詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フェルメール展(東京都美術館)

2008-08-25 11:47:16 | その他(音楽、小説etc)
 「手紙を書く婦人と召使」が展示作品のなかでは魅力的だ。婦人の頭部、肩のハイライトがとてもまぶしい。呼応するように白いカーテンの上部の光に透けた感じが美しい。一心に手紙を書く婦人と、外の気配に目をやる召使の対比が、「時間」を感じさせる。そこに描かれているのは「一瞬」なのだが、どのような一瞬も日常の時間と連続している。長さがある。一瞬を描きながら、その長さ、そして長さが含むドラマを感じさせる。そのドラマは、右下の破られた(丸められた?)紙にもひそんでいる。壁にかけられた絵にも、当時の人ならすぐにわかるドラマが隠されているかもしれない。
 左の 5分の1 (?)くらいを占めるカーテンは遠近法の揺らぎを隠すための技法なのかもしれないが、そのカーテンの存在によって、光の中心と絵の構造の中心(対角線をXに描き、そのの交わる地点)と重なり合う(微妙にずれるが)。そのカーテンによるXの位置の移動も、絵に深い味わいを与えている。ずれ、ゆらぎが陰影を誘い込んでいるような印象を与えるのである。そのXの移動によって、フェルメールの描く陰影がより複雑になる。
 同時に「デルフトの巨匠たち」の作品も展示されている。彼らの作品と比較すると、フェルメールの視力のよさが歴然とする。「デルフトの巨匠たち」の作品の陰影が3段階あると仮定すると、フェルメールの陰影には10段階ある。その違いが光を透明にしている。微妙な陰影の差が光を磨き上げているという感じである。

 「ワイングラスを持つ娘」は白と拮抗するように紅いスカートの輝きが美しい。光をあびて紅が金に変化する。そのとき生まれる色彩の運動がとてもいい。
 娘に言い寄る男と、酔いがまわってみだら(?)になりつつある娘の顔の対比がおもしろい。この作品の壁にも絵が描かれている。ステンドグラスにも絵が描かれている。そうした絵が、娘と男のドラマを暗示しているようである。

 「小径」は小ぶりの作品だが、とても気に入った。アムステルダムで見たときは、あまり気にとめなかった。(レンブラントを見るのが目的だったからかもしれない。)この展覧会でも最初は見過ごしていた。誰もいない(まだ来ていない)会場で見ると、小さい絵であるはずなのに、なぜか急に大きくかわる。大きさが変わる。町並みが実物大(?)の感じで広がるのである。中庭にいる婦人、道路で遊ぶ子ども、入り口で家事をする婦人の姿が建物を引き立て、そこに暮らしを感じさせる。その瞬間、絵が大きく拡大するのである。この作品にはフェルメール特有の光の諧調はないけれど、なぜか、こころ誘われる。この「小径」を探してデルフトの街を歩いてみたいという感じがする。

 「マルタとマリアの家のキリスト」。初期の作品である。このころは光の諧調がまだ3段階くらいである。(後期の作品を10段階の諧調とすれば。)手前の女の右足、その指の輪郭に違和感を覚えた。キリストの手、手前の女の手を見ながら、あ、セザンヌならもっと長く描くだろうなあ、という奇妙な感想を持った。こんな感想がふいに浮かんでくるのは、この初期の作品は私の好きなフェルメールの感じとはかなり違うからだろう。


 
 私は 8月20日、21日に見た。20日は午前09時05分ごろ入場したのだが人が多くてゆっくりと見ることができなかった。絵の位置だけ確認して21日に出直す。(20日は午前10時30分ごろ、会場受け付け前で40分待ち、上野駅についた11時ごろは1時間待ちという状態だった。)21日は午前08時30分ごろから列を作って待った。(30人程度、私より前に列を作っている人がいた。)めざす絵「手紙を書く婦人と召使」の前まで一目散で行ったので、この作品は10分ほど、ほぼ独り占めできた。真っ正面で見ることができた。混雑しそうなので、できれば開門前に列をつくり、めざす絵へ直進し、それから入り口にもどり順路をたどり直した方がじっくり鑑賞できそうである。
 会期は12月14日まで。
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長田典子『翅音(はねおと)』

