金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

中年団体旅行はキャンセルリスクにご用心

2013年09月30日 | うんちく・小ネタ

昨日八ヶ岳から帰宅するとO先輩から定年退職の挨拶状が来ていた。Oさんは合併銀行の相手先出身で普通は余り親しくならない関係なのだが、ともに海外勤務経験があったことなどから親しくして頂いていた。クラッシク音楽に造詣の深いOさんの葉書には「音楽、ゴルフ以外の時間の使い方が課題です」と添え書きがあった。

確かにそのとおりだろう。だが一言アドバイスをすれば、ボランティア活動や仲間を伴う趣味というのも、やりだすと結構時間がかかりかつ面倒なことになる場合もある。

私の場合は今二つの山仲間の幹事役的な仕事をしていて、往復の乗車券などを手配することが多いが、この時面倒なのが仲間の山行直前のキャンセルである。

先週末に出かけた八ヶ岳ではメンバーの一人が腰痛で突然キャンセルとなった。事前に送っておいた切符を宅急便で送り返してもらい、山に行く直前にJRの駅で払い戻しをして貰おうとおもったが、一部はJTBで購入した切符だったことがわかり、こちらは使用中止の処理をして貰い、本日JTBで払い戻しをして貰った。グループ旅行の場合、少しでも安くしようと思って、回数券などを使うことが多いが、その場合は1枚だけではキャンセルできないので、大変な手間がかかることになる。

その八ヶ岳登山の途中、美濃戸山荘で夕食を食べている時、突然携帯電話がなり、今度は今週末予定している雨飾山のメンバーの一人がお父さんの急な手術に立ち会うためキャンセルしたいと連絡してきた。

我々中年は色々なリスクを抱えている。リスクというのは、予定どおり物事が進まないことであり、不確実性である。まず年とともに腰痛など予想外に障害が体に発生する可能性が高まっている。それから高齢のご両親が突然病気になるリスクだ。第一線で働いている時に比べると「業務上の都合」というリスクは低減しているが別のリスクは高まっているのだ。

これらのリスクを考えると中年団体旅行は、コスト安のみを追求して団体切符などを手配することは問題なのかもしれない。幹事の立場でいうと、正規料金の切符を手配して解約リスクと負担を軽減しておくというのは賢明な方法だと感じた次第である。

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初秋の赤岳は快晴、忍びよる紅葉

2013年09月30日 | 

9月最後の週末、某ロータリークラブトレッキング同好会の赤岳登山に同行した。赤岳2899.2m、日本アルプス以外でここより高い山はない。その赤岳山頂の山小屋に泊まってご来光を拝みたいというのが、同好会の会長のご意向であった。

9月27日金曜日快晴午後4時、スーパーあずさ19号で茅野駅到着。予約していたジャンボタクシーで美濃戸口へ。料金は8,840円(茅野・美濃戸間のジャンボ料金は8,500円だがコンビニに寄り道したので少し高くなった)

4時45分頃美濃戸口から美濃戸山荘に向けて出発。5時40分美濃戸山荘到着。泊まり客は我々7名プラス2名。2階の大部屋を占拠してゆっくり寝た。美濃戸山荘の地元の食材(イワナ、きのこなど)をたっぷり使った食事は美味しかった。8,500円(一泊二食)はお値打ち感があるが、多くの登山者は美濃戸山荘の下にマイカーを止めて、赤岳や横岳を日帰りまたは山中泊で登っているので美濃戸の山小屋は素通りされている。春夏秋冬八ヶ岳に来ているかく語る私も美濃戸山荘に泊まるのは今回が初めてである。

