先日大学山岳部の同期生が集まる機会があり、昔話に花が咲いた。
同期生といっても全員が最後まで山岳部にいた訳ではない。最後まで残ったのは3割程度である。
私は最後まで残った組なので当時は「自分は所属集団への帰属意識が強い人間だ」と思っていた。
ところが年とともに山岳部OBの集まりに顔を出す機会が減ってきた。一番大きな理由は母校から離れたところで暮らしていることだと思うが、それを差し引いても、「寄れば昔の話をする」集団に魅力を感じなくなったことも大きい。
「所属集団」という点で我々サラリーマン経験者にとって一番大きな所属集団は会社である(家族といわずに会社というところが既に会社に毒されている?)。
会社には卒業後も〇〇支店OB会などという集まりがあるが、私はこのような集まりにもほとんど顔を出さない。
顔を出すのは「今何かをするための集まり」である。山登りについては元の会社の山好きと作った同好会があり、その連中とはよく山に出かける。もっともこの同好会はかなりオープンな組織で、仲間の外部の友達が参加して、今ではオリジナルメンバーより活発に活動している位だ。
日本の会社は「忠誠心」という形で所属集団=会社への帰属意識を求めてきた。忠誠心の高低はある階層以上の人事考課では一番ウエイトが高かったかもしれない。
集団の所属員に取っとも「帰属意識」を持つことは実は楽な場合が多い。何が楽か?というとあれこれ考えなくて済むからである。考えるということは脳を疲労させる。だから考えない方が楽な場合が多いのだ。
だが会社を卒業してシニアライフに入る楽をしてきたツケが回ることがある。
それは身の回りに家族以外に自分を包んでくれる帰属集団がなくなるからだ。家族といっても子どもたちは独立している場合が多いから、配偶者だけが身の回りの家族ということが多いだろう。退職した夫が妻に過剰な帰属意識を持ち、また妻の過剰な帰属意識を求めると「主人在宅ストレス症候群」だとか「夫源病」などと呼ばれる現象が起きる。
その原因は夫の会社への帰属意識が強すぎたことにある。
それは帰属意識の蓑に隠れて考えることをストップしてきたツケということもできる。
本当は仕事の上でも、組織ファーストではなく、目的ファーストで考えるべきだったのだ。何かを達成するために社内外の人材を集めてプロジェクト的に取り組むという訓練ができていなかったのだ、と思うことがある。
しかし働いている時は組織ファーストでないと、組織の階段を登ることができず、力を発揮する機会が少ない。力を発揮するポジションにいないとプロジェクトを回すことができない・・・
サラリーマンの一つの難しさはこの辺りにあると私は思う。組織ファーストから目的ファーストへのギヤチェンジができるかどうかが楽しいシニアライフを送ることができるかどうかの一つの分岐点なのである。
今月中頃からネパールに旅にでる予定だ。主な目的はトレッキングとネパール支援団体代表として支援学校の状況視察である。他に毎度のことだが、幾つかのヒンドゥ寺院や仏教寺院にも参詣することになるだろう。
ネパールは宗教が濃い国だ。濃い宗教というのは、宗教に対する思い入れが深いということで人々が来世を信じて神仏を祈り、善行を積むなど積極的に宗教にコミットしていることを指す。宗教にコミットして疑うことがないから、多くの人は幸福な顔をしている。
と説明すると過去に同行した友人たちは一様に怪訝な顔をした。
「ヒンドゥ教や仏教な教えるような輪廻転生~良い行いをすれば良い来世に生まれ変わる~なんてありませんよね」と。
ヒンドゥ教が教える輪廻転生やキリスト教・イスラム教が教える最後の審判があるのかないのか私には分からない。
また分かろうとも思わない(考えたところで結論がでる話ではないから)。
ただし「考えても結論のでないことはそのまま信じる方が良い場合がある」とも考えている。脳科学者の中野信子氏は「何かを信じたら、そのまま信じたことに従い、自分で意思決定しない方が、脳に負担がかからず、ラクなのです。たとえば、宗教を信じている人の方が、そうでない人よりも幸福度が高いというエビデンスがあります」と述べている。
中野氏は「他人を疑うことは、認知負荷、つまり脳にかかる負荷が高い行為で疲れる。歳をとるとドーパミンの分泌量が減るので、脳が疲れる行為を積極的に取らなくなる」とも述べている。
歳を取ると人を疑い難くなるから高齢者が特殊詐欺にあうケースが増えているという説明も可能かもしれない。
「死んだらどうなる?」「死後の世界はどうなんだ?」ということは、脳を活発に活動させることが好きな人は考えても良いテーマかもしれないが、多くの人にとっては疲れを招くだけのテーマだろう。
ならば宗教の教えを丸呑みしてしまうのも一つの方法である。特にヒンドゥ教のように「人は死んだ後必ず何かに生まれ変わる~魂は永遠~」という建付けを信じてしまうと死を必要以上に恐れ、悲しむことはなくなる。
人生においては、疑わざるを得ないことが多い。情報化社会になるとその分疑わないといけないことも増える訳だ。
しかし人間の脳の疑う能力には限りがある。この限りある資源を有効に活かすためにはどうするべきか?
