金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

なぜ日露戦争では勝つことができたのか?(2)~諜報活動の勝利

2024年10月13日 | 歴史
 日本がなぜ大国ロシアに勝つことができたのか?というのは、興味深いテーマで、おそらく五つや六つの要因をあげることはそれほど難しくはないでしょう。
 その切り口は例えば「孫子」の中にあります。孫子は最初に「始計第一」で「相手の自分の戦力差を比較するとき、5つのことについて調べ、比較する必要がある」と述べています。
 それは「道 つまり道義」「天 天の利」「地 地の利」「将 指揮官」「法 組織 軍隊の規律」です。
 もう一つ加えるならば「諜報活動の巧拙」でしょう。孫子は用間(スパイ)編で「爵禄百金をおしんで敵の情を知らざるものは、不仁の至りなり。人の将に非ざるなり」と喝破しています。
 つまり戦争をすれば、巨額の戦費が費やされ、多くの命が失われる。そこで戦闘行為をできるだけ少なくして、戦わずして勝つことを目指すのが孫子の兵法の真骨頂であり、そのためには、敵の情報を入手し、さらにはスパイ活動により、相手の戦闘能力を削ぐことが重要だと述べているのです。
 日露戦争では、諜報活動面で活躍した代表的な人物は、日清戦争の前にベルリンからウラジオストックまで単騎横断し、この地域の詳細な情報を収集した福島安正少将(日露戦争開戦当時)でした。参謀本部次長の児玉中将と福島少将は、世界各国にめぐらした情報網で得た情報を分析し、「緒戦の勝利で、戦時外債の募集を容易にし、長期戦継続能力がないので早期の講和を図る」というシナリオに至ったのです。
 またスパイ活動としては、ペテルブルクにいた明石元二郎大佐が、参謀本部の指令を受け、ロシア帝国内の反政府メンバーを焚きつけ、革命運動を起こさせたことが有名です。
 つまり日本がロシアに勝てた理由の一つは「情報収集の徹底と分析に基ずく現実的判断とスパイ活動による後方攪乱」にあったのです。
★   ★   ★
しかし「情報収集と徹底」や「情報分析に基づく客観的かつ現実的判断」というリーダーの最も重要な役割は、太平洋戦争では失われました。
 そして開戦当時は「鬼畜米英」のスローガン、敗戦色が濃くなると「一億玉砕」などと現実離れあるいは目的と手段が倒置したスローガンが掲げられたのです。
孫子の言葉を借りるならば、当時の日本のリーダーは「不仁の至り」で「人の将に非ざるなり」ということになります。

 
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なぜ日露戦争では勝つことができたのか?(1)~勝てない戦いには突入しない

2024年10月13日 | 歴史
 今日(10月13日日曜日)もNHKの「坂の上の雲」がありますね。楽しみにしています。
 日露戦争開戦時の日露の国力差は、ロシアの国力は日本の10倍と言われていました。10倍の国力差というのは、日米開戦時の日米の国力差より大きかったかもしれません。それにもかかわらず日露戦争では日本はロシアに勝つことができました。なぜ日本は勝つことができたのか?ということを考えながら「坂の上の雲」を観ることは、緊張高まる東アジアの情勢を考える上で今日的な意味もあるでしょう。
 まず最初に「戦争とは血を流す外交であり、外交とは血を流さない戦争である」というクラウゼビッツの言葉から考えてみましょう。
 隣り合う国がお互いに発展しようとする時、国益が衝突する場合があります。
 大概の場合、いきなり戦争が始まるのではなく、外交交渉があります。クラウゼビッツの言葉では「血を流さない戦争」が始まっているのです。外交交渉は2国間だけの交渉には留まりません。第三国を自陣営に引き入れることで、身の丈を大きくし、相手の戦意を挫くことも重要な戦術です。
 しかしそれでも交渉がまとまらない場合、少なくとも日露戦争当時は戦争で決着すること、つまり交戦権が認められていました。
 では外交交渉がまとまらなければ、すぐ戦争に訴えて良いのでしょうか?
 そんなことはありません。戦争哲学の名著「孫子」はまず最初に「軍事は国家の命運を決する重大事であるから、自国と相手国の優劣を多面的に検討し、勝てると判断してからでないと戦争をしてはいけない」と教えています。
 日露戦争前に日本の政府や軍部の首脳は「日本にはロシアを相手に長期戦を戦う体力はないから、緒戦でロシアを叩き、早い段階でアメリカに依頼して和平交渉に入る」という出口戦略を立てました。
 そして幾つかの戦闘では、戦術ミスによる苦戦はあったものの、全体としては、この出口戦略に沿い、戦争目的(ロシアの満州や朝鮮半島への進出を止めること)を達成しました。
 この戦略の要になったのが、開戦前に参謀次長についた児玉源太郎陸軍中将でした。児玉は当時台湾総督や内務大臣を兼務していましたから、参謀次長は格下の官職なのですが、彼はそんなことに頓着せず、対露戦略の実行に邁進しました。
 開戦前は世界の外債市場では、ロシア有利というのが大方の見方でしたが、戦端が開かれ、日本軍の進軍が進むと日本の戦時国債が売れるようになりました。
日露戦争はきわどい戦争で幾つかの幸運により日本が勝利を得たことは事実ですが、決して無謀な戦いではなかったと思います。日本がかろうじてロシアに勝つことができたのははっきりした出口戦略を持っていたこととそれを実行する小村寿太郎など優れた外交官を持っていたからです。戦争の勝敗は戦場で決まりますが、戦争の勝敗を国益に結びつけるのは、外交の力なのです。孫子は戦闘で勝ってもその成果を国益に結びつけないことを『費留』(国力の浪費)と厳しく批判しています。日露戦争では、多くの将兵の血が流れましたが、費留にはならなかったといえると思います。


