斎藤恵子『無月となのはな』(思潮社、2008年07月31日発行)
巻頭の「無月」のなかほどにとても魅力的な行がある。
「なにか」とは何か。この作品では、とても不思議なもの、である。詩の書き出し。
「わたし」を誘っているのは、具体的には「宿」である。「宿」の「明かり」である。ほんとうは「誘っている」のではなく、「わたし」は探しているのだが、その「探す」という行為を、「わたし」は「誘っている」と、逆の形で実行している。
ここには不思議な「矛盾」があり、その「矛盾」ゆえに、「わたし」の望みはかなえられない。「宿」にたどりつけない。
それは、次のような形であらわれる。
「宿」(ほんとうの宿ではない)の「明かり」が「誘う」。しかし、それは「誘う」だけで受け入れない。拒絶する。そして、その拒絶がくりかえされるので、「わたし」は歩きつづけるしかない。
これは、ことばをかえて言えば「拒絶」が「わたし」を「誘っている」のである。もし、誰かが「わたし」を受け入れれば、「わたし」は歩かなくてすむからである。「矛盾」がここにある。そして、「矛盾」だからこそ、それが魅力的なのである。「矛盾」はいつでも「思想」が生まれてくる「場」である。「矛盾」を歩きつづけて、その「矛盾」を通り越したとき、それまで抱えていた感情、感覚、肉体、あらゆるものが「思想」になる。その人自身の存在を証明するものになる。
そういうものを斎藤は探している。
こんな形で(つまり、「矛盾」を抱えた形で、というか、「矛盾」のなかを歩みつづけるという形で)、ひとが動いて行くとき、そこでは何が起きているのか。
斎藤は、はっきりと書いている。
この作品では、「わたし」を誘っているのは「子牛」である。海辺で「子牛」に出会う。「子牛」は「子牛」で「わたし」を頼りにしている。ところが、頼りにされた方の「わたし」は「わたし」でどうしていいかわからない。わからないまま、「子牛」と「わたし」は歩く。誘っているのがどっちで、誘われているのがどっちかわからなくなる。どちらも誘い、どちらもうながされているのだ。
「どこへゆくかわからないまま」のこうした「あゆみ」が、なぜ「思想」か。私はなぜそれを「思想」と定義するか。そこには、自己を超えるという運動が存在するからである。
斎藤のことばに沿って言い直せば、「わたしを破壊」するという運動がそこにあるからである。「わたし」を「破壊」し、それまでの「わたし」以外のものにする。「わたし」をのりこえたものにする。「わたし」が生まれ変わる。ひとか生まれ変わるとき、そこには「思想」がある。「思想」によって私たちは生まれ変わる。
この作品では、その「生まれ変わり」は最終連に書かれている。
「わたし」に本来「尾」はない。「子牛」といっしょに歩くとき、「わたし」に「尾」が生じた。「わたし」は「子牛」になっている。「子牛」に生まれ変わっている。
「わたし」が「子牛」に生まれ変わることが「思想」であってたまるか、という考えもあるかもしれない。しかし、「子牛」がこれからさらに何に生まれ変わるか、まだ、何もわからない。わからないけれど、そういう変化、変化する力があるということが、「わたし」を誘いつづけるのである。
それはほんとうは、どこかにあるのではなく、「わたし」の内部ににしかないのかもしれない。その力を「わたし」に感じたからこそ、「子牛」は「うながされていると思」って歩き、「わたし」は「わたし」で、「子牛」との出会いで生まれたものを頼りに歩く。そういう「関係」が、ここにはある。「関係」が「場」となり、そこから「思想」が生まれる。「思想」が明確になるまでは、それは「矛盾」(なにかわからないもの、はっきりどちらと定義できないもの、混沌)として、ここに存在しつづける。
「わたし」を「誘っている」のは、「矛盾」であり、「混沌」である。そして、それは「わたし」の外にあるのではなく、「内部」にある。「肉体」のなかにある。その「肉体」のなかにあるものは、「わたし」以外のもの、たとえば「子牛」に触れたとき、他者につたわる。それがつたわって、何か変化が起き、「わたし」を誘う。理解できないことが起きて、それに誘われる。「わたし」は、そういう「矛盾」と「混沌」の出発点であり、また、やがてたどりつくべき「場」でもある。
斎藤は、そういう「肉体」を探しているだとも言えるかもしれない。「雨」のなかにも魅力的な行がある。
「忘れてしまって思い出せないことが/なつかしげに立ちこめる」。この「矛盾」に満ちたうつくしいことば。「なつかしい」ものは「思い出」と結びつくからなつかいしのであって、「忘れてしまって思い出せない」なら、「なつかしい」はずがない。しかし、「なつかしい」のだ。この「矛盾」。その美しさ。
「矛盾」していても、そう言うしかない。そういう切なさ、哀しさがある。それが美しい。
