金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
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日本橋七福神めぐり

2015年01月04日 | まち歩き

1月4日晴時々曇。娘たちがそれぞれの家に戻り、夫婦二人で暇なものだから、日本橋に七福神めぐりにでかけた。私達夫婦は正月に時々七福神めぐりに出かけている。これまで行ったところは、向島七福神、川越七福神、東久留米七福神などだ。「日本橋七福会」がくれたパンフレットによると、「七福神への信仰は室町時代より始まったといわれ、500年にわたって日本人に受け継がれ、年々益々盛んになっております。」ということだ。

七福神めぐりが「信仰」なのか?どうかは後程考察するが、現在かなり盛んであることは間違いないだろう。

日本橋七福神の各神社は小さくて2名が一度に参拝するのがギリギリだから、各神社で20分近く参列に並んだ。「日本橋七福神は(各神社の間隔が近いので)日本で一番巡拝が短時間にできるという特徴を持っている」(パンフレット)そうだが、待ち時間を考えると日本で一番短時間に巡拝できると断言できるかどうか私は多少疑問に思う。

さて本題の七福神めぐりが「信仰」なのか?どうかということを少し考えてみよう。それには宗教に「濃いレベル」と「薄いレベル」があるという補助線を引いて考えると分りやすい(これは宗教研究家の中村圭志氏の著書・「教養としての宗教入門」中公新書を参考にした)。

「濃いレベル」というのは信仰の世界であり、「薄いレベル」というのは、知識や習慣のレベルで社会に受け入れられている宗教的文化のことだ。「世界の諸宗教を見渡してみると、ほとんどの人はそれほど濃厚な信仰を持っていない。アメリカの大統領は就任の際に際に聖書に手を当てて宣誓するが、これは大統領個人の内面的な信仰とは無関係の、社会的儀礼である」と中村氏は述べている。

後段の部分については疑問が残らない訳ではない。つまりキリスト教を信仰していない大統領がアメリカで受け入れられるかどうか疑問だからだ。しかし宗教的慣習をかなり厳格に実践している人が「濃いレベル」でその宗教を信仰しているかどうかは分らない、ということについては体験したことがある。昨年秋にネパールに行った時、親しくしているネパール人の家でディナーをご馳走になったことがあった。その日、ヒンドゥー教徒は「肉を食べない日」に当たっていたので、我々にはチキン料理が振る舞われたが、ホストのネパール人夫婦は野菜だけを食べていた。私が「あんた達は本当に堅ヒンドゥー教徒なんだね」というと、夫は「いやそうとは限らない。我々はむしろダイエットの感覚で、肉を食べない日や、昼間食事をしない日を受け入れている」と答えた。

江戸時代に盛んになった言われる「七福神めぐり」についても、私は正月に飲み食いして運動不足になりがちだった江戸の商人や文人墨客が腹ごなしの散歩目的で始めたのが、「七福神めぐり」なのだろうと考えている。

いわば非常に「薄い宗教」活動なのである。

七福神の7人?の神様の中で日本起源の神様は恵比寿さんのみで後の6人はインドや中国からきた神様だ。弁財天はヒンドゥー教のサラスヴァティー女神で、毘沙門天は同じくクーベラ神だ。大黒天はヒンドゥー教の最高神の一つであるシバ神の化身であるマハーカーラに由来するという。「マハー」は「大」、「カーラ」は「黒」を意味する。

ヒンドゥー教の教義は複雑だが、多くの信者はダルマ(宗教的規範)、アルタ(実利)、カーマ(性愛・優美さ)を追求するという。その中で「実利」の部分だけが強調されたのが、日本の七福神といえるかのしれない。

「濃いレベル」の宗教の極地が原理主義だとすると、「薄いレベル」の宗教の終着点が七福神めぐりかもしれない。「インドの神様を拝むのに二礼二拍手一礼の神道式で良いのかね?」とワイフにいうと「いいのよ。お客様をお迎えするのに、日本の礼儀作法でお迎えするようなものなのだから」と返事が返ってきた。

 

 

 

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