アレクサンドル・ウラノフ「グスタフ・クリムト」(たなかあきみつ訳)(「ガニメデ」43、2008年08月01日発行)
アレクサンドル・ウラノフ「グスタフ・クリムト」(たなかあきみつ訳)を読みながら、クリムトの絵を思い出した。そのことばは、たった1行でクリムトを呼び出すのである。
挿入されたことば。「半ば被われた」ということばが指し示す世界。それがクリムトであると同時に、この挿入自体がクリムトである。この挿入は、前のことばを否定すると同時に、ずらし、ずらしながら世界を深める。広げる。それは、挿入というより、言い直しである。
「--」で表わされたもの。ことばを捨てて、飛躍し、もういちどことばを拾いなおす。その飛躍のなかの無言。言い直しの前の、一瞬の沈黙。そこに、詩がある。
「閉じた目の前をみぎるもの」。そんなものはない。閉じた目の前には実際は闇しかない。しかし、その闇の向こうに、何かがある。記憶。見たという記憶。その記憶へ飛躍するために、眼は閉じられなければならない。「--」は、そういう「閉じる眼」(閉ざされた眼)をあらわす。
「--」は、ことばが何かを言い直すとき、存在と不在とを結ぶ架け橋になる。現実と記憶(あるいは肉体のなかにあるすべての感覚といった方がいいかもしれない)との間に広がる深淵を渡るための架け橋である。「--」を渡ると、そこには、それまでとは違った世界が広がる。
ただし、その世界はほんとうに存在するのか。それとも、深い深い深淵を渡ったために、意識がめまいを起こし、錯乱し、その結果として見るものなのか、実際はわからない。
「--」は挿入であり、言い直しであるから、それがたとえ深淵を渡ったとしても、一種の「繰り返し」である。挿入、言い直しは、一種の否定であるが、それは否定を媒介とした前進であり、別のことばで言えば「繰り返し」である。ここに書かれているのは、すべて「繰り返し」である。同じことばである。
このことばが象徴的だが、そんなふうにして少しだけ違えて繰り返すときの、差異へのこだわり。そこにクリムトにつながるすべてがある。
存在は繰り返されてパターンになり、模様になり、つまり装飾になる。装飾の奥には、その存在の最初の、パターンになる前の「いのち」がある。「いのち」の現前からパターンまでの気の遠くなるような繰り返し。そして、その繰り返しのときにあらわれる差異をしっかりと認識する「肉眼」。「肉眼」と「肉眼」の奥に存在する感覚・記憶の眼。そこにも、やはり「--」が存在するのだ。
それにしても、「隻瞳」ということばの不思議さ。原文はどうなっているのかわからないが、私の日本語には「隻眼」はあっても「隻瞳」はない。手元の漢和辞書を引いてみたが「隻瞳」はない。たなかの造語なのかもしれない。
だとすれば、この造語のなかに、たなかの深い洞察力がある。アレクサンドル・ウラノフへの共感というべきなのか、アレクサンドル・ウラノフがクリムトに寄せた共感への共感と呼ぶべきなのかわからないが、いままで存在しなかったことばをつくりだして、アレクサンドル・ウラノフという人間そのものへ渡ってしまう不思議な力がある。「--」ということば、ことばにならないことばをていねいに渡っているうちに、たなかは、自然に、アレクサンドル・ウラノフそのものになってしまったのだろうか。
書けば書くほど、繰り返しになってしまう。
この作品は「--」の発見によって成立している。原文テキストも「--」をつかっているのだろうけれど、その「--」をていねいに訳出している正直さがたなかのことばにある。
クリムトの絵そのもののように金と泥が併存するようなきらびやかなことばが無数に登場するが、そのことばとことばのあいだに渡された「--」。その動きそのもののなかにこそ、詩があるということを、たなかの訳は教えてくれる。
ことばは、それぞれ「呼吸」をもっている。ひとのことばは、それぞれの「呼吸」とともにある。あるときは読点「、」であり、あるときは「--」として「呼吸」は姿をあらわす。それは、ほんとうは、もっと別なことばで言い直した方が詩の解明に役立つのだと思うが、私は「呼吸」ということばしか、いまのところ、思いつかないのだが。
アレクサンドル・ウラノフ「グスタフ・クリムト」(たなかあきみつ訳)を読みながら、クリムトの絵を思い出した。そのことばは、たった1行でクリムトを呼び出すのである。
閉じた--半ば被われた--眼。
