伊藤悠子「緑のなかの一枚」(「フランス堂通信」117 、2008年07月25日発行)
だれもが体験するようなことを伊藤悠子は書く。そして、そのだれもが体験することなのだが、なかなかことばにできない。その、ことばにできない部分をことばにするとき、ことばが不思議な形で動く。つまり、伊藤の独自性となってあらわれてくる。
「緑のなかの一枚」の前半。
「私は一面の緑のなかにとても薄く、いた」。「意味」はとてもよくわかる。だが、それは文字を読んでいる読者だからわかるのであって、たぶん、声で聞いたら、一瞬何を言っているか、ととまどうだろうと思う。少し、日本語と違う。違う、という言い方は変だけれど、普通は「私は一面の緑のなかにとても薄く、いた」という言い方はしない。「薄く、いた」が奇妙なのである。なんと言うのかわからないが、少なくとも私は「薄く、いた」とは言わない。
たぶん伊藤にも、その不自然さは意識されている。不自然だと意識しているからこそ、「薄く、いた」ということばの途中に、読点「、」がある。「薄く」と言って、そのあとうまくつながることばがない。でも、言いたいことがある。そこに、私が存在する。映っているのではなく、まさにそこに「存在する」。しかし、「存在する」というのは、ちょっと「硬い」。なんだか、やっぱり違う。その奇妙な違和感に悩みながら、一瞬、ことばをさがす。そして、「いた」とつづけてしまう。
伊藤がここで書いているのは、窓ガラスに私が映っている、というだけのことではなく、そのことをことばにしようとして、悩む--その悩みの呼吸そのものなのである。
私は、この「私は一面の緑のなかにとても薄く、いた」1行について、文字で読めばわかるけれど、声で聞けば「意味」が一瞬わからなくなる、と書いた。しかし、その一方、この1行をもし伊藤自身の声で聞いたときには、そこにあらわれる「呼吸」そのものから、息継ぎの一瞬、読点「、」の揺らぎから、文字を読むだけではわからない「呼吸」そのものを感じることができると思う。
そして人間というのは不思議なもので、相手の「呼吸」がわかれば、そのひとが言っていることばのひとつひとつの「意味」がわからなくても、そして、そのことばが文法とは違っていても(成文になっていなくても)、そのひとの気持ちがわかる。「呼吸」のなかには気持ちがあるのだ。
伊藤は、こういう「呼吸」のなかにある気持ちをていねいにていねいに描く詩人である。
この不思議な「呼吸」はもう一度、この詩のなかで出てくる。後半部分。
最終行にも読点「、」が出てくる。ここでも、伊藤は、一瞬ことばをためらっている。うまくことばが見つからないのだ。その見つからない感じ、見つからないけれども、言いたいという感じが、生々しい。生々しいから、そのことばが的確ではない(?--たぶん、学校作文では、「変だなあ」と否定される)にもかかわらず、それ以外にありえないと感じる。そういう矛盾の美しさが、ここにはある。
そして、この矛盾の美しさを支えるのは、読点「、」に先だって書かれる静かな静かなことばなのである。「きょうはうれしい」から「笑いかけそうになった」までのことばの「息の長さ」。「長い息」のなかでの、ことばの揺らぎ。特に、「この世での記憶がそんな緑のなかの薄い一枚であれば」という行の、言いたいことを何一つもらさずにすくいとることばの、ていねいなていねいな動き。長い呼吸と、その長さのなかでの揺らぎがあるからこそ、読点「、」の断絶し、飛び越えていくしかない何かがくっきりと感じられるのである。
詩は、呼吸の、その断絶にある。呼吸することで飛躍する、不思議な一瞬にある。伊藤の詩は、ほんとうにほんとうに美しい。
だれもが体験するようなことを伊藤悠子は書く。そして、そのだれもが体験することなのだが、なかなかことばにできない。その、ことばにできない部分をことばにするとき、ことばが不思議な形で動く。つまり、伊藤の独自性となってあらわれてくる。
「緑のなかの一枚」の前半。
