詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アーサー・ビナード、木坂涼選・共訳「詩のジャングルジム」

2008-08-29 11:43:48 | 詩(雑誌・同人誌)
アーサー・ビナード、木坂涼選・共訳「詩のジャングルジム」(朝日新聞2008年08月27日夕刊)

 メアリー・フリーマンの「ダチョウ」、ナオミ・シハーブ・ナイ「走る人」の2篇が紹介されている。ふたつの詩に共通することばは「追いつく」である。

ダチョウ

なんてヘンテコリンな鳥だろう、
ダチョウって。頭は、からっぽかしら?
でも、足のほうは速くって、走ると自分で
自分をおいてけぼりにしちゃうくらい。
だから目的地に早々と着いても、けっきょく
なにもすることがなくて、ず--っと
立っているしかない。日が暮れたころに
自分がやっと自分に追いつくまで。

 この詩は最終行の訳がとてもすばらしい。原文を私は知らないが、たぶん「自分」に相当することばはつかわれていない。heとか himselfとか、直訳すれば「彼」「彼自身」ということばがつかわれていると思う。
 「自分」に相当する「I」はダチョウを「なんてヘンテコリンな鳥だろう」と思うときの主語である。詩人が「I」である。
 その詩人「I」が、ふっと消えて、ダチョウと同化している。そして「自分が自分に追いつく」と感じている。このダチョウと私「I」の「同化」が、この詩のいのちである。それを日本語の「自分」ということばのなかで巧みに訳出している。
 「ダチョウがやっとダチョウに追いつくまで。」あるいは「彼がやっと彼自身においつくまで。」と訳出しても、意味は同じである。意味は同じであるが「自分がやっと自分に追いつくまで。」ということばとは、こころに届くまでの「距離」が違う。「自分」の方がはるかにストレートに密着する。

 この「ダチョウ」にアーサー・ビナード、木坂涼しいは「疾走(しっそう)の効果は様々で、ダチョウは少々やりすぎだが、自分の一部を脱(だっ)することも大事かも。」という感想を書いて、それにつづけてナオミ・シハーブ・ナイの作品を訳出している。

走る人

ローラースケートの得意な少年。彼(かれ)がいつか
話してくれた--うんと速く滑走(かっそう)すれば
自分のさびしさも追いつかない--と。
チャンピオンを目指す理由として、これは
最高ではないか。今宵(こよい)、わたしはペダルを
こいで、キング・ウィリアム通りを走る。
自転車でも同じことができるか、考えている。
自分のさびしさをおいてけぼりにするなんて、
これぞ本当の勝利! さびしさのヤツは
どこかの街角で息切れし、立ちつくすだろう。
そのころ、こっちはツツジがいっぱい咲(さ)く中を
軽やかに飛ばす。赤紫(あかむらさき)の花たちは、しぼんで
ゆっくり落ちても、さびしさとは無縁(むえん)だ。

 「ダチョウ」では「自分」というひとかたまりだったものが、この詩では「さびしさ」というひとつの感情として取り出されている。「自分」と「自分のさびしさ」の分離。そして、そういう意識を受けて、

さびしさのヤツは

という美しいことばが出てくる。この詩も私は原文を知らないが、「さびしさのヤツは」の「ヤツ」がたまらなく美しい。「ヤツ」ということばによって、さびしさが完全に「自分」から切り離される。さびしさを自分から切り離してみつめたい、という詩人の気持ちが正確に訳出されていると思う。

 「ダチョウ」では「自分」ではないものを「自分」と訳出し、読者をダチョウと同化させる。そして「走る人」では「自分」のものである「さびしさ」を「ヤツ」と呼ぶことでくっきりと切り離す。--この、訳出のこまかな配慮の中に、アーサー・ビナード、木坂涼の日本語の「思想」がある。

 そして。

 「走る人」の最後の3行。特に、最終行に、私はうなってしまった。原文はどうなっているのか、とても知りたくなった。

(ツツジは)ゆっくり落ちても、さびしさとは無縁だ。

 この行の「さびしさ」は誰のものだろうか。私・詩人「I」の「さびしさ」なのか。それとも「ツツジ自身」の「さびしさ」なのか。どちらともとれる。そして、そのどちらともとれることを、どちらともとれるように訳出している。
 「さびしさのヤツは」ということばがなければ、こんな気持ちにはならない。
 単純に、ツツジは「自分の(つまり、わたし、の)さびしさ」とは無縁だと、私は読む。そして、そうすると、これは、一種の「漢詩」の世界、自然の非情の世界になる。自然は人間の感情に配慮しない。無縁である。そこに、自然に触れる人間のよろこびがある。自然は人間の感情を洗い流す。そのときの、さっぱりした美しさ……。
 もし、「自分のさびしさ」ではなく、「ツツジ自身のさびしさ」だったら、どうなるだろうか。その場合はその場合で、ツツジは感情などもたない。したがって人間(つまり、わたし)のさびしさには何の配慮もしない、という「漢詩」の世界につながる。つながるのだけれど、そのつながり方において、微妙に違ってくる。ツツジは生まれたときから(?)、さびしさをおいてけぼりにしている。最初から無縁である。それなのに、人間がさびしいという感情を持っているときは、その感情の存在を浮かび上がらせる。うけとめる。非情なのに、あるいは非情であるからこそ、人間がもちうる「情」を浮かび上がらせることができる。そういう存在によって、おいてけぼりにしたはずのさびしさが、ふっと、すぐそばにやってくる。そういうことを感じさせる。

 さびしさなんていらない。おいてけぼりにしたい。けれども、さびしさという感情があることはちゃんと知っていたい。人間は欲張りである。人間は矛盾している。その矛盾の中にある「思想」を、最終行はきちんと訳出している。日本語にしている。

 アーサー・ビナードと木坂涼はほんとうに日本語の達人だ。



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