詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

町田康「私自身のこと スピンクス日記①」

2008-08-16 07:43:54 | その他(音楽、小説etc)
 町田康「私自身のこと スピンクス日記①」(「本」2008年08月号)
 町田康の文体の健康さは、どうでもいいことを、そのままことばにできることである。どうでもいいこと、というのは、だれの頭の中にも同じように動き回ることばのことである。だから、ふつう、ひとはそういうことを書かない。自分にあまりにぴったりと合いすぎていて、わざわざことばにする必要を感じない。だれもが同じように感じている(感じたことがある)と知っているから、わざわざことばにする必要は感じない。ことばを書くとなれば、少しはかっこよく(?)書きたい。自分の「オリジナル」を出したい。私はこういう人間である、と伝えたい、という欲望がわきあがるからである。
 そして、このことは、裏を返せば、ことばとは「わざわざ」書くものである、という意識がどこかにある。この「わざわざ」は「わざと」とよく似ている。ほとんど同じである。だれもが「わざと」書いたものが「文学」であると無意識的に知っている。「わざと」がないものは、単なる日常のたわごとである。だれもが知っていることなので、「わざわざ」ことば(文字)にして確かめたい、あとでもう一度この感じを思い出したい、という気持ちになれないし、そんなことを書いても、ひとから、「それで?」と言われるだけである、ということを人は知っている。
 町田は、この常識を逆手にとる。
 だれもが知っている。だれもが体験したことがある。だから「文学」にしようとはだれも思わないものを、「わざと」書くのである。そして「わざと」書かれた瞬間から、ことばは「文学」になる。
 たとえば、次のような文章。

私はそろそろ起きようか知らん、それともう少し眠ろうか知らん、なんて考えつつ、両の手、両の足を天井の方に、にゅう、と伸ばし、腹を丸出しにしていると、いつの間にかまた眠ってしまって。
 そんなことで次に目が覚めたときはもう八時でした。
 いかん、いかん、こんなに寝てしまって。
 そう思って慌てて飛び起きると、言わんこっちゃない、もう九時を回っていて、(略)
 こういう「寝過ごし」の体験と、そのときのこころの(頭の?)動き、というか、そのとき思ったことばというのは、だれもが知っている。そして、そんなことを書いても、だれも感動しないだろうなあ、となぜかしら無意識に思っている。
 その「無意識」に文学から排除したものを、町田は「文学」に取り込んでいる。

 そして、そういう「日常」(だれもが知っていること)を取り込むとき、実は、町田はとてもていねいにことばを動かしている。こころの動きのリズム、呼吸をとてもていねいに取り扱っている。そのために、だれもが感じていることが、だれもが感じていながらだれも書かなかった、はじめてのことばとして動きだす。「文学」が、その呼吸とともに始まる。

私はそろそろ起きようか知らん、それともう少し眠ろうか知らん、なんて考えつつ、

 「……か知らん、それとも……か知らん」はよく聞くことばだが、そういうことばを実際に声に出すとき、ひとは、どこか気取っている。たとえば私は、町田が書いたことばのとおりには考えたことはない。「起きようかな、もうちょっと眠ろうかな」とは考えるが、そのとき読点「、」で書いた部分に「それとも」ということばは入らない。「それとも」という「論理的」な動きを誘うことばは、自分ひとりの思いのなかでは発生しない。「それとも」ということばを必要とするのは、自分の思いを他人に説明するときだけである。「それとも」ということばは、次には前に言ったこととは逆のことをいいますよ、と予告するためのものである。そんなことは自分自身には予告する必要がないので、私は、私自身が何かを考えるときは完全に省略する。
 「それとも」ということばはだれでも知っている。だれでもつかう。そして町田は、そのだれでも知っていることばをだれもが知っている通りにつかうのだが、それを「わざと」つかう。そうすることで、ことばを「日常」から「文学」へと動かして行く。
 他人を意識したこころ。わざと。
 それは、同じ一行のなかの「考えつつ」の「つつ」も同じである。「つつ」は「ながら」と同じである。だれもが知っている。そして、それは聞けばわかるが、日常は「会話」のなかには登場しない。少なくとも現代では「つつ」ということばを会話のなかにつかったら、とても奇妙、変に気取った言い方だなあ、という印象を呼び起こすだろう。

