ネパールのヒンドゥ教の寺院に行き、英語の説明を聞いているとIncarnationという言葉をよく耳にする。
Incarnationとは化身のことである。たとえばネパールで一番古いチャンぐ・ナラヤン寺院に行くと「主神ナラヤン神はヴィシュヌ神の化身である」といった説明を受ける。
ヴィシュヌ神は「維持」を司る神で、ヒンドゥ教ではブラフマー神(創造)・シヴァ神(破壊)と並ぶ御三家である。ヒンドゥ教は神様が多い上、化身という形で違った形を示すので誠に分かり難い。
もっとも解説本によると「それは、それぞれの神や女神たちの多面的な性格や能力を個別に強調するための表現の多様性によるものである。信者は同じ一つの神を、それぞれの必要に応じて異なった名称と姿を拝むのである。」(「ヒンドゥー教ーインドの聖と俗」森本 達雄 中公新書)ということである。
私流の解釈をすれば、信者の願望が化身を生み出したということだろう。創造・維持・破壊(次の世界を作るために創造的破壊)という抽象的概念だけでは、日々の信仰の対象になり難い。そこで「その神の前でウソをつくとたちまち死んでしまう」というカーラ・バイラヴ(シヴァ神の化身)のような具体的な神様が必要になったのだろう。(写真はカーラ・バイラヴ)
ところでIncarnationに「再び」という意味のReという接頭辞が付き、Reincarnationとなると「輪廻転生」という意味になる。
Incarnationの元々の意味は「肉体を与える」ということだから「再び肉体を与える」⇒「再生する」ということで輪廻転生を意味すると私は考えている。
ヒンドゥ教や釈迦直伝の仏教では「輪廻転生」という概念は非常に重要だ。人は死んでも魂は必ず何かに生まれ変わる。良いことをした人は「天界」や「人間界」へ生まれ変わり、悪いことをした人はそれ以下の「畜生」「地獄」などに生まれ変わる。
魂は永遠だが、肉体は仮の乗り物なので重視しない。死体は極端にいうと蛇の抜け殻程度のものなので、火葬に付して骨はガンジス河に流してお仕舞である(当然墓はない)。
化身と輪廻転生の間に直接的な関係があるとヒンドゥ教徒が考えているかどうかは私には分からない。
しかしあらゆる生命の源は、多様な形をとってこの世にその姿を現すと考えると根っこでは共通するものがあると私は考えている。
ともすると我々は「個体の命」を生命と考える。しかし個体は死んでも子孫がいる限り遺伝子は持続する。我々の「個体の命」は太古に生命が生まれた時から綿々とつながる命の流れ(遺伝子の連続)の中の一つの「表現型」と考えるならば、命の流れの中の一つの「化身」ということもできるだろう。
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カトマンズの街でカーラ・バイラヴに熱心にお詣りしている人に聞いてみた。
「あなた達は輪廻転生を信じているはずだ。従って死を恐れることはないと思う。何を神様にお祈りするのか?」
答はこうだった。「次の世で良い世界に生まれ変わるには、この世で良いことをしないといけない。そのためには長生きして功徳を積む必要がある。事故等で不慮の死を遂げると功徳を積むことができない。だから災難等で命を落とすことがないようお願いしている」
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ヒンドゥ教の教えを迷信であると一笑に付す人は多いかもしれない。
だが大きな運命を絶対者に委ね、死を恐れず、しかも命を大切にするという生き方は、これから老境に入っていく我々に教えてくれる何かがあると私は考えている。