金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

思い思いに走る馬が流れを変える

2019年01月09日 | リーダーシップ論

伝記物を読んでいて、リーダーシップについて学ぶことがある。

たまたま永井路子の「岩倉具視」の中で見つけた言葉もその一つだ。

「一台の馬車につけられた数頭の馬が、思い思いの方向に車を引張ろうとするように、一人一人が主役のつもりでひしめきあい傷つけあううちに、いつの間にか流れがかえらえてゆく」

正確にいうことこの文章は永井が初めて出した「炎環」のあとがきにある文章ということだ。

永井は岩倉具視の人生を見つめながら、明治維新は少数の英雄が作り出したものではなく、思い思いの方向に走ろうとした群像によって作られたのだろうと述べる。

この一文から何を学ぶか?

一つの答は「活力ある企業を作るには馬~役職員ー~を自由に走らせる」ということだ。思い思いの方向に走ろうとするから馬は力を出す。思い思いの方向は合成されるとあるベクトルを生む。もっとも思い思いの方向が真逆に向いていると打ち消されてベクトルは生まれない。組織のリーダーは自分が描いている方向と正反対の方向に走ろうとする馬は馬車から外さざるを得ないが、多少の方向のズレであればむしろ力一杯走らせた方が良いのだろう。

活力のある社会は、方向感にズレがあっても元気な馬をどれだけ馬車につけることができるかどうかで決まるのだ。

このことはアマゾンやグーグルなどアメリカのIT企業が大きな成果を上げていることを想起すると納得がいく。

もし相対的に今の日本の社会が活力に乏しいとすれば、それは方向感は多少ずれているかもしれないけれど力のある馬が早々と馬車から外されていることにあるのではないだろうか?

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みずほの西堀頭取辞任記事雑感

2011年04月25日 | リーダーシップ論

土曜日の朝日新聞に「大規模なシステム障害のため、みずほ銀行の西堀頭取が6月にも辞任する」という観測記事が流れた。土曜日の朝日新聞は読んでいなかったが英文ロイターに朝日の記事が引用されたので知った次第。

私は西堀頭取とは面識がないが、彼は高校(京都教育大学附属高校)の2年後輩であり、かつワイフの同級生である。ワイフによると「高校時代は優秀だったと思うけど目立たない人だった」ということだ。歴史の浅い高校(私が第2期生)の中では、ビジネス界の一つの頂点までいった人物といって良いだろう。不本意と思われる辞任(今のところマスコミ人事だが)に同情と同窓生としての寂しさを感じざるを得ない。

ところで「みずほのシステムトラブルの本質的原因は何だろう?」ということを少し考えてみた。

朝日の記事によると古いシステムを改善せず、トラブルを想定した体制も整えていなかったことがわかり、被害を広げた経営の責任は免れないと判断した。

トラブルを想定したマニュアルや体制が整っていなかったため、復旧作業が混乱。他のシステムも止めて入出金を確認しなければならなくなり、障害が全体に広がった。

約20年使っているシステムの老朽化に対応してこなかったため、最新システムと違ってプログラムが複雑なままだった。これも復旧を難しくさせた。

ことが指摘されている。

これだけを見るとシステム面の体制不備が問題の根幹ということになるが、私は業務や商品面の整理・統合が進んでいないことがより問題の本質ではないか?と推量している。

銀行システムに限らず、システムは万能手段ではない。システムは商品やサービスを「自動処理化」したものであり、システムを合理化するには、まず商品やサービスを合理化し、無駄を省いていかなければならない。システムの限界を考えながら商品やサービスの設計を考えないとシステムに負荷がかかり過ぎる場合がある。

例えば日本の銀行統合が米国の銀行統合などに較べて大変なのは、通帳があったり(米国では通帳がなくステートメント方式)、高度なATMが存在するからだ。

そしてそれ程違いがあるとも思われない金融商品が並列的に沢山存在する。それらを全部システムで賄うとすると、システム面の人材・予算はどんどん逼迫する。

つまりみずほ銀行のシステムトラブルの本質は、商品やサービスの整理・合理化が遅れていたことの帰結というのが私の推論である。別の言い方をするとロジスティクス軽視のツケともいえる。

みずほのシステムトラブルの直接的な原因は震災義捐金振込みが集中したと言われている。ある意味ではみずほも震災の被害者ではあるのだが、東電と同じくロジスティクスを軽視したオペレーションのツケが回ったともいえる。

西堀氏の不本意に辞任からみずほGの人達は何を学ぶことができるだろうか?

