詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

くらもちさぶろう「ほんだな」ほか

2008-08-05 11:18:12 | 詩(雑誌・同人誌)
 くらもちさぶろう「ほんだな」ほか(「ガニメデ」43、2008年08月01日発行)

 くらもちさぶろう「ほんだな」は不要になったスチール製の本棚を処分する様子を描いている。ごくごく日常的なことがらを、これまたごくごく自然なことばで書いているのだが、そのごくごく普通のことが、「ひらがな」の力ですーっと異次元へ動いて行く。異次元といっても知らない世界ではなく、非常によく知っている世界へ動いて行く。そして、あ、世界はこんなふうにつながっているのか、と驚かされる。

スチール の なか から しみ だした のか
すずしい かぜ も はいらぬ
くらい へや の かたすみ で
せぼね が まがる ほど つまれた
ほん の おもみ に だまって
よる も ねないで たえて いた ので
ちゃいろ の よごれ が
しみだして きた のか
しおからい あせ が からだ の なか から
しみだして くる ように

そだいゴミ に だす まえ に
そきとって やる

はは の はだか の からだ を きよめる ように
だまって たえて きた くろう から かいほう されて
ほっと した かお の おおきな しみ を
ふきとって やる

 本棚と母とが重なり合う。重なり合いを超えて、本棚が母そのものになる。漢字まじりで書かれていても感動はすると思うが、この「ひらがな」のとぎれとぎれのことばを読んでいると、その分かち書きの空白のなかから母が、母につながるいのちが、すーっとあらわれてくる感じがして、とてもいいのだ。
 本棚とは母との間にはつながりはない。つながりはないけれど、ことばが、ぷつんぷつんと切り離されて散らばっていると、ことばをつなげようとする意識が自然に生まれてきて、そのつなげようとする意識のなかに、何か別のものがつながってくる。この作品の場合、その何かは母なのだが、そういうつながりを無意識の領域で誘い込む力がひらがなの分かち書きにあるように感じられる。
 分かち書きには不思議な吸引力がある。くらもちは、その力をとても自然な形で具体化している。
 たぶん本(あるいは「日記」)だとおもうのだが、やはり不要になった本を束ねて処分する詩。「そうしき」。

ながい わかれ を する まえ に
からだ が しなう ほど だき あう ように
かたく きつく しばる

さいご の ページ に
きえかかった ひづけ を みつけ
その ころ を おもいだし
やわらかに さすって やる
こわがる こと わ ない よ と
こころ の なか で
こえ を かけながら

 処分する、廃棄する--というのは、処分されるもの、廃棄されるものにとっては一種の「死」である。その「死」が、ひらがなの分かち書きで書かれると、その「死」という不在のもの(本棚にしろ、本にしろ、それは人間のようには死なない、死を持たない存在である)へ向けて、いのちが動いて行く。この感じが、ほんとうに、不思議で、なんともなつかしい。
 「そうしき」の別の部分。

とつぜん
いきかえった ように
ひとくみ が ゆか の うえ に くずれ おちる
われた こえ で わかれ の あいさつ を さけぶ

 この生々しい切なさは、ひらがなの分かち書き以外では存在し得ないだろう。そう思った。




D.H.ロレンスの作品と時代背景
倉持 三郎
彩流社

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コメント (1)
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