2008-08-25 01:14:46 | 詩集
 長田典子『翅音(はねおと)』(砂子屋書房、2008年08月05日発行)
                    
 「針都」は蝉の死骸を題材に書いている。

錆びた鉄屑みたいに
崩れて
黒土に染みていたが
羽根だけはもとのままだった
パズルから抜け落ちた破片がひとつ
葉裏で冷やされた風に震えながら
まだ 生きている
尖って 痛い

 「痛い」が強烈である。死骸と認識しながら、こころは認識を裏切るように「生きている」と感じてしまう。そして、その感じてしまったこころが「痛い」ともう一歩動いていく。
 蝉は他者である。長田ではない。その「痛み」は長田自身の痛みではない。長田自身の痛みではないけれど、長田自身のものとして感じてしまう。そしてこころが感じてしまうとき、痛いのはこころだけではなく、肉体も痛むのである。肉体が痛いのである。どこ、とは言えない。どことは言えないけれど、痛い。そういうことがあるのだ。
 長田は、そのことを別のことばで言い換えている。

高層ビルの突き刺さる 寒い針の街が
赤々と 溶解しても
君は死なない

 蝉は「死なない」。長田の肉体のなかで「痛み」として生きている。

 長田は、他者の痛みに対する共感力が強いのだと思う。そして、「他者」というのは、実は、蝉のように誰が見ても長田とは別の存在のときもあれば、そうでないときもある。他人から見れば「長田自身」である、ということもある。「長田自身」なのに、長田はそれを「長田」とは感じない。
 自分ではない自分--それを、長田はなんと呼ぶか。「こころ」と呼ぶ。「すがた」という作品のなかほど。

わたしには
痛いということと 身体ということと こころということが
結びつかない
(略)
こころは自分とはちがうものだ
だって自分の思い通りにならない

 「こころ」を他者として発見してしまった長田。長田の「思想」は、この2行に結晶している。こころは自分の思い通りにならない。それは「他者」なのだ。そして、「他者」であるにもかかわらず、「他者」の痛みに共感する力がある長田は、その痛みに共感してしまう。
 そこに、長田の辛さ、長田の真実がある。



 言い直そう。書き直そう。

 人は誰でも他者の痛みを感じてしまう能力を持っている。誰かが道に腹を抱えてうずくまっている。そうすると、あ、この人はおなかが痛いんだ。おなかが痛くて苦しんでいるのだ、と誰もが思う。他人のことなのに、たとえばその人が額に脂汗を流してうんうんうなっていれば、その痛みはたいへんなものなのだとわかってしまう。そういう能力(感受性)は誰にでもあるものだが、長田のその力は非常に強い。だから、蝉に対しても、死んでしまった蝉に対しても「痛い」を感じてしまう。
 そして、たぶん、そういう能力が強すぎるために、自分の痛みを、こころの痛みを、本能的に切り離して「他者」の痛みと受け止めようとしてしまうのかもしれない。
 道に倒れているひとの「痛み」は「痛み」と理解できても、実際にはわたしたちの肉体そのものが痛むわけではない。
 ところが、こころの痛みは、どんなに「他者」の痛みと思ってみても、感じてしまう。ここに矛盾がある。つまり、思想がある。思想は常に矛盾の中にある。
 自分の思い通りにならないから「こころ」は「他者」であると認識しても、その認識を裏切ってしまう。「他者」と認識した瞬間から、「他者」の痛みに対する共感力が動きはじめ、それがこころとは別のもの、つまり「身体」に作用する。「こころ」は「他者」であると認識する「頭脳」を裏切って、「身体」が痛みはじめるのだ。

 これは、もう、どうすることもできない。

 長田には「他者」の痛みに共感する特別な力が(度を越した力が)そなわっているのだと、長田自身を受け入れるしかないのだと思う。
 この詩集は、そういう特別な力をどうやって長田が受け入れるようになったかをていねいに記録したものである。





おりこうさんのキャシィ
長田 典子
書肆山田

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