金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

消費者を惑わす二つの誇大広告

2006年07月30日 | うんちく・小ネタ

消費者を惑わす誇大広告は多いが、私は中でも「語学教材」と「健康食品」が怪しいものの双璧と見ている。「語学教材」で誇大広告だと思うのは「聞いているだけで英語が身につく」とか「ある日突然話が分るようになる」という類のものだ。例外がないと断言はしないが、一般的にいって「分らない言葉はいくら聞いていても分らない」し分ろうと思うなら自分で辞書にあたるのがはるかに早い。これは帰国子女の私の二人の娘も断言しているところなのでまず間違いのないところだろう。ところで今日の本題は語学教材ではなく健康食品の話である。

昨日の夜テレビで杜仲茶がメタボリック症候群に特効性があると言っていたので、話半分で田無の駅前のドラッグストア等を探してみた。ところがマツモトキヨシにもどこにもないのである。漸く扱っているという自然食品店を見つけることができたが、そこのご主人はノートを見せてながら「売り切れです。今日これだけ杜仲茶の予約があったのですよ。テレビは凄いですね。早い人は朝7時半から来てました。」と言う。ノートには2ページにわたって予約者の名前と電話番号が埋まっている。杜仲茶はティーバックで1パックが1,500円程というので私も申し込んでおいた。

ところでウイキペディアで杜仲茶を調べると次の様なことが書いてある。

  • 杜仲茶はグッタベルカという成分を含み、血圧の降下や肝機能の機能向上に効果があると言われている。
  • 日本では1970年代に杜仲茶ブームが起こったが直ぐ下火になった。その後1990年代に日立造船が缶・ペットボトル入りの杜仲茶を発売して大ヒットし再び脚光を浴びた。

なるほどそこそこ効きそうではあるが、どうしてブームが定着しないのだろうか?と疑問が湧く。そこで自然食品店のご主人に杜仲茶の効果の程を聞いてみると「それ程もねぇ・・・。ただ運動している人にはそれなりの効果はあるようですよ」ということだった。杜仲茶といえども自助努力をしない人まで助けることはないということか?

でもその方が信憑性がありそうだ。昨日テレビで言っていた様なメタボリック症候群退治の特効薬的な効果はないと考えるのが妥当というものだろう。それにしても分別のある?中年男性を中心にちょっとテレビで話題になると健康食品・飲料に買いが殺到するのは面白い現象だ。

私は兼ねてから健康食品の類は「聞くだけで英語が身につく」語学教材的な誇大広告品だと思い余り買っていなかったが、杜仲茶は安いということもあって一寸手を出してみることにした。数日後には入手できるからいずれ効果を書いて見たい。

それにしても炎天下杜仲茶を求めては走り回っていると結構良い運動になった。少しは無駄な脂肪も燃えただろう。これも杜仲茶の効果に入れるなら案外効果があるのかもしれない。

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山より風呂の大岳山

2006年07月30日 | 

7月最後の土曜日、前の会社の先輩達と御岳山のケーブルに乗り大岳山(1,266m)を目指す。私は春夏秋冬何度も大岳山を登っているが、同行のお二人には初めての山だ。まず御岳神社にお参りする。Y先輩が一生懸命お祈りをしている。何を祈っているのだろうか?とちょっと聞いてみたくなるが、ひょっとして言い難いことならいけないので止めておいた。

Mitakejinjya

神社の境内が狭く、標準レンズで全貌を撮ろうと思うと石段から落ちてしまうのだが、今日は広角レンズを持ってきたので全貌が撮れた。

この神社の狛犬は立派だ。特に足ががっしりしている。これ位足がしっかりしていないと、御岳山を走り回ることはできないのかもしれない。

Komainu

御岳神社を出て約30分ロックガーデンへの行く道の手前で清水が出ていた。顔を洗って休憩する。今日は蒸し暑くまるでサウナの中でステッパー(トレーニングマシーンの一種)をやっている様な感じだ。