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人生の主導権を取り戻せ

2006年05月29日 | リーダーシップ論

今朝の日経新聞「会社の金言」というコラム欄に大新東(ジャスダック・車両運行)の川島隆明会長が常々社員に「人生の主導権を我が手に取り戻せ」と説いていると書いてあった。日経の記事は「オーナー企業では時に経営がトップ任せになり、社員が自分で考える習慣が失われる」「自分で考えたことを議論してこそ会社も社員個人の人生も豊かになると(会長は)いう」と続ける。

この記事だけでは川島会長が「会社の中で自分の意見を言え」といっているのか「個人の人生の中で会社と個人生活のバランスを取り社畜にならず、人としての主導権を取り戻せ」と言っているのかは良く分からない。前者であれば極当たり前の会社における訓示だろうが、後者であるとすれば中々の卓見だと言いたい。

ここでは後者ということにして話を進めよう。人生の主導権を取り戻せということについては先人の名言が幾つもある。一つは「随所に主たれ」という禅語だ。

兼好法師の徒然草にも幾つかの言葉が出てくる。世俗の黙し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。」

要は俗事に追われていると人生は空しく終わってしまうというのだ。これは徒然草を貫く主題だろう。しかしこれは事業主側にとっては危険な思想であるかもしれない。つまり真に人生の主導権を取り戻そうとすると、会社のことより私生活の方が大事という人間ばっかりになってしまうかもしれない。一方妻や子供達をそこそこに満足させ家庭の中でも、ある程度の信頼と尊敬を得ていくには仕事人として、きっちりした仕事をしていなければならない。

自分の会社の目先の儲けだけを考えても、社会との調和が取れなければ事業は長続きしない。

このようなことから私は人生はバランスだと考えている。仕事人として家庭人として市民として一個人としてのそれぞれの局面で主体的に生き、バランスを取っていく。日本人の一人一人がそういう生き方を大切にする時、この国は良い方向に向かうと考えている。

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リーダーの器量(8)~国政を担う人達を見て~

2005年12月18日 | リーダーシップ論

先週金曜日12月16日、キャピトル東急ホテルで開催された衆議院議員金子一義君を励ます会に参加する機会があった。金子議員さんとは国務大臣の経験もある岐阜4区選出のベテラン議員さんで今年9月の総選挙で最激戦区の同区を勝ち抜かれた人である。金子議員さんとはちょっとしたご縁から飛騨の温泉でご一緒にお酒を頂く機会がありその関係から今回の励ます会に参加した次第である。励ます会には安倍官房長官、谷垣財務大臣、武部幹事長、竹中総務大臣、中川政調会長等自民党・政府の大物政治家が大勢お祝いに駆けつけてこられて金子議員の政界での重みを改めて認識した。又私にとってこれだけ沢山の大物政治家を一度に目の前にすることは初めてのことだけに興味深いものがあった。

まず大物政治家の方のスピーチを聞いて印象に残る点を挙げてみよう。

  • 話が上手く(内容の良し悪しでは別にして)聞き手を惹きつける力がある
  • 声が良く通る
  • 主役(この場合金子議員)を守り立てながら自分の宣伝もする
  • 政治に対する真摯な気持ちが伝わることがある

人は見た目が9割という本が最近売れている様だが、政治家は実に見た目が10割だろう。いくら内容のある話をしても自信というかオーラのようなものが伝わらないと全くだめなはずだ。と同時にある種の純真さのようなものも伝わらないといけないが、何人かの政治家の方からは純真さのようなものを感じた。

実は私にとって金子議員さんが少人数でお酒を酌み交わしながらお話をする機会があった初めての議員さんであるが、そのフランクで気さくで偉そうぶるところのない人柄には大変魅力を感じた。それまで政治家というものは選挙の時以外は横柄・傲慢な人だろうという印象があったが金子議員さんとお会いして一概にそうとは言えないという気持ちに変わっていた。

ところでこの日の政治家の皆さんのお話の中で一番印象に残ったのは(金子議員さんのお話以外で)、中川政調会長の話である。話というの単純で「自分には孫が5人いる。この孫のために何とか日本を良い国にしたいので自分は政治をやっている」というものだ。しかし中川さんが下駄みたいな顔で真面目にいうと「やっぱりこの人達、国のことを真剣に考えてくれているのだなぁ」という気持ちになるから面白い。

ところで良い国とはどんな国か?一人当たりGDPが高い国か?平均寿命が長い国か?無論それらは良い国の要素の一つではある。しかし最も大切なことではない。最も大切なことは国民が将来に希望が持てる国であることではないだろうか?

