詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本まこと『その日、と書いて』

2008-08-23 08:27:29 | 詩集
 山本まこと『その日、と書いて』(私家版、2008年07月20日発行)
 山本まことは「母の死」を書いている。母が死んだその日から書きはじめている。

その日、と書いて
<無>はまだ生まれていなかった
と書くことの安直をもう私は知ってしまったが……

 書いたことばがどこまで書こうとしたことに届くか、あるいは書こうとしたことを突き抜けて思いもかけないことを書いてしまうか。だれにも書いてしまうまではわからない。だから、ともかく書いてみる。書いてみると、ことばは次々にあらわれてくる。それが、たとえば江里昭彦が「父の死」で書いたように、事実に追いつかない認識や感情であったにしろ、ことばは次々にあらわれてくる。書いてしまうのか、書けてしまうのか、あるいは書かされてしまうのか。何もわからないが、その書くという行為と向き合ったまま、山本は書く。「母の死」を書くということよりも、「書く」ということについて書いてしまう。
 それは「書く」ということへの「自問」にかわっていく。「書く」とはどういうことか、という答えを求めるようになる。「海の落ち穂」にひとつの、山本なりの「答え」を書いている。

してきたこと
あすしなければならぬこと
それらを伝記作家のように整理できない
けれども野の果ての
けもの臭い朝の白紙に私は書こう
そこにある雨のしみや草の影を辿っても
もう現れぬあなたのために
書くことは呼ぶこと
たとえ応えがなかろうと
ただ不断に呼ぶために呼ばれること

 「書くことは呼ぶこと」。「呼ぶ」は直接的には、母を呼ぶことである。呼び起こすこと。思い起こすこと。そして、対話をすること。
 実際には母は死んで存在しないのだから、それは、別な角度から見ると、山本自身を呼ぶことである。山本の肉体のなかにことばにならずに存在している母の記憶を揺り起こすことである。母を呼び起こしながら、母になることである。
 このことを、山本は、「海の落ち穂」を書くはるか前に、無意識に書いている。たぶん、詩集は書かれた順序に編まれているのだと思うのだが、そうだとすると、「海の落ち穂」のはるか前に、すでに山本は「書く」ことは山本が母に「なる」ことだと無意識に書いていることになる。ことばは山本を追い抜いてしまっていて、それを、後からようやく山本が気づく。いや、この詩集を編んだ段階で、山本はまだそれに気がついていないかもしれない。気がつかずに、「書く」ということをめぐって、ただひたすら「書いている」。どんなときにも「書く」ということができる、ということに驚きながら。「書く」という欲望の強さに突き動かされながら。
 無意識である。「書く」ことが母に「なる」ということについて無意識である。そして、その無意識がとても美しい。「川」という作品である。

小春日和のとある日
川べりで猫といっしょに水鳥を見ていたひと
あれは死んだ母であったと
うかつにも既になつかしい夢から覚めて
水を飲む
飲まねばならず
粥は食べねばならず
目を閉じてまた開けば水灯はゆらゆらと
生ける記憶のように川も流れているのだ
ついに熟さぬかもしれぬ悲しみを果実をそっと浮かべて
そして
沈黙の深さ
石油のように老いて穏やかな母の眼差しは光りにもつれ
母が私を生き
私が母を生きる
湧かしすぎたミルクのアジはわからぬままに

 書かなくていいと思うことばがたくさんあるが(指摘はしないが)、それは

母が私を生き
私が母を生きる

という2行を呼び出すための、山本には不可欠なことばなのである。無意識に書いてしまった(と、私には思える。ことばに書かれれてしまった2行だと私には思える)そのことばに導かれて、山本のことばは動いている。この詩集のなかでは。そして、その2行以外の世界へ出て行かない。そこに、この詩集の存在の意味がある。

 どんなときにも、「書く」ということは絶対必要なのである。


コメント
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