定できないケースも半分程度あるようです。「理由は分からないけれど病気になる」ということは珍しいことではないかもしれません。

沢山の方からお見舞いのメールやコメントを頂きまして誠にありがとうございました。追々お返事申し上げる予定ですがとりあえずご退院の報告を申し上げます。なお月曜日からは通常通り会社に出る予定です。

北の旅人より

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親はありがたい

2006年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

母の体調が今ひとつと弟が言っていたので、週末とんぼ返りで京都の実家を訪ねた。幸いなことに弟の思い過ごしで母の体調は良好であり、母の方が宿沢さん(広明さん。この前赤木山で急逝した三井住友銀行の役員)の話をだし、私の健康を心配する位だった。

Ajisai_1 時間があれば、京都のお寺の庭園でも回り写真を撮りたいと思っていたが、今回は時間もなく私の体調(腰の具合)も今ひとつなので、実家のアジサイだけ写真に収めて帰った。

写真ではほとんど分らないが、少し前まで激しい雨が降っていてアジサイの花の上に細かな水滴が浮かんでいる。

アジサイに 水滴光る 老母(はは)元気    (北の旅人)

このアジサイも母が手入れしている植木だ。大正10年生まれの父母は京都の北辺で小さな寺を守っているが、幸いなことに共に元気だ。そして50歳を過ぎた息子の健康を気遣うのである。

論語為政第二に「孟武伯 孝を問う。子曰く、父母は唯その疾(やまい)をこれ憂う」という一文がある。通釈は貴族の師弟の孟武伯が父母に孝行を尽くす道を孔子に問うた。その時の孔子の答が「父母は何事につけ子供のことを心配するものですが、その中でも子供が病気になりはせぬかという心配は絶えることはないものです」というものだった。これはとかく不摂生に陥りやすい孟武伯を孔子が戒めたのだという説明が「論語新釈」(宇野 哲人 講談社学術文庫)に出ている。待機説法に長けた孔子らしい話だ。

それにしても昔は山で怪我などしないように気をつけるのが、親孝行の始めだったが、こちらも中年になってくるとメタポリックシンドロームなど気を着けないといけないことが増えてくるので大変だ。孔子が現在に生きていたら「ダイエットが孝の始め也」などと言うかもしれない。

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