さて芥場峠を過ぎて小さな岩場を登った辺りで雨が降り出した。大岳山頂上まで後30分程度なのだが、来週末の西穂高登山を前に風邪を引いたり、滑って擦り傷を作ったりしてもいけないので引き返すことにする。引き返し始めると雨足は一層激しくなった。長い梅雨の最後の雨かもしれない・・・などと思いながら意外に長い山道を辿った。ロックガーデン分岐の小屋で雨宿りをしていると半時間ほどで小降りとなった。また蒸し暑い道をケーブルまで辿る。

途中ユリとアジサイの花が心を和ませてくれた。

Yuriajisai

この時期例年であればレンゲショウマが咲き始めるのだが、今年はまだ「6輪しか咲いていません」とケーブルで放送があった。

さて下山後マイカーで吉野街道を東京方面に走り、梅郷で「九兵衛」http://www.9bee.jp/index.phpという「食堂+お風呂屋さん」に立ち寄り早速風呂に入った。梅エキス入りがうたい文句だ。2千円何がしの蕎麦定食を頼むと5百円の入浴料が無料になった。お風呂は中々気持ちが良い。御岳からの帰りに寄る風呂としては「もえぎの湯」という温泉が奥多摩駅の近くにあるが、こちらは逆方向になる。通り道としては「九兵衛」が手頃かもしれない。お料理の味は今ひとつという気がしないでもないが、これは車を運転する私がお酒を飲まず、飲兵衛のYさんの熱燗に付き合っていたので多少辛目の点数が付けたのかもしれない。

というような訳で今日の登山は大岳山の頂上より梅郷の梅風呂入りということになった。

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パチンコと消費者金融

2006年07月28日 | うんちく・小ネタ

私は20年位前にパチンコは止めたので、最近のゲーム機などについては全く疎い。ただし仕事でパチンコ業界に多少のかかわりがあるので、関連記事などには眼を通している。さて今週のエコノミスト誌(7月27日発刊)に「ゲームのルール」~当局はパチンコビジネスのクリーンアップを試みている~という記事が出ていた。私の記憶ではパチンコがエコノミスト誌に登場するのは初めてのことだ。まず記事のポイントを見てみよう。

  • 今月セガ・サミーの新しいゲーム機(北斗の拳)が登場した時、パチンコ店はお客で混みあった。パチンコは日本で好まれる娯楽の一つの地位に留まっているものの、パチンコ店は余り良くないと考えられている。遊戯者の数はこの10年で29百万人から18百万人に半減した。また業界は法的には半分グレーなエリアで営業を行なっている。
  • 業界を監督する警察庁によれば、日本人は全体で年間約30兆円をパチンコと新参の弟分のパチスロに消費している。これは概ねヘルスケアに消費する金額に等しい。消費者の借金の半分はパチンコで遊ぶための借入であると考えられている。
  • パチスロット「北斗の拳」の凄い人気はパチンコ業界の今後の幾つかのトレンドを説明している。一つは伝統的なパチンコ台からパチスロへのシフトである。現在典型的なパチンコ店では約3分の2がパチスロになっている。パチスロは業界の規制が緩和され、台メーカーの自由度が高まった時から活気付いてきた。パチスロの特徴はギャンブル性が高いことである。なおウイキペディアからパチスロの特徴を引用すると「パチンコとの遊戯性の違いは、『ある程度の技術介入』要素が明確であり、出玉に左右されやすい点にある。つまり打ち手のレベルやテクニックによって目に見えて差が開きやすい」ということだ。
  • パチスロはパチンコ業界の衰退を食い止めている反面、パチンコ店が厳格な日本のギャンブル規正法を回避しているのではないかという懸念も高まっている。日本ではカジノ型のギャンブルは違法であり、パチンコ店は勝った客に現金を渡すことはできない。従って遊戯客は景品を景品交換所で現金に換えている。警察はこの様な取引を止める手立てを打てなかったので、2004年6月に導入された新しい規制でパチスロの大当たりを80%削減した。しかしパチンコとパチスロの台のライセンスは3年毎に更改されるので、射幸性の高いパチスロ台は2007年6月まで生き残ることになる。そしてその後パチスロ台はギャンブル性の高いものからより娯楽性の高いものに戻ることが期待される。
  • 締め付けには他の理由もある。パチスロは時々違法に改造されている。また毎夏12人程度の赤ん坊が、パチンコをする両親のため車に置き去りにされ死んでいる。また多くのパチンコ店は在日コリアンにより経営され、その内のあるものは税金を回避し、その金を北朝鮮に送金している。
  • 新しい厳密なルールが業界を助けるのか傷つけるのかははっきりしない。大当たりの金額を制限することでパチスロの遊戯代を安くし、イメージを改善することができるだろう。しかし人々の足を遠のかせるかもしれない。そしてもし業界が低下すれば、それにともなって政府の税収も下がる。日本の巨大財政赤字からすれば、再考を迫るかもしれない。自民党の小委員会(訳注:政務調査会観光特別委員会カジノ・エンターテイメント検討小委員会を指す)でギャンブルの合法化に向けて検討がなされているが、まだ極初期の段階である。国会議員達はギャンブルを抑制するより税収を維持する方が重要かどうか未だ結論に至っていない。

