詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

荻悦子「洋梨」、新延拳「夕刊の頃」

2008-08-15 01:01:33 | 詩(雑誌・同人誌)
 荻悦子「洋梨」、新延拳「夕刊の頃」(「現代詩図鑑」2008年夏号、2008年07月01日発行)
 何かを見つめる。そうすると世界が微妙にかわってくる。そして、その世界がかわるということは、実は自分自身がかわってしまうということである。その変化は小さいかもしれない。大きいかもしれない。変化の大小を測るものはなにもない。それぞれに、その変化の一瞬があるというだけである。
 荻悦子「洋梨」は、世界の変化と肉体の変化をシンクロさせて描いている。その、肉体がすーっと浮き上がってくる部分が美しい。

洋梨が転がり落ちた
淡い水色の布の上
(略)

ただじっと見つめていると
洋梨の重さに圧されて
脇にできた隈の部分が
浮き上がってくるようなのだ

私の喉の奥から
低い母音を誘い出しながら

 「脇にできた隈の部分が」の「隈」に荻の発見がある。重さの影響でへこんでいるのに、浮き上がってくる。この矛盾。矛盾をとけあわせるための「隈」ということば。そこから、肉体が始まる。とても自然だ。洋梨の果肉の色をした「喉」がとてもいろっぽく誘っている。
 「低い母音」も、とてもいい。とても、いろっぽい。
 喉を滑り降りていく洋梨の記憶。果肉のやわらかさ。あまさ。それを、迎え水のように誘う「母音」。ことばにならず、ただ喉をかけのぼる息。それがふるわせる声帯のゆったりしたふるえ。
 これ以上書くと(すでに書いていることを含めて)、深読みになるだろうか。

 たぶん私はどんな詩でも深読みする。誤読する。そして、深読みや誤読を誘ってくれる詩が好きである。詩人が書いた通りに読む気持ちなど、私にはない。私は私が読みたいように読むだけだからである。



 新延拳「夕刊の頃」は、人間と人間の、「間」を感じさせる。

夕刊が配達される頃は
みなやさしい声を出すね

みどりのサラダに塩をふる
淋しさをふる
胡椒をふる
せつなさをふる
(略)

雨がふっている
窓の隅の蜘蛛の巣がかすかに揺れていて
こういうのを淋しいというのだろうね



 最終行の、ぽつんと放り出された「ね」はだれの声だろう。「こういうのを淋しいというのだろうね」と言ったひとの、念押し(?)の「ね」だろうか。それとも、そのことばを引き受けたひとの、阿吽の呼吸で発せられた「ね」だろうか。
 別人のことばと、私は、受け止める。
 そう読むと、「塩をふる」から始まる「ふる」の繰り返しと、「雨がふっている」の「ふる」の重なり合いにも呼吸のやりとりがあることに気づき、「間」が不思議にいろをもちはじめる。
 こういう感じを、私は、いろっぽいと思う。


コメント
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