南スーダンでのPKO活動に関する日報問題で稲田防衛相が辞任した。
稲田防衛相については、都議選強の応援演説等でも不適切な発言があり、資質の面からも防衛相は不適任と判断されるので、辞任は当然だと私は思っている。日本で防衛相が辞任し「空白」が生じた時、たまたま北朝鮮がICBMの発射実験を行った。
北朝鮮は朝鮮戦争の休戦記念日にICBM実験を行うと観測されていたから、稲田防衛相の辞任は「たまたま」だったに過ぎない。
しかし北朝鮮が全米の主要都市をICBMの射程圏に置く実験に成功したという衝撃的なニュース(ただし核弾頭を実装するにはもう少し時間がかかるそうだ)を前にして、国防問題の素人を自衛隊のトップに据えることに不安を覚える人は多いのではないだろうか?
日本が頼りとする米国の国防長官はジェームス・マティスという退役海兵隊大将。アメリカ中央軍司令官などを歴任したいわば戦争のプロだ。日米韓が協力して、北朝鮮のICBM問題に対処するべき時に、国防問題に関する知見の乏しい人物をカウンターパーティの防衛相に任命することは好ましいことではないと私は考えている。
ここで考えないといけない問題は「文民統制」であろう。文民統制という考え方は本家のアメリカでも強い。米国の国家安全保障法は、国防省のトップは文民でなければならないとし、軍人は退役後7年間は国防長官になれないとしている。
しかしマティス氏の場合は、退役後7年経過していないので、大統領がこの条文に対するウエイバー(制限解除)を議会に求め、議会は多数決で承認した。上院においては、圧倒的多数がマティスの国防長官就任を承認したというから、政治的駆け引きの材料にはならなかったということだ。
日本では民主党政権時に元航空自衛官の森本敏氏が防衛大臣に任命されたことがある(他にも元陸上自衛官の中谷元氏が防衛大臣に任命されたことがある)。森本氏については「初めて防衛大臣に民間人が任用された」と話題になった。民間人という意味は政治家でないという意味だったが・・・
私は国防で(他のことでもそうだろうが)大切なことは、言葉遊びをせずに、事実を直截に国民に伝えるということではないか?と考えている。南スーダン問題の発足は「現地派遣PKO部隊が戦闘行為があったと報告したのに対し、稲田防衛相が戦闘というと憲法違反になる可能性があるので、武力衝突という言葉を使った」ことにあるのだろう。
国際紛争は生き物であり、PKO部隊派遣当時に紛争問題が解決していたとしても、再発の可能性はある。その事実を歪めてはいけないだろう。国民もまた紛争や戦争は相手のある話で、日本側の規定どおりに動くものではないことを理解する必要がある。臨機応変が必要なのだ。
現地の司令官は隊員の安全を守り、任務を遂行するためには、現実的に対応する必要がある。ただその対応がルールを超えた場合は、後で必要な説明行う義務を負っていると考えるべきなのだ。そしてそのルールが現実に合わない場合はルールを変えるべきなのだ。現実は事実であり変えることはできないのだから。
その説明責任をアカウンタビリティという。
医者・弁護士等専門家と呼ばれる職業に求められるのは、このアカウンタビリティだ。医者や弁護士が顧客のために行った行為の最終責任は顧客が負うことになる(手術の結果は医者ではなく患者が引き受けなければならない)。
同様に政治家が決めたことの最終責任は総て国民が負うのである。ゆえに政治家は意思決定について、国民に対する説明責任があるのだ。
専門家の責任の取り方は辞職すれば済むというものではない。
政治家はこのアカウンタビリティを放棄して、言葉の遊びに陥ってはいけない。
国家に安全保障上のリスクが高まっている現在必要なのは防衛相に国防の専門家を持ってくることだろう。
それは必ずしも、自衛官出身者の任用を意味するものではないが、紛争・軍事的衝突が発生した時、現地の司令官があげる報告をきちんと受け止め、国民に必要な説明を行う能力と責任感のある人物を任用して欲しいものであると思う。