金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

鳥居強右衛門(すねえもん)子孫のその後

2023年06月04日 | 歴史
 今日(6月4日日曜日)のNHKドラマ「どうする家康」は、至上名高い長篠合戦の前夜の話です(私はBSで午後6時から観ました)。
 武田軍に包囲された長篠城から救援を求めて、脱出し岡崎城に向かった鳥居強右衛門。織田軍3万人の応援を合わせて、織田・徳川連合軍(合計3万8千人)が、長篠城救援に向かうという情報を持って長篠城に戻ろうとします。
 ところが城を包囲する武田軍に捕まります。「救援はこない」と城に向かって叫べば「命を助け雇ってやる」と言われたのですが、それに従わず城に向かって「連合軍の助けは来るからもう少し頑張れ」と叫び、磔になってしまいました。
 写真は鳥居強右衛門が磔になった現場のもので2週間ほど前長篠に行った時撮影したものです。
その場所は豊川の深い崖をはさんで長篠城と対峙していました。田んぼのあぜ道の先にあるモニュメントで日頃は訪れる人も稀のようでした。
私が気になっていたことは「鳥居強右衛門はどのような動機でこのような危険な任務を引き受けたのか?」ということでした。
 それについては主君の奥平貞昌が「万一の場合は子どもの面倒は手厚く見るから安心しろ」と言ったという話を聞いたことがあります。
 ウイキペディアによると奥平貞昌やその子孫は鳥居強右衛門の子どもや子孫を優遇し強右衛門の子孫は今も続いているということでした。
 そこはもう大河ドラマの射程距離を超えた話ですが、戦国の美談として一命を賭して主家の危機を救うという話は目にします。
 でもそれは単なる美談ではなく、そこに一命を賭す替わりに子孫に生活保障や所得補償を行うという一種の契約があったのでしょうね。
 少なくとも戦国時代は主君と家来の間には双務契約的な了解があったと考えるべきだと思います。鳥居強右衛門の話もその文脈で考えるべきでしょうね。
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20数年ぶりに設楽原古戦場を訪ねた

2023年05月22日 | 歴史
20数年ぶりに長篠城と設楽原の古戦場を訪ねました。
乳岩峡(ちいわきょう)と茶臼山を訪ねた帰りに、名古屋の友人の車で立ち寄ったのです。前回訪れたのは1999年の秋か2000年の春です。なぜ具体的な年を覚えているのか?というとこの時期名古屋の支店長として赴任しており、幾つかの古戦場を回った記憶があるからです。
 その時も長篠城跡と設楽原古戦場を見学したのですが、四半世紀近く経つと細かい記憶は消えているもので、新鮮な眼で史跡を見ることができました。
長篠城北面の堀の跡です。城の南面は宇連川が深い峡谷を形成し容易に攻め手を寄せ付けませんが、北面の方が攻め易いと思いました。
南面の宇連川の土手の上に鳥居強右衛門磔死の碑がありました。
大河ドラマ「どうする家康」で長篠城の攻防や強右衛門の活躍をどのように描くか興味がありますね。
長篠城から約4km離れたところに設楽原古戦場があります。ここには設楽原歴史資料館があります。この資料館が保有している火縄銃の数は日本一とか。
写真は馬防柵。水田の向こう側から武田軍が突撃してきました。

戦いは大量の火縄銃と長大な馬防柵を巧みに活用した織田・徳川連合軍の勝利で終わりました。
 なおこの設楽原の戦いでは連合軍5千人、武田軍1万人の戦没者が出たと伝えられています。この狭い土地に1万5千人の遺体が累々と並ぶ光景は壮絶なものでしょうね。大量の遺体はこの地に掘られた穴に埋められたと言われています。この話を聞くと450年前の戦いが生々しく想起されますね。




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現在の北朝鮮と戦前日本のある相似点

2017年09月14日 | 歴史

最近「飛行機の戦争1914-1945」(一ノ瀬 俊也 講談社現代新書)を読んだ。丹念に原資料に当たりながら「日本軍=大艦巨砲主義」という常識を覆そうとする力作だと思った。

著者はあとがきの中で「本書に何か現代的な意味があるとすれば、一国の戦争はその国民の同意なしには不可能であり、軍や政府は人びとの傍観を決して許さずにその手法や勝ち目についての啓蒙、説得をつねに試みる、強制はあくまでも最後の手段であるということだ。」と述べている。

本文の中に近衛文麿の有名な論文「英米本位の平和主義を排す」からの引用があった。「近衛の主張は、第一次世界大戦後における米英が自分の都合のいいように押した立てた『国際連盟、軍備制限」という旗印に日本をはじめとする他国がうかうかと乗ってしまえば武器を取り上げられ、あたかも従順な羊の群れのように英米に従うほかなくなるだろう、というっものであった。」「近衛にとって軍備とは、貧しい日本が厳しい国際環境のなかを生きぬくために必要不可欠なものだったのである。」

この文章を「近衛→金正恩」「第一次世界大戦→朝鮮戦争」「米英→米国」「国際連盟→国際連合」「軍備制限→朝鮮半島の非核化に関する共同宣言・核兵器不拡散条約」「貧しい日本→北朝鮮」「軍備→核・ICBM」と読み替えると今日の北朝鮮の主張そのものになる。

私は近衛の主張や北朝鮮の主張を是とするものではない。戦前に日本には他の選択肢があったし、現在の北朝鮮にも他の選択肢がある。

また現在の北朝鮮と戦前の日本では異なる点が非常に多く、同じ土俵で論じることはできない。

ただし「国民を啓蒙する手段として同じロジックが使われている」ことは興味深い。

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真田幸村・直系子孫の方のお話を聞いてみませんか?