斎藤の書きたいものは、ここに集約している。斎藤の「思想」はここに結晶している。思い出せなくても、なつかしいものがある。ことばにしてしまうと、「矛盾」にしかならないものがある。それを書きたいのである。「矛盾」しているからこそ、それを書きたい--書くことで、ことばが動き、変化していく。その変化とともに、生まれ変わる。新しく、というより、その「思い出せないもの」「忘れてしまったもの」--いわば、「過去」へ生まれ変わる。
「どこへゆくかわからない」の「どこ」は「場所」であると同時に「時間」でもあるのだ。「未来」へゆくのか「過去」へゆくのかもわからない。「未来」でも「過去」でもない「とき」かもしれない。「永遠」かもしれない。
「過去」とは「時間」というより、むしろ「肉体」のようなものである。「いのち」のようなものである。斎藤の父、母、そしてさらにさらに昔々からつづく「いのち」のようなものかもしれない。
延々とつづく「いのち」。それは「永遠」と言い換えることができるかもしれない。
生きることはある意味では「過去」を捨ててしまうこと、「過去」を乗り越えて進むことなのだが、そういう動きとは逆の、「過去」から、延々とつづく「いのち」から何かをすくい上げる、くみ取る、そうしてそれを「わたし」を「誘う」ものとして前に掲げる。「過去」のななかに「永遠」を探そうとしている。「永遠」は「真実」とも言い換えることができるだろうと思う。
そういうことを斎藤はしようとしているように見える。
同人誌などで1篇1篇読んでいたときは、そういうことに気がつかなかった。詩集という形で読み返して(たぶん、読み返しだと思う)、斎藤のことばの動きが、私にははっきり見えてきたように感じた。
巻頭の「無月」のなかほどにとても魅力的な行がある。
なにかに誘われなければ
歩きすすむことはできない
「なにか」とは何か。この作品では、とても不思議なもの、である。詩の書き出し。
目印の屏風岩の近くに
ちいさな茅葺き屋根の家があった
わたしは今夜の宿になる家をたずねていた
板戸の節から明かりがこぼれている
こぶしでかるく叩いた
「わたし」を誘っているのは、具体的には「宿」である。「宿」の「明かり」である。ほんとうは「誘っている」のではなく、「わたし」は探しているのだが、その「探す」という行為を、「わたし」は「誘っている」と、逆の形で実行している。
ここには不思議な「矛盾」があり、その「矛盾」ゆえに、「わたし」の望みはかなえられない。「宿」にたどりつけない。
それは、次のような形であらわれる。
戸を引き顔をのぞけたお爺さんは
綿のはみでた縞の半纏を着
落ち窪んだ目をしばたいてわたしを見た
形代(かたしろ)を舞わしんさるか
乾いた唇からつぶやくようにもらした
わたしは首をふった
人形をあやつることなどできない
お爺さんはだまって目をそらし
禿げた頭をふりふり戸をしめた
もの言う間もなく
内側から錠をおろす音がした
「宿」(ほんとうの宿ではない)の「明かり」が「誘う」。しかし、それは「誘う」だけで受け入れない。拒絶する。そして、その拒絶がくりかえされるので、「わたし」は歩きつづけるしかない。
これは、ことばをかえて言えば「拒絶」が「わたし」を「誘っている」のである。もし、誰かが「わたし」を受け入れれば、「わたし」は歩かなくてすむからである。「矛盾」がここにある。そして、「矛盾」だからこそ、それが魅力的なのである。「矛盾」はいつでも「思想」が生まれてくる「場」である。「矛盾」を歩きつづけて、その「矛盾」を通り越したとき、それまで抱えていた感情、感覚、肉体、あらゆるものが「思想」になる。その人自身の存在を証明するものになる。
そういうものを斎藤は探している。
こんな形で(つまり、「矛盾」を抱えた形で、というか、「矛盾」のなかを歩みつづけるという形で)、ひとが動いて行くとき、そこでは何が起きているのか。
斎藤は、はっきりと書いている。
どこへゆくかわからないまま
(「海辺の子牛」)
この作品では、「わたし」を誘っているのは「子牛」である。海辺で「子牛」に出会う。「子牛」は「子牛」で「わたし」を頼りにしている。ところが、頼りにされた方の「わたし」は「わたし」でどうしていいかわからない。わからないまま、「子牛」と「わたし」は歩く。誘っているのがどっちで、誘われているのがどっちかわからなくなる。どちらも誘い、どちらもうながされているのだ。
子牛はうつむいていた
海のほうから来たのだろう
どこへゆくかわからないのだ
背におくわたしの手に
肉のぬくみがつたわりはじめた
うながされていると思うのか
きしきし砂をあるいてゆく
まって
呼びかけても声は潮騒に消えてゆく
波がしらが海上をすべり
雲がひろがる
わたしを破壊してください
ふいに感情のような大きな波が砂を打った
海辺に影はなく
波はうねり
空はあわく
いつのまにか
わたしも尾をたれてついてゆく
つめたい風をうけ
どこへゆくかわからないまま