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「坂の上の雲」~なぜ日露戦争では勝利し、太平洋戦争では負けたか~

2024年10月10日 | 歴史
 先月NHKスペシャル「坂の上の雲」の再放送が始まりましたね。
 十数年ぶりに見る大作。見ごたえがありますね。ドラマだから楽しく観ればよいのですが、何か切り口を持って観るというのも面白いと私は考えています。

 今回私が持ち出した切り口は、なぜ日本は日露戦争では勝利することができたが、太平洋戦争では完敗したか?ということです。
 戦争の開戦時の国力差は、ロシア、アメリカとも日本の10倍くらいはあったと思います。しかしなぜ一方では勝利し(もっともギリギリの勝ちでしたが)、一方では完膚なきまで打ちのめされたか。
 こんな研究はすでにたくさんなされていると思いますが、自分なりに考え、その原因を見つけることは、おそらくこれからの日本の外交・国防・安全保障を考える上で役に立つでしょうね。
 すこしずつ考えていきたいと思います。
 
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鳥居強右衛門(すねえもん)子孫のその後

2023年06月04日 | 歴史
 今日(6月4日日曜日)のNHKドラマ「どうする家康」は、至上名高い長篠合戦の前夜の話です(私はBSで午後6時から観ました)。
 武田軍に包囲された長篠城から救援を求めて、脱出し岡崎城に向かった鳥居強右衛門。織田軍3万人の応援を合わせて、織田・徳川連合軍(合計3万8千人)が、長篠城救援に向かうという情報を持って長篠城に戻ろうとします。
 ところが城を包囲する武田軍に捕まります。「救援はこない」と城に向かって叫べば「命を助け雇ってやる」と言われたのですが、それに従わず城に向かって「連合軍の助けは来るからもう少し頑張れ」と叫び、磔になってしまいました。
 写真は鳥居強右衛門が磔になった現場のもので2週間ほど前長篠に行った時撮影したものです。
その場所は豊川の深い崖をはさんで長篠城と対峙していました。田んぼのあぜ道の先にあるモニュメントで日頃は訪れる人も稀のようでした。
私が気になっていたことは「鳥居強右衛門はどのような動機でこのような危険な任務を引き受けたのか?」ということでした。
 それについては主君の奥平貞昌が「万一の場合は子どもの面倒は手厚く見るから安心しろ」と言ったという話を聞いたことがあります。
 ウイキペディアによると奥平貞昌やその子孫は鳥居強右衛門の子どもや子孫を優遇し強右衛門の子孫は今も続いているということでした。
 そこはもう大河ドラマの射程距離を超えた話ですが、戦国の美談として一命を賭して主家の危機を救うという話は目にします。
 でもそれは単なる美談ではなく、そこに一命を賭す替わりに子孫に生活保障や所得補償を行うという一種の契約があったのでしょうね。
 少なくとも戦国時代は主君と家来の間には双務契約的な了解があったと考えるべきだと思います。鳥居強右衛門の話もその文脈で考えるべきでしょうね。
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20数年ぶりに設楽原古戦場を訪ねた

2023年05月22日 | 歴史
20数年ぶりに長篠城と設楽原の古戦場を訪ねました。
乳岩峡(ちいわきょう)と茶臼山を訪ねた帰りに、名古屋の友人の車で立ち寄ったのです。前回訪れたのは1999年の秋か2000年の春です。なぜ具体的な年を覚えているのか?というとこの時期名古屋の支店長として赴任しており、幾つかの古戦場を回った記憶があるからです。
 その時も長篠城跡と設楽原古戦場を見学したのですが、四半世紀近く経つと細かい記憶は消えているもので、新鮮な眼で史跡を見ることができました。
長篠城北面の堀の跡です。城の南面は宇連川が深い峡谷を形成し容易に攻め手を寄せ付けませんが、北面の方が攻め易いと思いました。
南面の宇連川の土手の上に鳥居強右衛門磔死の碑がありました。
大河ドラマ「どうする家康」で長篠城の攻防や強右衛門の活躍をどのように描くか興味がありますね。
長篠城から約4km離れたところに設楽原古戦場があります。ここには設楽原歴史資料館があります。この資料館が保有している火縄銃の数は日本一とか。
写真は馬防柵。水田の向こう側から武田軍が突撃してきました。

戦いは大量の火縄銃と長大な馬防柵を巧みに活用した織田・徳川連合軍の勝利で終わりました。
 なおこの設楽原の戦いでは連合軍5千人、武田軍1万人の戦没者が出たと伝えられています。この狭い土地に1万5千人の遺体が累々と並ぶ光景は壮絶なものでしょうね。大量の遺体はこの地に掘られた穴に埋められたと言われています。この話を聞くと450年前の戦いが生々しく想起されますね。




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