楊逸「時が滲む朝」(「文芸春秋」2008年09月号)
第139回芥川賞受賞作。中国人が書いた日本語作品ということで話題になった。読んでいて、とても不思議な気持ちになった。
なぜ日本語で書いたのだろう、ということが疑問が頭から離れない。
日本語で作品を書く外国人は多い。アーサー・ビナードの詩は日本語で書かれている。それはとても美しい。なぜアーサー・ビナードが日本語で書くのか、という疑問を感じたことはない。日本語で書いてくれてありがとう、という気持ちがある。
しかし、楊逸「時が滲む朝」には疑問を感じる。題材のせいかも知れない。天安門事件とその後を書いている。そのことが、中国人によって、日本語で書かれているということに疑問があるのだ。天安門事件はとても重要である。おそらく日本人にとってよりも、中国人にとってとても重要であると思う。その体験が、中国人に向けてではなく、まず日本人に向けて書かれているということに対する疑問である。
天安門事件をめぐって、中国人は日本人以上にさまざまなことを考えたと思う。感じたと思う。そして、そのとき感じたり、考えたりしたとき使ったことばは中国語であるはずだ。そこには日本語ではたどりつけない何か、「思想」があるはずである。それがすっぽり抜け落ちている感じがするのである。楊逸が書いている中国人の思考、感情を読みながら、どうしても、「えっ、それだけ?」と思ってしまう。
特に、天安門事件後、主人公たちが飯店で酒を飲み、タクシー運転手らとけんかをしてしまう部分と、それにつづく拘留の場面が頼りない。ことばが事実の奥にたどり着いているという感じがしない。ことばは三木清がいうように、その国民がたどりついた思想の頂点である。その、頂点に触れたという感じがしないのである。
短い部分に「秒を数え」という表現が2回出てくる。表現が変化してゆかない。これは「思想」が変化・発展してゆかないということと同じである。ある表現(ここでは「秒を数え」)に到達(?)したあと安心してしまっている。これが天安門事件をくぐりぬけた結果だろうか。
不思議でしょうがない。
その後の、日本へ来てからの生活を描いた部分が、前半とまったく違う文体であることも、なんだか味気ない。生活が違えば文体は違ってくるだろうけれど、その違いは異文化と触れることで深まらなければならない。逆に浅くなっている。これも、とてもつまらない。天安門事件を経て、日本へ来て、その結果としてこの文体があるのかと思うと、とてもさびしい。
前半、天安門事件前と、その最中には美しい文章が沢山ある。シャツに「I love you」と書くこと。Oに国旗を立てることなど、情熱のなかの、不思議な逸脱。その「思想」の美しい輝きなど、ほーっと息が漏れる。勉学に燃えて早朝、湖へいくシーンも美しい。
それが後半、完全に姿を消す。消えたように私には感じられる。とてもつまらなくなる。
うがった言い方になるかもしれないが、この芥川賞は北京五輪にあわせて話題づくりをし、本を売るだけのための戦略に感じられる。
第139回芥川賞受賞作。中国人が書いた日本語作品ということで話題になった。読んでいて、とても不思議な気持ちになった。
なぜ日本語で書いたのだろう、ということが疑問が頭から離れない。
日本語で作品を書く外国人は多い。アーサー・ビナードの詩は日本語で書かれている。それはとても美しい。なぜアーサー・ビナードが日本語で書くのか、という疑問を感じたことはない。日本語で書いてくれてありがとう、という気持ちがある。
しかし、楊逸「時が滲む朝」には疑問を感じる。題材のせいかも知れない。天安門事件とその後を書いている。そのことが、中国人によって、日本語で書かれているということに疑問があるのだ。天安門事件はとても重要である。おそらく日本人にとってよりも、中国人にとってとても重要であると思う。その体験が、中国人に向けてではなく、まず日本人に向けて書かれているということに対する疑問である。
天安門事件をめぐって、中国人は日本人以上にさまざまなことを考えたと思う。感じたと思う。そして、そのとき感じたり、考えたりしたとき使ったことばは中国語であるはずだ。そこには日本語ではたどりつけない何か、「思想」があるはずである。それがすっぽり抜け落ちている感じがするのである。楊逸が書いている中国人の思考、感情を読みながら、どうしても、「えっ、それだけ?」と思ってしまう。
特に、天安門事件後、主人公たちが飯店で酒を飲み、タクシー運転手らとけんかをしてしまう部分と、それにつづく拘留の場面が頼りない。ことばが事実の奥にたどり着いているという感じがしない。ことばは三木清がいうように、その国民がたどりついた思想の頂点である。その、頂点に触れたという感じがしないのである。
秒を数え、狭い窓から漏れる光を数字で測るような日々である。中間たちと同じ拘置所にいても別室にされ、食事に顔を合わせても話をすることも禁じられ、一日中孤独に堪え、秒を数えて時間という大敵を潰すしかない。
短い部分に「秒を数え」という表現が2回出てくる。表現が変化してゆかない。これは「思想」が変化・発展してゆかないということと同じである。ある表現(ここでは「秒を数え」)に到達(?)したあと安心してしまっている。これが天安門事件をくぐりぬけた結果だろうか。
不思議でしょうがない。
その後の、日本へ来てからの生活を描いた部分が、前半とまったく違う文体であることも、なんだか味気ない。生活が違えば文体は違ってくるだろうけれど、その違いは異文化と触れることで深まらなければならない。逆に浅くなっている。これも、とてもつまらない。天安門事件を経て、日本へ来て、その結果としてこの文体があるのかと思うと、とてもさびしい。
前半、天安門事件前と、その最中には美しい文章が沢山ある。シャツに「I love you」と書くこと。Oに国旗を立てることなど、情熱のなかの、不思議な逸脱。その「思想」の美しい輝きなど、ほーっと息が漏れる。勉学に燃えて早朝、湖へいくシーンも美しい。
それが後半、完全に姿を消す。消えたように私には感じられる。とてもつまらなくなる。
うがった言い方になるかもしれないが、この芥川賞は北京五輪にあわせて話題づくりをし、本を売るだけのための戦略に感じられる。
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