9月28日土曜日快晴。午前6時50分美濃戸山荘出発。南沢を通って行者小屋を目指した。

苔むす南沢に朝日が指し清々しい。

Minamisawa_2

行者小屋が近づくと紅葉した木が目についた。色付く木々の向こうに広がるのは横岳の岩壁だ。

Yellowleaf

午前9時32分行者小屋到着。

Gyoujyakoya

行者小屋の上には大同心(左端の岩峰)から横岳(左)へ岩壁が広がっている。

目の前にはこれから登ろうとする阿弥陀岳がそびえる。

Amida

9時53分行者小屋発。文三郎・阿弥陀岳に向かう道を10分ほど登り、右手の中岳道に入る。今日は中岳道から赤岳に向かう予定だ。なお行者小屋を出て直ぐ右にいく踏み跡があるが、これは阿弥陀北稜に行くルートである。間違えないにしたい。

10時5分文三郎分岐。11時5分阿弥陀岳・中岳山のコル標高2605m到着。

Amida2

予定では写真の阿弥陀岳2,805mを往復することになっていたが、行く手の赤岳の急登を見て、「僕は阿弥陀はパスして赤岳に備える」という声が高まってきた。

やや予定より遅れ気味なこともあって阿弥陀岳は割愛。

写真はこれから向かう赤岳だ。

Akadake

話は横道にそれるが、今回の登山では広角レンズ(ソニーE2.8/16)と標準レンズ(E1.8/35)を持ってきたがズームレンズは持ってこなかった。単焦点レンズの方が引き締まった写真を撮ることができるからだ。

これまでの写真は広角レンズで撮ってきたが、ここでレンズを替えて標準レンズで阿弥陀岳を撮ってみた。

Amida3

広角レンズと標準レンズではイメージが随分違う。広角レンズの方が山の写真らしい写真を撮ることが出来ると私は考えている。ソニーのデジタル一眼用広角レンズは軽くてかさばらないので山には適したレンズである。

さて11時30分阿弥陀岳・中岳山のコルを出発。11時52分中岳山2705m通過。12時25分文三郎尾根分岐到着。分岐点手前は滑り易いザレの道だ。少しヘバリ気味の人も出てきた。赤岳山頂まで標高差200m弱である。

私にとっては6,7年ぶりの文三郎分岐である。前回は年末に阿弥陀岳北稜で冬の雪稜登りを楽しんだ後の帰り烈風に叩かれながらここを登っている。仲間の一人は軽い凍傷になった。マイナス20度位だったのだろうか。多少足は重たいとはいえ乾いた風が吹く初秋の山は楽しい。

12時48分標高2772m。頂上岩壁の下に到着。ルートはくの字型にスカイラインの最低点を目指している。

Akadakegannpeki

威圧的な光景だがこの岩場は比較的傾斜が緩いので滑落リスクはあまり高くない、と私は考えている。

13時29分赤岳山頂到着。北に眼を向けると赤岳展望荘や横岳がそして硫黄岳が見える。

Yokodake_2

さらには遠く北アルプスの槍穂高がくっきりと見える大絶景。しばらく景色を楽しんで今夜の泊の赤岳頂上小屋に向かった。

写真は頂上小屋から見た赤岳の頂上だ。

Akadakepeak

夕刻外に出ると赤岳・横岳のコルを雲が渡っていた。

Takigumo

隣の見知らぬ美女があの雲は何ていうのですか?と聞いたので「滝雲だよ」と教えてあげた。彼女は今日真教寺尾根という一般ルートでは一番タフなルートを登ってきたという。ただし200mの鎖場は思ったほど大変ではありませんでしたとさらり。若いって良いな、と思う。

明けて9月29日日曜日。今日も快晴。午前5時に小屋で朝食を頂きベランダで朝日を待った。

Fuji_2

雲海に富士山が浮かぶ。5時30分朝日が登った。

6時50分出発。7時23分文三郎分岐通過。8時33分行者小屋到着。今回の山行のhardest part is overである。赤岳からの下山路としては文三郎尾根と地蔵尾根があるが、今回は相対的に滑落リスクが低いと判断した文三郎尾根を取った。もっとも文三郎尾根も急な階段が続き楽な道ではないが。