 そして、この「気取り」の感覚が、町田が、「わざと」書いていることばが、不思議と目覚めの人間の意識の呼吸にぴったりあう。
 目覚めるとき、人は、少し気取る。たぶん、きょうを、きのうとは違った新しい一日にしたいという思いが働くのだろう。リセット。そのための、気取り。
 それは「両の手、両の足」という表現にも感じられる。「両手、両足」と言ってしまいそうなところを、「わざと」ゆっくりと「両の手、両の足」と意識を動かす。「両手、両足」よりも、「両の手、両の足」の方がゆったりする。このゆったりが、そのまま文章になって、
 
両の手、両の足を天井の方に、にゅう、と伸ばし、

 そして、そこにさしはさまれた「にゅう」ののんびりした表記(ひらがな)が、まさに「にゅう」としか言いようのないものになる。「にゅう」を読点「、」で挟んで独立させているところも、とてもいい。「にゅう」が、意識から独立して肉体そのものの「にゅう」になり、もういちどゆったりした感じで精神に戻ってくる。その呼吸が「にゅう」を挟んだ二つの読点「、」である。
 町田は、ことばの「呼吸」を正確に文字にできる作家である。(「わざと」正確に書いているのである。)

 このあと、少し気取ったあとの文章の変化も、とてもおもしろい。

腹を丸出しにしていると、いつの間にかまた眠ってしまって。

 「腹を丸出しにして」には、「両の手、両の足」ということばを選んだときの「気取り」はない。「また」には「それとも」のような「気取り」はない。「眠ってしまって」という文章の終わり方は「文語(語)」ではない。文章語なら「眠ってしまった」になる。「て」で終わる文章は、ない。
  これはもちろん、学校で教える文法には、という意味である。--「日常の会話」は「文法」をはみ出して動くから、「て」で終わることはしょっちゅうある。
 というよりも、ふつう人間は、いちいち考えを「成文化」しない。途中で、次々とことばがことばを追い越して行く。言いたいことが、次々にあふれてきて、ひとつひとつ「成文化」している暇はない。だから「て」で中断し、つまり、いったん呼吸をととのえて、次へと加速する。

 腹を丸出しにしていると、いつの間にかまた眠ってしまって。
 そんなことで次に目が覚めたときはもう八時でした。
 いかん、いかん、こんなに寝てしまって。
 そう思って慌てて飛び起きると、言わんこっちゃない、もう九時を回っていて、

 ことばが「でした」という「ですます調」を挟んで、かっぱつに動く。文語「ですます調」と、「言わんこっちゃない」に象徴される口語。こういう文章語、口語の同居は、学校教育(作文)では「文体の不統一」として「減点」の対象になるものだが、町田は「わざと」それを同居させる。そうすることで、意識の動きの慌ただしさ、統一性のなさがくっきり浮かび上がる。「気取っている」ひまはない、という朝のあわただしさが浮かび上がる。
 町田は、ここでも「呼吸」を正確に描いているのである。

 「呼吸」が正確につたわってくる、ということは、そこにその人間がくっきりと立ち上がってくるということである。私たちはひとと向き合ったとき、論理よりも「呼吸」を感じ、「呼吸」に反応する。「呼吸」を無視して「論理」だけを追うと、なんともいやあな感じが「空気」のなかにまじってくる。
 「呼吸」があうと、論理は多少乱れても、何か、物事がスムーズに運ぶ。

 どのような文章も同じである。「呼吸」が正確につたわってくると、つづきが読みたくなる。どんなふうに話が展開しようが、いま感じた「呼吸」をずーっと感じたいと思い、そのことばを追いかけることになる。町田の文章の魅力は、そういう「呼吸」をいつでも行間に感じさせるところにある。





町田康詩集 (ハルキ文庫)
町田 康
角川春樹事務所

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