砂に脚をとられながら
「どこへゆくかわからないまま」のこうした「あゆみ」が、なぜ「思想」か。私はなぜそれを「思想」と定義するか。そこには、自己を超えるという運動が存在するからである。
斎藤のことばに沿って言い直せば、「わたしを破壊」するという運動がそこにあるからである。「わたし」を「破壊」し、それまでの「わたし」以外のものにする。「わたし」をのりこえたものにする。「わたし」が生まれ変わる。ひとか生まれ変わるとき、そこには「思想」がある。「思想」によって私たちは生まれ変わる。
この作品では、その「生まれ変わり」は最終連に書かれている。
わたしも尾をたれてついてゆく
「わたし」に本来「尾」はない。「子牛」といっしょに歩くとき、「わたし」に「尾」が生じた。「わたし」は「子牛」になっている。「子牛」に生まれ変わっている。
「わたし」が「子牛」に生まれ変わることが「思想」であってたまるか、という考えもあるかもしれない。しかし、「子牛」がこれからさらに何に生まれ変わるか、まだ、何もわからない。わからないけれど、そういう変化、変化する力があるということが、「わたし」を誘いつづけるのである。
それはほんとうは、どこかにあるのではなく、「わたし」の内部ににしかないのかもしれない。その力を「わたし」に感じたからこそ、「子牛」は「うながされていると思」って歩き、「わたし」は「わたし」で、「子牛」との出会いで生まれたものを頼りに歩く。そういう「関係」が、ここにはある。「関係」が「場」となり、そこから「思想」が生まれる。「思想」が明確になるまでは、それは「矛盾」(なにかわからないもの、はっきりどちらと定義できないもの、混沌)として、ここに存在しつづける。
「わたし」を「誘っている」のは、「矛盾」であり、「混沌」である。そして、それは「わたし」の外にあるのではなく、「内部」にある。「肉体」のなかにある。その「肉体」のなかにあるものは、「わたし」以外のもの、たとえば「子牛」に触れたとき、他者につたわる。それがつたわって、何か変化が起き、「わたし」を誘う。理解できないことが起きて、それに誘われる。「わたし」は、そういう「矛盾」と「混沌」の出発点であり、また、やがてたどりつくべき「場」でもある。
斎藤は、そういう「肉体」を探しているだとも言えるかもしれない。「雨」のなかにも魅力的な行がある。
部屋には雨がふりはじめる
黒ずんだ柱に
擦りきれた畳に
角をなくした敷居に
ほそほそと霧になっておち
わたしの髪や喉やゆびをぬらす
忘れてしまって思い出せないことが
なつかしげに立ちこめる
「忘れてしまって思い出せないことが/なつかしげに立ちこめる」。この「矛盾」に満ちたうつくしいことば。「なつかしい」ものは「思い出」と結びつくからなつかいしのであって、「忘れてしまって思い出せない」なら、「なつかしい」はずがない。しかし、「なつかしい」のだ。この「矛盾」。その美しさ。
「矛盾」していても、そう言うしかない。そういう切なさ、哀しさがある。それが美しい。
斎藤の書きたいものは、ここに集約している。斎藤の「思想」はここに結晶している。思い出せなくても、なつかしいものがある。ことばにしてしまうと、「矛盾」にしかならないものがある。それを書きたいのである。「矛盾」しているからこそ、それを書きたい--書くことで、ことばが動き、変化していく。その変化とともに、生まれ変わる。新しく、というより、その「思い出せないもの」「忘れてしまったもの」--いわば、「過去」へ生まれ変わる。
「どこへゆくかわからない」の「どこ」は「場所」であると同時に「時間」でもあるのだ。「未来」へゆくのか「過去」へゆくのかもわからない。「未来」でも「過去」でもない「とき」かもしれない。「永遠」かもしれない。
「過去」とは「時間」というより、むしろ「肉体」のようなものである。「いのち」のようなものである。斎藤の父、母、そしてさらにさらに昔々からつづく「いのち」のようなものかもしれない。
延々とつづく「いのち」。それは「永遠」と言い換えることができるかもしれない。
生きることはある意味では「過去」を捨ててしまうこと、「過去」を乗り越えて進むことなのだが、そういう動きとは逆の、「過去」から、延々とつづく「いのち」から何かをすくい上げる、くみ取る、そうしてそれを「わたし」を「誘う」ものとして前に掲げる。「過去」のななかに「永遠」を探そうとしている。「永遠」は「真実」とも言い換えることができるだろうと思う。
そういうことを斎藤はしようとしているように見える。
同人誌などで1篇1篇読んでいたときは、そういうことに気がつかなかった。詩集という形で読み返して(たぶん、読み返しだと思う)、斎藤のことばの動きが、私にははっきり見えてきたように感じた。
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