9時22分赤岳鉱泉着。ラーメンを頂く。中々美味。9時40分赤岳鉱泉発。11時23分美濃戸山荘到着。生ビールで乾杯!11時55分美濃戸口へ向けて出発。12時35分美濃戸口到着。午後1時に予約していたジャンボタクシーで茅野の温泉(アクラランド)へ直行した。

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朝の赤岳から(写真)

2013年09月30日 | 

昨日(9月29日)の朝は八ヶ岳連峰の最高峰・赤岳2899mの頂上で迎えた。赤岳頂上小屋に泊まったのである。

朝日が登るのは午前5時半過ぎ。

Fuji

雲海に富士山が浮かぶ。秀麗だ。

Kawakamimura

朝日の登る方角野辺山の付近には薄く霞がただよう。左手の谷は高原レタスの栽培で有名な川上村だ。

Ridge

旭日を見ようと赤岳頂上を目指す登山者。

赤岳の朝は素晴らしい天気だった。

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日銀は消費税引き上げ前は動かず~WSJより

2013年09月27日 | 金融

WSJは「日銀は来年4月に予想される消費税引き上げが景気に悪影響を及ぼしたかどうか見極めるまでは追加的な金融緩和策を取らないだろう」という観測を述べた。

安倍首相が来週、消費税引き上げを発表するということは、ほぼ確実とみられる中、関心事は日銀が景気悪化の予防策として追加的な金融緩和を行うかどうかということに移っていた。

内閣官房参与の本田悦朗氏(静岡県立大学教授)は消費税引き上げの景気に与える悪影響を緩和するため、日銀は資産購入プログラムを強化するべきだと主張を続けているが、日銀の考え方に詳しい人の話によると、日銀が先制攻撃的な金融緩和策をとると考えるのはナンセンスだということである。

その理由は日銀は日本経済は堅調な内需と輸出の改善に支えられ確実にリバウンドしていると考えているからである。

10月初め(10月3-4日)の日銀政策決定会合では、消費者物価の上昇の兆しを含めて景気は適度に回復しているということが再確認されるだろうと日銀関係筋は述べている。

来年4月の消費税引き上げにより消費が予想よりも激しく落ち込むか株価が急落した場合には、早ければ5月頃に日銀は追加的緩和策を考えるのではないかと予想する人がいる一方消費税引き上げの景気に対する影響を見極めるには3ヶ月以上かかると述べている人もいる。

関心事は次第に来年4月以降消費税の引き上げはどの程度景気に影響を与えるか、そして日銀はその見極めにどれくらいの期間を要するのかということに移ってきているようだ。

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相続と葬儀~事務局長が語る円満な相続とは(1)

2013年09月26日 | うんちく・小ネタ

相続と葬儀、どちらも暗い話題である。インターネットを楽しむ若い世代が好む話題の対局にある重そうな話題だ。一方この二つとテーマに直面しないといけない80代前後の世代ではインターネットのヘビーユーザーは少なそうだから、この手の話題へのアクセスは少なそうだ。

だが相続と葬儀という問題は我々中高年には避けて通れない問題なので、何回かに分けて論じてみたい。

さて相続と葬儀にはどのような関係があるのか?

(1)第一に相続も葬儀も人(自然人)の死から始まる。人の死、いつ起きるかは分からないが、あらゆる人が絶対に一度、そして一度だけ経験するのが死である。「残された人に何かを伝えることができる葬儀」も「何かを残すことができる相続」も同一軌跡上にある。つまり「良い生き方」をした人は良い思い出と残された人に役に立つ財産を残すことができる。

(2)葬式の方法も相続による財産の分け方も「社会のあり方の従属変数」である。大都会に典型的な人口の都市化、高齢化、少子化が葬式のあり方と相続のあり方を急速に変えている。恐らく民法や税法が追いつけないほどの速さでである。