最近の調査によれば日本の若者は他の主要国の若者に比べて将来に対する見通しが際立って悲観的であるという。これでは良い国とは言えまい。

国政を担う方々には是非若者が将来に対して明るい気持ちを持てる国を作るべく旗を振っていただきたいものである。それにしても金子議員さんのようにさわやかな人柄と金融面等に詳しい知識を持った方が国政を担っていることを実際に知る機会があったは私にとって幸せであった。それは日本の政治に対して以前よりポジティブな気持ちになったからである。

                                                         以上

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リーダーの器量(7)~正しいだけでは人は動かない~

2005年11月22日 | リーダーシップ論

賞与査定の季節である。日本の会社では大体この時期に勤務員の業績考課を行なって賞与額を決める。査定時に上司は部下を面接するが、私は時々次の様な話を聞くことがある。それは自分は正しいことを言っているのに部下が聞いてくれないという話だ。今日はこのことに関する私の意見を述べよう。

切り口は3つある。一つは「人は言葉ではなく、心やそれ以外のものでしか動かない」ということ。次は「目的の正しさは一つでもそれを達成する手段は複数ある」ということ。最後は「実社会で正しい・正しくないと白黒が付くことはそれ程多くない」ということだ。

最初の点について最近「人は見た目が9割」(竹内一郎著・新潮新書)という本を読んだが、その中にちょっと良いことが書いてあるので引用しよう。

ついついコミュニケーションの「主役」は言葉だと思われがちだが、それは大間違いである。実は九割以上が、見た目その他だということが分かっている。多くの人が実は「人を見かけで判断」しているのだ。・・・・・私たちは「本をたくさん読む人」の中に、人望もなく、仕事もできず、社会の仕組みが全く理解できていないと思える人がたくさんいることを知っている。・・・私たちは、そういう人の意見を聞くと、こんな反応をしたくなる。「あなたの言うことの意味は分かるけれど、あなたには言われたくない」

つまり仕事の上で正しいことを言っても、コミュニケーションのベースができていないと相手は、拒否反応を起こすのである。ではコミュニケーションのベースとは何か?その基本は相手の気持ちを理解することである。「コイツは会社や自分のことだけでなく、俺のことを思ってくれているな」という信頼関係がないとコミュニケーションは成り立たない。

次に正しい目的を達成する手段は複数存在することが多いということだ。例えばA地点からB地点に行く時複数のルートが存在する様に。この様な場合私はルートの選択は基本的に部下に任せている。明らかな遠回りでない限り自分の好きなルートを選ばせている。部下はそうすることで、自分の選択に責任を感じベストを尽くす様になるのだ。反対に細か過ぎる指示を与えると部下はやる気をなくしてしまう。ところがこの機微が分からず細かいことまで指示をすることを上司の仕事と考えている人間が実に多いのが実情だ。

最後は実社会で正しい・正しくないが予めはっきりしていることはそれ程多くないということだ。もし正しい・正しくないが予めはっきりしていれば、潰れる会社など余りないだろう。ところが実際は事業に失敗したり、信じて貸したお金が返ってこなかったりすることが実に多いのだ。「俺の言うことは正しい」などと言う人間を私は基本的に信用しないのである。私は精々「この場合私のいうことが正しい確率が高そうである」という言い方をすることにしている。従って自分の考えが外れる場合の対策等を立てることができるのである。根拠のない自信からは何も生まれない。

以上再度まとめて言えば自分は正しいことを言っているのに部下が聞いてくれないと嘆く前に次の点を自省する必要があるだろう。

あなたはコミュニケーションのベースが出来ているのか?

あなたが正しいと主張することは本当は五十歩百歩程度のことでどうでも良いほどのことではないのか?

あなたが正しいと主張することは本当に正しいのか?もし正しいとすればそれを説明する責任があるがあなたはそれを行なっているのか?

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