窓を持たない台所の明かりを点すと
開いたドアの向こうの隣室の
とおい窓ガラスに
私が薄く映った
外は暮れておらず
窓ガラス一面に
庭の木犀の緑の若枝が揺れており
私は一面の緑のなかにとても薄く、いた
「私は一面の緑のなかにとても薄く、いた」。「意味」はとてもよくわかる。だが、それは文字を読んでいる読者だからわかるのであって、たぶん、声で聞いたら、一瞬何を言っているか、ととまどうだろうと思う。少し、日本語と違う。違う、という言い方は変だけれど、普通は「私は一面の緑のなかにとても薄く、いた」という言い方はしない。「薄く、いた」が奇妙なのである。なんと言うのかわからないが、少なくとも私は「薄く、いた」とは言わない。
たぶん伊藤にも、その不自然さは意識されている。不自然だと意識しているからこそ、「薄く、いた」ということばの途中に、読点「、」がある。「薄く」と言って、そのあとうまくつながることばがない。でも、言いたいことがある。そこに、私が存在する。映っているのではなく、まさにそこに「存在する」。しかし、「存在する」というのは、ちょっと「硬い」。なんだか、やっぱり違う。その奇妙な違和感に悩みながら、一瞬、ことばをさがす。そして、「いた」とつづけてしまう。
伊藤がここで書いているのは、窓ガラスに私が映っている、というだけのことではなく、そのことをことばにしようとして、悩む--その悩みの呼吸そのものなのである。
私は、この「私は一面の緑のなかにとても薄く、いた」1行について、文字で読めばわかるけれど、声で聞けば「意味」が一瞬わからなくなる、と書いた。しかし、その一方、この1行をもし伊藤自身の声で聞いたときには、そこにあらわれる「呼吸」そのものから、息継ぎの一瞬、読点「、」の揺らぎから、文字を読むだけではわからない「呼吸」そのものを感じることができると思う。
そして人間というのは不思議なもので、相手の「呼吸」がわかれば、そのひとが言っていることばのひとつひとつの「意味」がわからなくても、そして、そのことばが文法とは違っていても(成文になっていなくても)、そのひとの気持ちがわかる。「呼吸」のなかには気持ちがあるのだ。
伊藤は、こういう「呼吸」のなかにある気持ちをていねいにていねいに描く詩人である。
この不思議な「呼吸」はもう一度、この詩のなかで出てくる。後半部分。
きょうはうれしい
とおい緑のなかにいて
台所仕事をしているから
この世での記憶がそんな緑のなかの薄い一枚であればと
とおく薄い一枚のなかの私に笑いかけそうになった
しばらくすると
外は暮れており
緑は闇にまぎれていたから
まっすぐ歩いて行き窓のカーテンを閉じた
うれしいと思ったことも
闇にまぎれていったから
緑とともに、ある
最終行にも読点「、」が出てくる。ここでも、伊藤は、一瞬ことばをためらっている。うまくことばが見つからないのだ。その見つからない感じ、見つからないけれども、言いたいという感じが、生々しい。生々しいから、そのことばが的確ではない(?--たぶん、学校作文では、「変だなあ」と否定される)にもかかわらず、それ以外にありえないと感じる。そういう矛盾の美しさが、ここにはある。
そして、この矛盾の美しさを支えるのは、読点「、」に先だって書かれる静かな静かなことばなのである。「きょうはうれしい」から「笑いかけそうになった」までのことばの「息の長さ」。「長い息」のなかでの、ことばの揺らぎ。特に、「この世での記憶がそんな緑のなかの薄い一枚であれば」という行の、言いたいことを何一つもらさずにすくいとることばの、ていねいなていねいな動き。長い呼吸と、その長さのなかでの揺らぎがあるからこそ、読点「、」の断絶し、飛び越えていくしかない何かがくっきりと感じられるのである。
詩は、呼吸の、その断絶にある。呼吸することで飛躍する、不思議な一瞬にある。伊藤の詩は、ほんとうにほんとうに美しい。
道を小道を―詩集伊藤 悠子ふらんす堂このアイテムの詳細を見る |