さてパチンコと消費者金融ということを考えてみよう。昨日の新聞によれば消費者金融の利用者は1,399万人で総貸出額は14兆1,965億円、一人当たり借入額は101万円である。なお延滞者は267万人いるということだ。エコノミスト誌の記事によれば消費者の借入の半分はパチンコ遊戯資金ということである。もっとも消費者の借入はConsumer Debtと書かれており、それが銀行等を含む借入なのか消費者金融からの借入なのかはっきりしない。ただ直感的に消費者金融の占めるウエイトが相当高いことは間違いない。(パチンコ店と消費者金融の店が近くにあるケースは多い)

今消費者金融からの借入金14兆円の半分7兆円がパチンコに使われているとしよう。一方日本人はパチンコに年間30兆円使っているが、仮に掛け金の戻り率を8割としてみよう。30兆円使って24兆円のリターンを得ている訳だから、パチンコ・パチスロの遊戯客はトータルで年間6兆円損をしている計算になる。その6兆円はパチンコ店に入っている訳だ。この金額は概ね消費者金融の借入額の半分であるから、マクロ的に見るとパチンコ・パチスロの遊戯客は負け分を消費者金融から借りているという構造になる。更に言えばパチンコ等のギャンブルが習慣化した人間が債務不履行に陥る可能性が高く、その分はギャンブルをしない人が高い金利を払うという形で負担していることになる。ということはパチンコ店が払う税金や北朝鮮への送金は実はパチンコをしない消費者金融の借り手が相当部分負担していることになる。

さて現在消費者金融の上限金利を見直す等の動きが出ているが、こうなると一般的には債務不履行の可能性の高い人は借入がより困難になる。つまりギャンブルで債務過多に陥っている人は借入が困難になるはずだ。ただしこれらの人はヤミ金融に走る可能性が指摘されているのも周知の事実だ。

以上のようなことを考え合わせると、私見では消費者金融の低利化とパチスロのギャンブル性の削減は同時並行的に推進するべき課題ではないか?ということになる。本当に一時的な生活苦から消費者金融に頼る必要がある人が、ギャンブラーの尻拭いをする様な構造になっていることに疑問を覚えるものである。

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1000句の重み

2006年07月26日 | 俳句

この前テレビ東京の「何でも鑑定団」を観ていると、芭蕉の「奥の細道」の一節を表装したものが「お宝」として出ていた。それは鑑定の結果ニセモノということになったのだけれど、司会者の島田伸介が「芭蕉は生涯1千句しか俳句を作っていない」と話をしていたのが気になった。たかが娯楽番組であり、教養のない伸介辺りが言うことに目くじらを立てることもないのだが、芭蕉好きの一人として少しコメントをしておこう。