それは「疑うべきことを絞り込む」ことである。疑って答のでることを疑うということだ。
答のないことは疑うべきではない。孔子は「我未だ生を知らず焉んぞ死を知らんや」と言った。
人の寿命や死は答のある問いではない。そこは大きなものに委ねて、我々は答のある問に疑問を集中するべきなのである。
予め断っておくが私は日本の既存仏教をそのまま信じるのが良いというつもりは毛頭ない。
現存する日本の「仏教」に大半は実は仏教ではない。仏教を釈迦の教えという観点から見れば、ということだが。
「戒名」「高額の墓」「過度の葬礼」などは疑ってかかるべきものだろう。
私は死後の世界にも自己責任はついて回ると考えている。善行も非行もその人の責任であり、残された人が救うことはできない。そう考える方が論理的に完結するからだ。故に戒名料などの名目で多額の寄付を求める似非宗教集団には警戒心を強めることを勧めている。
ネパールの旅は私のこのような考え方を検証する旅でもある。
先週金曜日に大学のクラブの同期会があった。たまたま私が関西に出かける用事があったので、仲間が集まってくれた。
中には卒業後初めて会うという男もいた。大きな病気を経験した仲間もいるが、今は皆そこそこ元気で昔話に花が咲いた。
ところで我々の同期は67歳前後である。67歳という歳は最近読んだ「定年後」という本によると、黄金の15年の中頃に当たる。
「定年後」の著者・楠木新さんによると60歳から75歳が人生の黄金期に相当する。つまり60歳で退職して、平均的に見れば介護や介助の世話になる前の75歳までが自分がしたいことができる黄金期ということらしい。
何となくここ数年過ごしてきた。幸いなことに「居場所がない定年退職者」(楠木新)になることはなかったが、ものすごく充実していたとも言い難い。
男性の平均寿命は80歳を超えているが、健康寿命ということになると73歳程度が平均だという統計もある。統計的には「黄金の15年」というのは当たっているのかもしれない。
英語にHalf full or half emptyという諺がある。コップに半分水が残っている時に「まだ半分水が残っている」と感じるか「もう半分空になっている」と感じるかでものの見方が変わるという教訓だ。
過ぎた日は帰らない。また過ぎた日を後悔するつもりもない。楠木新さんは「取材した実感では定年後も元気な人は、1割5分か2割未満。元気でない人は少なくとも5割以上」といっている(私の感覚では元気な人はもっと多いが)。
何となくでもそこそこ元気に過ごしてきたので可とするべきなのだろう。ただし黄金の15年の五合目に差し掛かったことに気が付いたのだから、もっとやりたいことを絞って深堀する方が良いのではないか?などと考え始めている。まだまだHalf fullなのである。
ちょっとした「定年後」ブームである。文藝春秋10月号は「定年後の常識が変わった」という大特集を組んでいた。大特集のトップは20万部超えのベストセラー「定年後」を書いた楠木新氏の「良い定年後と悪い定年後」だった。
「良い定年後と悪い定年後」の中に次の文章があった。
「副業については、単なる趣味の範囲にとどめないという意味で、お金も大切です」「お金儲けと言えば語弊がありますが、寸志や交通費だけでも、それは、誰かに求められている証拠です」「サラリーマンとしてもらうお金と自分で稼ぐお金はレートが違うという人がいます」
定年後も何か世の中から求められることをして、少しでも報酬を貰うことができればよい、という意見だ。
「稼ぐお金はレートが違う」というのは実感にあう言葉だ。
サラリーマンも会社のためにお金を稼いでいるから給料をもらい、更には給料の後払いとして厚生年金をもらうのでお金を稼いでいることには変わりはない。しかし会社というのは大きな組織なので「稼いでいる」という実感を得ることは少ない。
私の場合ディーラーをやっていたことがある。この時は儲け=売値ー仕入れ値がすぐわかるので儲けた(あるいは損をした)ことがその場でわかった。しかしそのような例は多くはない。多くの場合、販売と製造・管理に分かれるので稼ぎの実感がないのである。
退職後は多くの人の主な収入は年金になる。厚生年金は実は稼いだお金の後払いなのだが、多くの人は楠木氏のように「もらうお金」と考える。それはお金を稼いだ時期ともらう時期がずれているので自分が稼いだお金という実感がわかないからである。また現役時代も前述のように稼ぎの実感を感じる機会が少ないことも原因の一つだろう。
定年後に多少なりとも報酬を得られるような何かをする、ということについては賛成だ。
だが同時にサラリーマン退職者は「もらうお金」=厚生年金や企業年金についてもっと胸を張って良いと私は思う。
なぜならそれは「誰かから貰うお金」ではなく「自分で稼いだお金」だからだ。たとえ「稼いだ」という実感が乏しくてもである。「稼いだお金」という実感が乏しいとすれば、サラリーマン時代の意識や意識付けをおこなってこなかった会社に問題があるといえる。
モノやサービスを販売する立場の人は原価を考え、製造や管理を担当する人は販売価格のことを考え、自分の行動を律していけば「お金を稼ぐ」ということが見えてくるはずだ。つまりトップライン(売上)ではなくボトムライン(利益)を強く意識することで稼ぎが見えるのである。
繰り返しになるが、サラリーマン退職者は稼いだお金として誇りをもって年金を受け取っていけばよいのである。副業につながるような趣味を持っている人は幸いであるが、別にそのような趣味がなくても気にすることはない。
ただ謝礼をもらうかどうかは別として他人から感謝されることを何かしたいという気持ちはある。同期会の幹事のようなことでも良いだろう。それはお金の問題ではなく人とのつながりの問題である。人とのつながりを大事にすることが良い定年の一つの条件であることは間違いない。