詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

絹川早苗『林の中のメジロ籠』

2008-08-26 11:19:27 | 詩集
 絹川早苗『林の中のメジロ籠』(横浜詩人会、2008年08月01日発行)

 「さよなら」という作品が詩集のなかほどにある。その全行。

改札口をでた男が
スポットライトのなかに
白く浮かびあがる

雑踏の片隅で待っていたわたしは
いつものように
小さく手をあげた

薄い本 二、三冊ばかりの
風呂敷包みを抱えた男は
まっすぐ わたしの方にやってくる

近づいてきて
どんどん 近づいてきて
  (町の騒音が消えた)
しまいには
わたしを通りぬけてしまい

振り返ると
ホタルブクロの咲く野道を
捕虫網をもった少年の背中が
小さくなっていくのが見えた

さよなら という声が
どこからともなく 聞こえてきた

 4連目。「わたしを通りぬけてしまい」は、どういう描写なのだろうか。「わたし(のそば)を通りぬけてしまい」なのか。あるいは、「わたし(のなか)を通りぬけてしまい」なのか。
 私は「わたしのなかを通りぬけてしまい」と「のなか」を補って読んだ。ひとりの男、その肉体が「わたし」の「なか」を通り抜ける、というのは現実にはありえない。「わたし」の「肉体」を他人の「肉体」が通り抜けるというのは、現実にはありえない。
 けれども、感覚のなかでなら、そういうことは起きる。記憶のなか、精神のなか、こころのなか、でならそういうことは起きる。
 「わたし」は駅で「男」を待っている。とても大切なひとだ。その人は、もう亡くなってこの世にはいないのかもしれない。改札口からその人が出てくることは、もう二度とない。しかし、「わたし」は彼を待っている。いつものように。
 そうすると、「わたし」の気持ちを知ったからだろうか、男が下りてくる。なつかしい姿で。そして、「どんどん 近づいて」くる。このとき、「わたし」の感覚は平常心をなくしてしまう。「(町の騒音が消えた)」と感じるくらいに、その男に集中してしまう。その集中するこころへ進入してきて、そして、こころを「通りぬけて」しまうのだ。
 通り抜けた男を探すように振り返ると、男は本を風呂敷包みに抱えたなつかしい姿から、もっともっとなつかしい姿にかわっている。「捕虫網をもった少年」になってしまっている。
 「わたし」と「男」は幼なじみなのだろう。(幼なじみではないとしたら、その男がどんな少年だったかをいつもいつも「わたし」に言い聞かせていた。そんなふうに、とてもとても親密な関係なのだ。)「わたし」は男の「少年時代」を知っている、本に夢中になっていた「青年時代」を知っている。すべてを知っている。大切な人なのだから。
 その人は、いまは、この世界には存在しない。存在しないけれど、その人への愛から、ずーっと駅で待ちつづける「わたし」。その「わたし」のこころに誘われて、この世に帰って来た男が、なつかしい姿で「わたし」を「通りぬけ」、さらになつかしい姿「少年」になって去っていく。
 記憶になっていく。

 人が記憶になる--それは、ほんとうの別れである。そのときのあいさつ「さよなら」を「わたし」はどこからともなく聞く。

 けれども記憶になれば、もう、別れはない。いつまでもいつまでも、こころのなかに存在しつづける。「肉体」は変化する。消えてしまう。けれども、記憶は消えはしないのである。記憶は、そして、その記憶を書いたことばは消えない。いつまでも存在し、生き続ける。「わたし」のこころのなかにだけではなく、そのことばを読んだすべての人のこころのなかにも。




紙の上の放浪者(ヴァガボンド) (21世紀詩人叢書 (6))
絹川 早苗
土曜美術社

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