実際現在確認されているところで芭蕉が作ったとされる俳句の数は980句強であるので、伸介が言った数字は正しい。芭蕉が30年句作をしたとすれば、年間30句そこそこでいかにも少ない感じを与える。しかし一つの問題点は芭蕉を俳句の作者と位置づけるところである。芭蕉の俳句は俳句として単独で存在するのではなく、「奥の細道」などの紀行文の中に存在する。芭蕉は西行や李白といった和漢の大詩人の詩文を自由に引用しながら「奥の細道」を書いている。いや引用するというよりは西行達先達の眼を複眼的に持ちながら目の前の景色を観ているというべきだろう。「奥の細道」は芭蕉による東北・北陸の大旅行記であるとともに、詩文の道の先達の抒情を追憶する心の紀行文でもある。この「奥の細道」は散文学として日本文学の一つの頂点に立つものである。つまり芭蕉を単なる俳諧の作者とすると正しい芭蕉の姿を見ることは出来ないのである。

又芭蕉は生涯をかけて己の作品を推敲した。従って現存する作品はほぼ佳句と言って良いのではないだろうか?もっとも芭蕉の句といえども駄作があるという意見もある。正岡子規は「芭蕉の佳句は十に二、三。蕪村の駄句は十に二、三」と評しているが、これは写生主義の子規の視点で芭蕉を評価した極めて偏った見方である。

これについて萩原朔太郎は「芭蕉私見」の中で「その(芭蕉の)リリシズムを理解しない限りにおいて、百千の句は悉く皆凡句であり、それを理解する限りにおいて、彼のすべての句は皆佳(よ)いのである」と言う。

では芭蕉のリリシズムの中核は何なのか?朔太郎は「芭蕉私見」の中で「芭蕉の心が傷んだものは、大宇宙の中に生存して孤独に弱々しく震えながら、葦のように生活している人間の果敢なさと悲しさだった。・・・・この悲しみこそ無限の時空の中に生きて、有限の果敢ない生活をするところの、孤独な寂しい人間の悲しみである」と言う。

なるほどこの様な芭蕉作品を貫くリリシズムをベースにして見ると芭蕉の句が一層鮮やかに見えるではないか。

  • 夏草やつわものどもが夢の跡
  • むざんやな甲のしたのきりぎりす

この二句は非業の最期を遂げた義経と義仲を追憶したものだ。ここには夢半ばにして倒れた英雄の悲しみの中に詩美を求めて追憶する求道者芭蕉の姿が見える。

  • 塚も動け我が泣く声は秋の風

この句は芭蕉が金沢に旅した時まだ会ったこともなかった句友一笑が半年前に死んだことを知りその墓前で詠んだ句で私が好きなものだ。ここには万人の悲しみを心に抱きながら無限の旅を続ける芭蕉の姿がある。ただ芭蕉の句の中でもっとも激しいもので評価の分かれる句ではある。

芭蕉は単なる句作者ではなく、人生と宇宙の凝視者であり、哲学者なのだ。句数の過多で図るべき様な人ではないのである。

この様に考える時芭蕉の一千句はまことに重たいものではないだろうか?

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花撮りの小道具~テレコン

2006年07月24日 | 写真

花を撮影する時、私はマクロレンズ(ズイコーデジタル・ED50mm F2.0)を使っている。これはフィルムカメラ換算100mmなので中望遠マクロなのだが、少し距離のある被写体を撮るため、テレコンバータ(1.4倍)をつけてみた。テレコンバータを着けると絞りは2.8までになるが、画像の鮮明さは保っている様だ。下の蓮の写真はテレコンバータをつけて撮った写真だ。

Hasu2_1

もう一つ私が花や風景を三脚を使って撮影する時使っているのが平準器だ。これは数センチ角のプラスチックの中に気泡が入っているもので数千円で買える(高いような気もするが、余り需要がないのだろうなぁ)。水平線が歪んだ写真は落ち着かないので、出きる限り水平器を使う様にしている。スケッチは左がテレコンバータで右が水平器だ。気に入った写真を撮るには何かと小道具が要るものである。

Finder030

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