昨日堤真一主演の映画「決算!忠臣蔵」を観に行った。赤穂浪士が吉良邸に討ち入った12月は「忠臣蔵」のシーズンだが、討ち入りというプロジェクトを予算という切り口から活写した面白い映画だった。
ただ一つ気になったのは、討ち入りの2週間前になって、槍、鎖帷子などの武具を揃えることを決めるシーンがあったことだ。
果たして2週間程度で鎖帷子などの武具を50着近く揃えることが可能なのだろうか?仮に可能だとしても江戸でそのような武具を大量に調達することは役人や吉良側の探偵の耳目を引くのではないだろうか?というのは率直な疑問だった。
「昔」の忠臣蔵では大阪の商人・天野屋利平が赤穂浪士の武器調達を担当したことになっている。利平は役人から討ち入り前に浪士の支援をしたかどうか役人に尋問されるが「天野屋利平は男でござる」という有名な言葉をはいて口を割らなかった。
昔の忠臣蔵は予算面はフォーカスしていなかった武器調達については考察していたようだ。
戦争について資金調達と調達した資金による資材調達を企画するのがロジスティクスの領域なので、この映画でもそこまで踏み込んで欲しかったなぁと思わないでもない。もっとも娯楽映画なのでそこまで目くじらを立てる必要は全くないが。
今日(10月14日)は3連休最後の日。朝から雨模様だ。遠出をする気にはならないので、ワイフと久しぶりに映画を見に行くことにした。映画は吉永小百合さん・天海祐希さん共演の「最高の人生の見つけ方」。年齢・境遇が全く違う二人の女性は偶然の出来事から同じ病室で一緒に過ごすことになる。余命いくばくもないことを知った二人の女性が目指したのは「死ぬまでやりたいことを次々とやっていくこと」。
無関心な夫や引きこもりの息子に悩んできた小百合さん演じる主婦がやりたいことをやった時の「輝き方」が素晴らしい。悩み事に心を塞がれていた小百合さんの顔が一気に明るく輝くのである。それは「やりたいことにむけて心を開放すること」がいかに人生を輝かせるか?を体現している。
この映画はハリウッド作品のリメイク版ということだ。オリジナル版は二人の男性が「やりたいこと」をリストアップしていくそうだが、この映画では「やりたいこと」はある少女のメモで与えられる。私は自分たちでやりたいことをリストアップする方がリアリティがあると思うが、「他人からやりたいことを教えられる」この映画の設定も悪いものではない。
まあ娯楽映画だからリアリティにこだわることもないだろう。9割程度は楽しい映画だった!で良い。だけどもし1割の教訓を見つけるとすれば「やりたいことをやる最高の人生」とは当たり前だけれど家族を大事にする、ということだ。
家族を大事にするとは、当たり障りのない関係を続けるのではなく、踏み込んで痛みや辛さを共有することだ、ということをこの映画は示唆しているのである。お勧めの一作である。
昨日(10月19日)ワイフと黒木華・樹木希林主演の「日日是好日」を見に行った。
典子(黒木華)という若い女性が茶道の師匠(樹木希林)について茶道を学び、20数年かけて自分の居場所を見つけていくという話だ。
テーマはまさに「日日是好日」
日日是好日といっても毎日楽しいことがある訳ではない。典子も就職試験での不採用、失恋、父親の突然の死などいくつかの不幸に出会いながら、それを乗り越えていく。その時典子を支えてくれたのが日日是好日という言葉だ。
日日是好日という言葉は「その時その時の環境をありのままに受け止めてその時その時を精一杯生きることで日々が生きてくる」という意味である。
晴れて天気の良い日は楽しい。好日である。しかし晴天だけが続くと旱魃になり植物も人間も生きていくことはできない。雨も嵐もまた自然の大切な恵みなのである。
映画の終わり近くで、お茶席で激しい雨音を聞くシーンが出てくる。その時床の間にかかっている軸が「聴雨」という言葉だった。
雨もまた楽しむ心境を指すのか?と映画を観ている時は思った。
帰宅後調べてみると「聴雨寒更盡 開門落葉多」という唐時代の詩が出典だということがわかった。
秋の夜夜もすがら雨を音を聞きながら過ごした。翌朝門を開けると落ち葉が一面に積もっていた。雨の音と思ったのは落ち葉の落ちる音だったという意味だ。
元の詩の深い解釈は別として、「聴雨」という言葉は心に留めておきたいと思った。
私のような山登り愛好者は登山中に雨に合うことがしばしばある。特に昨今は地球温暖化の影響で想定外の激しい雨に合うことが多くなっている。雨の日の登山は楽しいものではない。体は冷えるし体力の消耗も大きいからだ。
更に気が滅入ってくるとますます楽しくなくなり疲れも増すようだ。
そんな時「聴雨」という言葉を思い出してみたいと思う。
日日是好日も聴雨も禅語である。禅の教えは難しく考えると難しくなるが、一言で言うと「その場その場を精一杯生きる」ということに尽きている。
山登りと禅が一如となったような「歩歩是道場」という禅語がある。元々の意味は一歩一歩の歩きそのものが仏道修行の場という意味だろうが、登山的には一歩一歩の登りを大切に倦まず続けることが山頂に至る道だということを意味している。
晴れた日は景色を楽しみ、雨の日は雨の音を楽しみ、雪の日は風に舞う雪の華を楽しむ心境になれば登山は更に楽しくなるだろう。
そして人生もまた。