(3)「人はあの世に持っていける財産・地位などは何もない」という自明の理を悟った時、生き方は軽やかになり、葬儀は簡素化し、相続による揉め事は解消する。

つまり相続と葬儀に関わる問題は、それまでの人生の送り方に関わっている。先の世まで透徹する生き方ができれば、相続問題に悩むこともなく、自分の葬儀や埋葬にあくせくすることもない。

「葬式は、要らない」(幻冬舎新書)の中で著者島田 裕巳氏(宗教学者)は、次のように述べている。

「親は、子どもに財産を残したいと思う。財産は、自分が人生を頑張り通し、その結果、成功を勝ち得た証でもあるからである。しかし、親の思いとは裏腹に、財産があればあるほど、相続のときにもめる。それだったら、遺産などはない方がいい。・・・葬式で贅沢をし、金を使いきるのも案外、相続にまつわるもめごとを避ける手立てになるかもしれない。・・・ただ、人間はいつ死ぬか、予想がつかないわけで、葬式をあげた時点で、財産をすべて使いきった状態にするのは至難の業である。」

全般として私はこの「葬式は、要らない」という本は役に立つところが多い本だ、と思うがこの部分には疑問をもっている。一つは「財産があればあるほど、相続のときにもめる」という認識。事実は相続財産が少ない家でもよくもめるといわれている。次に葬式で贅沢をして金を使いきるという発想。葬式で贅沢をしても、死んだ本人には分からない。だからまさに「死に金」である。ならば元気な時に自分のために使った方が良いだろう。次に贅沢な葬式をしようと思っても、我々庶民では会葬者の数も知れているので、たいした贅沢もできないだろう。金を使いきるというのは少し大袈裟である。もっともこの部分は著者のメインテーマから離れているので、揚げ足をとるほどのことはない。

むしろ若干の批判を加えるならば、第3章「日本人の葬式はなぜ贅沢になったか」の中の「易行としての念仏」のくだりである。少し引用しよう。「釈迦の教えからすれば、死後、地獄に堕ちることを恐れたり、西方極楽浄土への往生を願って莫大な金を費やすことは、無駄で虚しい営みのはずである。ところが豊な生活を送った貴族たちは、・・・・浄土を目の前に出現させようと試みた。ここにこそ日本人の葬式が贅沢になる根本的な原因がある。」

この部分に書かれていることは正しい。

だが後段の「親鸞の活動によって、浄土教信仰は貴族から一般民衆のものへと変貌した。法然や親鸞が説いたのはひたすら「南無阿弥陀仏」と唱和することで、この教えにしたがいさえすれば壮麗な浄土式庭園や阿弥陀堂を造る必要だどなかった。」には若干著者の誤解があるようだ。

実は親鸞は極楽浄土に行くのに念仏を唱える必要もないと考えていた。何故なら阿弥陀如来は総ての人を救済し極楽に連れて行くという誓いを立てているからだ、と親鸞は説く。善人なおもて往生す、いわんや悪人をや、である。

私はこの親鸞の考え方を脱宗教的でかつきわめて現代的であると考えている。仏教が定める戒律を守ろうとも守らなくとも、仏を拝もうとも拝まなくとも総ての人は同じく極楽に行く・・・という主張は行き先を「極楽」から「何処かわからないところ」nowhereと置き換えても良いだろう。極端にいうと死ねば総て終わり、という考え方にもつながるかもしれない。そして「死後のことは阿弥陀さんが善処してくれる。立派な葬式やその後の追善供養も意味なし」ということが論理的帰結になるのである。

もっともこれではビジネスとしての浄土真宗は上がったり、宗派の方はこのような激論は述べないだろうが。

少し話が長くなったが、簡素でかつ意味のある葬式や揉め事の少ない相続を行うには、この世の後の世界について確固たるビューを持つことが必要なのだ、と考えている。そして私流に解釈した親鸞上人の教えは、科学的合理的でよく馴染むのである。

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