早矢仕典子「白色のアリア」、斎藤恵子「雨上り」(「no-no-me」8、2008年08月08日発行)
早矢仕典子「白色のアリア」は、ことばが途中から加速する。
雪に「まるで意思でもあるように」。だが、雪に意志があるのではない。雪に意志があってほしいと早矢仕は望んでいる。欲望している。欲望が雪に乗り移って、ことばを動かしている。欲望には理性などない。ただ感情があるだけである。
早矢仕の感情は、もうことばにならない。ただ感嘆符「!」になってまき散らされる。この感嘆符までのことばの動きが詩である。1連を2行ずつに書いてきて、その2行ずつというスタイルでは我慢できなくなって「白」を繰り返す。この抑制のなさ、我慢できない感じがおもしろい。
そして、何よりも、そういう「狂おし」いほどの激情のなかにあって、「白」と「しろ」をつかいわけているところに、不思議なおもしろさがある。
「地面の暗いしろ」。これは、早矢仕自身なのである。彼女のこころは「白」を獲得していない。「白」を欲しているが、「白」になりきれず、地面の、「暗いしろ」、その弱々しい色のままにある。「白!」は激しく叫びながら、一方で、「しろ」をみつめている。
欲望には理性などない--と書いたが、欲望は理性を持たないけれど、いくつもの感情を持つことができる。白をもとめる一方、自分自身を「暗いしろ」と思うセンチメンタル。ナルシズム。自分自身へのいとおしさ。
詩は、あるいはことばは、やはり自分自身へのいとおしさから発せられるのである。それ以外からは発せられない。--ここに、ふいにあらわれた正直さ。そこに早矢仕のことばのおもしろさがある。詩がある。
*
斎藤恵子「雨上り」にも不思議なナルシズムとセンチメンタリズムがある。
書き出しの「雨上りをこえる/道はもうぬれていないので広くなる」の2行、その「広くなる」という変化の発見がとてもいい。そして、そういう発見があるので、
このナルシズムとセンチメンタルにぐいと引きつけられてしまう。雨上がりに道が広くなるという発見をする視力が、実は、肉眼だけの力ではなく、むしろその力の底に「こころ」があるということを教えてくれるからである。
「なつかしく」という平凡な(?)ことばが、ここでは「こころ」がすべての世界を変えていることを明らかにする。世界は「こころ」をとおってことばになる。そして、そのことばをとおして生まれてくる世界は、私たちの「日常」(流通言語)にはないものをもたらしてくれる。
「甘い」という感覚もすばらしいが、「甘くなる」の「なる」が特にいい。2行目にも実は「なる」はあった。「広くなる」の「なる」。
いまある世界は、「こころ」をとおったことばで描かれるとき、まったく新しい世界に「なる」。詩とは、そういう「なる」を描くものである。「なる」という変化がていねいに描かれているとき、それとともにあるナルシズム、センチメンタルは美しい。
早矢仕典子「白色のアリア」は、ことばが途中から加速する。
その通りだけは
雪の積もる速度が特別にはやかった
雪のひとひら ひとひら に
まるで意思でもあるように
水気をたっぷり含んだ雪片の
白 が地面の暗色をすべて覆い尽くそうとして
白は 薄汚れた白の上に着地し消え去る前に次の白をもとめて
はやく 白を、白! と上空へ向かって叫ぶ
空は矢つぎ早に白をそそぎ 白は
狂おしく降り急ぎその羽のような軽さに焦れながら
地面の暗いしろに自身の白を重ね
白! 白! 白!
雪に「まるで意思でもあるように」。だが、雪に意志があるのではない。雪に意志があってほしいと早矢仕は望んでいる。欲望している。欲望が雪に乗り移って、ことばを動かしている。欲望には理性などない。ただ感情があるだけである。
白! 白! 白!
早矢仕の感情は、もうことばにならない。ただ感嘆符「!」になってまき散らされる。この感嘆符までのことばの動きが詩である。1連を2行ずつに書いてきて、その2行ずつというスタイルでは我慢できなくなって「白」を繰り返す。この抑制のなさ、我慢できない感じがおもしろい。
そして、何よりも、そういう「狂おし」いほどの激情のなかにあって、「白」と「しろ」をつかいわけているところに、不思議なおもしろさがある。
地面の暗いしろに自身の白を重ね
「地面の暗いしろ」。これは、早矢仕自身なのである。彼女のこころは「白」を獲得していない。「白」を欲しているが、「白」になりきれず、地面の、「暗いしろ」、その弱々しい色のままにある。「白!」は激しく叫びながら、一方で、「しろ」をみつめている。
欲望には理性などない--と書いたが、欲望は理性を持たないけれど、いくつもの感情を持つことができる。白をもとめる一方、自分自身を「暗いしろ」と思うセンチメンタル。ナルシズム。自分自身へのいとおしさ。
詩は、あるいはことばは、やはり自分自身へのいとおしさから発せられるのである。それ以外からは発せられない。--ここに、ふいにあらわれた正直さ。そこに早矢仕のことばのおもしろさがある。詩がある。
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斎藤恵子「雨上り」にも不思議なナルシズムとセンチメンタリズムがある。
雨上りをこえる
道はもうぬれていないので広くなる
新しい石を探すことはしないけれど
捨ててしまった
うすく壊れやすく汚れによわい
石が誘っている気がする
書き出しの「雨上りをこえる/道はもうぬれていないので広くなる」の2行、その「広くなる」という変化の発見がとてもいい。そして、そういう発見があるので、
うすく壊れやすく汚れによわい
このナルシズムとセンチメンタルにぐいと引きつけられてしまう。雨上がりに道が広くなるという発見をする視力が、実は、肉眼だけの力ではなく、むしろその力の底に「こころ」があるということを教えてくれるからである。
川が流れている
いつだって底に石がゆらいでいる
顔を映して見ることはしない
なつかしく古びてしまう
湿った石は口に含むと甘くなる
「なつかしく」という平凡な(?)ことばが、ここでは「こころ」がすべての世界を変えていることを明らかにする。世界は「こころ」をとおってことばになる。そして、そのことばをとおして生まれてくる世界は、私たちの「日常」(流通言語)にはないものをもたらしてくれる。
湿った石は口に含むと甘くなる
「甘い」という感覚もすばらしいが、「甘くなる」の「なる」が特にいい。2行目にも実は「なる」はあった。「広くなる」の「なる」。
いまある世界は、「こころ」をとおったことばで描かれるとき、まったく新しい世界に「なる」。詩とは、そういう「なる」を描くものである。「なる」という変化がていねいに描かれているとき、それとともにあるナルシズム、センチメンタルは美しい。
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