2016年04月02日 | 歴史

中々人気が高い今年のNHK大河ドラマ「真田丸」。

主人公の真田信繁(幸村)と長男・大助は大阪夏の陣で戦死しました。しかし次男の大八が東北仙台で生き残り、現在まで命脈をつないできたことはあまり知られていません。

その真田家の当主・真田徹氏が、5月14日(土曜日)一般社団法人 日本相続学会・甲信越ブロックが長野県・松本市で開催するオープンセミナーで講演を行われます。ご案内はこちら

歴史好きなものとして聞いてみたいと考えています。

何故大八は仙台で生き残ることができたか?

それは真田幸村と伊達政宗の間にある密約があったからではないか?と真田徹氏は考えておられます。

これ以上お話するとネタバレになりますので、ご関心のある方は「真田幸村の真実」をお読みください。

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「杉原千畝」からインテリジェンス問題を考えた

2015年12月12日 | 歴史

映画「杉原千畝 スギハラ チウネ」を見て、駐ドイツ大使大島浩について感じたことは前のブログで書いた。

今は更にそれを広げて、戦前の日本のインテリジェンス問題を考えてみた。まずインテリジェンス=情報活動は、二つのレベルに分けられる。英語でいうとインフォメーションとインテリジェンスである。インフォメーションは集めてきた生情報であり、データである。その生情報を分析・加工し、政策の企画・立案のための知識に高めたものが、インテリジェンスである。

非常に大雑把にいうと、戦前の日本は英米に較べ、インテリジェンスを使って政策決定を行うことがうまく機能しなかったといえる。そのことを独ソ開戦前夜の動きを見ながら考察してみたい。

【年表】

1939年8月23日 独ソ不可侵条約締結

1939年8月28日 杉原千畝 リトアニアのカウナスに領事として赴任

1939年9月1日 ナチス・ドイツ、ポーランドに侵攻

1939年9月17日 ソ連、ポーランドに侵攻

1940年6月14日 ナチス・ドイツ、パリに無血入城

1940年6月15日 ソ連、リトアニアに進駐

1940年7月18日 杉原 千畝、ユダヤ人にヴィザ発給開始

1940年8月31日 杉原 千畝、リトアニア退去

1940年9月27日 日独伊三国同盟締結

1941年4月18日 大島大使、杉原等の情報を元に「独ソ開戦が近い」という警告電報を東京に打電

1941年6月22日 独ソ開戦開始

「日本軍のインテリジェンス」(小谷 賢)によると「インテリジェンスを担当する参謀本部第二部や海軍軍令部第三部は、独英戦争におけるドイツの優位をそれ程強調せず、特に第三部は英空軍を善戦を強調し、損害は独空軍側が大きいと主張していた」「しかし。ここれらの情報は、英米に偏り過ぎた情報、もしくは『雑音』として処理され、大島浩駐独大使をはじめとするベルリンからの親独的な情報ばかりに注目が集まっていたのである」ということだ。

大島は1941年4月に独ソ開戦が近いという情報を打電するが「(ソ連から)帰国した松岡外相が否定的であり、陸海軍も独ソ開戦せずという空気であったので、そのまま見送られた」

一方5月に大島電報を解読した英国のチャーチル首相は米国のローズヴェルト大統領に「ドイツの対ソ攻撃が迫っている。もし新たな戦線が開かれれば、我々は対独戦争のためにロシアを援護するべきだろう」という秘密書簡を送った。

日本の政府首脳や軍部は「客観的事実に基づいた判断」ではなく、「独ソ開戦はない(だろう)から、日米開戦もない(だろう)という自分にとって都合の良いシナリオにそって情報を取捨選択」したのである。

日本が第二次世界大戦に踏み込んだ大きな理由はドイツの軍事力(戦力+国力)を過信し、かつその野望(ソ連との戦争)を見抜けなかったことにあるといっても良いだろう。

「杉原 千畝」はインテリジェンスの重要性を改めて考えさせる映画である。

なおインテリジェンスが重要なのは戦争や政治の世界だけではない。我々の回りにも「儲け話」のような怪しい情報は飛び交っている。生の情報を鵜呑みにするのではなく、それをインテリジェンスに高める情報処理能力がないと情報氾濫時代を無事に乗り切ることは難しくなっているのである。

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