今年は9月の中旬にやや遅い夏休みを取って、ワイフと立石寺と月山辺りに行く計画を立てている。山形で芭蕉の足跡を訪ねてみる予定だ。旅の楽しみは現地に行く前から始まっている。昨夜は少し涼しかったので、クーラーを付けずに久しぶりに「奥の細道」を読んでみた・・・・。
芭蕉の山形への旅は尾花沢に紅花問屋で富豪の清風(鈴木 道祐)を訪ねるところから始まる。「かれ(清風)は富める者なれども、志いやしからず」と芭蕉は述べる。これは徒然草第十八段「人は己れをつゞまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、世を貪らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。 」を下敷にしたものだ。芭蕉を読むことは日本や中国の古典を訪ねることにつながるので時空の旅を楽しむことができる。
さていよいよ芭蕉は立石寺に向かい、ここで「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」という名句をものにする。時期は新暦で7月13日であった。この蝉がいかなる蝉かということについて斉藤茂吉と漱石門下の芭蕉研究者・小宮豊隆の間に論争があったと聞く。茂吉はアブラゼミだと主張し、小宮はニイニイゼミだと主張し譲らなかった。最後に実際に芭蕉が訪れた時期に山寺を訪ね調べたところ、この時期にアブラゼミは鳴かないということでニイニイゼミで決着したということだ。
ところで芭蕉を俳諧の道に誘ったのは、芭蕉が若い時近習として使えた藤堂良忠だったが、彼の俳号が蝉吟(せんぎん)である。芭蕉は奥の細道に旅立つ前年若くして死んだ良忠の嗣子良長(よしなが)の屋敷の花見に招かれ往時を追憶し句会を催している。そういうこともあって蝉という言葉に特別の愛顧を受けた蝉吟への思いが重なっている様な気がしてならない。芭蕉は苔むした岩山に鳴く蝉の声を聞きながら、若くして死んだ旧主を偲んでいたに違いない。また短い命の限りを鳴く蝉に人間そのものの果敢なさを感じていたのに違いない。
日本現代詩の巨人萩原朔太郎は「芭蕉私見」の中で次のように述べている。
「芭蕉の心が傷んだものは、大宇宙の中に生存して孤独に弱々しく震えながら、葦のように生活している人間の果敢なさと悲しさだった。・・・・・釈迦はその同じ虚無の寂しさから出家し、遂に人類救済の悟道に入った。芭蕉もまた仏陀と共に、隣人の悲しみを我が身に悲しみ、友人の死を宇宙に絶叫して悲しみ嘆いた。」
朔太郎の言葉は芭蕉に対する最大級の賛辞だろう。芭蕉のリリシズムが二百年の歳月を越えて、現代の詩人の心を打ったのだ。
私が立石寺を歩く9月10日頃もニイニイゼミは鳴いているだろうか・・・などと旅を想像することは楽しいものである。