詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『眠れる旅人』

2008-08-09 12:34:01 | 詩集
 池井昌樹『眠れる旅人』(思潮社、2008年09月01日発行)
 誰かの視線。池井をみつめる視線。池井の詩にはかならずといっていいくらいに登場する。この詩集の冒頭の「カンナ」にも登場する。

きょうもぼろぐつひきずって
かどをまがればカンナのはなが
なんだかなつかしいにおい
あたりいちめんたちこめていて
ここがどこだかぼくがだれだか
もうわからなくなってしまって
しゃがんでじっとしていたら
どうかされましたかあなた
しらないこどものてをひいた
しらないどこかのおかあさん
やさしいてにてをつながれて
ぼくはこわごわみつめていた
いつだかとおいひるさがり
カンナのはながさいていて

 ここには、しかし、直接「視線」のことは書かれてはいない。書かれているのは「ぼく」の方の視線である。

ぼくはこわごわみつめていた

 その「こわごわ」の先に誰かの視線がある。「しらないどこかのおかあさん」の視線か。あるいは「しらないこども」の視線か。
 「こわごわ」は、「ぼく」というよりも、むしろ「しらないこども」の感情だろう。
 「しらないこども」。かつて、こどもであったとき、池井は母に手を取られて、母が路上でうずくまるだれかに「どうかされましたかあなた」と声をかけるのを聞いたのだ。幼い池井は、声をかけられた男がふりかえるのを「こわごわ」とみつめたことがあるのだ。
 その「こわごわ」はなんだろうか。
 この男はほんとうに「人間」なんだろうか。この男は、いったい「何」とつながっているのか。「何」と手をとりあっているのか。もしかすると、母の手から離れて、「ぼく」もそのような男になってしまうのか。母の手を離してしまうと、そのような男、「何」とも得体の知れないものと手を結んでいる「人間」以外のものになってしまうのだろうか。
 幼い子どもだけがもちうる直感。直感が見てしまう世界。
 それが、いま、池井のなかで、自分のものとも、他人のものとも区別のつかないまま、一体となっている。「時間」の区別がなくなっている。
 現在の池井が、「しらない」母と子をみつめているのか、過去の池井が「しらない」男をみているのか。現実と、経験がいりまじり、立場が逆転する。いや、逆転ではなく、融合する。溶け合ってしまう。
 「きょうも」で始まった詩は、いつのまにか「いつだか」わからない時間にたどりついてしまう。「いつだか」わからないのは、時間がとけあってしまったからである。過去-現在-未来が溶け合う瞬間を「永遠」というが、そういう「永遠」はふいにやってくる。
 そして、この「永遠」を呼び込む力として「視線」が存在する。
 池井をみつめる誰かの視線、何かの視線。それを感じるとき、その視線は池井自身の視線にもなる。
 ここに存在する何か。その何かは「異形」のものである。(たとえば、路傍でしゃがみこんでいる「男」)。そして、その「異形」は「異形」であることによって、現在から分離し、同時に現在ではない何かとつながっている。そして、その「つながる」ということが「永遠」なのだ。つながった瞬間に「永遠」が存在するのだ。

やさしいてにてをつながれて

 この1行に登場する「つながれて」。「現在」と「異形」が手をつなぐ。その手のつながりのなたに「永遠」がある。





眠れる旅人
池井 昌樹
思潮社

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