挿入されたことば。「半ば被われた」ということばが指し示す世界。それがクリムトであると同時に、この挿入自体がクリムトである。この挿入は、前のことばを否定すると同時に、ずらし、ずらしながら世界を深める。広げる。それは、挿入というより、言い直しである。
閉じた--半ば被われた--眼。
感覚への沈潜。地と装飾--閉じた眼の前をよぎるもの。
「--」で表わされたもの。ことばを捨てて、飛躍し、もういちどことばを拾いなおす。その飛躍のなかの無言。言い直しの前の、一瞬の沈黙。そこに、詩がある。
「閉じた目の前をみぎるもの」。そんなものはない。閉じた目の前には実際は闇しかない。しかし、その闇の向こうに、何かがある。記憶。見たという記憶。その記憶へ飛躍するために、眼は閉じられなければならない。「--」は、そういう「閉じる眼」(閉ざされた眼)をあらわす。
「--」は、ことばが何かを言い直すとき、存在と不在とを結ぶ架け橋になる。現実と記憶(あるいは肉体のなかにあるすべての感覚といった方がいいかもしれない)との間に広がる深淵を渡るための架け橋である。「--」を渡ると、そこには、それまでとは違った世界が広がる。
ただし、その世界はほんとうに存在するのか。それとも、深い深い深淵を渡ったために、意識がめまいを起こし、錯乱し、その結果として見るものなのか、実際はわからない。
閉じた--半ば被われた--眼。
感覚への沈潜。地と装飾--閉じた眼の前をよぎるもの。どこかそこの太股あたりの接吻はまぶたの裏で青い星々をばらまく。背中を滑走する掌はくるくるまきついて毛深い緑の海藻になる。
もしかしたら他の眼が現れるかもしれない--眉の円弧と密生した睫毛の円弧で象られて、それらは以前の眼よりもつぶらで、まぶたを閉じた瞳は何を見ている?(それらをけっして鏡に見てとれないだろう。それらを見るのはもっぱら他の隻眼、他の隻瞳だ。)
「--」は挿入であり、言い直しであるから、それがたとえ深淵を渡ったとしても、一種の「繰り返し」である。挿入、言い直しは、一種の否定であるが、それは否定を媒介とした前進であり、別のことばで言えば「繰り返し」である。ここに書かれているのは、すべて「繰り返し」である。同じことばである。
他の隻眼、他の隻瞳だ。
このことばが象徴的だが、そんなふうにして少しだけ違えて繰り返すときの、差異へのこだわり。そこにクリムトにつながるすべてがある。
存在は繰り返されてパターンになり、模様になり、つまり装飾になる。装飾の奥には、その存在の最初の、パターンになる前の「いのち」がある。「いのち」の現前からパターンまでの気の遠くなるような繰り返し。そして、その繰り返しのときにあらわれる差異をしっかりと認識する「肉眼」。「肉眼」と「肉眼」の奥に存在する感覚・記憶の眼。そこにも、やはり「--」が存在するのだ。
それにしても、「隻瞳」ということばの不思議さ。原文はどうなっているのかわからないが、私の日本語には「隻眼」はあっても「隻瞳」はない。手元の漢和辞書を引いてみたが「隻瞳」はない。たなかの造語なのかもしれない。
だとすれば、この造語のなかに、たなかの深い洞察力がある。アレクサンドル・ウラノフへの共感というべきなのか、アレクサンドル・ウラノフがクリムトに寄せた共感への共感と呼ぶべきなのかわからないが、いままで存在しなかったことばをつくりだして、アレクサンドル・ウラノフという人間そのものへ渡ってしまう不思議な力がある。「--」ということば、ことばにならないことばをていねいに渡っているうちに、たなかは、自然に、アレクサンドル・ウラノフそのものになってしまったのだろうか。
書けば書くほど、繰り返しになってしまう。
この作品は「--」の発見によって成立している。原文テキストも「--」をつかっているのだろうけれど、その「--」をていねいに訳出している正直さがたなかのことばにある。
クリムトの絵そのもののように金と泥が併存するようなきらびやかなことばが無数に登場するが、そのことばとことばのあいだに渡された「--」。その動きそのもののなかにこそ、詩があるということを、たなかの訳は教えてくれる。
ことばは、それぞれ「呼吸」をもっている。ひとのことばは、それぞれの「呼吸」とともにある。あるときは読点「、」であり、あるときは「--」として「呼吸」は姿をあらわす。それは、ほんとうは、もっと別なことばで言い直した方が詩の解明に役立つのだと思うが、私は「呼吸」ということばしか、いまのところ、思いつかないのだが。